吉野行幸の古田武彦、正木裕の34年繰り下げ説による対象表
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持統紀における吉野行幸記事は、時代を34年遅らせて、さも持統天皇の事績のようにしたものである。もとは、日本書紀では隠されてしまった九州王朝の伊勢王の事績であった。そしてもちろん、この吉野宮の所在地は、奈良県の吉野ではない。私見では熊本の鞠智城の地にあったのではないかと考えている。この点については、またあらためて説明させていただくが、その場合、大宰府に王宮があったとするならば、1日ではいけない。これは藤原宮から奈良の吉野への行程も二日以上かかることと同じなのであるが、日本書紀の記事の日程では、1日で行けるところでないと日程が合わない場合がある。これについて説明する。
問題となる行程の記事は次のようである。
持統4年12月甲寅(12日)、天皇幸吉野宮。丙辰(14日)、天皇至自吉野宮。
この場合、天皇は、12日から14日という3日間の吉野行幸だから、往復に二日以上かかる場所にはいけないと解釈されていた。しかしこの「幸吉野宮」は出立ではなく到着の日ではなかろうか。また、「至自吉野宮」は、帰路に向かう日のことであって、吉野宮から帰り着いた日のことではないと思われる。
この吉野行幸は30回記されているが、そのすべてが幸吉野宮と記されている。帰路については、未記載のものもあるが、24回が至自吉野宮であり、残りの6回は車駕還宮となっている。この車駕還宮の場合は、王宮に帰着した日を表していると思われる。
参考のために「幸」の他の使用例を見ると次のようなものがあった
持統4年 二月戊申朔壬子、天皇幸于腋上陂、觀公卿大夫之馬
これは到着したその日に馬を観覧したという記事であり、出立の日の意味はない。
また斉明紀には次のような記事がある。
5年春1月3日天皇幸吉野而肆宴焉
天皇は吉野においでになって当日に大宴会を催された、という解釈で問題はなく出立の日のことではない。
よって、王宮から二日かかるような場所に吉野宮があっても、往復の行程時間は含まれておらず、三日間の吉野行幸記事は成り立つと考えられる。かといって奈良の吉野が成り立つわけではない。持統の時代に、大和の吉野の地域に、宮に対応するような痕跡、遺跡はないのである。


