流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 古墳時代

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           滋賀県鴨稲荷山古墳復元された広帯二山式金銅冠

 ネットで閲覧できる「令和3年度第2回むきばんだ遺跡土曜講座」に次のような解説がある。
広帯二山式冠分布図

 「広帯二山式冠(ひろおびにざんしきかん)は、国内で出土。花形方形透し文をもつ。
 冠は継体王権の威信財として畿内を中心に分布。 5世紀末~6世紀中頃」とのことだ。気になる所があるので、少し説明したい。

1.葬送儀礼で使われる冠

 まず、広帯二山式冠とされる図が、これでは「二山」としている意味がわかりにくい。この図は滋賀県の鴨稲荷山古墳の冠のスケッチだが、帯を広げてみないと「二山」とは思えないであろう。次の図は左が江田船山古墳、右が茨城県三昧塚古墳のものだが、このように帯を広げると、「二山」であることがわかる。
江田、三昧塚
藤ノ木舟
     藤ノ木古墳金銅製冠 樹木に鳥が停まるゴンドラの船が描かれている

 また「継体王権の威信財」とされているが、はたしてそうと言い切れるであろうか。既にこちらでも説明しているが、鴨稲荷山古墳の冠の場合は、中央についているのは船形埴輪と同じ形状のデザインだ。有名な藤ノ木古墳の冠には、樹木とともに鳥が停まっている船がいくつも描かれている。また茨城県の三昧塚古墳の金銅製冠は馬の意匠が左右対称に4頭ずつ描かれている。これらの馬や鳥、船は、死者を送るためのものと考えられる。日本出土のものは、それぞれ意匠が独特であり、統一的な規格で作られたわけではないので、位階を示すものとは考えにくく、埋葬時に被葬者に供える葬送儀礼用のものであろう。同様に飾り履という歩揺やスパイクが付いたものも、決して実用の履とは言えないと考えられる。

2.栄山江にもあった広帯二山式冠は、日本のオリジナルとは言い難い

 さらに次が重要な問題だ。「畿内を中心に分布」とあるが、だからといって日本独自のものとはならない。実は一例だが、朝鮮半島からも出土している。それが半島の前方後円墳である新徳1号墳である。飾り履や金製耳飾りなど豪華なアクセサリーが副葬されていたのだ。
 そうなるとこれは日本で多数の出土があるのだが、百済からの制作技術の移転、すなわち百済系の渡来工人によって列島で制作されたと考えられる。冠の文様が百済系の飾り履と酷似する亀甲文であることも傍証となり、新徳1号墳の例も百済系工人によって製作された可能性が高い。(高田2019)。
 新徳1号墳は、典型的な北部九州系の石室に、百済系の装飾木棺、そしてアクセサリーなどの副葬品から百済と倭との密接なつながりを読み取れ、その一方で、墓前祭祀に用いられた多量の土器は、現地で制作されたもので、それぞれの社会の複雑な関係性の中で、新徳1号墳が築かれたととらえることができる。広帯二山式冠が列島からの出土がほとんどで、あとの一例が栄山江流域の前方後円墳であるから、これが日本独自のものだとは言い難い。
 以上のことからも、栄山江流域に築かれた前方後円墳が倭王権の支配を示す根拠にはならないのである。

三昧塚列点文
波線の中に点・円文が連続して描かれている

池山洞金銅冠

七観山古墳 金銅製帯金具

           大阪府堺市七観山古墳金銅製帯金具の波状内列点文
 
 なお私見では、先ほどの三昧塚古墳の馬の意匠をもつ冠のデザインには注目すべきところがある。そこには帯の周縁部などに波状内列点文が施されている。図にあるように帯金具などにも施されている。さらに同じような文様が、加耶や新羅の冠などにも多数認められる。すると、この広帯二山式冠には、加耶・新羅の要素も加わっていることになり、さらには藤ノ木古墳金銅製冠のティリヤ・テペの意匠との類似などきわめて国際色豊かな美術品となるのである。
 
 以上のように、広帯二山式冠は、天皇の威信財とは言い難く、また日本の独自の冠ともとらえられない。さらには、栄山江流域の前方後円墳をどうとらえるかという点で示唆的な文物となるものであった。なお、この広帯二山式冠の分布は、継体とされる男大迹(おほど)の勢力と関係が認められる点については、また改めてふれていきたい。

参考文献
辰巳和弘『他界へ翔る船』新泉社2011
高田寛太『「異形」の古墳』角川選書2019
韓永大『古代韓国のギリシャ渦文と月支国』明石書店2014

 宋書倭王武の上表文の記述に
東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國
ある海北95国が、倭の勢力の半島支配を示していると考える方々がけっこうおられる。
 その半島支配の根拠として、栄山江の前方後円墳を持ち出されるのだが、それは無理であることを説明したい。すでにこちらでは、栄山江以外の問題を説明している。

①栄山江の前方後円墳は5世紀末から6世紀前半という限定された期間だけの造営
 そうであれば、武の上表文の話は、祖先の業績を讃えているものであり、それは478年以前のこととなるのであって、時代の下がる栄山江はなんの証明にもならない。さらに以下に付け加えていきたい。

②列島の中の渡来文化はどう説明するのか?
外国に前方後円墳があるから、倭国の支配を示している、などと考えるのであれば、列島の中にある半島勢力の特徴が数多くみられる状況は、どう説明するのでしょうか。近畿地域には、片袖式の横穴石室が多数見られるが、それは百済系と言われている。すると、近畿は百済勢力が支配していた、というのでしょうか。

③前方後円墳の配置された場所の問題
 栄山江の前方後円墳と在地の高塚古墳は、排他的ではなく併存するかのように作られていると指摘されている。

④様々な特徴を持つ栄山江の古墳
 栄山江の古墳の埋葬施設の構造、副葬品などは、倭系だけでなく百済系や加耶系、そして在地系の特徴なども見られます。
 例えば、月桂洞1号墳は、石室については、特に熊本に多くある石屋形の埋葬施設であり、他の栄山江の方円墳や円墳も多くが熊本や福岡の古墳の特徴をもっているが、一方で、石棺と共に銀で装飾した釘で組み立てて、環座金具を取り付けた装飾木棺となっており、これは百済の特徴をもっている。
新徳1号墳は、武寧王陵と同じくコウヤマキ製の木棺があったことから、被葬者は百済系と考えられる。そこに百済の金銅製の冠帽や飾り履、金製の耳飾り。また新徳2号墳は百済式の石室になっている。

⑤九州式石室に甕棺が埋葬されている例もある。

横穴式甕棺
 伏岩里3号墳という円墳では、九州式の石室の中に甕棺が4基も埋葬される例がある。倭国の古墳ではありえないことだが、この栄山江流域は6世紀まで連綿と甕棺による埋葬が行われてきたことから、被葬者は在地の人物と考えられる。経緯は不明だが、わざわざ九州式の石室を造らせたのであろう。

⑥墓誌があったから百済王墓とわかった武寧王陵
 栄山江ではないが、一例として。武寧王陵はその出土物の大半が中国系の器物であって、百済系の須恵器などは皆無であったことから、もし墓誌がなければ、被葬者は中国系百済官人、中国系有力者などとされていたかもしれないという話がある。出土物などで出自を判断するにはこういった問題もある。
 
 以上のように、栄山江流域の6世紀前半の古墳の状況はそう単純ではなく、それに伴い様々な説が乱立している。被葬者の性格については,亡命倭人説,倭から派遣された倭人説,土着勢力説,百済が派遣した倭人説、倭人の百済系官人説などが提示されているが,未だ見解の一致をみていない状況である。
 次のようなユニークな説もある。林永珍の馬韓系亡命客説は、百済の勢力拡大で北部九州に移住した集団の一部が、磐井の勢力拡大などで、再度栄山江へ亡命し、現地埋葬で継承無しだという。
私見では、東城王の護衛で渡った倭兵が、引き続き栄山江支配に使われ、そのリーダー格が埋葬されたと考えている。実は、この見方を支持するような見解がある。
 金洛中氏は、栄山江流域における倭系文物には、帯金式甲冑や各種の武器に関連するものが多い。その一方で、日本列島における百済・栄山江流域の文物は、オンドルなどの住居施設や炊事用土器などをはじめ、渡来集団が移住・定着したことを示すものが多い。このような非対称性は、高句麗との緊張関係にあった百済王権が倭の軍事的支援を必要とした状況や、倭人たちが百済に進出し活動した理由が、移住・定着ではなく、比較的短い期間に終えることができる活動(軍事的支援)などであったことを示している、というものである。まさに、九州から護衛を兼ねて渡った倭兵の痕跡が残っているのではなかろうか。

 いずれにしても、栄山江の前方後円墳の存在だけをとりあげて、九州勢力の支配があったなどとはいいきれない。そんな単純な問題ではなく、まだまだ新たな調査研究が必要な課題である。

参考文献
高田寛太『異形の古墳』角川選書2019
金洛中『古墳からみた栄山江流域・百済と倭』(国立歴史民俗博物館研究報告・第217集)弘文社2019

 「風土記逸文」の裁判の情景を描いたといった解釈は、後世の後付けと考えられる。現在確認できる石造物から、そのような判断はできない。
 資料館に収蔵された石製品100点。人物形は、武人、文人、力士、裸体の男女など。武具では、剣、靫、盾。動物形は馬、鶏、小型の鶏、猪か?他に壺形、笠など。柳沢一男氏は、こうした石製の器種構成は、群馬県保渡田八幡塚古墳内堤上の埴輪配列区のA区と近似する配列が予想されるとする。今城塚古墳の埴輪列とも共通するものだったのではないか。阿蘇ピンク石石棺からも関連を見る必要があり、その埴輪列は、裁判とは無関係であろう。
 現存の石造物が全国の埴輪と大きく異なる性格を示すものはない。
また、破壊が磐井の乱による征伐軍、または8世紀の九州勢力への討伐軍の意図的破壊とする根拠はない。後者の場合、岩戸山の石造物が8世紀初頭に破壊されているという根拠も不明。
石馬
 鳥取県石馬谷古墳の石馬(写真右側)の破損はどう説明できるであろうか?臀部も割られており、脚部は不明。石材確保といったなんらかの目的で割られた可能性が強い。
 石馬谷古墳では、石人の一部も見つかっており、岩戸山と同様に埴輪のように石造物が配置されていた可能性がある。九州以外ではここだけ。今城塚古墳のピンク石石棺が橋の板材に使われていた例もある。
 
 次のような石造物の後世の破損の事例の紹介 
 八女郡広川町石人山古墳 「福岡県史跡名勝天然記念物調査報告書」第8輯1933
「迷信の為に木槌にて敲打する風あるを以て、損傷甚だしく、殊に面部は殆ど面目を損せり。」
 これは、眼病に効くからといって石人の顔部などを叩いて砕き、粉末を服用することがあったらしい。
 山鹿市長岩横穴墓群の108号横穴墓でも、人物の胸部が左右2カ所深く抉られている。乳が出ない婦人が削り煎じて服用したという。
 実は行基墓の石塔も抉られた様な箇所があり、病気回復のために削って煎じて飲んでいたという。かえって健康には良くない行為かもしれないが、古代の人々の藁にもすがるつもりでの行為であろう。
 現在見られる破壊、破損の状況も、こういった人々の行いによる可能性も見ないといけないのでは。
 以上のように、岩戸山古墳などの石造物の制作の目的は風土記逸文の裁判の光景ではなく埴輪と共通するものと考えられ、敵対勢力による意図的な破壊も考えにくい。

参考文献
 橋本裕之『装飾古墳の民俗学』国立歴史民俗博物館研究報告1999 
 柳沢一男『筑紫君磐井と「磐井の乱」新泉社 2014 

 

石の宝殿 中尾山
1.兵庫県生石(おうしこ)神社石の宝殿の謎
 
 播磨国風土記の賀古郡大国の里に「作石、形、屋のごとし  聖徳王御世、弓削の大連の造る石」とある。これが石の宝殿の造営に関係することは間違いなかろうが、ではその年代が明確になるかと言えばそうはいかない。これが石槨であるならば、その製作技法は七世紀のもので、守屋の時代とは合わない。ただ風土記は「守屋」と記しているわけではなく、物部氏は守屋の後も子孫らは弓削の名で残っている。
 正木裕氏は「もう一人の聖徳太子」注1)を論じられ、一人目は阿毎多利思比孤であり、二人目の聖徳太子である利歌彌多弗利の事績の中で629年から634年に聖徳年号があったとされる。これは二中歴の九州年号にはない年号である。仁王元年・623年即位~命長七年・646年崩御すると利歌彌多弗利の治世こそ聖徳の世であった可能性がある。ならば風土記の大石は七世紀の半ばに作られて、何らかの理由で途中で放置されたと考えられるのではないか。そして用途不明とされた石造物は、今では繰り抜き式石槨との考えもある。
 八角形の墳丘から文武天皇陵と考えられるようになった中尾山古墳は、巨大な台石に磨かれた石を組み合わせて石槨にしたものだ。その石槨の全景が、石の宝殿を横倒しにした様と類似していることが分かる。松本清張氏がゾロアスター教の拝火檀と考えた益田岩船も同様の未完成の石槨なのだ。下に向かって石室を彫り、完成後に横倒しにして設置しようとしたのかもしれない。ただし、中尾山の場合は巨大な台石の上に加工した石室を組み合わせて重ねている。横口式石槨ともいわれるが、石の宝殿や益田岩船の場合は、台石を含んだ石室として完成させようとしたのであろうか。

2.現段階での石槨の編年では、少し後になる。
 
 この繰り抜き式石槨も類似の系統があり、寝屋川市の高良大社の敷地の裏の石宝殿古墳が七世紀前半であり、その後、藤ノ木古墳に近い斑鳩町御坊山三号墳、そして有名な鬼の俎板・雪隠の古墳が7世紀半ばとなり、次に牽牛子(けんごし)塚古墳、越塚御門古墳となるようだ。707年崩御の文武天皇の真陵とされるようになった中尾山古墳は時代が8世紀初頭になってしまうが、周辺の遺構から出土する須恵器は7世紀後半とずれている問題はある。牽牛子古墳と隣接の越塚御門古墳は版築で造成されていることや、いずれも横口式石槨であることなど、九州との関係がうかがわれる。播磨や斑鳩の地域、九州式の石槨や版築の古墳などこの点についても聖徳太子との関係がみられるのである。
 問題は、この系統の中に石の宝殿と益田岩船があるとするならば、何らかの理由で工事が中断されたとする時期が聖徳の世の7世紀前半では、少し早いのである。また放棄された理由も推測しづらい。
 ここは横口式石槨の編年を繰り上げるような根拠を見出さないと、石の宝殿は「利歌彌多弗利の聖徳御世」の7世紀前半のものとはできない。これが7世紀後半のものであるならば、途中で作業が停止された要因に壬申の乱や王朝交代時の政変とする要素も検討できるが、この時期に聖徳の世とされた根拠が必要となる。
 つまり、中尾山古墳の石槨が、文武ではなく須恵器の出土から7世紀第4四半期になるのであれば、その前の斉明とされる牽牛子塚古墳が寿陵とした場合に650~660年代となり、そうすれば、益田岩船や石の宝殿が640年代で、利歌彌多弗利の時代と関係するならば、物部守屋の末裔の墓の造営とはなる。ただこれは、恣意的な解釈にすぎず、現段階では、石の宝殿と益田岩船も7世紀前半とはならず、石槨の編年の見直しがされることが重要となるのではなかろうか。

注1.正木裕氏「もう一人の聖徳太子」こちらのYoutubeをご覧ください。

正面
背後斜め
現地案内板

岡山県恵庭市に大谷1号墳という階段ピラミッド状の方墳があります。山奥の斜面に造られた珍しい形状のものです。合わせて、その周辺の古墳群も紹介します。
 詳しくは、最近始めだしました、投稿サイト「note」の「ヒデチャコ」名でアップしております。以下をクリックしてください。
 
 斜面にある階段ピラミッド状の大谷1号墳と定古墳群

 「noteヒデチャコ」←こちらをクリックしていただき、「斜面にある階段ピラミッド状の大谷1号墳と定古墳群」をご覧ください。は、しばらくは、リメイクしました既発表のものが多くなりますが、特にスマホでご覧の方は、こちらが見やすいかと思います。よろしければ、ご登録お願いいたします。
 もちろん、ブログ「流砂の古代」も引き続きアップしていくつもりです。 今後ともよろしくお願いいたします。

藤ノ木古墳金銅製筒形品
 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示の金銅製筒形品の復元品

1.筒形品に残存していた繊維質は髪の毛だった。

 報道(2024.11.20)によれば、金銅製筒形品は長さ約40センチ、最大径6センチ。中央が細くなる形状で、表面には歩揺(ほよう)と呼ばれる飾りが多数付けられ、被葬者の頭部付近から見つかっている。保存処理に伴って、表面に付着する繊維質を分析したところ、「毛髄質(もうずいしつ)」に相当する構造が確認され、毛髪の可能性が高まった、とのことだ。
 藤ノ木古墳の説明パネルには、この筒形品の一部に繊維質が残っており、何かに括りつけていた、という解説がされている。これが、髪の毛であったというのだ。ということは、埋葬時に髪を巻いて括るようにつけていたのではないかと思われる。おそらく、きちんと固定できるように、紐のようなもので結んでいたのかもしれない。すると、この被葬者はきらびやかな多数の歩揺のついた髪飾りを着けた女性ということになろう。
 従来、二人めの被葬者の性別については、議論があったが、残存する足の骨から男性と判定されたこともあって、二人の被葬者を日本書紀の崇峻天皇紀のはじめに登場する、皇位継承者候補でありながら殺害された穴穂部皇子と宅部皇子とする説があった。
ただ男性二人がいっしょに埋葬されることには、いぶかる声もあったが、日本書紀の記述の「宅部皇子は、穴穗部皇子に善(うるは)し」との箇所の、善は、仲が良い、間柄がきちんと整っている意、とする岩波の注もあり、この箇所をとらえて、男性同士の二人は特別な関係であった、といった解釈をされる研究者もいた。しかし、残念ながらそうではなかった。
 男性であるとの鑑定結果に反論されていたのが、玉城一枝氏だ。氏は、二人の被葬者の間での異なる装飾品に注目された。女性と考えられる人物に手玉・足玉が着装されて、一方で美豆良飾りがないと指摘されている。人物埴輪の事例で説明され、説得力のあるものである(玉城2019)。ほかにも剣と刀子の問題など、男女の副葬品の違いを指摘しておられる。
 今回、用途不明であった金銅製筒形品に付着していたものが髪の毛の可能性が高いということで、藤ノ木古墳の被葬者はおそらくは夫婦の男女であったことから、新たな検討が必要となるのではないか。

藤ノ木古墳金銅製鞍金具後輪把手
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示の金銅製馬具の後輪(しずわ)

2.把手の付いた金銅製馬具は、女性用の可能性。

 藤ノ木古墳の石棺の外側の奥のすき間には馬具が置かれていた。その鞍金具の後輪の後ろ側には把手がついている。同様の資料が韓国慶州江南大塚北墳から出土して、女性の墓であることが判っているという。すると、把手がついているのは女性用であり、横すわりで把手を片手でつかんで乗るものであったようだ。ならば藤ノ木古墳のもう一人の被葬者のための女性用の馬具であったことになり、このことからもやはり女性が埋葬されていたことを示していると言えよう。
 また、鞍橋(くらぼね)の前輪と後輪が平行して居木(すわるところ)にほぼ直角に取りつく形態は、北方騎馬民族の鮮卑の鞍のスタイル(前園2006)であるという。

筒形銅器
 関西大学博物館展示筒形銅器

 藤ノ木古墳の豪華な副葬品の中にある金銅製冠が、西方文化と関係することが早くから指摘されてきた。馬具もしかりだが、筒形品も外来の関係でみることも必要であろう。藤ノ木古墳のものは、中央が狭まったいわば鼓型のものだが、形は異なるが用途不明の筒形銅器は、棒状の柄に装着したものといった解釈もされていた。だが、江上波夫氏は、軽いものは女の人が頭の上に立てた冠だと述べておられる(江上1990)。実際に、列島では70本を超え、半島でも70本近く出土している。
 藤ノ木古墳の場合は、頭頂部に横に寝かせて結びつけていたのであろうが、他の筒形銅器が女性の頭に立てて着けていたとは考えにくい。どうやって頭に固定したのかもわからないが、それでも下図のスキタイの王妃の服飾推定復元図が事実であれば、時代は離れるが頭飾りの可能性も検討が必要であろう。


アルタイ王妃頭飾り
 図はアルタイ・アルジャン1号墳(前8世紀前後)の王と王妃の服飾推定復元図 林俊雄「スキタイと匈奴 遊牧の文明」より
 
参考文献
玉城一枝「藤ノ木古墳の被葬者と装身具の性差をめぐって」大阪府立近つ飛鳥博物館図録46 など、ネットで閲覧可能。
日高慎「東国古墳時代の文化と交流」雄山閣2015
前園実知雄「斑鳩に眠る二人の貴公子 藤ノ木古墳」新泉社2006
江上波夫・佐原真「騎馬民族は来た?来ない」小学館1990 
田中晋作「筒形銅器と政権交代」学生社2009
林俊雄「スキタイと匈奴 遊牧の文明」講談社2017

蛇行石剣パネル付き
蛇行石剣
  写真は、群馬県渋川市北橘歴史資料館
  ガラスケースでの展示で、鮮明には撮れず。

 縄文時代後晩期のものと考えられる小さな形の石剣です。出土地は不明のようですが、群馬県前橋市箱田の木曽三柱神社の社宝としてまつられていたとのこと。
  全長30センチメートル、柄部長12センチメートル、柄部幅1.5センチメートル、刀身の厚さは0.8センチメートルを測ります。蛇のようにくねり、丁寧に磨かれています。黒光りして、黄色や緑色の模様のある蛇紋岩でつくられている。
 縄文人はこの石剣を作った目的はなんだったのであろうか。蛇行石剣ではないが、蛇形の杖を使って呪術を行っていたという民俗事例を紹介する。 

「蛇形の杖を以て寝室を打つ」   
 難産の場合に道士をよんで祈祷を頼むと、多数の道士が来て、三室に神を祀り、その中の一人は、蛇形に彫刻した長さ一尺ばかりの木の棒を持ち、呪文を高らかに唱えつつ、産婦の寝室の周囲を打ちつつ幾回となく歩き廻り、他の道士はその打つ調子に合わせて読経し、笛・太鼓・銅羅などではやし立て、出産を見るまでは幾何の時間を要しようとも、耳を聾せんばかりの音をつづけるのである。これは蛇が、その穴に出入りするのが非常になめらかで且つ自由自在になるにあやかって、胎児もそのように安楽に出産させようとするのである。(永尾1937)

 蛇が穴にスムーズに出入りすることにあやかってというのは、後付けの説明のように思えなくもないが、蛇が安産に関わるという点はあり得ることかもしれない。前に、蛇が神となった理由(こちら)に、へその緒が蛇に見立てられたと説明させていただいたが、この蛇形の杖が、無事に新たな生命が生まれるための祭器となるのであろうか。

蛇行剣(全州博物館・金城里古墳) (1)
  写真は全州市の国立博物館の副葬品 中央が蛇行剣
 
 時代は変わるが、古墳時代には、副葬品として鉄製の蛇行剣が見つかっている。話題になった奈良県の富雄丸山古墳からは、長さ2.3mのものが出土したが、他に70余りの古墳から出土している。実は韓半島にも4カ所の倭系古墳から出土しているという。
 では、蛇行剣が古墳に埋葬されたのはどういう意図によるものか。蛇形の杖は、安産を願うものであったが、それが古墳への副葬の場合は、再生を願うシンボルだったのではないか。人々は亡き人の生まれ変わり、再生を願って、この蛇行剣に託したと考えられないであろうか。

 日本書紀の仁徳即位前期には、弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が自殺をすると、仁徳となる大鷦鷯(おほさざき)が、胸を打ち泣き叫んで、髪を解き屍体にまたがって、「弟の皇子よ」と三度よばれた、するとにわかに生き返られた、という説話がある。もちろん史実ではないだろうが、死者に対して生き返りを願う行為が行われていたのだろう。そのための信仰の祭器として、生命の象徴のような蛇に見立てた剣が作られたのかもしれない。

遼東蛇行剣
 上図のような蛇に似せた剣は、大陸でも紀元前10世紀以上も前から作られていた。遼東に出現する遼寧式銅剣は、刃の形状だけでなく、柄の部分に蛇のペニスを表現するなど、様々な蛇剣が作られている。刃が蛇行する形のものもある。こういったものが、列島に継承されていったのだろう。

参考文献
永尾龍造「支那民俗誌第6巻」アジア学叢書大空社 1937
小林青樹「倭人の祭祀考古学」新泉社2017   
韓国の蛇行剣の写真は、松尾匡氏の撮影によるもの
遼寧式銅剣の図は「倭人の祭祀考古学」より

稲荷山古墳
  埼玉県稲荷山古墳復元礫郭 2015撮影 現在、礫郭はパネルになっているようです。

 杖刀人については『山陽公載記』の記述に従って「刀を杖つく人」とする説など、複数の解釈はあるが、いずれにしても杖刀人とは武官であって、大王に近侍する親衛隊、宮廷警備の武人といった解釈である。ここに、まったく異なる見解が早くに出されていることを知ったので、その紹介とその解釈から、銘文全体の意味をとらえなおしたい。(末尾に銘文を記載)


1.杖刀という霊剣を扱う呪術者

 田ノ井貞治氏は『杖刀人と典曹人』において、中国の戦国時代からある宗教の道教によって解明されようとされた。『令義解』の記述から杖刀人を杖刀を扱う人の意のことだという。『令義解・巻八・医疾令第二十四』に「呪禁(じゅごん)生は呪禁して解忤持禁(じきん)する之法を学べ」とあり、その謂に「持禁者は杖刀を持ち呪文を読み・・」とある。この杖刀は東大寺献物帳に、「御太刀壱佰口」が三つの櫃に分納され、第一の櫃には五十八口、第二は四十口、第三に杖刀二口とある。二口の杖刀だけが一つの櫃に大切に保管されていたとある。さらにこの二つの杖刀は鞘の装飾が立派であるが、刃渡りは鞘の長さの半分以下となっていることからも、武人の持つ刀ではないことがわかるという。
 また『令義解』には「凡医生・・・呪禁生は世習を取れ」とあり、鉄剣銘の「世々杖刀人首」が、代々世襲する意味を理解できる。道教では、「七祖父母、自然の生道、登仙南極宮」が、自分の祈願と並んで、七代前までの先祖の魂も救われるように祈願すれば南極宮(仙人の住むところ)に登り、永遠の命を得られるといった思想があり、これで、7人の祖先名を記した意図が明確になる。
 杖刀人である呪禁者は、病気を癒すだけでなく、戦争の勝ち負け、戦術に参画して功を為したので、誇らしげに「吾、天下を佐治す」と記したのである、とする。
 以上のようなことから、田ノ井氏は、杖刀を持って呪禁を唱える呪禁師で、雄略天皇の全国制覇を助けた人なる。獲○○鹵大王を雄略天皇とすることには従えないが、この杖刀人の『令義解』と道教を示しての解釈は納得できるものであり、ブログに引用された阿部周一氏や中村通敏氏と同じく賛意を表するものである。ちなみに、江田船山古墳の典曹人についても、「海運業に携わる人の親分」とされているのも考慮に値するものと考える。
 さらに、田ノ井氏は、道教が5世紀に列島に伝わったとするのは早すぎるのではといった意見については、渡来人の存在から、その可能性を論じておられる。この点を含め、以下に銘文の解釈に関してふれていきたい。
 
2.古代の刀剣信仰

 古代ユーラシアでは、金属器の武器の誕生とともに、刀剣を神剣・霊剣とする信仰がつくられ、武器そのものとともに広がっていった。
『魏書』巻一〇三高車伝には「埋羖羊燃火拔刀女巫祝說,似如中國祓除」とあり、女巫が刀を使って呪術を行っている。大林太良氏は「アルタイ系諸族のシャマニズムのなかに、・・・・戦神としての剣と関連を示す諸要素が現れている」とされる。注1 これは騎馬遊牧民の信仰なのである。
 神武紀においてタケミカヅチがタカクラジを介してイワレヒコに渡した韴霊(フツノミタマ)も霊剣の一種であろう。
また阿部周一氏の指摘だが、「武」の上表文には「歸崇天極」、「白刃交前、亦所不顧」とあり、これは「道教」を通じて「南朝皇帝」に対して臣従する意と、「北斗」を剣に書くとどんな敵にも負けないという「道教」にもとづく信仰のようなものの存在を示唆するとされている。注2 すなわち、杖刀人を道教との関連で捉えることは時期的に早すぎるものではないということであろう。
 群馬県金井東裏遺跡の火山噴火に立ち向かった甲を着た古墳人も、おそらく霊剣を持って呪禁を行った杖刀人と近い存在であったのかもしれない。この人物の所有と思われる鹿角製の装飾の付いた鉄矛と鉄鏃が出土しているのだが、どうであろうか。他に、霊剣と類するものに七支刀や四寅剣、蛇行剣などがあろう。七支刀は銘文の「百兵」を「辟」けることができるというのは、道教的禁呪を表しているとの指摘もある。

3.銘文の解釈に関して

⑴稲荷山と江田船山の銘文の共通点
 一般的解釈のワカタケルに対し、古田武彦氏は、至今獲 加多支鹵 というように、「今獲て」として、カタシロと読むとされる。ちょうど、形代、潟代で神霊の宿るところの意となり、王の名にふさわしいという。注3
 しかし、なぜ獲と加で分けるのか。来至という熟語があると説明されている。ただ一方で、「今に至る」は否定されてはおられない。また、今獲(えて)と動詞で読むのかの説明では、上位のものに信任を獲る、といった解釈なのだが、いささか無理があるように思える。
 既に指摘されていることだが、この稲荷山と江田船山双方の銘文には共通点が見られる。どちらにも「奉事」があり、「七月中」に対して「八月中」、「杖刀人」に対して「典曹人」、「百練」に対して「八十練」などよく似た語句が用いられている。これが両者の同時代性を推測させるとの指摘はもっともだ。他にも治(台)天下がある。また人名に「利」や「弖」が使われている。
 稲荷山の場合は獲は6カ所使われているが、そのうちの5カ所は人名であることは明白であろう。すると、大王の名にも獲が使われていてもおかしくない。この箇所だけ動詞として読むことの方が不自然ではないか。
 そうすると、獲加多支鹵大王と獲□□□鹵大王も共通との推測も可能だ。獲は人名を表す文字と考えるのが妥当であり、そうするとワカタシロ、となるであろうか。
 江田船山古墳鉄剣銘については、鈴木勉氏が、王権からの下賜刀ではなく、顕彰刀と主張されている。注4 実は東大寺宝物庫の100本の刀剣のうち、短い銘文が入ったものは2本だった。橿原考古学研究所保管の約300本の刀剣のX線調査では、1本も銘文は検出されなかったという。銘文入り刀剣が王権による下賜刀であるならば、もっと多くの銘剣が見つかってもいいはず。数が少ないことからも、銘剣が特殊な事例であり下賜刀とはできないであろう。すると、稲荷山の場合も顕彰刀として本人、もしくはその家族や周辺のものが作成させたとみることができる。
 
⑵百済との関係での検討
 犬養隆氏は『古代の文字文化』で、半島の銘文による指摘がある。百済の都が置かれた韓国の扶余・陵山里寺址出土の6世紀木簡 城下部対徳疎加鹵 とあり、官位と人名が記されているもので、「□城下部」は所属名、「対徳」は官位、「疎加鹵」は人名と考えられる。加・鹵という共通する文字が使われている。
 また伝加耶出土鉄刀銘では  ・・・不畏也□令此刀主富貴高遷財物多也 と、刀剣銘に吉祥句を記す点、象嵌の技法、書体に類似を指摘されている。
 さらに七支刀との類似も挙げている。「丙午正陽造百錬」という共通する表現がある。
 以上から、鉄剣銘には、七支刀がそうであるように渡来、特に百済との関係が見え隠れしている。なお、名を表す利も半島、特に百済に見られるものだ。また阿部周一氏は、百済から七支刀とともに「呪禁」を職掌とする立場の人物もやって来たとみておられる。

⑶杖刀人が呪禁師であるならば、佐治天下の意味も変わってくる。
 古田氏は佐治天下について、「中国の古典に用例を持つ慣用語とし、合わせて卑弥呼に対応する男弟の例から、天子、もしくは王が幼少、もしくは女性などの時、これに代わって、その国家の統治行為を行う」注5、との意味とされる。また「卑弥呼はいわば宗教的な巫女、これに対し、倭国の実際の行政をやっていたのは、『男弟』の方、佐治というのは実質上の行政権者」とも書かれている。
 しかし、杖刀人が宗教的な役割を果たす人物であるならば、統治行為とは考えにくい。実は「治」には、祭る、斎き祭る、という解釈もある。するとここは、大王の統治行為に対して祭りをして助けた、といった意味になるのではないか。あくまで私案だが、〇〇大王の世のシキの宮の時に、杖刀人首として天下の平定に呪術の力で尽力したので、(これを顕彰して、とっておきの)剣を作らせた、といった内容と考えたい。

注1. 大林太良・吉田敦彦「剣の神・剣の英雄」法政大学出版局 1981
注2. 阿部周一「『杖刀人』と『呪禁』」ブログ古田史学とMe
注3. 古田武彦「盗まれた神話」p81 古代史コレクション3
注4. 鈴木勉「線刻鉄刀と象嵌技術」(文化財と技術9号)工芸文化研究所2019
注5. 古田武彦「古代は輝いていたⅡ」p273古代史コレクション20

◆稲荷山古墳鉄剣銘文と江田船山古墳鉄剣の銘文と一般的な読解。
表) 辛亥年七月中記 乎獲居臣 上祖名意富比垝 其児多加利足尼 其児名弖已加利獲居 其児名多加披次獲居 其児名多沙鬼獲居 其児名半弖比
(裏) 其児名加差披余 其児名乎獲居臣 世々為杖刀人首 奉事来至今獲加多支鹵大王寺 在斯鬼宮時 吾左治天下令作此百練利刀 記吾奉事根原也
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。」
「其の児、名はカサヒヨ(カサハラ)。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(『カク、ワク』+『カ、クワ』+『タ』+『ケ、キ、シ』+『ル、ロ』)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。」   以上ウキペディア
乎獲居臣の臣については巨でコとし、ヲワケコとの解読もある。
 次に江田船山古墳鉄剣銘文 
台(治)天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖  八月中用大鐵釜并四尺廷刀八十練(九)十振三寸上好(刊)刀  服此刀者長壽子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太(和)書者張安也

参考文献
古田武彦「古代史コレクション2.20.28」その他
江上波夫「騎馬民族による征服説」(騎馬文化と古代イノベーション)KDOKAWA2016
白石太一郎「日本列島の騎馬文化はどのようにして始まったのか」(騎馬文化と古代イノベーション)同上
犬養隆「古代の文字文化」竹林舎2017
井上秀雄氏「実証古代朝鮮」日本放送出版協会, 19923
小嶋篤「象嵌大刀と刀装具の世界」九州国立博物館アジア文化交流センター研究論集 ; 第2集 2021
日高慎「埴輪の世界―畿内との共通性と東国の独自性」(はにわの世界)茨城県立歴史館2013
田ノ井貞治氏『杖刀人と典曹人』東アジアの古代文化を考える会同人誌分科会, 1999-08
末永雅雄「日本上代の武器」弘文堂 昭和16
大林太良・吉田敦彦「剣の神・剣の英雄」法政大学出版局 1981
吉田修太朗「稲荷山鉄剣の銘文に関する一考察」埼玉県立史跡の博物館紀要第16号 2023
濱田耕策「朝鮮古代史料研究」吉川弘文館 2013
管浩然「『古事記』国譲り神話「治」について」上代学論叢 和泉書店 2019

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