流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

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 縄文土器には、把手なのか、文様なのかよくわからない眼鏡状とか、橋状とも言われている双環突起がついています。土器によっては、そこに腕のようなものが伸びていたり、蛙や蛇の頭のような表現ともとれるものもあります。そして、いわゆる出産文土器にも少し大きめの双環突起が口縁部についています。
 この奇妙な突起の意味を、あくまで想像ですが、出産と関係あるものと考えました。note版流砂の古代 こちら にアップいたしました。ひょっとすると、人体の骨格と関係しているのでは? ぜひご覧ください。


松川町土器
長野県下伊那郡松川町資料館 顔面把手付土器 
頭部がマムシのように造形されている。生きたマムシが土器を這っているように見える。

1.マムシの生態についての迷信のようなお話

 以前に、次のような信じがたい記述があるのを見つけた。縄文時代と蛇に関するものだが、以下のような説明があった。
「マムシは生命の誕生と死に深くかかわる。さらにマムシの胎生の子は、母の腹を食い破って出てくる。縄文人はこうしたマムシを地母神の象徴として崇拝した。梅原猛氏も人の命を一瞬にして奪う恐ろしい敵としてのマムシを、神にすることによって、蛇の害から人間を守ろうとした。」(安田1991)
 母蛇のお腹を食い破って子供の蛇が誕生?まさかと思ったが、どうもこの著者は別の書物からの記事を参考にされたようだ。それは藤森栄一氏の『縄文農耕』で、次のような一節がある。
「マムシは春、土の中から忽然として現れる。すなわち霊である。そして、特に秋口、藪の中など、いや竪穴内にもネズミなどを追って入ってきて、忽然と人の生を奪う。(中略)マムシが生まれるとき、母マムシはもがき苦しみ、胎生の仔マムシは丸々と肥って、母の腹を食い破って出てくる。原始の植物嗜食民たる縄文中期人が、そうしたものに地母なる神の具現を感じたことは、当然すぎるほど当然である。」(藤森1979)
 どうも蛇の神秘性を強調するあまりの勇み足ではなかろうか。子蛇が腹を食い破って生まれ出るなどと書かれた爬虫類図鑑でもあったのだろうか。そもそも蛇は卵生であり、それはマムシも同様のはず。ただ、蛇はすべて卵から生まれる卵生ではなく、2割は胎生だということだが、それらは外国種のようだ。(JPスネークセンター2024)。
 また、生き物で親が子を食べる、子が別の子を食べる事例はあるのだが、現在のところ、母親を食べるケースとして、昆虫や線虫、それにクモ形類の一部の種にあるという(National Geographicのネット記事)ことだが、まあ、特殊な事例だろう。
 では、藤森氏は、どこでこのような情報を得られたのか?別の参考にされた文献に同様の記述があったからであろう。その元ネタと思われるものに、最近になって気が付いた。
 それはヘロドトスの『歴史』だった。

2.ヘロドトスは、信じがたい逸話、「たわ言」ももれなく記載している。
 
 『歴史』巻三ダレイオスの記事の109のところに次のようにある。
「・・・この蛇は一番(つがい)ずつ交尾して雄が受精に入り、精液を射出すると、雌は雄の頸元に噛みついて離れず、これを食い尽くして終うまで離さない。雄蛇は右のようにして死ぬのであるが、雌も雄に対して犯した罪の罰を次のようにして受ける。それはまだ母の胎内にある子蛇が、父の仇とばかり母の体を食うのであって、胎内の子は母胎を食い破って外へ出てくるのである。」
 「父の仇」?かのように母の体を食い破るというのは、話を面白くしたのであろうが、この記述を信用して、ご自分の著作に採用されたとすると、残念というか、どうして信用したのかと思う。おそらくは、別に引用された著書があって、そこから孫引きされたと思いたいのだが。
 実は、この箇所の直前に、ライオンの出生に関する似たような記述がある。
「・・・ライオンの牝は、一生に一度、しかも一頭しか子を産まない。ライオンは仔を産むと同時に子宮をも体外に出してしまうからで、その原因は・・・ライオンの仔は母の胎内で動き始める頃になると、他のどの獣よりも遥かに鋭いその爪で子宮を掻きむしり、成長するにつれてますます深く爪を立てる。分娩が近づく頃になれば、子宮で無事な部分は一つも残らなくなるのである。」
 一頭しか生まない子に胎を食い破られていたら、ライオンという種はすぐに絶滅してしまうではないか。この箇所には訳注があって、「アリストテレスはこの部分の記述を『たわ言』だと評している」とある。偉大な哲学者でなくてもわかりそうなものであり、この記述も見ていれば、蛇の場合の記事も信じがたいと思うのが普通であろう。
 この『歴史』には、重要な歴史的事項が豊富に描かれているが、一方で、迷信のような記事も多く混ざり込んでいる。ただこれも、当時の古代の人々がそのように信じていたこと、考えていた逸話の貴重な資料として参考にすればいいものであろう。ただ、事実だったのか、作り話かの見極めの難しそうな話も多いようではあるが。

3.蛇が神になったのは、獰猛だったからではない。
 
 虚偽を引用された方々は、マムシの神聖たる根拠の説明するにうってつけの事例として取り込まれたのだと思うが、残念ながら事実ではない作り話であった。縄文時代における蛇との関係を強調することは首肯するのだが、いささか安易な引用であった。また、縄文時代の蛇信仰の説明に、ことさらマムシを危険な生物として強調するのも不正確と言え、一瞬にして人の命を奪うという先ほどの説明も正確ではない。実は、マムシの毒性はハブに較べると弱く、人が噛まれて死亡するのは処置に問題があった場合だという。ヤマカガシの方がはるかに毒性が強く危険だという。
 どうも、先ほどの方々は、マムシが獰猛であることが神となった理由と理解されているようなふしがある。吉野裕子氏は、蛇の神たるゆえんを、毒性以外に、その形状、脱皮などを挙げておられる。私は、それらに加え、決定的な理由は、出産時の臍の緒が古代人には蛇のように見えたことだと考えている。こちらをご覧ください。

 このように誤解、迷信の類いのものをその出典を吟味することなく引用するのは誤情報の連鎖となるもので気をつけたいものと思う。

参考文献
藤森栄一『縄文農耕』(藤森栄一全集弟9巻)学生社1979
安田喜憲『大地母神の時代』角川選書1991
ジャパン・スネークセンター『ヘビ学: 毒・鱗・脱皮・動きの秘密 』(小学館新書 481)2024
ヘロドトス『歴史』松平千秋訳 岩波書店1971

IMG_0461 (1)蛇土偶正面
      頭部に蛇が描かれている土偶、縄文中期藤内遺跡出土      
        長野県諏訪郡富士見町井戸尻考古館


 たいていの土偶と同じく、下半身と左手が欠損していたのだが、発見者らが木製の土台に固定させたそうだ。
IMG_0460頭蛇 横から

IMG_0462頭に蛇
 頭に蛇が表現される土偶は大変珍しものだという。

 表記はされていないが、次に紹介する土偶も蛇を頭に表現しているのではないかと考えている。

DSC_0770望月頭蛇
    長野県佐久市立望月歴史民俗資料館 浦谷B遺跡縄文時代後期前半

 顔も欠けてはいるが、目の表現から少し表情が怖い印象をもつ。

DSC_0778望月頭蛇上から
 頭部を見ると、同じような形状で描かれており、蛇と考えてよいのではないか。突き抜けてはいないが、先の藤内の土偶と同様の小孔がある。
 
1.蛇をあやつるシャーマンの土偶なのか?

 民俗学の谷川健一氏は、この土偶を沖縄・奄美の事象と比較して「縄文中期において、巫女は自分の侍女の頭にマムシをまきつけて、それが噛まないことを衆人にみせ、自分の威力を誇示したのであったろう」とされている。はたして縄文時代にこのような呪術を行う巫女・シャーマンがいたのであろうか。いたとしたら、では、何のために蛇を使う巫女を表現する土偶をつくったのであろうか。  
 この左手と下半身が欠けているので全体像はわからないのだが、蛇以外の特徴としては、左目の下に入れ墨、もしくはペイントで2本線が描かれているぐらいだ。この土偶がシャーマンなら、もう少し玉飾りとかの装飾表現があっても良いのではないかと思える。頭には小孔があってそこに鳥の羽を刺していたという表現は考えられているが。どうも私にはシャーマンの姿を造形したようには思えないのだが。縄文の人たちが、なにか具体的な目的を持たせたものではなかろうか。

2.出産に立ち会ってもらう守り神

 土偶の用途については、様々な説が出されているが、決定的なものはない。『土偶を読むを読む』(こちら)にはその全容が時系列にわかりやすく説明されている。そこにも記されているが、土偶にも時代や地域によって共通する要素をもちながらも異なる目的で作られていると考えるしかなく、縄文人の切実な願い、宗教観による呪術的な祭具であったのではなかろうか。とりわけ、この頭に蛇を戴く土偶は、かなり特別なものであったと考えられる。
 そこから、私の単なる思い付きだが、当時の出産の際に助けてもらえる存在としての土偶であったのではと考える。戦前の日本にあった、地域の女性が妊婦といっしょになって、いきんでみせるという習俗のようなものが、縄文の女性たちにもあったのではなかろうか。当時は出産時に母子ともに死亡するような事故も少なくなかったであろう。本人だけでなく、周りの女性たちもいっしょになって安産を祈ったはずである。
 蛇は、古代より出産と密接な関係があることを既に説明している(こちら)。前回紹介した『日本産育習俗資料集成』の分娩の項には、産婦に子安貝、またはたつの落とし子をにぎらせる(和歌山県)、といった安産の為の事例が紹介されているが、なかには、まむしの頭を頭髪にはさんでいるとめまいをしない(福井県)、出産時に蛇の抜け殻を腰につけるとよい(群馬県)といった、蛇を産婦の守護的な存在に見立てている事例がある。
 土偶の目的・用途の説の中には、早くから安産のお守り説があったが、あまり肯定的な評価はない。私見では、単なるお守りではなく、蛇が描かれた土偶も、妊婦を守り、安産で生まれるためのものであり、なかには、妊婦がこのような土偶を握っていきむようなこともあったのではないかと考える。出産の際に一緒に立ち会ってくれるお守り、そばに置かれて、苦痛を分かち合ってくれる存在としたい。
 よって、蛇を頭に戴いた土偶に限っては、出産立ち合い土偶、お産に寄り添う守り神、となるであろうか。ひょっとすると、蛇の表現のない他の土偶にも、同じような使われ方があったかもしれない。あくまで妄想ではあるが。なお実見はしていないが、蛇だけでなく、猪や蛙を頭に載せた土偶もあるという。猪も多産であることが関係するかもしれない。

参考文献
谷川健一「蛇 不死と再生の民俗」冨山房インターナショナル, 2012
望月昭英編「土偶を読むを読む」文学通信2023
写真は、井戸尻考古館と望月歴史民俗資料館にて

蛇行石剣パネル付き
蛇行石剣
  写真は、群馬県渋川市北橘歴史資料館
  ガラスケースでの展示で、鮮明には撮れず。

 縄文時代後晩期のものと考えられる小さな形の石剣です。出土地は不明のようですが、群馬県前橋市箱田の木曽三柱神社の社宝としてまつられていたとのこと。
  全長30センチメートル、柄部長12センチメートル、柄部幅1.5センチメートル、刀身の厚さは0.8センチメートルを測ります。蛇のようにくねり、丁寧に磨かれています。黒光りして、黄色や緑色の模様のある蛇紋岩でつくられている。
 縄文人はこの石剣を作った目的はなんだったのであろうか。蛇行石剣ではないが、蛇形の杖を使って呪術を行っていたという民俗事例を紹介する。 

「蛇形の杖を以て寝室を打つ」   
 難産の場合に道士をよんで祈祷を頼むと、多数の道士が来て、三室に神を祀り、その中の一人は、蛇形に彫刻した長さ一尺ばかりの木の棒を持ち、呪文を高らかに唱えつつ、産婦の寝室の周囲を打ちつつ幾回となく歩き廻り、他の道士はその打つ調子に合わせて読経し、笛・太鼓・銅羅などではやし立て、出産を見るまでは幾何の時間を要しようとも、耳を聾せんばかりの音をつづけるのである。これは蛇が、その穴に出入りするのが非常になめらかで且つ自由自在になるにあやかって、胎児もそのように安楽に出産させようとするのである。(永尾1937)

 蛇が穴にスムーズに出入りすることにあやかってというのは、後付けの説明のように思えなくもないが、蛇が安産に関わるという点はあり得ることかもしれない。前に、蛇が神となった理由(こちら)に、へその緒が蛇に見立てられたと説明させていただいたが、この蛇形の杖が、無事に新たな生命が生まれるための祭器となるのであろうか。

蛇行剣(全州博物館・金城里古墳) (1)
  写真は全州市の国立博物館の副葬品 中央が蛇行剣
 
 時代は変わるが、古墳時代には、副葬品として鉄製の蛇行剣が見つかっている。話題になった奈良県の富雄丸山古墳からは、長さ2.3mのものが出土したが、他に70余りの古墳から出土している。実は韓半島にも4カ所の倭系古墳から出土しているという。
 では、蛇行剣が古墳に埋葬されたのはどういう意図によるものか。蛇形の杖は、安産を願うものであったが、それが古墳への副葬の場合は、再生を願うシンボルだったのではないか。人々は亡き人の生まれ変わり、再生を願って、この蛇行剣に託したと考えられないであろうか。

 日本書紀の仁徳即位前紀には、弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が自殺をすると、仁徳となる大鷦鷯(おほさざき)が、胸を打ち泣き叫んで、髪を解き屍体にまたがって、「弟の皇子よ」と三度よばれた、するとにわかに生き返られた、という説話がある。もちろん史実ではないだろうが、死者に対して生き返りを願う行為が行われていたのだろう。そのための信仰の祭器として、生命の象徴のような蛇に見立てた剣が作られたのかもしれない。

遼東蛇行剣
 上図のような蛇に似せた剣は、大陸でも紀元前10世紀以上も前から作られていた。遼東に出現する遼寧式銅剣は、刃の形状だけでなく、柄の部分に蛇のペニスを表現するなど、様々な蛇剣が作られている。刃が蛇行する形のものもある。こういったものが、列島に継承されていったのだろう。

参考文献
永尾龍造「支那民俗誌第6巻」アジア学叢書大空社 1937
小林青樹「倭人の祭祀考古学」新泉社2017   
韓国の蛇行剣の写真は、松尾匡氏の撮影によるもの
遼寧式銅剣の図は「倭人の祭祀考古学」より

耳飾り

  伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館 縄文晩期釜の口遺跡の土製耳飾
 
1.耳飾りの美に感嘆する。
 写真は、直径5センチは下らない縄文のピアスの耳飾り。もちろん粘土細工だが、器用な縄文人が作りだした芸術作品のようであり、今でもこのようなデザインの装飾品があっても通用するような見事な作品だと思う。前回に群馬に訪れた際に、榛東村耳飾り館も見学したが、そこで、現在でも大きなサイズ(10cmはありそうな)の耳飾りをする中国の少数民族などにあることを知った。最初は、小さなものから、だんだんと大きなサイズのものに付け替えていくのだが、当然、耳たぶには大きな穴が開いていく。それをはずすと、まるでイカクンのように細長くなった耳たぶが垂れ下がる。その様子にはちょっと引いてしまうのだが。
 
耳飾り館
      耳飾り館はチケットだけ撮影

綿貫観音
  群馬県立歴史博物館 桐生市千網谷戸遺跡縄文晩期土製耳飾

月矢野耳飾り
 月夜野郷土歴史資料館 群馬県利根郡みなかみ町月夜野矢瀬遺跡後期から晩期
 
 各地の博物館に耳飾りはよく陳列されているが、中には、同じ人物の作品かと思うような、あるいはコピーしたかのような、類似のデザインのものが、少し離れたところからも見つかる。ほかの物品と一緒に、この装飾品もやり取りがされていたのかと思われる。
 それにしても、多様な形状、ユニークなデザインのものがどうして作られたのであろうか。これは、現代と同じように縄文の女性もおしゃれを楽しんでいたということだろう。もちろんピアスをする男性もいたであろうが。
 競い合ってより粋なデザインのピアスを求めては、おしゃれを楽しんでいたのではないか。新作が完成すると、みんな集まって感想を言い合っていただろう。また、耳飾りだけでなく、顔料を使ってボディペイントなどもいっしょに描いていたかもしれない。

2.耳飾りも女性の賭けの対象だったかもしれない、というお話。
 老いぼれた頭にはかなりきつい重厚な大作の『万物の黎明』は「人類史をくつがえす」というサブタイトルが付いているが、その内容については今後も参考にしていきたいと思うのだが、その中に次のような一節がある。
「女性のギャンブル 多くの北アメリカの先住民社会において、女性は、根っからのギャンブル好きだった。隣接する村々の女性たちは、サイコロ賭博やどんぶりと梅花石を使ったゲームをするために頻繁に集まっては、一般にはシェルビーズなどの身の回りの装飾品を賭けの対象とするのだった。民俗誌の文献に通じた考古学者ウォーレン・デボアは、大陸の半分を占めるさまざまな遺跡で発見された貝殻やその他のエキゾチックな物品の多くが、きわめて長時間をかけて、この種の村落間でおこなわれた賭博ゲームで翔られたり巻き上げられたりしたあげく、そこにいたったのだろうと推測している。」(P29)
 現代では、普通に男女がギャンブルを楽しんでいるが、古代の女性も装飾品を賭けの対象にして楽しんでいたというのは面白い。そうすると、縄文時代においても、腕輪や首飾りなどと同じように、賭けをして勝った女性が、一番出来の良い素敵な耳飾りを手に入れる、などということもあったかもしれない。
 もう30年も前のヒット曲だが、シンディ・ローパーさんの『Girls Just Want to Have Fun 』は、女の子だって楽しみたい、というメッセージソングだが、同じように縄文時代の女の子だって楽しんで日常を過ごしていたのではないか。そのように考えると、縄文時代の祭祀のためなどと説明されることの多い遺物から、いろいろと異なる想像もできるのではないかと思う。

参考文献
デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロー「万物の黎明」訳酒井隆史 光文社2023

安中イノシシアップ
 安中市学習の森 ふるさと学習館の2階に考古・歴史資料の展示室がある。前回の群馬訪問では、パスしてしまったのだが、今回、見に行ってよかったと思う豊富でユニークな展示資料であった。
 はじめの写真は、四隅にイノシシが表現された土器だが、頭部の形が丸いので、まるで鳥のように見えてしまう。
安中イノシシタワー
安中イノシシ1列

  このイノシシの顔が付いた獣面付土器の破片が、大量に展示されている。(獣面把手ともいう)
 イノシシタワーと言う人もおられるが、可愛らしく見えるイノシシの顔が所狭しと並んでいる。鼻と口だけ見えてニコニコマークのようにも見えるものもあるが、いちおう写実的なイノシシ顔ではある。ただ、牙の表現がないことから、ウリボウか牙の目立たないメスを造形したものと考えられている。そこで、早くにイノシシを飼育していたのではという説もある。

安中四隅イノシシ
 四隅に配置したイノシシは、まるで四天王のような、縄文人の守り神としたものだったのか。それとも狩猟の成果を願う器だったのか。四隅に蛇表現がある土器も、祭祀のためであったのだろう。
安中蛇文

 このイノシシについてのパネルの説明に注目した。
「誰が獣面付き土器をつくったの? それまでの日本列島に具象的な造形物がないことから大陸からやって来た渡来系縄文人が作りはじめたものかもしれません」とあった。あくまで推測のような口調だが、このような考えをお持ちの方があるということが、私には大変興味深いことであった。以前からふれているように、縄文時代の文化の変遷を、あくまで列島内の自生的な発動による変化と見られる方が多い。しかしここでは、渡来系縄文人によるものとされているのだ。四隅に獣面を表現するというそれまでにない画期的な土器の出現を説明するには、こう考えるしかないのではないか。このお考えの方の論考がわかれば読んでみたいのだが。
 彼ら異文化をもつ渡来縄文人がやって来たとすると、他にも独特なものを作っていたのではないか。この中野谷松原遺跡は、大規模な集落遺跡だったが、縄文前期後葉の諸磯b式期には、直径110mの典型的な環状集落が形成されたという。通常の竪穴住居以外に大型掘立柱建物や大型住居も存在し、中央広場には土坑墓群が存在しており、この遺跡から大量の諸磯b式土器が出土している。

安中人面
 顔がけっこう立体的に表現された、いわゆる出産土器のようなものもある。その後ろに、三角壔形(側面が三角形で横に長い立体)土製品のその文様が、蕨手文の対称形になったものも注目。
日の字土器

 漢字の「日」、または「目」とかのように見える文様が、他に、群馬県みなかみ町の月夜野町郷土歴史資料館でみられる。
安中球体

 各種装身具に、丸い玉があるが、よくここまで球体状に磨ぎあげたことだと感心する。でも、身につけると重たくて邪魔な気もするが。
 
 『総覧縄文土器』には、特殊例として、イノシシの獣面把手の頭部に切れ込みを入れ、上面から見るとカエルに見えるよう表現した「二重獣面把手」が中野谷松原遺跡などに存在する、とあるが、写真を見返してもわからない。調査報告書の図版をみても、それらしいものを確認できない。
 縄文土器だけでなく、弥生・古墳時代なども、興味深い物ばかりだが、残念ながらこれぞというものがピンボケが多く、落ち着いて撮影すべきだったと反省。

参考文献
『総覧縄文土器』刊行委員会アムプロモーション2008
群馬県立歴史博物館「縄文文化の十字路・群馬」1998
2024.6.9撮影

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 写真の土器は、京都の比叡山の麓の一乗寺向畑町遺跡のいわゆる注口土器だ。東日本にはユニークな形状や文様のもの注口土器が多くみられるが、この京都の土器は引けを取らない見事なものである。
 肩部がそろばん玉の形をしていて、高さは24.8cmとのことだが、かなりの容量となるから水をいっぱい入れたら、把手がないので両手で抱きかかえるように持って使っていたのだろうか。胴部には二つの帯状のデザインが取り巻いている。
注口合成
 さらに、注ぎ口以外を均等にした三か所に波線が口縁部から中央の帯文様まで描かれている。しかもその波線の両側を小さな円文が並ぶように描かれている。帯状の文様は避けながら描いているので、帯文様の下を潜っているかのようにも見える。
DSC_0936文様アップ

 『京都盆地の縄文世界』(新泉社2012)では、この文様を拡大した図が表紙を飾っている。やはり誰しも気になる文様ということでしょう。
 口縁部のデザインやその中に付加条縄文で飾る帯状の文様が施されるといった洗練されたデザインとなっているおり、この波線の模様はなくてもよかったのではと思えるのだが。しかし、縄文人にはこの文様はどうしても描かなければならない意味のあるものだったのではないか。それは、蛇行状の文様からして水神である蛇神を表したものと考えたい。解説書などには、そのような説明は見当たらないのだが、東日本の中期縄文土器に濃厚に描かれた蛇文様を、シンプルにした線刻で描いたのではないだろうか。そして円文はその蛇が囲む霊気のようなものを表しているのかもしれない。あくまで想像ですが。水田耕作はまだであっても、穀物栽培は行っていたはずであり、水は重要なものであることにかわりはなく、また逆に洪水で苦労するということも多々あったと考えられる。
 荒ぶる水の神、蛇神を鎮めるために、このような蛇文様を描いた注口土器による祭祀が行われていたと想像する。この土器の中にどのような液体を入れていたのか。清水を汲んで祭祀場に注いだのか、それともお酒を入れて、神様といっしょにみんなで飲み合ったのか、もしくはお茶のようなものを作っていたのか。いつか解明されるかもしれない。
DSC_0472志賀里蛇
 このような波線を施した土器が、他にも見受けられる。滋賀県後期の滋賀里遺跡の土器だが、同じように口縁部から垂下するようにジグザクの線が刻まれている。
ひたちなか注口土器
 また茨城県ひたちなか市の注口土器には、線刻ではないが隆帯文で描いた蛇行状のデザインも蛇を描いたと考えられる。
弥生鍵遺跡蛇
 時代は下がるが、弥生時代の唐古・鍵遺跡の土器にも蛇行状の線刻があり、これも水神の意味で描いたと考えたい。こちらにあるように、水神を祀る土器が、多数存在した地域だと考えられるのである。

※この注口土器は、現在、京大総合博物館で見る事ができます。2024年6月9日(日)まで『比叡山麓の縄文世界』企画展が開催中。ぜひ京都、滋賀の縄文土器などをご覧ください。


参考文献
「日本の美術№498縄文土器後期」(至文堂2007)
千葉豊「京都盆地の縄文世界 北白川遺跡群』(新泉社2012)

ちかもり木柱列
ちかもり案内板
 地中より360点余りの木柱根が360点あまり見つかったチカモリ遺跡。なかには直径最大85cmと、三内丸山遺跡とかわらないものもあった。その公園に木柱列の復元がされているが、そのうちのクリ材を半裁した環状の巨大木柱が高さ2メートルになっている。根元に巨大な木柱根があったとしても、それが、実際にどのような高さのものであったかはまったくわからないのであり、その点では、非常に正直な復元といえるだろう。
ちかもり6本
 6本柱の復元もあるが、それは高さ60センチと、どこぞの遺跡と違って、大変謙虚である。根拠のない推論で無理な創造物を作る必要はないのである。縄文人が木柱列を作った理由、目的、その姿をいろいろ想像するには十分な復元である。
ちかもり水中保存
 隣に市の埋蔵文化財収蔵庫があり、展示室の真ん中の大きなプールに木柱が水中保存されていて必見である。もちろん、縄文土器も様々な形状、文様のものを楽しめる。なかでも、蛇を表した文様に、口縁部に無数の刺突文を施した中期の北塚遺跡の深鉢が気を引くものだ。
tikamori
  場所は、御経塚遺跡の近くにあるので、ぜひ合わせてお立ち寄りください。    14.5.16

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