流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 邪馬台国

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 卑弥呼の遣使は、魏志倭人伝に「景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡」とあるが、通説では、公孫淵の滅亡で楽浪郡を魏が掌握したのは景初二年八月なので、六月の遣使は無理であり、景初三年が正しいと理解されている。これに対して、卑弥呼は戦中遣使をしたのであり、その困難な情勢の中で、魏に使者を送ろうとした倭国に感激して、魏は手厚くもてなしたのだという主張がある。戦闘状態にもかかわらず、卑弥呼の英断で魏に使いを送ったというのである。これが物語ならばドラマチックであるが、実際は、景初三年の六月であったことを、景初二年説の主張に対して説明しておきたい。

1.卑弥呼に対しての制詔は明帝崩御後の幼少の少帝では無理だったのか
 
 中国はそれまでも幼年の皇帝が相次いで即位し、皇太后や外戚が政権を牛耳ってきていることからも、卑弥呼への制詔が景初三年では無理という根拠にはならない。
 例えば前漢の第8代皇帝・昭帝(劉弗陵)は、8歳で即位。武帝の遺詔により、大司馬大将军の霍光が政治を補佐(摂政)。昭帝の若年期は霍光がすべての政務を決済し、朝廷の制詔は実質的に彼の意志で下されている。
 また前漢末期、第14代皇帝(平帝の次の皇太子)として、わずか2歳の孺子嬰が擁立される。代外戚の王莽は自ら「摂皇帝」あるいは「仮皇帝」と称し、皇帝の職務を完全に代行している。
 
 以上のような事例があり、明帝の後の少帝の場合も、曹爽や司馬懿が政務を担当しており、倭国の遣使も彼らが対応していたと考えてよい。明帝の崩御後については、三国志小帝紀に「大將軍曹爽太尉司馬宣王輔政」とある。輔政とは政務の補佐であろう。

2. 公孫淵討伐時に密かに海を越えて平定するという記事がある

 景初中、明帝密かに帯方太守劉昕、楽浪太守鮮于嗣を遣わし、海を越えて二郡を平定す。

 この記事から、6月には二郡が平定されて、卑弥呼の遣使は可能だったとの主張がある。
 だが、この「景初中」の時期は3月から8月と考えられる。6月までに平定とする根拠にはならない。あくまでこの「景初中」は明帝が二郡に派遣をすすめた時期であり、実際に平定したのは6月以降であろう。もし中国側が主導権を6月に把握したとしても、公孫淵との戦闘行為は続いており、そのような時期に、倭の遣使が向かったとしても、楽浪郡の太守が都まで同行するなど困難であろう。
 さらに言うと、この海からの行動は秘密裏に行われたと書かれている。どうやって倭国はこの極秘情報を得たのであろうか?また倭国は魏に遣使を送ろうといつ判断したのであろうか。魏による二郡への制圧行動の情報を得てから、遣使の判断、決定後の準備、さらには楽浪郡までの旅程期間を考えると、とてもではないが6月は無理と考えるのが普通であろう。

3.景初三年は呉の侵略があって遣使は困難だったのか?
 
 景初二年の戦中遣使が正しいとされる意見では、一方で景初三年のほうが遣使は困難だと主張される。その根拠とされるのが次の記事である。
 
 赤烏二年春三月遣使者羊衜、鄭冑、將軍孫怡、之遼東、擊魏守將張持、高慮等。虜得男女。

 赤烏二年(239)春三月、呉の孫権は遼東に将軍孫怡之らを遣わし襲撃させ、遼東に駐屯していた魏の守備隊の将である張持、髙慮らが戦死し、男女が捕虜として連れ去られた。

 公孫淵を討伐して平定した遼東が、今度は呉軍に侵略されて、その三カ月後のこととなるのだが、明帝崩御後の混乱に乗じて侵攻したという解釈があるが、「混乱」といった記述はない。
 そしてこの呉の襲撃事件をもって、景初三年の遣使は困難との説明があるが、これもおかしい。この襲撃事件は春三月のこと、しかも、「虜得男女」とあり捕虜はとったが、その後は関連する記事はなく、呉の勢力が半島地域と周辺海域を制圧していたという根拠はなく、一過性の襲撃事件とみられる。よって、景初三年の訪問が困難という理由にはならない。景初三年の遣使が不自然で困難といった主張は疑問である。

4.景初三年と引く『魏志』は別の「類書」のようなもので、間違いが多い、との説

 『日本書紀』・『梁書』・『北史』は『魏志』を引いて「景初三年」としているが、この『魏志』が皇帝の命令によって編纂された「類書」の類いであり、その編纂の性格上、間違いがおこりやすいという理解がある。 (なお、ここでは『魏志』という類書があったとは異論もあるので「類書の類い」としておく)
 この「類書」は原典をそのまま丸写しするのではなく、必要な部分を抜粋・編集(ダイジェスト化)し、その際に前後の文脈が省略されることがある。また後世の知識による修正が起こるという。後世の類書編纂者が「景初二年に公孫氏が滅び、景初三年に明帝が崩御した」という正史の基本知識を持っていた場合、戦闘の最中に朝貢が成立するはずがないという思い込みなどで、良かれと思って「二年」を「三年」に修正してしまうケース(修史の書き換え)が起こり得るのだという。
 陳寿の『三国志』は間違いは発生しないが、「類書」は間違うことがあるというのだが、この論理は疑問だ。陳寿も、それまでの文献、記録を参考にして編集しているのである。その時に思い込みなどで間違いが発生することもあるということも言えてしまうのではないか。しかも「類書」は皇帝の要請で作成されるものであり、間違いが発生しやすいとみなすことには疑問がある。
 
 さらに別の問題だが、邪馬臺国の「臺」も、「壹」としたのは、10世紀以降の版本作成時の誤写と考えられるように、当時の陳寿は景初二年と記していたが、後の写本で景初三年とされてしまったという可能性が高いと思われる。そのような可能性を拒絶して陳寿の『三国志』は間違いが起こらないが、「類書」の類いは間違いが起こるというのは、いささか説得力に欠けるのではなかろうか。
 もし『魏志』が類書の類いであっても、それは、当時の『魏志倭人伝』の記事の「景初三年」を正しく書写したのであって、11世紀以降の『魏志倭人伝』が、版本作成時に景初二年と誤刻したと考える方が妥当である。

5.景初二年説では、中国からの使者の正始元年までの空白の1年半を説明できない
 
 景初三年の倭の遣使に対する下賜品の記事のすぐ後に次のようにある。
 
 正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國。拜假倭王、幷齎詔。賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物
 
 遠方の倭国からの遣使に対して、魏は早速返礼としての使者を倭国に送っているのである。ところが、景初二年の戦中遣使があったとする説を推す主張では、困難な状況の中わざわざやってきた倭の遣使に中国側はいたく感激し、莫大な下賜品も与えたという説明をされている。しかし、感激した中国が返礼としての使者を送ったのは二年後の正始元年のこととなってしまう。これは奇妙だ。どうして、翌年の景初三年に使者を送らなかったのか。この空白の1年半を説明できる根拠は見当たらない。

6.『日本書紀』の「明帝」の景初三年という記述が疑問との見方
 
 明帝は1月1日に亡くなったのに、書紀神功紀の「明帝景初三年」と書くのはおかしいとの意見もあるが、別にこれも不自然なことではない。
 歴史書の記述として「明帝景初三年」とあるのは、「明帝がその年に生きていたかどうか」を指しているのではなく、「明帝が創始した『景初』という時間軸の3年目」という表現をしているにすぎないことで、「明帝と書くのはおかしい」という批判はあたらないのである。中国の歴史においては、同じ元号名が存在することもあり、短期間で改元もされるので、読者も混乱してしまうので、皇帝名を付けて○○年とする慣習があるので、明帝の景初三年に何ら問題はない。

 以上のように、景初二年六月という魏による公孫淵討伐が始まった最中に、卑弥呼がいち早く戦局を見極めて使者を送ったというのは、ドラマチックで、日本人には受ける話だが、現実は二郡を平定して体制としても整ってからの遣使であったからこそ、帯方郡の太守劉夏が対応して使者に同行して洛陽に向かうことができた、というのが自然であろう。

参考文献
古田武彦『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』古代史コレクション22 ミネルヴァ書房
正木裕『「壹」から始める古田史学十二 古田説を踏まえた俾弥呼のエピソードの解釈』ネット掲載他

景初四年丙午
 三角縁神獣鏡の紀年銘に景初四年があることが、景初三年から正始元年への改元を知らずに、渡来した工人が刻んだもので、これが国産説を証明しているなどと言われたりしたが、既に説明したように、この景初四年銘が、逆に国産説が成り立たないことを説明させていただいた。
 森浩一氏は、三角縁鏡の年号銘は、4世紀になってから記念の年号として刻んだものという説を出されたが、それであるならば、4世紀には景初三年の翌年は正始元年と認識されるはずであり、景初四年がこの説が成り立たないことを示している。また、渡来した工人が景初から正始への改元を知らずに刻んだというのも妙である。それならば、なぜ正始元年銘の鏡があるのかも説明できないのである。
 ただ、この銘文については、気になる所があるので見ておきたい。
 景初四年銘は、福知山市の広峯一五号墳三角縁盤龍鏡、兵庫県辰馬考古資料館蔵同笵鏡の2枚が確認されている。銘文には次のようにある。

 景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人之位至三公母人之保子宜孫壽如金石兮

 陳の文字については、左文字になってしまっているが、これも説明したように、自分の名前だからこそ、うっかりそのまま正字で刻んでしまったから起こったことと言える。
 さて問題は「景初四年」に続く「五月丙午」である。これは実際の暦の月日を示しているのではない。景初四年が実際には五月まであったなどということにもならない。これは、工人が取り入れた吉祥句と考えられている。このような例が、碑文や刀、その他の鏡の銘文に以下のようにある。

 ①宇治橋断碑 「大化二年丙午之歳」  
 ②七支刀:泰和四年□月十六日丙午正陽
 ③東大寺山古墳:刀身に、中平□年五月丙午造作支刀
 ④鳥居原狐塚古墳神獣鏡:赤烏元年五月二十五日丙午
 ⑤宝塚市安倉高塚古墳神獣鏡:赤烏七年太歳在丙午
 
①の宇治橋断碑については、金石文としては問題があり、『帝王編年記』によって補った文章によって、「大化二年丙午」という年紀があるのであって、これが実際の橋の建立年を示すものとは確定できないようである。碑文の中にある年紀が建立年を意味するとは断定できないのである。よってこの場合の「丙午」は月日を表すものとは考えにくいのである。実際に残された文面には縦界線などが見られることから、早くても8世紀前半と考えられるという。詳しくは藤田友治氏の論考をご覧いただきたい。

②の七支刀の銘文にある「丙午」およびそれに続く「正陽」は、実際の日付ではなく、鏡や刀剣を造るために太陽の光を最大限受けられる、最も良い時といった意味を持つ吉祥句である。そして、実際の暦で計算すると、この泰和4年(西暦369年など諸説あり)の「〇月16日」が「丙午」になる月はないという。

③東大寺山古墳の刀身の「中平」とは、中国の後漢末期、霊帝の時代の元号で、西暦184年〜189年であり、この「中平元年」から「中平6年」までのすべての年の5月に「丙午」の日が存在する年はないので、「五月丙午」が実在の日付ではないことは確定できるという。
 さらに、後半の銘文の「百練清剛 上応星宿 下避不祥」が、鍛えた刀で災いを避けるといった工人に好まれる吉祥句となる内容からも関連するものと考えられる。

④赤烏元年銘の神獣鏡の場合の「赤烏元年五月二十五日丙午」という月日は、実際の干支(暦)としては正しくないという。中国・三国時代の呉の歴史書『三国志』呉書・呉主伝によると、孫権が「赤烏」へと改元したのは赤烏元年の8月。赤烏元年の5月には「赤烏」という年号が存在していないという。その年の5月はまだ前の年号である「嘉禾7年」なのであった。

⑤安倉高塚古墳神獣鏡の赤烏七年は、西暦244年でこの年の干支は「甲辰」となる。

 以上のように、いずれも工人の好む吉祥句を取り入れたもので、実際の作製月を表すものではないのである。

 このようなことからも、「五月丙午」は景初四年が5月まであったことを示すものではなく、尚且つ国産ではないことを示す貴重な鏡であると言える。

参考文献
藤田友治1988『日本古代碑の再検討 宇治橋断碑について』市民の古代 第10集 市民の古代研究会編
中国の暦に関してはAIなどを参照

古田武彦1987『景初四年鏡をめぐって』『市民の古代』九集 景初四年銘文図を利用

土器編年

         図は 各地(半島東南部・北部九州~東海西部)の併行関係と暦年代案
      クリックして御覧ください。

 これまでの説明の要点などをまとめとしてあげておきたい。まだまだ不十分な点もみられるが、引き続き検討していきたい。

①初期の三角縁神獣鏡は弥生末期から九州の発生期の墳丘墓や古墳から出土している。
 もし三角縁鏡が国産であったと仮定しても、近畿大和から全国に配布されたという主張は看過できないのではないか。

②全国の分布状況は、ヤマト中心ではなく、九州勢力が配布していると見ることができる。
・布留0式(250年頃)の段階に三角縁鏡はないとするのは間違い。久住猛雄氏らの指摘。
藤崎32次1号墓 石棺の周溝部の調査で、周溝下層から布留0式古段階に併行するⅡA期の一括土器が出土。(図を参照)
 この布留0式古段階に三角縁神獣鏡はないという説が一部にあるが、実際は存在することを証する布留0式古相での副葬例が「少ない」のは、まだ舶載され、「配布」された直後だったからと考えられる。
・纏向型前方後円墳は九州に早くから築造され、そこに三角縁鏡が出土していると想定。一方で近畿大和地域の纏向型前方後円墳からの出土事例は皆無。これこそが、三角縁鏡が九州からの配布を示している。ただし、津古生掛古墳以外の九州の古墳の編年観の検討も必要である。

③創作模倣鏡(3~4世紀)の時代に生まれた三角縁神獣鏡           
 漢代400年の間に創出された鏡を3世紀以降は模倣を特徴とする鏡づくりが行われ、この動きの中で三角縁神獣鏡が登場した。過去の中国鏡を模刻するために、左右の逆転や神獣の配置の乱れなどが三角縁鏡以外にも発生。

④「陳是作竟」は、190年頃の洛陽市吉利区出土の画文帯同行式神獣鏡をモデルに和泉黄金塚古墳「景初三年陳是作」画文帯神獣鏡を作成。図像の逆向き、画文帯の反時計回りが発生。一方で三角縁神獣鏡に継承される特徴の、新たに内区の外周線を隆起する鋸歯文に、径を大きくし突起する乳が加わる。
 次に島根県神原神社「景初三年陳是作」三角縁神獣鏡を製作。外区文様、三角縁に改変。図像は同じだが、左右逆転が見られる。つまり神原鏡は黄金塚鏡をベースに外区に三角鋸歯文を取り込んで三角縁鏡とした。よって、黄金塚と神原の景初三年鏡は図像が異なるだけの兄弟鏡といえる。
 陳氏は引き続き、景初四年鏡、正始元年鏡を製作。景初四年の銘文では、「陳」が反転している。自分の名前で漢字を知っているから、うっかり正字で刻印してしまったとも考えられる。

⑤景初四年鏡の存在が、国産説を否定する。景初三年の末に前もって四年と刻印した可能性もある。
・国産説の王仲殊氏も北朝鮮地域の墓碑などに改元を知らずに前の年号を刻んでいた例を指摘。
・森浩一氏などの鏡の銘文の紀年は、後の時代(4世紀)に、記念すべき年号として鏡制作時に加えられた、と解釈されているが、後の時代に年号を入れるのならば、景初4年が存在しないことは知っているはず。さらに景初四年は渡来した工人が改元を知らずに刻んだ、という主張は、ではなぜ正始元年が存在しているのか説明不可ではなかろうか。

⑥官営工房の尚方銘の三角縁鏡が少なくとも10枚存在している。奈良県佐味田宝塚古墳神人車馬鏡(三角縁)21.1㎝の銘文と書体も同じものが、 河南省岳家村30号墓尚方作神獣車馬画像鏡である。他に新山古墳、熊本県葦北城ノ越など。

⑦神岡鉱山の鉛使用による国産説が言われるが、原料の産地と製作地はイコールという確定は出来ない。神岡鉱山で弥生時代後半に鉛を採掘していた根拠はない。周辺に弥生時代の遺跡もない。中国から鉛丹も下賜されているが、法隆寺の壁画での使用まで確認されず、採掘していたなら鉛丹も製造していたのではないか。

⑧国産では説明つかない車馬鏡や時代の合わない仏獣鏡が存在している。
 群馬県北山茶臼山古墳(4C前半)の神人龍虎車馬画像鏡。馬に引かれた馬車が、精密に描かれ、鞭を振る御者、後ろに主人が乗る姿も鮮明。この頃、列島に馬車は存在しない。馬の利用も始まったばかり。

⑨三角縁神獣鏡は葬送儀礼の祭器でランクが低い、という見方について。
 黒塚古墳の例の場合で言われているが、棺外に並べられた葬儀用のレベルの低い鏡という説も成り立たない。
天理天神山古墳画文鏡
        奈良県大和天神山古墳の鏡の副葬状況 (橿原考古学研究所博物館)
 大和天神山古墳では、被葬者を囲むように20面、棺外に3面の鏡があった。内訳は、方格規矩鏡6面、内行花文鏡4面、画文帯神獣鏡4面、獣形鏡4面、画像鏡2面、三角縁変形神獣鏡2面、人物鳥獣文鏡1面である。三角縁鏡だけ低く見ることは出来ない。

⑩その他
・百枚以上あるのも何らおかしくはない。3世紀末まで何度も遣使しており、中国からも使者が来ている。正始元年に下賜品として刀などと共に鏡の記述もある。
・三角縁鏡だけでなく、画文帯神獣鏡、斜縁鏡、方格規矩鏡なども邪馬台国は公孫淵や魏晋から入手した可能

参考文献 
岡村秀典2017『鏡が語る古代史』岩波新書
図の出典は『銅鏡から読み解く2~4世紀の東アジア』實盛良彦編勉誠出版2019

図1北九州
▲が三角縁神獣鏡の分布

⑴初期段階の三角縁神獣鏡は九州一円に存在する可能性がある。 

・「平塚大願寺方形周溝墓」(同市平塚)からは、三角縁神獣鏡が出土したと伝わる。この鏡は100年以上前から存在は知られていたが、現物の行方は分からず、幻の鏡となっていた。平成30年に市内の旧家から寄贈を受け、同市教育委員会などが調べたところ、三角縁神獣鏡と確認された。同じタイプの鏡は国内から見つかっておらず、初期段階の作例とされる。
・藤崎遺跡:福岡市早良区百道・藤崎所在、室見川河口右岸の湾岸砂丘上の弥生時代~中世に渡る複合遺跡。 三角縁盤龍鏡と素環頭太刀が共伴している。
・福岡市卯内尺古墳:墳長約73~78mの前方後円墳。竪穴式石室と推定された埋葬施設から三角縁神獣鏡、銅鏃,剣等が出土。 
・福岡県石塚山古墳 3世紀半ば? 舶載三角縁神獣鏡6種7面が出土。
・糸島市泊大日古墳(神仙騎獣鏡)  那珂八幡古墳の第二主体より出土。  若八幡宮古墳より出土。
・宇佐地域では川部・高森古墳群の赤塚古墳で舶載三角縁神獣鏡が5面(第1・第2段階)出土している。

⑵久住猛雄氏の鏡の年代観の重要な指摘   『2.3.4世紀の土器と鏡』より

 小郡市津古生掛古墳から出土した方格規矩鳥文鏡は、三角縁神獣鏡の関連鏡群に位置付けられたものとされる。
 三国期の倣古方格規矩鏡で、青龍3年(235)銘の紀年鏡と、264年の円圏規矩鏡との間に位置付けされ、250年前後、すなわち舶載三角縁神獣鏡の制作年代幅と合うという。
 この古墳は布留0式古相段階=ⅡA期のものであり、この段階に三角縁神獣鏡が入る可能性が十分にある。これを裏付けるのが次の藤崎遺跡だ。
 藤崎32次1号墓は、石棺の周溝部の調査で、周溝下層から布留0式古段階に併行するⅡA期の一括土器が出土。この布留0式古段階に三角縁神獣鏡はないという説が一部にあるが、実際は存在することを証する資料となった。布留0式古相での副葬例が「少ない」のは、まだ舶載され、「配布」された直後だったからと考えられる。この布留0式は250年頃となる。

⑶古墳も近畿中心に考えてはいけない。

 片岡宏二氏(2019)のご指摘だが、 実は北部九州にも纏向型前方後円墳が存在しているのである。
その代表が小郡市津古生掛古墳・福岡市那珂八幡古墳・名島古墳である。
 津古生掛古墳は、久住猛雄氏の説明を既に挙げているが、出土土器から庄内式~布留0式土器段階である。
 那珂八幡と名島は時期不明だが、三角縁神獣鏡が出土していること。そして筑紫平野の同時期の古墳は、津古生掛古墳だけではなく、定型化していない墳墓が多数存在している。
 例えば、纏向型や方形周溝墓、前方後方墳、前方後方形周溝墓など以下のようだ。
朝倉市は杷木町外ノ隈前方後方墳(画文帯神獣鏡)
朝倉市平塚大願寺方形周溝墓(三角縁神獣鏡) 
久留米市祇園山古墳外周1号甕棺(画文帯神獣鏡・中心の箱式石棺から三角縁神獣鏡)  
藤崎遺跡や筑紫郡那珂川町妙法寺2号前方後方墳に三角縁神獣鏡がみられる。

 なんでも近畿のヤマトを中心に見てはならない。奈良の古墳が先行しているわけではないのである。三角縁の配布は北九州を中心に開始され、さらに全国のリーダー格の人物の手に渡っていたと考えられ、特に近畿圏には政治的、さらには信仰上の理由から集中して運ばれたと考える方が、筋道がかなっていると思われる。

⑷国産説に関して

三角縁神獣鏡は現在のところ、研究者はいくつかの段階に分けて後半からは彷製との認識が主要なものとなっている。そうすると、国産説を主張してもヤマト中心史観には打撃にならないのである。

例えば黒塚古墳の説明パネルに次のようにある。

「三角縁神獣鏡のモチーフは不老長生の神々である西王母や東王父、さらには虎や龍など神仙世界の霊獣から、鏡が帯びる霊力が強く意識されており、「このような霊力の宿る三角縁神獣鏡を、ヤマト王権が地域支配の一環として列島各地に配布したとする説が有力である。」と掲示されている。

ここでは、三角縁神獣鏡が中国産か国産かといった問題は無関係であり、ヤマト王権を中心に配布されたという説明なのである。この場合も、国産説を主張しても、鏡を配布する中心勢力が近畿にあったという主張に反論できていないのである。九州に楔を打ち込んだといった解釈を放置してはならないと思われる。


参考文献
片岡宏二2019『邪馬台国論争の新視点 遺跡が示す九州説』雄山閣
實盛良彦編2019『銅鏡から読み解く2~4世紀の東アジア』勉誠出版

中国の景初三年鏡
  景初三年銘のある吾作獣首鏡 左の漢鏡を模倣して作成 出典『鏡が語る古代史』

 国産説では、景初三年の銘文が入った三角縁鏡を特に問題視されるのだが、実は中国にも景初三年銘の鏡があった。洛陽市で発見された景初三年吾作獣首鏡であり、元の永康元年(167)の模倣鏡であった。 
 この模倣された獣首鏡には、景初三年神原神社鏡、正始元年「陳是作」三角縁同向式神獣鏡と共通する銘文が刻まれていた。おそらく「吾作」の工人と陳氏は同一工房か近しい関係と考えられる。

 以上のように中国にも景初三年銘の鏡があったことからも、三角縁鏡の国産説が成り立たないことを示している。森浩一氏などの鏡の銘文の紀年は、後の時代(4世紀)に、記念すべき年号として鏡製作時に加えられた、という主張は矛盾しているのである。それは、景初四年は渡来した工人が改元を知らずに刻んだ、というのが国産説の主張だが、その一方で、後の時代に年号を入れるのならば、その時点では景初四年という紀年は存在しないことを知っているはずであろう。景初三年の次は正始元年のはずであり、なぜ後世に景初四年銘を刻んだのか説明できないのだ。

 顔氏や陳氏の鏡の製作について説明してきたように、中国では既存の鏡の図像を模写して鋳型を作る創作模倣鏡の時代(3~4世紀)があったという。漢代400年の間に創出された鏡を3世紀以降は模倣を特徴とする鏡づくりを行っていたという。この動きの中で三角縁神獣鏡が登場した。顔氏や陳氏の紀年の入った鏡も古い中国の鏡をモデルにして作成したものであった。 
 モデルをそのまま模刻するために、左右逆転や左文字などが発生していたのである。中国においても、このようなミスにはわりと無頓着であったようだ。
 陳氏の場合も、銘文を刻む際には、反転させて刻むはずが、自分の名前の「陳」をそのまま刻んだために、完成品の「陳」が逆になった鏡もある。
反転した陳
           景初四年盤龍鏡の左文字の陳氏銘文 出典『鏡が語る古代史』

 漢字を知っているからこそ陳氏が、ついうっかり自分の名前をそのまま正字で刻印したのであろう。

 このように、3~4世紀の中国において、創作模倣鏡が多数作られるようになり、この動きの中で、三角縁神獣鏡も登場することになったのである。

参考文献 
岡村秀典2017『鏡が語る古代史』岩波新書
實盛良彦編『銅鏡から読み解く2~4世紀の東アジア』勉誠出版2019

IMG-8187表紙
        大阪府高槻市安満宮山古墳出土青龍三年方格規矩四神鏡

 前回⑩で説明させていただいた岡村秀典氏の『鏡が語る古代史』では、陳氏による鏡の製作において、元の中国鏡をモデルに鋳型に模刻した際に、完成品は図像が反転してしまったと説明されている。しかし、単純に反転とは言い切れないところもあるので、以下に補足のような形で説明させていただく。
 なお、モデルをそのまま模写した鋳型による完成品の状態の図を示すために、元の図の写真を反転させるようにした。そのため、元の図の説明用の「玄武」などの文字も反転していることはご留意いただきたい。

【1】文字は反転させて鋳型に摸刻された。
 中国の尚方鏡をモデルに、青龍三年方格規矩四神鏡を制作した。モデルを模刻する際に、文字については反転、左字にして摸刻を行う。下図のように、鈕を囲む方格内の文字については、ほぼモデルと同じ配置の正字で鋳造されている。ただし、鈕の四方の文様、さらに方格の外側に独自の文様を加えている。
 
文字の反転図


 しかし、図像については容易ではなく、問題が起こることを次に説明する。 

【2】図像はそのままの方向で摸刻した
 文字と違って四神などの図像については、反転させながら模刻するのは困難であり、モデルを忠実に、同じ方向で模写している。

図の反転説明
 図①はモデル鏡の図を写真編集で反転させたもので、文字以外のモデルの図像を忠実にそのまま摸刻したものを鋳造すれば、この図①のように完成するはずである。例えば逆L字が正L字になっている。
 しかし、岡村氏は、四神の頭の方向など逆転していることを説明されているが、実際の安満宮山鏡の図像は隣り合う四神の方向が違っている。例えばモデル鏡は玄武のお尻の方向に青龍の頭が向いているが、安満宮山鏡では、玄武の頭が青龍の尾に向く構図になっている。図①のように、青龍の頭は玄武の尾の方向にないといけないはずだ。
 さらに、玄武の下側の隣りには白虎が配置されているが、完成したものは下側に青龍が位置しているのだ。このようなことは、モデルの図をそのまま摸刻しただけでは起こらないものである。
 これは、単にモデルをそのまま模刻したのではなく、図像を写すために、モデル鏡を回して、玄武など四神が正立した状態にさせて模写したからと考えられ、その際、四神の順番を間違えて摸刻したのではないだろうか。
 図③のように四神を分割して描く作業をしたと仮定すると、玄武の下方に青龍が配置されるのに、あやまって白虎を描いてしまったのである。図④のように白虎と青龍を入れ替えると、安満宮山鏡と図像の配置と方向が全く同じになるのである。

 以上のように、岡村氏は省略されてしまったようだが、実際には、もう少し複雑な作業があり、それに伴うミスによって元の図像とズレが発生したのであった。これによって、ますます鏡工人のリアルな作業の実態が見えてくるのであった。



DSC_0340
          大阪府高槻市安満宮山古墳 5枚の鏡

 ご本人の後の著作の説明から、①と②の順序を変更して記載させていただいた。
 なお「陳是作」の是は氏のことであり、陳氏作の鏡を意味する。

①高槻市安満宮山古墳青龍三年方格規矩四神鏡

洛陽と安満宮山
       左:洛陽市鞏県尚方作鏡   右:安満宮山古墳景初三年方格規矩四神鏡
 陳氏もしくは、同じ工房での政策と思われる。洛陽市鞏県尚方作鏡モデルに見ながら鋳型を彫る。そのために図像の逆向き、すなわち、逆L字が正字、玄武や青龍など四神の顔の方向が逆になった。 青龍三年は明帝が大規模な洛陽城の造営推進の紀年だったのであろうか。

②和泉黄金塚古墳「景初三年陳是作」画文帯神獣鏡Φ23cm (弥生博物館の卑弥呼が持つ鏡)
陳氏作和泉神原
 次に、190年頃の洛陽市吉利区出土の画文帯同行式神獣鏡Φ23cmをモデルとして見ながら鋳型を彫る。そのために、同じように図像の逆向き、画文帯の反時計回りが発生。 一方で三角縁神獣鏡に継承される特徴の、新たに内区の外周線を隆起する鋸歯文に、径を大きくし、突起する乳が加わる。

③島根県神原神社「景初三年陳是作」三角縁神獣鏡Φ23cmは外区文様、三角縁に改変。
 図像は同じだが、左右逆転しているので、完成した黄金塚のものを見て鋳型を彫った可能性がある。
 最初の中国モデルの図像が黄金塚鏡で逆転するも、次の神原鏡では黄金塚鏡をモデルにして正転する。
 「このように陳氏は239年に画文帯同行式神獣鏡を忠実に模倣した和泉黄金塚鏡をまず試作し、その年のうちに画像鏡の要素を取り込んだ三角縁神獣鏡を創作した」(岡村2017)

④翌年、もしくは年末に「景初四年陳是作」盤龍鏡Φ17cm、同笵鏡(京都府広峯15号墳、辰馬考古資料館)を製作。
 なお、この景初四年盤龍鏡の銘文の「陳」が反転している。これは、漢字を知る人物、自分の名前だからついうっかり正字で刻印したと考えられる。

⑤引き続いて「正始元年陳是作」の三角縁同向式神獣鏡Φ23cmを作成。
 同笵鏡が(群馬県柴崎古墳、兵庫県森尾古墳、山口県竹島古墳)であり、景初三年三角縁神獣鏡を継承、文様はやや丁寧に表現し外区の厚みを増す。
 
 さらに続けて黒塚古墳の6号鏡など陳氏作の鏡は制作された(岡村秀典2017)。
 
 以上の様に陳氏の作として紀年どおりの時系列で制作過程を理解することができ、後世の鏡の銘文に記念として年号を入れたのではない。
 なお、王仲殊や新井宏も認めていることだが、紀年鏡は鉛同位体比が近い数字をしめしていることからも、同一工房、連続する年代の中で製造されたと考えられる。

 三角縁神獣鏡の特徴である縁の三角形は、この陳氏とその工房のところで生み出されたと考えられる。それまでにあった斜縁鏡をさらに改良した形であった。それは、鏡の大量受注への対応の為に三角縁という技法を採用したのであった。
 三角縁神獣鏡のように、その縁部の断面が三角形である場合は、鋳型を破損せずに抜き取ることが可能である。しかし、平縁の場合には原鏡抜き取り時に鋳型を損傷する可能性があるため、その鏡部の内縁部は分類上平縁といえども厳密には垂直ではなく、鏡面の反りとの関係をも含めて斜縁である必要性があったのだ(米田文孝他2000)。 

 以上の様に、陳氏は、三角縁神獣鏡の製作に直接関わった可能性の高い人物であろう。陳氏の銘文のある鏡について次回に紹介したい。

参考文献
岡村秀典2017『鏡が語る古代史』岩波新書
米田文孝他2000『三角縁神獣鏡の製作技法』ネット掲載 関西大学博物館

車崎銅鏡百枚図1
        初期三角縁神獣鏡の分布 『三角縁神獣鏡の配布』より

1.初期三角縁神獣鏡の分布図に関して

 車崎正彦氏は初期の三角縁神獣鏡などを卑弥呼の鏡の候補として右のような分布図を作成している。氏は「卑弥呼の『径百余歩』の『冢』はまずまちがいなく箸墓である」と言い切るような畿内中心論者であるが、鏡の百枚の候補として、景初三年や正始元年といった年号鏡4種8面以外に、次のようなものを設定している。
・三角縁神獣鏡12種23面(6山口・宮ノ洲、18大阪・国分茶臼山、京都・北山、奈良・黒塚、滋賀・織部山、岡山・備前車塚、19兵庫・森尾、奈良・佐味田宝塚、徳島・板野(伝)、北和城南、出土地不明、20京都・長岡近郊(伝)、22福岡・大願寺山、28京都・椿井大塚山、奈良・都介野(伝)、奈良・佐味田宝塚、出土地不明、29-30大阪・安満宮山、30奈良・富雄丸山、31岡山・備前車塚、31-32福岡・大日×2、119群馬・赤城塚、)。 (地名のはじめの数字は鏡の通し番号)
・同向式神獣鏡(大阪安満宮山)。
・半円方形帯二神六獣鏡(岡山・郷観音山、出土地不明)
・尚方作銘浮彫式獣帯鏡3種4面(兵庫・吉島、京都・一本松塚、大阪・万年山、滋賀・大岩山)の計21種38面。これを地図に落とし込んだのが上記の分布図だ。
  
 しかし女王卑弥呼の統率する範囲を示しているとされるのだが、よくみると畿内の東側、東日本に群馬の2枚以外は空白であるが、これを氏は、「偶然かもしれないが、狗奴国の推定地の愛知県や静岡県に分布が知られていないことにも留意すべきかもしれない」とされるが、そもそも狗奴国は「其南有狗奴国」とされているのであり苦しい言い訳であり、決して奈良を中心に鏡を配布したなどとは言えないのではなかろうか。
 また分布図では、九州の藤崎遺跡や筑紫郡妙法寺、若八幡宮などの鏡が無視されており、これらを加えるといっそう九州からの配布と見て取れるのではないだろうか。
 
2.九州との関係を示す三角縁神獣鏡を持つ全国の古墳
 
 見方を変えれば、九州に楔を打つどころか、九州との関係が見えてくる古墳がある。
⑴滋賀県雪野山古墳 竪穴式石室 粘土棺床に網掛け突起を有する木棺が桜井茶臼山古墳にもあった。
雪野山木棺
          雪野山古墳木棺の網掛け突起 『史跡雪野山古墳』より

 またその桜井茶臼山古墳は大量の破鏡で有名だが、この慣習も九州からである。他に類似の木棺は中山大塚古墳、向日市元稲荷古墳、権現山51号墳などがある。
 ⦿九州とつながる特徴
・藤崎遺跡1号方形周溝墓の三角縁波文帯盤龍鏡と同笵鏡
・鉄鏃2本 鏃身に杏仁形の透孔を穿つ短鋒で大型
・鍬形石 行橋市竹並古墳の貝輪の形態が図のように酷似している。
雪野山貝輪
        雪野山古墳の鍬形石は九州の古墳のものと同型 『雪野山古墳』より
             
・両木口に網掛け突起を有する石棺が佐賀県熊本山古墳にあった。
・隣接の西へ10Kの野洲地域の古墳群にも九州との繋がりが見られる。
 大岩山古墳出土の陳氏作神獣車馬鏡は、藤崎6号墳)と同笵鏡。また、古冨波山古墳からも陳氏作四神二獣鏡が出土。近隣の甲山・丸山古墳に阿蘇ピンク石石棺があり、墳丘は版築工法である。

⑵岡山県備前車塚古墳出土の同笵鏡
 前方部がバチ形に開く前方後方形。さらに壺形土器の出土する古墳が、石塚山古墳、椿井大塚山古墳などがある。
・三角縁陳氏作四神二獣鏡:藤崎6号墳、山梨銚子塚古墳、群馬三本木古墳群
・画文帯五神四獣鏡:那珂八幡古墳、椿井大塚山古墳、富雄丸山古墳
・天王・日月獣文帯四神四獣鏡:石塚山古墳・奈良新山古墳
・波紋帯四神二獣鏡:熊本八代、権現山51号墳
  
  以上のように九州からの流れという関係が見えてくるのである。
 繰り返すが近畿に邪馬台国があって、そこから配布されたなどとは決して言えないのである。

佐々木憲一2004『雪野山古墳』遺跡を学ぶ008新泉社
車崎正彦2025『三角縁神獣鏡の配布』(何が歴史を動かしたのか第3巻)雄山閣
東近江市の遺跡シリーズ1『史跡雪野山古墳』ネット掲載

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