卑弥呼の遣使は、魏志倭人伝に「景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡」とあるが、通説では、公孫淵の滅亡で楽浪郡を魏が掌握したのは景初二年八月なので、六月の遣使は無理であり、景初三年が正しいと理解されている。これに対して、卑弥呼は戦中遣使をしたのであり、その困難な情勢の中で、魏に使者を送ろうとした倭国に感激して、魏は手厚くもてなしたのだという主張がある。戦闘状態にもかかわらず、卑弥呼の英断で魏に使いを送ったというのである。これが物語ならばドラマチックであるが、実際は、景初三年の六月であったことを、景初二年説の主張に対して説明しておきたい。
1.卑弥呼に対しての制詔は明帝崩御後の幼少の少帝では無理だったのか
中国はそれまでも幼年の皇帝が相次いで即位し、皇太后や外戚が政権を牛耳ってきていることからも、卑弥呼への制詔が景初三年では無理という根拠にはならない。
例えば前漢の第8代皇帝・昭帝(劉弗陵)は、8歳で即位。武帝の遺詔により、大司馬大将军の霍光が政治を補佐(摂政)。昭帝の若年期は霍光がすべての政務を決済し、朝廷の制詔は実質的に彼の意志で下されている。
また前漢末期、第14代皇帝(平帝の次の皇太子)として、わずか2歳の孺子嬰が擁立される。代外戚の王莽は自ら「摂皇帝」あるいは「仮皇帝」と称し、皇帝の職務を完全に代行している。
以上のような事例があり、明帝の後の少帝の場合も、曹爽や司馬懿が政務を担当しており、倭国の遣使も彼らが対応していたと考えてよい。明帝の崩御後については、三国志小帝紀に「大將軍曹爽太尉司馬宣王輔政」とある。輔政とは政務の補佐であろう。
2. 公孫淵討伐時に密かに海を越えて平定するという記事がある
景初中、明帝密かに帯方太守劉昕、楽浪太守鮮于嗣を遣わし、海を越えて二郡を平定す。
この記事から、6月には二郡が平定されて、卑弥呼の遣使は可能だったとの主張がある。
だが、この「景初中」の時期は3月から8月と考えられる。6月までに平定とする根拠にはならない。あくまでこの「景初中」は明帝が二郡に派遣をすすめた時期であり、実際に平定したのは6月以降であろう。もし中国側が主導権を6月に把握したとしても、公孫淵との戦闘行為は続いており、そのような時期に、倭の遣使が向かったとしても、楽浪郡の太守が都まで同行するなど困難であろう。
さらに言うと、この海からの行動は秘密裏に行われたと書かれている。どうやって倭国はこの極秘情報を得たのであろうか?また倭国は魏に遣使を送ろうといつ判断したのであろうか。魏による二郡への制圧行動の情報を得てから、遣使の判断、決定後の準備、さらには楽浪郡までの旅程期間を考えると、とてもではないが6月は無理と考えるのが普通であろう。
さらに言うと、この海からの行動は秘密裏に行われたと書かれている。どうやって倭国はこの極秘情報を得たのであろうか?また倭国は魏に遣使を送ろうといつ判断したのであろうか。魏による二郡への制圧行動の情報を得てから、遣使の判断、決定後の準備、さらには楽浪郡までの旅程期間を考えると、とてもではないが6月は無理と考えるのが普通であろう。
3.景初三年は呉の侵略があって遣使は困難だったのか?
景初二年の戦中遣使が正しいとされる意見では、一方で景初三年のほうが遣使は困難だと主張される。その根拠とされるのが次の記事である。
赤烏二年春三月遣使者羊衜、鄭冑、將軍孫怡、之遼東、擊魏守將張持、高慮等。虜得男女。
赤烏二年(239)春三月、呉の孫権は遼東に将軍孫怡之らを遣わし襲撃させ、遼東に駐屯していた魏の守備隊の将である張持、髙慮らが戦死し、男女が捕虜として連れ去られた。
公孫淵を討伐して平定した遼東が、今度は呉軍に侵略されて、その三カ月後のこととなるのだが、明帝崩御後の混乱に乗じて侵攻したという解釈があるが、「混乱」といった記述はない。
そしてこの呉の襲撃事件をもって、景初三年の遣使は困難との説明があるが、これもおかしい。この襲撃事件は春三月のこと、しかも、「虜得男女」とあり捕虜はとったが、その後は関連する記事はなく、呉の勢力が半島地域と周辺海域を制圧していたという根拠はなく、一過性の襲撃事件とみられる。よって、景初三年の訪問が困難という理由にはならない。景初三年の遣使が不自然で困難といった主張は疑問である。
4.景初三年と引く『魏志』は別の「類書」のようなもので、間違いが多い、との説
『日本書紀』・『梁書』・『北史』は『魏志』を引いて「景初三年」としているが、この『魏志』が皇帝の命令によって編纂された「類書」の類いであり、その編纂の性格上、間違いがおこりやすいという理解がある。 (なお、ここでは『魏志』という類書があったとは異論もあるので「類書の類い」としておく)
この「類書」は原典をそのまま丸写しするのではなく、必要な部分を抜粋・編集(ダイジェスト化)し、その際に前後の文脈が省略されることがある。また後世の知識による修正が起こるという。後世の類書編纂者が「景初二年に公孫氏が滅び、景初三年に明帝が崩御した」という正史の基本知識を持っていた場合、戦闘の最中に朝貢が成立するはずがないという思い込みなどで、良かれと思って「二年」を「三年」に修正してしまうケース(修史の書き換え)が起こり得るのだという。
陳寿の『三国志』は間違いは発生しないが、「類書」は間違うことがあるというのだが、この論理は疑問だ。陳寿も、それまでの文献、記録を参考にして編集しているのである。その時に思い込みなどで間違いが発生することもあるということも言えてしまうのではないか。しかも「類書」は皇帝の要請で作成されるものであり、間違いが発生しやすいとみなすことには疑問がある。
さらに別の問題だが、邪馬臺国の「臺」も、「壹」としたのは、10世紀以降の版本作成時の誤写と考えられるように、当時の陳寿は景初二年と記していたが、後の写本で景初三年とされてしまったという可能性が高いと思われる。そのような可能性を拒絶して陳寿の『三国志』は間違いが起こらないが、「類書」の類いは間違いが起こるというのは、いささか説得力に欠けるのではなかろうか。
もし『魏志』が類書の類いであっても、それは、当時の『魏志倭人伝』の記事の「景初三年」を正しく書写したのであって、11世紀以降の『魏志倭人伝』が、版本作成時に景初二年と誤刻したと考える方が妥当である。
5.景初二年説では、中国からの使者の正始元年までの空白の1年半を説明できない
景初三年の倭の遣使に対する下賜品の記事のすぐ後に次のようにある。
正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國。拜假倭王、幷齎詔。賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物
遠方の倭国からの遣使に対して、魏は早速返礼としての使者を倭国に送っているのである。ところが、景初二年の戦中遣使があったとする説を推す主張では、困難な状況の中わざわざやってきた倭の遣使に中国側はいたく感激し、莫大な下賜品も与えたという説明をされている。しかし、感激した中国が返礼としての使者を送ったのは二年後の正始元年のこととなってしまう。これは奇妙だ。どうして、翌年の景初三年に使者を送らなかったのか。この空白の1年半を説明できる根拠は見当たらない。
6.『日本書紀』の「明帝」の景初三年という記述が疑問との見方
明帝は1月1日に亡くなったのに、書紀神功紀の「明帝景初三年」と書くのはおかしいとの意見もあるが、別にこれも不自然なことではない。
歴史書の記述として「明帝景初三年」とあるのは、「明帝がその年に生きていたかどうか」を指しているのではなく、「明帝が創始した『景初』という時間軸の3年目」という表現をしているにすぎないことで、「明帝と書くのはおかしい」という批判はあたらないのである。中国の歴史においては、同じ元号名が存在することもあり、短期間で改元もされるので、読者も混乱してしまうので、皇帝名を付けて○○年とする慣習があるので、明帝の景初三年に何ら問題はない。
以上のように、景初二年六月という魏による公孫淵討伐が始まった最中に、卑弥呼がいち早く戦局を見極めて使者を送ったというのは、ドラマチックで、日本人には受ける話だが、現実は二郡を平定して体制としても整ってからの遣使であったからこそ、帯方郡の太守劉夏が対応して使者に同行して洛陽に向かうことができた、というのが自然であろう。
参考文献
古田武彦『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』古代史コレクション22 ミネルヴァ書房
正木裕『「壹」から始める古田史学十二 古田説を踏まえた俾弥呼のエピソードの解釈』ネット掲載他















