流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 古墳時代

大和図
(1)箸墓は丸かった?
 「古墳時代最古の画期的な前方後円墳」という謳い文句で頻繁に登場する箸墓古墳。「大和朝廷はこの形を全国に配布して前方後円墳をつくらせた」などとし、箸墓の平面図の輪郭が他の古墳のそれと相似形であるなどという解説もよくみかける。はたしてそのような意義のあるものか?真摯に研究をされている人も多くあるその一方で、紋切り型の説明に終始して、古墳時代の問題の解明をそらすような状況は危惧したい。箸墓や纏向古墳群、さらには前期古墳の問題で気付く点をみてみたい。

 寛政三年(1791)『大和名所図会』には箸墓を描いたとされる不思議な絵がある。それは箸墓が最上段を含めると五段になった円墳として描かれている。近世においては箸墓は円墳と思われていたのだろうか。後円部に比べ前方部が低い外形であり、さらに宮内庁管理になるまでは、くびれ部に道ができて人が通行していたぐらいだから、円部と方部が別のように見えていたのであろう。同様に他地域でも発掘調査をする中で当初は円墳とされていたものが、実は前方後円墳だったという事例もある。地元民も円墳と認識し、描いた絵師も低い前方部はカットして丸い箸墓を描いたのだろう。
ところが箸墓は最初は円墳だったと考える研究者がいた。

⑵丸山竜平氏の前方部付加説
 氏は前方部と後円部から時期差のある出土遺物があることから、先に円墳がつくられ、あとから前方部が付設されたという説を提起された。宮内庁管理の参考陵墓だが、「地元民」や宮内庁によりかなりの量の破片が採集されている。後円部頂上から宮山型特殊器台と都月型特殊器台形埴輪という異なる時代のものがあり、前方部からは二重口縁壺という時代の下ル土器、さらには周濠部から布留0式の遺物。  
 これらのことから箸墓は最古の古墳ではなく、しかも後円部が先に作られ、数十年を経て前方部が付設されたという。以前は円墳なら魏志倭人伝の記述と合うことから近畿論者から歓迎する向きもあったのだが、現在では大方のところで等閑に付されさらには否定もされている。当の丸山氏も結論は後円部は卑弥呼と壱与の墓で前方部はその後の男子王とされるオチとなっている。この説を支持し円墳に造り出しを付設した図面まで作成された苅谷俊介氏も動機は卑弥呼の祭祀にふさわしい方形壇付円丘としたいがためで、根拠があって二段階築造を論証されたわけではない。

レーザー測量
 
 研究者の中では、森岡秀人氏は卑弥呼説は否定の上で、前方部付加説には注意喚起を唱えておられる。後から前方部をつけた可能性はあるのだろうか。レーザー測量図を見ると確かに疑問が湧いてくる。それはくびれ部の状況だ。どうみても後円部の段築と前方部の側面はつながっていない。ごちゃごちゃとした感じで連続して造られたとは思えない状況だ。さらに斜めに走る里道は宮内庁の管理になる明治時代まで地元民が行き来していたそうだが、道にしては裂け目が深いように見える。全面葺石とされる表面を掘るのは容易ではない。これはくびれ部の接合部の弱い部分が長年の風雨で裂け目ができて、そこを人が通行することで深い溝状の道になったと考えられるかもしれない。
 箸墓古墳の周濠部を実際に調査された橋本輝彦氏は付加説を真っ向から否定された。その論拠は、前方部も後円部も布留0式の土器しか出ないから同時期だとされる。しかしである。その形式は二、三十年の幅をもっているものだ。先に後円部を作りしばらくしてから後に前方部を造ったとしたら、同時期の土器しか出なくても不思議ではない。確かに幕末とか長期間の差は考えられないが、短期間での付加説の否定はできない。
 箸墓と隣接するホケノ山古墳の場合は、竪穴式石室の隣に横穴式石室がつくられていた。200年以上の時期差が考えられるが、先の石室を破壊するといったことのない丁寧な埋葬から、先の埋葬者と出自は同じ、もしくはそう信じ込んでのことが考えられる。これは極端な例だが、箸墓の場合も前方部に同族の埋葬者があったのだろう。そして既に説明させていただいたとおり、実際にあとから前方部を付設したと思われる、時間差、時期差の考えられる古墳が存在しているのである。
 その一つに、箸墓を考えるうえで大変重要な古墳として、先につくられた中山大塚古墳がある。箸墓から3㎞ほど北上したところにあり、調査報告では後円部と前方部の石の積み方が異なっていることが指摘されている。
 宮内庁主催による箸墓見学会で周濠を見られた研究者はやはりくびれ部のテラス面がスムーズにつながらないことを感じておられる。しかも宮内庁書陵部の徳田誠志氏は実際に倒木箇所の補修のために調査をされた報告として、前方部は礫敷だが後円部は積石状に敷かれた様子を報告されている。円部と方部の後方が異なるようだ。このことを研究者の皆さんは黙殺できないのではないか。箸墓古墳も二段階築造の可能性は高いのだ。

⑶造り出しがあったかもしれない箸墓
 箸墓は円部と方部だけの古墳ではあるが、調査によって周濠があることが確認されている。ただ整った馬蹄形とする考えには疑問も出され、あくまで盛り土のための掘削の跡だという指摘もある。また前方部の北側、すなわち池のある側に、テラス状のもの、すなわち造り出しがあると寺沢薫氏により指摘されている。礫石が池の中にまで存在しており本体部分とは異なる基壇上のテラスという判断だ。残念ながらその全容は不明だが、箸墓も他の古墳の造り出しと同様の施設を持った古墳であることに間違いはない。
地割り
 さらにである。先ほどの苅谷俊介氏は後円部の東部の不可解な地割について指摘しておられる。このことを紹介した森岡秀人氏も同意だ。ただそれ以降この件が発展したかどうかは不明だ。先ほどのレーザー測量図でも後円部から北東部にまるで昆虫の触覚のような線が見える。これは掘割であり、後円部の縁に沿って隣接の池に流れ込んでいるのだ。その掘割が後円部の端から道路に向かう箇所が少し奇妙な形状になっている。道路付設の際と思われる石垣で養生されているので最初の形とは言い切れないが、それでも本来の円部の縁から少し出っ張りがあって、そこを道路で切られているように見える。
掘割

箸墓道路接点
 すなわち、もとは造り出し形状があり、その縁に沿って掘割が走っており、そのちょうど屈曲部分を道路で切られてその一部が養生されて残っていると考えられないか。畑に続く地割の途中に南北に走る線があり、曲がる箇所はわかりにくいがやがて後円部につながって台形状の形になる。削平され畑と宅地になってしまっているので、もはやうかがい知ることはできないが、それでも扇型のようなものを想定することができる。この箇所について桜井市埋蔵文化財センターに問い合わせたが、崩れ防止のためとの返答だがどうであろうか。
中山大塚
                   中山大塚古墳
 これと同じものが、先ほど二段階築造で登場した中山大塚古墳で確認されている。箸墓の少し前の編年が考えられるが、図にあるような扇型の造り出しが円部先端に取り付き、さらには前方部にも造り出しがある。段築は少なく、墳長も130mでほぼ箸墓の半分のサイズだが、葺石におおわれ、積石の石室で、同時代の土器片が出土するこの古墳とほぼ同じように最初は円墳をつくり、そのあとに方形部を付設させた前方後円墳を造ったと考えます。前方後円墳となった箸墓は本来は図のような中山大塚古墳と同型の付加施設をもった形状が想定できる。
 中山大塚に隣接する燈籠山古墳の円部先端も台形状の区画がある。初期古墳の段階から、はじめは造成時の足場、後に祭祀場とするような付加施設があったと考えられる。

⑷箸墓をはじめ纏向地域の古墳の特徴の多くは他地域の古墳に淵源が求められる。
 宮内庁書陵部の『文久山稜図草稿』には木柵で囲まれた墳頂とそこに板石の露呈した様子が描かれており、明らかに積石状の竪穴式石室であると考えられている。宮内庁撮影の写真も板石の存在が確認できる。中山大塚古墳は合掌式の積石の石室で天上に板石が敷かれており、おそらく箸墓も同型であろうが、その埋葬施設の始まりは香川県の鶴尾神社4号墳などとされ、さらにこの古墳の形状は鍵穴風前方後円墳の祖型とも言われている。
備前車塚
 前方部のバチ型とされるのが箸墓古墳のトレードマークのように言われているが、実はこれも前例がいくつもある。岡山県備前車塚古墳、同七つグロ1号墳、兵庫県権現山51号墳、京都府元稲荷古墳などであり、しかもこれらはみな前方後方墳である。箸墓は前方後方墳のDNAを持っているという不思議がある。
 箸墓の存在するエリアの前方後円墳には纏向型と称されるものがある。しかし阿波の弥生墳丘墓の足代東原1号墳(徳島県三好郡)が、纏向型前方後円墳の原初型との指摘がある。
 余談だが、¥に似た石見型木製品などとよばれる祭具も最古のものは糸島から出土しており、これも奈良からはじまったわけではない。

⑸その他
 前方後円墳がヤマトを中心に同心円状に広がったなどという説は今や見直しが進んでいる。広瀬和雄氏は「一期の前方後円墳は各地で『同時多発的』に築造され、最初から〈共通性と階層性を見せる墳墓〉」と述べておられる。画一的に解釈するのでなく多元的に捉える動きは広がっている。
 出雲を中心とする四隅突出型墳丘墓の造成が盛んな頃、北九州では平原に代表される初期古墳が生まれ、吉備では特殊器台の祭祀が盛んとなり巨大な楯築墳丘墓が登場、四国東部では積石塚が築かれるなか、奈良盆地の東南部にそれらのノウハウを持って、又は情報を得て移り住んだ集団が土地開拓のため水を祀る祭殿と巨大な墳墓を造った。箸墓の場合は当初円墳として作ったが、方形部を付設することが祭祀に効果的と聞いて追加工事を行ったのかも知れない。
 箸墓の墳丘部からは5,6世紀のものと思われる須恵器なども採集されている。墳頂までの道も敷かれており、地域の人々に長期間にわたって家族の安泰を願う守り神となって祀られる存在であったのだろう。乗馬用の木製鐙が周濠から見つかったことから、雨乞いもされていたのではという可能性も考えてみたい。
 苅谷氏がふれられているが、何故箸墓が400年あまりも経過しているのに書紀に記事があるのかは注意が必要。もちろん二上山の石の使用などないが、なにか信仰上の重要な、またその地の集団が特別な存在であったことは否定できない。

まとめ
①現在のところ否定的な前方部付加説の可能性を考えてみた。
間隔は不明だが二段階築造された可能性のある古墳と考えられ、最古の巨大な前方後円墳と強調する道理はない。また時間差でもって作られた古墳は他にもあるのではと思われる。
②後円部の造り出しも多少強引ではあるが、後円部と道路との奇妙な湾曲箇所や類例から想定してみた。箸墓古墳の本当の姿は、中山大塚古墳と似た造り出しを付設した全面石葺きで、石室も同様の積石で築かれ、また前方部のバチ型は前方後方墳のものとの類似など先行する他地域の特徴を合わせ持った後出の築造物にすぎない。
③古墳編年の問題については、既にほかで熱心に問題を指摘されてもいるが、時期の異なる特殊器台の破片や纏向遺跡の祭祀のことなど今後も考えていきたい。

参考文献
丸山竜平 「近江における出現期古墳の研究」立命館大学博士論文2001
森岡秀人 「問い直すべき箸墓古墳の築造」 『箸墓古墳』2014 学生社
福尾正彦 「箸墓古墳像の再構築に向けて」 『箸墓古墳』2014 学生社
刈谷俊介 「発掘調査が物語る箸墓古墳=卑弥呼の墓か」歴史読本2014.7
徳田誠志 「「陵墓の調査 オオヤマト古墳群~」『古墳時代の畿内』(講座畿内の古代学)雄山閣2018
廣瀬覚  「葺石と段築成」『古墳時代の考古学3』同成社2011
白谷朋世 「箸墓古墳と西殿塚古墳への立ち入り観察」 歴史評論 / 歴史科学協議会 編 2014.7
橋本輝彦 「箸墓古墳隣接地(纏向遺跡109次)の調査」古代学研究146号
外池昇  「天皇陵の近代史」吉川弘文館 2000
安本美典 「邪馬台国全面戦争 : 捏造の「畿内説」を撃つ (推理・邪馬台国と日本神話の謎)」 勉誠出版, 2017 など
寺沢薫、川上邦彦 「下池山、中山大塚古墳 調査概報」橿原市考古学研究所1997
石野博信など「研究最前線邪馬台国はいま何がどこまで言えるのか?」朝日新聞出版2011
近藤義郎編 「前方後円墳集成」  山川出版社 1991
加悦町教育委員会「白米山古墳1」1997.3
廣瀬時習、白石太一郎など 「箸墓以降」H26年秋季特別展 大阪府立近つ飛鳥博物館
広瀬和雄 「畿内乙訓古墳群の歴史的意義」(畿内乙訓古墳群を読み解く)季刊考古学・別冊26 2018

段階古墳
                               鳥取県西穂波16号墳       福岡県の日拝塚古墳
 前方後円墳はすべてが、方部と円部を同時に作り上げたわけではないようだ。明らかに、円墳を造り、その後に新たに方部を付け加えるという築造もあった。いくつかの事例を紹介しておきたい。

⑴段階築造とされる古墳
 
白米(しらげ)山古墳 京都加悦町(現与謝野町)後円部側根石に大きな石を斜面に沿うように置き、その上にも石を貼るように隙間なくびっしり葺いている。それがくびれ部を境として前方部では小口積みとなる。明らかに方部は後から異なる工法で築造している。
中山大塚古墳 奈良県天理市 全長132m ほぼ全面葺石 箸墓と似ている。
養久山1号墳 兵庫県たつの市 三世紀後半の造営。
矢塚古墳  桜井市纏向古墳群 円形部に突出部が付く古墳(石野博信氏)。
 
 後から前方部をつけたことのわかりやすい実例が図の右の福岡県の日拝塚古墳だ。先に円墳とそれをとりまく周濠がつくられ、前方部敷設時に周濠を切って構築されている。このような古墳がほかにいくつもあること指摘する研究者がいる。
 
 図の左の鳥取県西穂波16号墳の調査で、植野浩三氏は前方後円墳の築造における区画溝の検討をされている。氏の論考では後円部を取り巻く周濠が前方部の下をもぐるように存在するものを区画溝とし、これは後円部を築造するためのもので、前方部の築造時には埋められてしまうことから、周濠とはことなる区画溝と呼称される。氏は他の周濠との関係などから、後円部を完成させてすぐに区画溝を埋めてから前方部の築造となり、最初から前方後円墳を企図したものとされて段階築造は否定されている。
 しかし、この場合、わざわざ溝を全周に掘って、方部との接合部を円部完成後に埋めてから方部の築造をするなどというのは現実的ではない。仮にすぐに工事にかかるとしても、湧水や雨水のある溝を埋めて安定させるのに時間はかかる。ここは当初は円墳を作ったがあとから方部の追加工事をしたと考えるのが普通だろう。同様のケースである日拝塚古墳の場合は担当者は段階築造と判断しているのだ。氏はこの区画溝のある古墳を合計十二か所あげておられ、地元の調査者が方部は後の付加と解説される古墳もある。
 
 植野浩三氏の区画溝のある古墳のリスト  ※氏は他に福岡県那珂川町観音山1号墳も方部は後の追加とされる。
福岡市神松御陵古墳(横穴式・六世紀中)、  日拝塚古墳(横穴式・六世紀中)、  兵庫県豊岡市見手山一号墳(横穴式・六世紀中)、  鳥取県倉吉市鋤・高鼻二号墳(箱式石棺・六世紀中)、  鳥取県東伯郡大栄町上種西十四号墳(木棺・六世紀後)、  同西穂波十六号墳(横穴式・六世紀後)、  石川県七尾市温井十五号墳(木棺・六世紀中)  千葉県市原市持塚二号墳(横穴式・七世紀)、  千葉県木更津市高千穂七号墳(不明・六世紀)、同山伏作一号墳(不明)、  埼玉県児玉郡長沖八号墳(横穴式六世紀後)、  群馬県前橋市総社町王山古墳(横穴式・六世紀後)

⑵その他 段階築造の可能性を考えたい古墳
 
 広瀬和雄氏は奈良県西殿塚古墳が円部と方部がつながらないことを指摘。奈良市五社神古墳(神功)も前後のテラスが同一平面でつながらない。また福岡市の那珂八幡古墳も前方部との境目が不明瞭と言われている。他に岸和田市の帆立形の風吹山古墳、奈良県築山古墳なども可能性がある。さらに以下のようなものもある。
岐阜県昼飯大塚古墳 墳丘の埴輪破片の上に葺石があり、改築がなされた可能性が考えられる。
滋賀県田中王塚古墳 帆立貝式とされるが突出部の接合が調査で不自然とされ、後の追加と判断。ただしその追加工事が古墳時代に行われたかは不明。
松山市三島神社古墳 排水口もつ横穴式前方後円墳。円部と方部の土が全く異なり、前方部を後に構築したとされる。

千曲川
        長野県千曲川市森将軍塚古墳

⑶私見による段階的と考えたい古墳
 
 千曲川市森将軍塚古墳。山上に尾根に沿って作られた全長100mの前方後円墳で四世紀半ばの築造とされ、長期に渡って埋葬が行われ、周囲に計81基の埋葬が検出されている。くびれ部の後円部前面の石垣が前方部墳丘の盛土で埋まっており、また後円部の裾部の周囲の貼石帯が前方部には全く存在していないことなどから、先に円墳をつくり初代首長を埋葬し、後に前方部を付加させて二、三代目の石郭を作ったと考えられる。現地の説明では同時に築造と説明されているが、理由があいまいである。よってこの古墳も円墳完成後に新たに方部を増築したと考えたい。

 このような段階的、つまり後からの追加工事で方部が足される事例は今後も見つかるのではないかと思われる。

参考文献
広瀬和雄「前方後円墳とはなにか」中公叢書2019  
植野浩三「区画溝と周溝墓」1997 近江町教育委員「法勝寺遺跡」1990
森田克行「シリーズ遺跡を学ぶ よみがえる大王墓」新泉社2011 
更埴市教育委員会「森将軍塚古墳 Ⅴ」

 王や首長が複数で埋葬されていると思われる古墳が多数存在している。ここで廣瀬和雄氏の『前方後円墳とは何か』より、参考資料として掲示させていただく。一部、ブログ主による追記もある。

 廣瀬和雄氏の古墳の追葬の類型 
ⅠA 円(方)のいずれかの墳頂部に複数の埋葬施設があるもの。 さらにこれを三つに細分化して
  ⅠAa 同一墓壙に複数施設 ⅠAc 複数の墓壙 ⅠAbそれらが共存したもの
ⅠB 円部と方部に分かれて埋葬施設があるもの。
ⅠC 同一の木棺や石棺に複数の人物を埋葬
Ⅱ 墳頂部の埋葬施設に加えて、造り出しにも埋葬
Ⅲ 墳丘の裾でも埋葬

以下、各事例を示す。

ⅠA 円(方)のいずれかの墳頂部に複数の埋葬施設があるもの。 さらにこれを細分化して
 ⅠAa 同一墓壙に複数施設 
  三重県石山古墳 三基の粘土槨 武器・武具でまたがって埋置されるという特徴ある。
  岐阜県昼飯大塚 竪穴石槨、粘土槨、木棺直葬
  兵庫行者塚古墳 三基の粘土槨  
    奈良県新沢508号墳、岡山県月の輪古墳 それぞれ二基の粘土槨   ※同時埋葬少なくない
 ⅠAbそれらが共存したもの
  京都府平尾城山古墳 竪穴石槨の墓壙を切り込んで、粘土槨二基を併置
  大阪府豊中大塚古墳(円墳) 木棺直葬と、同一墓壙に二基の粘土槨
  京都府宇治二子山北墳 同一墓壙の中央槨と東槨を切り込んで西槨が作られる。
  福岡県井手ノ上古墳 竪穴石槨と箱形石棺(熟年男性)、石蓋土壙(青年男性)
 ⅠAc  複数の墓壙  ※最も多い
 兵庫県天坊山古墳(円墳) 二基の竪穴石槨が併行
 京都府蛭子山古墳 三基が後円部に併存し、舟形石棺と竪穴石槨におのおの円筒埴輪列の方形区画を伴う。
 福島県会津大塚山古墳 墳頂に二基の割竹型木棺
 岐阜県矢道長塚古墳 東槨から三角縁神獣鏡三面、鍬形石、鉄刀、銅鏃、鉄斧、玉類など 西槨は、三角縁神獣鏡と内行花文鏡三面、石釧、杵形石製品、合子形石製品、鉄刀、鉄槍、鉄剣などともに豊富な副葬品 
 岡山県金蔵山古墳 二基の竪穴石槨にそれぞれ方形区画、豊富な副葬品
 大阪府和泉黄金塚古墳 三基の粘土槨 性差はあるものの、副葬品からどれが傑出しているか言えない。
 広島県三ツ城古墳 時期差をもった三基の箱形石棺   東京都野毛大塚古墳 粘土槨、箱形石棺、木棺直葬の計四つ
 岡山県随庵古墳 竪穴石槨と粘土床の二基が併存
 大阪府弁天山D2号墳(前方後円墳)三基の木棺が切り合って直葬。
 兵庫県茶すり山古墳(円)二基の木棺、いずれも多量の鉄製品
 京都府私市丸山古墳 木棺直葬三基   大阪府長持山古墳 家形石棺が二基

ⅠB 円部と方部に分かれて埋葬施設があるもの。
 神奈川県白山古墳 円部に木炭槨一基と粘土槨二基、方部に粘土槨一基
 大阪府駒ヶ谷宮山古墳 円部に竪穴石槨一基、方部に粘土槨二基。その1号槨から内行花文鏡、鉄刀、鉄剣、鉄斧。2号槨から三角縁神獣鏡、鉄刀など。
 安土瓢箪山古墳 円部に竪穴石槨三基、方部に箱形石棺二基 ※方部は劣位
 香川県快天山古墳 円部に割竹形石棺三基、方部に組合せ式箱形石棺が四基以上
 香川県高松茶臼山古墳 円部に竪穴石槨二基、方部に箱形石棺二基、方部端の裾に箱形石棺四基、また一号竪穴石槨から人体骨二体分
 奈良県島の山古墳 円部に竪穴石槨、方部の粘土槨の被覆粘土に腕輪型石製品133個貼り付け
 福岡県老司古墳 円部に竪穴石槨二基、横穴式石室一基、前方部には横穴式石室一基、墳裾に石蓋土壙一基が設けられ、一号、二号には二体以上、三号は三~四体、四号は二体と多数の人の埋葬されている。
 
ⅠC 同一の木棺や石棺に複数の人物を埋葬
 千葉県猫作・栗山16号円墳 木棺に石枕が三個 周辺から立花など。 同 石神二号円墳 木棺に石枕が二個。 二基の円墳は石枕がなければ一体のみの埋葬とみなされていた。
 熊本県八代市大鼠蔵山古墳群の組合式箱型石棺1号棺に計五体の人骨 八久保古墳、三度の追葬

Ⅱ 墳頂部の埋葬施設に加えて、造り出しにも埋葬
 京都府久津川車塚古墳 長方形の掘り込み   兵庫県行者塚古墳 北東造出し部で粘土槨 

Ⅲ 墳丘の裾でも埋葬     長野県将軍塚古墳など

 2019年現在の資料ですので、ご了承ください。

参考文献
広瀬和雄「前方後円墳とはなにか」中公叢書2019 


大日山古墳埴輪

 栄山江の問題にふれたが、古代の朝鮮半島の一角に倭の支配地があったという考えは根強くある。甲冑の出土もその根拠となるといった見方もされている。現在の研究者の大方は冷静にとらえているのだが、なかには佐原真が騎馬民族説を否定する中で、気になる指摘をされている。私は賛同しかねるが、佐原氏はこの書の中で、騎馬民族は差別の思想だとされるのだ。その理由としてナチスに関する問題に言及されている。こうした思考方法は、ナチスのゲルマン民族優越史観と共通するのだという。アジア諸民族の蔑視につながり、特定の民族に能力を認め、他を認めない点が問題だという。
 そこでドイツの考古学者グスタフ=コッシナの主張を紹介している。
「厳密に地域を限ることのできる考古学上の文化領域は、いつの時代でも特定の民族または部族と一致する」
 ナチスはこのコッシナの考えを利用し、周辺諸国はゲルマン民族の故地という口実に使われたようだ。
 
 そのあと佐原氏は、何故かよく似た「公理」を主張する人がいるとして、古田武彦氏の『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』の一節を出されている。
「一定の文化特徴をもった出土物が、一定の領域に分布しているとき、それは一国の政治的、文化的な文明圏がその領域に成立していたことをしめす。」
 なるほど、確かに似ている。佐原氏は自分で発見されたのであろうか。そういわれると思い当たることが。古田氏は、任那日本府の存在について否定するのではなく、ヤマトではなく九州王朝の組織だと主張されている。
 そして佐原氏は、最後にドイツのローマ考古学者H=J=エガ―スの言葉を紹介して最後を締めくくっている。
「ある特定の考古学的文化が、ズバリそのまま一つの民族集団の存在を反映するという素朴な仮定は誤り。ある民族の分布領域が風俗習慣の差によって複数の考古学上の文化領域に分かれることもありうるし、逆にいくつもの民族や国家の境界を越えた文化領域もありうる。」
 確かになんでもかんでも、倭の文物が他国で出土するからと言って、倭の支配と判断するのは短絡的である。佐原氏は次のように締めくくる。「文化の変貌や伝播を征服で理解するのは旧式の発想」とおっしゃるが、これは極論と思われ承諾はできない。エガ―スは、「素朴な仮定は誤り」としているが、他民族や異なる文化を持つ集団との交流や移住を否定しているわけではないととれる。
 
 現代の歴史学者は、「征服」、「移住」と言った言葉にナーバスなようで、それが騎馬民族征服説への強い反発につながったとも思える。列島に見られる馬具を文化の「受容」で解釈することにもなる。だが、古代DNA研究の進歩が、避けられない問題を提起している。
 デイヴィット・ライクの『交雑する人類』では、はるか古代より人類は絶え間のない移動を繰り返し、遺伝的に混じりあってきたという。今に生きる人々の姿は、それまでに繰り返されてきた交雑の結果であって、人類は本質的に交雑体(ハイブリッド)であることが明らかになりつつあるという。よって、ナチが利用しようとしたコッシナの考え方が間違っているわけではなく、古田氏の言葉も、間違っていない場合もあり、征服や移住もあれば、交易に伴う交流などによる異種文化の混合ともとらえなければならないと思う。
 ここは舌足らずな説明になるので、またあらためてふれていきたいが、とにかく大事なのは、多様性、多元的に見ていかなくてはならないということであろう。

参考文献
佐原真『騎馬民族は来なかった』日本放送出版協会1993
デイヴィット・ライク『交雑する人類』NHK出版2018

半島の甲冑
             倭系甲冑の出土分布
 
 古代社会の解明には、文献資料とともに出土品の研究が重要であるのだが、その出土品をどうとらえるのか、特に海外で発見されるものと自国との関係は、なかなか判断の難しいものがある。以下、甲冑の事例で考えてみたい。

1.半島で見つかる倭系甲冑と列島で出土する外来の甲冑
 
 倭製と思われる甲冑が、朝鮮半島でも20カ所ほどで見つかっている。このことから、これは、倭国王権の半島進出を示すものという理解もされるが、これもまた、栄山江の問題と同様にそう単純ではない。
 図にあるように、出土地が広義の加耶地域と百済地域に限られていることから、倭にとっては友好国内での出土であるため、倭からの略奪品ではないとの指摘がある。朝鮮半島で倭系の甲冑が見つかれば、高句麗との戦い、半島への進出、とは言い難いのである。
 池山洞32号墳では、金銅冠と鳥紋環頭太刀とともに、在地の冑と倭製の甲冑一具〔眉庇付冑・頸(あかべ)甲・横矧板鋲留短甲〕が共伴出土している。被葬者は大伽耶の旱岐・王族と考えられ、贈与されたと考えられる。

 これが逆ならばどうであろうか。日本列島の各地には半島、大陸のものと思われる武具なども見られるのである。
 福岡県船原古墳は金銅製の飾りの付いた豪華な馬具などで注目されたが、そこでは桂甲も見つかっている。船原古墳の問題は(こちら)で説明しているが、その被葬者像を、ヤマトと関係し、尚且つ半島とも関係をもつ有力者といった説明がされているが、突然この地に現れた古墳であり、その周辺の古墳も渡来系の要素が見られ、その他の多数の副葬品も半島と関係することから、どう見ても渡来系の人物であろう。
 どうも、韓半島で倭系の遺物が見つかれば、列島からの進出を示し、列島内で韓半島系の遺物が見つかれば、交流で手に入れた倭人とするような考え方があるようだ。
 奈良県新沢千塚古墳群でも、短甲や冑が多数見つかっているが、だからといってこの地に倭国軍の駐留があったなどとはとても言うことは出来ない。この古墳群の集団の王の墓とみられるのが、126号墳の被葬者であり、金製方形板、金製垂飾付耳飾、金製螺旋状垂飾などの装飾品に、ササン朝ペルシャの装飾品など、新羅・加耶の女王かと考えられている。
 次のような例もある。奈良県五條猫塚古墳、有田市椒浜(はじかみはま)古墳のわずか二例の蒙古鉢形眉庇付冑という朝鮮半島のものとも少し違うものが見つかっている。モンゴル系、もしくは高句麗の関係の人物がやって来たのであろうか。
 人物ではないが馬に着けるよろいは、和歌山市大谷古墳で馬甲・馬冑、滋賀県野洲市甲山古墳で馬甲札、埼玉県行田市将軍山古墳で馬冑片などが出土している。先ほどの船原古墳では、国内3例目となる馬胄も見つかっている。これらも新羅・加耶からもたらされたものである。これを、半島人による侵略とは考えないであろう。
 奈良県奈良市墓山第 1号墳からは、短甲、衝角付冑等のほか、数多くの小札とともに、鋲留頸甲の破片と縦長板冑の冑鉢を構成すると考えられる梯形鉄板が出土し、韓半島からセットとしてもたらされた可能性が指摘されている。6世紀の半島の混乱、新羅による加耶への侵攻で、多数の移住民が渡ってきたと考えられる。その中には、武具や宝飾品を携えて渡って来た王とその集団があったのであり、そういった視点で出土品も解釈することが必要と思われる。
 次に、甲冑などの武具が古墳に埋葬されている意見について見ていきたい。それは、被葬者の威信を示すための埋納とは別の意味もあるのではないかということである。

2. 火砕流に埋もれた「甲冑を身につけた古墳人」

 群馬県渋川市の金井東裏遺跡は、榛名山の火山噴火で埋もれた甲冑姿の人物が、跪いてそのまま前のめりに倒れ込んだようにして、火砕流に埋もれてしまった状態がとてもよくわかるものだ。(こちら)鎧兜を身に着けて、荒ぶる火山を鎮めようと祈っていたのであろうか。
 着けていた甲は、小札(こざね)甲というもので、1800枚もの鉄製小札をつなげたものというのもすごい。さらに兜と一緒に鹿角製の小札の頬当てや、鉄鉾の柄の上端に直弧文を刻んだ鹿角製の飾りも出土している。この小札甲については、大阪府高槻市今城塚古墳の武人埴輪との類似を指摘されている。
 古墳人に近接の2号甲には、鹿角製の小札があった。これは類例が夢村土城(ソウル特別市松坡区芳荑洞・五輪洞)にある三国時代百済前期の都城遺跡にあった。
 また3号祭祀遺構では、1万点を超す滑石製臼玉や石製模造品、きれいな勾玉、管玉、ガラス小玉貴重な鉄器などが出土。そして短甲形石製模造品と呼ばれる全国でも数の少ない貴重なものもあった。

 火山噴火の兆候があった榛名山を鎮めようと、この人物は甲冑を身につけて、おそらく伴侶の女性と共に祭祀場で祈りを捧げていたのである。その祈りのための祭具には甲冑をかたどった石製模造品もあった。そうすると、武具である甲冑も、戦闘行為ではなく祈るための正装であったと考えられる。ということは、日本の埴輪・石造物に見られる、甲冑、冑も作られているが、それは、武威を示すというよりも、祭祀の意味合いが強いのように思える。
 
 次は甲冑の大量副葬の事例。図は堺市黒姫山古墳の前方部出土品
野中古墳甲冑
 
 大阪府堺市黒姫山古墳は、前方後円墳の方部に短甲24領,衝角付冑11,眉庇付冑13も出土している。武器のみの竪穴式石室が前方部に作られた。古墳に埴輪が樹立された以降の新しい時期に用意された遺構への埋納だった。
 大阪府藤井寺市野中古墳は、古市墓山古墳に接した陪塚で短甲11領、大量の器物埋納があった。こちらも主墳より後に築造されたという。
 七観山古墳は百舌鳥古墳群上石津ミサンザイ古墳の陪塚だが、大量の鉄製武器と甲冑があった。
 奈良市法華寺町高塚古墳は、鉄鋌、鉄板、鉄製農耕具、石製模造品が出土している。
 以上のようなことから、甲冑や鉄製品の埋納は、主体者となる被葬者の生前の所有や管理にかかわるものであったとはいえず、それは儀礼的要素の強い埋納行為、祭祀行為とも考えられる。 
 ちなみに、今城塚古墳の埴輪列が置かれた築堤も墳墓完成時の土堤に後から増築されたものである。鎧に身を固めた人物埴輪も、武人という意味だけではなく、祭祀者の意味もあったのではなかろうか。   
 
 最後に、研究者の見解を紹介しておく。
「他地域よりも盛んでかつ長く行われた日本列島・倭の甲冑の副葬は、かっての認識とは異なり、戦争・軍事の発達がより未成熟な周辺社会で発達したものであり、武装具としての高度な機能性の追求よりも、儀礼における見栄え重視の象徴性がより顕在化した社会で求められたものと見られよう。」
「甲冑副葬は武装具の実践的使用を投影するものではなく、儀礼的な取り扱いを反映する可能性が考えられる。 古墳出土甲冑は倭人の対朝鮮半島の軍事行動にかかわるものとする論説が研究史上では大きな影響力をもってきたが、そもそもその副葬された甲冑をはじめとする武装具が軍事の発達した社会を映すものであるという前提から見直しが必要であろう(橋本2024)。」
 大変重要な指摘である。古墳の副葬品には政治的な解釈と共に、祭祀行為としての視点も必要なのである。

参考文献
森浩一『渡来文化と生産』(森浩一著作集3)新泉社2016
田中晋作『百舌鳥・古市古墳群の研究』学生社2001
田中晋作『古墳時代における軍事組織について』 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ2004 ※野中古墳甲冑の図を利用
橋本達也『甲冑』季刊考古学167 雄山閣2023
半島における倭系甲冑の分布図は、東潮『倭と加耶』朝日新聞出版2022より

 栄山江流域の前方後円墳、さらには特に半島南岸部にみられる倭系古墳についての研究者の見解は、まだまだまとまらないが、共通の問題意識を持たれているようである。それは多元的にとらえなければならないということであろう。機械的、短絡的に解釈は出来ないということである。そのような研究者の考え方について紹介する。

  古墳時代の日朝共同研究の報告集で、高田貫太氏は次のように述べている。
「古墳時代は、日本列島の倭人社会が、半島から先進地域を盛んに受容した時期である。これまでの日本側の研究においては、古墳時代における半島からの先進文化の受容の契機として、倭王権の軍事的活動を重視してきた。多くの場合、日本列島各地で出土する朝鮮半島系の遺構、遺物の導入過程は『倭王権による朝鮮出兵→獲得した品物や技術者の独占→地方の配布』という枠組みで(ある時は、朝鮮出兵を軍事的提携と置き換えて)説明されて来た。
 しかし、近年の調査、研究の進展によって、軍事的契機のみならず、より恒常的かつ多元的な交渉の様態が想定できるようになり、朝鮮半島諸勢力の側にも明確な交渉意図があったことも想定されている(高田2019)。」と述べておられる。

 また同じ報告集で権五栄氏は、「倭系古墳に認めらえる多様性は、そのまま当時の韓半島南部と日本列島の交渉が非常に多元的であったことを示している」というように、ここでも両者の多元的な関係という問題意識をもっておられる。
 
 そして、氏は韓式系土器の問題にふれておられる。
栄山江韓式土器
 列島に於いて韓式系土器が広範囲の地域で出土し、福岡県西新町、大阪府長原、蔀屋北、奈良県南郷などが代表的。その器種構成、器形、制作技法などから、栄山江流域との関連が究明されるようになってきたという。カマドやオンドルを備えた住居にある土製煙筒も、半島南部では馬韓―百済圏から出土するが、特に栄山江が目立つという。
 カマドの焚口に取り付けられるU字形土製品も近畿に集中して見られる。
 このことからも、栄山江に前方後円墳が存在するといっても、その一方で列島各地に栄山江流域に主たる韓式系土器が大量に出ている事実と合わせて検討しなければならない。前回にふれたが、生活に直接かかわる土器の栄山江と同じものが各地に見つかるということは、そこに栄山江関係の集団が住み着いたことを示しているのである。これをどう理解しなければならないのかが重要であろう。

 なお権五栄氏は、この時期の問題では継体朝の登場が意識されることが多いが、同時代の武寧王について関心が向いていないことを注意喚起しておられるのは、重要なことであろう。栄山江流域・馬韓への百済の進出には、武寧王の関りが大きいのである。

 次に権五栄氏の栄山江流域の倭系古墳の分類と被葬者像についても参考として掲載する。
A:構造や葬法、遺物がすべて倭的な場合 (高興野幕古墳・新安ベノルリ古墳)
B:前方後円墳を模倣した構造と葬法が認められる一方で、在地的な要素や百済の影響が共存する場合 (大部分の前方後円墳)
C:構造と葬法に倭の要素が一部認められるが、在地系の遺物または百済中央関連の威勢品が存在する場合(羅州伏岩里3号墳96年調査石室・羅州丁村古墳・高興吉頭里雁洞古墳)
D:構造は在地的であるが、葬法や遺物に倭の要素が多く認められる場合(咸平金山里方台形墳)
E:構造と葬法は在地的で、倭系遺物が少量認められる場合(髙敞鳳徳里1号墳)
F:横穴墓という独特な構造、倭系遺物と類似した副葬品が存在する場合(公州丹芝里遺跡)

 被葬者の特徴
A=倭人の可能性が高い
B=在地首長である可能性が高い
C=在地首長であろう
D=基本的には在地首長の墓である可能性が高いが、B,C類型との違いが明確でない
E=明らかに在地首長の墓
F=東城王の即位と関連した九州出身人物、及びそれに関連した人物(子孫などを含む)であった可能性が高い

 このように、栄山江の前方後円墳といっても、特徴を考慮して分類してみると、その内容、性格はかなりまちまちなのがわかる。たいへん重要な視点だが、次の被葬者の特徴となるとほとんど栄山江流域の在地の人物と解釈されている。これでは、わざわざ前方後円形に墳丘を造る意味が説明できないようにも思える。せっかく「多元的」と述べておられるのだから、引き続き広い視野で検討してほしいところである。
 とりあえずは、様々な意見の一つとして紹介させていただいた。

参考文献
『国立歴史民俗博物館研究報告・第217集』 弘文社2019

DSC_0737
           滋賀県鴨稲荷山古墳復元された広帯二山式金銅冠

 ネットで閲覧できる「令和3年度第2回むきばんだ遺跡土曜講座」に次のような解説がある。
広帯二山式冠分布図

 「広帯二山式冠(ひろおびにざんしきかん)は、国内で出土。花形方形透し文をもつ。
 冠は継体王権の威信財として畿内を中心に分布。 5世紀末~6世紀中頃」とのことだ。気になる所があるので、少し説明したい。

1.葬送儀礼で使われる冠

 まず、広帯二山式冠とされる図が、これでは「二山」としている意味がわかりにくい。この図は滋賀県の鴨稲荷山古墳の冠のスケッチだが、帯を広げてみないと「二山」とは思えないであろう。次の図は左が江田船山古墳、右が茨城県三昧塚古墳のものだが、このように帯を広げると、「二山」であることがわかる。
江田、三昧塚
藤ノ木舟
     藤ノ木古墳金銅製冠 樹木に鳥が停まるゴンドラの船が描かれている

 また「継体王権の威信財」とされているが、はたしてそうと言い切れるであろうか。既にこちらでも説明しているが、鴨稲荷山古墳の冠の場合は、中央についているのは船形埴輪と同じ形状のデザインだ。有名な藤ノ木古墳の冠には、樹木とともに鳥が停まっている船がいくつも描かれている。また茨城県の三昧塚古墳の金銅製冠は馬の意匠が左右対称に4頭ずつ描かれている。これらの馬や鳥、船は、死者を送るためのものと考えられる。日本出土のものは、それぞれ意匠が独特であり、統一的な規格で作られたわけではないので、位階を示すものとは考えにくく、埋葬時に被葬者に供える葬送儀礼用のものであろう。同様に飾り履という歩揺やスパイクが付いたものも、決して実用の履とは言えないと考えられる。

2.栄山江にもあった広帯二山式冠は、日本のオリジナルとは言い難い

 さらに次が重要な問題だ。「畿内を中心に分布」とあるが、だからといって日本独自のものとはならない。実は一例だが、朝鮮半島からも出土している。それが半島の前方後円墳である新徳1号墳である。飾り履や金製耳飾りなど豪華なアクセサリーが副葬されていたのだ。
 そうなるとこれは日本で多数の出土があるのだが、百済からの制作技術の移転、すなわち百済系の渡来工人によって列島で制作されたと考えられる。冠の文様が百済系の飾り履と酷似する亀甲文であることも傍証となり、新徳1号墳の例も百済系工人によって製作された可能性が高い。(高田2019)。
 新徳1号墳は、典型的な北部九州系の石室に、百済系の装飾木棺、そしてアクセサリーなどの副葬品から百済と倭との密接なつながりを読み取れ、その一方で、墓前祭祀に用いられた多量の土器は、現地で制作されたもので、それぞれの社会の複雑な関係性の中で、新徳1号墳が築かれたととらえることができる。広帯二山式冠が列島からの出土がほとんどで、あとの一例が栄山江流域の前方後円墳であるから、これが日本独自のものだとは言い難い。
 以上のことからも、栄山江流域に築かれた前方後円墳が倭王権の支配を示す根拠にはならないのである。

三昧塚列点文
波線の中に点・円文が連続して描かれている

池山洞金銅冠

七観山古墳 金銅製帯金具

           大阪府堺市七観山古墳金銅製帯金具の波状内列点文
 
 なお私見では、先ほどの三昧塚古墳の馬の意匠をもつ冠のデザインには注目すべきところがある。そこには帯の周縁部などに波状内列点文が施されている。図にあるように帯金具などにも施されている。さらに同じような文様が、加耶や新羅の冠などにも多数認められる。すると、この広帯二山式冠には、加耶・新羅の要素も加わっていることになり、さらには藤ノ木古墳金銅製冠のティリヤ・テペの意匠との類似などきわめて国際色豊かな美術品となるのである。
 
 以上のように、広帯二山式冠は、天皇の威信財とは言い難く、また日本の独自の冠ともとらえられない。さらには、栄山江流域の前方後円墳をどうとらえるかという点で示唆的な文物となるものであった。なお、この広帯二山式冠の分布は、継体とされる男大迹(おほど)の勢力と関係が認められる点については、また改めてふれていきたい。

参考文献
辰巳和弘『他界へ翔る船』新泉社2011
高田寛太『「異形」の古墳』角川選書2019
韓永大『古代韓国のギリシャ渦文と月支国』明石書店2014

 宋書倭王武の上表文の記述に
東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國
ある海北95国が、倭の勢力の半島支配を示していると考える方々がけっこうおられる。
 その半島支配の根拠として、栄山江の前方後円墳を持ち出されるのだが、それは無理であることを説明したい。すでにこちらでは、栄山江以外の問題を説明している。

①栄山江の前方後円墳は5世紀末から6世紀前半という限定された期間だけの造営
 そうであれば、武の上表文の話は、祖先の業績を讃えているものであり、それは478年以前のこととなるのであって、時代の下がる栄山江はなんの証明にもならない。さらに以下に付け加えていきたい。

②列島の中の渡来文化はどう説明するのか?
外国に前方後円墳があるから、倭国の支配を示している、などと考えるのであれば、列島の中にある半島勢力の特徴が数多くみられる状況は、どう説明するのでしょうか。近畿地域には、片袖式の横穴石室が多数見られるが、それは百済系と言われている。すると、近畿は百済勢力が支配していた、というのでしょうか。

③前方後円墳の配置された場所の問題
 栄山江の前方後円墳と在地の高塚古墳は、排他的ではなく併存するかのように作られていると指摘されている。

④様々な特徴を持つ栄山江の古墳
 栄山江の古墳の埋葬施設の構造、副葬品などは、倭系だけでなく百済系や加耶系、そして在地系の特徴なども見られます。
 例えば、月桂洞1号墳は、石室については、特に熊本に多くある石屋形の埋葬施設であり、他の栄山江の方円墳や円墳も多くが熊本や福岡の古墳の特徴をもっているが、一方で、石棺と共に銀で装飾した釘で組み立てて、環座金具を取り付けた装飾木棺となっており、これは百済の特徴をもっている。
新徳1号墳は、武寧王陵と同じくコウヤマキ製の木棺があったことから、被葬者は百済系と考えられる。そこに百済の金銅製の冠帽や飾り履、金製の耳飾り。また新徳2号墳は百済式の石室になっている。

⑤九州式石室に甕棺が埋葬されている例もある。

横穴式甕棺
 伏岩里3号墳という方墳では、九州式の石室の中に甕棺が4基も埋葬される例がある。倭国の古墳ではありえないことだが、この栄山江流域は6世紀まで連綿と甕棺による埋葬が行われてきたことから、被葬者は在地の人物と考えられる。経緯は不明だが、わざわざ九州式の石室を造らせたのであろう。

⑥墓誌があったから百済王墓とわかった武寧王陵
 栄山江ではないが、一例として。武寧王陵はその出土物の大半が中国系の器物であって、百済系の須恵器などは皆無であったことから、もし墓誌がなければ、被葬者は中国系百済官人、中国系有力者などとされていたかもしれないという話がある。出土物などで出自を判断するにはこういった問題もある。
 
 以上のように、栄山江流域の6世紀前半の古墳の状況はそう単純ではなく、それに伴い様々な説が乱立している。被葬者の性格については,亡命倭人説,倭から派遣された倭人説,土着勢力説,百済が派遣した倭人説、倭人の百済系官人説などが提示されているが,未だ見解の一致をみていない状況である。
 次のようなユニークな説もある。林永珍の馬韓系亡命客説は、百済の勢力拡大で北部九州に移住した集団の一部が、磐井の勢力拡大などで、再度栄山江へ亡命し、現地埋葬で継承無しだという。
私見では、東城王の護衛で渡った倭兵が、引き続き栄山江支配に使われ、そのリーダー格が埋葬されたと考えている。実は、この見方を支持するような見解がある。
 金洛中氏は、栄山江流域における倭系文物には、帯金式甲冑や各種の武器に関連するものが多い。その一方で、日本列島における百済・栄山江流域の文物は、オンドルなどの住居施設や炊事用土器などをはじめ、渡来集団が移住・定着したことを示すものが多い。このような非対称性は、高句麗との緊張関係にあった百済王権が倭の軍事的支援を必要とした状況や、倭人たちが百済に進出し活動した理由が、移住・定着ではなく、比較的短い期間に終えることができる活動(軍事的支援)などであったことを示している、というものである。まさに、九州から護衛を兼ねて渡った倭兵の痕跡が残っているのではなかろうか。

 いずれにしても、栄山江の前方後円墳の存在だけをとりあげて、九州勢力の支配があったなどとはいいきれない。そんな単純な問題ではなく、まだまだ新たな調査研究が必要な課題である。

参考文献
高田寛太『異形の古墳』角川選書2019
金洛中『古墳からみた栄山江流域・百済と倭』(国立歴史民俗博物館研究報告・第217集)弘文社2019

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