流砂の古代

古代遺跡、日本書紀、古事記、各地の伝承などには、大陸文化の痕跡が残されている。それらを持ち込んだ移住民、騎馬遊牧民、シルクロードの担い手のソグド人と日本の関わりを探る。古代史に関わる誤解や誤読、近畿一元史観ではなく古田史学の多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 古墳時代

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1.三人童女埴輪
 後円部墳丘西側から前方部くびれ方向に向かって、人物埴輪の一団が置かれていた。三人童女埴輪をあいだにして、対座するように、合掌する男子と祭具を捧げ持つ女子埴輪という構図の埴輪群を、祭人像グループとも呼ばれる(大塚2017)
 古墳の前に立てられた解説パネルに、三人の女子が弦楽器を爪弾く、といった説明があるが、どう見ても演奏しているように見えないのだが、残っていないだけで、本来は弦楽器があったというのである。右側の童女の右腕にひものような表現が見えるのが決め手だそうだが、ハープのように立てて引く弦楽器があったのであろうか。
 他の事例では、楽器を弾く人物は、膝に楽器をおいていることからも、それはやや無理な解釈のようで、三人そろって祈りを捧げているようにしか見えないのだが。しかも、三女子は背中に鏡を二つずつ付けているのだが、楽器演奏とどう関連するのであろうか。   
三女子背中
 それにしても、どうして同じ横長の座面に座らせるという三人セットのような表現なのであろうか。これが、田心姫神(タゴリヒメ)、湍津姫神(タギツヒメ)、市杵島姫神(イチキシマヒメ)とういう宗像三女神のような巫女さんを表しているとしたら面白いのだが。

2.あぐらを組む男子埴輪
双脚帽子
     男子埴輪の頭部を上から腕を伸ばして撮影
 あぐらを組んでいる男子も、気になることがある。それは頭部の鍔のある帽子で、この形が、九州の装飾古墳や、近畿などの埴輪にも見られるいわゆる双脚輪状文の冠帽だ。ただし、烏帽子のような表現は、他の埴輪を参考に作られたものだそうだ。

双脚輪状文埴輪
       和歌山県立紀伊風土記の丘資料館

双脚輪状文パネル
 パネルにあるように、この文様は、九州から北関東まで、きわめて偏在した分布であり、特定の集団が好むものであったようだ。九州では、石室に描かれていた文様が、近畿や群馬などでは埴輪として作られているのは面白い。それにしても、この形は何を意味しているのか。スイジガイを表しているとの見方があるが、はたしてどうであろうか。

 他にも、この人物埴輪には気になる所がある。あぐらを組んで坐っているのだが、これは、左足の先端部以外は、復元時に「後補」されたもので、着衣の裾の形状からあぐらを組んでいたと判断されたようだ。他の事例で、あきらかに足を組んでいるとみられるものもあるので、問題はないと考えられる。では、この人物はどうしてアグラすわりで手を合わせて合掌をしているようなポーズをとっているのか。
 隋書には、次のような多利思比弧(タリシヒコ)の記事がある。倭王は天を兄とし、日を弟としている。天がまだ明けないとき、出かけて政を聴き、あぐらをかいて坐り、日が出れば、すなわち理務をとどめ、わが弟に委せよう、という。あぐらをかいて日の出まで公務を行っていたのだろうか。このあぐらは原文では跏趺坐とあり、それは、あぐらよりきつい足の組み方で仏教の座法である。あぐらをして手を合わせているのであれば、公務というよりは、瞑想にふけるかのようにとれてしまう。
 タリシヒコは7世紀前後のちょうど聖徳太子の時代にあたる倭国の王と多元史観では考えているが、この人物埴輪も腰に装飾の付いた大帯をしており、この地の王と考えられる。同じような意味の表現がされたものであるならば、この埴輪の祭人像グループは、無事に日の出が上ることを祈っているのであろうか。
 

参考文献
大塚初重・梅澤重昭「東アジアに翔る上毛野の首長 綿貫観音山古墳」新泉社2017
藤田富士夫「珍敷塚古墳の蕨手文の解釈に関する一考察 一中国漢代羊頭壁画との比較から一」ネット掲載
加藤 俊平「双脚輪状文の伝播と古代氏族」同成社2018

綿貫全景
綿貫パネル
 群馬県高崎市綿貫観音山古墳の横穴式石室は未盗掘のため豊富で豪華な副葬品を持つものであったが、その石室そのものも巨大で、見ごたえのあるものであった。
綿貫入り口
 壁石材は四角に加工されたブロックを積み重ねて作られているというのも見事。中に入れば感動もので、スカッシュができそうな?空間があるのだ。
 
綿貫石室全景
 この玄室の長さは約8.3m、幅は奥で約3.9m。このような幅の広い石室は例がなく、それまでの最大のもので2.1m前後だという。見学の当日は、気温30度近くで蒸し暑かったが、室内には温度計があって20℃だったので快適であった。
綿貫温度計
綿貫出口
 右島和夫氏によれば「この幅の大差は注意する必要がある。石室の長さは、石を継ぎ足していけばいくらでも長くできる。ところが、幅はそうはいかない。なぜかというと、天井に載せる石の幅は継ぎ足しがきかない・・それまでの天井石の幅の2倍のものを載せた」(右島2018)のだという。言われてみたらその通りでこの説明には納得だ。持ち送り技法でだんだんと上部をせばめていくドーム、穹窿(きゅうりゅう)型の石室があるが、それは、デザインのこだわりと共に、大きな天井石を載せなくて済むという合理性もあったかもしれない。この点、綿貫の場合は限界に挑戦した石室だったと言える。
綿貫石組み
 この綿貫観音山古墳の石室は、切り石を積んだ壁に最大幅の天井石を載せた画期的なものであった。しかもところどころに、L字形に切り込みを入れてはめるように積んでいるところもあり、この技術はどこから来たのかと感心する。天井石は三つ載っているが、最大のもので22トンだという。イナバの100人どころではないのだ。
 この立派な石室が2段目に作られているが、大抵の横穴式石室は墳丘の1段目にあることから、作業にかなりの手間がかかったと思われる。そして気になったのは、巨大な天上の岩をささえる石積みの足下はどのようになっているのか、ということだった。床面には大きめの砂利が敷き詰められており、いったい、最下段の石積みはどうなっているのか、幅が広くて厚めの石が据えられているのかなど気になった。

綿貫図面
 後日、調査報告書の図面を確認した。調査時には、左側の壁が崩れ落ちていたそうだが、最下段の積石を見ても特にかわった施工を施しているわけではなく、同じように積まれた石が側面は2段目まで、正面は1段分が地面下に埋まっているだけだった。よくこれで支えられているものだと感心した。その床面の土は突き固めて平らにしておかなければ崩れる危険もあるわけで、大変な作業であったと思われる。なぜ気になったかというと、大阪府高槻市の今城塚古墳は、3段目の墳丘に石室を築いたとのことで、発掘調査で、その石室の土台の強化のための石室基盤工が検出されたというのである。それが、綿貫の場合はそのようなものがなく、固めた地面の上にそのまま載せていたという違いがあったからである。今城塚については、埴輪列のモデルとなるものなど、群馬の古墳に関連するものが多くあるので、あらためて考えていきたい。


参考資料
綿貫観音山古墳Ⅱ 石室・遺物編 群馬県教育委員会1999
右島和夫「群馬の古墳物語下巻」上毛新聞社2018

 
並ぶパネル
 群馬県高崎市観音塚考古資料館の展示の様子。巨大パネルが連なった圧巻の展示ディスプレイです。
観音塚kパネル

 観音塚古墳は石室そのものは、あの巨大な墳丘を持つ奈良県見瀬丸山古墳を少し小さくしたものではあるが、たいへん立派な巨石が使われた石室を見に行ったのですが、蚊の襲来でそそくさと引き上げて、資料館に足を運びました。
馬具パネル
観音鞍金具
 この資料館の展示室の展示品の説明パネルに感激しました。ショーケースの始まりから端まですべて、壁面を最大限使った巨大なパネルには圧倒されます。観る者にはすごいインパクトとなって、引きつけられます。展示する側の意図、陳列品の何がすごいのか、どこを見てほしいのかが大変よくわかります。
 館長さんと少しお話が出来ましたが、この展示は、前任の女性館長さんのアイデアだとか。あまり、男女の区別はどうかと思いますが、この場合はやはり女性ならではの感性で工夫されたと言えるでしょうか。
 どこの施設の関係者のみなさんも、いろいろと工夫されているかと思いますし、予算の厳しい中、苦労を重ねておられるところが多いかと思います。見学者は、そのへんも気が付けるように見て回りたいですね。
観音巨石パネル
 通路にもいかにも手作りの巨大ポスターで、巨石をどこから運んだかがよくわかります。
 
 
鶏頭太刀

 
鶏頭柄
 銀装鶏冠頭太刀柄頭 鳥のトサカのようにも見えるが、これは扇形に広がるヤシの葉のようなパルメット文様か。
 はるか西方文化とのつながりがわかる貴重なもの。
銀装唐草

 承台(うけだい)付銅碗や豊富な馬具装飾品やなど、とにかく大陸とのつながりを実感できるものばかり。
 観音塚古墳の解説パネルに、「渡来人を配下に編成して地域経営を行った東国有数の首長像が推定できよう」とあるが、これはどうであろうか。そもそもの渡来人は、どうやって列島に渡って来たのだ。リーダーがいて、いっしょに渡来してきたのではないか。「配下に編成」するというようなことは、同じ信頼できる渡来の実力者でないとできないのではないか。よって、丸山古墳との類似から倭国王権にも関与した騎馬遊牧民の末裔のリーダーの副葬品と理解できる。首長も渡来人としてこそ説明がつくのではなかろうか。
               24.6.9

甲展示
 群馬県埋蔵文化財調査センターにある発掘情報館は二度目の訪問だったが、前にはなかったヨロイを着けた古墳人のレプリカの展示には驚いた。
鎧人アップ
甲足から
 渋川市の金井東裏遺跡のものだが、今まで背中のヨロイだけが姿を見せている写真しか知らなかったのだが、ここでは、その背中側のヨロイが上に持ち上げられるようにして、中の人骨の様子がリアルに見れるようになっているのだ。ひざまづいてそのまま前のめりに倒れ込んだようにして、火砕流に埋もれてしまったような状態がとてもよくわかる。鎧兜を身に着けて、怒れる火山を鎮めようと祈っていたのであろうか。
小札パンフ
 着けていた甲は、小札(こざね)甲というもので、1800枚もの鉄製小札をつなげたものというのもすごい。さらに兜と一緒に鹿角製の小札の頬当てや、鉄鉾の柄の上端に直弧文を刻んだ鹿角製の飾りも出土している。
 この小札甲については、大阪府高槻市今城塚古墳の武人埴輪とも関係しそうである。
鹿角パネル

 周辺の金井遺跡から出土している、ガラス製装飾品もその由来が気になるところである。彼は、いったいどこからやって来て、どのようなつながりを持っていたのだろうか。
土器全体

         縄文土器は、たっぷり見られます。
土器2列
引き出し石器
引き出しその2

 引き出しにも芸術的遺物がいっぱい。引き出しはたくさんあるので、わくわくしながら引っ張り出します。

埴輪集合
                埴輪も大集合!

弥生守り
              弥生の守墓神でしょうか。

 
収蔵展示
 
収蔵庫縄文
 収蔵展示室が別にあって、すべてを見せてもらえます。他の博物館もこうなったらいいんですが。
収蔵庫巫女
 勾玉の付いた首飾りの巫女さんは、首が苦しくないのかな。

とにかく、群馬に寄られたら必見の博物館です。ぜひお立ち寄りください。 2024.6.7

三屋全景
 北群馬郡吉岡町にある全国にもめずらしい正八角形墳であり、その姿を内部まで間近に見る事ができる。
 この八角墳は全国に10基あまり、東日本に5基で、その中に伊勢塚古墳(不正という但し書き付きだが)、吉井町の一本杉古墳、多摩市稲荷塚古墳、山梨県一ノ宮経塚古墳がある。
 他にない見事な八角形墳 
 それまでは外護列石の様子から平面的に八角形と判断されていただけなのが、この三津屋古墳の墳丘全体の調査で、土層断面の様子も把握できたうえに、墳形についても葺石と稜角の状態から、立体的にその姿を明らかにできた意義のある古墳となっている。
三津屋図面
 墳丘は石室奥壁前面を軸に同心円を描き、その中に各段の八角形がぴったりおさまるように見事に設計されている。墳丘各段の一辺の規模は第一段が約9m、第二段が約6m、この数値を唐尺で換算すると概ね30尺、20尺になる。周堀一辺の推定規模に当てはめると40尺 八角形の各一辺が40・30・20という割合で設定されるという。また検出できる列石の稜角は3カ所あって137度になるという(瀧野巧1997)。 数学上の正八角形の角度は135度だから見事というしかない。
三屋稜角
 稜角は大きな川原石が縦にまっすぐ積まれ、八角形であることを強調しているようだ。

  八角形墳と天皇陵の関係
 天皇陵と同じ八角形とされる解説もあるが、これには異論を持っている。
 「7世紀中ごろ前後から8世紀初めにかけての歴代の天皇の古墳であることから、この時期、天皇の古墳だけが八角形を採用するようになった可能性が白石太一郎さんによって指摘されている(右島和夫2018)」であるのに、どうして群馬で見つかったのかと、問題を投げかけるかのように書かれている。ただこれでは、八角形墳は天皇陵以外に存在するのは正常ではないかのようなとらえ方になるのではないか。
 舒明天皇押坂内陵、天智天皇山科陵天武・持統の檜隈大内陵、他に、牽牛子塚古墳は斉明天皇、明日香村の中尾山古墳は文武天皇と言われているものの、ほとんどの天皇陵は円や方の丘陵などであり、八角形は天皇陵のなかでごく一部存在するだけであり、決して八角形墳は天皇のものとはならない。そして、私は、7世紀までの日本書紀が描く天皇は、本当の天皇とは考えておらず、各地の実力者に過ぎないと考えている。群馬県で八角形の墳墓が出ても、不思議ではないのであり、相当の実力者が、この地にもいたと考えてよいのではないか。現に、天武10年3月の記事には、日本書紀の編纂のメンバーと考えられる人名の中に、上毛野君三千の名が見られることからことからも、古代の群馬に中央と関わる重要人物が存在したことは間違いない。
 さらに言うと、舒明天皇は押坂陵の治定が正しいとすると、晩年に百済宮に移られて、その翌年に百済宮で崩御されている。これは、舒明と百済に何らかの関係があることが考えられ、八角形もそこに起因する可能性がある。つまり、八角墳の天皇とされている人たちの出自が、八角形を好む思想と関係していると考えられるのだ。
 
  古墳だけではなく、古代にみられる八角形
 この八角形については、古墳だけでなく、法隆寺夢殿や、大津京、難波京、熊本の鞠智城などにもみられるが、伊勢崎市でも八角形総柱式高床倉庫跡が見つかっている。詳しくはあらためて紹介していきたいが、この事例からも、この地には、道教や仏教思想などによる八角形にこだわる渡来系の集団が存したことがうかがわれる。

  版築による土層面
三屋内部
三屋版築
 石室は破壊されていたが、内部と壁面断面を見学できるように整備されており、何層もの版築による盛り土の様子を見る事ができる。何度も繰り返して、平たい用具を地面に突くように固めている。ここでも渡来の技術が見られるのである。 


参考文献
瀧野巧「三津屋古墳の八角形墳丘」月刊考古学ジャーナル414 1997
梅澤重昭「東日本の八角形墳丘古墳の性格と出現の画期」月刊考古学ジャーナル414 1997
右島和夫「群馬の古墳物語下巻」上毛新聞社2018
図面は、「群馬文化238」群馬県地域文化研究協議会1994
2024.6.7撮影


ise 模様と天井
 群馬に古墳見学をされるなら必見の、西日本ではお目にかかれない芸術的な石室であり、それは飛白(かすり)模様とか水玉模様ともいわれる。
伊勢塚全体
 6世紀代の東日本で最大級、全長145mの前方後円墳である七輿山古墳のトイレを兼ねたパネル展示室のある駐車場に車を停めて、北へ徒歩10分のところにある古墳で石室は開放されている。
伊勢塚パネル
伊勢入り口
伊勢玄室全体
 いよいよ中へ。玄室への入り口の手前は低いので、頭を打たないように!私はおでこを打ってしまいました😿
模様積み

伊勢側面
 近くの鮎(あい)川でとれるという川原石の大きな石の周りに、棒状の平たい石をぎっしりと詰めて側壁を作っている。大変な手間であったのではないか。このような模様積みのある古墳は、藤岡市から隣接の埼玉県児玉郡にかけて分布しているという。藤岡市では霊符殿(れいふでん)古墳や平地(へいち)神社古墳、堀越塚古墳などを、ネットでも見る事ができるが、やはりこの伊勢塚古墳がもっとも秀逸なものであろう。
ise 羨道側壁
 玄室だけではなく手前の通路である羨道の側壁も同じように積まれており、細長い石が詰め込まれている様子がよくわかる。
伊勢塚天井石
 天井石は巨大な岩が載せられている。
 それにしてもなぜこのような積み方がされたのであろうか。ネットに中学二年生の研究レポートがアップされている。『模様積み石室大全』(こちら)を感心しながら読ませていただいたが、その中で、水玉模様が、茨城県の虎塚古墳の壁画に描かれた円文と同じようなもので、「埋葬者を守る聖なる空間」とされている。自分の中学生の頃を思うと気恥ずかしくなるが、そのレベルの差にただただ恐れ入るばかりだ。
伊勢塚八角
 また伊勢塚古墳の形状は、不正八角墳といわれている。完全な八角形と言い切れないのが残念だが、この八角墳については、あらためて三津屋古墳のところでふれたい。
伊勢石室図
 そしてこの玄室は、胴張り型石室と言われるように、玄室を上から見ると弧を描くかのような曲線になっている。九州をはじめとして全国に見られるようだが、これらにどのような関係があるのだろうか。
 なぜこのような形を石室設計プランに導入したのであろうか。八角墳について、その背景に道教や仏教思想を指摘される研究者もおられるが(梅澤重昭1997)、模様積みや胴張り型も、仏教などの当時の外来思想と関係するのではないかと想像する。単なる思い付きだが、この胴張も、ひょっとするとあの法隆寺のエンタシスの柱と同じ考え方で編み出された形ではないだろうか。
 
伊勢塚青海波
 採集された須恵器には波状文、円弧叩きが見られるが、その中に青海波(せいがいは)のような文様のものが見られる。こういったことからも、海外文化の特徴が強く見られる古墳と言えるだろ。
この水玉のような模様積みが、この地で生み出されたものなのか、それとも大陸に淵源があって表現されたのか、それは仏教思想と関係するのか、などを考えていきたい。
  
参考文献
右島和夫「群馬の古墳物語(上下巻)」上毛新聞社2018 (石室実測図引用)
志村哲「伊勢塚古墳の八角形墳丘プラン」月刊考古学ジャーナル414・1997(平面図と須恵器図を引用)
梅澤重昭「東日本の八角形墳丘古墳の性格と出現の画期」月刊考古学ジャーナル414・1997

2024.6.6撮影

前二子全体
前二子山
 群馬県前橋市大室古墳群は、長径が1㎞にも及ぶ大室公園として整備されている。その中の6世紀初頭の前二子古墳は墳丘長が94mでその周囲を堀や外堤が取り巻く。全体がベンガラで塗られた横穴式石室で、ここが吉永小百合さんのポスターになっている。副葬品には、青色ガラス製や水晶製の丸玉、金環、銀製空(うつろ)玉などの装身具、金メッキの馬具の飾り金具など。屍床の手前の床に祭祀の須恵器が置かれており、それが石室内に復元されている。
前二子石室
 床面には凝灰岩製の敷石が前面に敷かれるというのは、めずらしい事例となっている。福岡県久留米市日輪寺古墳など6世紀前半以降見られるが、以前は不明。部分的に敷く例は、5世紀後半熊本県重盛塚古墳、肥後型と言われる5世紀後半の岡山千足古墳にある。
吊り金具
綿貫観音幕イメージ
 この二子古墳の石室に鉤状金具が約20点見つかっている。(写真の金具と石室内イメージは綿貫観音山古墳のもの)棺の周囲に幕などを吊るすためと考えられている。他に、高崎市綿貫観音山古墳、八幡観音山古墳、奈良県藤ノ木古墳に事例があり、そして半島では、百済武寧王陵、慶尚南道松鶴同洞一号墳、全羅南道長鼓峯古墳(前方後円墳)からも出土している。実は柳澤一男氏の指摘だが、前二子古墳の横穴式石室の形と、松鶴洞、長鼓峯の石室の形が似ているという。また武寧王陵の獣帯鏡の同笵鏡が綿貫観音山古墳より出土している。このように、半島と密接なつながりが見えてくるのである。二子古墳の被葬者は、半島からやってきた移住民のリーダー的存在であったのではないか。まさにエキゾチックな文化を持つ地域であろう。

 以下に、中二子、後二子古墳のパネルを載せておきます。(ちょっと見にくいですが)
中二子
後二子

 なお、後二子古墳の剣菱形杏葉の文様と、大阪府四天王寺宝物館の人の乗る馬形埴輪のものとそっくりなのだという。四天王寺のものは「伝群馬」とされており、実際に二子古墳のものが群馬から運ばれてきたようだ。それにしても、どういったいきさつがあったのか知りたいところです。
 
四天王寺杏葉
 後二子古墳からは、親子猿の小像がついた円筒埴輪、また前二子古墳からは、線刻の人面のある円筒埴輪、他に盾持人型埴輪など、ユニークなものが多く見られます。
人面円筒

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 古墳の石室を見る吉永小百合さんをモデルにされたJR東日本のポスター。これは2020年に企画されたキャンペーンのもの。群馬の博物館などに今も掲示されています。関西ではあまり見かけないものですが、博物館で初めて見ました。小百合さんがモデルとなれば、やはり絵になります。昭和世代のおじさんたちには、いつまでもとても気になる存在です。
 観音塚考古資料館の学芸員さんから、話を伺いましたが、撮影当日は、人が押し寄せても困るので関係者以外には内密で行われたようです。この石室の古墳は、群馬県前橋市大室古墳群の中の前二子古墳なのですが、実は、小百合さんの写真像は、少し縮めて貼り付けたものだそうです。それを聞いて合点行きました。石室の羨道などは、とても低いものですが、なのに彼女は通路に余裕で立っておられるので、違和感がありました。まあこれは、やむを得ない演出ですね。なので、実際に石室に入られる場合は、頭を打たないようにお気を付けください。
 あと残念だったのは、このキャンペーンの始まりがコロナ渦と重なってしまったこと。せっかくの素敵なポスターも、力を発揮できなかったのが惜しまれます。ここは、ぜひもう一度、群馬の遺跡をアピールするキャンペーンを進めてほしいところです。
 このポスターに次のようなキャッチコピーがあります。

『「歴史」とは、学ぶものではなく、旅するものかもしれません』

 小百合さんご本人の言葉かどうかわかりませんが、なかなか深い意味のあるセリフだと思いました。歴史の、特に古代の遺跡、遺物などの文化は、その土地だけのものではなく、全国のすぐれた文化が、遠方にもたらされることが多々あります。なかには、中国どころか、もっと西方の文化の片鱗も見られることもあります。これは、歴史的文化が、旅をしているのだとも言えますし、また、博物館や遺跡に足を運んで、その文化に触れることが国内のみならず世界を旅することにつながる、ということかもしれません。あくまで自己流の解釈ですが。
  特に、群馬県は、九州や近畿に負けないものや、渡来の文化が多くみられます。そういったものをこれから随時紹介していきます。JRの回し者ではないのですが、そんなエキゾチック古代群馬に興味を持っていただき、実際に旅していただいたらと思います。

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