図は4点ともにホケノ山古墳の精製小型丸底壺
奈良県桜井市ホケノ山古墳は初期の前方後円墳であり、その西に位置する箸墓古墳に先行するものであった。だが、箸墓古墳を卑弥呼の墓に想定する説に対しては、ホケノ山古墳から出土した土器が3世紀後半から4世紀であり、とても箸墓古墳を3世紀半ばとすることはできないという意見が出ていた。
箸墓を卑弥呼の墓などと主張するつもりはないが、ここではホケノ山古墳を例に古墳全般の年代判断にともなう問題についてふれてみたい。
ホケノ山古墳の埋葬施設からの出土土器については、二つの編年観の異なるものがあった。
木槨の上にあった加飾の二重口縁壺は、庄内式新段階(布留0式古相)であった。この庄内式と布留式の土器の境目にあたる年代が250年頃と考えられている。
ところが、木槨内から精製小型丸底壺が見つかっている。通常ならば前者が庄内式、後者が布留式の所産であり、これを同時期と見なすことはできないのである。
そこで、山本亮氏は再検討を行ったが、やはり小型丸底壺は布留式中段階(古相~中相)と考えられ、「順当に分析すれば時期に齟齬」(山本2024)があるとされている。
しかし、土器の年代と実際の古墳に対する人間の活動については検討しなければならない問題があるという。つまり、出土した土器が古墳の築造、それに続く埋葬後の墓前祭祀のどの時期に置かれたものかが重要となる。埋葬すればあとは放置されるということは現代の感覚からしてもありえないことだ。
そう考えると、二重口縁壺は埋葬施設上に設置されたものであり、小型丸底壺はその後の墓前祭祀に用いられたものと考えられるが、その後者がなぜ埋葬施設にあったのか?
埋葬施設上の壺類は器表に風化が見られないことから、最初から埋葬施設は礫で覆われていたと考えられることから、木槨が腐朽するなかで、被覆礫とともに外側にあったものが落ち込んだ、と考えるのが最も整合的な解釈(山本2024)だという。後の時代に埋葬施設内に紛れ込んだというのである。なお私見だが、このホケノ山古墳も部分的に盗掘があったということから、その際に混入することもあったかもしれない。
いずれにしても、埋葬後の一定の期間に墓前祭祀が続いたことは否定できない。次のような事例がある。古墳時代前期初頭の京都府向日市五塚古原古墳では時期の離れた前期中から後葉の妙見山古墳の埴輪が周辺埋葬に用いられていたという。今のところ事例は少ないが、埋葬後に長期間にわたって人の営みが行われていた事例である。
よってホケノ山古墳の築造年代は3世紀前半とする考えは、小型丸底土器では否定できないことになる。さらには、埋葬施設に共通性が窺える萩原1号墓が3世紀前半とされるところから、この後にホケノ山古墳は築造されたとすることとも整合するのである。
以上から、古墳の築造年代を判断するには、墓前祭祀も含めた埋葬に関わる行動も考慮しての判断が必要ということになる。また、すでに説明しているが、古墳には複数埋葬が多くあることや、前方後円墳といっても段階的に築造されている事例など、年代を容易に固定することの困難さもあることは認識しなければならない。
このホケノ山古墳の場合も時期をあけて木槨に添うように横穴式石室が築造されているという、やや特殊なケースも存在するのである。木槨の被葬者を祖先と考えてその末裔が築造したのであろうか。
なお、ホケノ山古墳にあった鏡の出土について述べておく。完形の画文帯同向式神獣鏡1面のほか、意図的に打ち割られたと思われる画文帯神獣鏡、内行花文鏡等の破片23点が検出されている。ここには三角縁神獣鏡は見当たらないようだ。三角縁神獣鏡は出雲の神原古墳出土の景初三年銘の鏡からも239年以降に制作されたものであり、まだこの鏡を手にしなかった被葬者であったとも考えられることからも、ホケノ山古墳の年代観に齟齬はないとも言える。
この三角縁神獣鏡の問題について次回より述べていきたい。
参考文献
山本亮『古墳出土土器と古式土師器の編年研究』「日本考古学の論点上」雄山閣2024
小型丸底壺の図も上記の出典































