流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 多元史観

 古田史学では、上記の記事から、九州王朝の残党が反乱を起こし、ヤマト王権による制圧が行われたという解釈がある。しかし、はたしてそのような理解が妥当なのであろうか。以下この点について述べてみたい。

1.続日本紀の記述

《文武四年(七〇〇)六月庚辰(戊寅朔三)》薩末比売。久売。波豆。衣評督衣君県。助督(すけ)衣君弖自美。又肝衝難波。従肥人(くまひと)等、持兵(武器を持って)。剽劫(おどしてものをうばう)覓国使刑部真木(くにまぎのつかいのおさかべのまき)等。於是勅竺志惣領。准犯决罸(犯罪の場合と同じように処罰させた)。

 ここで疑問を感じて検討したことを列記したい。
①薩末比売の比売は、あとの久売、波豆と同等の名詞と違うのか
岩波書店版の注に「比売。久売。波豆は人名。薩末は薩摩で薩摩国薩摩郡の隼人の土豪の姓か。」とある。そもそも、まずは、ここから検討しなければならないのではなかろうか?
 「比売」は人名と解釈されているが、鹿児島県の地名に、姫城がある。現在も姫姓の人が10名ほどいる。この箇所の薩末は比売だけでなく久売、波豆にもかかり、薩摩久売、薩摩波豆が普通の理解ではなかろうか。すなわち、薩末比売は、薩摩プリンセスと言えないのではなかろうか。
②「持兵剽劫」は、脅迫と解釈され、武器は持っているが、相手を殺傷したわけではない。とても朝廷への反逆行為とはならないのではないか。
③准犯决罸とあり、罰を受けている。
岩波注には、養老律では、詔使に対捍することは八虐の大不敬に当り(名例律6)、その刑は絞(職制律32)とある。つまり実行されていれば、死刑である。これ以降記事がないことからも薩末比売は処刑されたと考えられる。
 だがこの点について、処分が保留にされたと解釈されておられる。それは、同じ年の10月に石上朝臣麻呂を筑紫総領とする記述から、処罰の遂行ができなかった前任者を解任したのだと説明される(正木2019)。だがそうであれば、新任者の石上朝臣麻呂の手でサツマヒメは絞首刑にされたのではなかろうか。もし勅命を執行しなければ、彼自身が重大な処罰を受けることになるが、後に右大臣にまで登りつめている。
④また本当に薩末比売が天智の妃の大宮姫=倭姫であれば、由々しき事態となろう。
 続日本紀の記事からはそのようなことは何も読み取れない。もし本当に天智の妃なる大宮姫が窃盗団に加わっていたとしたら、大スキャンダルのはず。逆に朝廷は、なかったことにしようともみ消しをはかるのではないか。続日本紀に、わざわざ名前を変えて記載するというのも奇妙である。
⑤従肥人(くまひと)等
 古賀達也氏は「薩摩の比売も衣評督らを従えており」(『最後の九州王朝 鹿児島県「大宮姫伝説」の分析』1988)とされているが、この解釈も違うのではないか。
「従えて」というのは、「又肝衝難波。従肥人」のところであり、「又」とあるように、いったん区切って、難波という人物が肥人を従えた、ということであろう。「又」は漢和辞典では、さらに、そのうえ、ほかにといった語義をもつ。薩末比売は先頭に記されているが、あくまでメンバーの一人であり、肥人等を従えたとは読めないのではないか。この箇所も、通説の解釈をまずは吟味すべきであろう。
 なお、古田武彦氏は『盗まれた神話』「補章 神話と史実の結び目」で次のように述べている。
《けれどもこの記事の歴史的意義は、つぎの一点にあった。「七世紀末(文武元年、六九七)、『郡制』を創始した近畿天皇家側の使者(「覔国使」)と、現地(薩摩近辺)の『比売』『評督』『助督』といった、旧『評制』に立つ勢力との武力衝突・・・」》
 古田氏も「比売」は他の人物と同列に見ておられるが、さらに、ここでは、「従肥人等」を、「肥人等に従いて」と読むことを提起しておられるが、これに関しての検討もされていないのではなかろうか。
⑥覔国についての一般的解釈への吟味も必要かと。住むのに適するよい国土をさがして歩くこと、という説明があるが、要は新たな支配のための先発隊であろうか。これに対する反発があったのではないか。
 以上のような問題があるにもかかわらず、
「大宮姫に比定しうる人物とは、大和朝廷への恭順を武力でもって拒否した、九州南部の国々の代表者『薩摩の比売』この人である」(古賀1998)などと言えるのであろうか。

2.薩摩比売は姫ではなく、大宮姫、倭姫とは無関係
 
 古賀氏は次のように述べておられる。 
「『縁起』(『開聞古事縁起』)によれば、大宮姫の生涯でそのハイライトとも言うべき事件は二歳で入京し、十三歳で天皇妃となったことである。このような人物に比定しうる存在をこの時代に見いだすことは、はたして可能なのだろうか。もしできなければ「大宮姫伝説」は定説通り俗信に過ぎないとされるであろう。が、しかし幸いにも一人だけ大宮姫に比定しうる人物がいる。」(『最後の九州王朝 鹿児島県「大宮姫伝説」の分析』)
 つまり、「この時代に見出すこと」が可能でないならば「定説通り俗信」と明言されておられる。しかし、これは言い過ぎであろう。薩末比売とは無関係であっても、九州に残る数多くの伝承には、何らかの事実が反映しているとすると、そこに九州王朝の片鱗、倭姫の残影は存在するかもしれない。
 もし、どうしても続日本紀の記述と関係させたいということであれば、一般的な解釈に対して、まずは文法的なことも含めた吟味をしていただくことを望む。そうでなければ、支持を得られるものにはならないと思われる。
 余談だが、鹿爪姫伝承には、玉依姫や鹿に中臣鎌足も登場する。これらも検討の余地があると思われる。

3.続日本紀の反乱記事は、九州王朝の残党勢力の者なのか?
 
 続日本紀の薩末比売の一節は、九州王朝の残党の反乱とは考えにくいと思われるが、他にも隼人の反乱など多数記載されている。これを、九州王朝の残党の動きと見るのであれば、これもまた、一般的な解釈に対する説明も必要と思われる。 
 以下に、博物館のブログ記事を掲載する。福岡県みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」 《このように相次いで隼人の乱の起こった主な原因は乱がほぼ造籍年の前年かその年に起きていることで、造籍や班田収授に対する反抗と考えられている。『続日本紀』の天平二年(七三〇)三月条に大宰府言(もう)さくとして次のような記事がある。 「大隅・薩摩の両国の百姓(はくせい)、国を建ててより以来、曾て田を班(あか)たず。その有(も)てる田は悉く是れ墾田なり。相承(あひう)けて佃(たつく)ることを為して、改め動すことを願はず。若し班授(はんじゅ)に従はば、恐)らくは喧(かしま)しく訴(うるた)ふること多(おほ)けむ」とまうす。是に、旧(もと)に随ひて動さず。各、自ら佃(たつく)らしむ。」
 これを見ると隼人の住む国々では田がすべて墾田の私有地であり、これを公地化して班田収授するという土地制度の中央集権化に強く反対している様子がうかがえる。この記事は養老四年(七二〇)の大隅隼人の大規模な反乱から一〇年も経過したこの時期になってさえ班田収授の実施できないことを示している。》
 以上のように、国家的な政策に対する不満からの反発と説明されている。このような見方にたいして納得できる説明も思われる。
 
4.評制と年号の問題

 ①「文武四年六月の記事でも明らかなように、薩摩の比売に従った人物が九州王朝の官名「評督」「助督」を名乗っていることは示唆的・・」(古賀1988)
 つまり、評を名乗っていることが九州王朝の残存勢力を意味しているとされたいようだ。しかし、郡木簡が出現するのは、702年のことで、文武4年(700)にはまだ徹底されていないので、この評が使われていても不思議でないのでは?
 実際に藤原京跡の木簡に己亥(699)10月上捄国阿波評松里が出土。一方で郡の表記木簡は、大宝二年(703)尾治国知多郡が最古のものとなっている。つまり、702年までは評の表記がされた役職などがあってもおかしくはなく、700年に評が使われていても、九州王朝の勢力とはならないのではなかろうか。
②大長年号に関して、読み手には、ダブルスタンダードと受け取られる。
「また、『縁起』ではこの年を大長元年とも記しているので、そちらが正しければ六九二年のこととなる。これ以上のことは『縁起』からは推測することはできない。既に述べたことだが、『縁起』に大長年号が使用されていることは重要である。最後の九州年号が九州南端の地の神社縁起に見えることは、大宮姫伝説における「天智天皇」が九州王朝最後の天子であることの証拠とも言えるからだ。」(古賀1988)しかし、どうしてこのようなことが言えるのでしょうか。
 『縁起』には天武10年を白鳳元年にあてる別系統の九州年号も使われるなど、九州年号をよく知る寺社、修験者によるものの作成文書と考えられ、「大長」があるからといって、九州王朝と関連付けるのは疑問。
 そもそも権力を譲った集団が、独自の年号にこだわるのであろうか。たとえば、九州年号の使用は義務付けられていなかったとする説が有力であり、寺社関係者が利用、記録していた程度なのが実態ではなかろうか。そのような年号に、大和朝廷との抗戦の旗印のように大長年号を使うなどとは考えにくく、史料においては、白鳳年のなかで存在したように書かれおり、この点からも大宝以降の改元などとても考えにくいと思われる。
 また、「天智」(九州王朝の天子)が薩摩帰還(遷都)によって704年に改元したとするならば、ではどうして、慶雲3年(706)に崩御した時に、改元は行わなかったのかという疑問もわく。
 以上のように、続日本紀の薩末比売をサツマ姫とし、伝説の大宮姫や九州王朝の倭姫と関係づけることは無理であると思われる。倭姫の動向は、薩末比売以外の史料、伝承で検討されることを望む。

参考文献
正木裕「大宮姫と倭姫王・薩末比売」(倭国古伝・古田史学論集22)明石書店2019
古賀達也「最後の九州王朝 鹿児島県『大宮姫伝説』の分析」市民の古代第10集1988
大下隆司「検証“最後の九州王朝「大宮姫伝説」の分析”」2020 

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     写真は、奈良の歴史イベントでの服部氏の講演

 古代史の通説では語られることはないが、多元史観では、701年に王朝交代があったとする視点での議論がされてきている。ここでは、古田史学の会の服部静尚氏の王朝交代論を簡単に紹介したい。

1.日本書紀の最後は次の記事で終わっている。

 (持統)十一年八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子
 禅天皇位はクニサりたまふ、との訓みが付せられているが、要は皇太子に禅位した、とする。宇治谷孟訳では、「天皇は宮中での策(みはかりごと)を決定されて、皇太子(文武)に天皇の位をお譲りになった」とされる。すなわち、生前譲位と説明されている。これは平成天皇から令和天皇への譲位と同じイメージになる。
 しかし、漢字をよく見ると、この箇所は譲位ではなく、「禅位」とされている。この「禅」は、「天位を譲り与える」という意味であるが、中国の孟子は、「天子の位を子に伝えずに賢なる人に伝える」こととしている。その賢なる人とは、姓が異なり王朝名が異なる有力者なのであり、決して孫などの血縁者ではないのである。また、生前譲位と同じ意味ではなく、あくまで禅位は、生前・薨御後に関わらず、異なる姓の異なる王朝の有力者に天子の座を譲ることとなるのである。
 中国の場合、例えば隋の建国も、北周からの禅譲ですが、隋書には、「周帝詔曰『禅位於隋』」とあるように、王朝交代なので「禅位」としている。
 するとこの記事の皇太子である文武は、異なる姓、異なる王朝の天皇から「禅位」されたとなる。すなわち、これは王朝交代を意味することとなる。ただ、ここで疑問がわくのは当然です。祖母である持統から譲位されたのではないのかと思われますが、実は次の続日本紀の記述が、別の人物が禅位したことを示している。

2.前王朝からの「禅位」を示す文武天皇の即位宣命文
 
 日本書紀の最後にある「禅位」された文武は、次の史書である続日本紀の即位宣命文に「大八嶋国をお治めなされる倭根子天皇が、お授けになり」と述べている。この倭根子天皇は持統天皇のこと解釈されている。また、続日本紀では持統のことを太上天皇としている。そして崩御の際には、大倭根子天之広野日女尊という諡(おくりな)を奉ったという。日本書紀の持統の諱(いみな)、すなわち生前の名は高天原廣野姬とされている。諡とは死後の名前であるから、これは奇妙なこととなる。
 通説の解釈では、文武はまだ生存している持統を倭根子という死後の名前で呼んでいることになるが、このありえない解釈に、これまで誰も指摘がされなかったのである。日本書紀では、持統のことを倭根子とはしていないが、後の続日本紀ではこの倭根子は天皇の自称として、元明天皇以降に用いられることになる。つまり、文武の即位宣命文の倭根子は前王朝の別の人物を意味しており、王朝交代を遠回しに宣言したものなのである。
 だがここで疑問がもたれるのではないか。日本書紀には、持統が天皇だとされているのではないかと。しかし、日本書紀には、よく見てみると、矛盾するような記述があり、別の天皇の存在を示しているのである。
 
3.持統は真の天皇ではない
 
 朱鳥元年九月戊戌朔丙午、天渟中原瀛眞人天皇崩、皇后臨朝稱(称)制
 天武の崩御によって皇后は、即位をせずに政務を執られた、とある。「称制」とは、中国で天子がいるのに、幼い等の事情で代わって執政することである。ところが、書紀持統紀には、持統が正式に即位する前から天皇が存在していることを示す記事がある。
 元年八月天皇、使直大肆藤原朝臣大嶋・直大肆黃書連大伴、請集三百龍象大德等於飛鳥寺、奉施袈裟人別一領
 天皇は藤原朝臣大嶋らに使いして袈裟を施すという記事だ。他にもある。
 三年春正月甲寅朔、天皇、朝萬國于前殿
 天皇は諸国の代表を正殿に集め、元旦の朝拝を行われた、という。
 しかし、天武の後に皇后が即位したのは翌年の持統四年である。ということは、ここに政務を執れる別の天皇が存在していたのに、持統は称制で政務を執っていたという奇妙なことになる。
 また、持統が即位した年は690年とされるが、これも額面通りには受け取れない。この年に中国では則天武后が皇帝即位しているのである。書紀は、これにならって造作したと考えられるのである。
 日本書紀以外にも、疑念がもたれる記事がある。『懐風藻』葛野伝には、高市皇子崩御後に「皇太后」が誰を「日嗣」にすべきか群臣に相談したとあり、持統を天皇ではなく「皇太后」としている。また、『扶桑略記』では、持統は不比等の私邸を宮にしていたと記し、即位していなかったことを匂わせている。
 日本書紀は、神武から皇統が途切れずに続く万世一系の史書として描かれているが、実際には、前王朝、すなわち九州王朝の史書を利用して、年代移動や漢籍の挿入などによって造作されたものである。別の人物を、天皇であったかのように描いており、持統の場合も、鸕野讚良(うのさらら)という別の人物を天皇にあてているのである。
 例えば、乙巳の変の記事もかなり作り込まれていることは既に説明しているが(こちら)、九州王朝の問題などもおいおいふれていきたい。

4.消された真の天皇から禅位されたのが文武天皇だった
 
 持統8年(694)に藤原京に遷都したという記事があり、これは前王朝であった九州王朝の都であったと考えている。文武の死後に即位した母の元明天皇の即位宣命文には、藤原宮御宇倭根子天皇から文武に授けられた天下を治めたとある。この場合も、倭根子は持統のことではなくその実体は消されているのである。この倭根子天皇は、藤原宮、すなわち藤原京にそれまでの都であった前期難波宮から遷都してきたばかりだったのである。ただその翌年には高市皇子が崩御している。死因は不明だが、何やらきな臭い動きが起こっていると考えられる。そしてその翌年に、文武に禅位がされているのである。
 以上のように、7世紀の末に前王朝から文武への「禅位」とされるという王朝交代が行われ、前王朝の九州年号(こちら)も大化(日本書紀では50年ずらされて記述されている)で途絶え、701年から大宝という新元号に改元され、ヤマト王権が始まったのである。
 
 以上は、かなり省略した説明であるので詳しくは、服部静尚氏の次の論考をぜひお読みください。「王朝交代の真実―称制と禅譲」(古田史学会誌第25集「古代史の争点」所収)明石書店2022
 また、ユーチューブでも講演内容を見ることができます。
服部静尚@三種の神器と王朝交代⑤~中国正史に見る王朝交代記事@20220625@布施駅前市民プラザ@26:23@DSCN9517  他にも多数ございます。
 さらに、服部氏は八尾で毎月講演会も開催されており、古田史学の会のフェイスブックにも、随時今後の講演会の予定や内容の動画をアップしておりますので、チェックしてみてください。  

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            英雄マナスを語るキルギスの老人(ウィキペディア)

1.英雄の異常出生譚
 以下は「シルクロードの伝説」のキルギス(柯爾克孜)族の男、マナス(瑪納斯)のお話。
 はるか昔、ジャケップ(加庫甫)夫婦は百歳にもなるのに子がなかった。ある年、妻のお腹が大きくなったが、ちょうど20ケ月たって産み落としたのは、なんと肉の塊だったので、ジャケップはカンカンに怒った。「魔物のしわざで、わしが捨ててこう」妻は言った。「どんな姿であろうと、わしの身から出たものじゃ、どうか一度、なかを割って見せてください」懇願されてジャケップはうなずいて、肉塊をわってみると、なかには可愛らしい男の赤ん坊がいた。マナスの誕生だった。後に馬や弓矢にたけて兵士として活躍、民から愛された、という。
 いわゆる、尋常でない出生が王たるものの聖性を保証するといった、貴人が不可思議な生まれ方をするという誕生譚だが、この場合の異常な誕生にあたるのは、肉の塊を割ると男の赤ん坊が出てきたというところだろう。なにやら桃太郎の誕生と類似しているが、ではこの夫婦が高齢でさらに妊娠期間が通常の倍であるというところはどうであろうか。
 百歳の夫婦は実は二倍年暦で50歳となるのではないか。さらに、男の子は20か月たって生まれたのであろうか。これも、20ケ月ではなく半分の10ケ月、と考えれば普通に理解できる。しかし、古代では月数はどうなっていたのだろうか。一か月15日などとしていたのであろうか?その可能性がある暦法がティティと呼ばれ古代インド、チベットなどにあるという。

2.一か月を二つに分ける古代の暦法
 「国立天文台暦Wiki」によると、ティティとは、月と太陽の黄経差=月の満ち欠けを、12°ごと=30個に等分したものだという。太陰暦月の日付を数えるのに用いる。
 新月から満月までの満ちていく期間を白分 Śukla pakṣa 
 満月から新月までの欠けていく期間を黒分 Kṛṣṇa pakṣa 
この白分と黒分それぞれで日付を数えるという。
 またウィキペディアでは、「伝統的なインドの太陰太陽暦では、1ヶ月(1朔望月)を前半と後半の2つの期間に分ける。 朔から望まで(月が満ちていく期間)は白分(śukra pakṣa)といい、望から朔まで(月が欠けていく期間)は黒分(kṛṣṇa pakṣa)と呼ぶ。 そしてティティも、例えばある月の第1番のティティは「白分第1ティティ」といい、朔から数えて第16番目のティティは「黒分第1ティティ」という風に、白分・黒分に分けて呼ぶのが普通である。」とされている。
 また『大唐西域記』巻2に「黒分或十四日十五日。月有小大故也」とあって、必ずしも15日ではなく、14日の場合もあるという。
 上記のような白分と黒分をそれぞれひと月とカウントすれば、20か月で生んだというのは、現在の暦では実は10ケ月となるので、正常分娩となる。よって、この英雄マナスは、50歳ほどの親から10ケ月で誕生したという2倍年暦で理解できる可能性はある。
 この白分、黒分がそれぞれ月数とすれば、1年は24ケ月となる。ただし、上記には1年を何カ月とするかの明確な記述はない。さらに検討は必要ということになろう。

参考文献
「シルクロードの伝説」(訳:濱田英作 甘粛人民出版編サイマル出版会1983)
玄奘 (著), 水谷 真成 (翻訳)『大唐西域記』東洋文庫1999

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