流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

古墳時代

藤ノ木古墳のもう一人は女性、「金銅製筒形品」は頭飾りだった。

藤ノ木古墳金銅製筒形品
 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示の金銅製筒形品の復元品

1.筒形品に残存していた繊維質は髪の毛だった。

 報道(2024.11.20)によれば、金銅製筒形品は長さ約40センチ、最大径6センチ。中央が細くなる形状で、表面には歩揺(ほよう)と呼ばれる飾りが多数付けられ、被葬者の頭部付近から見つかっている。保存処理に伴って、表面に付着する繊維質を分析したところ、「毛髄質(もうずいしつ)」に相当する構造が確認され、毛髪の可能性が高まった、とのことだ。
 藤ノ木古墳の説明パネルには、この筒形品の一部に繊維質が残っており、何かに括りつけていた、という解説がされている。これが、髪の毛であったというのだ。ということは、埋葬時に髪を巻いて括るようにつけていたのではないかと思われる。おそらく、きちんと固定できるように、紐のようなもので結んでいたのかもしれない。すると、この被葬者はきらびやかな多数の歩揺のついた髪飾りを着けた女性ということになろう。
 従来、二人めの被葬者の性別については、議論があったが、残存する足の骨から男性と判定されたこともあって、二人の被葬者を日本書紀の崇峻天皇紀のはじめに登場する、皇位継承者候補でありながら殺害された穴穂部皇子と宅部皇子とする説があった。
ただ男性二人がいっしょに埋葬されることには、いぶかる声もあったが、日本書紀の記述の「宅部皇子は、穴穗部皇子に善(うるは)し」との箇所の、善は、仲が良い、間柄がきちんと整っている意、とする岩波の注もあり、この箇所をとらえて、男性同士の二人は特別な関係であった、といった解釈をされる研究者もいた。しかし、残念ながらそうではなかった。
 男性であるとの鑑定結果に反論されていたのが、玉城一枝氏だ。氏は、二人の被葬者の間での異なる装飾品に注目された。女性と考えられる人物に手玉・足玉が着装されて、一方で美豆良飾りがないと指摘されている。人物埴輪の事例で説明され、説得力のあるものである(玉城2019)。ほかにも剣と刀子の問題など、男女の副葬品の違いを指摘しておられる。
 今回、用途不明であった金銅製筒形品に付着していたものが髪の毛の可能性が高いということで、藤ノ木古墳の被葬者はおそらくは夫婦の男女であったことから、新たな検討が必要となるのではないか。

藤ノ木古墳金銅製鞍金具後輪把手
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示の金銅製馬具の後輪(しずわ)

2.把手の付いた金銅製馬具は、女性用の可能性。

 藤ノ木古墳の石棺の外側の奥のすき間には馬具が置かれていた。その鞍金具の後輪の後ろ側には把手がついている。同様の資料が韓国慶州江南大塚北墳から出土して、女性の墓であることが判っているという。すると、把手がついているのは女性用であり、横すわりで把手を片手でつかんで乗るものであったようだ。ならば藤ノ木古墳のもう一人の被葬者のための女性用の馬具であったことになり、このことからもやはり女性が埋葬されていたことを示していると言えよう。
 また、鞍橋(くらぼね)の前輪と後輪が平行して居木(すわるところ)にほぼ直角に取りつく形態は、北方騎馬民族の鮮卑の鞍のスタイル(前園2006)であるという。

筒形銅器
 関西大学博物館展示筒形銅器

 藤ノ木古墳の豪華な副葬品の中にある金銅製冠が、西方文化と関係することが早くから指摘されてきた。馬具もしかりだが、筒形品も外来の関係でみることも必要であろう。藤ノ木古墳のものは、中央が狭まったいわば鼓型のものだが、形は異なるが用途不明の筒形銅器は、棒状の柄に装着したものといった解釈もされていた。だが、江上波夫氏は、軽いものは女の人が頭の上に立てた冠だと述べておられる(江上1990)。実際に、列島では70本を超え、半島でも70本近く出土している。
 藤ノ木古墳の場合は、頭頂部に横に寝かせて結びつけていたのであろうが、他の筒形銅器が女性の頭に立てて着けていたとは考えにくい。どうやって頭に固定したのかもわからないが、それでも下図のスキタイの王妃の服飾推定復元図が事実であれば、時代は離れるが頭飾りの可能性も検討が必要であろう。


アルタイ王妃頭飾り
 図はアルタイ・アルジャン1号墳(前8世紀前後)の王と王妃の服飾推定復元図 林俊雄「スキタイと匈奴 遊牧の文明」より
 
参考文献
玉城一枝「藤ノ木古墳の被葬者と装身具の性差をめぐって」大阪府立近つ飛鳥博物館図録46 など、ネットで閲覧可能。
日高慎「東国古墳時代の文化と交流」雄山閣2015
前園実知雄「斑鳩に眠る二人の貴公子 藤ノ木古墳」新泉社2006
江上波夫・佐原真「騎馬民族は来た?来ない」小学館1990 
田中晋作「筒形銅器と政権交代」学生社2009
林俊雄「スキタイと匈奴 遊牧の文明」講談社2017

縄文の蛇行石剣と古墳時代の蛇行剣

蛇行石剣パネル付き
蛇行石剣
  写真は、群馬県渋川市北橘歴史資料館
  ガラスケースでの展示で、鮮明には撮れず。

 縄文時代後晩期のものと考えられる小さな形の石剣です。出土地は不明のようですが、群馬県前橋市箱田の木曽三柱神社の社宝としてまつられていたとのこと。
  全長30センチメートル、柄部長12センチメートル、柄部幅1.5センチメートル、刀身の厚さは0.8センチメートルを測ります。蛇のようにくねり、丁寧に磨かれています。黒光りして、黄色や緑色の模様のある蛇紋岩でつくられている。
 縄文人はこの石剣を作った目的はなんだったのであろうか。蛇行石剣ではないが、蛇形の杖を使って呪術を行っていたという民俗事例を紹介する。 

「蛇形の杖を以て寝室を打つ」   
 難産の場合に道士をよんで祈祷を頼むと、多数の道士が来て、三室に神を祀り、その中の一人は、蛇形に彫刻した長さ一尺ばかりの木の棒を持ち、呪文を高らかに唱えつつ、産婦の寝室の周囲を打ちつつ幾回となく歩き廻り、他の道士はその打つ調子に合わせて読経し、笛・太鼓・銅羅などではやし立て、出産を見るまでは幾何の時間を要しようとも、耳を聾せんばかりの音をつづけるのである。これは蛇が、その穴に出入りするのが非常になめらかで且つ自由自在になるにあやかって、胎児もそのように安楽に出産させようとするのである。(永尾1937)

 蛇が穴にスムーズに出入りすることにあやかってというのは、後付けの説明のように思えなくもないが、蛇が安産に関わるという点はあり得ることかもしれない。前に、蛇が神となった理由(こちら)に、へその緒が蛇に見立てられたと説明させていただいたが、この蛇形の杖が、無事に新たな生命が生まれるための祭器となるのであろうか。

蛇行剣(全州博物館・金城里古墳) (1)
  写真は全州市の国立博物館の副葬品 中央が蛇行剣
 
 時代は変わるが、古墳時代には、副葬品として鉄製の蛇行剣が見つかっている。話題になった奈良県の富雄丸山古墳からは、長さ2.3mのものが出土したが、他に70余りの古墳から出土している。実は韓半島にも4カ所の倭系古墳から出土しているという。
 では、蛇行剣が古墳に埋葬されたのはどういう意図によるものか。蛇形の杖は、安産を願うものであったが、それが古墳への副葬の場合は、再生を願うシンボルだったのではないか。人々は亡き人の生まれ変わり、再生を願って、この蛇行剣に託したと考えられないであろうか。

 日本書紀の仁徳即位前期には、弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が自殺をすると、仁徳となる大鷦鷯(おほさざき)が、胸を打ち泣き叫んで、髪を解き屍体にまたがって、「弟の皇子よ」と三度よばれた、するとにわかに生き返られた、という説話がある。もちろん史実ではないだろうが、死者に対して生き返りを願う行為が行われていたのだろう。そのための信仰の祭器として、生命の象徴のような蛇に見立てた剣が作られたのかもしれない。

遼東蛇行剣
 上図のような蛇に似せた剣は、大陸でも紀元前10世紀以上も前から作られていた。遼東に出現する遼寧式銅剣は、刃の形状だけでなく、柄の部分に蛇のペニスを表現するなど、様々な蛇剣が作られている。刃が蛇行する形のものもある。こういったものが、列島に継承されていったのだろう。

参考文献
永尾龍造「支那民俗誌第6巻」アジア学叢書大空社 1937
小林青樹「倭人の祭祀考古学」新泉社2017   
韓国の蛇行剣の写真は、松尾匡氏の撮影によるもの
遼寧式銅剣の図は「倭人の祭祀考古学」より

稲荷山鉄剣銘文の杖刀人は呪禁(じゅごん)者との解釈

稲荷山古墳
  埼玉県稲荷山古墳復元礫郭 2015撮影 現在、礫郭はパネルになっているようです。

 杖刀人については『山陽公載記』の記述に従って「刀を杖つく人」とする説など、複数の解釈はあるが、いずれにしても杖刀人とは武官であって、大王に近侍する親衛隊、宮廷警備の武人といった解釈である。ここに、まったく異なる見解が早くに出されていることを知ったので、その紹介とその解釈から、銘文全体の意味をとらえなおしたい。(末尾に銘文を記載)


1.杖刀という霊剣を扱う呪術者

 田ノ井貞治氏は『杖刀人と典曹人』において、中国の戦国時代からある宗教の道教によって解明されようとされた。『令義解』の記述から杖刀人を杖刀を扱う人の意のことだという。『令義解・巻八・医疾令第二十四』に「呪禁(じゅごん)生は呪禁して解忤持禁(じきん)する之法を学べ」とあり、その謂に「持禁者は杖刀を持ち呪文を読み・・」とある。この杖刀は東大寺献物帳に、「御太刀壱佰口」が三つの櫃に分納され、第一の櫃には五十八口、第二は四十口、第三に杖刀二口とある。二口の杖刀だけが一つの櫃に大切に保管されていたとある。さらにこの二つの杖刀は鞘の装飾が立派であるが、刃渡りは鞘の長さの半分以下となっていることからも、武人の持つ刀ではないことがわかるという。
 また『令義解』には「凡医生・・・呪禁生は世習を取れ」とあり、鉄剣銘の「世々杖刀人首」が、代々世襲する意味を理解できる。道教では、「七祖父母、自然の生道、登仙南極宮」が、自分の祈願と並んで、七代前までの先祖の魂も救われるように祈願すれば南極宮(仙人の住むところ)に登り、永遠の命を得られるといった思想があり、これで、7人の祖先名を記した意図が明確になる。
 杖刀人である呪禁者は、病気を癒すだけでなく、戦争の勝ち負け、戦術に参画して功を為したので、誇らしげに「吾、天下を佐治す」と記したのである、とする。
 以上のようなことから、田ノ井氏は、杖刀を持って呪禁を唱える呪禁師で、雄略天皇の全国制覇を助けた人なる。獲○○鹵大王を雄略天皇とすることには従えないが、この杖刀人の『令義解』と道教を示しての解釈は納得できるものであり、ブログに引用された阿部周一氏や中村通敏氏と同じく賛意を表するものである。ちなみに、江田船山古墳の典曹人についても、「海運業に携わる人の親分」とされているのも考慮に値するものと考える。
 さらに、田ノ井氏は、道教が5世紀に列島に伝わったとするのは早すぎるのではといった意見については、渡来人の存在から、その可能性を論じておられる。この点を含め、以下に銘文の解釈に関してふれていきたい。
 
2.古代の刀剣信仰

 古代ユーラシアでは、金属器の武器の誕生とともに、刀剣を神剣・霊剣とする信仰がつくられ、武器そのものとともに広がっていった。
『魏書』巻一〇三高車伝には「埋羖羊燃火拔刀女巫祝說,似如中國祓除」とあり、女巫が刀を使って呪術を行っている。大林太良氏は「アルタイ系諸族のシャマニズムのなかに、・・・・戦神としての剣と関連を示す諸要素が現れている」とされる。注1 これは騎馬遊牧民の信仰なのである。
 神武紀においてタケミカヅチがタカクラジを介してイワレヒコに渡した韴霊(フツノミタマ)も霊剣の一種であろう。
また阿部周一氏の指摘だが、「武」の上表文には「歸崇天極」、「白刃交前、亦所不顧」とあり、これは「道教」を通じて「南朝皇帝」に対して臣従する意と、「北斗」を剣に書くとどんな敵にも負けないという「道教」にもとづく信仰のようなものの存在を示唆するとされている。注2 すなわち、杖刀人を道教との関連で捉えることは時期的に早すぎるものではないということであろう。
 群馬県金井東裏遺跡の火山噴火に立ち向かった甲を着た古墳人も、おそらく霊剣を持って呪禁を行った杖刀人と近い存在であったのかもしれない。この人物の所有と思われる鹿角製の装飾の付いた鉄矛と鉄鏃が出土しているのだが、どうであろうか。他に、霊剣と類するものに七支刀や四寅剣、蛇行剣などがあろう。七支刀は銘文の「百兵」を「辟」けることができるというのは、道教的禁呪を表しているとの指摘もある。

3.銘文の解釈に関して

⑴稲荷山と江田船山の銘文の共通点
 一般的解釈のワカタケルに対し、古田武彦氏は、至今獲 加多支鹵 というように、「今獲て」として、カタシロと読むとされる。ちょうど、形代、潟代で神霊の宿るところの意となり、王の名にふさわしいという。注3
 しかし、なぜ獲と加で分けるのか。来至という熟語があると説明されている。ただ一方で、「今に至る」は否定されてはおられない。また、今獲(えて)と動詞で読むのかの説明では、上位のものに信任を獲る、といった解釈なのだが、いささか無理があるように思える。
 既に指摘されていることだが、この稲荷山と江田船山双方の銘文には共通点が見られる。どちらにも「奉事」があり、「七月中」に対して「八月中」、「杖刀人」に対して「典曹人」、「百練」に対して「八十練」などよく似た語句が用いられている。これが両者の同時代性を推測させるとの指摘はもっともだ。他にも治(台)天下がある。また人名に「利」や「弖」が使われている。
 稲荷山の場合は獲は6カ所使われているが、そのうちの5カ所は人名であることは明白であろう。すると、大王の名にも獲が使われていてもおかしくない。この箇所だけ動詞として読むことの方が不自然ではないか。
 そうすると、獲加多支鹵大王と獲□□□鹵大王も共通との推測も可能だ。獲は人名を表す文字と考えるのが妥当であり、そうするとワカタシロ、となるであろうか。
 江田船山古墳鉄剣銘については、鈴木勉氏が、王権からの下賜刀ではなく、顕彰刀と主張されている。注4 実は東大寺宝物庫の100本の刀剣のうち、短い銘文が入ったものは2本だった。橿原考古学研究所保管の約300本の刀剣のX線調査では、1本も銘文は検出されなかったという。銘文入り刀剣が王権による下賜刀であるならば、もっと多くの銘剣が見つかってもいいはず。数が少ないことからも、銘剣が特殊な事例であり下賜刀とはできないであろう。すると、稲荷山の場合も顕彰刀として本人、もしくはその家族や周辺のものが作成させたとみることができる。
 
⑵百済との関係での検討
 犬養隆氏は『古代の文字文化』で、半島の銘文による指摘がある。百済の都が置かれた韓国の扶余・陵山里寺址出土の6世紀木簡 城下部対徳疎加鹵 とあり、官位と人名が記されているもので、「□城下部」は所属名、「対徳」は官位、「疎加鹵」は人名と考えられる。加・鹵という共通する文字が使われている。
 また伝加耶出土鉄刀銘では  ・・・不畏也□令此刀主富貴高遷財物多也 と、刀剣銘に吉祥句を記す点、象嵌の技法、書体に類似を指摘されている。
 さらに七支刀との類似も挙げている。「丙午正陽造百錬」という共通する表現がある。
 以上から、鉄剣銘には、七支刀がそうであるように渡来、特に百済との関係が見え隠れしている。なお、名を表す利も半島、特に百済に見られるものだ。また阿部周一氏は、百済から七支刀とともに「呪禁」を職掌とする立場の人物もやって来たとみておられる。

⑶杖刀人が呪禁師であるならば、佐治天下の意味も変わってくる。
 古田氏は佐治天下について、「中国の古典に用例を持つ慣用語とし、合わせて卑弥呼に対応する男弟の例から、天子、もしくは王が幼少、もしくは女性などの時、これに代わって、その国家の統治行為を行う」注5、との意味とされる。また「卑弥呼はいわば宗教的な巫女、これに対し、倭国の実際の行政をやっていたのは、『男弟』の方、佐治というのは実質上の行政権者」とも書かれている。
 しかし、杖刀人が宗教的な役割を果たす人物であるならば、統治行為とは考えにくい。実は「治」には、祭る、斎き祭る、という解釈もある。するとここは、大王の統治行為に対して祭りをして助けた、といった意味になるのではないか。あくまで私案だが、〇〇大王の世のシキの宮の時に、杖刀人首として天下の平定に呪術の力で尽力したので、(これを顕彰して、とっておきの)剣を作らせた、といった内容と考えたい。

注1. 大林太良・吉田敦彦「剣の神・剣の英雄」法政大学出版局 1981
注2. 阿部周一「『杖刀人』と『呪禁』」ブログ古田史学とMe
注3. 古田武彦「盗まれた神話」p81 古代史コレクション3
注4. 鈴木勉「線刻鉄刀と象嵌技術」(文化財と技術9号)工芸文化研究所2019
注5. 古田武彦「古代は輝いていたⅡ」p273古代史コレクション20

◆稲荷山古墳鉄剣銘文と江田船山古墳鉄剣の銘文と一般的な読解。
表) 辛亥年七月中記 乎獲居臣 上祖名意富比垝 其児多加利足尼 其児名弖已加利獲居 其児名多加披次獲居 其児名多沙鬼獲居 其児名半弖比
(裏) 其児名加差披余 其児名乎獲居臣 世々為杖刀人首 奉事来至今獲加多支鹵大王寺 在斯鬼宮時 吾左治天下令作此百練利刀 記吾奉事根原也
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。」
「其の児、名はカサヒヨ(カサハラ)。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(『カク、ワク』+『カ、クワ』+『タ』+『ケ、キ、シ』+『ル、ロ』)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。」   以上ウキペディア
乎獲居臣の臣については巨でコとし、ヲワケコとの解読もある。
 次に江田船山古墳鉄剣銘文 
台(治)天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖  八月中用大鐵釜并四尺廷刀八十練(九)十振三寸上好(刊)刀  服此刀者長壽子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太(和)書者張安也

参考文献
古田武彦「古代史コレクション2.20.28」その他
江上波夫「騎馬民族による征服説」(騎馬文化と古代イノベーション)KDOKAWA2016
白石太一郎「日本列島の騎馬文化はどのようにして始まったのか」(騎馬文化と古代イノベーション)同上
犬養隆「古代の文字文化」竹林舎2017
井上秀雄氏「実証古代朝鮮」日本放送出版協会, 19923
小嶋篤「象嵌大刀と刀装具の世界」九州国立博物館アジア文化交流センター研究論集 ; 第2集 2021
日高慎「埴輪の世界―畿内との共通性と東国の独自性」(はにわの世界)茨城県立歴史館2013
田ノ井貞治氏『杖刀人と典曹人』東アジアの古代文化を考える会同人誌分科会, 1999-08
末永雅雄「日本上代の武器」弘文堂 昭和16
大林太良・吉田敦彦「剣の神・剣の英雄」法政大学出版局 1981
吉田修太朗「稲荷山鉄剣の銘文に関する一考察」埼玉県立史跡の博物館紀要第16号 2023
濱田耕策「朝鮮古代史料研究」吉川弘文館 2013
管浩然「『古事記』国譲り神話「治」について」上代学論叢 和泉書店 2019

胴部に穴をあけた土器と𤭯(はそう)の小孔

光15有孔土器
  写真は、光州博物館展示の胴部に大きな穴のあけられた土器

円窓土器
  こちらは、愛知県朝日遺跡の円窓(まるまど)付土器

1.愛知県清須市の朝日遺跡の円窓付土器
 環濠のある弥生集落だが、従来、防御施設といった解釈がされてきたが、こちらで示したように、洪水など、水害対策用の施設などが主な役割と考えられるようになってきている。(こちらでは、高地性集落や環濠集落の意味を根本から見直されつつある状況を説明)
 そこに、胴部にぽっかりと大きな穴をあけた土器が多数出土している。円窓付土器と言われており、弥生中期後葉の時代に尾張地域に分布している。墓域とその周辺などから出土しており、居住域からは少ないようだ。焼成後の体部穿孔や口縁部打ち欠いたものもあるという。「風化痕」と見られる痕跡があり、屋外に放置され、風雨にさらされた状況から、墓に供えられたことの傍証になり、やはり、供献壺と共通のものとなる。
 せっかく完形品を作っておいたのに、わざわざ壺、容器としての役割を損なうような大きな穴をあけるという行為の意味はなかなか理解できないが、同じようなものを韓半島でも制作して、儀礼に用いられていたとするのは興味深い。同じ信仰を持つ集団が、この地に居住したのであろうか。

2.古墳時代の胴部に小孔のある土器
関西大学𤭯
 古墳に供えられた須恵器などに、円窓ほどではない小孔のつけられたものは、数多く存在している。ある図録には、次のような解説がある。
 「𤭯(はそう)とは須恵器の器名で、胴の部分に小さな丸い孔をあけた壺」のことだという。その次に、この孔の役割を説明されている。「この孔に竹などで作った管を挿入し、酒などの液体を注ぐ注器として使われたと考えられている」とのことだ。竹菅を注口になるように差し込むための孔だという説明だが、ちょっと素直には受け取れない。これについては、くわしい説明が、ウィキペディアにあるので(こちら)ご覧いただきたいが、根拠となる事例が、静岡県の郷ヶ平古墳出土人物埴輪で、両手でかかげる様に容器をもっており、そこに注口がついているのである。
須恵器を持つ埴輪
 しかし、よく見ると、これは先端部にかけてすぼまっているような形状である。とても竹管を差し込んだもののように見えないのだが。確かにこの容器の形状は𤭯とされる須恵器と同じ形の表現であり、出土したものに、胴部に注口を最初から付けているものは見られないことからすると、後から竹などを差し込んだということになる。すると、あけた穴にピッタリになるように、表面を削りながら差し込んだのか。同様の胴部に小孔のある須恵器は韓半島にも存在しているが、同じような使い方がされていたのであろうか。

3.栓がされた𤭯や鈴付きの𤭯
栓をした𤭯
 いろいろ疑ってみるのだが、過去に撮影したものを見直していると、吹田市立博物館に、蓋がされて小孔部に栓がつけられた状態の𤭯の展示があった。この場合はお酒でも入れて保存していたのであろうか。さらに、特殊な例もあることに気が付いた。
 
鈴用𤭯
 長岡京市埋蔵文化財センターに、鈴付きの𤭯というものがあって、胴部の下半分に仕切りがあり、そこに小石が入れられて振ると鳴る仕組みだ。底にもちょうど鈴に見られるような孔が付けられている。この場合は、儀礼のために鈴の音を出しながら注いでいたのであろうか。
 ちなみに、縄文時代には、下部というか底面の少し上に小孔のある土器があるが、これは、とても注ぎ口用にあけたとは思えない。この場合は、縄文人の信仰上の意味のあるものであったと思われる。
 古墳時代の須恵器の小孔が、注ぎ口を装着するためというのは、間違いではなさそうだが、その小孔に、竹菅などを装着する際の痕跡などがないのか、などまだまだ資料がほしいところである。鈴の働きを兼ねた𤭯の例など、いずれにしても胴部に穿孔のあるものは儀礼や信仰上のものであることに相違はない。

参考文献
高崎市観音塚考古資料館「観音塚古墳の世界」改訂版2015

冒頭の光州博物館の写真は、松尾匡氏の撮影のもの。
郷ヶ平古墳出土人物埴輪の写真は「文化遺産オンライン」より

前橋市山王金冠塚古墳の被葬者は、欽明紀の佐魯麻都か

金冠塚古墳出土_金銅製冠_(模造、J-10296)・金銅製大帯_(J-7886).JPG
   金銅製冠(複製)・金銅製大帯 東京国立博物館展示。
 
 群馬県の山王金冠塚(二子山)古墳は、6世紀後半の前方後円墳。大正4年に金銅製冠が金銅製大帯、馬具類、鉄製甲冑、刀装具類などと共に出土した。金銅製冠は、新羅系のいわゆる出字型金冠であり、これを由水常雄氏は「樹木型王冠」とされている。新羅では、金冠、銀冠、金銅冠といった素材の違いで身分の違いを示すなどの独特の制度があったが、新たな位階制の導入で衰退していったようだ。
 このため、容易に手に入れられるものではないことから、右島和夫氏は、「(冠を)どうして入手することができたのか、新羅の支配者の証しであること等を考えると、直接手に入れたことも十分考えられる。」(右島2018)と述べておられる
 私見では、この被葬者は日本書紀欽明紀にある日本府の主要メンバーである佐魯麻都ではないかと考えており、以下にこの点について説明したい。

1.欽明紀の佐魯麻都(サロマツ)
  
 欽明紀の3~11年に、佐魯麻都という日本府の中心人物が登場する。「佐魯」は、書紀では佐魯麻都の表記で3カ所、麻都という表記で12カ所も登場する異例の人物と言えるが、その彼の出自をうかがわせる記事がある。注1.
 欽明紀5年2月に百済官人が河内直に、汝が先(おや)は「那干陀甲背」と述べており、その人物が登場する記事が顕宗紀3年の末尾にある。
 「百濟國、殺佐魯・那奇他甲背等三百餘人」とあるのは、紀生磐(きのおひは)宿禰の百済との交戦記事で、「任那左魯・那奇他甲背等」が、百済の適莫爾解(ちゃくまくにげ)を殺害するが、百済の反撃によって左魯など三百余人が殺害されたというのである。
 欽明紀の佐魯麻都は、この顕宗紀の任那左魯の末裔ではないかと考えられる。任那左魯がこの事件があったと考えられる5世紀末に任那(加耶)の別の国に避難しそこで子供が生まれたとすると、年齢も合うので父子と考えても良いであろう。父親の百済への怨みを子が引き継いで、日本府の中で百済と反目する人物になったと理解できる。
 彼は、日本府のもとで大連の位であったが、新羅側に寝返った人物のように記されている。この佐魯麻都は、「奈麻礼冠(なまれのこうぶり)」をつけていたとあり、この奈麻礼は新羅十七等官位の第十一位とのことだ。新羅では、法興王7年(520)に官位制が定められている。東潮氏はここで、群馬県二子山古墳(現前橋市金冠塚古墳)出土の金銅冠が新羅系の出字形冠であることにふれている。(東潮2022)東氏は、なにも直接の関係を示唆されているわけではないが、この金冠塚古墳が6世紀後半と考えられている点や、出字型金冠が全国でも珍しいもので唯一の関係であること、また藤ノ木古墳と同じような金銅製大帯も副葬されていたことから、この被葬者の候補に佐魯麻都をあげることができるのではないか。
 他に玉村町の小泉大塚越3号墳に同じ冠の可能性のある金銅細片が出土しており、他にも高霊池山洞73号墳のものと似た単鳳凰環頭太刀、馬具や耳環、多数のガラス玉などから、やはり同じ加耶の王族の一員のものではないかと考えられる。共通の金銅冠がある以上、どちらがどうと断定はできないので、こちらが佐魯麻都である可能性も残しておきたい。新羅の侵攻によって6世紀の半ばに列島に逃れた彼ら王族と配下の集団が、この群馬の地までやって来たのではないか。

2.新羅系の冠の出土から渡来の人物と言えるのか?

 これについては、「前例」がある。大阪府高槻市阿武山古墳の被葬者には冠帽が添えられていた。日本書紀の記述には、天智前紀に、百済王豊璋に皇太子が織冠を、天智紀8年に藤原内大臣に大織冠を授けている。豊璋は白村江の戦いで行方不明になったので、残る内大臣なる鎌足が、この阿武山古墳の被葬者とする根拠となっている。もちろん、後の伝承なども検討されてのことだが。ただし、私見ではこの古墳の墳墓の形状や副葬品には渡来系の特徴が顕著であることからも、書記では鎌足とされた百済の豊璋と考えているのだが。
 佐魯麻都の場合も、日本書紀に新羅の冠を保持しているとの記述と、列島では先に挙げた2カ所でしか見られない冠であること、さらには、加耶の滅亡が6世紀半ばであり、古墳の年代が6世紀後半であることも符合するのである。
 よく古墳の豪華な出土品から、その被葬者像を、ヤマト王権からその副葬品は受容されたとか、半島と特別な関係を結んでいた地元の実力者、といった苦しい説明が後を絶たない。(こちら参照)どうして列島に渡って来た人物と考えることを避けるのであろうか。  
 欽明紀が記す任那滅亡、すなわち加耶国への新羅と百済からの侵攻から逃れた加耶の王族と配下の集団が、かなりの規模と頻度で移住してきたと思われる痕跡が、特に群馬方面には、数多くみられるのである。注2

3.なぜ、加耶(任那)の王が新羅の王冠を持つことができたのか。
 
 実は新羅は、加耶を制圧しても現地の王に位を授け統治を任せたという。「532年、金官国主の近仇亥は新羅に降服するが、上等の位を授けられ、本国を食邑とされた。金官加耶の王族はのちの近庾信のように新羅の有力者となっていた。」(東2023)このようなことから、麻都も同様の処遇を受けたと考えてよいであろう。この問題は、加耶滅亡後も、書紀に登場する「任那の調(みつき)」が、新羅に支配されてからも一定の独立した扱いを受けていたという理解につながるのである。ただ、佐魯麻都の場合は、百済のみならず新羅にも反発があって、列島に渡来したのであろう。
 さて、この新羅の出字型冠は身分を表すものであったが、520年以降の新たな位階制の導入によって、王冠の役割は変化してやがて消滅していったようである。日本では、奈良県藤ノ木古墳の金銅製冠や茨城県三昧塚古墳の金銅製馬形飾付冠などは、身分を示すというよりは、被葬者の為の副葬品に変わっていったものと考えられる。
 佐魯麻都の場合も、渡来してからは身分表示としての意味はなさなかった王冠だが、それは貴重なものでありかっての王の証しとして副葬されたのではなかろうか。

まとめ
 佐魯麻都は、書紀では新羅側についた厄介な人物のように描かれているが、それは百済側の視点による記述にすぎず、彼は、百済と新羅の挟撃の中にあって、加耶の独立の為に動いていたのであろう。この麻都の記事が途絶える欽明紀11年(550)に、さらには、日本府の記述の途絶える13年あたりで、日本に移ることになって群馬の地までやって来たのであろうが、どのような経過があったのか記事からは判断しにくく謎はつきない。加耶の滅亡で同じ頃に、数多くの王族とその配下の者たちが渡来してきたのは間違いない。被葬者の特定できない古墳が多数である現状の中、日本書紀の中で日本府と関係する人物が、群馬の古墳に葬られているとするならば、大変興味深いこととなろう。
 以上のように、山王金冠塚古墳と小泉大塚越3号墳の出字型金銅冠をもつ被葬者は、欽明紀の加耶の王族と考えたい。そして前者の古墳の可能性は高いが、いずれかが佐魯麻都の墓だったのではなかろうか。

注1.任那日本府は列島の倭国の出先機関ではなく、その構成メンバーも日本人ではなく、加耶の王族や官人たちであった。(こちら
注2.高崎市剣崎長瀞西遺跡の金製垂飾付耳飾りは、加耶のものと酷似しており渡来者であると考えられている。もちろん、真っ先に渡来する地となる九州にも多くの加耶の遺構が見られる。これらについては別途扱いたい。

参考文献
東潮「倭と加耶」朝日新聞出版2022
右島和夫「群馬の古墳物語上巻」上毛新聞社2018
由水常雄「ローマ文化王国-新羅」新潮社2001
吉村武彦ほか「渡来系移住民―半島・大陸との往来」岩波書店2020
玉村町歴史資料館「小泉大塚越3号墳と小泉長塚1号墳」平成20年度特別展

写真はウィキメディア・コモンズでFile:金冠塚古墳出土 金銅製冠 (模造、J-10296)・金銅製大帯 (J-7886).JPG

あぐら座りの男子埴輪  綿貫観音山古墳⑵

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1.三人童女埴輪
 後円部墳丘西側から前方部くびれ方向に向かって、人物埴輪の一団が置かれていた。三人童女埴輪をあいだにして、対座するように、合掌する男子と祭具を捧げ持つ女子埴輪という構図の埴輪群を、祭人像グループとも呼ばれる(大塚2017)
 古墳の前に立てられた解説パネルに、三人の女子が弦楽器を爪弾く、といった説明があるが、どう見ても演奏しているように見えないのだが、残っていないだけで、本来は弦楽器があったというのである。右側の童女の右腕にひものような表現が見えるのが決め手だそうだが、ハープのように立てて引く弦楽器があったのであろうか。
 他の事例では、楽器を弾く人物は、膝に楽器をおいていることからも、それはやや無理な解釈のようで、三人そろって祈りを捧げているようにしか見えないのだが。しかも、三女子は背中に鏡を二つずつ付けているのだが、楽器演奏とどう関連するのであろうか。   
三女子背中
 それにしても、どうして同じ横長の座面に座らせるという三人セットのような表現なのであろうか。これが、田心姫神(タゴリヒメ)、湍津姫神(タギツヒメ)、市杵島姫神(イチキシマヒメ)とういう宗像三女神のような巫女さんを表しているとしたら面白いのだが。

2.あぐらを組む男子埴輪
双脚帽子
     男子埴輪の頭部を上から腕を伸ばして撮影
 あぐらを組んでいる男子も、気になることがある。それは頭部の鍔のある帽子で、この形が、九州の装飾古墳や、近畿などの埴輪にも見られるいわゆる双脚輪状文の冠帽だ。ただし、烏帽子のような表現は、他の埴輪を参考に作られたものだそうだ。

双脚輪状文埴輪
       和歌山県立紀伊風土記の丘資料館

双脚輪状文パネル
 パネルにあるように、この文様は、九州から北関東まで、きわめて偏在した分布であり、特定の集団が好むものであったようだ。九州では、石室に描かれていた文様が、近畿や群馬などでは埴輪として作られているのは面白い。それにしても、この形は何を意味しているのか。スイジガイを表しているとの見方があるが、はたしてどうであろうか。

 他にも、この人物埴輪には気になる所がある。あぐらを組んで坐っているのだが、これは、左足の先端部以外は、復元時に「後補」されたもので、着衣の裾の形状からあぐらを組んでいたと判断されたようだ。他の事例で、あきらかに足を組んでいるとみられるものもあるので、問題はないと考えられる。では、この人物はどうしてアグラすわりで手を合わせて合掌をしているようなポーズをとっているのか。
 隋書には、次のような多利思比弧(タリシヒコ)の記事がある。倭王は天を兄とし、日を弟としている。天がまだ明けないとき、出かけて政を聴き、あぐらをかいて坐り、日が出れば、すなわち理務をとどめ、わが弟に委せよう、という。あぐらをかいて日の出まで公務を行っていたのだろうか。このあぐらは原文では跏趺坐とあり、それは、あぐらよりきつい足の組み方で仏教の座法である。あぐらをして手を合わせているのであれば、公務というよりは、瞑想にふけるかのようにとれてしまう。
 タリシヒコは7世紀前後のちょうど聖徳太子の時代にあたる倭国の王と多元史観では考えているが、この人物埴輪も腰に装飾の付いた大帯をしており、この地の王と考えられる。同じような意味の表現がされたものであるならば、この埴輪の祭人像グループは、無事に日の出が上ることを祈っているのであろうか。
 

参考文献
大塚初重・梅澤重昭「東アジアに翔る上毛野の首長 綿貫観音山古墳」新泉社2017
藤田富士夫「珍敷塚古墳の蕨手文の解釈に関する一考察 一中国漢代羊頭壁画との比較から一」ネット掲載
加藤 俊平「双脚輪状文の伝播と古代氏族」同成社2018

二段目に作られた切り石を積み重ねた巨大石室  綿貫観音山古墳⑴

綿貫全景
綿貫パネル
 群馬県高崎市綿貫観音山古墳の横穴式石室は未盗掘のため豊富で豪華な副葬品を持つものであったが、その石室そのものも巨大で、見ごたえのあるものであった。
綿貫入り口
 壁石材は四角に加工されたブロックを積み重ねて作られているというのも見事。中に入れば感動もので、スカッシュができそうな?空間があるのだ。
 
綿貫石室全景
 この玄室の長さは約8.3m、幅は奥で約3.9m。このような幅の広い石室は例がなく、それまでの最大のもので2.1m前後だという。見学の当日は、気温30度近くで蒸し暑かったが、室内には温度計があって20℃だったので快適であった。
綿貫温度計
綿貫出口
 右島和夫氏によれば「この幅の大差は注意する必要がある。石室の長さは、石を継ぎ足していけばいくらでも長くできる。ところが、幅はそうはいかない。なぜかというと、天井に載せる石の幅は継ぎ足しがきかない・・それまでの天井石の幅の2倍のものを載せた」(右島2018)のだという。言われてみたらその通りでこの説明には納得だ。持ち送り技法でだんだんと上部をせばめていくドーム、穹窿(きゅうりゅう)型の石室があるが、それは、デザインのこだわりと共に、大きな天井石を載せなくて済むという合理性もあったかもしれない。この点、綿貫の場合は限界に挑戦した石室だったと言える。
綿貫石組み
 この綿貫観音山古墳の石室は、切り石を積んだ壁に最大幅の天井石を載せた画期的なものであった。しかもところどころに、L字形に切り込みを入れてはめるように積んでいるところもあり、この技術はどこから来たのかと感心する。天井石は三つ載っているが、最大のもので22トンだという。イナバの100人どころではないのだ。
 この立派な石室が2段目に作られているが、大抵の横穴式石室は墳丘の1段目にあることから、作業にかなりの手間がかかったと思われる。そして気になったのは、巨大な天上の岩をささえる石積みの足下はどのようになっているのか、ということだった。床面には大きめの砂利が敷き詰められており、いったい、最下段の石積みはどうなっているのか、幅が広くて厚めの石が据えられているのかなど気になった。

綿貫図面
 後日、調査報告書の図面を確認した。調査時には、左側の壁が崩れ落ちていたそうだが、最下段の積石を見ても特にかわった施工を施しているわけではなく、同じように積まれた石が側面は2段目まで、正面は1段分が地面下に埋まっているだけだった。よくこれで支えられているものだと感心した。その床面の土は突き固めて平らにしておかなければ崩れる危険もあるわけで、大変な作業であったと思われる。なぜ気になったかというと、大阪府高槻市の今城塚古墳は、3段目の墳丘に石室を築いたとのことで、発掘調査で、その石室の土台の強化のための石室基盤工が検出されたというのである。それが、綿貫の場合はそのようなものがなく、固めた地面の上にそのまま載せていたという違いがあったからである。今城塚については、埴輪列のモデルとなるものなど、群馬の古墳に関連するものが多くあるので、あらためて考えていきたい。


参考資料
綿貫観音山古墳Ⅱ 石室・遺物編 群馬県教育委員会1999
右島和夫「群馬の古墳物語下巻」上毛新聞社2018

迫力があってわかりやすい、観音塚考古資料館の展示パネル

 
並ぶパネル
 群馬県高崎市観音塚考古資料館の展示の様子。巨大パネルが連なった圧巻の展示ディスプレイです。
観音塚kパネル

 観音塚古墳は石室そのものは、あの巨大な墳丘を持つ奈良県見瀬丸山古墳を少し小さくしたものではあるが、たいへん立派な巨石が使われた石室を見に行ったのですが、蚊の襲来でそそくさと引き上げて、資料館に足を運びました。
馬具パネル
観音鞍金具
 この資料館の展示室の展示品の説明パネルに感激しました。ショーケースの始まりから端まですべて、壁面を最大限使った巨大なパネルには圧倒されます。観る者にはすごいインパクトとなって、引きつけられます。展示する側の意図、陳列品の何がすごいのか、どこを見てほしいのかが大変よくわかります。
 館長さんと少しお話が出来ましたが、この展示は、前任の女性館長さんのアイデアだとか。あまり、男女の区別はどうかと思いますが、この場合はやはり女性ならではの感性で工夫されたと言えるでしょうか。
 どこの施設の関係者のみなさんも、いろいろと工夫されているかと思いますし、予算の厳しい中、苦労を重ねておられるところが多いかと思います。見学者は、そのへんも気が付けるように見て回りたいですね。
観音巨石パネル
 通路にもいかにも手作りの巨大ポスターで、巨石をどこから運んだかがよくわかります。
 
 
鶏頭太刀

 
鶏頭柄
 銀装鶏冠頭太刀柄頭 鳥のトサカのようにも見えるが、これは扇形に広がるヤシの葉のようなパルメット文様か。
 はるか西方文化とのつながりがわかる貴重なもの。
銀装唐草

 承台(うけだい)付銅碗や豊富な馬具装飾品やなど、とにかく大陸とのつながりを実感できるものばかり。
 観音塚古墳の解説パネルに、「渡来人を配下に編成して地域経営を行った東国有数の首長像が推定できよう」とあるが、これはどうであろうか。そもそもの渡来人は、どうやって列島に渡って来たのだ。リーダーがいて、いっしょに渡来してきたのではないか。「配下に編成」するというようなことは、同じ信頼できる渡来の実力者でないとできないのではないか。よって、丸山古墳との類似から倭国王権にも関与した騎馬遊牧民の末裔のリーダーの副葬品と理解できる。首長も渡来人としてこそ説明がつくのではなかろうか。
               24.6.9