
【富雄丸山古墳】虺龍(きりゅう)文鏡 400年前の鏡なぜ副葬? 古代ユーラシア、広域交流示す、という見出しが躍る話題の記事である。
富雄丸山古墳出土の中国・前漢―新時代(紀元前1世紀末~紀元後1世紀初め)の虺龍文鏡が、ウズベキスタンやロシアからも出土していることから、その被葬者像に関心が向けられたのである。
その中の、関係者による解説を紹介する。
「大型の虺龍文鏡は中国国内だけでなく、中央アジアのウズベキスタン・サマルカンド州やロシア・ロストフ州の墳墓でも出土。奈良市埋蔵文化財調査センターの柴原聡一郎学芸員は「当時の日本列島が古代ユーラシアにおける広域交流の一端に組み込まれていたことを物語る」と意義付ける。
大きく出たものだ。広域交流? 弥生時代の近畿とサマルカンドが交流していたとでも言うのでしょうか?
さらに次がひどい。
福永伸哉・大阪大学名誉教授(考古学)は今回「弥生時代後期の段階出来ない地域に流入したと考えられる」としたうえで、「すでに大陸の物資を入手する十分な力弥生時代後期の段階出来ない地域に流入したと考えられる」としたうえで、「既に大陸の物資を入手する十分な力とルートを確保していたことを物語る。弥生時代の畿内勢力の力を評価する手掛かりになる」との見方を示す。
弥生時代から畿内にこの鏡が保有されていたというのは、妄論にすぎない。弥生時代の近畿に大陸の物資を入手するルートがあったというならば、どうして、当時の奈良から鉄製品や北九州のような鏡などの文物が出てこないのか?
古墳時代に大陸から半島、そして九州あたりに移住した集団が、さらに近畿に移住して鏡と一緒にその集団の長が埋葬されたと考えるのが自然であろう。
船原古墳の例もあるが、(こちら)列島から、想定外のものが出土したら、その説明に、列島側(ヤマト王権)が主体的に受容した、などという詭弁をいつまで繰り返したら気がすむのだろうか。
なお、サマルカンドと新羅との関係について、さらに大陸文化に関係するホケノ山古墳の埋葬施設の構造などについては今後検討していきたい。


















































