流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 記紀説話の外来要素

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 垂仁天皇は田道間守(タヂマモリ)を常世(とこよ)の国に遣わし,非時香菓(ときじくのかくのみ)を求めさせた。しかし、手に入れて戻った時には天皇は亡くなっていた。田道間守は泣き叫んでその場で命を絶ったという。そしてこの非時香菓は古事記、日本書紀とも今の橘であると記している。しかし小学館の古事記の注釈にも、タチバナは古くは柑橘系の総称だが、これが現在の何にあたるかは未詳とされる。魏志倭人伝に記されている橘も今と同じものかどうかはわからない。現在の橘は酸味が強く食用ではない。これが他の食することができる種類の柑橘系や果物類だとしても、はるか遠方からだと持ち帰るのは無理であろう。では古事記や日本書紀の記述に対応できる非時香菓はどのようなものか、以下に論じたい。
 記紀の該当する箇所の原文は最下段に記す。

【1】記紀にある田道間守の説話
 古事記では彼は常世国に到っている(遂到其國)ことから、実際に存在した地域であったと考えられる。縵八縵(かげやかげ)、矛八矛(ほこやほこ)は書紀では八竿八縵と前後入れ替わっているが、同じ意味であろう。天皇と大后に半分にして献じているが、この箇所については後でふれたい。
 タジマモリは天皇の墓の前で泣き叫んで殉死している。書紀も同様の記述がされ、さらに古事記では大后の時に、石祝作(いわきつくり)が墓室づくりの役で、土師部が祭祀用の器物受け持つもので、葬送の儀礼を行う部民を定めたとすることからも、この橘は葬送儀礼に関係していると考えられる。

 古事記の「登岐士玖能迦玖能木實」は日本書紀では「非時香菓」と記されている。その漢字が、意味を示す文字をしめしているかどうかはわからないが、非時は時を定めない、常時あるものの意。これを年中絶え間なく実ができる木と考えることはないであろう。葉が落葉しないものは多くあるが、これは保存可能な木の実ととらえていいであろうか。香菓はその漢字から香りの良いものと思ってしまうが、この場合の訓みの「カク」は古事記の注では輝くさまを表すのだという。小学館の書紀注では黄金色に輝いていることとする。太陽光線で照り返すようなものは考えにくいが、黄金色なら候補はあるであろう。この点についても後述する。
 田道間守は、泣きながら、常世の国がはるか遠くの地で、人がとても容易にたどり着けないところだと語っている。古事記と違って書紀は常世国の特徴をくわしく記述しており、その場所をおおよそ推測できそうである。漢籍の転用も考えられたが、『書紀集解』には関連するような漢籍の例文はあっても直接引用されたものは認められず、何らかの伝承を漢文にしたのではないかと思われる。田道間守は天命を受けて、「遠往絶域、萬里蹈浪、遙度弱水」とてつもない遠方で、弱水を渡るとある。その弱水については検索すると多数の用例が見られる。

【3】中国の古典に多数見られる弱水
『晋書』列伝には「跨弱水以建基」とある。ここでは跨ぐとあるので、弱水は河のことであろう。
『旧唐書』列伝第五十四は「娑夷河,即古之弱水也」とあって、娑夷河がかっての弱水であったとしていることからも河川名であろう。そしてその場所を表した記事もある。(注1)
『三国史』魏書の注釈には「弱水在條支西、今弱水在大秦西」
『漢書』西域傳では「安息長老傳聞條支有弱水」 この條支は西アジアあたりの国と考えられるので、弱水は中国からはるか西方の河と考えられる。
『史記』大宛列伝「或云其國西有弱水、流沙,近西王母處,幾於日所入也」中国からは日の入る所とされるはるか西方にあって、しかも、流沙は砂漠地帯のことであり、そこを流れる河が弱水で間違いないであろう。
『漢書』金城郡「西有須抵池,有弱水、昆侖山祠」 さらに
『漢書』西域傳「昆侖之東有弱水」とあることから、昆侖は伝説上の山とされる。書紀では神仙のかくれた国と記しており、神仙思想の表現も取り入れられていることから、書紀の弱水と同じものと考えられる
 すなわち漢籍に見られる弱水は、河の固有名詞であり、日本書紀はその弱水を渡っている。それがはるか西方の地であることから、西王母や神仙思想とも関連付けられたと考えられる。
 なお漢書司馬相如伝下の顔師古注に「弱水ハ西域ノ絶遠ノ水ヲ謂ウ毛車ニ乗リテ渡ルノミ」とある。ここに「毛車」が登場するが、唐の時代までの漢籍にはほかには見当たらない。私はこの「毛車」を、砂漠を渡るのに欠かせないラクダのことではないかと考えた。帰国の際の峻瀾(高き波)は当然海を渡って帰ったことを示している。
 天皇がわざわざ使いを出して求めたということは、近隣にはない珍しいものとなろう。さらに王が所望するものは不老不死につながる場合が多い。またそれは美味なものとも考えられる。以上から探し求めた非時香菓は、はるか西方の砂漠地帯の樹木の育っている地域、すなわちオアシスにあるものではなかろうか。そこに育つ代表的なものがナツメヤシであり、その実をデーツという。
 
【4】最古の栽培植物、そして聖樹であるナツメヤシとその実のデーツ 
 北アフリカからペルシャ湾岸地域で生育する常緑で高木のヤシ科植物である。メソポタミアでは紀元前6000年頃より栽培がされたようだ。今でも砂漠の中のオアシスで青々と茂っている。単茎で通常基部以外では分枝はせず、葉の全体の形は羽に似た形状である。人工授粉で栽培を行っており果実は多数が房状に結実する。この果実はデーツと呼ばれ、ビタミンや糖分を多く含み、黒糖のような甘味がありそのまま食べたり、料理や加工して菓子としても利用されている。干した実は保存がきき、遊牧民やオアシスで暮らす人々にとって欠かせない食料となる。
 健康食品に関心のある人以外には、日本人にあまりなじみのないものだが、実はオタフクのお好み焼きソースなどに早くから使われているようだ。さらに薬効としても期待された。果実から蜜を取って酒もつくる。樹幹は建材になり、葉は籠やむしろ、編み籠、マット状の敷物や屋根を葺く材料にもなる。さらに団扇や箒にもなる。
 栄養価の面で優れている。銅・鉄・亜鉛などの栄養素は貧血予防や抗酸化作用も期待できる。さらに甘みがあっても血糖値の上昇度合も低いようだ。マグネシウムや食物繊維も豊富で、古代においても大変貴重な木の実であった。この特徴から、王が美味で不老不死の食べ物と考えて求めさせたのは無理もないことなのだ。しかも熱帯地域以外では育たないから、近隣に求めることはできなかった。
 デーツは保存がきき、生で食べられることから遊牧民やオアシスの人々の欠かせない食料源であったことから、非時がいつもあることとつながるのである。香実はかくのみで、香りではなく輝く実という意味と解釈されている。デーツは熟せば飴色、まさに輝くような黄金色になるのである。シュロ 植木市場の写真
 よく混同される棕櫚(シュロ)はミャンマーや中国中央部にみられるヤシ科シュロ属のヤシであり、耐寒性がある。これが日本では棕櫚という用語でヤシ科全般を指す用語になってしまっている。聖書に出てくる樹木を本当はナツメヤシところを棕櫚と訳出してしまったことも混同の一因とされるが、あくまでキリストと関係するのはナツメヤシである。パルメット文様の元もこのナツメヤシと考えられている。

【5】八竿八縵の意味
 さて、解釈の定まっていない八竿(ほこ)八縵(かげ)、古事記は逆で縵八縵・矛八矛である。小学館の注釈では、竿は串刺しにしたものの助数詞、縵は葉のついたままのものの助数詞とある。だが岩波の注では縵は干し柿のようにいくつかの橘を縄に取り付けた形状とされる。以上の説明ではわかりにくいがオタフクデーツの様子、これもナツメヤシに実るデーツの状態を見れば理解は可能である。一本の軸から枝分かれして紡錘状にたっぷりの実がついている。その一本に実が連なるような状態は、干し柿をつるしているかのようだ。また軸から離して乾燥したものを袋に詰めた状態も考えられる。みたらし団子のように串に刺した可能性もある。
 どちらが竿か縵かわわからないが、これは商品売買の際の単位といったものではないだろうか。シルクロードの商人たちのデーツ販売形態を表現したものと考えたい。古事記では大妃に四縵・矛四矛を分けたというのも、これで理解しやすくなろう。

【6】はるか古代から聖樹とされたナツメヤシ
 現代でも、ムスリムの慣習として、赤ん坊が最初に口にするものであり、また断食明けの食べ物としてこのデーツが使われる。アヌビス神古代よりナツメヤシは人々の信仰、儀礼と結びついている。
 枯死した葉の落ちたところから新しい葉が出てくるナツメヤシは、不老の象徴であった。エジプトでは葬儀の際にはナツメヤシの葉を携えて行列し、ミイラやそれを納めた棺の上に置いたという(注2)。ギリシャ神話では、太陽神アポロンは、デロス島のナツメヤシの元で生まれ、その木がアポロンにささげられて聖樹となった。古代ローマでは、死者を冥界に送る儀式を司る神アヌビスは、1世紀のローマのイシス神殿の祭壇浮彫に、左手に壺とともにナツメヤシの葉を手にしているところが描かれている。
 また、ティグラネ墳墓璧の厨子の図像には、女神がナツメヤシを両手に持ってかざすものがあり、これは死者を守護していることを意味している。ミイラ守護初期キリスト教会は、キリスト教徒が迫害された際の、死に対する勝利の象徴とした。絵画の中で殉教者の持ち物として、またイエスの洗礼の背後にナツメヤシが描かれている。    
 以上の内容は、聖樹であるナツメヤシを持ち帰った田道間守が垂仁天皇の後を追って殉死することと符合する。ナツメヤシの葉をかざして死者を守護する構図ともなるのではないか。さらには古事記にある、石棺や石室を造る石祝作、埴輪や祭器を作る土師部を定めたという記事も葬送儀礼の点でも重なるのである。

【7】デーツと類似点のあるナツメ
 よく混同されるものにナツメ(クロウメモドキ科、落葉高木)がある。地中海沿岸から中国まで見られ、乾果は生食できる点などナツメヤシとの共通点も多い。中国、朝鮮では古来、冠婚や正月に欠かせないものであった。奈文研ブログに「ナツメのはなし」が掲載されているが、漢方薬としても使われ、神仙とも結びついていたという。九州糸島の平原古墳でも出土している方格規矩四神鏡や三角縁神獣鏡の銘文にこの棗(なつめ)が見られる。「尚方作竟眞大巧 上有仙人不知老 渴飲玉泉飢食棗」(上に仙人ありて老を知らず、渇えば玉泉を飲み、飢えばなつめを食し)
 また、平城京の長屋王邸跡からも棗と書かれた木簡が出ている。中国では一日一粒で百歳まで老いないと考えられたので、長屋王も棗を所望したのであろうか。ナツメヤシのあるオアシスが神仙の地と考えられたことと類似する。
  
まとめ
 日本書紀の記述から非時香菓は、中国のはるか西方の弱水の地を渡った砂漠の中のオアシスに生息するナツメヤシと考えられる。保存が出来て栄養もある木の実のデーツが、王が求めたものとしてふさわしいものであろう。さらに葬送儀礼と殉教に関わる聖樹信仰の点でも、殉死後もナツメヤシを持って天皇の墓を守護する田道間守の説話の構図と重なるのである。
 田道間守が実際に砂漠のオアシスに行ったとは考えにくい。おそらくは西方で語られた説話がシルクロードの民を経て氏族の祖先譚として記紀に取り入れられたと考えられる。書紀も古事記も橘と記しているのは気になる問題であり、古代の地名や人名などの点から検討していきたい。
 なお、田道間守はお菓子の神様として祀られているが、甘みがあってお菓子の材料となるデーツと関係するならば、あながち無関係とはいえないかもしれない。
    

注1.「オクサスの南北」というブログに弱水を娑夷河とするなど、田道間守と関連させて論じられる記事がある。
注2.ここで関係するのが天若日子の葬儀の行列である。河雁をきさり持ちとし、鷺を掃持(ははきもち)とし、・・・  とある。この掃持は箒を持つのである。その箒は葉で作られたものであるが、元はナツメヤシの葉からきていると考えられる。現在でも西アジア方面ではナツメヤシの葉が箒として使われている。ちなみにナツメヤシの葉はホウスという名で呼ばれている。

【古事記垂仁記原文】
天皇、以三宅連等之祖・名多遲摩毛理、遣常世國、令求登岐士玖能迦玖能木實。自登下八字以音。故、多遲摩毛理、遂到其國、採其木實、以縵八縵・矛八矛、將來之間、天皇既崩。爾多遲摩毛理、分縵四縵・矛四矛、獻于大后、以縵四縵・矛四矛、獻置天皇之御陵戸而、擎其木實、叫哭以白「常世國之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍。」遂叫哭死也。其登岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也。

【日本書紀垂仁紀原文】
九十年春二月庚子朔、天皇命田道間守、遣常世國、令求非時香菓。香菓、此云箇倶能未。今謂橘是也。
九十九年秋七月戊午朔、天皇崩於纏向宮、時年百卌歲。冬十二月癸卯朔壬子、葬於菅原伏見陵。
明年春三月辛未朔壬午、田道間守至自常世國、則齎物也、非時香菓八竿八縵焉。田道間守、於是、泣悲歎之曰「受命天朝、遠往絶域、萬里蹈浪、遙度弱水。是常世國、則神仙祕區、俗非所臻。是以、往來之間、自經十年、豈期、獨凌峻瀾、更向本土乎。然、頼聖帝之神靈、僅得還來。今天皇既崩、不得復命、臣雖生之、亦何益矣。」乃向天皇之陵、叫哭而自死之、群臣聞皆流淚也。田道間守、是三宅連之始祖也。

参考文献
前田 龍彦「ナツメヤシの図像と意味」金沢大学考古学紀要巻 25ページ 64-73発行年 2000-12-25 ネット掲載
甘粛人民出版社「シルクロードの伝説」濱田英作訳 サイマル出版会 1994
岡田温司監修「聖書と神話の象徴図鑑」ナツメ出版 2011
遠山茂樹「歴史の中の植物」八坂書房 2019 
石山俊・綱田浩志「ナツメヤシ アラブのなりわい生態系2」臨川書店 2013
中村修也「田道間守と非時香菓伝説新考」文教大学 言語と文化 題27号 ネット掲載
北村泰一「タクラマカン砂漠の幻の海」(「タクラマカン砂漠の幻の海」古田史学HP)
韓永大「古代韓国のギリシャ渦文と月支国」明石書店 2014     
由水常雄「ローマ文化王国-新羅」新潮社2001

ナツメヤシの写真は、Zeynel Cebeci氏のDate tree - Phoenix sp..jpg (クリエイティブ・コモンズ
シュロの写真は、植木市場様のHPより
アヌビスとミイラ守護の図は前田 龍彦「ナツメヤシの図像と意味」より。

※本稿の初出は2022年10月6日に豊中研究会にて発表、古田史学会報№173掲載のものを一部改定したものです。ブログ掲載後、修正し改めて投稿しました。

シュメル神話
 大いなる女神(左)に拝謁する若い植物女神(右) 山型の椅子に座るニンフルサグ女神は両肩から植物が芽生え、手に穀物の穂を持つ。(円筒印章印影図 アッカド王朝時代BC2334~2154)

 シュメル神話について書かれた『シュメル神話の世界』には、日本の神話との類似が見られる。既に指摘されているものもあるが、いくつか紹介したい。

1.『エンキ神とニンフルサグ女神』 シュメルの「楽園神話」

 大地・豊饒の女神であるニンフルサグ女神が病めるエンキ神(深淵・知恵の神)の治療を行うのだが、病んだ各々の患部から神が生み出される。その部位と生み出された神の名の一部が、しゃれ、すなわち語呂合わせになっているのである。

頭頂部(ウグ・ディリム)→アブ神
毛髪(パシキ)     →ニシンキラ神
鼻(キリ)       →ニンキリウトゥ女神
口(カ)        →ニンカシ女神
喉(ズィ)       →ナズィ女神
四肢(ア)       →アジムア女神
肋骨(ティ)      →ニンティ女神
脇腹(ザク)      →エンザク神
 
 頭部のウグとアブで韻を踏んでいるのかわかりにくいが、これは日本語表記に変換するために少し似ていないようになるのかしれないが、他はみな合っているといえる。筆者はシュメル人の遊び感覚とされているが、いつの時代にもこういった駄洒落を楽しむことが行われていたということであり、それが神話の制作過程で折り込まれているのも興味深い。
 実は日本の神話でも同じようなケースで、語呂合わせと考えられるものが指摘されているものがある。それが、保食神の穀物、魚類、動物の生成譚となる神話である。月夜見尊(つくよみのみこと)は、天照大神に命じられて保食神のもとを訪れる。保食神はおもてなしにと、食べ物などを用意するのだが、その食べ物を口から出す様子を見て、汚らわしいと月夜見尊はその場で剣で撃ち殺してしまう。それを知った天照は怒って、月夜見尊とは会わないと宣言する。これが太陽と月が離れて住むようになったという原因譚であるが、その後に天照は、使いの者に保食神の様子を見に行かせると、死体各部から穀物などが生えていたというのである。

 「保食神實已死矣、唯有其神之頂化爲牛馬、顱上生粟、眉上生蠒、眼中生稗、腹中生稻、陰生麥及大小豆。」
 (その神の頭に牛馬が生まれ、額の上に粟が生まれ、眉の上に蚕が生まれ、眼の中に稗が生じ、腹の中に稲が生じ、陰部に麦と大豆・小豆が生じていた。)

 岩波注には、「これらの生る場所と生る物との間には、朝鮮語ではじめて解ける対応がある。以下朝鮮語をローマ字で書くと、頭(mɐrɐ)と馬(mɐr)、顱(chɐ)と粟(cho)、眼(nun)と稗(nui)、腹(pɐi古形はpɐri)と稲(pyö)、女陰(pöti)と小豆(p`ɐt)とである。これは古事記の場合には認められない点で、書紀編者の中に、朝鮮語の分かる人がいて、人体の場所と生る物とを結びつけたものと思われる(金沢庄三郎・田蒙秀氏の研究)」とある。シュメル神話の場合は神の名前の一部を対応させているのだが、遊び心の語呂合わせという点で共通しているといえる。

2.清張も注目した日本書紀にある朝鮮語の語呂合わせ
 
 松本清張氏は『古代史疑』の「スサノヲ追放」の所で、書紀の朝鮮語の問題でこの箇所を取り上げている。そこで清張氏は、上記の注の説明のところで、次のように指摘されている。「朝鮮語の分かる人がいた、という以て回った言い方よりも、朝鮮人じたいがいた、というべきだろう。『記・紀』の編纂には、漢字のわかる朝鮮渡来人がかなり関与していたのである。」おっしゃるとおりである。
 古墳の渡来系遺物の説明でも、実に持って回った言い方、すなわち、半島と交流のある人物が受容したものといったお決まりの説明が繰り返されていることを、以前から指摘している。ただ、清張氏は、朝鮮人の関与した資料が各豪族の記録の作成に挿入されて、それらが後に、日本人文官が朝鮮語の意味が分からずに、或いは分かっていても、そのまま使ったのであろうとされているが、私見では、書紀や古事記の編者には、渡来人やその末裔が直接かかわっていると考えている。
 なお、ご存知の方も多いであろうが、清張氏にはこの保食神をプロットに、古代史マニアも登場する推理小説『火神被殺』がある。

 一方で、この保食神の語呂合わせについては、岩波注では、古事記には認められない、とされている。だがどうであろうか。古事記の場合は保食神ではなく大氣津比賣(おほげつひめ)が口や尻から食物を取り出すので、これも書紀の月夜見尊と違って、スサノオが汚らわしいと殺してしまう。
 「所殺神於身生物者、於頭生蠶、於二目生稻種、於二耳生粟、於鼻生小豆、於陰生麥、於尻生大豆。」
(殺された神の体から生まれ出たものは、頭に蚕が生まれ、二つの目に稲の種が生まれ、二つの耳に粟が生まれ、鼻に小豆が生まれ、陰部に麦が生まれ、尻に大豆が生まれた)
 ここには、たしかに語呂合わせは見られないようだが、書記の場合と比べて部位も生じるものも少し異なっている。
 なぜこのような組み合わせなのか、なんらかのこだわりがあったのか、朝鮮語以外の言葉の可能性も含めて解明できたらおもしろいのだが。

 ところが古事記には、動物と土地の神の語呂合わせで物語がつくられたとの指摘がある。神武記の熊野山の神は熊に「化」り、景行記の足柄坂の神は鹿に「化」り、同じく景行記の伊服岐能山の神は猪に「化」るのが、熊野のクマ、足柄のシカ、伊服岐能山のイ(ヰ)という音通の語呂合わせによって生まれた動物だという。  
 熊、鹿、猪という格好の野獣を登場させるための、格好の音通の地名と考えざるを得ないとのことだ。(川副1981)

 そうであるならば、記紀の説話には遊び心たっぷりの語呂合わせや、なんらかの仕掛けがある逸話がまだまだありそうである。

参考文献
岡田明子・小林登志子「シュメル神話の世界」中央公論新社2008
松本清張「古代史疑」文芸春秋1974
川副 武胤 「古事記の研究」至文堂1981
図 「シュメル神話の世界」より

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2.スサノオから試練を受けるオホナムヂ(大国主)
  オホナムヂが大国主神として成長する物語について、次のような解説がある。「蛇やムカデ、蜂の室に入れられ、さらに野火攻めに遭う話は、成年式儀礼として若者に課せられる苦難と試練とを、神話的に語ったもの」(古事記講談社文庫解説)とされる。そうしてスサノオの神宝を手に入れて、祭祀王の資格が認められ、葦原中国の首長としての大国主神として新生する。
 ほんとうにこのような儀礼があったのかと思ってしまうが、それよりも試練を受けることになるのが話の進行からして、やや唐突に思えるのである。兄弟の神々に恨まれてオホナムヂは二度も殺されては蘇生されて息を吹き返すも、さらに追手がせまったのでスサノオのいる根の国に避難するのである。そこで娘のスセリビメはたちまち気に入るのだが、命からがら逃げてきたオホナムヂに、スサノオは、何の説明もなくすぐに蛇の室に入れるのである。次にムカデ、蜂の室に入れ、さらには、野火に囲まれてあわや焼死しそうになる。何か、この一節ははめ込まれた感じがするのである。
 実は『魔笛』にも王子タミーノがザラストロから、沈黙の試練を受け、さらにパミーナといっしょに火と水の試練を受ける場面がある。ザラストロは、「われらの試練の神殿へ案内せよ」と命じるが、オホナムヂが入るのは室なのである。次に野火に攻められるのだが、スセリビメは野火に囲まれたオホナムヂを死んでしまったと早合点して、葬式の用具を持って泣く場面がある。
 パミーナも、王子のタミーノが沈黙の試練の最中であることを知らずに、声をかけても返事がないことから、自分はタミーノに捨てられたと絶望する場面がある。
 最後に、試練を乗り切ったオホナムヂはスサノオの神宝を持って、スセリビメと一緒に逃げていく。するとスサノオは彼らに、「太い宮柱で空高くそびえる千木の宮殿に住め」と言うのだった。
 一方、ザラストロは試練を乗り越えた二人に「試練に勝った、さあ神殿に入るがよい」と言っているのだ。
 このように古事記のオホナムヂが唐突に試練を与えられるのも、似たような話が取り入れられたからだと考えればよいのではないか。

3.『魔笛』と古事記に共通のプロットがある理由
『魔笛』と日本とには不思議な関係がある。『魔笛』の物語の冒頭で登場するタミーノは、「日本の狩りの衣装」(japonischen jagdkleid)をまとっているのである。しかも彼は、すぐに蛇に襲われてしまい、そこを三女神が救う。どこまで似ているのかと思ってしまうが、この日本の衣装というのは自分の楽屋の衣裳部屋に、日本の狩衣と呼ばれたようなものがあったので舞台に用いたとの説明がある。当時のヨーロッパでは日本の浮世絵などとともに、着物も好まれて「ヤポン」と言われていたようだ。フェルメールも着物を羽織った人物を描いている。着物の類いが楽屋にあったのかもしれない。だがいっしょに古事記の話が伝えられたかどうかは定かではない。
 『魔笛』との相似から古事記が参考にされたとは考えにくいが、その逆はどうであろうか。だが『魔笛』の物語そのものも、シカネーダーが参考にしたとされる種本がいくつも指摘されている。ところがそれらの物語のプロットも古来からの伝承や、宗教的な説話を参考にして作られたと思われる。その参考にした古来の物語のプロットが東方へも伝承され、古事記にも使われたと考えられるのではないか。そこにはギリシャ神話やゾロアスター教の教義などの要素も考えられるだろう。タケミカヅチの『ベーオウルフ』も同じような事情であろう。
 魔笛には認められないのだが、古事記のサホビメの一節に次のような表現がある。城に籠ったサホビメを引っ張り出そうとするのだが、「爾握其御髮者、御髮自落」 髪をつかむとその髪が自然に落ちたという。これはカツラのことではないかという指摘がある。ユーラシアでは早くから使われていたようだが、日本ではどうであろうか。これも外来の説話のアイデアを利用したものかもしれない。
 『魔笛』と相似形の古事記の説話には共通する大陸由来のプロットが関係していると思われるが、それがどうして日本にまでやって来たのか。この垂仁記には、田道間守が非時香菓(ときじくのかくのみ)を求める説話があり、私はその話のプロットもシルクロードにあったものと考え、他にも山口博氏の指摘されたスサノオに関わる北方騎馬民族の習俗との一致などを説明しているが、こういった様々な物語が大陸で収集され伝播する担い手が存在することや、またサホ兄妹が最近親婚(父母と子、兄妹など、より近しいものどおしの通婚)の関係であると考えられること、さらにサホは薩保(キャラバンのリーダー)に由来するといわれていることから、それはソグド人との関係を示していると考えている。東アジアのみならず日本にも彼らがやってきて、記紀の編纂にも関わったのではないかという可能性を今後も検討していきたい。
 
参考文献
新井秀直『魔笛 モーツァルト』音楽之友社 2000 
クルトホノルカ『「魔笛」とウイーン 西原稔訳 平凡社1991
『古事記』全訳注 次田真幸 講談社1977     

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 モーツァルト晩年の傑作オペラである『魔笛』(初演1791年)は、楽曲そのものの評価とは別にその物語には矛盾があるとか、善悪が途中で逆転するといった批評がある。なんでも作者のシカネーダーとモーツァルトは共にフリーメーソンに加入しており、その教義が筋書きに使われたとか、登場人物のザラストロの名前がゾロアスター教と関係しているとかも言われている。だがそれ以上に、私には気になることがある。それは、物語の要所要所に日本の古事記の説話となにやら似たようなものを感じるのである。気づいた範囲でその箇所を書き出してみたい。

1.古事記のサホビコ(沙本毘古)とサホビメ(沙本毘売)の説話
 垂仁天皇記には、后のサホビメと兄のサホビコの兄妹が図って天皇殺害を目論むが失敗に終わり、城に逃げ込んで抗戦するも、二人とも亡くなり子のホムチワケ(本牟智和気御子)だけ救い出される説話がある。日本書紀にも同様の内容をさらに詳しくした記事がある。
 『魔笛』では、王子タミーノが神殿に仕える大祭司のザラストロから試練を与えられるも無事に乗り切り、夜の女王の娘パミーナと結ばれることになる。そのパミーナは夜の女王からザラストロの殺害を命じられるが、はたせず悩んだ挙句、相手のザラストロに白状してしまう。実はザラストロが善人で夜の女王が悪役だったのであるが、実母である夜の女王が娘のパミーナに、「お前は彼を殺し偉大な太陽の環をその手に戻すのです」と言う。
 一方の古事記では兄であるサホビコは妹のサホビメに、「お前が私を愛するのなら、二人で天下を治めよう」と天皇殺害を命じる。これは殺害動機に「太陽の環」の奪取、「天皇の代わりに二人で天下を治める」という大義名分、動機を語っているのではないか。
 次に、夜の女王は娘に「お前がザラストロに死の苦しみを与えないならば、もう親でもなければ子でもない」と決断を迫って、短刀を渡すのである。有名なアリアの歌われるシーンである。またその短刀について、夜の女王は「ここに短刀がある。これはザラストロのために研がれたもの」と特別にこしらえた刀物であると語っている。
 サホビコの方は、妹に「夫(垂仁天皇)と兄のどちらを愛しているのか」とせまり、紐小刀を渡している。原文では「八塩折(ヤシホオリ)の紐小刀」で、何度も繰り返して打ち鍛えたという意味であり、この場合も特別に作られたものだと説明しているのである。
 だが、殺害計画は未遂でおわる。パミーナは悩んだ末に、ザラストロに母から殺害を命じられたことを告白する。するとザラストロは「罪はあの女にある。お前の母親は自らを恥じて自分の城に引き返すことになるだろう」といってパミーナについては許そうとしたのである。
 サホビメも、天皇を殺めることなどできずに、天皇に気づかれて、すべてを白状してしまう。天皇は討伐軍を出すが、サホビコは稲城を作ってそこに入って戦うことになり、サホビメも城に入るが、天皇は最後まで后であるサホビメを城から救出しようとしたのであるが失敗して子供を残して二人は絶命する。
 相手が城に逃げるところと、殺害に失敗したパミーナとサホビメはともに許されるところも共通だ。
 以上のように、近親のものが殺害を命じる、そこに大義名分を語り、その際に脅すように相手を従わせ、特別に準備した小刀を用意する。だが未遂に終わり、相手に白状してしまうが、その罪は許し、首謀者の方は城に逃げる。酷似しているとまでは言い切れないが、それにしても似たようなプロットである。しかし、この相似形は、別の説話にも見受けられる。それは大国主の話だ。(つづく)

3.英雄叙事詩『ベーオウルフ』と古事記の国譲り譚
 多ケ谷氏によると、『古事記』国譲り譚では、①外来の英雄神(タケミカヅチ)が②土地の神(タケミナカタ)と③素手の闘い(力競べ)をして、④土地の神の手に損傷を与え(一説では手を抜き取り)、⑤そのため土地の神は湖へ逃げるが、⑥英雄神は湖へ追いつめ、⑦国譲りを承諾させ支配権を得る。
 一方『ベーオウルフ』では、①外来の英雄(ベーオウルフ)が、②在地の妖怪(グレンデル)と③素手で闘い、④妖怪の腕をもぎ取り、⑤妖怪は自らの巣である湖(沼)へ逃げる。⑥英雄は湖へ遠征し、⑦妖怪の眷属を退治し、城の支配権を奪還する。このように、両者は大まかな筋で一致するという。
 ただここには、「渡辺綱伝説」にある、鬼による「片腕の取り戻し」のモチーフはない。しかしこれも、諏訪湖(の地)の領有(権)を得ることを、失われた手(腕)の代償と考えれば、『ベーオウルフ』にある腕の「取り戻し」に対応するモチーフがある、とされる。そして、先の疑問点に関するところでは、タケミカヅチが素手で戦うことになったというところも、同じようにベーオウルフも剣を使わずに戦っているのである。
 
4.素手で戦うことを宣言するベーオウルフ
 ベーオウルフは素手で戦うことを繰り返し言及している。
「また、聞き及びまするには、かの妖怪は、向こう見ずにも武器を用いるのを好まぬとのこと。・・・敵と真向から組み合い、不倶戴天の仇同士、命を賭して戦わねばなりませぬ。」
「それがしは、武勇にかけてはグレンデルよりいささかなりとも劣るとはおもわぬ。それ故、それがしにはいとたやすきわざとはいえ、彼奴を剣もて斃し、命を奪うつもりはない。・・・もしも彼奴が敢て武器を用いずして闘いを求めるならば、われらは互いに夜中剣を用いるのを控えて相見まみえねばならず」
 このように自分は剣を使えば勝つことはわかっているが、妖怪が武器の使用を用いずに闘いを求めてきたら、自分も剣を使わずに闘うと宣言しているのだ。タケミナカタは「何をひそひそ話をしている、俺と力比べをしよう、あなたの手をつかんでみよう」と威勢よく素手で勝負すると言ってきたのだ。だからタケミカヅチは、腕を剣に変えたものの、相手を怯ませはしたが、その腕を元に戻し、両手でつかんで相手の腕を引きちぎってしまうのだ。
 もう一つ理解しにくいところがある。古事記では、腕が剣に変わる前に立氷(たちひ)に変えている。赤く焼けた鉄を鍛治で剣に仕上げていくのに、どうして氷柱になるのだろうか。ここも『ベーオウルフ』に似た表現が見られる。「かの剣、いくさの太刀たちは、闘いに流れた血の故に、垂氷(タルヒ)さながらに融け細っていった。」
 つまり異界の怪物に剣は通用せず、氷のように解けてしまうというのである。古事記はこれとは逆の進行で、腕が氷柱のようになった後に、剣として完成するのだ。この氷柱のアイデアも共通しているのである。

 タケミナカタの説話は、古事記の大国主の系譜にも見えないことから、後から差し込まれた話と考えられている。そして上記のように他の説話を継ぎはぎしたので、やや説明不足の挿話となってしまったのであろう。
 この類似の物語について、多ケ谷氏によると松村武雄氏は、ペルシャ神話との関係を指摘されているという。戦士は全力でルステムの手を掴んだがルステムは平気だった。「今度はルステムが對者の手を握り締めると、脈管が破れ骨が碎けて、地に倒れて氣を失った」と言う記述がある。ベーオウルフの英雄譚そのものも、他の説話も参考にまとめられていった可能性がある。すなわち大陸各地の説話の要素が収集されたものが、英雄譚に取り込まれ、さらには東方にも運ばれて、古事記の編集や中世の説話に活用された、と考えられるのである。

注. 建御名方は、日本書紀に記されていないが、完全に消されたわけではなく、書紀の持統5年8月には、使者を遣わして竜田風神、信濃の須波(諏訪)、水内(ミヌチ)などの神を祭らせた、とある。延喜式神名式の信濃国諏訪郡に「南方刀美神社二座」とあるので、建御名方は南方刀美神とも称され、この諏訪が建御名方で水内はその子であるという。よって、建御名方は水の神として信仰されていたことを物語っている(建御雷に両腕をもぎ取られてしまう話は、腕のない蛇を暗示し、蛇神=水神と考えられることと結びつけたのであろう。正木裕氏のご教示によるが、南方のミナカタは元々は北九州の宗像のことであるという。

参考文献
大林太良・吉田敦彦「剣の神・剣の英雄」法政大学出版局 1981
多ケ谷有子「『古事記』『風土記』における『ベーオウルフ』の類話」関東学院大学文学部 紀要第123号(2011)
多ケ谷有子「王と英雄の剣:アーサー王・ベーオウルフ・ヤマトタケル」北星堂書店2008
忍足欣四郎訳「ベーオウルフ 中世イギリス英雄叙事詩」岩波文庫1990
松村武雄「日本神話の研究. 第3巻 (個別的研究篇 下)」国会図書館デジタルコレクション1955

タケミカヅチ

1.国譲り譚のタケミカヅチ(建御雷)とタケミナカタ(建御名方)の奇妙な戦い
 古事記では国譲りを迫るタケミカヅチに、大国主の二番目の子のタケミナカタが戦いを挑む一節がある。しかし威勢よく現れたタケミナカタだったが、腕が剣に変わったタケミカヅチにたちまち怯んでしまう。自分の腕を剣の形に変えることができるというのは、どのような思い付きから生まれたのか。それは、彼が剣の神であるから、剣の制作過程の表現を意味しているところからくるのかもしれない。そもそもタケミカヅチの祖神の石の神、火の神、水の神の出生の仕方も、火を焼き、石に載せて打ち鍛え、水に浸すという、鍛冶の工程を表していることは早くから指摘されている(大林1981)。同様に、腕が刀に変わるという表現も、赤く焼かれた鉄の塊が、何度も打たれることで、やがて剣の形に変わることを意味しているととらえることができる。
 この腕が剣に変わるというアイデアは世界にあったのであろうか。映画『ターミネーター2』では、T-1000型ロボットが腕を剣に変化させて、相手を瞬殺する場面がある。脚本を制作した監督が、古事記がヒントにされたのかと思えるような意表をつくシーンである。ところが古事記ではこの場面と次の展開には、いささかの疑問がある。それは、タケミカヅチはせっかく腕を剣に変えたのに、そして相手は怖気づいてしまったのに、どうして一気にその剣で仕留めなかったのかということである。さらに奇妙なことがある。
 爾欲取其建御名方神之手乞歸而取者 (ここにそのタケミナカタの手を取らむと、乞ひ帰して取りたまへば)
とある。なんと、今度は自ら素手で相手の手をつかまえている。剣になった腕をいつのまにか元に戻してしまっているのだ。そして、タケミナタの腕をつかんでちぎってしまい、たまらずタケミナカタは諏訪まで逃げて命乞いをするのである。そうであるなら、最初から腕を剣に変えなくても素手で勝負がついたはずであり、話の筋として奇妙なのである。実はこういった謎も、他に類似の話があってそれが取り込まれたと考えれば説明がつくと思われる。

2.『ベーオウルフ』との類似が指摘される、日本の伝説や伝承
 『ベーオウルフ』という中世イギリス英雄叙事詩は、諸説あるが8世紀には作られたとされている。この英雄詩の第一部では妖怪で巨人のグレンデルが、デンマークのフロースガール王の城の中で家臣を次々食い殺していたために、隣国からやって来た主人公であるベーオウルフが退治をする物語で、第2部では、そのグレンデルの母親が、ちぎられた息子の腕を取り返そうとするが、これもベーオウルフによって殺されるといった物語である。
 多ケ谷有子氏によると、英国学者パウエルは『ベーオウルフ』と「源平盛衰記」内の「剣巻」や謡曲「羅生門」で語られる「渡辺綱伝説」とにおける五つの類似点を挙げている。①鬼または妖怪の出没 ②鬼(妖怪)の敗北と片腕の喪失 ③借りた刀または剣 ④女の姿をした怪物 ⑤失った片腕の取戻し、以上の 5 点である。パウエルは、「英国と日本の物語の共通点については、同じ物語が双方にあると考えざるを得ない」としている。(多ケ谷有子2011)このような類似は他の研究者からも指摘がされている。
 金石文や能の研究家でもある藪田嘉一郎氏は、能『松風』の西欧からの伝播を主張し、合わせて、能『羅生門』も、元朝を介しての西欧からの伝播であろうと論じた。南北朝から室町初期にかけて、外国生まれの説話によって作られた戯曲は相当あるとし、幸若舞の「百合若大臣」、能の「船弁慶」「羅生門」「大江山」などを挙げている。ギリシヤ神話がマルコ・ポーロに表れるような東西交通によってもたらされたという。
 中世に伝わった話が元になっているというのだが、古代の話にも類似があるという。多ケ谷氏は、古事記の国譲り神話のタケミナカタの戦いにいくつもの共通点を指摘している。(つづく)

※剣の先にあぐらを組む姿のタケミカヅチの図をよく見かけるが、これは古事記の誤読と考えられる。
   拔十掬劒、逆刺立于浪穗、趺坐其劒前
   (とつかつるぎを抜き、さかさまに波頭の刺し立て、その剣の切っ先にあぐらをかいて)
 この場合は剣の柄を刺して立てるのであって、タケミカヅチは立てた剣を前にして坐るとするのが妥当。ここでは、彼が雷神でもあることから、剣先に稲光を放つイメージにした。

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 古代において、常識では考えにくい年齢が語られるケースでは、現在の半年の期間を一年でカウントしていた場合があって、天皇の長寿も本当はその半分が実年齢であると考えるのが、二倍年暦である。ただ説明しにくい二倍を超える年数をなんでも倍数で説明するのは、無理があると考える。
 古田武彦氏は浦島子伝承は6倍年暦で説明できるとされている(古田2015)。常世に300年すごしたのは実質50年で、20歳の頃に竜宮に渡り、70歳の頃に故郷に戻ると、彼を知る人々はみんな寿命が尽きており、自分も白髪頭だったという解釈である。だがこれは賛同しかねる。この説明だと浦島子は50年も龍宮に滞在していたことになる。それは龍宮という常世での期間と現世の経過時間がイコールという説明であり、表現された時間の「単位」が異なるだけということになる。だがこれではアインシュタイン提唱の特殊相対性理論による、光速に近い速度で移動すると時間の進み方が異なるという現象の例えとして、「ウラシマ効果」の命名がされたこととは合わない解釈となる。本来の話においては、浦島子が訪れた竜宮と現世とのあいだとは時間の進み方が異なっていたというのが、この物語の重要な要素ではなかろうか。

 日本だけではなく、大陸にも似たような説話、考え方がある。『西遊記』では、故郷に帰った孫悟空は出迎えられて、天に行かれて十数年・・・といわれるが、本人はほんの半月ほどを十数年とは、と驚く場面がある。孫悟空のいた天上界と故郷のサルたちの世界とでは、時間の進み方が異なるという現象をしめしている。
 雲南省哈尼(ハニ)族の天女伝承では、貧しい地上の人々に天の五穀の種を送りたいと願うのだが、天神から、これは収穫するのに三年かかる、なぜなら天の一日は地上の一年にあたるからでとても現世での栽培は無理といわれる。
 四川省羌(チャン)族の洪水神話では、日照りが3年続く状況を打開するために猿が神に聞こうと馬桑樹を登る。そこにいた神々に日照りで困っていることを訴えると、神々は将棋を指していて三日だけ人間界に水をまかなかっただけ、と釈明したという。
 他にも浦島子伝承と似たような話が古代中国に存在する。湖南省洞庭湖ほとりの伝承の竜宮女房「漁夫と仙魚の故事」では、漁夫が船から落ちた少女を救い、後に龍宮に行って龍女と結婚するが、しばらくして故郷の母が恋しくなって帰ることになった。別れ際に龍女は宝の箱を渡し自分に会いたいときは籠に向かって私の名を呼ぶように、しかし蓋は開けるなと言う。帰ってみると村の様子も変わり母もいない、龍女に理由を聞こうとしてうっかり箱を開けると80歳の翁となってその場に倒れて死んだ。この場合も龍宮ではゆっくりと時間が進行することになっていたのだ。
 これらの物語の重要な要素が天上界、異界との時間差である。浦島子も龍宮では短い期間のはずが、現世では長い年月が経っていたという話であり、超高速で宇宙旅行をして戻った飛行士は歳をあまり取らないというウラシマ効果になるわけなの、けっして多倍年暦でその時間差を解釈するものではない。
 二倍年暦の例証(この場合は多倍年暦)にこの浦島子の話はそぐわないと考えたほうがよさそうであろう。

参考 
古田武彦『古代史をひらく 独創の13の扉』(古代史コレクション 23)ミネルヴァ書房2015 ※初出は1992
百田弥栄子「中国神話の深層」 三弥井書店2020

新沢千塚
 記紀などの語る渡来人の記事では、百済、高句麗からの渡来が目立ち、新羅についてはあまり目立たないことが指摘されている(田中2013)。また秦氏の記事はあっても、政治の中枢部での活躍はあまり見られない。こういったことから、記紀は、渡来系移住民の「倭」全体の動向や傾向の実体を反映するものではないという。考古学調査で検出される渡来系移住民の存在を、記紀ではほとんどつかめないというのである。たとえば、写真の奈良県新沢千塚古墳群の126号墳は、新羅からの渡来のリーダーの墳墓とされ、そこに金製装飾品や西方のガラス製品などの豪華な副葬品が見られる。実際には百済におとらず、新羅も列島の中で一定の存在であった可能性がある。
 古事記は、新羅敵視がなく、逆に日本書紀は新羅を敵視しているとのことから、古事記は新羅系の渡来人によって、紀は百済系の渡来人によって書かれた(金逹寿1990)との見方があるが、実際にはそう単純ではない。日本書紀には百済の資料がかなり使われている状況はあるが、個々の記事には、新羅側の恣意的な造作と思われるものがあり、研究者よりそういった指摘もなされている。

1.茨田堤の工事と新羅
 仁徳紀11年の茨田(まむた)堤の説話に、堤防が何度も壊れる所があったが、天皇の夢に神のお告げで、武蔵人の強頸(こはくび)河内人の茨田連衫子(ころものこ)の二人を犠牲にして河伯(かはのかみ)に祭れとあったことから、まずは、強頸が犠牲になったが、次の衫子は瓢(ヒサゴ)を用いた瓢が沈まなければ偽りの神だとしたウケヒを行い、瓢は沈まなかったので犠牲にならずに済んで堤が完成する話がある。強頚は人柱となるが、衫子は逃れる事ができ、その瓢は新羅を暗示するという。始祖の赫居世居西干(かくきょせいきょせいかん)は瓢のような大きな卵から生まれたという。辰韓では瓢を朴といい、始祖王は朴氏である。また、仁徳50年に茨田堤に鴈が産卵するというのは現実にはありえないのもので、アマノヒボコの日光感性卵生説話と同様のものであって、これは新羅を意味している。なお最初に人柱となった強頚は、三国史記巻46列伝題「強首」があり、新羅の武烈、文武、神文王に仕えた官人であり、その名前を利用したかもしれない。
 逆に築堤を妨害する「河伯」は高句麗、百済の出自を意味していることから、7世紀の半島で新羅が高句麗・百済を滅ぼして新羅が勝利する話が、ここに暗喩として含まれており、築堤の成功が新羅優位を物語っているというのである。よってこの説話の潤色に関わったのは新羅系渡来人だと考えられる(赤木2013)とされている。

2.新羅サイドの造作も練り込まれた日本書紀
 この茨田堤の説話については、長柄の人柱(こちら)と同様に、治水工事の意味があるものと考えていた。しかし、強頚と衫子という言葉がなんとなく堤防の土台を補強するようなものかとも考えたが、釈然とはしなかった。ネットを見ると、細部にわたって究明されている記事もあり、治水との関連はありえる。そうするとこの説話は、堤防づくりの工法をベースに、そしてこれを利用した新羅の思惑を含ませた説話ということになろうか。
 新羅は7世紀後半に百済と高句麗を制して半島の統一をすすめたが、倭国内では百済、高句麗系の勢力と新羅系の勢力がせめぎ合いを行っていたと考えられる。それが、日本書紀の記事にも反映することになったのだろう。
 上記のように考えると、日本書紀の他の記事にも同様の理解が可能ではないか。
天智前紀 「是歳~ 有細響、如鳴鏑。或曰、高麗・百濟終亡之徵乎」
 不気味な音が響き、それを高句麗と百済の滅ぶ徴候と記すのは、これも新羅サイドの人物であろう。
持統前紀 「是歲、蛇犬相交、俄而倶死」
 蛇と犬がつるんで、ともに死んだというその蛇と犬は、高句麗と百済を意味し、蛇と犬がそれぞれ特定の人物を意味している可能性があるが、その場合は、出自が高句麗系、百済系の当時の著名な人物となるかもしれない。
 またつくられた乙巳の変(こちら)では、天智と鎌足の蹴鞠での出会い、中大兄が倉山田麻呂の姉ではなく、妹を娶る逸話も新羅の金春秋のまつわる話の応用と考えられる。しかし、日本書紀がなぜ新羅の説話を活用したのかについては不思議に思っていたが、これも新羅サイドの人物が、編纂に関わっているなら十分あり得ることになろう。日本書紀は百済に関する人物や話題が多いが、新羅系の説話も重要なところで折り込まれているのである。

参考文献
田中史生「新羅人の渡来」(渡来・帰化・建都と古代日本)高志書院2013
赤木隆幸「茨田堤築造と新羅系渡来人」(渡来・帰化・建都と古代日本)高志書院2013
加藤良平「仁徳紀十一年の茨田堤の記事について」古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平氏のブログ 

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