流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 邪馬台国

奴国王墓石
春日奴国王墓
 東アジア考古学の門田誠一氏が2023年第13回日本考古学協会賞大賞を受賞された著作。    
 その対象となった研究書が『魏志倭人伝と東アジア考古学』(吉川弘文館2021)こちら
 
 魏志倭人伝に記された倭と倭人の事物・習俗・社会を、同時代の史書・文献、考古資料から検証。これまでの研究とは一線を画す研究をすすめ、中国王朝と周辺勢力との国際関係、編纂の史的環境、描かれた物質文化史の視点から分析し、三世紀の東アジアにおける相対的な位置づけを試みるという労作である。
 受賞に際して日本考古学協会の推薦文がある。そこに以下のような一節がある。
 「一例を挙げると、『魏志倭人伝』が「大作冢、径百余歩、徇葬者奴婢百余人」と記す卑弥呼の墓について、著者は巨大な墳丘を持つ古墳に直結させる通説とは距離を置く。そして著者は多方面からの検討によって、この記事の記主は卑弥呼の墓を高い封土を持つものとは認識していなかったし、多数の奴婢の殉葬というのも事実ではなく、むしろ倭が漢人社会とは異質な礼俗によってたつ社会であるという中国的な思想の産物であるという斬新な結論を提示している。」
 その「多方面からの検討」の中に、実は古田武彦氏の論考も引用されている。次の一節だ。
「古田武彦氏は『三国志』のなかの蜀志五・諸葛亮伝の『山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る』という記事、および蜀志一四蔣埦伝の『大君公侯の墓が通例”墳“であった』とする記事を引いて、歴然とした高さのある人工の墓を『墳』と呼び、それよりも規模の小さい盛り土『冢』と表現したことを記述している。」『邪馬壹国と冢』(歴史と人物1976年9月号)
 卑弥呼の墓の真実を示した古田氏の慧眼というべき指摘だ。さらに森浩一氏などの引用をされたあとに、門田氏は、同時代的意味に近づくことを目的とするという視点で卑弥呼の墓について検討し、古田氏が引用した諸葛亮伝にふれて、「棺を収めるための狭義の墓としての意味の冢としているのだろう。実際にヒミコの冢は『径百余歩』とあり、平面的な大きさに関する記述はあるものの高さに関する記述はなく、これが上述のような倭における墓に対する認識の一端を示しているとすれば、冢そのものは必ずしも高大な封土を備えているという認識はなされていなかったと考えられる」
 現在に至っても箸墓古墳を卑弥呼の墓とするような妄論が絶えないが、半世紀も前に古田氏は高塚ではないこと指摘しているのである。これを引用された門田氏は、膨大な資料を渉猟して意義のある論考は分け隔てなく採用されたのではないか。
 とにかく大作であり、一般人は読むのに躊躇してしまいそうなボリュウームではあるが、魏志倭人伝に関心を持つ人たちには、ぜひ挑戦してほしい考古学の価値ある一書であろう。

※写真は、福岡県春日市奴国の丘歴史資料館、王墓の上石

卑弥呼

 弥生時代の環濠遺跡やその出土物を、真っ先に軍事面でとらえる傾向があるのは、その背景に魏志倭人伝の「倭国乱」の解釈の誤解があって、卑弥呼登場までの長期間にわたって大規模な内乱があったかのように刷り込まれてしまったことが要因と考えられる。
 早くに古田武彦氏が、後漢書の「大乱」が魏志倭人伝の誤読による誇張とされたが、さらに古田史学の会の正木裕氏は、この問題をさらに詳細に述べておられるので、この内容に触れながら現在も続いている誤解を説明したい。

⑴魏志倭人伝の記述を誤読し、さらに創作を加えた范曄(ハンヨウ)の後漢書
 魏志倭人伝の卑弥呼共立前の該当記事は以下のようである。
其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年。
 岩波文庫の訳注は以下通り。 
「その国、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年。」
 次は現代語訳。
「その国は、もとは男子をもって王となし、住まること七、八十年。倭国が乱れ、たがいに攻伐すること歴年」
 岩波は、現代語訳としながら、原文をそのままなぞるような記述になっている。問題となるのは「歴年」で、ネット記事などをみても、「年を経た」という解釈がされていることが多い。ここを古田氏は、他の漢籍の使用例から、この「歴年」は10年程度とされた。出典は不明だがウィキペディアを見ると、「中国正史で歴年とは平均して8年±数年」と記載されている。
 この「歴年」の解釈が異なると、内乱が七、八十年もの間ずっと続いたかのようにも読み取れてしまう。同じように、後漢書の撰者である范曄も誤解をしてさらには、余分な内容も追加しているのである。
 次は後漢書の該当記事。 
「桓靈間倭國大亂 更相攻伐歴年無主 」
 訳注は以下の通り。
  「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更(こもごも)相攻伐し、歴年主なし」
 次は現代語訳。
「桓帝と霊帝の間、倭国は大いに乱れ、かわるがわるたがいに攻伐し、歴年、主がいなかった。」
 後漢書は「桓・霊の間、大乱、主無し」という魏志倭人伝にはない言葉を付け加えているのである。

⑵范曄は漢の滅亡までの混乱から卑弥呼共立までの経緯を創作した
 陳寿が記した魏志倭人伝では、男王の在位期間が七、八十年で、倭国が乱れて相攻伐したのが歴年の10年ほどなのである。乱と在位期間は別なのである。それを、後に後漢書はいらぬ言葉を加えて倭国に大乱があったとしたのである。正木氏は、范曄が漢の末期の様子をもって倭国乱を描いたのであったと指摘する。
 桓帝・霊帝は暗愚な皇帝の代名詞とされており、桓帝は質帝の毒殺で即位したが、毒殺した梁冀を誅殺後に上層部の抗争が続き、霊帝は政治に無関心で黄巾の乱がおきて漢の滅亡へとすすむ。このような経緯と重ねるように、倭国乱を、桓・霊の間からの長期間の大乱でリーダーもない状態になったとしたのだが、実際に主がいなくなって混乱したのは中国の方だったのだ。
 このような結果、桓・霊の間(146~189年)の長期間に渡ってに倭国大乱があったと記述される論考が登場するのである。

⑶誤解で誇張された倭国乱
 弥生時代後半をまるで戦国時代であったかのようにとらえ、各地の遺跡や出土物を、戦争、紛争の視点で説明されることが今も続いている。ローマ逆茂木佐原氏の著作には、「ガリア戦記」のシーザーのローマ軍の例で逆茂木の図との説明があるが、おそらくこういったものから愛知朝日遺跡の場合も、環濠から出土した杭などを、防戦のための逆茂木・乱杭だと決めつけたのではないか。吉野ケ里でも、防御的役割で遺跡の説明がされ、環濠に沿って外堤が盛られ、柵が隙間なく張り巡らされ、さらにはありもしない先のとがった杭を無数に並べるという虚構の復元が行われたのである。
 岩波書店の『魏志倭人伝・後漢書倭伝~』の訳注が、「歴年」をそのままにせず、10年程度の期間であることを明示してもらわないと、この誤解はずっと続くと思われる。誇張された倭国乱が長期間続いたと思い込まされ、弥生時代の遺構、遺物を、なんでも先に戦闘行為という観点で解釈しようという傾向は、早く見直してほしいものだ。
  くどいようだが、リーダーもいなくなるような「大乱」はなかったのであり、男王の即位していた期間の10年ほどの紛争で、ついに卑弥呼が登場することになったということである。

参考文献
古田武彦「邪馬一国への道標」ミネルヴァ書房2016 など
正木裕 「俾弥呼と『倭国大乱』の真相」 2018.10.14久留米大学講演
久世辰男「環濠と土塁――その構造と機能――」月刊考古学ジャーナル№511
原田幹 「朝日遺跡 東西弥生文化の結節点」 新泉社2013
橋口達也「弥生時代の戦い 戦いの実態と権力機構の生成」 雄山閣2007
藤原哲 「日本列島における戦争と国家の起源」  同成社 2018
佐原真 「戦争の考古学 佐原真の仕事4」岩波書店 2005
佐原真 「弥生時代の戦争 古代を考える稲・金属・戦争」佐原真編 吉川弘文館2002

船に乗らない持衰
 魏志倭人伝には船の安全のために喪に服す持衰について記されている。ただこの人物を船に同乗させるのか、否かで見解は分かれている。原文の「恒使一人」のところの解釈が異なる。
其行來渡海詣中國 恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人 名之為持衰 
 同乗説では、「使」を渡海する使者のことで、その中の一人が持衰だとされる。しかし「使」は岩波文庫版では「恒に一人をして ~~喪人の如くせしむ」としており、同じ船に乗せているとは記されていない。持衰が出発から帰着まで一緒にいたとは考えにくいのだ。それは次の記述からも考えられる。持衰は髪をとかずに、シラミもわいている。そんな不潔な人物と狭い船の中で一緒に過ごすのは耐えられないのではないか。さらに婦人を近づけないとあるのだが、そもそも船に女性が乗っているならば、近づいたままになるではないか。これは、陸上にいて、道行く女性に目もくれずに喪にふすということであろう。肉を食べないというのも妙な気がする。長い船旅の中で、肉料理などあったのだろうか。猪肉の燻製なら常温で持つかもしれないが。女性も肉料理も、陸上で生活しているからこそ、我慢しなければならない約束事になるのではないか。さらにはもし遭難に合えば殺すというのだが、同じ船に乗っていたらいっしょに命を失うのだ。以上から、魏志倭人伝にある持衰は船には乗らず、帰るまでじっと喪に服す人としたい。
 持衰という言葉は、中国の漢籍にはなく日本独自のものとする説が一般的だ。岩波文庫版の解説には「他人の喪を引き受けたこと」とあるのだが。渡辺義浩の『漢帝国』の中の服喪についての記事の「『儀礼』喪服篇」では、斬衰(ざんさい)が父・天子などが亡くなった場合に三年の喪に服すで、斉衰(しさい)は父の没後の母の場合に三年の喪に服す、」とのことだ。持衰の場合は、衰弱した状態で喪に服す、といった倭製の熟語であろうか。持は特定の期間ではなく、船の往復の期間中にずっと喪を維持するという解釈もできるであろうか。いずれにしても適当な思い付きでしかないが。ただ、魏志倭人伝の記事は日本の中でも特定の時期の特定の地域の話であって、その範囲外のところでは同船させる喪人、シャーマンなども存在した可能性はあると思われる。

同乗したかもしれない持衰
 魏志倭人伝にいう持衰は、その文面からして陸上で待機したと考えるが、その他の地域や国では、同乗する持衰もいたのであろう。古墳時代の土器や墓室壁画に船が描かれているものがあるが、その中には、他の乗船者と様子の違う表現、さらには頭髪がはねたような人物が見受けられる。シラミがついていたかどうかはわからないが、喪に服したようにじっと船の安全を祈る人物を表現したのかもしれない。また大陸からの難を避けて乗船した移住民は片道切符であり、持衰と同様の役割の人物を同船させていたのではないか。それが、壁画に描かれたと考える。
 時代が下がるが、遣唐船においても特定の仏僧に安全祈願をさせていたこともある。はるか古代から船の安全を祈る儀式などが行われ、その後の持衰の登場にもつながったのではないか。
 こういったことがあって船を扱う人々のあいだで、この慣例が変容しながら受け継がれ、現在にも残っているのだろう。丸木舟を制作して初めて水に浮かべるときにも、まずは儀式があったのであり、それが次の一例のように続いていたのではないか。
 
『じんおろし』  (「自然の神と環境民俗学」鳥越晧之 岩田書院) より
「新しく作った船をジン(船の下に敷いてある丸木をジンキという)からおろして海に出す。まず金山様(鉄の神――道具を使って作ったから)を拝む。いよいよ海に下ろすときに、盛装し化粧をした七歳の女の子を一人船に乗せる。特殊な存在、神として乗せるも特別に仰々しく対応してはいない。沖に出て三回回転する。もどって社にあいさつをする。
 牛を手放す場合も飼い主が牛を曳いて神社本殿を左に三回まわらせる民俗事例があるが、古代人にとって事の始まりも終わりも三回まわることに重要な意味をもたせていたのだろう。あくまで想像だが古代においても完成させた船の処女航海の儀式のようなものとしてシャーマンを乗せて湾内を三回まわるなどということもあったかもしれない。」

 上記の少女を乗せる民俗事例の淵源として、古代の持衰に女性がなった可能性も考えられる。古事記の景行記にはヤマトタケルの船が、荒海で進めなくなった際に、オトタチバナヒメが自ら海中に身を沈めると、波はおさまり進むことができたとある。彼女が持衰の役割を果たしたという話になるのかもしれない。


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