流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 民俗・蛇信仰

離宮八幡茅の輪くぐり

京都府乙訓郡大山崎町 離宮八幡宮 年末年始にすえられる茅の輪くぐり。
 ここは中世のエゴマからなる油の製造販売発祥の地であり、そのエゴマで輪が作られている。

1.茅の輪くぐりは、蛇の脱皮を擬(もど)くものだった。

 茅の輪くぐりは、たいていの神社では、6月の晦日、つまり6月30日に行われる「夏越の祓」の前後に設置される。しかし、大山崎の離宮八幡宮は、年末年始に据えられるが、神社によっては年2回のところもあるようだ。この茅の輪くぐりは、古くから無病息災を願う神事であったが、人が輪の中を通ることが、脱皮を意味するとも考えられている。
 亡くなったイザナミに黄泉の国まで会いに行ったイザナギだが、最後は大げんかとなり決別する。そのイザナギは、「自分はなんとけがらわしい汚い国に行ってしまったのか」と言って、体を清めるみそぎを行う。このみそぎに関して吉野裕子氏は次のように述べている。
 『祭りの原理』の末尾の註⑸に、「伊邪那岐命が阿波岐原(あわきはら)でみそぎされるに際して身につけられたもの、杖・帯・ふくろ・衣・褌・冠などを次々に投げすてる描写がある。何故こうまで詳細にしるす必要があるのだろう。それは、身につけたものを身からとってゆくことが「身殺(みそ)ぎ」つまり「みそぎ」だったのではなかろうか。みそぎは御禊で、身条(みすす)ぎからの言葉と考えられている。『古事記』成立期にはすでに穢れの観念が確立していたので、みそぎもまたこの視点からとらえられ、みそぎが清浄にすることの線に強く結びつけられたのではなかろうか・・・」とし、これは、蛇の脱皮の擬き、まね事として行われたのではないかとされた。禊とかかれると難しい言葉になるが、元の意味が、身を削ぐことと捉えれば納得できる。
 古代より日本人は、本来人間にはない脱皮を呪術として人為的に行い、永生をはかろうとしており、そういうことを日本人は好んだという。そのため、一年の折目節目に行われる年中行事の中に脱皮を擬くものが数多く織り込まれているという。
 年の初めの若水汲み
 年の暮れの大祓い
 三月上巳の雛の節供
 六月一日(ムケノツイタチ)
 六月十五日 祇園祭(水神祭)
 六月晦日 夏越の節句(茅の輪くぐり)
 七月 盆祭り(七夕の竹を流す)
 七月十四日 盆ガマ(屋外にカマドを築く)

 例えば雛祭りの起源は、人形(ヒトガタ)をつくってこれに身のけがれを負わせて水に流すことだったと一般に説明されている。しかし、吉野氏はこれを、人形は本来の人にそっくりで、しかも死物であることから一種の抜け殻であって、脱皮の代用ではないかとされる。
 この三月の節供は、上巳(初めの巳)、つまり蛇の日ということがほぼ室町時代にはさだまったとされる。このことからも、蛇の脱皮を擬くものであったことを内包しており、神事と蛇信仰には深い関係があると理解できる。

2.みそぎとしての脱皮に重要な意味をもたせたニーチェ

 「脱皮できない蛇は滅びる。その意見をとりかえていくことを妨げられた精神も同様だ。」(曙光)

 このニーチェの言葉が持つ意味は深く、その為に様々なところで使われ、企業研修でも好まれる。過去の成功体験に固執していては、環境の激変については行けず、その組織は凋落していく。組織に関わる個々人が、このことに留意する必要があるのだ。何か新しいことにチャレンジしようとする機運を、過去の経験に縛られた人が足を引っ張って前に進まなくすることもよくあることであり、組織の動脈硬化の元凶となろう。
 これは、企業という組織だけでなく、人の関わる組織全般にも言えることだろう。私の関わる古代史会の組織も少しでも脱皮してくれたらとよく思うことがある。ちょうどパソコンに随時更新作業があるように、どんなものでも、過去にこだわらず刷新しないと生き残れないのではなかろうか。
 みそぎとは、脱皮のことであるが、中には身を削ぐようなことはしていないのに、選挙で再選されると、「みそぎは終わった」などと言って、過去の悪事はなかったかのように振舞う政治家さんもおられる。これは、言葉の誤用、悪用だと思ってしまう。その面(ツラ)の皮を、本気ではがしてほしいものだ。
 ニーチェの言葉の真意を真摯にとらえて、一人一人が、脱皮をしたつもりで気持ちを新たにすることが、人生の節目に必要な事かもしれない。

 一年のけがれを削ぎ落すという点からすると、茅の輪くぐりを年末年始に行うのは、理にかなっていると言えるであろうか。
新年にあたって、茅の輪くぐりで、心と体のリフレッシュをされてもいいかもしれません。
 離宮八幡宮はJR山崎駅からは東に徒歩ですぐのところ。 阪急大山崎駅からも改札口前の西国街道を西へ3分。茅の輪くぐりは1月13日どんと祭りまでです。
 なお、東京の五條天神社や横浜市の神明社などでも正月に茅の輪くぐりは行われるようです。

参考文献
吉野裕子『蛇―日本の蛇信仰』講談社学術文庫1999
吉野裕子『祭りの原理』(吉野裕子全集1)人文書院2007

IMG_0461 (1)蛇土偶正面
      頭部に蛇が描かれている土偶、縄文中期藤内遺跡出土      
        長野県諏訪郡富士見町井戸尻考古館


 たいていの土偶と同じく、下半身と左手が欠損していたのだが、発見者らが木製の土台に固定させたそうだ。
IMG_0460頭蛇 横から

IMG_0462頭に蛇
 頭に蛇が表現される土偶は大変珍しものだという。

 表記はされていないが、次に紹介する土偶も蛇を頭に表現しているのではないかと考えている。

DSC_0770望月頭蛇
    長野県佐久市立望月歴史民俗資料館 浦谷B遺跡縄文時代後期前半

 顔も欠けてはいるが、目の表現から少し表情が怖い印象をもつ。

DSC_0778望月頭蛇上から
 頭部を見ると、同じような形状で描かれており、蛇と考えてよいのではないか。突き抜けてはいないが、先の藤内の土偶と同様の小孔がある。
 
1.蛇をあやつるシャーマンの土偶なのか?

 民俗学の谷川健一氏は、この土偶を沖縄・奄美の事象と比較して「縄文中期において、巫女は自分の侍女の頭にマムシをまきつけて、それが噛まないことを衆人にみせ、自分の威力を誇示したのであったろう」とされている。はたして縄文時代にこのような呪術を行う巫女・シャーマンがいたのであろうか。いたとしたら、では、何のために蛇を使う巫女を表現する土偶をつくったのであろうか。  
 この左手と下半身が欠けているので全体像はわからないのだが、蛇以外の特徴としては、左目の下に入れ墨、もしくはペイントで2本線が描かれているぐらいだ。この土偶がシャーマンなら、もう少し玉飾りとかの装飾表現があっても良いのではないかと思える。頭には小孔があってそこに鳥の羽を刺していたという表現は考えられているが。どうも私にはシャーマンの姿を造形したようには思えないのだが。縄文の人たちが、なにか具体的な目的を持たせたものではなかろうか。

2.出産に立ち会ってもらう守り神

 土偶の用途については、様々な説が出されているが、決定的なものはない。『土偶を読むを読む』(こちら)にはその全容が時系列にわかりやすく説明されている。そこにも記されているが、土偶にも時代や地域によって共通する要素をもちながらも異なる目的で作られていると考えるしかなく、縄文人の切実な願い、宗教観による呪術的な祭具であったのではなかろうか。とりわけ、この頭に蛇を戴く土偶は、かなり特別なものであったと考えられる。
 そこから、私の単なる思い付きだが、当時の出産の際に助けてもらえる存在としての土偶であったのではと考える。戦前の日本にあった、地域の女性が妊婦といっしょになって、いきんでみせるという習俗のようなものが、縄文の女性たちにもあったのではなかろうか。当時は出産時に母子ともに死亡するような事故も少なくなかったであろう。本人だけでなく、周りの女性たちもいっしょになって安産を祈ったはずである。
 蛇は、古代より出産と密接な関係があることを既に説明している(こちら)。前回紹介した『日本産育習俗資料集成』の分娩の項には、産婦に子安貝、またはたつの落とし子をにぎらせる(和歌山県)、といった安産の為の事例が紹介されているが、なかには、まむしの頭を頭髪にはさんでいるとめまいをしない(福井県)、出産時に蛇の抜け殻を腰につけるとよい(群馬県)といった、蛇を産婦の守護的な存在に見立てている事例がある。
 土偶の目的・用途の説の中には、早くから安産のお守り説があったが、あまり肯定的な評価はない。私見では、単なるお守りではなく、蛇が描かれた土偶も、妊婦を守り、安産で生まれるためのものであり、なかには、妊婦がこのような土偶を握っていきむようなこともあったのではないかと考える。出産の際に一緒に立ち会ってくれるお守り、そばに置かれて、苦痛を分かち合ってくれる存在としたい。
 よって、蛇を頭に戴いた土偶に限っては、出産立ち合い土偶、お産に寄り添う守り神、となるであろうか。ひょっとすると、蛇の表現のない他の土偶にも、同じような使われ方があったかもしれない。あくまで妄想ではあるが。なお実見はしていないが、蛇だけでなく、猪や蛙を頭に載せた土偶もあるという。猪も多産であることが関係するかもしれない。

参考文献
谷川健一「蛇 不死と再生の民俗」冨山房インターナショナル, 2012
望月昭英編「土偶を読むを読む」文学通信2023
写真は、井戸尻考古館と望月歴史民俗資料館にて

産屋
写真は京都府福知山市三和町大原地区、国道173号線沿いの大原神社に隣接の産屋
大原産屋パネル

1、日本書紀にみえる臼を背負う天皇の意味

 日本書紀には、景行天皇の二年に皇后が双子を生む記事がある。大碓(おほうす)皇子と小碓(をうす)
の兄弟の誕生の逸話だが、小碓が後のヤマトタケルである。そこに、次のような一節がある。
 一日同胞而雙生、天皇異之則誥於碓 (双子が生まれ、天皇はあやしびたたまひて、すなわち碓にたけびたまいき)
 現代語訳では、「一日に同じ胞(えな)に双生児として生まれられた。天皇はこれをいぶかって、臼に向かって叫び声をあげられた」(宇治谷孟)
 生まれた双子の命名譚であるが、天皇の臼がどう関係するのか説明不足の記事である。これについては、いくつかの解釈があるが、民俗学の中山太郎氏の栃木県における妊婦の夫が臼を背負って家の周りを回る習俗など、出産と臼に関連があると論じ、これを受けて人類学者の金関丈夫氏は、天皇が二人が生まれるまで重い臼を背負っていなければならなかったので、天皇が思わずコン畜生と叫んだと解釈されている。
 そう遠くない時代にも残っていた風習が、日本書紀にも記されているというのが興味深い。これは、妊婦の出産時の苦しみを少しでも緩和させようと、出産に立ち会う人が疑似体験をすることだったのであろう。それは、特に古代では切実な安産への願いからくるものであったのだ。

2.みんなで踏ん張れば安産になるという習俗

 妊娠から出産、育児にわたって人々が行ってきた風習などを集めたものに「日本産育習俗資料集成」というものがある。民俗研究者等による全国調査を昭和10年にまとめたものだという。そこに、臼を担ぐ話は見当たらないが、興味深い事例があるので紹介する。
 「分娩」の項に島根県安来市の山間部にある赤屋村のソウヘバリという習慣。ソウは総、ヘバリは力(リキ)む、とかいきむこと。この地方の方言であろうか。戸数12戸の小部落であるが、妊婦が産気づくと直ちに隣家に知らせ、そこから全戸に知らせると、主婦は残らず駆け集まり、産室の隣家で産婦の陣痛が起こるごとに、全員が、うんうん声をそろえ、産婦の呼吸に合せてヘバルのである。すると必ず安産するという。今日多少衰えたがなお行われているとのこと。ただ、「今日」とは調査時の戦前のことであり、現在は行われてはいないだろう。
 それにしても、主婦が総出で妊婦と同じ苦しみを、いきむという行為の疑似行為で共有するというのは、女性たちが同じ苦しみを知っているからこそであろう。このように、臼を背負って踏ん張ることと似たような安産の為の習俗が行われていたのである。同じような行動ではなくても、このような地域の絆、共助の精神が広く全国にあったのではなかろうか。
 
 上記の資料には、産室に力綱という縄を吊るしてあったり、刃物が置かれたり、しめ縄張ったりする事例もあるが、写真の産小屋にも、入り口に鎌が、室内には力綱が吊るされている。
産屋中

 安産の願いに関しては、底なしひしゃくが各地にあったというが、これは現在にも多くの神社で見かけるもので、今も途絶えずに継承されているということだろう。
 他にも、妊娠から子育てまでの様々な習慣、神仏祈願の民俗などが豊富に語られ、なかには堕胎や間引きといったおぞましい内容もあるが、昔の人々の苦労、願いを知る貴重な資料である。
 この『産育習俗資料集成』は国会図書館HPで閲覧できるので、ご興味のある方は是非ご覧ください。

参考文献
恩賜財団母子愛育会編「日本産育習俗資料集成」 第一法規出版株式会社発行 日本図書センター 

        諏訪大社
 古代から水神や在地の守護神とするような蛇信仰があった。人の命を奪う毒牙を持つものもあり、姿を見かけると多くの人が忌避するであろう蛇を、人はどうして神にしたのか。しかも崇められるはずが神話では最後に一刀両断に切られるのは何故なのか。人が蛇をどのように捉えていたのかを考えてみたい。

(1)蛇は世界中で神となっていた。
 博学無比の南方熊楠は「蛇の伝説は無尽蔵」とした。日本でもはるか昔から蛇は特別な存在だ。縄文時代の土器には生々しく蛇が造形されたものがある。しかしたいていの研究者は直接言及されない。       
松川町土器
「ありきたりの修辞にいら立っていた」谷川健一氏は述べる。「蛇身装飾土器によってそうしたあいまいな比喩を突破して前進した・・・蛇に憑かれた人間たちが縄文中期に存在し、集団表象を生むにいたった」と。縄文の時代から蛇信仰はあったのだ。それだけではない、さらに人類の歴史をさかのぼる今から2万数千年も前の後期旧石器時代、バイカルシベリア、マルタ遺跡の出土物に細かな線刻が波打つような文様があり、明らかに蛇が描かれている。
 蛇信仰は世界各地に広がっていた。エジプトではコブラが太陽、火のシンボルとされ、王の冠や額の装飾となった。インドでは七つの頭のナーガ信仰があってタイなどにも広がった。中国の祖先神は伏犧、女媧(ふくぎ・じょか)の人面蛇神の夫婦神だ。台湾では噛まれると百歩も行かぬうちに死ぬという猛毒の百歩蛇(ひゃっぽだ)が、首長の祖先として崇められその図柄の衣装を纏った。古代メキシコでは羽毛を持つ蛇のケツァルコアトルが蛇神として崇拝されていた。チチェン・イッツアのピラミッドは春分と秋分の日に太陽の光と影で階段底部の大蛇の頭から見事に胴体が浮かび上がる。今はYouTubeで容易に見られるが、1977年当時のテレビ中継を画面にくぎ付けになって見ていたものだ。その神秘的な光景に謎は膨らむばかりだった。どうして蛇なのか?

⑵吉野裕子氏の蛇信仰論
 なぜ蛇が信仰の対象として、神として崇められたのかを、氏はいくつも蛇という生き物のもつ特性から解明されている。すべてはふれられないので、いくつか重要な点を述べる。
 四肢がないのに動きまわれて男根の形をしていること。古代人の信仰にとっては陰と陽の観念は欠かせないものであり、蛇を陽物として崇めたであろう。
 敵を一撃にする毒をもつこと。神は人のためになる優しい存在ではない。神は恐ろしい力を持つものであると考えられ、蛇の攻撃力は神として畏れられたであろう。
 脱皮を繰り返すこと。古代人は間近にその行為の様子見て、蛇のように脱皮ができない人間は、それを神事の禊ぎとしてもどく(まねる)ようになったのだと。今でこそ清い水で身体を洗い流すこととされるが、元は蛇の脱皮からきたのだ。氏の卓見だ。蛇の抜け殻まで信仰の対象や薬とするなど、脱皮という行為への関心は高い。茅輪くぐりも脱皮にあやかろうとした行事だと氏は指摘する。ニーチェは言った、「脱皮できない蛇は滅びる。その意見を取りかえていくことを妨げられた精神も同様だ」(『曙光』)
 こうして蛇は祖霊、祖先神と見なされることになった。エデンの園でアダムとイヴをそそのかす蛇は悪魔と見なされ、一神教にとっては排撃の対象となるが、それでも世界各地に蛇信仰は広く深く根付いている。氏によればやがては直接的な表現から、蛇に似た造形の対象を崇めるといった見立ての信仰が深く広がったという。
 二十時間を超えるという記事もある濃厚な交尾の様子。驚異的で霊的な生命力を表すその姿がしめ縄を表すというのも的確な指摘であり、出雲大社や宮地嶽神社の巨大なしめ縄も蛇の交尾から考えられた造形だ。    
 蛇が神の資格を持つに十分な理由となろう。しかし、古代神話研究の堂野前彰子氏は、吉野氏の解説ではなぜスサノオが大蛇を退治するのかなどの説明がない、とされる。もっともな指摘である。はるか古代より蛇が特別な存在と認識されていたのは、私はまだ他に重要な事情があると考える。

⑶蛇は水の神様だけでなく、再生、そして命を生み守る存在だった。
 世界保健機構の旗には、ギリシャ神話の医学神アスクレピオスに由来する杖に巻き付く蛇が意匠となっている。アスクレピオスは常に蛇の巻いた杖を持って怪我や病気で苦しむ人たち助ける。彼が蛇の持つ生命力、治癒力を使える存在なのだろう。蛇は永遠の命を持つとも考えられていた。それは脱皮をする蛇が、禊ぎとされた精神の更新のみならず、命の再生とつながるからであろう。
 蛇が人の生命と関係づけられていることから、実際の赤子の誕生も蛇とつながると考えられる。吉野裕子氏は、生れたばかりの赤ん坊も最初は蛇のように扱われる。袖のない着ぐるみで身体を巻かれておかれるのは、蛇としての扱いを意味するという。その赤ん坊の誕生の時に、人が蛇とイメージするものがあったのではと考えたい。古代人が蛇を神と考えた最大の理由、それは母と赤ん坊をつなぐ、臍帯、へその緒によるものではないだろうか。古代人は臍帯につながれた生命誕生のシーンを目の当たりにして、驚異的であり神秘的な光景に戦慄し、お腹とつながったへその緒に神の姿を思い描いたかもしれない。人類は進化の過程で蛇の存在を早くに察知して警戒する遺伝子をもったという。人類の祖先が、生れたばかりの赤ん坊と母をつなぐへその緒を蛇だと直感したとしてもおかしくはない。

⑷蛇と見立てられた臍の緒
 出産後の胎盤と臍帯は現代では医療機関を通じて処理されるが、古代においては、住居の軒下や周辺に埋納された。縄文時代からその風習は続く。どうして大切に扱われたのか。フレイザーの「金枝篇」によると世界中で行われていたとされ、子供の守護霊などのように見なされていたという。生れるとお役御免で処分されたのではないのだ。守護霊などと考えられたのは、臍帯すなわち臍の緒がまさに蛇だと考えられたからではないか。ギリヤーク族のように森の一本の木に吊るすなどは、木の枝を這う蛇のようにしたのだろうか。
 日本書紀の崇神紀の箸墓伝承には,他の説話と同様に諸外国に類似の話がある。大地のガイアとの間にできたエリクトニオスを受け取った女神アテネは、自分の児を三人の娘に預けた。その際アテネは箱の中を絶対に見てはいけないというが、二人の娘は言いつけを破って箱の中を見てしまう。箱の中には半人半蛇のエリクトニオスとそれを守るように赤児に巻き付いた蛇がいた。これを見た二人の娘は半狂乱になって自殺する。これは巻き付いた蛇が臍の緒を意味しているのではないか。日本の場合は、夜にしか訪れないオオモノヌシの姿を見たいというモモソ姫の願いがかない櫛用の小箱の中を見ると、そこには小蛇がいた。お腹からとれた臍の緒を小箱に保管する慣習が現在にもあるが、古代にもなんらかの入れ物に保管されることがあってこの説話につながったのかもしれない。注1 以上のように臍の緒を蛇と考えたことが、蛇神の成り立ちの決定的な理由と考えたい。

⑸藁蛇と綱引き神事 
 ヤマタノオロチ神話のような、最後に蛇が切られる説話は各地にある。11世紀にパガーンに王朝を創始したビルマのアノウラータ王は、チャウセ地方の灌漑工事を始めたある夜に三匹の蛇の夢を見た。王は南方の蛇を四つに切ったが、南の河に四つの堤防と運河を建設したことを意味した。さらに真ん中の蛇を三つに切ったが、中部の河の三つの工事の完成を意味した。北方の蛇は切ることができず、北方の河の工事は失敗に終わったという。蛇と治水工事が関係する話だが、重要なのは蛇を切ることが工事の完成を意味するのであり切らなければ仕事は成就しないということだ。
 同様の説話が大蛇山祭りを行う九州の三池にもある。人々を苦しめていた大蛇のために玉姫が生贄になる。そこに以前に姫が大切に育てたツガニ(モズクガニ)が大蛇をハサミで三つに切って姫を救う。山頂にある三つの小さな池は三つに切られた大蛇の身体のあとにできたものだという。
小山蛇
 スサノオはヤマタノオロチを切ったことにより、もう生贄の必要はなくなった。神楽の蛇切りは出し物のクライマックスとなるもの、欠かせない演目だ。各地に藁蛇の祭りがあり、最後に樹木に掛けたり巻き付けられるがなかには頭を切り落とす行為もある。私はこれを、ビルマ王の説話にあるように切ることで事が成就する意味を持つと考えたい。蛇である臍の緒から生命が生まれるが、つながった緒を切ってやっと出産という大事業は完了する。だからオロチ神話は最後に切られる話として作られたのではないか。
 各地に残る綱引き神事の始まりも私は出産と関係があるとしたい。その勝敗によって豊作や今年の降雨を占い最後に綱は切られるのだが、母体と胎児がつながった臍帯を蛇と見立てた綱のように考え、綱引きの踏ん張りを出産時の「いきみ」の再現のようにもどく行為としたのではないか。最初から勝つ方が決まっている場合もある。大人と子供の対決では、最後はわざと子供が勝つようにしている。それは子供が勝つことで誕生になるからである。母体と胎児が綱引きをして最後に生まれ出て臍の緒は切られる。
 雨乞いや洪水抑制の祈りの最後に、さらには治水工事の完了の際に、臍の緒を切るように蛇神と見立てられた藁蛇や綱を切ったり弓で射るなどして神事祭祀が無事に終わるのだ。
 以上のように古代人は、出産時の臍の緒を見て、それを蛇が生命を生み出したと考えた。これが蛇信仰の始まりであったと考えたい。

 蛇足だが、現代の開通式や竣工式のお披露目として行う儀式にテープカットがある。アーサー王の時代からあったといわれる。これも関係があるかも知れない。作られた建造物はテープを切られることで初めて稼働できる。テープは蛇に見立てた臍の緒なのだ。出産後の緒を切り離す際には医療用の刃物が使われるようだが、テープを切るハサミも専用のハサミが使われるのだ。

注1 福岡県筥崎宮(はこざきぐう)の境内にあるご神木「筥松」の由来 神功皇后は生んだ応神の胞衣、臍の緒を筥(箱)に入れて岬に埋めたところに標(しるし)として松を植え「筥松」と名付けられて以後、筥松のある岬(崎)ということで「筥崎」の名が起こったと伝わっている。

参考文献
南方熊楠 「十二支考」 全集1
谷川健一 「蛇 不死と再生の民俗」冨山房インターナショナル 2012
吉野裕子 「山の神」「蛇」「日本人の死生観」講談社学術文庫など
堂野前彰子「日本神話の男と女 性という視点」三弥井書店 2014
服部英二 「転生する文明」藤原書店 2019
木下 忠 「埋甕、古代の出産習俗」考古学選書18 雄山閣 2005
緬甸史G.E.ハーヴェイ 著, 東亜研究所 訳. 東亜研究所, 昭和19
原尻英樹 「三池・大牟田の大蛇山祭り」『東シナ海域における朝鮮半島と日本列島』かんよう出版2015
小島瓔禮 「蛇の宇宙誌」東京美術1991
大林太良 「神話学入門」筑摩書房 2019
米山弓恵 「神話と祭礼の文化地理学的研究」ネット掲載
櫻井龍彦 「江戸期までの綱引き風俗図誌の集成と考察」ネット掲載

※古田史学論集 第二十三集に所収のものを改訂したものです。

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