流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: シルクロード

IMG_1004
 史君墓石堂 複製 陝西省西安市より出土579年に亡くなった史君と妻の康氏(ソグド語ではウィルカークとウィヤーウシー)ために造られた精緻な浮彫が見事な石堂。いわば豪華な家形石棺と言えようか。

IMG_1008 (1)
 正面入り口の上部にある銘文は、ソグド語で記されたもの。

石堂正面
 入口の左右には、半人半鳥の神官が、火の祭壇の前で儀式を行う様子が描かれている。楽器(琵琶やハーブ、笛など)を演奏する人たちもいる。

石堂背面
 左側面と裏面には、生前の夫妻の暮らしぶりが描かれている。もちろん裏側は見えないが、その図が図録にあり転載させていただく。(図をクリックしていただくと拡大して見れます)史君は薩保の台形のフェルト帽を被ったり、鳥翼冠を載せていることもある。これだけの立派な石堂であることからも、ソグド人キャラバンのリーダーであり、胡王であったといえる。

IMG_1007 (1)
 そして、右側面も重要なのだが、夫妻が渡ろうとするチンワット橋の場面が描かれている。展示室の壁とのすき間から、斜めに見るしかないので、図も掲載して、簡単に説明する。

史君墓チンワト橋
 石槨(石堂)の東壁に、故人の魂がチンワトの橋の上を進んでいく様子が描かれている。右下に二人のゾロアスター教の祭司がバダーム(マスク)をつけて橋の方を向いて立っている。そこで使者の魂を来世に送る儀式をとりしきる役割だという。史と彼の妻が行列を率いて橋を渡っている。あとに子供と馬2頭、ラクダなど動物が続く。重要なのは史と妻が橋の下にいる牙をむき出した怪物を無事にやりすごしたことにある。
 ゾロアスター教の教えによれば、真実を話し、正しい行いをした者だけが、無傷で向こう岸まで渡れる。そうしなかった者は、橋がどんどん狭まって刃1枚ほどになり、最後は下に落ちて死んでしまうという。この話、何か似たものが・・・
 松本清張氏も言及しているので、引用させていただく。
「死んで四日目になると死者の魂は『チンワットの橋』のたもとまで風に運ばれ、アフラ・マズダ神によって生前の行為を秤にかけられる。悪なる魂は橋の下にひろがる地獄へ落され、善なる魂は橋の向こうの天国へ行く。どちらにも行けない魂は、天国と地獄の間にあって最後の審判の日まで待たねばならない。
 ゾロアスター教(拝火教)は中国に入り祆教となり、密教では護摩、東大寺二月堂の修二会の松明、鞍馬の火祭り、民間行事のどんど焼きなどになる。
 またゾロアスター教の『チンワットの橋』の裁きは仏教に入って閻魔大王の裁判、キリスト教の『最後の審判』に変化する。」(松本1990)
 そう、嘘をつけば下を抜かれる閻魔様と三途の川の話の元となるものではないか。半島に胡僧が仏教を伝えたというが、日本にもソグド人が、仏教にゾロアスター教やマニ教などの要素含めた宗教文化を伝えっていったのではないだろうか。

IMG_1011 (1)
 正面の階段の左右にも人物が描かれている。泣く人の表現が見られ、なにやら、人の顔にもみえるが体つきは動物?を囲むように悲しんでいる様子も両側にみられる。説明がないので想像だが、この造形は、おそらく人面鎮墓獣かもしれない。一対の鎮墓獣を墓に副葬する習慣が北魏の時代から唐まであったようだ。そういえば武寧王陵からも鎮墓獣が出土している。

江田船山古墳石室
 最後に、このような立派な石堂は日本に例はないが、これも想像ではあるが、熊本県の江田船山古墳の石室は、墓室と棺を兼ねたようなもので、この石堂のイメージで渡来工人が簡略化して作ったものと思っているが、どうであろう。
 まずは、直接ご覧いただいたらと思う。

参考文献
ヴァレリー・ハンセン『図説シルクロード文化史』田口未和訳 原書房2016
松本清張『過ぎゆく日暦』新潮社1990
大シルクロード展図録 発行東京富士美術館

IMG-7901
 スマホでいくつか撮影したが、あとで図録を見て、さすがというか、やはりプロの写真は違うということを痛感した。また、ショーケースに展示された中で、小ぶりの器物は肉眼では細かいところは、よほど視力のいい人でない限り見ることは出来ないと思う。特に金製品の模様などの良さはわかりにくいのではないか。コインの展示のブースでは、すべてに拡大した図版が手前に一緒に並べられているのだが、金製品もこのようなものが必要だったかもしれないが、図録ではその細密な文様を確認できる。また、展示品の色合いなども図録の写真はすぐれている。専門家の解説もあり、ぜひ、展示品を直接見ていただいた後に、図録も見てほしいと思う。けっして主催者側の回し者ではありませんが(笑)
 いくつか、そういった事例を説明します。

 まずは、冒頭写真の図録の表紙の六花形脚付杯だが、小さめのお茶碗ほどの大きさであり、肉眼では、ここまでよく図柄を見ることはできない。この金製品に人物も馬も丁寧に描かれていることに感心するが、内側の底に描かれた魚の様子もよくわかる。さらには、描かれた図の外側がびっしりと魚々子(ななこ)という小さな円文で埋められており、それは脚のところにも施されている。気の遠くなるような作業だ。図録の写真でぜひ確認してほしい芸術品の一つだ。蛇足だが魚々子文様は、漢委奴国王の金印の蛇にも施されています。

IMG_0917 (1)
IMG-7905
 耳環 北魏5世紀の金とトルコ石の象嵌による耳飾りだが、上のスマホ写真ではよく見れないが、これも図録の拡大写真で、見事な工芸技術を見ることができる。小さな耳環の表面をしかも3列にわたってトルコ石がはめ込まれている様子もわかるが、そのすき間にロウ付けした直径が1ミリにもみたない粒金が並べられているのは驚きだ。
 この粒金の制作とロウ付けの技法は、かなり複雑で高度なものであることを、由水常雄氏は『ローマ文化王国―新羅』で力説されている。細線粒金細工の技法で、まずは鋳造した金の棒を技術的操作をくり返して細くする。その細線を複雑な工程を経て溶融させる。その金属片は、表面張力によって金の細粒となる。ロウ付けの方法は、緑青を擦り下して糊と水を加えてペースト状にしたもので、細線や粒金を接着させる。その加熱処理も複雑。私の説明ではちんぷんかんぷんなので、参考文献の由水氏の解説を末尾に抜粋させていただいたので、ご覧いただきたい。
 とにかく、この金製の小さな装飾品は相当な手間と技術が詰まった一品であることに間違いない。この技術はギリシャにあったものが東伝していったとのことだ。

IMG-7906
 この粒金細工がよくわかるのが、2個の管状飾だ。これも長さ2.7cmと3cmで、ショーケース越しでは、視認しづらい。よく博物館の展示では、拡大ルーペを設置していることがあるが、それが必要なレベル。図録では、この細線と粒金の様子が明瞭である。

IMG-7908
 龍文帯金具 前1~後2世紀 金とトルコ石 いわばバックルだが、金の薄板を打ち出して成形した見事なものだが、これも、スマホ写真ではきれいには見れない(自分の技術不足もあろう)が、図録では鮮明に文様やトルコ石の象嵌も見られる。大龍と小龍が7匹という文様もすごいが、ここに先ほどの細線とこれまた極小の粒金が施されているのには驚嘆するしかない。いい仕事してますねぇ。


 金製品ではないが、図録写真で細部まで美しさを堪能できるものを紹介しておく。

IMG-7913
 原作は7世紀の阿弥陀仏説法図の模写だが、右脇侍(向かって左側)の観音菩薩の拡大図では、よくここまで微細に描いたものだと思うが、装飾文様とその美しさをたっぷり堪能できる。

 この図録はちょっと豪華で値が張るものなので、今更ですがもう少し廉価にしてほしかったとは思う。図録はその見本が館内に置かれているので、見学中に参照されてもいいかもしれない。

◆細線粒金細工の技法 (『ローマ文化王国―新羅』より抜粋
 まず、鋳造した金や銀の棒を、二枚の石板やブロンズ板の間に挟んで、圧力をかけてころがしながら少しずつ細く伸ばしていく。所定の太さになったら、先端部分を細かく作って、瑪瑙やブロンズの塊に穿けた穴の中に差し込んで、ゆっくりと抽き出してゆく。この操作を何回かくり返して、細い金線や銀線を作る。
 粒金の作り方。細い金銀線を、ほぼ直径と同程度の長さに切って、堅炭の粉末の中に並べ、さらにその上から炭の粉末をかける。再び金線片を並べて、その上から炭の粉末をかける。こうした工程を幾層か重ねて、これを加熱し、金線片が熔融するまで熱を上げる。熔融した金線片は、表面張力によって金の粒となる。これを洗浄して、再び石板等の間で研磨処理を加えて、粒金に仕上げる。
 蠟付けの方法。緑青を擦り下して糊と水でペースト状に作り、粒金や細線を、基板の上に接着する。摂氏100度で緑青は酸化銅になり、摂氏600度で糊は炭化する。さらに摂氏850度まで上げると、炭は酸化銅の酵素を奪い取って、純銅の被膜を基板の上に残し、炭酸ガスとなって消失する。そして、そのまま加熱して摂氏890度に達すると、被膜となった銅は、基板の金や細線粒金の金などと反応して合金化する。いわゆる蠟付けの終了。


参考文献
由水常雄『ローマ文化王国―新羅』新潮社2001

IMG_0832
駱駝さんがお出迎え。本物、というか剥製。名前が付いてます。
中国の敦煌研究院から東京富士美術館創立者の池田大作氏に寄贈されたものだそうです。

IMG-7898 (1)
生きてるようにみえます。体毛はけっこうふさふさです。これを見ると、「田道間守の非時香菓、橘はナツメヤシのデーツだった」で説明しました、『漢書』司馬相如伝下の顔師古注にあります「弱水ハ西域ノ絶遠ノ水ヲ謂ウ毛車ニ乗リテ渡ルノミ」の毛車こそは、毛だらけの乗り物で駱駝のことだと実感できます。

大シルクロード展は2025年2月2日(日)まで開催
京都文化博物館:京都市中京区高倉通り三条上る東片町623-1
開室時間 10:00〜18:00(金曜日は19:30まで)入場料一般1600円
休館日 月曜日(1/13は開館)、12月28日(土)~1月3日(金)、1月14日(火) 
主催 京都府、京都文化博物館、中国文物交流中心、毎日新聞社、京都新聞、MBSテレビ

 実は、なんと、会場に入ってからわかったんですが、撮影OKなんです。事前に知ってたらカメラ持っていったのに、と思いましたが、携帯で撮りまくりました。でも・・・図録の方がとても綺麗。(^_^;) それに、こまかい器物が多く、拡大されたものが見れますのでなおさらです。
 平日に行きましたが、それでもたくさんのご来場。高校生たちが、レポート用紙を持って懸命に美術課題?に取り組んでいました。
 大きなシルクロードの遺跡マップの前で、老夫婦が指で示しながら長いこと語り合っておられたのが印象的。きっと以前にご旅行されたんでしょうね。
 
 入口で音声ガイドを650円で利用しました。石坂浩二さんのナレーションですから、当然、雰囲気出ます。少々高いですが。
 では、ほんの一部を私の拙い写真でご紹介します。

IMG_0862
瑪瑙象嵌杯 5~7世紀 ウイグル自治区 金と瑪瑙  虎がついてます。

IMG_0878
マニ教ソグド語の手紙  ソグド語は縦書きで日本語みたいだが左から右に読むところが違います。彩色の絵の中央は金箔。

IMG_0883
草花文綴れ織り履  砂漠化したニヤ遺跡で1~5世紀頃のミイラとなった被葬者のものですが、複製ではなく色の鮮やかさが残っているのがすごい。

IMG_1012 (1)
史君(しくん)墓石堂 複製品 元は北周大象2年(580)ソグド人の墓から見つかったもの。ソグド語の銘文があり夫妻のために造られたもの。浮彫が見事です。 

IMG_0994
IMG_0995
車馬儀仗隊  後漢1~3世紀 青銅  馬が曳く車の構造もよくわかります。

男子跪坐像
男子跪坐像  青銅 サカと呼ばれた民族か。尖り帽子が特徴

IMG_0942
樹下美人図  唐8世紀 正倉院の鳥毛立女屏風の女性とそのスタイルなど似ています。

IMG_1016
女子俑 唐8世紀 三彩、加彩  当時の女性の最先端のファッションがうかがえるとか。履の先が上に反っているのも注目です。

IMG_1023
駱駝 唐8世紀 三彩 こぶの間に獣面文の革袋、荷物が詰まっています。

IMG_1040
下からのぞくと大きな穴が。中は空洞なんですね。

IMG_1035
騎馬胡人俑  唐7~8世紀 三彩、加彩  ひげをたくわえたソグド人

胡人俑  いずれも唐7~8世紀 三彩、加彩  頭に山高のフェルト帽

IMG_0908 (1)
連珠対鹿文錦帽子 7~9世紀 文様はわかりにくい。つばに35本の絹布が垂れ下がってますが、用途は不明。見学者からかぶったら前がじゃまではとの声も上がってました。

IMG_0963
巨大なシルクロードの風景パネルも雰囲気が感じられていいですね。

 また、後日紹介していきます。



中国ポロ
 天理参考館の中国唐の時代、乗馬ポロを楽しむ女性を描いたもの。おそらく、彼女の右手にマレットが握られていた。このポロが高松塚古墳絵画にも関係している。
高松塚絵画
 同じ古代史の会で奈良新聞の方から、うれしい知らせが届いたので、転載させていただきます。 向かって右側の男性が持つものがポロのマレットだという見解を論証されている。注目は、このポロが、唐にはソグド人が伝えたこと、さらに「大陸に目を向けることで新たな境地が開けるのでは」というところであり、おっしゃる通りである。私も以前に、こちらで少しふれていますので、ご覧ください。
 実は壁画の向かって左側の男性が手にしているのは、折りたたみ椅子の床几である。当時は、誰もが持っていたものではない。これも騎馬遊牧民に関係するもので、これについては、改めてふれていきたい。
 この壁画の問題に限らず、古代の様々な事物も、ユーラシアを視野に入れた検討が必要と思われる。

2024.05.08 奈良新聞
奈良県明日香村、高松塚古墳壁画・西壁男子群像の“杖”「ポロ」のマレット~ 橿考研の中村氏「唐の壁画と共通点」史資料検討し独自見解
 奈良県明日香村の国宝・高松塚古墳壁画(7世紀末~8世紀初め)の西壁男子群像が手にする杖状の持ち物は、ポロのマレット(スティック)ではないか―。中国・唐や中央アジアの壁画と史資料を検討し、そんな説を県立橿原考古学研究所(橿考研)の中村健太郎主任企画員(中央ユーラシア史)が発表した。これまでマレットとみる見解もあったが、証拠を示して論じたのは初めて。
 高松塚古墳壁画の西壁男子群像のうち右端の人物は、先端がL字型をした杖状の持ち物を手にする。従来は権力を象徴する威儀具とみるのが通説となっていた。
 中村さんは近年発掘調査が進む唐の壁画に描かれた、男女の従者の棒状持ち物を調査。男子はポロの毬杖(きゅうじょう=マレット)、女性はT字型やU字型の杖と描き分けていることが分かった。唐時代の出土遺物も調べた結果、毬杖はL字型で高松塚壁画と共通し、中村さんは「高松塚壁画の持ち物もマレットと判断できる」と話す。
 ポロは馬に乗って行う団体球技。ペルシャ発祥で中央アジアを経て唐や日本へ伝わったとされる。
 中村さんは中央アジアの壁画や中国の史料から、唐には7世紀後半以降、当時商人として活躍したペルシャ系のソグド人らによって伝えたられたと指摘する。
 日本では平安時代初期(9世紀前半)にポロが行われた記録があり、5月の端午の節句に行う宮中の年中行事や、外交儀礼で天皇らが権勢や栄華を誇り実施した。
 それ以前の飛鳥―奈良時代には、万葉集に「打毬之楽」の表現があり、平城宮跡(奈良市)ではポロに用いたと考えられる「木球」も出土。ただ日本書紀や続日本紀などの正史には記録がなく、中村さんは「当時は唐から伝わった最先端の娯楽として皇族・貴族が私的に興じたのではないか」とみる。
 さらに高松塚壁画のマレットはやや短く、馬も描かれていないため、「騎馬ではなく徒歩で競技するポロを表現した可能性がある」と語る。唐では徒歩で競技する場合もあったという。
 中村さんは3月20日、橿考研で開かれた講演会「高松塚古墳壁画の系譜―東西交流の視点から―」で説を発表した。「高松塚壁画の研究は国内にとどめず大陸に目を向けることで新たな境地が開けるのではないか。今回の研究はその問題提起になれば」と期待する。  以上

S__4268064

 古代オリエント世界を支配した二人の王の墓

 ペルシャ帝国を創建したキュロス二世(前559~前530)は征服者であったが、バビロン捕囚で連行されたユダヤ人などの帰還を許すなど、寛大な政治を行ったようだ。最後は騎馬民族マッサゲタイ遠征で戦死したと伝えられる。イランのパサルガダエ(現代名パーサールガード)に階段状の台の上に切妻形の石造の墓室がある。
S__4284418


 後に反乱が続く中、ダレイオス一世によって支配体制が確立する。写真は、ナグシェ・ロスタム遺跡の王墓4基の中のダレイオス一世の墓 左下のレリーフはシャープール一世 ローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にするシーンとのこと。冒頭の写真の人(松田美緒さん)との比較から、岩壁に彫られたその大きさが窺える。
ブログ用S__4268069
ブログ用91818532-0463-4163-BFC5-D1C92242EC99

 ダレイオス一世はキュロス二世の家系から王位を簒奪したのだが、自己正当化のためにキュロスの家系とさも近いとするように系図を捏造している。
 キュロスシリンダー(円筒碑文)にあるキュロスの家系は、
 私はキュロス(二世)、世界の王、偉大な王、正当な王、バビロンの王、シュメルとアッカドの王、(大地の)四つの縁の王、カンビュセス(一世)の息子、偉大な王、アンシャンの王、キュロス(一世)の孫、偉大な王、アンシャンの王、ティスペスの子孫、偉大な王、アンシャンの王、常に王権を(行使する)家族の。
 
 ダレイオスの系図(ベヒストゥーン碑文)は
 私の父はヒュスタスペス、ヒュスタスペスの父はアルサメス、アルサメスの父はアリアラムネス、アリアラムネスの父はティスペス、ティスペスの父はアケメネス。
 
      下図は二つの系図を合わせたもの
キュロス家系

 キュロスの家系にアケメネスの名は無く、両者の系図はティスペスになってやっとつながる。このことから、ダレイオスが自らを正当化するために、アケメネオスの名をはじめて使って、キュロスの家系と一つにまとめる付会、いわばこじ付けを行っているのである。
 小林登志子氏は、「『系図』というのは、功なり名とげた人物が、後になって創作していることはよくあることで、日本史でも知られていること」とされる。よくいわれることだが、継体天皇のケースもあてはまるかもしれない。後継者のいない武烈天皇の後に皇位を継いだ継体は、応神天皇五世とのことだが議論は絶えない。王族となれば、相当な規模の作り込みが行われていると考えられる。

参考文献
小林登志子『古代オリエント全史』中公新書2022

写真は松田美緒さんからの提供 家系図は『古代オリエント全史』より

S__4456457
      松田美緒さんのオフィシャルサイトはこちら
S__4456460

 同じ史学サークルのお母様を通じて写真を送っていただいてます。ソグド人の有名な壁画や独特の骨壺(オッスアリ)、など掲載します。

 ウズベキスタン国サマルカンドのアフラシャブ博物館
ブログ用S__4448303

burogu S__4448302
S__4415521 ブログ用
S__4448297
S__4448295
  7世紀の装飾の納骨器(オッスアリ) 横口式で蓋もあります。
オッスアリ

ブログ用S__4448283
ブログ用S__4448287
ブログ用S__4448292
ブログ用S__4415531
S__4448311
         動物や人の個性的な土人形

今後もアップさせてもらいます。


200px-Kyrgyz_Manaschi,_Karakol
            英雄マナスを語るキルギスの老人(ウィキペディア)

1.英雄の異常出生譚
 以下は「シルクロードの伝説」のキルギス(柯爾克孜)族の男、マナス(瑪納斯)のお話。
 はるか昔、ジャケップ(加庫甫)夫婦は百歳にもなるのに子がなかった。ある年、妻のお腹が大きくなったが、ちょうど20ケ月たって産み落としたのは、なんと肉の塊だったので、ジャケップはカンカンに怒った。「魔物のしわざで、わしが捨ててこう」妻は言った。「どんな姿であろうと、わしの身から出たものじゃ、どうか一度、なかを割って見せてください」懇願されてジャケップはうなずいて、肉塊をわってみると、なかには可愛らしい男の赤ん坊がいた。マナスの誕生だった。後に馬や弓矢にたけて兵士として活躍、民から愛された、という。
 いわゆる、尋常でない出生が王たるものの聖性を保証するといった、貴人が不可思議な生まれ方をするという誕生譚だが、この場合の異常な誕生にあたるのは、肉の塊を割ると男の赤ん坊が出てきたというところだろう。なにやら桃太郎の誕生と類似しているが、ではこの夫婦が高齢でさらに妊娠期間が通常の倍であるというところはどうであろうか。
 百歳の夫婦は実は二倍年暦で50歳となるのではないか。さらに、男の子は20か月たって生まれたのであろうか。これも、20ケ月ではなく半分の10ケ月、と考えれば普通に理解できる。しかし、古代では月数はどうなっていたのだろうか。一か月15日などとしていたのであろうか?その可能性がある暦法がティティと呼ばれ古代インド、チベットなどにあるという。

2.一か月を二つに分ける古代の暦法
 「国立天文台暦Wiki」によると、ティティとは、月と太陽の黄経差=月の満ち欠けを、12°ごと=30個に等分したものだという。太陰暦月の日付を数えるのに用いる。
 新月から満月までの満ちていく期間を白分 Śukla pakṣa 
 満月から新月までの欠けていく期間を黒分 Kṛṣṇa pakṣa 
この白分と黒分それぞれで日付を数えるという。
 またウィキペディアでは、「伝統的なインドの太陰太陽暦では、1ヶ月(1朔望月)を前半と後半の2つの期間に分ける。 朔から望まで(月が満ちていく期間)は白分(śukra pakṣa)といい、望から朔まで(月が欠けていく期間)は黒分(kṛṣṇa pakṣa)と呼ぶ。 そしてティティも、例えばある月の第1番のティティは「白分第1ティティ」といい、朔から数えて第16番目のティティは「黒分第1ティティ」という風に、白分・黒分に分けて呼ぶのが普通である。」とされている。
 また『大唐西域記』巻2に「黒分或十四日十五日。月有小大故也」とあって、必ずしも15日ではなく、14日の場合もあるという。
 上記のような白分と黒分をそれぞれひと月とカウントすれば、20か月で生んだというのは、現在の暦では実は10ケ月となるので、正常分娩となる。よって、この英雄マナスは、50歳ほどの親から10ケ月で誕生したという2倍年暦で理解できる可能性はある。
 この白分、黒分がそれぞれ月数とすれば、1年は24ケ月となる。ただし、上記には1年を何カ月とするかの明確な記述はない。さらに検討は必要ということになろう。

参考文献
「シルクロードの伝説」(訳:濱田英作 甘粛人民出版編サイマル出版会1983)
玄奘 (著), 水谷 真成 (翻訳)『大唐西域記』東洋文庫1999

IMG_0261

IMG_0276
 CDが登場してから、レコードは聞かなくなって、オーディオも処分してしまっていたが、CDより音がいいという評判の声もよく聞かれるようになって気になっていた。ただ家にはやんちゃな猫さんがいるので、迷っていたが、まあ試しにと安価なプレーヤーを購入してみた。もう30年以上も聞かなくなって屋根裏に放置していたレコードを聴いてみて、巷で言われる通り、音が違うなと実感。その最初に針を落としたのが、喜多郎のシルクロードのテーマのレコードで、少し温かみを感じる音に感激。何度も聞いたはずの曲なのに、新鮮な気持ちで繰り返し聞くようになった。
 そのジャケットの素敵なデザインを眺めていたが、ふと中を見ると、もうすっかり忘れていたのだが、付録が入っていることに気が付いた。
IMG_0269
 広げてみると昔懐かしい初期のランドサット衛星のシルクロードの写真。現代では、グーグルで解像度の良いものを当たり前のように見る事ができるけど、当時としては、とても貴重な40年前の私にとってはお宝のような記録写真の付録だ。
IMG_0260
 その地図を音楽を聴きながらぼんやり見ていた時に、楼蘭の近くにロブ湖とあるのに気が付いた。ロプノール湖と言われている幻の湖が、やがて流砂にうずもれてしまうかのようなか細い姿で写されていた。(図はロブ湖)それでもまだ琵琶湖より広いかもしれないが。さまよえる湖だとか、その存在については議論もされてきた謎の湖だった。消滅したはずが、20世紀の初めに復活していたようだ。その姿をはっきりと見る事ができるのは貴重なものではないか。
 この衛星写真がいつ頃撮影されたものなのかはよくわからないが、レコードの発売が1980年で、ランドサットの最初の打ち上げが1972年なので、70年代後半のものとなろうか。まだその頃には水を湛えていたことになる。(写真の図は着色加工されているので、少し水増しして描いた可能性もあるかもしれない)だが今はグーグルで見ても、ヒトの耳の形のような痕跡を残しているだけだ。復活した湖がまた消えてしまったことは残念だが、これも栄枯盛衰の人の世のはかなさと重なるような気がする。古代に活躍しながらも、やがては新たな動乱で姿を消してしまう集団、民族が無数にあったに違いない。そのような歴史から消えてしまった彼らの痕跡を少しでも見出すことができればと思う。

↑このページのトップヘ