流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 古墳時代

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 覚張隆史 『日本人とは何か 私たちのルーツを巡る700万年の物語』SB新書
 
 近年のゲノム研究の成果によって提唱された「三重構造モデル」を、わかりやすく解説した入門書。
  日本人のルーツが気になる方は、ぜひ本書をお読みいただきたい。  
 
 帯には「日本人の正体」に迫る、「3つの祖先」からできている、「日本人誕生」の新常識、といった謳い文句も誇張ではない。「三重構造モデル」は2021年あたりから言われだしたようだが、これも、古代人のDNA情報の分析が増加した成果による。
三重構造
 上の図は、別の資料(金沢大学HP)のグラフだが、日本人の遺伝子の時代ごとの変遷を示したもの。古墳時代にほぼ現在の日本人と同じゲノムの構造になったという。
 ご覧のように、一人一人の遺伝子は、縄文人の遺伝子に弥生時代の北東アジア祖先のものが加わり、さらには古墳時代に東アジア祖先の「第三の集団」という新たな遺伝子が重なって、現代人と変わらない構成になったのである。
 現代の日本人のゲノムは大きく言って三つの集団の混血で成り立っているのである。そして、この古墳時代に劇的ともいえる大きな変化が起こったのである。いったいこの時代に何があったのかという問題が重要と思われる。
 
 これまでの「縄文系」と「弥生系」という二重構造モデルでは説明できなかったことを、第三の集団の到来で説明されていることが特徴だ。
 この書では、これまであまり触れられることのなかった大陸の草原地帯や牧畜の民、騎馬文化を持つ集団との関係が明らかにされてきたのだ。もちろん、直接列島に入ってきたというよりも、華北から半島を通じての移入が考えられる。
 テレビドラマの「VIVANT」では、テントとも呼ばれるパオ(ゲル)が重要な場面によく登場する。そして、馬やラクダに乗るシーンもある。日本人のはるか遠い祖先にこのような暮らしをする人々がいたのである。これも以前に記事にしているが、島根県では正月の海岸にグロというテントをつくる祭事が残っている。そのグロは中国語で遊牧民のテントを意味する穹廬(きゅうろ)が語源と考えられる。
   
 学べたことなどを少しだけ紹介

・先に、旧人類から新人類の動きが理解しやすいように説明されている。私たちには旧人類のネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝子もわずかだが含まれているという。
・ホモ・サピエンスの出現年代は、20万年前から今後の調査結果でさらに更新されていくようだ。
・縄文犬のゲノム解析も進んでいるようで、縄文人の祖先集団の動きと犬の動きがリンクしているというのは、興味深い。
  
・特に注目したのは、縄文人の祖先集団につながる遺伝的特徴を持つ集団はほとんど消滅してしまったが、ネパールに類似のものがあるということだ。前に消えた大陸に縄文人の祖先がいたことを漆を例に説明しているが、海岸線の後退で追いやられた人々の痕跡が、ネパールにあったということになる。

・弥生人もその出自が複数あることも明らかにされた。西遼河地域集団だけではなく、中国の中心地となる黄河流域や周原といった中央平原の集団のゲノムの特徴を持つことがわかってきたという。古墳時代にもこの動きがつながっていくのである。このことからも、古代人のダイナミックな動きが見えてくる。

・長野県飯田市は馬具や馬骨が多数出土する地域。その中の溝口の塚古墳は地域最大級の前方後円墳の人骨のゲノムの特徴。縄文成分と東アジア成文のみ検出。弥生の成分がなく、東アジア系成分と縄文系が直接混血していた可能性。さらにancIBDという手法で血縁関係の近さを推定する方法で、韓国に血族があったことが判明。この男性被葬者と韓国釜山近郊の大成洞古墳群から出土の女性個体との間に、6~7親等程度の血縁関係が存在する可能性があるという。
 これは、加耶の列島との関係を示すものと思われる。騎馬文化などを持つ加耶人が渡来し、縄文系統の女性との婚姻で生まれた子孫が信州方面に進出していることを示すものになりえる。また、加耶人も、大陸の遠方の集団と関係していることも明らかとなる。加耶の王族がローマングラスを所有するようになった道筋の解明にもつながると思われる。

・DNAの断片が同時に存在する。
 現代日本人の一人のゲノムの中に、縄文時代の短い断片、弥生時代の中程度の断片、古墳時代の比較的長い断片が混在している。後続する集団と混合しながら現在まで持続しているということ。

 かねてより、弥生時代の後半から古墳時代、さらには7世紀後半の白鳳時代までに、大陸からの移住の波が、何度もあったと考えてきたものとしては、このゲノム解析の研究がさらに進むことを期待したい。
 それに関連して希望したいのだが、三つ目の集団を古墳時代と限定するのではなく、7世紀末までの人の流入があったことは、説明に加えてほしいと思う。白村江戦後に新羅が半島の統一をすすめる中で、多くの百済人、高句麗人が列島に流入していることは、日本書紀にも明記されている。ただ難しいのは、古墳プラス飛鳥・白鳳時代というのを一言で表す言葉が思い浮かばないが。

 最後に、この「三重構造モデル」を、今の歴史学者、考古学者のみなさんに積極的に受け止めていただくことを望んでいる。騎馬民族説を否定され、一部の渡来人から馬の飼育、技術を学んだ、という理解では、日本人の遺伝子構造を大きく変えた事実を説明できないのではなかろうか。「騎馬民族征服説」では誤解を招くので、私は騎馬遊牧民移住説と考えているが、これはもう避けて通れない問題だとしたい。
 著者は次のように明言する。
 「文化と人の移動は分離できない現象であり、古墳時代の再編は、物質文化と遺伝的構造の双方に痕跡を残した」のである。文化の情報だけが伝播したかのような説明はそろそろ改めてほしいと思う。

 この第三の集団の渡来について、『日本書紀』と『古事記』の記述や、遺跡の遺物などから、関連して説明できる問題などを、今後のところでも取り上げていきたい。

参考
覚張隆史2026『日本人とは何か 私たちのルーツを巡る700万年の物語』SBクリエイティブ株式会社
金沢大学HP『パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造』
棒グラフの図は 金沢大学HPによる

 
茶臼山古墳
       図は桜井茶臼山古墳の銅鏡の破片 出典橿考研2017図録
 
 銅鐸や鏡がよく破片で出土することがあるが、これは再利用や信仰上の埋納行為と考えられている。しかし、新井宏氏が説明されている経年損傷の一種である応力腐食割れによるものという指摘から、、破鏡といった意図的な破壊といった行為はなかった、という見方がある。しかし、すべてが応力腐食割れによるものとは断定できないと考えられることを説明する。

 
 銅鐸の破片も再利用されていた。

 従来、奈良には「見る銅鐸」がなく、滋賀、東海地域より早くに鏡の祭祀に切り替わったと考えられてきたが、実は奈良地方にも見る銅鐸の破片がどんどん検出されるようになって認識が変わってきている。
 「畿内中心部で「見る銅鐸」の分布が希薄に見えたのは、その最終段階で細片となるような扱いがなされたためであって、本来は畿内地域にかなりの数の「見る銅鐸」が分配されていたと理解するほうが資料の実態に合致しているといえる。つまり、奈良はいち早く銅鐸祭祀が終了した、とはいえないことになる。以前、銅鐸が早くに消滅するのは神武の侵攻によるものといった考えもあったが、実際はそのようなことは言えないのである。
 そして、奈良では祭祀行為の他に、銅鏡などの制作の原料とするために、破砕した可能性もある。
2010年に行われた徳島県立博物館による実験では、復元銅鐸を電気炉を用いて750℃で5分間加熱し、赤熱した状態で金槌で叩くことで容易に破砕できたことが報告されている。
 そうすると・・・この銅鐸の原料は中国からの輸入であったはずで、その銅鐸を原料とした銅鏡にも、中国産の特徴がみられる可能性もある。破片の一部を祭祀用、首飾りにした可能性もある。耳だけ切り取られたものもある。
銅鐸の破壊
            図は徳島県上浦遺跡銅鐸 出典ColBase
 
 ご覧のように、ちょうど絵画が描かれることがある方形の枠内だけを見事に破壊している。目的は定かではないが、意図的な行為であったことは確実である。

 銅鏡は割れた状態で出土することが多いが、平原古墳に見られるように、破砕して埋葬地の片隅に固め置くようなことも見受けられる。これを、信仰上の行為、鏡の祭祀として理解されているが、意図的に破壊されたのではないという否定的意見もあった。
 新井宏氏は、応力腐食割れで鏡に亀裂が入る可能性を指摘している。つまり自然にヒビが入るというのである。しかし、桜井茶臼山古墳に見られるように、粉々にされているものは、応力腐食割れでは説明がつかないであろう。
 
 桜井市茶臼山古墳の検出された銅鏡破片は、103面のうち中国鏡が56面、三角縁神獣鏡26面、国産鏡21面であったという。331点の銅鏡片の多くは天井石上の土砂に含まれていて、石室内に埋め戻された土砂にはごく少量しかなかったという。盗掘者の行為によるものなら、小片が石室内に相当量残るのが自然であるが、1961年の調査報告書によると、石室の両端に若干集中していた程度であった。
「これら破片のなかに周囲に研磨痕が見られるものがあり、それは破片の状態で副葬された破鏡だろう」と今尾文昭氏は指摘している(今尾2009)。
 枚数が103面にものぼるというが、それら全てが小さく破砕されていたという事実は、盗掘者の踏みつぶしということはまず考えにくいのではなかろうか。出土鏡に研磨痕が現実にあるのだとしたら、「意図的な破砕」を示唆するが、魏朝からの下賜鏡をどうして簡単に破砕するのだろうか、という疑問も残るが。
 最初に置かれたものが割れてそのままの状態で検出されたものと、応力腐食割れを起こした鏡片をさらにこまかくして意図的にばら撒いた可能性は残る。それは祭祀行為として破片を特定の場所にばらまいたのであろう。

 また、銅鐸ではその破片を首飾りなどに再利用しているケースがあるが、同様に銅鏡の破片も周囲が磨かれて穿孔がされているものがある。
破鏡
         加工された銅鏡の破片 出典『破鏡と四方転びの箱』 
 
 破断面及び全体が研磨され1ヶ所に穿孔が確認できる。懸垂用と考えられる穿孔は破断面のほぼ中央に穿たれている。シンメトリーを意識したようだという。こういった事例がいくつもある。

 銅鏡に見られる亀裂は、確かに応力腐食割れによるものと考えられるが、その破片の再利用、それをさらに細かく割って、特定の箇所に撒くという行為は否定しがたい。しかもこの破鏡が九州からはじまっていることも注意が必要と思われる。

 また、鏡は簡単に割ることはできないのではないか、力を加えても10円玉のように曲がるだけだ、という意見もあったのでここで説明しておく。
 銅は錫の配合が高くなれば硬度は増すが、脆くなる。10円玉の錫の配合は1~2%。しかし銅鏡は20%から30%となっており、固いが割れやすくなる。実際に、松本清張は自分の所有の銅鏡を落として割ってしまったと記している。銅鏡の鋳造実験で、錫の配合が高いと割れてしまう様子も見ることができる。つまり、ガラスのように割れることはありえるのである。

 完形の鏡にひびが入っているものもよく見かけるが、この場合は応力腐食割れの可能性はある。しかし、細かい破片をまとめて置かれている場合は、意図的に割る行為は否定できないし、信仰上の理由も大いに考えられるのである。


髙橋敏2015『破鏡及び鏡片の再集成と馬洗場B遺跡出土例からみえてくるもの』山形県埋蔵文化財センター研究紀要
新井宏「金属を通して歴史を観る 13.三角縁神獣鏡⑷追論」颯 颯 鰊 - 新井宏(ARAI Hiroshi)のWWWサイト
今尾文昭2009『古墳文化の成立と社会』古代日本の陵墓と古墳1青木書店
橿考研2025『王陵桜井茶臼山古墳』(令和7年度春季特別展)
松本清張2007『遊古疑考』河出文庫

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      京都府長岡京市恵解山古墳  残念ながらこの著書ではふれられていない

松木武彦氏の著書から学んだことや注目した点、気になるところなど、メモ程度のものだが記しておきたい。

邪馬台国に関して

・「倭国乱」については妥当な見方をされている。従来の大乱が長期間に渡ってあったがごとくの解釈から、「霊帝は黄巾の乱が起こったときの皇帝で、光和は178年~184年。この記述によれば黄巾の乱と倭国乱とは、紀元後180年前後、後漢帝国の中枢と周縁とで相次いで起こった動乱」p13とされているのは、すでに指摘しているように妥当であり、この見解が一般化するようになってほしい。
 そして氏は、この180年に視点を置いて、歴史の変化をとらえておられるのも重要だ。

・古代史ファンには最も関心の高い、邪馬台国の場所の問題では、卑弥呼は、博多湾沿岸のツクシと近畿中央部の奈良盆地のヤマトの両地を行き来していたとし、現在の考古学からは、どちらかという確言はできない、両地域を対立的に、没交渉的にとらえる必要はなく、「邪馬台国体制として一体の枠組み」p97という、いずれにも肩を持つかのような説明であった。ただそれでもヤマト有利というニュアンスが見え隠れしている。

・箸墓などの古墳群の年代観を4世紀にずらす問題では、「一部の人が主張するように4世紀以降に下げるためには、相当に独特の認識・解釈・論理を、危なっかしくつなぎあわせていくほかない。」と手厳しい。おそらくは関川尚功さんなどの主張を念頭にしてのことであり、この指摘にはきちんと対応して見直すなり、具体的な再反論をする必要があろう。
 その一方で松木氏は、今の古墳研究に根深くはびこる『箸墓=卑弥呼=初代大王(倭王)ドグマの確立』p99、と明言されているのは痛快ではある。また坂靖氏の主張にもふれて、巨大前方後円墳の主を安易に「大王」とみなさなかったり、「万世一系」的なその連続性を否定したりする研究者が増えつつある、とも述べている。

・「ヤマト門閥氏族」(纏向・萱生・柳本の三大有力氏族)p102という慣れない用語は今後定着していくのであろうか。「ヤマト王権」という言葉が繰り返されるよりはよいのだが。
他にも「マチ遠距離交易」、「マチ纏向」という聞きなれない言い方を提唱されている。さらにキビやイヅモ、コシといったクニの名を全てカタカナにされているのが、はたして定着していくであろうか。

三角縁神獣鏡による年代観に関して

「文様の構成や崩れ具合、全体の断面形などにより、古手のものから新手のものまで7~8段階の新古に分けることができる。(中略) 最古の段階の一群には紀年銘があり、それらは「景初3年」が一例、正始元年が三例ある。つまり、最古の一群は240年代までに鋳造されたと考えてよく、2番目に古い一群もまた250年代から260年代の前半までには作られていたと推測できる。出土状況をみると、箸墓と同じ布留0式の土器やそれと併行する段階の埴輪や副葬品を持つ古墳には、最初の二段階の鏡はしばしば一緒に副葬されるが、260年代後半以降に下るとみられる三段階以降の鏡は含まれない。ということは、布留0式期すなわち箸墓やそれと同時期の古墳は260年代以前に築造が終わっていた公算が強いのである。」p91    箸墓を卑弥呼の墓にしたい論理は根強い。

古墳出現の新説?

・従来の説の問題点 墓を社会関係の写しとみる前提には根拠がなく例外も多い、というのが考古学会の常識。また、一握りの巨大な前方後円墳だけ見ても、16万基あるともいう古墳の説明はできない、というのはもっとも。そして、古墳は氏族のシンボルであり、祖先からの系譜や神話・祭祀・世界観などを共有、守り伝える結社のようなもので、アイデンティティの強化を図る氏族のモニュメントの造営だったという。

・「古墳は東日本で発生した」というややセンセーショナルな小見出しのある記事では、結局、濃尾平野や近江などが最初だという説明で、この見出しは誤解を招きそうだ。

・「応神新体制」が425年頃に確立したという。古市と百舌鳥を中核として新たに統合・再編された各地の男系大氏族からなる古墳時代中期の体制の仮称だという。ただこれは以前から言われる主張と代り映えしないように思われる。巨大古墳の存在に引きずられた見方であり、先の古墳出現の新説の内容と矛盾するような気もする。
・紙数だことや注目した点、気になるところなど、メモ程度のものだが記しておきたい。

邪馬台国に関して

・「倭国乱」については妥当な見方をされている。従来の大乱が長期間に渡ってあったがごとくの解釈から、「霊帝は黄巾の乱が起こったときの皇帝で、光和は178年~184年。この記述によれば黄巾の乱と倭国乱とは、紀元後180年前後、後漢帝国の中枢と周縁とで相次いで起こった動乱」p13とされているのは、すでに指摘しているように妥当であり、この見解が一般化するようになってほしい。
 そして氏は、この180年に視点を置いて、歴史の変化をとらえておられるのも重要だ。

・古代史ファンには最も関心の高い、邪馬台国の場所の問題では、卑弥呼は、博多湾沿岸のツクシと近畿中央部の奈良盆地のヤマトの両地を行き来していたとし、現在の考古学からは、どちらかという確言はできない、両地域を対立的に、没交渉的にとらえる必要はなく、「邪馬台国体制として一体の枠組み」p97という、いずれにも肩を持つかのような説明であった。ただそれでもヤマト有利というニュアンスが見え隠れしている。

・箸墓などの古墳群の年代観を4世紀にずらす問題では、「一部の人が主張するように4世紀以降に下げるためには、相当に独特の認識・解釈・論理を、危なっかしくつなぎあわせていくほかない。」と手厳しい。おそらくは関川尚功さんなどの主張を念頭にしてのことであり、この指摘にはきちんと対応して見直すなり、具体的な再反論をする必要があろう。
 その一方で松木氏は、今の古墳研究に根深くはびこる『箸墓=卑弥呼=初代大王(倭王)ドグマの確立』p99、と明言されているのは痛快ではある。また坂靖氏の主張にもふれて、巨大前方後円墳の主を安易に「大王」とみなさなかったり、「万世一系」的なその連続性を否定したりする研究者が増えつつある、とも述べている。

・「ヤマト門閥氏族」(纏向・萱生・柳本の三大有力氏族)p102という慣れない用語は今後定着していくのであろうか。「ヤマト王権」という言葉が繰り返されるよりはよいのだが。
他にも「マチ遠距離交易」、「マチ纏向」という聞きなれない言い方を提唱されている。さらにキビやイヅモ、コシといったクニの名を全てカタカナにされているのが、はたして定着していくであろうか。

三角縁神獣鏡による年代観に関して

「文様の構成や崩れ具合、全体の断面形などにより、古手のものから新手のものまで7~8段階の新古に分けることができる。(中略) 最古の段階の一群には紀年銘があり、それらは「景初3年」が一例、正始元年が三例ある。つまり、最古の一群は240年代までに鋳造されたと考えてよく、2番目に古い一群もまた250年代から260年代の前半までには作られていたと推測できる。出土状況をみると、箸墓と同じ布留0式の土器やそれと併行する段階の埴輪や副葬品を持つ古墳には、最初の二段階の鏡はしばしば一緒に副葬されるが、260年代後半以降に下るとみられる三段階以降の鏡は含まれない。ということは、布留0式期すなわち箸墓やそれと同時期の古墳は260年代以前に築造が終わっていた公算が強いのである。」p91 箸墓を卑弥呼の墓にしたい論理は根強い。

古墳出現の新説?

・従来の説の問題点 墓を社会関係の写しとみる前提には根拠がなく例外も多い、というのが考古学会の常識。また、一握りの巨大な前方後円墳だけ見ても、16万基あるともいう古墳の説明はできない、というのはもっとも。そして、古墳は氏族のシンボルであり、祖先からの系譜や神話・祭祀・世界観などを共有、守り伝える結社のようなもので、アイデンティティの強化を図る氏族のモニュメントの造営だったという。

・「古墳は東日本で発生した」というややセンセーショナルな小見出しのある記事では、結局、濃尾平野や近江などが最初だという説明で、この見出しは誤解を招きそうだ。

・「応神新体制」が425年頃に確立したという。古市と百舌鳥を中核として新たに統合・再編された各地の男系大氏族からなる古墳時代中期の体制の仮称だという。ただこれは以前から言われる主張と代り映えしないように思われる。巨大古墳の存在に引きずられた見方であり、先の古墳出現の新説の内容と矛盾するような気もする。
・「六世紀を迎えるとともに大王家を確立し、よく知られるようにその初代当主となったのは、継体大王であった」p249とあるのだが、紙数の関係でか、なぜそのようなことが言えるのか説明不足であろう。

・その中期の陶質土器の編年では、最初の登場となるTG232が389年、TK73が413年、TK216、TK208、TK23,そしてTK47は稲荷山鉄剣の銘文「辛亥」から471年を妥当とする。よって中期の始まりは375年が目安とのこと。ただし、TK47については疑問が残る。辛亥が次の531年の可能性は捨てきれない。

他に気になる点

・キビ地域の解説は地元だけあって詳しく書かれてある。見直して参考にしたいところだ。

・ヤマトタケルの東征伝説に現実の各地域の古墳と関連付けての説明も興味深い。ただ、記紀の記す地名の理解が通説の場所で良いのかという問題はあろう。

・従来、列島か半島のどちらかと分かれていた筒形銅器の出自に関しては、金官加耶が一つの発給の核であった可能性は高い、とされたのは前進であろう。

・環濠集落についてのとらえ方がどうも過去の認識のままであるように思える。防衛施設といった見方から抜け出しておられないようだ。

・倭の五王の比定については従来の通説を踏襲されているのは残念。

・「列島にはかってなかった構造と規模の古墳群が3世紀前半のヤマトに現れたのは、日本歴史上の大きな出来事である。なぜならば、これをもって、そののち8世紀まで500年以上も続くヤマトの中心性が定まったからである。」結局は、この説明ではヤマト中心史観ではなかろうか。
 せっかく斬新な見方を提起されているのに、最終的には近畿のヤマトに収れんされていく説明になっているといえる。 

・甲冑にかんしての詳しい説明があってよいのだが、古墳に大量に埋納される鉄剣や鉄鏃、甲冑類については、氏族の秘儀といったワードが出されているのにふれられていないのは残念。

九州説論者の立場であれば、対応しなけれならない重要な指摘

・「キビを襲った環境変動」の一節では、活発であった古墳群の様子が、4世紀中ごろにこれをささえる氏族たちの動向が衰退しているというのである。この事態が列島の他の地域でも生じているとして、北部九州大地方圏、イヅモからコシ、近畿、東海から関東、東北南部まで、この傾向がみられるという。気候変動、さらには疾病による人口減少が考えられるという。崇神天皇も悩まされた自体が実際にあったのである。このような状況から、どのような変化、対応がされたのか気になるところである。そしてその後の九州勢力と近畿などの勢力はどのような関係になっていったのかの説明が必要となろう。

・特に九州に関しては、久住氏の見解も引用されていて、博多湾岸貿易で活気づいていた北部九州も4世紀には衰退していったというおきまりの内容。その後は近畿が隆盛になったという論理だ。九州の先進的な集団はどうなってしまったのか。九州王朝説に説得力持たせるためには必要であろう。

世界的視野で古墳時代を考える

 ヤマト問題から離れるが、世界の各地に作られた古代のモニュメントだが、「まず神殿から始まり、町が興った」という指摘が支持されるようになってきている。『万物の黎明』にもこの問題は取り上げられている。マヤの遺跡と日本の巨大古墳を一緒に論じていいかという問題はあるが、検討すべき課題ではあろう。この点でも、松木氏が研究を続けることが叶わなくなったのは誠に残念である。

 他にもふれたいことがあるが、また関連するテーマで今後も取り上げていきたい。
いろいろと気になることはあるが、ある意味、画期的な内容であるのは確かであり、各地の古墳の解説など手元において参考にしていきたい一書である。  

前方後円墳体制
   実情に合わない前方後円墳体制論は過去のものになろうとしている
    
 古墳時代の考え方として、長きにわたって支配的であった「前方後円墳体制論」という考え方も、少しずつ見直されてきているようである。いくつか紹介しておきたい。

 以下は講談社ホームページ 松木武彦『古墳時代の歴史』のプロモーション記事である。
《坂氏や清家氏の研究によって、複数の門閥氏族が、それぞれの経済基盤をもって並び立ち、そのいくつかから競合的に王が出るという経済的・政治的しくみが古墳時代の倭の社会を織りなしていたというイメージを、近年ではかなり多くの研究者が共有するようになった。「ヤマト政権」「ヤマト王権」などとさかんにいわれてきたが、ヤマトに単一の政体や王統などがあったわけではない。
 今尾文昭氏は、とくに4世紀に顕著なこの状況を「諸王の割拠」とよぶ(今尾2014)。文献史学からも、古墳時代の近畿周辺に複数の「王族」が分立していた状況が復元されている(古市2021)。「大王」を頂点とする一つの階層秩序が列島の広い範囲を一元的に覆うという古墳時代のイメージをもつ人は、実のところ、もうそんなに多くない。したがって、「大王」の巨大前方後円墳を頂点とした王権の構造がそのまま古墳に表示されているとみたり、各世代最大の前方後円墳を「大王墓」と判定してその系譜をたどったりするような方法も、ややうさんくさいとみる人が増えているのである。》

 出版社サイドがこのような挑戦的な宣伝文句を打ち出したのは、画期的かもしれない。
 その松木武彦氏は、この著書よりも先に出版された著作で、次のように述べておられる。

松木武彦「古墳」角川文庫2024  ※これは一般向けガイドブック。論考ではありません。
「巨大な古墳とはいったい、歴史的にどのような存在意義や役割や機能を果たしたのでしょうか。この大疑問に真っ向から立ち向かう姿勢は、実は、これまでの日本の考古学研究や古代史研究では、あまり盛んではありません。その大きな原因の一つは、古墳の意味や意義を日本列島の中だけで考えることが、学会の一般常識であり続けてきたからでしょう」
「古墳が一貫して『秩序』や『体制』や『国家』の表現や反映であったわけではないことを考える起点にしたいと思います」  
 最新の(遺作の)著書の内容については改めてふれるとして、ここでは、時期は前後するが他の研究者の一文を紹介する。

北條芳隆「前方後円墳はなぜ巨大化したのか」『考古学講義』筑摩書房2019
 「これまでの定説的な見解すなわち国家形成過程の一環として古墳の巨大性を解釈しようとすれば、解けない謎に直面する。そのうえ常識的かつ合理的な政権運営を想定しつつ前方後円墳を「王陵」だとみなした場合には、説明しようのない矛盾を抱え込む。代表的なものは次に示す五項目だ。」
 ①墳丘規模の拡大  ②過剰な労働力の投下  ③富の浪費  ④本土的な共有関係  ⑤階層序列の固定化を阻む作用     ※内容は省略  直接お読み下さい。

村上恭通「鉄から弥生・古墳時代を考える」(同上)
 「したがって地域社会の維持・発展を支える鉄のコントロールが近畿地方に移行する様子はどこにもみられない。しかし前方後円墳とその葬制が各地に波及していくことは紛れもない事実である。むしろ北部九州を鉄の受容窓口とし、それを起点とする鉄の交換体制は維持され、それとは全く異なった形で前方後円墳にみられる地域間関係が新たに形成されるのであろう。」

赤塚次郎『東之宮古墳からの提言』(月刊考古学ジャーナル№551)
「すなわち、倭鏡を含めた鏡の分布が、一元的制作環境と王権からの分与という特殊なシステムによって実施されたのだという従来の方向性とは異なることになる。・・・・  王権からの一元的な文物の広がり・関係性を前提にする考え方は再検討が必要である」

青木敬『土木技術の古代史』吉川弘文館2017
「列島各地を一元化させて論じる割には、古墳という存在は、あまりにも地域性強い」
「梅原「(1955)は巨大前方後円墳の墳丘や外堤をはじめとする盛り土は、周濠など墳丘周辺の採土のみでは充足できないと提起した。古墳周辺だけではなく、それより遠方からも土砂を運搬するだけの指導力や強制力が確立したからこそ、古墳という巨大なモニュメントをつくったと、と考えるべきではないか。」

 以前より研究者のところで、ヤマト中心の歴史観への疑問を呈する事例を紹介しているが、この傾向はさらに広がる可能性はある。その点でも、坂靖氏や松木武彦氏が早くに逝去されたのは大変残念なことであった。

大和図
(1)箸墓は丸かった?
 「古墳時代最古の画期的な前方後円墳」という謳い文句で頻繁に登場する箸墓古墳。「大和朝廷はこの形を全国に配布して前方後円墳をつくらせた」などとし、箸墓の平面図の輪郭が他の古墳のそれと相似形であるなどという解説もよくみかける。はたしてそのような意義のあるものか?真摯に研究をされている人も多くあるその一方で、紋切り型の説明に終始して、古墳時代の問題の解明をそらすような状況は危惧したい。箸墓や纏向古墳群、さらには前期古墳の問題で気付く点をみてみたい。

 寛政三年(1791)『大和名所図会』には箸墓を描いたとされる不思議な絵がある。それは箸墓が最上段を含めると五段になった円墳として描かれている。近世においては箸墓は円墳と思われていたのだろうか。後円部に比べ前方部が低い外形であり、さらに宮内庁管理になるまでは、くびれ部に道ができて人が通行していたぐらいだから、円部と方部が別のように見えていたのであろう。同様に他地域でも発掘調査をする中で当初は円墳とされていたものが、実は前方後円墳だったという事例もある。地元民も円墳と認識し、描いた絵師も低い前方部はカットして丸い箸墓を描いたのだろう。
ところが箸墓は最初は円墳だったと考える研究者がいた。

⑵丸山竜平氏の前方部付加説
 氏は前方部と後円部から時期差のある出土遺物があることから、先に円墳がつくられ、あとから前方部が付設されたという説を提起された。宮内庁管理の参考陵墓だが、「地元民」や宮内庁によりかなりの量の破片が採集されている。後円部頂上から宮山型特殊器台と都月型特殊器台形埴輪という異なる時代のものがあり、前方部からは二重口縁壺という時代の下ル土器、さらには周濠部から布留0式の遺物。  
 これらのことから箸墓は最古の古墳ではなく、しかも後円部が先に作られ、数十年を経て前方部が付設されたという。以前は円墳なら魏志倭人伝の記述と合うことから近畿論者から歓迎する向きもあったのだが、現在では大方のところで等閑に付されさらには否定もされている。当の丸山氏も結論は後円部は卑弥呼と壱与の墓で前方部はその後の男子王とされるオチとなっている。この説を支持し円墳に造り出しを付設した図面まで作成された苅谷俊介氏も動機は卑弥呼の祭祀にふさわしい方形壇付円丘としたいがためで、根拠があって二段階築造を論証されたわけではない。

レーザー測量
 
 研究者の中では、森岡秀人氏は卑弥呼説は否定の上で、前方部付加説には注意喚起を唱えておられる。後から前方部をつけた可能性はあるのだろうか。レーザー測量図を見ると確かに疑問が湧いてくる。それはくびれ部の状況だ。どうみても後円部の段築と前方部の側面はつながっていない。ごちゃごちゃとした感じで連続して造られたとは思えない状況だ。さらに斜めに走る里道は宮内庁の管理になる明治時代まで地元民が行き来していたそうだが、道にしては裂け目が深いように見える。全面葺石とされる表面を掘るのは容易ではない。これはくびれ部の接合部の弱い部分が長年の風雨で裂け目ができて、そこを人が通行することで深い溝状の道になったと考えられるかもしれない。
 箸墓古墳の周濠部を実際に調査された橋本輝彦氏は付加説を真っ向から否定された。その論拠は、前方部も後円部も布留0式の土器しか出ないから同時期だとされる。しかしである。その形式は二、三十年の幅をもっているものだ。先に後円部を作りしばらくしてから後に前方部を造ったとしたら、同時期の土器しか出なくても不思議ではない。確かに幕末とか長期間の差は考えられないが、短期間での付加説の否定はできない。
 箸墓と隣接するホケノ山古墳の場合は、竪穴式石室の隣に横穴式石室がつくられていた。200年以上の時期差が考えられるが、先の石室を破壊するといったことのない丁寧な埋葬から、先の埋葬者と出自は同じ、もしくはそう信じ込んでのことが考えられる。これは極端な例だが、箸墓の場合も前方部に同族の埋葬者があったのだろう。そして既に説明させていただいたとおり、実際にあとから前方部を付設したと思われる、時間差、時期差の考えられる古墳が存在しているのである。
 その一つに、箸墓を考えるうえで大変重要な古墳として、先につくられた中山大塚古墳がある。箸墓から3㎞ほど北上したところにあり、調査報告では後円部と前方部の石の積み方が異なっていることが指摘されている。
 宮内庁主催による箸墓見学会で周濠を見られた研究者はやはりくびれ部のテラス面がスムーズにつながらないことを感じておられる。しかも宮内庁書陵部の徳田誠志氏は実際に倒木箇所の補修のために調査をされた報告として、前方部は礫敷だが後円部は積石状に敷かれた様子を報告されている。円部と方部の後方が異なるようだ。このことを研究者の皆さんは黙殺できないのではないか。箸墓古墳も二段階築造の可能性は高いのだ。

⑶造り出しがあったかもしれない箸墓
 箸墓は円部と方部だけの古墳ではあるが、調査によって周濠があることが確認されている。ただ整った馬蹄形とする考えには疑問も出され、あくまで盛り土のための掘削の跡だという指摘もある。また前方部の北側、すなわち池のある側に、テラス状のもの、すなわち造り出しがあると寺沢薫氏により指摘されている。礫石が池の中にまで存在しており本体部分とは異なる基壇上のテラスという判断だ。残念ながらその全容は不明だが、箸墓も他の古墳の造り出しと同様の施設を持った古墳であることに間違いはない。
地割り
 さらにである。先ほどの苅谷俊介氏は後円部の東部の不可解な地割について指摘しておられる。このことを紹介した森岡秀人氏も同意だ。ただそれ以降この件が発展したかどうかは不明だ。先ほどのレーザー測量図でも後円部から北東部にまるで昆虫の触覚のような線が見える。これは掘割であり、後円部の縁に沿って隣接の池に流れ込んでいるのだ。その掘割が後円部の端から道路に向かう箇所が少し奇妙な形状になっている。道路付設の際と思われる石垣で養生されているので最初の形とは言い切れないが、それでも本来の円部の縁から少し出っ張りがあって、そこを道路で切られているように見える。
掘割

箸墓道路接点
 すなわち、もとは造り出し形状があり、その縁に沿って掘割が走っており、そのちょうど屈曲部分を道路で切られてその一部が養生されて残っていると考えられないか。畑に続く地割の途中に南北に走る線があり、曲がる箇所はわかりにくいがやがて後円部につながって台形状の形になる。削平され畑と宅地になってしまっているので、もはやうかがい知ることはできないが、それでも扇型のようなものを想定することができる。この箇所について桜井市埋蔵文化財センターに問い合わせたが、崩れ防止のためとの返答だがどうであろうか。
中山大塚
                   中山大塚古墳
 これと同じものが、先ほど二段階築造で登場した中山大塚古墳で確認されている。箸墓の少し前の編年が考えられるが、図にあるような扇型の造り出しが円部先端に取り付き、さらには前方部にも造り出しがある。段築は少なく、墳長も130mでほぼ箸墓の半分のサイズだが、葺石におおわれ、積石の石室で、同時代の土器片が出土するこの古墳とほぼ同じように最初は円墳をつくり、そのあとに方形部を付設させた前方後円墳を造ったと考えます。前方後円墳となった箸墓は本来は図のような中山大塚古墳と同型の付加施設をもった形状が想定できる。
 中山大塚に隣接する燈籠山古墳の円部先端も台形状の区画がある。初期古墳の段階から、はじめは造成時の足場、後に祭祀場とするような付加施設があったと考えられる。

⑷箸墓をはじめ纏向地域の古墳の特徴の多くは他地域の古墳に淵源が求められる。
 宮内庁書陵部の『文久山稜図草稿』には木柵で囲まれた墳頂とそこに板石の露呈した様子が描かれており、明らかに積石状の竪穴式石室であると考えられている。宮内庁撮影の写真も板石の存在が確認できる。中山大塚古墳は合掌式の積石の石室で天上に板石が敷かれており、おそらく箸墓も同型であろうが、その埋葬施設の始まりは香川県の鶴尾神社4号墳などとされ、さらにこの古墳の形状は鍵穴風前方後円墳の祖型とも言われている。
備前車塚
 前方部のバチ型とされるのが箸墓古墳のトレードマークのように言われているが、実はこれも前例がいくつもある。岡山県備前車塚古墳、同七つグロ1号墳、兵庫県権現山51号墳、京都府元稲荷古墳などであり、しかもこれらはみな前方後方墳である。箸墓は前方後方墳のDNAを持っているという不思議がある。
 箸墓の存在するエリアの前方後円墳には纏向型と称されるものがある。しかし阿波の弥生墳丘墓の足代東原1号墳(徳島県三好郡)が、纏向型前方後円墳の原初型との指摘がある。
 余談だが、¥に似た石見型木製品などとよばれる祭具も最古のものは糸島から出土しており、これも奈良からはじまったわけではない。

⑸その他
 前方後円墳がヤマトを中心に同心円状に広がったなどという説は今や見直しが進んでいる。広瀬和雄氏は「一期の前方後円墳は各地で『同時多発的』に築造され、最初から〈共通性と階層性を見せる墳墓〉」と述べておられる。画一的に解釈するのでなく多元的に捉える動きは広がっている。
 出雲を中心とする四隅突出型墳丘墓の造成が盛んな頃、北九州では平原に代表される初期古墳が生まれ、吉備では特殊器台の祭祀が盛んとなり巨大な楯築墳丘墓が登場、四国東部では積石塚が築かれるなか、奈良盆地の東南部にそれらのノウハウを持って、又は情報を得て移り住んだ集団が土地開拓のため水を祀る祭殿と巨大な墳墓を造った。箸墓の場合は当初円墳として作ったが、方形部を付設することが祭祀に効果的と聞いて追加工事を行ったのかも知れない。
 箸墓の墳丘部からは5,6世紀のものと思われる須恵器なども採集されている。墳頂までの道も敷かれており、地域の人々に長期間にわたって家族の安泰を願う守り神となって祀られる存在であったのだろう。乗馬用の木製鐙が周濠から見つかったことから、雨乞いもされていたのではという可能性も考えてみたい。
 苅谷氏がふれられているが、何故箸墓が400年あまりも経過しているのに書紀に記事があるのかは注意が必要。もちろん二上山の石の使用などないが、なにか信仰上の重要な、またその地の集団が特別な存在であったことは否定できない。

まとめ
①現在のところ否定的な前方部付加説の可能性を考えてみた。
間隔は不明だが二段階築造された可能性のある古墳と考えられ、最古の巨大な前方後円墳と強調する道理はない。また時間差でもって作られた古墳は他にもあるのではと思われる。
②後円部の造り出しも多少強引ではあるが、後円部と道路との奇妙な湾曲箇所や類例から想定してみた。箸墓古墳の本当の姿は、中山大塚古墳と似た造り出しを付設した全面石葺きで、石室も同様の積石で築かれ、また前方部のバチ型は前方後方墳のものとの類似など先行する他地域の特徴を合わせ持った後出の築造物にすぎない。
③古墳編年の問題については、既にほかで熱心に問題を指摘されてもいるが、時期の異なる特殊器台の破片や纏向遺跡の祭祀のことなど今後も考えていきたい。

参考文献
丸山竜平 「近江における出現期古墳の研究」立命館大学博士論文2001
森岡秀人 「問い直すべき箸墓古墳の築造」 『箸墓古墳』2014 学生社
福尾正彦 「箸墓古墳像の再構築に向けて」 『箸墓古墳』2014 学生社
刈谷俊介 「発掘調査が物語る箸墓古墳=卑弥呼の墓か」歴史読本2014.7
徳田誠志 「「陵墓の調査 オオヤマト古墳群~」『古墳時代の畿内』(講座畿内の古代学)雄山閣2018
廣瀬覚  「葺石と段築成」『古墳時代の考古学3』同成社2011
白谷朋世 「箸墓古墳と西殿塚古墳への立ち入り観察」 歴史評論 / 歴史科学協議会 編 2014.7
橋本輝彦 「箸墓古墳隣接地(纏向遺跡109次)の調査」古代学研究146号
外池昇  「天皇陵の近代史」吉川弘文館 2000
安本美典 「邪馬台国全面戦争 : 捏造の「畿内説」を撃つ (推理・邪馬台国と日本神話の謎)」 勉誠出版, 2017 など
寺沢薫、川上邦彦 「下池山、中山大塚古墳 調査概報」橿原市考古学研究所1997
石野博信など「研究最前線邪馬台国はいま何がどこまで言えるのか?」朝日新聞出版2011
近藤義郎編 「前方後円墳集成」  山川出版社 1991
加悦町教育委員会「白米山古墳1」1997.3
廣瀬時習、白石太一郎など 「箸墓以降」H26年秋季特別展 大阪府立近つ飛鳥博物館
広瀬和雄 「畿内乙訓古墳群の歴史的意義」(畿内乙訓古墳群を読み解く)季刊考古学・別冊26 2018

段階古墳
                               鳥取県西穂波16号墳       福岡県の日拝塚古墳
 前方後円墳はすべてが、方部と円部を同時に作り上げたわけではないようだ。明らかに、円墳を造り、その後に新たに方部を付け加えるという築造もあった。いくつかの事例を紹介しておきたい。

⑴段階築造とされる古墳
 
白米(しらげ)山古墳 京都加悦町(現与謝野町)後円部側根石に大きな石を斜面に沿うように置き、その上にも石を貼るように隙間なくびっしり葺いている。それがくびれ部を境として前方部では小口積みとなる。明らかに方部は後から異なる工法で築造している。
中山大塚古墳 奈良県天理市 全長132m ほぼ全面葺石 箸墓と似ている。
養久山1号墳 兵庫県たつの市 三世紀後半の造営。
矢塚古墳  桜井市纏向古墳群 円形部に突出部が付く古墳(石野博信氏)。
 
 後から前方部をつけたことのわかりやすい実例が図の右の福岡県の日拝塚古墳だ。先に円墳とそれをとりまく周濠がつくられ、前方部敷設時に周濠を切って構築されている。このような古墳がほかにいくつもあること指摘する研究者がいる。
 
 図の左の鳥取県西穂波16号墳の調査で、植野浩三氏は前方後円墳の築造における区画溝の検討をされている。氏の論考では後円部を取り巻く周濠が前方部の下をもぐるように存在するものを区画溝とし、これは後円部を築造するためのもので、前方部の築造時には埋められてしまうことから、周濠とはことなる区画溝と呼称される。氏は他の周濠との関係などから、後円部を完成させてすぐに区画溝を埋めてから前方部の築造となり、最初から前方後円墳を企図したものとされて段階築造は否定されている。
 しかし、この場合、わざわざ溝を全周に掘って、方部との接合部を円部完成後に埋めてから方部の築造をするなどというのは現実的ではない。仮にすぐに工事にかかるとしても、湧水や雨水のある溝を埋めて安定させるのに時間はかかる。ここは当初は円墳を作ったがあとから方部の追加工事をしたと考えるのが普通だろう。同様のケースである日拝塚古墳の場合は担当者は段階築造と判断しているのだ。氏はこの区画溝のある古墳を合計十二か所あげておられ、地元の調査者が方部は後の付加と解説される古墳もある。
 
 植野浩三氏の区画溝のある古墳のリスト  ※氏は他に福岡県那珂川町観音山1号墳も方部は後の追加とされる。
福岡市神松御陵古墳(横穴式・六世紀中)、  日拝塚古墳(横穴式・六世紀中)、  兵庫県豊岡市見手山一号墳(横穴式・六世紀中)、  鳥取県倉吉市鋤・高鼻二号墳(箱式石棺・六世紀中)、  鳥取県東伯郡大栄町上種西十四号墳(木棺・六世紀後)、  同西穂波十六号墳(横穴式・六世紀後)、  石川県七尾市温井十五号墳(木棺・六世紀中)  千葉県市原市持塚二号墳(横穴式・七世紀)、  千葉県木更津市高千穂七号墳(不明・六世紀)、同山伏作一号墳(不明)、  埼玉県児玉郡長沖八号墳(横穴式六世紀後)、  群馬県前橋市総社町王山古墳(横穴式・六世紀後)

⑵その他 段階築造の可能性を考えたい古墳
 
 広瀬和雄氏は奈良県西殿塚古墳が円部と方部がつながらないことを指摘。奈良市五社神古墳(神功)も前後のテラスが同一平面でつながらない。また福岡市の那珂八幡古墳も前方部との境目が不明瞭と言われている。他に岸和田市の帆立形の風吹山古墳、奈良県築山古墳なども可能性がある。さらに以下のようなものもある。
岐阜県昼飯大塚古墳 墳丘の埴輪破片の上に葺石があり、改築がなされた可能性が考えられる。
滋賀県田中王塚古墳 帆立貝式とされるが突出部の接合が調査で不自然とされ、後の追加と判断。ただしその追加工事が古墳時代に行われたかは不明。
松山市三島神社古墳 排水口もつ横穴式前方後円墳。円部と方部の土が全く異なり、前方部を後に構築したとされる。

千曲川
        長野県千曲川市森将軍塚古墳

⑶私見による段階的と考えたい古墳
 
 千曲川市森将軍塚古墳。山上に尾根に沿って作られた全長100mの前方後円墳で四世紀半ばの築造とされ、長期に渡って埋葬が行われ、周囲に計81基の埋葬が検出されている。くびれ部の後円部前面の石垣が前方部墳丘の盛土で埋まっており、また後円部の裾部の周囲の貼石帯が前方部には全く存在していないことなどから、先に円墳をつくり初代首長を埋葬し、後に前方部を付加させて二、三代目の石郭を作ったと考えられる。現地の説明では同時に築造と説明されているが、理由があいまいである。よってこの古墳も円墳完成後に新たに方部を増築したと考えたい。

 このような段階的、つまり後からの追加工事で方部が足される事例は今後も見つかるのではないかと思われる。

参考文献
広瀬和雄「前方後円墳とはなにか」中公叢書2019  
植野浩三「区画溝と周溝墓」1997 近江町教育委員「法勝寺遺跡」1990
森田克行「シリーズ遺跡を学ぶ よみがえる大王墓」新泉社2011 
更埴市教育委員会「森将軍塚古墳 Ⅴ」

 王や首長が複数で埋葬されていると思われる古墳が多数存在している。ここで廣瀬和雄氏の『前方後円墳とは何か』より、参考資料として掲示させていただく。一部、ブログ主による追記もある。

 廣瀬和雄氏の古墳の追葬の類型 
ⅠA 円(方)のいずれかの墳頂部に複数の埋葬施設があるもの。 さらにこれを三つに細分化して
  ⅠAa 同一墓壙に複数施設 ⅠAc 複数の墓壙 ⅠAbそれらが共存したもの
ⅠB 円部と方部に分かれて埋葬施設があるもの。
ⅠC 同一の木棺や石棺に複数の人物を埋葬
Ⅱ 墳頂部の埋葬施設に加えて、造り出しにも埋葬
Ⅲ 墳丘の裾でも埋葬

以下、各事例を示す。

ⅠA 円(方)のいずれかの墳頂部に複数の埋葬施設があるもの。 さらにこれを細分化して
 ⅠAa 同一墓壙に複数施設 
  三重県石山古墳 三基の粘土槨 武器・武具でまたがって埋置されるという特徴ある。
  岐阜県昼飯大塚 竪穴石槨、粘土槨、木棺直葬
  兵庫行者塚古墳 三基の粘土槨  
    奈良県新沢508号墳、岡山県月の輪古墳 それぞれ二基の粘土槨   ※同時埋葬少なくない
 ⅠAbそれらが共存したもの
  京都府平尾城山古墳 竪穴石槨の墓壙を切り込んで、粘土槨二基を併置
  大阪府豊中大塚古墳(円墳) 木棺直葬と、同一墓壙に二基の粘土槨
  京都府宇治二子山北墳 同一墓壙の中央槨と東槨を切り込んで西槨が作られる。
  福岡県井手ノ上古墳 竪穴石槨と箱形石棺(熟年男性)、石蓋土壙(青年男性)
 ⅠAc  複数の墓壙  ※最も多い
 兵庫県天坊山古墳(円墳) 二基の竪穴石槨が併行
 京都府蛭子山古墳 三基が後円部に併存し、舟形石棺と竪穴石槨におのおの円筒埴輪列の方形区画を伴う。
 福島県会津大塚山古墳 墳頂に二基の割竹型木棺
 岐阜県矢道長塚古墳 東槨から三角縁神獣鏡三面、鍬形石、鉄刀、銅鏃、鉄斧、玉類など 西槨は、三角縁神獣鏡と内行花文鏡三面、石釧、杵形石製品、合子形石製品、鉄刀、鉄槍、鉄剣などともに豊富な副葬品 
 岡山県金蔵山古墳 二基の竪穴石槨にそれぞれ方形区画、豊富な副葬品
 大阪府和泉黄金塚古墳 三基の粘土槨 性差はあるものの、副葬品からどれが傑出しているか言えない。
 広島県三ツ城古墳 時期差をもった三基の箱形石棺   東京都野毛大塚古墳 粘土槨、箱形石棺、木棺直葬の計四つ
 岡山県随庵古墳 竪穴石槨と粘土床の二基が併存
 大阪府弁天山D2号墳(前方後円墳)三基の木棺が切り合って直葬。
 兵庫県茶すり山古墳(円)二基の木棺、いずれも多量の鉄製品
 京都府私市丸山古墳 木棺直葬三基   大阪府長持山古墳 家形石棺が二基

ⅠB 円部と方部に分かれて埋葬施設があるもの。
 神奈川県白山古墳 円部に木炭槨一基と粘土槨二基、方部に粘土槨一基
 大阪府駒ヶ谷宮山古墳 円部に竪穴石槨一基、方部に粘土槨二基。その1号槨から内行花文鏡、鉄刀、鉄剣、鉄斧。2号槨から三角縁神獣鏡、鉄刀など。
 安土瓢箪山古墳 円部に竪穴石槨三基、方部に箱形石棺二基 ※方部は劣位
 香川県快天山古墳 円部に割竹形石棺三基、方部に組合せ式箱形石棺が四基以上
 香川県高松茶臼山古墳 円部に竪穴石槨二基、方部に箱形石棺二基、方部端の裾に箱形石棺四基、また一号竪穴石槨から人体骨二体分
 奈良県島の山古墳 円部に竪穴石槨、方部の粘土槨の被覆粘土に腕輪型石製品133個貼り付け
 福岡県老司古墳 円部に竪穴石槨二基、横穴式石室一基、前方部には横穴式石室一基、墳裾に石蓋土壙一基が設けられ、一号、二号には二体以上、三号は三~四体、四号は二体と多数の人の埋葬されている。
 
ⅠC 同一の木棺や石棺に複数の人物を埋葬
 千葉県猫作・栗山16号円墳 木棺に石枕が三個 周辺から立花など。 同 石神二号円墳 木棺に石枕が二個。 二基の円墳は石枕がなければ一体のみの埋葬とみなされていた。
 熊本県八代市大鼠蔵山古墳群の組合式箱型石棺1号棺に計五体の人骨 八久保古墳、三度の追葬

Ⅱ 墳頂部の埋葬施設に加えて、造り出しにも埋葬
 京都府久津川車塚古墳 長方形の掘り込み   兵庫県行者塚古墳 北東造出し部で粘土槨 

Ⅲ 墳丘の裾でも埋葬     長野県将軍塚古墳など

 2019年現在の資料ですので、ご了承ください。

参考文献
広瀬和雄「前方後円墳とはなにか」中公叢書2019 


大日山古墳埴輪

 栄山江の問題にふれたが、古代の朝鮮半島の一角に倭の支配地があったという考えは根強くある。甲冑の出土もその根拠となるといった見方もされている。現在の研究者の大方は冷静にとらえているのだが、なかには佐原真が騎馬民族説を否定する中で、気になる指摘をされている。私は賛同しかねるが、佐原氏はこの書の中で、騎馬民族は差別の思想だとされるのだ。その理由としてナチスに関する問題に言及されている。こうした思考方法は、ナチスのゲルマン民族優越史観と共通するのだという。アジア諸民族の蔑視につながり、特定の民族に能力を認め、他を認めない点が問題だという。
 そこでドイツの考古学者グスタフ=コッシナの主張を紹介している。
「厳密に地域を限ることのできる考古学上の文化領域は、いつの時代でも特定の民族または部族と一致する」
 ナチスはこのコッシナの考えを利用し、周辺諸国はゲルマン民族の故地という口実に使われたようだ。
 
 そのあと佐原氏は、何故かよく似た「公理」を主張する人がいるとして、古田武彦氏の『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』の一節を出されている。
「一定の文化特徴をもった出土物が、一定の領域に分布しているとき、それは一国の政治的、文化的な文明圏がその領域に成立していたことをしめす。」
 なるほど、確かに似ている。佐原氏は自分で発見されたのであろうか。そういわれると思い当たることが。古田氏は、任那日本府の存在について否定するのではなく、ヤマトではなく九州王朝の組織だと主張されている。
 そして佐原氏は、最後にドイツのローマ考古学者H=J=エガ―スの言葉を紹介して最後を締めくくっている。
「ある特定の考古学的文化が、ズバリそのまま一つの民族集団の存在を反映するという素朴な仮定は誤り。ある民族の分布領域が風俗習慣の差によって複数の考古学上の文化領域に分かれることもありうるし、逆にいくつもの民族や国家の境界を越えた文化領域もありうる。」
 確かになんでもかんでも、倭の文物が他国で出土するからと言って、倭の支配と判断するのは短絡的である。佐原氏は次のように締めくくる。「文化の変貌や伝播を征服で理解するのは旧式の発想」とおっしゃるが、これは極論と思われ承諾はできない。エガ―スは、「素朴な仮定は誤り」としているが、他民族や異なる文化を持つ集団との交流や移住を否定しているわけではないととれる。
 
 現代の歴史学者は、「征服」、「移住」と言った言葉にナーバスなようで、それが騎馬民族征服説への強い反発につながったとも思える。列島に見られる馬具を文化の「受容」で解釈することにもなる。だが、古代DNA研究の進歩が、避けられない問題を提起している。
 デイヴィット・ライクの『交雑する人類』では、はるか古代より人類は絶え間のない移動を繰り返し、遺伝的に混じりあってきたという。今に生きる人々の姿は、それまでに繰り返されてきた交雑の結果であって、人類は本質的に交雑体(ハイブリッド)であることが明らかになりつつあるという。よって、ナチが利用しようとしたコッシナの考え方が間違っているわけではなく、古田氏の言葉も、間違っていない場合もあり、征服や移住もあれば、交易に伴う交流などによる異種文化の混合ともとらえなければならないと思う。
 ここは舌足らずな説明になるので、またあらためてふれていきたいが、とにかく大事なのは、多様性、多元的に見ていかなくてはならないということであろう。

参考文献
佐原真『騎馬民族は来なかった』日本放送出版協会1993
デイヴィット・ライク『交雑する人類』NHK出版2018

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