流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

加耶

雄略紀の日本府も任那王が管轄する組織だった

kaya 環頭太刀
            龍鳳文環頭太刀(環頭部)6世紀前半 
            山清生草M13号墳 国立晋州博物館

 任那日本府は、日本書紀の欽明紀のわずか10年ほどの期間に登場する、韓半島における加耶の組織であった。
 だが、任那、とはされていないが、雄略紀八年に「日本府行軍元帥」(やまとのみこともちのいくさのきみたち←音読みで良いと思うが)という記述がある。これは、任那日本府とは異なるものであるが、あながち無関係とは言えない。この点について、同じ古代史の会の方から受けた御指摘への回答も含め説明したい。
 
1. 日本府行軍元帥のなかで指示を出す任那王

 「伏請救於日本府行軍元帥等。由是、任那王、勸膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子、往救新羅」(日本書紀雄略紀八年)
 この記述を、任那王が膳臣斑鳩らに出動を指示する形になっており、そこに倭国の介在はないので、この日本府の責任者は任那、すなわち加耶の王と考えられる」と記しましたが、
 この点につきまして、以下のような指摘をいただきました。
【「勧」は指示ではないと思いますが日本書紀の粉飾と見るのですか?膳臣(かしわでのおみ)らが新羅に対して、みずからを官軍と言い、天朝に背くなと言っています。これを任那軍・任那王とするのですか?】
 任那王が「指示した」という私の説明に対して、原文の「勧」は、勧告といった使い方で、命令ではないのではとのご指摘です。この点について以下のように考えます。

 この一節では、高句麗に攻められて新羅は救援を求めますが、次のようにあります。
乃使人於任那王曰「高麗王征伐我國、當此之時、(省略) 伏請救於日本府行軍元帥等。」
 ここでは「乃使人於任那王曰」(人を任那の王のもとに使(や)りていわく)、となっています。つまり新羅は、倭国ではなく任那王に救援要請しています。これを請けて任那王が、新羅の為に行動に出ます。
 「勸膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子、往救新羅」
彼らを救援に行かせますので、「勸」の文字はありますが、本来は指示であったと考えられます。
 ここで、日本書紀の「勸」の使用例をみると、雄略紀即位前期に、
「乃使人於市邊押磐皇子、陽期狡獵、勸遊郊野曰」
 いちのべのおしはの皇子に、使いをやって、いつわりの狩りの約束をして、野遊びをすすめられた、とある。この場合は、やはり、人に〇〇をすすめる、であって命令とはちがう。しかし、強制的な命令と取れる事例もある。
 崇峻紀「蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣、謀滅物部守屋大連。泊瀬部皇子・竹田皇子・廐戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拕夫・葛城臣烏那羅、倶率軍旅、進討大連。」
 馬子が「勧めて」、武田皇子や厩戸皇子ら多数を引き連れて、物部守屋大連を討っているのである。この場合は、とても任意の呼びかけではなく、実質は強制であろう。このような勸の使用事例があるので、任那王が勧めたのも、いわば出動命令となると考えられる。

2.日本の名前のような加耶の同族集団

 任那王から出動要請された人たちは、斑鳩、吉備、難波、というように日本になじみの名前を持っている。
彼らは在韓の倭国人なのであろうか。実はそうではないことを次に説明する。
 彼らが出動し、高麗に勝利してから膳臣が新羅に対し、官軍が救わなかったら助からなかった、今後天朝にそむくな、と新羅に説教をする以下のようなセリフがあり、これを見ると倭国の救援のようにとれる。
 「膳臣等謂新羅曰汝、以至弱當至强、官軍不救必爲所乘、將成人地殆於此役。自今以後、豈背天朝也。」
 ところが、その直前の一節は不可解である。
「乃縱奇兵、步騎夾攻、大破之。二國之怨、自此而生。言二國者、高麗新羅也。」
 膳臣は奇策を練り、挟み撃ちで高句麗軍を大破させます。その結果、高麗と新羅の怨みはここから始まった、記しています。これは奇妙ではないでしょうか。奇策を謀ったのは膳臣のはずですが、それならばなぜ倭国を恨まないのでしょうか。すると膳臣は倭国の兵ではないと言えます。膳臣は加耶・新羅系の人物だったということになるかもしれない。新羅が救援要請した「日本府行軍元帥」は、在韓の倭国駐留軍といったものではなく、任那こと加耶の組織であったのであり、だから任那王が出動の指示をしたのである。
 そして、この争いを機に高麗と新羅の間の怨恨が始まったことからも、倭国が介在はしていないのである、と考えられる。このように、欽明紀の任那日本府のみならず、雄略紀の日本府も倭国の組織ではないといえる。

 人物名に斑鳩や吉備、難波と表記されていると、日本の地名が真っ先に思い浮かんだりするが、これらの名詞は、加耶にも関係するものと考えている。顕宗紀には紀生磐(きのおいわ)宿禰が登場し、これも任那と関係する人物であろう。吉備国、紀国には、加耶の馬具、装飾品といったものが出土している。さらに、斑鳩は、奈良県の場合、藤ノ木古墳が所在し、豊富な副葬品には、新羅・加耶系のものが見られる。また、難波は大阪の場合とすると、難波宮北部地域には加耶の陶質土器が見られる遺跡が多数みられる。つまり、日本にゆかりの名が付された人物であっても、加耶と関係するのである。
 さらに、先ほどの崇峻紀の大連討伐に馬子が引き連れた集団には、難波皇子、紀男麻呂宿禰、膳臣賀拕夫の名があり、厩戸皇子も斑鳩と縁のある人物なのである。加耶の末裔がからむ紛争であったのかもしれない。
 
図は国立歴史民俗博物館2022展示図録「加耶」より

前橋市山王金冠塚古墳の被葬者は、欽明紀の佐魯麻都か

金冠塚古墳出土_金銅製冠_(模造、J-10296)・金銅製大帯_(J-7886).JPG
   金銅製冠(複製)・金銅製大帯 東京国立博物館展示。
 
 群馬県の山王金冠塚(二子山)古墳は、6世紀後半の前方後円墳。大正4年に金銅製冠が金銅製大帯、馬具類、鉄製甲冑、刀装具類などと共に出土した。金銅製冠は、新羅系のいわゆる出字型金冠であり、これを由水常雄氏は「樹木型王冠」とされている。新羅では、金冠、銀冠、金銅冠といった素材の違いで身分の違いを示すなどの独特の制度があったが、新たな位階制の導入で衰退していったようだ。
 このため、容易に手に入れられるものではないことから、右島和夫氏は、「(冠を)どうして入手することができたのか、新羅の支配者の証しであること等を考えると、直接手に入れたことも十分考えられる。」(右島2018)と述べておられる
 私見では、この被葬者は日本書紀欽明紀にある日本府の主要メンバーである佐魯麻都ではないかと考えており、以下にこの点について説明したい。

1.欽明紀の佐魯麻都(サロマツ)
  
 欽明紀の3~11年に、佐魯麻都という日本府の中心人物が登場する。「佐魯」は、書紀では佐魯麻都の表記で3カ所、麻都という表記で12カ所も登場する異例の人物と言えるが、その彼の出自をうかがわせる記事がある。注1.
 欽明紀5年2月に百済官人が河内直に、汝が先(おや)は「那干陀甲背」と述べており、その人物が登場する記事が顕宗紀3年の末尾にある。
 「百濟國、殺佐魯・那奇他甲背等三百餘人」とあるのは、紀生磐(きのおひは)宿禰の百済との交戦記事で、「任那左魯・那奇他甲背等」が、百済の適莫爾解(ちゃくまくにげ)を殺害するが、百済の反撃によって左魯など三百余人が殺害されたというのである。
 欽明紀の佐魯麻都は、この顕宗紀の任那左魯の末裔ではないかと考えられる。任那左魯がこの事件があったと考えられる5世紀末に任那(加耶)の別の国に避難しそこで子供が生まれたとすると、年齢も合うので父子と考えても良いであろう。父親の百済への怨みを子が引き継いで、日本府の中で百済と反目する人物になったと理解できる。
 彼は、日本府のもとで大連の位であったが、新羅側に寝返った人物のように記されている。この佐魯麻都は、「奈麻礼冠(なまれのこうぶり)」をつけていたとあり、この奈麻礼は新羅十七等官位の第十一位とのことだ。新羅では、法興王7年(520)に官位制が定められている。東潮氏はここで、群馬県二子山古墳(現前橋市金冠塚古墳)出土の金銅冠が新羅系の出字形冠であることにふれている。(東潮2022)東氏は、なにも直接の関係を示唆されているわけではないが、この金冠塚古墳が6世紀後半と考えられている点や、出字型金冠が全国でも珍しいもので唯一の関係であること、また藤ノ木古墳と同じような金銅製大帯も副葬されていたことから、この被葬者の候補に佐魯麻都をあげることができるのではないか。
 他に玉村町の小泉大塚越3号墳に同じ冠の可能性のある金銅細片が出土しており、他にも高霊池山洞73号墳のものと似た単鳳凰環頭太刀、馬具や耳環、多数のガラス玉などから、やはり同じ加耶の王族の一員のものではないかと考えられる。共通の金銅冠がある以上、どちらがどうと断定はできないので、こちらが佐魯麻都である可能性も残しておきたい。新羅の侵攻によって6世紀の半ばに列島に逃れた彼ら王族と配下の集団が、この群馬の地までやって来たのではないか。

2.新羅系の冠の出土から渡来の人物と言えるのか?

 これについては、「前例」がある。大阪府高槻市阿武山古墳の被葬者には冠帽が添えられていた。日本書紀の記述には、天智前紀に、百済王豊璋に皇太子が織冠を、天智紀8年に藤原内大臣に大織冠を授けている。豊璋は白村江の戦いで行方不明になったので、残る内大臣なる鎌足が、この阿武山古墳の被葬者とする根拠となっている。もちろん、後の伝承なども検討されてのことだが。ただし、私見ではこの古墳の墳墓の形状や副葬品には渡来系の特徴が顕著であることからも、書記では鎌足とされた百済の豊璋と考えているのだが。
 佐魯麻都の場合も、日本書紀に新羅の冠を保持しているとの記述と、列島では先に挙げた2カ所でしか見られない冠であること、さらには、加耶の滅亡が6世紀半ばであり、古墳の年代が6世紀後半であることも符合するのである。
 よく古墳の豪華な出土品から、その被葬者像を、ヤマト王権からその副葬品は受容されたとか、半島と特別な関係を結んでいた地元の実力者、といった苦しい説明が後を絶たない。(こちら参照)どうして列島に渡って来た人物と考えることを避けるのであろうか。  
 欽明紀が記す任那滅亡、すなわち加耶国への新羅と百済からの侵攻から逃れた加耶の王族と配下の集団が、かなりの規模と頻度で移住してきたと思われる痕跡が、特に群馬方面には、数多くみられるのである。注2

3.なぜ、加耶(任那)の王が新羅の王冠を持つことができたのか。
 
 実は新羅は、加耶を制圧しても現地の王に位を授け統治を任せたという。「532年、金官国主の近仇亥は新羅に降服するが、上等の位を授けられ、本国を食邑とされた。金官加耶の王族はのちの近庾信のように新羅の有力者となっていた。」(東2023)このようなことから、麻都も同様の処遇を受けたと考えてよいであろう。この問題は、加耶滅亡後も、書紀に登場する「任那の調(みつき)」が、新羅に支配されてからも一定の独立した扱いを受けていたという理解につながるのである。ただ、佐魯麻都の場合は、百済のみならず新羅にも反発があって、列島に渡来したのであろう。
 さて、この新羅の出字型冠は身分を表すものであったが、520年以降の新たな位階制の導入によって、王冠の役割は変化してやがて消滅していったようである。日本では、奈良県藤ノ木古墳の金銅製冠や茨城県三昧塚古墳の金銅製馬形飾付冠などは、身分を示すというよりは、被葬者の為の副葬品に変わっていったものと考えられる。
 佐魯麻都の場合も、渡来してからは身分表示としての意味はなさなかった王冠だが、それは貴重なものでありかっての王の証しとして副葬されたのではなかろうか。

まとめ
 佐魯麻都は、書紀では新羅側についた厄介な人物のように描かれているが、それは百済側の視点による記述にすぎず、彼は、百済と新羅の挟撃の中にあって、加耶の独立の為に動いていたのであろう。この麻都の記事が途絶える欽明紀11年(550)に、さらには、日本府の記述の途絶える13年あたりで、日本に移ることになって群馬の地までやって来たのであろうが、どのような経過があったのか記事からは判断しにくく謎はつきない。加耶の滅亡で同じ頃に、数多くの王族とその配下の者たちが渡来してきたのは間違いない。被葬者の特定できない古墳が多数である現状の中、日本書紀の中で日本府と関係する人物が、群馬の古墳に葬られているとするならば、大変興味深いこととなろう。
 以上のように、山王金冠塚古墳と小泉大塚越3号墳の出字型金銅冠をもつ被葬者は、欽明紀の加耶の王族と考えたい。そして前者の古墳の可能性は高いが、いずれかが佐魯麻都の墓だったのではなかろうか。

注1.任那日本府は列島の倭国の出先機関ではなく、その構成メンバーも日本人ではなく、加耶の王族や官人たちであった。(こちら
注2.高崎市剣崎長瀞西遺跡の金製垂飾付耳飾りは、加耶のものと酷似しており渡来者であると考えられている。もちろん、真っ先に渡来する地となる九州にも多くの加耶の遺構が見られる。これらについては別途扱いたい。

参考文献
東潮「倭と加耶」朝日新聞出版2022
右島和夫「群馬の古墳物語上巻」上毛新聞社2018
由水常雄「ローマ文化王国-新羅」新潮社2001
吉村武彦ほか「渡来系移住民―半島・大陸との往来」岩波書店2020
玉村町歴史資料館「小泉大塚越3号墳と小泉長塚1号墳」平成20年度特別展

写真はウィキメディア・コモンズでFile:金冠塚古墳出土 金銅製冠 (模造、J-10296)・金銅製大帯 (J-7886).JPG

任那日本府は日本書紀の誤読だった

加耶馬レプリカ
  写真は、群馬県前橋市大室古墳群の公園内大室はにわ館展示の個人の作品

 任那日本府とは、加耶の王族らによる組織であって、けっして、日本の倭国の出先機関でもなければ、軍事組織でもない。日本府が登場するのは、日本書紀だけであり、しかもその中の欽明紀のわずか10年ほど間に記載されているにすぎない。また、雄略紀には、「日本府行軍元帥」という日本が冠された言葉が一度だけ登場するが、これも、任那王が窓口となる組織であった。(こちら参照)日本府の構成メンバーに日本の地名などと同じ名前の人物も見られるが、だからといって列島の日本人とできないのである。
 日本書紀が描いた日本府の記事は、その内容表現が煩雑なこともあって誤読、誤解による拡大解釈がされてきたと言える。以下に、日本府が登場する欽明紀の記事から説明していきたい。
 
1.記事から見えてくる実体
 この日本府が絡む記事は、百済聖明王とその配下のものによる口語文が延々と続くという冗長で読みづらい箇所となっている。書紀編者もミスを犯したようで、2年の「秋七月」が重出しており、岩波注が「集解」は翌年7月と修正していることにふれている。最初の秋七月が長文であることが要因かもしれない。この聖明王の長すぎる言葉は、同席した書記官が忠実に記録したものとは考えにくく、一定の史実をベースに造作されたものと考えてもよいのではないか。少し長くなるが、記事の特徴など指摘できるところを述べていく。注1

①任那日本府の設立に関するものなどの説明は皆無である。
 ただし、所在を推測できそうな記述がある。それは二度登場する安羅日本府だが、別のものとする理解もあるが、ここは日本府の所在地が安羅国内であるとの表現と見てよいのではないか。
 欽明紀(以下省略)4年12月「河內直・移那斯・麻都等猶住安羅、任那恐難建之」(かわちのあたい、えなし、まつらが、いつまでも安羅にいるならば、任那再建は難しいでしょう)とあるように、日本府のメンバーは安羅に常駐していたことからも判断できる。

②日本府が倭国の領地を示す記事などはなく、逆に倭国とは独立した存在であることを示す記事がある。
 13年5月「高麗と新羅と連合して臣の国と任那とを滅ぼそうと謀っています。」(救援軍の要請を受けて)天皇は詔して、「百済の王・安羅の王・加羅の王・日本府の臣らと共に使いを遣わして、申してきたことは聞き入れた、任那と共に心を合わせ・・・」とあることからも、任那諸国と同列の存在であった。

③日本府は半島の勢力の中で主導権をもつ存在としては描かれていない。
 任那諸国と同列の存在として描かれ、そこに上下関係は見いだせない。いわゆる任那復興会議の構成メンバーとして描かれている。また、半島における倭国の代行者でもパイプ役でもなく、その役割は常に百済が行う。
 2年4月、百済に安羅、加羅、多羅、日本府の吉備臣ら集合し、聖明王が天皇の言葉を伝えている。
 2年7月、百済は新羅に行った任那の執事を呼びつける。他に5年3月など、百済リードで進められる。

④一方で、百済の指示に忠実というわけではない。
 4年12月、5年1月には、任那も日本府も百済からの招集に神祀りを口実に応じないことがあった。なかには、百済が加耶地域に進出するための先発隊の組織と言った解釈もあったが、それは成り立たないと言える。

⑤百済は文物の供与で懐柔することもあった。
 2年4月「(聖明王が)物贈る。みな喜んだ」 6年9月「呉から入手の財物を、日本府の臣ともろもろの旱岐にそれぞれに応じて贈った」とある。手ぶらでは百済の思惑で動く相手ではなかったのではないか。

⑥百済は、倭国を上位の国として扱っているようでありながら、都合の悪いことは従わないこともあった。
 4年11月、倭の津守連が百済に詔。「任那の下韓(あるしからくに)にある百済の群令(こおりのつかさ)、城主(きのつかさ)は引き上げて日本府に帰属させる。」
 しかし、百済にとって任那進出の戦略的拠点であることから、百済は倭国の要請には従わず、むしろその正当性をアピールしている。天皇を引き立てているようで現実問題では従順ではない。

⑦5年11月の聖明王の提案する任那復興の戦術の言葉に、軍事支配の意図が見える。
 「新羅と安羅の国境に大きな河があり、要害の地。敵の五城に対して、吾はここに六つの城を作ろうと思う。天皇に三千の兵を請うて、各城に五百人ずつ配し、わが兵士を合わせて、新羅人に耕作させない・・・」
 ここでは、百済の主導で倭兵を用心棒なような扱いで利用しようとする姿も見られる。

⑧百済による反新羅の主張が繰り返される。
 2年7月「新羅が任那の日本府に取り入っているのは、まだ任那を取れないから、偽装しているのである」と、聖明王は日本府に語り、新羅に取り込まれることを警戒する。ここは、日本府は新羅との接触が見られることへの百済側の危機感の表れと言えるのであって、当の百済も伽耶を虎視眈々と狙っているのである。

⑨任那も日本府も、新羅を直接に訪れて和平交渉も行っている。
 2年4月「前に再三廻、新羅とはかりき」 2年7月「安羅に使いして、新羅に到れる任那の執事~」

⑩遅れて登場する印岐彌(いきみ)については奇妙な一節がある。
 5年11月「日本府印岐彌謂在任那日本臣名也既討新羅、更將伐我」(日本府のいきみがすでに新羅を討ち、さらに百済をも討とうとしている)は、百済聖明王の言葉であるが、日本府の官人の印岐彌は、新羅・百済のいずれも討とうとして、任那を守る立場で行動しているといえる。

⑪天皇は、任那や日本府に積極的に強力な働きかけを行ってはおらず、終始一貫して「任那を建てよ」と繰り返しているだけである。「建任那」は21件登場するも、日本府の記事がある期間は、なんら軍事的行動が見られないのである。

⑫百済は日本府構成員の一部の排除を要求している。
 5年3月「阿賢移那斯・佐魯麻都は悪だくみの輩」と、百済は彼らを非難しているが、以下のように「倭国に帰れ」とはいっていない。
 5年3月「移此二人還其本處」5年11月「移此四人各遣還其本邑」
 つまり、彼らは、新羅に統合された狭義の任那である金官加耶国、さらには百済が侵入した下韓あたりから安羅に移った王族や官人ではなかろうか。さらに、百済からの麻都らの排除要請にも関わらず、倭国が対応することはなかったようである。
 百済本記からの引用で、5年10月、「所奏河內直・移那斯・麻都等事無報勅也。」(百済が奏上した三者の排除については返事がなかった)、とあることから、そもそも倭国に権限などなかったことになろう。

⑬日本府は欽明紀13年(552)までには消滅か
 欽明紀12年には百済は高麗を討って漢城を回復し平壌も討ったとある。しかし翌年には放棄し、新羅は漢城に侵攻する、とある。この前後に新羅は攻勢をかけて、おそらく加耶へのさらなる支配を強めたと考えられるので、その際に日本府も機能を停止したと考えられる。加耶そのものも欽明紀23年(562)に滅亡となる。

2.「日本府」という呼称について
 どうしてもその呼称からは、列島に進出した倭国のなんらかの機関、政庁のようにとらえられそうであるが、その実態は、日本書紀では任那と記される加耶の組織であったのである。
 日本府の主要メンバーの一人である佐魯麻都は加耶の高位の人物であって、おそらくは、新羅や百済の侵攻にあった金管加耶国とその周辺域から逃れて来た王族と考えるが、彼らが安羅に任那諸国の調整役としてのなんらかの連合体、亡命政府といった短期間の組織が造られたのではないかと考える。
 ここで「府」を名乗っているが、その用語には政庁以外の使用例もあったのではなかろうか。顕宗紀の記事には「官府」がみえる。
 顕宗3年是歳、紀生磐宿禰、跨據任那、交通高麗、將西王三韓、整脩官府
 「紀生磐宿禰が任那から高麗へ行き通い、三韓に王たらんとして、官府(みやつかさ)を整え自らカミと名乗った」
 他には神功紀に「封重寶府庫」、仁徳紀に「宮殿朽壞府庫已空」など「府庫」という倉と理解された記述がある。
 また、垂仁記には「阿羅斯等以所給赤絹、藏于己國郡府。新羅人聞之、起兵至之、皆奪其赤絹。是二國相怨之始也」とあって、任那のアラシトが倭からもらった赤絹を自国の群府(くら)に収めたが新羅に奪われたことで、それが両国のいがみ合いの始まりとされる。つまり顕宗紀や垂仁記などの例から、任那国内に役所などではない施設の意味での「府」の表現があったと考えられる。
 そもそも、「日本府」については、書紀編集時の造作と考えられる。その当時に存在して使用されたとは考えにくい用語などが使われている例がいくつもある。たとえば、欽明紀の韓半島記事の中に、聖明王による仏教伝来に関する記事が見られるのだが、書記の岩波注には、8世紀初めに中国で翻訳された『金光明最勝王経』の文が用いられており、明らかに書紀編者の修飾があるとされている。   
 こういったことから、日本ではなく○○府といった別の呼称があったと考えられる。雄略紀の「日本府行軍元帥」も、おそらく同じような事情のものであろう。

3.任那日本府の記事が示すもの
①「君父(きみかぞ)」の国
 最後に、執拗なまで「任那を建てよ」という言葉が繰り返された意味について述べてみたい。同じ欽明紀23年正月に、新羅が任那を滅ぼすとの記事があり、その年の6月に天皇が新羅への怒りの言葉を述べている。そこに「報君父之仇讎、則死有恨臣子之道不成」(君父の仇を報いることが出来なかったら、死んでも子としての道を尽くせなかったことを恨むことになろう)との言葉を発している。「君父の仇」とはどういうことであろうか。これは、滅ぼされた加耶と倭国との実際の関係を表しているのではない。加耶は、倭国の領地といったものではない。
 これが意味するのは、天孫降臨の出発地が、加耶の地域であることを示しているに他ならない。半島の倭人を中心とする勢力の一部が列島に移住して建国をすすめたということではないか。だから、加耶である任那が君父の国であったということになろう。
 だが、本当に任那を建てる(再建)ことを願っていたのは、現地の加耶の人々であったはずである。つまり、日本府の構成メンバーや加耶王の佐魯麻都こそ、任那を建てろ、と最も切実に繰り返し訴えていたのではないだろうか。 

②欽明紀の日本府を含む前半の記事は、なぜそのように書かれたのか?
 日本府に絡む記事は、読みづらく迷宮に入るがごとくの難解なものである。まずは、任那や日本府が、倭の領地、半島支配の出先機関といった観念を一旦除いて読解する必要がある。注2
 そして、書紀の記事は、百済本記からの引用が多くなされているように、百済側の意向が強く反映した記事であること。そこには反新羅が繰り返し描かれ、その新羅に対抗して加耶諸国の支配を目論む百済の正当性が描かれている。百済は、倭国の天皇の「任那を建てよ」との詔を受けて、百済自身も任那への侵攻を目論んでいたことは表面には出さずに、任那の安羅や日本府に繰り返し訴えるなどの努力をしてきたが、なかなか言うことをきいてくれない状況の中、ついには戦闘に敗れ横暴な新羅によって支配されてしまった、という百済の弁明の記事であった。
 書紀の編集には、渡来系の人物が多く関わっていると考えられ、百済系の人たちは、滅亡した母国から大量に移住して、この地で生き抜くために、故国のプライドを捨てて、ヤマトを上位にして、古来より百済は献身的に尽くしてきたというストーリーを作り上げた。一方で、先進的な文化、技術、仏教などを百済が持ち込んだという史実を盛り込んだのではないか。日本書紀には、そのような編集も加えられていると考えたい。
 また、加耶は倭国から独立した存在であり、百済と新羅の挟撃に遭いながらもあくまで独立を維持しようと抵抗していたのである。このような視点で見直すと、聖明王の冗舌な言葉の真意など難解な半島関係記事を理解できるのではないだろうか
 さらには欽明紀のみならず列島関連記事の多い継体紀なども見直せば、新たな理解も得られるのではないかと考える。また、日本の場合も同様だが、半島の地名の同定や人名の問題などまだまだ見直さなければならない課題は多く、さらなる検討は必要であろう。 

注1. 参考にさせていただいた中野高行氏の『古代日本の国家形成と東部ユーラシア〈交通〉』のまとめとされている主なものは次のようである。
①倭が恒常的な軍事基盤を任那に保有していたことを示す記事はない。
②日本府の官人が関与したのは外交のみであり、任那諸国の内政への発言権も持っていない。
③任那諸国の王や貴族代表とする「合議体」が恒常的に存在したことを示す記事はない。
④日本府は朝鮮三国、任那諸国に対しても倭国の公的な代理機関ではなかった。
⑤倭王権が日本府を設置したとか、その構成員を任命したとか、派遣したとかの記事はない。
⑥原史料の「在安羅諸倭臣等」に「府」の字はなく、日本府を官庁とする根拠はなくなる。その実態は任那に居留する在地性の強い倭人集団である。(中野2023)
注2. 古田武彦氏は、任那日本府そのものについては、九州王朝に属するものと言った見解を繰り返されているが、欽明紀の記事を踏まえて日本府そのものを分析し論じられたものは見当たらず(百済本記の資料の性格について、河内直に関して触れられている程度)、さらには、任那と日本府を混同されて表記されている。

参考文献
佐藤信「古代史講義」ちくま新書2023
田中俊明「加耶と倭」(古代史講義所収)ちくま新書2023 
前田晴人氏「朝鮮三国時代の会盟について」(纏向学研究第9号2021)
武田幸男「広開土王碑との対話2007」白帝社 2007  
門田誠一「海からみた日本の古代」吉川弘文館2020
中野高行「古代日本の国家形成と東部ユーラシア〈交通〉」八木書店2023
河内春人「倭の五王」中公新書2018
河内春人「古代東アジアにおける政治的流動性と人流」専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 3 号 2017年
東潮「倭と加耶」朝日新聞出版2022
仁藤敦史「古代王権と東アジア世界」吉川弘文館2024
末松保和「任那興亡史」1949

任那日本府は、日本国(倭国)の出先機関などではなく加耶の組織だった。

鳩
 任那日本府については、一般的に思われているイメージと、唯一の出典でその根拠となる日本書紀の欽明紀の記述とに大きな隔たりがあるように思われる。
 最近では次のような理解になっている。「日本書紀で半島南西部の『任那』を当然のように支配地と見る見方は、今日では韓国の考古学的な多くの発掘調査結果を受けて、『伽耶』独自の歴史的展開のなかでとらえ直されてきている」(佐藤信2023)ということだ。  
 教科書においても、関連する事項に問題は残しつつも注1、かってのような任那日本府の直接的な記述はなくなっている。ここではこの日本府が、加耶の人物たちによるものであることを説明したい。

1.極めて限定的な日本書紀にみえる「日本府」の記事

 日本書紀における日本府の記事は、一カ所を除いてすべて欽明紀の中にしか存在しない。ただ唯一の例外の記事が、雄略紀八年の「日本府行軍元帥」(やまとのみこともちのいくさのきみたち)という記述である。欽明紀の記事とは直接の関係はないが、日本府の性格を理解する点では共通のものがあると考えられる。新羅が高句麗の侵攻に対して救援を要請するのだが、次のようにある。
 伏請救於日本府行軍元帥等。由是、任那王、勸膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子、往救新羅
 任那王が膳臣(かしわでのおみ)斑鳩らに出動を指示する形になっており、そこに倭国の介在はない。この日本府の責任者は任那、すなわち加耶の王と考えられるのである。ここに欽明紀の記述と同じ状況が見えてくるのである。

 欽明紀に進むが、ここでは34回も日本府が記されるが、それも欽明紀32年間のうち、出現する期間はわずか10年ほどの間にすぎなかった。2年が7回(4月が2回と7月が5回〈そのうち安羅日本府が2回)、4年が2回、5年が21回、6年が1回、9年が2回、13年が1回である。以上のようにきわめて偏在した出現状況であり、一時のなんらかの組織体のように見える。そして、その百済の聖明王の長々と続く台詞などに、日本府が倭国の支配下の組織と読める記事はなく、独立した存在として、新羅とも交渉する様子が描かれているのである。さらに重要なのは、その組織の構成メンバーに、任那、すなわち加耶の王族の姿が見られるのである。

2.日本府の佐魯麻都(さろまつ)は、加耶の王族だった。

 河內直(かふちのあたひ)・移那斯(えなし)・麻都・印岐彌(いきみ)などが日本府の一員として登場するが、特に移那斯・麻都のセットで11回、麻都は単独での記事も合わせると15回と頻出している。いったいこの人物は何者なのか。
 5年3月「移那斯・麻都は身分の卑しい出身の者ですが、日本府の政務をほしいままにしている。」
 5年3月「韓国(韓腹)の生まれでありながら、位は大連、日本の執事と交じって、繁栄を楽しむ仲間に入っています。ところが今、新羅の奈麻礼の位の冠をつけ」、とあるように百済は麻都を非難しているが、これには歴史的な因縁があると思われる。
 欽明紀5年2月に百済官人が河内直に、汝が先(おや)は「那干陀甲背(なかんだかふはい)」と述べており、その人物が登場する記事が顕宗紀の末尾にある。紀生磐(きのおひは)宿禰の百済との交戦記事で、「任那左魯・那奇他甲背等」が、百済の適莫爾解(ちゃくまくにげ)を殺害するが、百済の反撃によって左魯など三百余人が殺害されるとある。この河内直が那干陀甲背の末裔ならば、欽明紀の佐魯麻都も任那左魯の末裔と考えられるところから、加耶の王族の重要な人物と考えられる。「卑しい身分」との表現は書紀の筆法であって、麻都は新羅から冠位を授かる人物であった。加耶の人物が新羅の冠位をもつことについては、次のような事例がある。  
 「532年、金官国主の近仇亥は新羅に降服するが、上等の位を授けられ、本国を食邑とされた。近仇亥はその食邑の旧都(鳳凰台土城)に埋葬されたのであろう。金官加耶の王族はのちの金庾信のように新羅の有力者となっていた。」(東2023)つまり新羅に投降した加耶の王族の末裔が、後に上層部に入り込んでいるのである。新羅は、支配地の王族を迫害するような扱いをしなかったように、麻都も同様の処遇を受けたと考えてよいであろう。
 なかには、「佐魯麻都が韓腹と称されているのは、父が倭人であったために殊更に母方の出自について強調した記述であろう」(河内2017)との見方があるが、父が倭人とする根拠の説明はない。おそらく、日本府の官人だから母は違っても父は倭人だとの思い込みではないか。佐魯麻都は倭(日本)人ではない。なお、現代語訳にも注意が必要。岩波の宇治谷訳では、5年3月「安羅の人は日本を父と仰ぎ」とあるが、原文は「日本」ではなく「日本府」であり、意味が全く違ってくるのである。
 同じような例として、敏達紀の日羅の記事がある。先述した「百済を敵視する日羅の歴史的背景」と同じく、父親と考えられる人物が、任那の王族なのである。だから、どちらも百済に対して反抗心があったのである。
 以上のように佐魯麻都は、父が百済に殺害されるなど百済とは歴史的因縁のある伽耶の人物であって、本人も百済とは対立し新羅とは接近するものの、あくまで加耶の独立を望む加耶の王族たる人物であったと考えられる。
 任那日本府は、その為に作られた組織と考えてよいのではなかろうか。そして、その後の新羅の侵攻によって、欽明紀13年以降には消滅してしまったと考えられる。

 任那日本府については、そこに「日本」の文字があることから、列島の日本国(倭国)の組織とする先入観が生まれて、様々に誤解されるものになったと思われる。「日本」は書紀編纂時つけられたものと思われる。このような時代の異なる用語が使われる事例は、多数存在している。最近の研究でも明らかにされつつあるが、倭国の統治する出先機関といったものではなく、日本府は加耶の組織であって、欽明紀の前半の記事は百済と新羅の間で存続をかけて腐心する加耶勢力が描かれており、書紀の記事は、そこに百済視点での粉飾がされていると考えたい。

注1.教科書では、512年に「任那四県」が百済に「割譲」されたという記述は「承認」という表現にかわったが、「倭が領有あるいは倭がその地を支配していたという認識にかわりない」(東2022)状況である。しかし、これは日本書紀の筆法であって、実際には、百済の韓半島南西部への侵攻を、倭から承認があったかのように描いているだけなのである。

参考文献
佐藤信「古代史講義」ちくま新書2023
田中俊明「加耶と倭」(古代史講義所収)ちくま新書2023 
門田誠一「海からみた日本の古代」吉川弘文館2020
中野高行「古代日本の国家形成と東部ユーラシア〈交通〉」八木書店2023
東潮「倭と加耶」朝日新聞出版2022
仁藤敦史「古代王権と東アジア世界」吉川弘文館2024

百済を敵視する日羅の歴史的背景  日本書紀のなかにある加耶

伽耶マップ加工
  上図の韓半島の地図は5世紀後半から6世紀初めの加耶の範囲を示したもの。

 古代の韓半島には、金官加耶、安羅、大加耶といった複数の国々をまとめて加耶と呼ばれる国がありました。百済と新羅の挟撃に遭い、6世紀半ばには新羅によって滅亡してしまいます。
 日本書紀では、任那と表記されることが多かったために、その実像がわかりにくくなっていますが、この加耶諸国は、古代の日本との関係は深く、加耶の人物と思われる記事がいくつも登場します。ここでは、その一例として、百済に渡った倭国の官人とされる日羅について紹介します。

1.百済への攻撃を提言する日羅(にちら)
 敏達紀12年に、天皇は、先代の欽明の時代に滅んだ任那の再建をめざす韓半島政策の検討のために、百済から逹率という百済官位の第二位という高位の官人であった日羅を招き寄せる。彼は求めに応じて倭国の為に提言を行うのだが、その内容に不可思議なところがある。そこには、彼が長きにわたって百済に仕えていたとは思えないような、百済対策を口にするのである。
 「百済人は謀略をもって、『船三百隻の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。百済がそこで国を造ろうと思うのなら、きっとまず女・子供を船にのせてくるでしょう。これに対して、壱岐・対馬に多くの伏兵をおき、やってくるのを待って殺すべきです。逆に欺かれないように用心して、すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように」(宇治谷1988)といった。
 百済が先に送り込む女、子供を待ち伏せして殺せというのは、感情的なまでに百済憎しと取れるような驚くべき提言である。倭国側は、日羅が反体制派のような人物であると承知の上で招いたのか。それとも予想外の強固な姿勢に躊躇したのであろうか。自分の発言によって身に危険が迫るとは思わなかったのかどうかは不明だが、この百済攻撃の主張が漏れ聞こえたのか、日羅はやがて百済の随伴者によって殺害されてしまう。
 この百済官人とは思えない自滅的な日羅の言動は、一見不可解であるが、これも見方を変えてみると説明がつくと思われる。

2.書紀に登場する二人のアリシト
 日羅は宣化天皇の世に、大伴金村大連によって半島に遣わされた火葦北國造刑部靫部(おさかべのゆけい)阿利斯登の子だという。これ以上の情報はなく、彼がどのような目的で派遣されたのか、そこで百済を恨むような仕打ちがあったのかもわからず、百済側も日羅を手放したくないような様子であったので、とくに問題があったとは考えにくい。では、日羅の百済憎しの動機となるものはなんであったのか。
 ここで一つの仮説を提示したい。日羅の父親である阿利斯登は、先の継体紀23年と24年に登場の阿利斯等と同一人物ではないかと考えられる。漢字一文字が異なるだけで別人とは言い切れない。日羅は、大伴金村を「我君」と呼んでいる。そして、継体紀の任那王である己能末多干岐(このまたかんき)が、大伴金村に救援を求めているが、その人物は阿利斯等だと注記しており、大伴金村との接点からもここに同一人物と想定できるのである。 
 継体23年(529)の阿利斯等が仮に30歳として、この歳に日羅が生まれたとすると、敏達12年(583)に日羅は50歳となり、無理なく妥当な年齢となるのではないか。
 継体紀の阿利斯等は、任那王と記されているが、これは加耶諸国のいずれかの王であり、新羅に恨みをもってはいるが、百済に対しても憎悪を産むことになる事件が継体紀24年に記されている。
 「百濟、則捉奴須久利、杻械枷鏁而共新羅圍城、責罵阿利斯等曰、可出毛野臣。」
 毛野臣の所業に怒った百済は、阿利斯等が送った使人の奴須久利を捕虜にして、手かせ足かせ首くさりをつけて、新羅軍と共に城を囲み、阿利斯等を責めののしって、「毛野臣を出せ」と言ったのだ。
 逃れた毛野臣は対馬で絶命するのだが、阿利斯等のその後の記述はない。どのような経緯があったのかは不明だが、加耶をめぐる新羅と百済の争乱の中、列島に移住してきたのであろう。子の日羅には、父親から百済の残忍な仕打ちを繰り返し聞かされていたのではなかろうか。
 日羅の提言の背景には、父親の百済との歴史的因縁があったからとできるのではないだろうか。一般には日羅は百済に仕えた日本人といった説明がされているが、彼の出自は加耶であるからこそ、百済憎しの提言が理解できるのである。
 余談だが、二人のアリシトは同一人物と想定したが、書紀の崇神紀に記された「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」についても、関連はあると思われるが、またの機会としたい。

 日本書紀の記述は、「任那」が乱用されているが、その実態は加耶であり、百済と新羅の狭間の中で独立を維持しようとしつつも、6世紀半ばに滅亡を余儀なくされた王国だったのである。
 加耶諸国の存在という視点が、日本書紀にある半島と関係する難解な説話の理解の鍵となると考えたい。

 参考文献
宇治谷孟「全現代語訳日本書紀」講談社1988
図は、「加耶―古代東アジアを生きた、ある王国の歴史― 2022年度国際企画展示」(国立歴史民俗博物館)2022より。

天孫降臨の天児屋命と加耶

DSC_0437
1.天孫降臨のカラクニ
 以下は古事記の天孫降臨の一節。 
 「向韓國(からくににむかひ)眞來通(まきとほりて)、笠紗之御前(かささのみさき)而、朝日之直刺(たださす)國、夕日之日照國也」
 古田武彦氏の解読では、「真来通り」はまっすぐに通り抜けているという感じの表現、壱岐、対馬通過の海路を含む主要道路が貫いている表現がピッタリとされた。この地こそ朝日が刺し夕日が映える地であった。
 そうするとこの韓国(カラクニ)は朝鮮半島というよりも、半島南岸の特定の地を指すと考えるほうがいいのではないか。それは半島の南岸も広い範囲があり、さらに北九州の海岸も東西に長い。またこれが出雲であれば、半島には西へまっすぐといえる。よって糸島半島からの視点として壱岐、対馬も通過点となる先は、半島南岸の一定の範囲に絞れるのではないか。魏志倭人伝では楽浪郡より倭へは「韓国歴乍南乍東」とある。ここでは韓国は楽浪郡より南側の広い範囲の半島を意味している。そして北岸狗邪(コヤ)韓国に至るとある。この国を『三国志』東夷伝韓条の弁辰狗邪国のこととする説もあるが、この国から対馬、壱岐を通り九州北岸に着く。すなわち魏志倭人伝と天孫降臨のコースの同一性を意味しており、天孫降臨の韓国とは半島全体ではなく、魏志倭人伝の云う狗耶韓国あたりと考えるのが妥当ではないか。現在の釜山や金海のあたりとなる。そこからまっすぐに糸島半島と向き合う。
 魏志倭人伝には、一大率の検察の記事の後に「王遣使詣京都帶方郡諸韓國」という一節がある。鈴木靖民氏の指摘だが、遣使が中国への途中に帯方郡や諸韓国にも詣でるとある。韓国に諸がついているということは、複数のカラクニを意味している。おそらく魏への使者は、まずは最初に狗耶韓国を訪れ、他にも数か国のカラクニに立ち寄ったのであろう。

2.五伴緒(五部)の天児屋(アマノコヤネ)命とは?
 爾天兒屋命・布刀玉(フトダマ)命・天宇受賣(アメノウズメ)命・伊斯許理度賣(イシコリドメ)命・玉祖(タマノオヤ)命、幷五伴緖矣支加(イツトモノヲヲワカチクワヘテ)而天降也
 彥火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト)は、古事記では五伴緒(イツトモノヲ)、日本書紀では五部をお伴として天下っている。それは天岩戸神話に登場する神々と一致している。小学館の古事記の解説では、「伴」は一定の職業に従事する部民、「緒」はそれを束ね統率する者で民族の長をいう、とある。小学館の日本書紀では、「五」という数は日本の神話に現れることの少ない数だが、ツングース族など、アジア大陸の遊牧民は、軍隊組織を五、またはその五倍の二十五を単位として構成。それが天孫降臨の場合に現れるのは、この神話がツングースなどに関係、と岡正雄説を取り上げている。東アジアの五部の問題は先学の研究があり、川本芳昭氏は高句麗の五部制が百済に影響を与えたという説に同意し、高句麗の五部の記述が、内部、北部、東部、南部、西部の順になされており、百済も都下の五部は中部(内部)を先頭として次に東からの右回りの順になるという。これは序列を意味しており、まずはその先頭に記されているのが、上位に位置することになる。
 天岩戸神話の神も天孫降臨のお供も、記された神の順列は同じである。そうすると天孫降臨のお供の天児屋命が上位の位置にある存在と考えていいであろう。ではこの神とはどのようなものであったのだろうか。

3.天児屋命の仮説
 この上位の天児屋命については、あまりよくわかっていないようで、いずれもお決まりの説明しかされていない。小学館の注では、小屋の内で神話を聞き、それを伝える神とある。神事を司る中臣氏の祖とされることに関係はする。だが神名のコヤから小屋が連想されたような説明は、いささか付会ともいえる解釈だ。さらにいうと、コヤではなく、コヤネと読まれているから、屋根のあるところで神事が行われたのだと言われそうだが、これも奇妙である。そもそも児屋(兒屋)をなぜコヤネと読むのであろうか。屋の意味に屋根もあったとするのか。日本書紀に登場する屋に、他にヤネの読みがされるものはない。もとは児屋根といった、根の字があったのかもしれない。先代旧事本紀や祝詞には根をつけた表記がある。しかしだからといって家屋の小屋根とはならないであろう。
 祝詞には別の表記で天之子八根命とある。そのことからも家屋の屋根を意味するのではなく、たとえば天皇の名にあるような根子と同じ意味を持つ根があったのが、何らかの事情で省略されたと考えられないだろうか。逆に元はコヤだったのが、後からネをつけたとも言えなくもないが。いずれにしてもコヤという単独の語として考えてよさそうだ。
 ではその児屋とはなんであろうか。天児屋命はニニギノミコトのお供として序列の上位たる意味をもち、狗耶韓国あたりから九州にやってきたのだ。コヤは狗邪であり、それはカヤ、加耶の国を意味していると考えられるのではないか。その加耶の国の実体は謎が多いが、高句麗や百済と同じ五部制をもっていたのかもしれない。三国遺事の駕洛国記には国の始まりの説話の後、金官加耶の始祖首露王と五加耶の王が誕生とある。真っ先に鉄を倭国にもたらし、さらには馬具も持ち込んだのが加耶勢力ではないか。
 かっては半島南部に弁辰と呼ばれる諸国があり、そこに狗邪韓国や駕洛国などがあった。後に伽耶と称されるようになったが、複数の国の集まりであった。前半は金官加耶あたりの中心が、後半には大加耶に移ったようだ。加耶は加羅、駕洛、加良などとも記されている。

4.加耶勢力の降臨を表すカヤ・カラ地名
 加耶勢力ははじめに九州の糸島半島や唐津に移住したのであろう。名勝奇岩の芥屋(ケヤ)の大門の芥屋はカヤのことではないだろうか。その地の近くに唐津湾に面した可也山がある。朝鮮半島南部に加耶山があり聖山となっているように、糸島の可也山も聖地としてあがめたのであろう。また和名抄の韓良郷は糸島半島の東の先のあたりという。そうしたことで加耶は加羅ともいったようだ。西方面の唐津も中国の唐ではなく加耶のカラである。観世音寺資材帳に加夜郷もある。また唐津市柏崎では前2~1世紀頃の甕棺から前漢の日光鏡とともに、触角式有柄銅剣が副葬されていた。スキタイ風と言われるこの銅剣の出土分布図はまさに北方文化の移動を明確に示している。なおかしわの柏の字はカヤとも読める。
 続日本紀の天平宝字二年によれば、福岡県にあった席田郡の大領子人(こひと)が「駕羅国」から祖先が渡来したことにちなんだ姓を申請し、駕羅造の氏姓が与えられたという。新撰姓氏録では、百済系「加羅」、新羅系「貨良」としている。ちなみに欽明紀二十三年の詔では、新羅が任那を滅ぼしたことに対し、怒りを込めて新羅のことを「西羌(にしひな)」と呼んでいる。中国西北の甘粛、すなわちモンゴルやウイグルに隣接したところだ。するとローマングラスなど出土する新羅も、はるか西方の大陸文化に関係していることを示していることになる。

5.拡大する加耶地名
  糸島半島のカヤ地名のような事例が各地の移動先に残されているのではないか。
 島根県 出雲国風土記に加夜の社。 出雲市稗原町の市森神社に合祀か。
 岡山県 加夜国は後の備中国賀陽郡。現在の総社市などで造山、作山古墳、吉備津神社、鬼の城など。
 兵庫県 豊岡市加陽、近くに出石神社 伊丹市昆陽、摂津国武庫郡児屋郷。
大阪府 摂津国嶋上郡児屋郷、児屋里。ここは芥川左岸か。
 奈良県 北葛城郡広陵町萱野。 明日香村栢森。そこに加夜奈留美命神社。桜井市にも栢森。
 京都府  加悦町(現与謝野町)吾野(あがの)神社の祭神我野廼姫命。 延喜式の内社「ワカヤノ、ワカノノ」とカナをふるが、ワは古語文法の敬称でノは所属などの格助詞、その間がカヤ、カノ。近くに吾野山古墳がある
 滋賀県 古事記開化記に蚊野之別があり、近江国愛知郡蚊野郷で彦根市の南方秦荘町という。
 まだまだあるが、単に読みが似ているというだけではなく、古典の記事や出土遺物などからその関係の有無を今後において検討していきたい。

参考文献
古田武彦「盗まれた神話」古代史コレクション3 ミネルヴァ書房   
岡正雄「日本民族文化の形成」
川本芳昭「高句麗の五部と中国の「部」についての一考察」雑誌 九州大学文学部東洋史研究会編.1996
鈴木靖民「古代の日本と東アジア」勉誠出版2020     
尹 錫暁/著兼川 晋/訳「伽耶国と倭地」新泉社1993
朴天秀「加耶と倭」講談社2007    
延恩株「韓国と日本の建国神話」論創社2018
加藤謙吉「渡来氏族の謎」祥伝社2017   
佐藤晃一「加悦町史概要版」
山本孝文「古代韓半島と倭国」中公叢書2018