流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 弥生時代

光15有孔土器
  写真は、光州博物館展示の胴部に大きな穴のあけられた土器

円窓土器
  こちらは、愛知県朝日遺跡の円窓(まるまど)付土器

1.愛知県清須市の朝日遺跡の円窓付土器
 環濠のある弥生集落だが、従来、防御施設といった解釈がされてきたが、こちらで示したように、洪水など、水害対策用の施設などが主な役割と考えられるようになってきている。(こちらでは、高地性集落や環濠集落の意味を根本から見直されつつある状況を説明)
 そこに、胴部にぽっかりと大きな穴をあけた土器が多数出土している。円窓付土器と言われており、弥生中期後葉の時代に尾張地域に分布している。墓域とその周辺などから出土しており、居住域からは少ないようだ。焼成後の体部穿孔や口縁部打ち欠いたものもあるという。「風化痕」と見られる痕跡があり、屋外に放置され、風雨にさらされた状況から、墓に供えられたことの傍証になり、やはり、供献壺と共通のものとなる。
 せっかく完形品を作っておいたのに、わざわざ壺、容器としての役割を損なうような大きな穴をあけるという行為の意味はなかなか理解できないが、同じようなものを韓半島でも制作して、儀礼に用いられていたとするのは興味深い。同じ信仰を持つ集団が、この地に居住したのであろうか。

2.古墳時代の胴部に小孔のある土器
関西大学𤭯
 古墳に供えられた須恵器などに、円窓ほどではない小孔のつけられたものは、数多く存在している。ある図録には、次のような解説がある。
 「𤭯(はそう)とは須恵器の器名で、胴の部分に小さな丸い孔をあけた壺」のことだという。その次に、この孔の役割を説明されている。「この孔に竹などで作った管を挿入し、酒などの液体を注ぐ注器として使われたと考えられている」とのことだ。竹菅を注口になるように差し込むための孔だという説明だが、ちょっと素直には受け取れない。これについては、くわしい説明が、ウィキペディアにあるので(こちら)ご覧いただきたいが、根拠となる事例が、静岡県の郷ヶ平古墳出土人物埴輪で、両手でかかげる様に容器をもっており、そこに注口がついているのである。
須恵器を持つ埴輪
 しかし、よく見ると、これは先端部にかけてすぼまっているような形状である。とても竹管を差し込んだもののように見えないのだが。確かにこの容器の形状は𤭯とされる須恵器と同じ形の表現であり、出土したものに、胴部に注口を最初から付けているものは見られないことからすると、後から竹などを差し込んだということになる。すると、あけた穴にピッタリになるように、表面を削りながら差し込んだのか。同様の胴部に小孔のある須恵器は韓半島にも存在しているが、同じような使い方がされていたのであろうか。

3.栓がされた𤭯や鈴付きの𤭯
栓をした𤭯
 いろいろ疑ってみるのだが、過去に撮影したものを見直していると、吹田市立博物館に、蓋がされて小孔部に栓がつけられた状態の𤭯の展示があった。この場合はお酒でも入れて保存していたのであろうか。さらに、特殊な例もあることに気が付いた。
 
鈴用𤭯
 長岡京市埋蔵文化財センターに、鈴付きの𤭯というものがあって、胴部の下半分に仕切りがあり、そこに小石が入れられて振ると鳴る仕組みだ。底にもちょうど鈴に見られるような孔が付けられている。この場合は、儀礼のために鈴の音を出しながら注いでいたのであろうか。
 ちなみに、縄文時代には、下部というか底面の少し上に小孔のある土器があるが、これは、とても注ぎ口用にあけたとは思えない。この場合は、縄文人の信仰上の意味のあるものであったと思われる。
 古墳時代の須恵器の小孔が、注ぎ口を装着するためというのは、間違いではなさそうだが、その小孔に、竹菅などを装着する際の痕跡などがないのか、などまだまだ資料がほしいところである。鈴の働きを兼ねた𤭯の例など、いずれにしても胴部に穿孔のあるものは儀礼や信仰上のものであることに相違はない。

参考文献
高崎市観音塚考古資料館「観音塚古墳の世界」改訂版2015

冒頭の光州博物館の写真は、松尾匡氏の撮影のもの。
郷ヶ平古墳出土人物埴輪の写真は「文化遺産オンライン」より

光25木べらなど
   光州博物館展示機織り道具 右側が桛(かせ)日本の弥生時代にあたる頃のもの

1.弥生人が持つのは釣り竿なのか?それとも・・

 銅鐸絵画に、工字型(I字型ともいわれる)の器具をもつ人物が描かれている。なかには下図にあるように工字だけ描かれているものもある。これが何であって、何故銅鐸に描かれているのかについては、定説があるわけではない。もっとも、銅鐸そのものについても解明されていないわけだが、その真相に迫るためにも、絵画文様の謎ときも手掛かりとなるものであろう。
桛人物
工字銅鐸

 大方の研究者は、この工字型器具を持つ人物は、漁をする人だとし、手に釣り竿を持っているというのである。
 根拠となるのは、いっしょに魚が描かれているものが一点だけあることぐらいである。しかしこれでは、竿の先端も根元も短い横棒が描かれていることが説明できない。しかも、腰を曲げて脚を伸ばして釣りをするという姿勢もおかしい。春成秀爾氏はI字型とされたのは弓であって、鹿の狩猟を描いたとされたのだが。(春成1990)
 銅鐸の人物が持つ工字型用具を、用水路の止水板(長尾2012)とされた方があったが、関連は不明だが、後の2019年放映NHK「ヒストリア」『まぼろしの王国 銅鐸から読み解くニッポンのあけぼの』で銅鐸絵画に関する新説として、それは「田堰(たぜき)」を開ける姿だったとし、弥生人が畔に腰掛けて田に水を入れるために工字状の用具を引き上げるという場面がある。しかし、これはいただけない。水をせき止めるのは板であって、銅鐸の人物が手にしているのは棒状のものであり、これでは役目を果たせないであろう。しかも腰掛けた態勢で引き抜くというのは不自然ではないか。
 では、この工字型の器具の用途は何であるのか。

2.弥生時代に出土した機織り道具の桛が絵画と相似形
白岩上寺地桛

 静岡県菊川市白岩遺跡より1973年にほぼ完形の桛が、弥生時代の大溝から見つかっている。銅鐸の面に描かれた人物と工字形の用具の比がほぼ同じであり、形態、大きさ等から出土品との共通点が認められるとする。
 
桛比較
 図のように少し加工してならべると、ほぼ同じといえるが、ただ少し異なる所がある。民俗例としての桛は各地に残っており、基本的な形態は同様であるが、相違点は民俗例、沖ノ島出土の模造品、銅鐸絵画の桛がいずれも軸部の棒が突出しておらず、この白岩遺跡のものは軸が突出しているのである。だが、弥生時代に突出していない桛も見つかっている。
 白岩遺跡出土の右側の鳥取県青谷上寺地遺跡から、完形ではないが、銅鐸絵図と同じく、軸が突出していないものである。その後の出土例から現在は、古墳時代以前では腕木貫通式と支え木さしこみ式に分類され、古墳時代以降は支え木さしこみ式となっている。つまり、弥生時代は異なる形状のものがあったのである。
 そして、銅鐸絵図の桛と同じ形状のものが、韓半島にもあったのである。それが冒頭の写真である。弥生時代と同時代の青銅器時代(後期)か、原三国時代(初期鉄器時代)と考えられる馬韓地域(栄山江あたり)の展示物だが、銅鐸に描かれた桛とほぼ同じものであり、同じ古代史の会の方で現地に行かれた方から提供していただいた貴重なものである。いずれも機織用の道具であるが、その右側の桛に接合部が確認できる。日本の白岩遺跡や上寺地遺跡のものは、随分と洗練された加工品であるが、光州博物館のものは、原初的なもののように見える。
 さて、この桛だが、どのように使われていたのかが中世の資料に残っている。
中世の桛

 鎌倉時代の末、奈良の春日神社に奉納された「春日権現験記」と嘉永2年(1849)北村良忠による「農家必用」に載る「木綿かなをかせに懸ける図」に載る桛と紡錘車を扱う絵が、女性が座位で桛を操っているものであり、銅鐸の絵画とよく似ている。左手に桛、右手に巻きとる糸を持ち、桛に図のように糸をⅩⅩ状に巻き取っているのである。

 しかし、桛といった機織道具ではないと主張された研究者もおられる。
 
銅鐸土器人物
 佐原真氏は、桛とする説を否定する根拠に、自説の〇型頭男性、△型頭女性説をもちだしている。銅鐸絵図には、3人の人物が描かれているものがあり、〇型頭の人物が、棒で右側の人物を叩こうとしている。左の人物は助けようとしている。叩こうとする真ん中の頭が〇で男性、両端の△頭が女性だとされる。すると、桛をもって織物をする人物は女性のはずだが、頭が〇型だから男性であり、これは桛をもっているのではない、と主張されるのだ。しかし、わずか一つの事例で、決めつけられることであろうか。弥生土器の絵画には、鳥の姿になった女性シャーマンと思われる人物が複数あるが、頭は△ではない。桛説は否定できないのではないか。
 では、なぜ銅鐸に機織道具をもつ人物が描かれているのか。それは福岡県の沖ノ島祭祀遺跡に桛の模造品があるところから、祭祀と関係することは明らかと思われる。
沖ノ島

3.古代信仰を表す絵図
 
 日本や世界の物語の中には,糸を紡ぐ女性や,機を織る女性などがたびたび登場してくる。アマテラスの説話にも機織女が登場する。「延喜神祇式には伊勢神功の神宝二一種のなかに金銅賀世比がみえる。また『古語拾遺』には麻柄でつくった桛で蝗(イナゴ)をはらったと伝えられるように、桛などの紡織具は呪術的な祭器や幣帛(へいはく:神への捧げもの)としても使用されたのである。(平林1992)また、銅鐸の動物絵画にも宗教的な意味があるとされる。古代中国では、昆虫や魚が呪術的な絵画に描かれており、銅鐸も同様であろう。また杵で臼を搗く様子も描かれているが、この行為も呪術に関係すると言われている。
 日本書紀の景行紀のはじめに、景行天皇は双子が生まれた際に、臼(碓)に向かって叫ぶ記事があるが、注釈にあるように、出産の習俗と関係しているのである。

 以上から、工字型器具は釣り竿などの狩猟用のものではなく、機織りの道具である桛であるとするのが妥当であり、古代の宗教的な意味から描かれたものである。さらに、この機織り技術は半島に同じ形状の道具があることからも、渡来人によってもたらされたものであることは明白であろう。
 
 参考文献
長尾志郎「雷神の輝く日々 銅鐸ノート」風詠社2012
静岡県菊川市白岩遺跡・横地遺跡発掘調査報告書 2015
『「宗像・沖ノ島と関連遺産群」研究報告Ⅱ‐1』(「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議)2012
春成秀爾「銅鐸絵画の原作と改作」ネット掲載1990
東村純子「古代日本の紡織体制 ―桛・綛かけ・糸枠の分析からー」 福井大学リポジトリ2014
平林章仁「鹿と鳥の文化史」白水社1992
小林青樹「倭人の祭祀考古学」新泉社2017 

冒頭の織物道具の写真は、松尾匡氏の撮影のものをご提供いただいた。
 

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1.後の加耶の地からやって来た弥生移住民
 最初の弥生時代の移住者は、半島のどこからやって来たのだろうか?それを示す分かりやすい図がある。支石墓、松菊里型住居(住居の形が円形で中央に穴があり、その両脇に2本の柱がある)、丹塗磨研壺、石包丁という渡来の代表的な物質文化の半島と玄界灘沿岸地域との関係性を表したもので、その周辺にいくにつれ薄まっていくグラデーション構造が見て取れる(端野晋平2023)。
 この濃く表された範囲は、まさに古くは弁韓、後の加耶の地となるのではないか。もちろんその当時にどのようなクニが形成されていたかはよくわからないが、やがて魏志倭人伝に登場する狗邪韓国や金官加耶もこの範囲に関係するのではないか。
 対馬との最短距離の地から、何度も大小の集団が渡って行ったのだろう。そのきっかけは、寒冷化や温暖化による洪水などの異常気象と考えられている。このあたりの南江流域の遺跡では、洪水砂によって居住域や生産域などが埋没しているという。彼らは、分散的にやって来たのではなく、「既存のネットワークを駆使して目的的」な渡来であったという。ちょうど天孫降臨説話も、リーダーを筆頭に様々な役割を担う人たちが、組織的にやって来たのである。  
 古事記にあるニニギノミコトの言葉「ここは韓国(カラクニ)に向ひ、笠沙の御崎に真っ直ぐ道が通じて、朝日のまともにさす国」にたどり着くその出発点が、図に色濃く描かれたところであろう。記紀に登場するスサノオやアメノヒボコ、ツヌガアラシトなども、このあたりからやってきたのではないか。もちろん、広い半島の各地からの渡来もあったことは言うまでもない。

2.縄文人遺伝子は半島集団も持っていた。
 弥生時代の渡来については、「主体性論争」というのがあって、少数の渡来者から在地の縄文人がその文化を学んで自分たちが広げ発展させたといった論調がまだ根強くある。糸島市の支石墓で発見された新町遺跡9号人骨が縄文人に似ている、といった例があるというが、最近では渡来系の特徴をもつものと理解されている。
 また昨今のゲノム解析の研究で、以下のようなことが判りだしてきたという。
「渡来系弥生人は五千年前の北東アジアの西遼河を中心とした地域の雑穀農耕民集団に起源すると考えられる・・・興味深いのは韓国人の位置で、朝鮮半島集団の基層にも縄文につながる人たちの遺伝子があることを意味している。初期拡散で大陸沿岸を北上したグループの遺伝子が朝鮮半島にも残っていたためと考えられる。」(篠田謙一2023)
 つまり、弥生渡来人は、縄文人の遺伝子を持っていたというのだ。列島の縄文人のルーツが東南アジア方面からの移動であるならば、その行程の途中に縄文人の遺伝子を持つ人たちが、存在してもおかしくないのである。よって、九州の在地の縄文人による主体的な稲作文化の受容は考えにくいと言える。組織的な集団の列島への移住から稲作文化は定着し、全国に広がったと考えたい。

参考文献
篠田謙一「DNA分析と二重構造モデル」季刊考古学166 考古学とDNA 雄山閣2024
端野晋平「弥生時代開始前夜」季刊考古学 同上

図は、端野晋平氏の「渡来人の故地の推定」

高地性シンポ
 2024年3月2日に「高地性集落論のいま」という研究代表森岡秀人氏の公開シンポジウムがあった。私のような一般も含め200名を超える参加のなか、20名あまりの専門家の発表・発言がありたいへん有意義な一日であった。
 各研究者の発表の多くは、脱高地性集落論といった内容であり、教科書からやがて消える可能性もほのめかされる。早くに森浩一氏は、居住のない場合もあり高地性遺跡とすべきといわれていたのが適切であったようだ。
 そもそも定義が一致していたわけでなく、よく戦争、倭国内乱と結びつけての解釈がされてきたが、もはやそのような見地は多くが否定されてきている。広い範囲での交易や交流といった視点で弥生社会を説明することも広がっている。
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 柴田昌児氏の『海上アクティビティと高地性集落―双方向視認検証予備実験を経てー』も興味深かった。よく取り上げられる紫雲出山遺跡は、瀬戸内海に突き出すような岬の頂上付近にあり、ここから敵船を監視する見張り台の役割といった解釈がされてきた。そこで実際の船を航行させてどの範囲まで視認できるかという実験が行われた。結果は、4キロ圏内まで接近しないと視認できなかったという。これでは監視にはならないということだ。逆に、活発に行き来していた瀬戸内海航路の「山アテ」といった船からのランドマークの存在だったという。今後も実験が行われるようである。
 では高地への移動の理由は何であろうか。河川氾濫の多い時期であって、これを避けることも理由の一つであろう。そこでは高坏の出土も多く、銅鐸も運ばれ、なかには居住施設のないところでは祭祀場としての造営もあったのではないか。
 いずれにしても、弥生時代の研究も進化し続けている。高地性集落データベースも整備されつつある。一目で全国の高地性集落の場所、内容を見る事ができる。こちら

 要望としては、古墳時代もそうだが、弥生時代も大陸半島からの渡来移住者が後を絶たない状況であったはずだ。彼らが、新天地で丘陵地に居住地も作っていたのではないか。日本の中だけでなく世界の動向も視野に入れて検討がなされることを希望したい。

荒尾南土器船

『何が歴史を動かしたのか 第二巻』所収の、深澤芳樹氏らの「荒尾南遺跡の船絵に付属する半円形弧線について」にふれてみたい。

1.弥生時代の櫂に支点を設けた漕法の表現
荒尾南土器船 アップ
 何やらムカデのようにも見える弥生土器の線刻絵画だが、その櫂の船べりに半円形が描かれている。言われてみないと気が付かないようなものだが、これは、歴史民俗学の昆政明氏によれば、船べりの穴に麻縄などを通して輪(カイビキ)にして、そこに櫂を通して支点として漕ぐためのものだという。櫂を使った漕法などに無知であったので、これにはとても感心した。土器の船絵の細部を見てこれに気づかれた研究者はさすがである。
サッカイ
 実は、エジプトの壁画などにも輪の表現が見られるものがあるという。吉村作治氏が、クフ王の船の復元にあたって参考にされた図の中にある。同じように船縁の半円の中を櫂が通っている表現がある。
エジプト船拡大
エジプト櫂輪
 船の推進具には、風を利用する帆、水を漕ぐ櫓・櫂、さらに水底を押す竿がある。櫓は舟の後尾に支点を設けて水中で左右に動かして進むものだが、中国から日本へは平安時代の末ごろに伝わったようだ。そして櫂は、両手で持って直接漕ぐパドル・手櫂(テガイ)と、上記の船体に支点を設けて漕ぐオール・打櫂(ウチガイ)がある。縄文時代の丸木舟は、手櫂であったであろうが、弥生時代には、打櫂の漕法が広まったのであろう。それは絵画だけでなく、弥生時代の遺跡から出土する船形木製品にも確認できるという。
地方 船
青谷上寺地船
 現在のところは、石川県小松市八日市地方(ジカタ)遺跡が3例、鳥取県青谷上寺地遺跡で2例、愛知県朝日遺跡で1例があるようで、船縁に小さな円孔が等間隔で並んでいる。船体の左右に並列しているものと、交互にずれているものもあり、後者の場合は、狭い船体だから人が右漕ぎと左漕ぎに分かれて交互に座って漕いでいたと考えられる。弥生人は船形木製品に小孔をあけてリアルに表現したのであろう。
 
2.気になる復元展示された船や実験航海がされた古代船の櫂の支点(櫂座)
西都原船
 次の古墳時代の船形製品は、有名な西都原古墳群出土の埴輪の船があり、これが古墳時代の船の復元のモデルとして広く活用され、加耶の船形土製品の復元にも一役買ったようだ。また、大阪市長原遺跡高廻り2号古墳から出土した二股構造形式の準構造船も登場するが、いずれも船縁の支点となるものに穴はなく、台形状のものが櫂座として並んでいるだけだ。これに支えるようにして櫂を動かしたのであろうか。だが、以前に話題にもなった古代船の復元による実験航海が何度か行われたが、「野性号」と「海王」は西都原を、「なみはや」は高廻りのものをモデルにしたということだが、いずれもカイビキでないので穴もあけられておらず、支点となる櫂座の箇所は、「野性号」と「海王」は形が異なっている。つまり、モデルとしたはずの土製品の櫂の支点の部分は、模倣されずに機能的な加工がされているようだ。これは、出土した船形の櫂座の形状では、櫂の支点にするのは難しいと考えたからではないか。
櫂の支点
   
宝塚船名入り1
 三重県松坂市文化財センターには、宝塚古墳出土の見事な船の埴輪が展示されている。この船縁に長方形の板状の櫂座がつけられ、その中央に円孔が施されている。ここに綱を通してカイビキにしたのか、それとも櫂を直接通して支点にしたのかはわからない。丸い穴に櫂を挿した場合、楕円形にするとか、大きめの穴にしないと、思うように櫂を操作できないように思えるのだが。また、古代にも早くから帆の使用の可能性もいわれるが、こういった問題も含め、今後の解明に期待したい。

3.荒尾南遺跡の土器の船絵は祭祀の為の表現か
 弥生時代の船の漕法にカイビキが使われたと考えられるが、荒尾南遺跡の土器は、82本ものオールが描かれているということで、実際にそのようなものがあったとは考えにくい。エジプトの場合も片側に11本で合計22本であることからも、荒尾南の場合は、多すぎるわけで何らかのイメージがあってそれを誇張して描いたものと考えたい。沖縄にはハーリーという祭で、漕ぎ手が32人も載った船による競争が行われているが、中国など東アジアでも、龍舟競漕といった競技が祭りとして行われ、中には多人数が立って櫂を漕ぐものもある。
カンボジア船祭
 このような祭りが、はるか古代から引き継がれているものとしたら、荒尾南の絵画も、誇張はあっても祭祀を描いたものであって、おそらく水に関わる祈りのための祭器として使われたのではないかと考えたい。

参考文献
深澤芳樹氏他「荒尾南遺跡の船絵に付属する半円形弧線について」『何が歴史を動かしたのか第二巻』雄山閣2023
昆政明「和船の操船と身体技法」日本人類学会 ネット掲載
吉村作治「古代エジプト・クフ王「第1の船」の復原に関する研究」東京 アケト2009
平田絋士「二檣――継体天皇の2本マストを復元する」海上交通システム研究会63.pdf

板付水田
1.戸惑う研究者の背景にあるもの
  NHK放送の「フロンティア 日本人は何者なのか」では、古墳時代の人のDNAの解析結果に驚き、戸惑いながら語る研究者が描かれている。これまでは、縄文人と弥生人の二重構造で説明されてきた日本人のルーツだが、実は古墳時代に第三のDNAが6割を占めるという結果が明らかになり、これが現代の日本人とほぼ共通していたのである。それは古墳時代に第三のDNAを持つ渡来人が、尋常でない規模でこの列島に移住してきたことを示す。研究者のみならず、番組スタッフにも信じがたい結果であったから、「これまでの常識がくつがえる」といった謳い文句が冠されたのであろう。古代に列島に繰り返し渡来者が集団で来ていることを理解し、研究されている人たちには当然の結果なのだが、人類学や古代史研究者をも含んだ多くの現代の日本人には、理解しがたいものとなっている。では、なぜこのようなことになってしまったのか。
 この背景にあるのは、単一民族史観であって戦後に培われ広がったものだといわれている。ところがここで疑問が起こる。そもそも単一民族史観などというのは、戦前の日本の話で日本民族は優秀で他民族蔑視という考え方ではなかったのか。だが実際はそうではないようだ。小熊英二氏の『単一民族神話の起源』がそういった事情を説明してくれている。

2.実は戦後に形成されていた単一民族史観
 はじめに1970年代後半から論じられてきた内容の一節。
「明治いらいの日本人は、自分たちが純粋な血統をもつ単一民族であるという、単一民族神話に支配されてきた。それが、戦争と植民地支配、アジア諸民族への差別、そして現在のマイノリティ差別や外国人労働者排斥の根源である」
 つまり戦前の単一民族という考え方が、多くの社会的弊害を生んだのだと説明している。ところがどうもそう単純ではないようであることが、以下の記事でわかる。
 「大日本国帝国は単一民族の国家ではなく、民族主義の国でもない。否、日本はその建国以来単純な民族主義の国ではない。われわれの遠い祖先が或はツングウスであり、蒙古人であり、インドネシア人であり、ネグリイトであることも学者の等しく承認してゐるところであるし・・・・帰化人のいかに多かったかを知ることができるし、日本は諸民族をその内部にとりいれ、相互に混血し、融合し、かくして学者の所謂現代日本民族が生成されたのである」(室伏高信『大東亜の再編成』日本評論1942・2月号)
 「日本民族はもと単一民族として成立したものではない。上代においていはゆる先住民族や大陸方面からの帰化人がこれに混融同化し、皇化の下に同一民族たる強い信念を培われて形成せられたものである」(文部省社会教育局『国民同和への道』)
 これを読んで少し驚いてしまった。いずれも、1942年という戦争が始まったばかりの時代に発表されたものなのだが。戦後の学者たちの主張とは大きく食い違っているのではないか。この単一民族という考え方は戦後に急速に広まったようである。
 戦前には厳しい弾圧にさらされた津田左右吉氏だが、「日本の国家は日本民族と称し得られる一つの民族によって形づくられた。この日本民族は近いところにその親縁のある民族を持たぬ」「遠い昔から一つの民族として生活してきたので、多くの民族の混和によって日本民族が形づくられたのではない」と語っている。
 また、歴史学者の井上清は「高天原は日本人の故郷の地を神話にしたものだとか、天孫降臨は民族移動の話だとかいうのは、すべてこじつけであるというのが、津田博士の研究以来良心ある学者の一致して賛成しているところ」だという。これによれば、戦前においては天孫降臨は他民族の進攻であると捉えていたということであろうか。ということは、戦後の単一民族説が、天孫降臨などが民族移動だという戦前の理解を否定するという構図になるようだ。
 誤解されては困るが、何も戦前の歴史観の根底にある皇国史観を是としているわけではないことを、おことわりしておく。

3.騎馬民族移住説も受け付けない単一民族史観
 戦後の歴史学に多大な影響を与えた古代史学者の石母田正氏も、古代日本の稲作の成立にかんして、外部の影響より列島側の内発的な主体性を重視し、縄文時代から日本語は固有言語だったとしていたという。こういった考え方が、現代の研究者に引き継がれていったのであろうか。
 しかもこのような背景が、騎馬民族移住説も受け付けなくしてしまったのは明らかだろう。従来の混合民族論の延長であるのだが、天皇家の渡来を前面に押し出した点が目新しいといわれた騎馬民族移住説も、日本の歴史研究者の中で根強いマルクス主義系歴史学とは対抗関係になってしまっていた。最近では全面否定ではなく、渡来人から騎馬文化を主体的に受容したという説明に変化しているが、その本質は同じであろう。この点について、作家の霜多正次氏は「マルクス主義歴史学者たちが、たとえば弥生文化が稲作にともなう文化複合として伝来したことや、古代国家を形成した渡来人の問題などに、従来ほとんど目を向けようとしなかったことは、歴史の内的発展段階論を教条的に理解したことが大きな理由」と語る。  
 また、ドイツ文学者の鈴木武樹氏は、騎馬民族説を支持したところ、日本共産党系の歴史学者に「日本社会の固有の発展の法則と矛盾の克服のしかたが問題なので、天皇家の出自は歴史とかかわりない」と言われたそうだ。すべてを彼らが盲信している公式に、機械的に当てはめて説明しなければ許されないのだろうか。
 政治学者の神島二郎氏は、「戦前の日本では、大和民族は雑種民族であって、混合民族だとだれでも言っていたんです。あの日本主義を唱導していた真最中にもそういうふうに考えていたんです。ところが、戦後になって奇妙きてれつにも、進歩的な文化人をはじめとして、日本は単一民族だと言いはじめたんです。まったくもって根拠がない」と語る。これが問題の背景、事情を説明するものではないだろうか。
 
4.戦後の歴史観に抗する研究者
 最近(2023.9)出された『何が歴史を動かしたのか』(春成秀爾編)所収の寺前直人氏の「縄文時代像と弥生時代像の相性と相克」には、先の小熊英二氏の論旨が援用されている。列島内の東西における稲作開始の時期の時間差が予想を超えて大きく、北部九州では紀元前9~8世紀(夜臼Ⅰ式土器)だが、東北地方では紀元前5~4世紀(砂沢式段階)と400年もの差になることが明らかになったとし、これは従来の歴史観では捉えにくい問題なのだという指摘である。
 以前より磨製石包丁など朝鮮半島の考古文化と日本列島西部の状況には、多数の共通項があって議論されてきた。「考古学研究では、抽出する属性の組み合わせが国境を越えて何通りにも区分できるのに、それを妨げたのが戦後の世界観であったという。その結果、異文化が数百年併存するという多系的、多民族的な歴史像ではなく、縄文時代から弥生時代へと日本国の歴史は単系的に「進歩」したのだという歴史像」で解釈されてきた。それは、従来、日本国という空間を一括してひとつの時代として輪切りにしてきたのだが、それは「帰納的な考古資料の分析結果によるものではなく」戦後に登場した世界観の変化によるものだったという指摘である。
 つまりこれは、DNA分析結果だけではなく、以前からの数多くの考古資料の現実が、従来の形式的な歴史観では説明できないことを示しているとの重要な指摘であって、この点での問題意識、歴史観の見直しをはかる研究者が少なくない状況になっていることを意味するのではないか。
 なお、とりあげさせていただいた『何が歴史を動かしたのか』については、その内容に興味深いことがいくつもあったので、また何度か紹介したい。

参考文献
春成秀爾編『何が歴史を動かしたのか 第二巻弥生文化と世界の考古学 』雄山閣2023
小熊英二『単一民族神話の起源<日本人>の自画像の系譜』新曜社1995

勾玉
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 当ブログのタイトルの背景写真に使わせていただいたブルーのガラスの勾玉は、島根県出雲市大津町「出雲弥生の森博物館」の展示品。隣接する西谷(にしだに)墳墓群史跡公園の西谷3号墓の第一主体からの出土である。隣り合う第4主体が王墓とされ、二重の木棺からはガラス管玉が出土し、その在質はローマ製ガラスを使ったソーダ石灰ガラスで、他に第一主体と2号墓からも発見されているが、列島ではここだけのガラス製品だという。そしてコバルトブルーの輝く鉛バリウムガラスの二つの勾玉も特に珍しいものだそうだ。この第一主体の埋葬者は、第4主体の王の后と考えられている。
 これらのガラス製品は、小寺千津子氏によれば朝鮮の楽浪郡で手に入れたという仮説を提示されたとのことだが、大陸や半島のどこかで手に入れた渡来の王とその集団が持ち込んだものではないかと想像する。
 先ほどの小寺氏の『ガラスの来た道 古代ユーラシアをつなぐ輝き』(吉川弘文館2023)に、西晋の詩人潘尼(はんじ)の「瑠璃碗賦」の詩が引用されている。
 「流沙の絶嶮なるを済(わた)り、葱嶺(そうれい・パミール)の峻危たるを越ゆ。その由来疎遠なり。」
 ガラス碗がはるばるパミールの峻嶮を越え、中央アジアの流沙をわたり、中国本土にもたらされたことが詠まれている。同様に、中国からさらに列島にもはこばれてきたのであろう。そのはるか遼遠のユーラシア文化の、古代日本への影響や痕跡が少しでも見つけられたらいいかと思っている。

参考文献
渡辺貞幸『出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群」新泉社2018

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