流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 作られた古代史

1.疑わしい万葉歌や事績

 万葉歌の長歌2首、短歌4首が、すべて持統天皇の作歌とできる確証たるものはない。中西進氏は、長歌の159番「やすみしし・・」は「詞人の代作」、162番「明日香の浄御原・・・」も形式上大后の作とされる。160番「燃える火も」と161番「北山(向南山)にたなびく雲」は、用字に異様なものが多いとし、陰陽師による代作と厳しい評価だ。28番「春すぎて」はこちらで説明しているように、藤原宮で香具山を見て歌われたものではない。
 明確に持統の歌であることを示すものはなく、後付けで解釈されているにすぎない。
 160番の「燃える火も」については、説明の困難な歌と言われているが、これについてはあらためて取り上げたい。
 風土記に持統天皇は登場しない。また地域伝承の記事もない。豊川市に三河行幸に関わる「持統帝御行在宮跡」があるが、これは現代の3名の研究者による「遺跡考証」を拠り所に、当地に記念碑が建立されたもので、古来からの言い伝え、痕跡があってのことではない。

 日本書紀に記される吉野行幸と伊勢行幸もあやしい。
 30回を超える行幸ならば、しかもそれが大和の吉野山の宮へ通ったというのであれば、その道中で何らかの言い伝えなどがあってもよさそうであるが、うかがい知れない。
 また改めてふれるが、この吉野行幸、さらには伊勢行幸も別の人物、伊勢王の事績でと考えられる。詳しくは古田史学の会論集第25集『古代史の争点』「九州王朝と大化の改新―盗まれた伊勢王の即位と常色の改革―」[正木裕] をご覧ください。 
 「吉野」も「伊勢」も九州に存在していたのである。 

 持統紀には、吉野行幸以外にも、広瀬・龍田の祭祀の記事も繰り返し頻出しているが、これも実は大和ではなく九州の地でのことである。こちら

2.日本書紀の持統は則天武后などがモデルの可能性

 武則天の武照、いわゆる則天武后は、高宗の後継であった中宗を廃位し、その弟の李旦(睿宗)を擁立するも、後に皇太子に格下げさせて自らが即位する。その年が、天授元年(690年)
 かたや持統天皇は、天武の死後、称制を行い、天皇に即位するのは持統4年(690年)
 これは偶然でしょうか? 
 655年に高宗は唐三代皇帝に即位も病弱の為、則天武后は並んで二聖政治を行い、人材登用に手腕を発揮する。
 持統の場合は、次のような記事がある。
天武二年、立爲皇后。皇后、從始迄今佐天皇定天下、毎於侍執之際、輙言及政事、多所毗補。
 皇后、始(はじめ)従(より)今にいたるまで、天皇を佐けて天下を定め、毎(つね)に侍執(つかえまつる)際(あいだ)に、輙(すなわち)言、政事に及びて毗(たすけ)補う所多し。
 この「始従り」は壬申の乱の時からという意味と思われる。つまり、則天武后の二聖政治と類同している。

 また、政敵や皇位継承候補の排除については、他にも事例がある。
もう一人の候補となるのが北魏の馮太后。北燕二代目君主馮弘の孫で、二度にわたる臨朝(第一次、二次)を行った。
 465年12歳の献文帝の元で政務を執る。(第一次臨調)467年に退く。
 471年その献文帝は18歳で皇太子の孝文帝に譲位し、太上皇帝となる。しかし476年に23歳で死去。馮氏による毒殺といわれている。孝文帝は10歳だったために馮氏が太皇太后となって実権を掌握。(第二次臨調) 重要な制度を施行し、その中に均田制もあった。馮太后が孝文帝の生母との説もある。 
 そうであるならば、馮太后が、実子ではない献文帝を殺害して、実子の孝文帝に即位させて自分は太皇太后となって政務を執ったことになる。 
 持統の場合は、大津皇子の排除、高市皇子の死後(殺害の可能性)、皇太子に禅位し、持統は大上天皇となった。
 
 本人の出生、万葉歌、書紀の記事、風土記や地域伝承の希薄なこと、則天武后の事績を真似た記述、など、持統の存在は疑わしいことが多いのである。

 律令制国家の礎を築いた女性天皇として、評価の高まりつつある持統天皇だが、そもそも、その存在自体が、あやしい点がある。
 よくいわれることだが、『懐風藻』では、天皇ではなく皇太后とされ、『扶桑略記』では、持統は不比等の私宅を宮にしていたとのことから、即位していなかったとも考えられている。
 持統は、天武の死去後に、即位せずに称制を行ったとある。しかし称制とは、本来の皇帝(天皇)が存在して、その代行として政務をとることであり、持統の場合は、別に正当な天皇がいたことを示すのではないか、の指摘もある。そしてそれは高市皇子が有力候補とされている。
 いくつか、持統が天皇であったのかどうかの疑問点を述べてみたい。
図1

1.持統の系図と不可解な日本書紀の記述
 天智紀では、蘇我倉山田石川麻呂の長女の越智娘が、持統の母。次女が元明の母となる。ところがこれがおかしい。実は皇極紀では、蘇我入鹿殺害計画の準備の中で、鎌足のすすめで中大兄は蘇我倉山田石川麻呂の長女と嫁ぐはずが、「一族に盗まれて?」次女が代わりとなった、という経緯が述べられている。皇極紀が正しいのであれば、越智娘は長女ではなく、次女である。天智紀ではこの女性の別の名も記されている。
 蘇我山田石川麻呂大臣女曰遠智娘或本云美濃津子娘
 或本云、蘇我山田麻呂大臣女曰芽淳娘
 建皇子、大田皇女、鸕野皇女を生んだ母の名は、越智娘、美濃津子娘、芽淳娘と三つ記されている。この三つの名を持つ女性は同一人物なのだろうか。山田石川麻呂には他にも娘がいたのだろうか。
これは、日本書紀の編集のミスなのか、後から持統を系図に付け加えた際の行き違いであろうか。
 すでに、説明しているが(こちら)、 乙巳の変の実行前の説話の中大兄と鎌足の蹴鞠や石川麻呂の娘との婚姻話は、新羅の金春秋と金庾信の関係をモデルに作られた話と考えられる。
 持統は天智の子で天武の妃というのもあやしいのではないか。

2.ウノサララという名前
  持統天皇とされる高天原廣野姫天皇の少名(わかきときのみな)、つまり幼名は鸕野讚(うののさら)良(らの)皇女(ひめみこ)とある。
「さらら」だが、これは渡来系を意味するのではとも考えられる。
書紀の持統8年に百済土羅羅女とあり、「つららめ」という百済の女性がいたようだ。
 また、推古8年に、加耶諸国の中に割多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南加羅・阿羅々六城以請服 あららという国があった。
天武紀12年に、娑羅羅馬飼造、菟野馬飼造 馬を扱う「さらら」に「うの」なる人物がいた。 
 欽明紀23年には、秋七月己巳朔、新羅遣使獻調賦。其使人、知新羅滅任那、恥背國恩、不敢請罷。遂留、不歸本土。例同國家百姓、今河內國更(さら)荒(ら)郡鸕鷀野邑新羅人之先也。
 「新羅は使いを遣わして調をたてまつった。その使いは新羅が任那を滅ぼしたと知っていたので、帝の恩に背いたことを恥じ、あえて帰国を望まず、ついに留まって本土へ帰らなかった。日本人民同様に遇され、いま、河内国更荒郡鸕鷀野さとの新羅人の先祖である。」(宇治谷孟訳)  
 移住民が「さらら」こおりの「うの」という地域名にいた。ここから名付けられたのであろうか。
 持統紀8年:河內國更荒郡獻白山鶏。賜更荒郡大領・小領位人一級幷賜物。以進廣貳賜獲者刑部造韓國、幷賜物。
 「河内国更荒郡から、白い山鶏をたてまつった。 (中略) これを捕らえた刑部造韓国に進広貳の位と物を賜った。」
 更荒郡にカラクニという人物がいた。渡来人の居住者の多い国であることを示す。
 以上から、持統なる鸕野讃良はその名前から渡来人の可能性が高い。  ちなみに福岡県にも早良(さら)地名があることも関係するであろうか。
 このサララの意味だが、サンスクリット語でSarasは水、サーラは水が流れるといった意味。大乗仏教でサラは儀式をするための湖、池。ギリシャ語でサラサは海。ヒンズー教のサラスヴァティは川や湖の神である。水の音は、さらさら、とは聞こえないので、擬音語とは考えにくいことから、大陸からの言葉に起因すると思われる。
 鵜野讃良は、水を祀る祈雨祈晴のシャーマンではないか。書紀2年7月に大いに雨乞いをしたという記事。また5年6月には水害に対する対策として、政事の姿勢を悔い改めることや、各地の僧への読経を命じるなど、効果を願う詔を出している。さらに、頻繁に記載のある広瀬大忌神も治水の神だ。皇極天皇は雨乞いを自ら行って効果があったという記事もあるので、両者とも祈雨祈晴の祭祀者であろうか。

 次に、持統の万葉歌や中国の女帝などにふれたい。

風土記の天皇

 図は各風土記に登場する天皇名を表にしたもの。 
以下は、各風土記の中に登場する天皇とその地名を抽出したものである。記載された天皇名は、漢風諡号ではないのだが、現在に通用している解釈の天皇で分類した。
 皇極、斉明は同一人物となる。
 欠史八代の天皇は既述なく表からは消している。
 応神天皇は、播磨国風土記では多数登場するので一部だけ記載した。
 出雲国風土記は、ほぼ完全本であるのに、天皇が3名しか登場しないのも面白い。独自の世界が描かれているということだろうか。
 また、日本書紀では天皇ではない人物が風土記では天皇の扱いになっているものが倭武天皇など数名あり、各風土記の末尾に記載した。さらに、同じ天皇を日本書紀とは異なる天皇名で記してあることも多くあるのは興味深い。
 もともと、持統天皇の記事があるのかが気になったのでチェックをしたのだが、やはり登場していない。もちろん、他にも登場しない天皇はあるが、推古から天武までは何らかの風土記に記載されているのに、日本書紀最後の天皇の記述がないのが、気になるところである。あくまで参考程度の資料です。

◆播磨国風土記
(仲哀)穴門豊浦宮:赤石郡印南浦、   帯中日子:赤石郡大国里、
(神功)息長帯日女:赤石郡大国里、  息長帯比売:餝磨郡因達里(韓国平)、  大帯日売:揖保郡言挙阜, 宇須伎津、宇頭川、 息長帯日売:揖保郡御津、萩原里、讃容軍中川里(韓に渡る)、
(応神)品太:賀古郡、餝磨郡麻跡、賀野里、幣丘、安相、(以下略) 
(景行)大帯日子:賀古郡日岡、赤石郡益気里、酒山、  大帯日古:小嶋、 大帯比古:琴坂、
(成務)志我高穴穂宮:賀古郡、
(仁徳)難波高津御宮:含藝里、 大雀天皇御世:餝磨御宅、 難波高津宮天皇:栗栖里、揖保郡佐岡、讃容郡弥加都岐原、 難波高津宮御宇天皇之世:賀毛郡猪養野
(履中)大兄伊射報和気命:賀毛郡美嚢郡、美嚢郡志深里、
(雄略)大長谷天皇御世:餝磨郡胎和里、
(顕宗・仁賢)意奚・袁奚:玉野村、美嚢郡志深里
(安閑)勾宮天皇之世 越部里、
(欽明)志貴嶋宮 餝磨郡大野里   志貴嶋 少川里
(孝徳)難波長柄豊前:揖保郡石海里、宍禾郡比治里、難波豊前於朝庭 讃容郡、
(斉明)小治田河原天皇之世 揖保郡大家里、
(天智)近江天皇:讃容郡中川里、船引山、
(天武)浄御原朝廷:讃容郡中川里、
息長命(帯比売弟):賀古郡、
宇治天皇之世:揖保郡上筥岡、
市辺天皇命:美嚢郡志深里
聖徳王御世:原の南、

◆出雲国風土記
(景行)纏向檜代宮御宇天皇:出雲郡
(欽明)志貴嶋宮御宇天皇御世:意宇郡舎人郷、神門郡日置、
(天武)飛鳥浄御原宮御宇之御世:意宇郡安来、

◆豊後国風土記
(景行)纏向日代宮御宇大足彦天皇:総記、日田郡、日田郡鏡坂、 纏向日代宮御宇天皇:直入郡祢疑野、大野郡海石榴市、海部郡、大分郡、速見郡、国埼郡、
(欽明)磯城嶋宮御宇天国拝開広庭天皇之世:日田郡靫編郷
(天武)飛鳥浄御原宮御宇天皇:日田郡五馬山、

◆肥前国風土記
(崇神)磯城瑞籬宮御宇御間城天皇:総記
(景行)纏向日代宮御宇天皇:総記、基肄郡、養父郡、日理郷、神埼郡、神埼郡三根郷、三根郡米多郷、同船帆郷、同蒲田郷、松浦郡大家嶋、同値嘉郷、杵島郡、同嬢子山、同託羅郷、彼杵郡、同浮穴郷、高来郡 
 大足彦天皇:神埼郡琴木岡、同宮処郷、松浦郡賀周里、
(神功)気長足姫尊:松浦郡(新羅征伐) 同逢鹿駅(新羅征伐)同登里駅(男装)、彼杵郡周賀郷、
(応神)軽嶋明宮御宇誉田天皇之世:鳥樔郷
(宣化)檜隈廬入野宮御宇武少広国押楯天皇:松浦郡鏡渡、
(推古)小墾田宮御宇豊御食炊屋姫天皇:三根郡物部郷
(日本武尊)巡幸:佐嘉郡 小城郡(不明の天皇あり)、

◆常陸国風土記
(崇神)美麻貴天皇馭宇之世:新治郡、 美麻貴天皇之世:筑波郡、久慈郡、 新貴満垣宮大八洲所馭天皇之世:行方郡香澄里、 初国所知美麻貴天皇之世:香島郡、
(垂仁)伊久米天皇ノ世:行方郡白鳥里、
(景行)大足日子天皇:信太郡、行方郡香澄里、
(成務)斯我高穴穂宮大八洲照臨天皇之世:多珂郡
(神功)息長帯比売天皇之朝:茨城郡(多祁許呂は品太誕生まで仕える) 息長帯日売皇后之時:行方郡田里
(孝徳)難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世:総記、行方郡、多珂郡  難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世:行方郡
  難波長柄豊前大朝馭宇天皇之世:香島郡、 難波天皇之世:香島郡、 
(倭武天皇):総記、信太郡、茨城郡、行方郡、香島郡、久慈郡、多珂郡、
(継体)石村玉穂宮大八洲所馭天皇之世:行方郡
(天智)淡海大津朝:香島郡、 淡海大津大朝光宅天皇之世:久慈郡、
(天武)飛鳥浄御原大宮臨軒天皇之世:行方郡麻生里、 飛鳥浄御原天皇之世:同板来村

◆逸文
(神武)宇祢備能可志婆良宮御宇天皇世:摂津国土蜘蛛、 神倭石余比古之御前立坐:山背国  神倭磐余彦:伊勢国
(崇神)美麻紀天皇御世:越国  大倭志紀弥豆垣宮大八嶋国所知天皇:阿波国
(垂仁)巻向珠城宮御宇天皇:尾張国、陸奥国、
(景行)大足日子天皇:常陸国河内郡、 巻向日代宮大八洲照臨天皇:常陸国、 巻向日代宮御宇天皇時:陸奥国、大帯日子天皇:伊予国、
(倭武)日本武命:尾張国、 日本武尊:陸奥国(征伐東夷)、美作国、  倭健天皇命:阿波国 
(仲哀)帯中日子天皇:伊予国
(神功)息長帯比売天皇世:摂津国風土記、 神功皇后時:摂津国(美奴売前神)、 息長帯日売命:播磨国
    大后息長帯姫命:伊予国
(応神)軽嶋豊阿伎羅宮御宇天皇世:摂津国風土記裏書
(仁徳)難波高津宮天皇之御世:播磨国、伊予国、
(雄略)長谷朝倉宮御宇天皇御世:丹後国日置里
(継体)石村玉穂宮大八洲所馭天皇之世:常陸国
(宣化)檜前伊富利野宮大八嶋国所知天皇:阿波国
(孝徳)難波長楽豊前宮御宇天皇世:摂津国久牟知川、  御宇難波長柄豊前宮之天皇御世:常陸国、 難波長柄豊前大朝撫馭宇天皇之世:常陸国  難波高宮大八嶋国所知天皇:阿波国
(不明)天皇:備中国、 淡路国、

天皇紀年記事年差
 上図は、推古までの古事記と日本書紀の天皇の年齢と在位期間を示したものです。さらに継体紀までは、日本書紀に紀年で書かれた記事の次の記事の年との差を表したものです。図はクリックして御覧ください。
 たとえば、最初の神武は、古事記では137歳、日本書紀では127歳、在位期間は日本書紀の紀年記事の崩御年の数値から76年となります。そして、紀年記事では、即位後の次の紀年記事が2年にあります。そしてその次が4年に記事がありますので、前の記事から2年の差があります。ところが、4年の記事の次は31年の記事となり、27年も期間が飛ぶことになります。その次も、42年で前の記事から11年の差があります。そして、崩御年が76年ですので、前の記事から34年後になります。これを、継体天皇まで一覧にしました。
 特に百歳を超える天皇が多い前半では、欠史八代など、記事がとぼしく、即位後は、跡継ぎ、すなわち立太子の記事と崩御年ぐらいになりますので、間隔が大きくあいた記述になります。これによって、日本書紀の紀年記事が、在位年数に合わせて、間隔が調整されているようにも見えてきます。

1.いくつも見られる奇妙な年齢、紀年記事

・一番奇妙なのは、天皇の年齢が、古事記と書紀でほとんど合っていないということである。表を見ると2人が同一のように見えるが、神功は割注に書かれたもので、仲哀だけが唯一同一年齢となる。
また、古事記の年齢が書紀より半分近く少ない天皇が4人、20年以上少ないのは4人、逆に書紀の方が少ないのは、崇神・垂仁・景行・応神の4人。記紀の年齢差は2倍年暦とは別の問題とはいえないだろうか。
・仁徳では、各年代の記事がたくさん見られるが、それでも、崩御年の前の記事は20年前になる。つまり最後の具体的な記事が67年で、20年後の崩御まで記事が何もないのである。成務や允恭も同じで、長い在位年に合わせるために、間隔をあけたように見える。
・既に⑵や⑶で説明させていただいたが、景行紀の40年にヤマトタケルの東征記事が12年もあいてから挿入されたり、神功紀36年には前回記事から26年も飛んだ後に突然、中国史書の女王遣使の記事が入り込んでいる。
・書紀は允恭から武烈まで年齢不詳。また、継体は日本書紀では82歳であるが、古事記の方は43歳となっている。これは⑴で取り上げたように、そもそも、古事記の方が古式の伝承を伝えているのであれば、どうして書紀より早く通常の年暦に変えたことが疑問となる。何らかの操作の可能性がある。
・さらに継体の次の安閑から崇峻までの6代の天皇の年齢も不詳。
・安閑は70歳で2年の在位、宣化も73歳で4年の在位というのも奇妙。どちらも髙齢で短期間だけ即位したというのも奇妙である。
・日本書紀では、欽明から崇峻の4人の年齢も不詳である。

2. 年代に大きな差がなく、おしなべて記されている雄略紀

 雄略紀は11年に記事がない以外は、すべて一年ごとの記事が記されるという、特異な様相を呈している。ここはどのように考えればよいであろうか。実は、雄略天皇についても不可解なことがある。
 雄略天皇は、古事記には124歳とされているが、これは2倍年暦による年齢とできそうである。なぜか書紀では天皇の年齢は記されておらず、在位年数は23年である。さぞや応神と同じく、歳を経てから即位したのかと思われるが、これが2倍年齢であるならば、62歳として在位年数が23年ならば、39歳の時に即位したことになる。ところが、葛城山で出くわした一言主神に、自分は幼武尊(わかたけのみこと)と名乗っているのは妙だ。
 神功紀では、二運120年遡らせた百済王の記事を対応させたが、雄略紀には、蓋鹵王の記事を登場させ、雄略5年(461)の百濟新撰云「蓋鹵王、遣弟昆支君向大倭侍天王」の記事や、高句麗侵攻による蓋鹵王の殺害記事をちょうど干支の紀年合わせて、それまでのずれを解消させたのである。そのために、二倍年暦が関係しないような記事の描かれ方である。つまり、操作をする必要はなくなったということである。古事記で124歳とされた雄略は、日本書紀では紀年と実年代を合わせた記事とするために、年齢は意図的に不記載にしたのであろうか。

3. 記事の日付が月の前半に集中している欠史八代

 書紀の欠史八代の記事は、日付が月の前半に集中している。ただ、孝安即位の日が辛亥で27日とされるが、これも岩波注では底本に辛卯7日とあるので、すべて月の半分の日数を一か月としていたと考えられ、これは2倍年暦が反映したものとは考えられる。だがこの場合は、月の日数は半分としながらも、1年は12ケ月で経過させている。神武から欠史八代まで、たいていは、春に即位記事があるのは、通常の時間経過が1年であることを示すのではないか。1年が6カ月ならば、秋に即位があってもいいはずが、実際には秋は崩御記事ばかりである。天皇の年齢、在位年が2倍年暦であったならば、それが、書紀の記事とどのように対応するのかという説明がほしいところである。
 特に仁徳までが高年齢になっているが、これは、高句麗長寿王の97歳(在位:413年 - 491年)の例から、古期の天皇の年齢、在位が長期間となっても不思議ではなく、対抗するように長寿の天皇を設定したともとれなくもない。
 よって、日本書紀の万世一系の記事を、2倍年暦の要素はあるとしても、実年で系統的に記事が配置されているとは考えにくく、逆算して神武を紀元前後に考える根拠は弱いと言える。
 日本書紀の記事は、その多くが該当の天皇の事績や言葉は少なく、その天皇と直接は関係しないものである。よって、書紀の後半にも記事の年代移動が多く行われているように、前半にも割り振られたものがあって、特定の天皇と結びつかないものが多いのではないか。たとえば、垂仁28年の人や馬の埴輪を作るという記事は、早くても4世紀後半であり、考古学の認識からも合わないのである。
 以上のように、日本書紀の紀年には、2倍年暦の要素はあるにしても、それだけでは説明しづらく、年代移動や年齢を隠すなど恣意的な操作による編集で、万世一系の史書に作り上げたものと考えた方が良いと思われる。

記紀崩御年
 図は、古事記に記された天皇崩御年の干支と日本書紀との対照表。右側に干支の順番の番号をつけて、年差がわかるようにしました。たとえば、崇神天皇は、古事記は戊寅で15、日本書紀で辛卯は28。よって13年も異なることになります。このように崇神から継体まで崩御年が異なっています。

1.古事記と日本書紀の天皇崩御干支年の表記について

 古事記には、崩御年に干支が記されている天皇が15人あるが、干支の番号で年差を示すようにした表にあるように、日本書紀と合致するのは5人であとの10人は、数年から20年こえる誤差がある。
例えば、古事記の履中天皇は壬申で432年の崩御だが、反正も丁丑が437年で書紀の天皇では允恭の時代になる。その允恭は甲午454年で書紀の安康の即位年にあたる。雄略は己巳489年で仁賢の在位期間となる。
 年差で見ると、応神は22年、履中は26年、反正は34年と大きく異なる。ただこの干支番号で差を見る場合、どちらを先の年代と見るかで異なるので、例えば雄略の場合、60-57+6で9年の差となるが、逆でみると、57-6ならば51年異なる。雄略天皇の年齢が124歳で書紀で想定されている年齢が62歳とあることから、崩御年が51年の差があっても不思議ではないことになる。
 こういった崩御年の食い違いは、年齢の異なる史料の存在が想定されるが、他の事情も考えられるのではなかろうか。

2.一人の天皇紀に複数のモデルとなる人物が当てはめられた可能性
 
 継体天皇に関しては、記紀の年齢、崩御年が異なるのだが、さらに、日本書紀の記述の中に複数の崩御年が記されるという特異なケースになっている。書紀の本文には、継体25年(531)に崩御であるが、「或る本」に28年(534)の崩御とあるが、これについては、正木裕氏が説明されているように、前者は別の「天皇」であって、後者が日本書紀が語る継体なる人物の崩御年であり、後者の534年をとれば、次の安閑天皇と空白なくつながるのだという。つまり継体紀には、異なる人物の記事が混在しているということである。こういったことが、武烈紀にも見られるのである。
 武烈天皇の記述も、国中の人々が恐れるような悪事をおかす人物と表現される一方で、次の継体天皇の24年の詔には、
 爰降小泊瀬天皇之王天下、幸承前聖、隆平日久、俗漸蔽而不寤、政浸衰而不改
 「武烈天皇が天下を治められてより、長い太平のために人民はだんだん眠ったようになり、政治の良くないところも改めようともしなくなった。」(宇治谷孟訳)というのはどういうことであろうか。聖人君主とはいえないが、無難に天下を治めた天皇であるかのようである。
 さらに、武烈天皇は、跡継ぎがいないので、自分の名が忘れられないようにと小泊瀬の舎人を設けるという記事がある。そのため、継体紀では次の天皇の擁立に苦労する経緯が描かれている。ところが、武烈7年には、百済国の斯我君が遣わされ、その後、子が生まれて法師君といい、これが倭君の先祖になったというのである。つまり、跡継ぎのいない人物と、子が生まれた別の人物が存在することになる。武烈紀には、書紀の語る武烈なる人物と、後に倭君につながる別の人物のことが合わさって描かれていると考えられるのである。
 以上のように、各天皇紀に複数のモデルがあって、それを一人の天皇として描くといった編集が、典型的な神功紀をはじめとして、幾人もの天皇のところで行われているのではなかろうか。その結果、古事記と書紀の崩御年、年齢が異なるという現象が起こったとも考えられる。

正木裕「倭の5王時代の終焉から磐井へ」20241022@奈良県立図書情報館    古田史学フェイスブックで閲覧できます。こちら


埴輪武人
                     群馬県高崎市綿貫観音山古墳武人埴輪

 景行天皇も116歳と長寿であるが、古事記ではさらに137歳となっており、偶然なのか神武と同じ年齢になっている。ただ書紀の神武は127歳と違っている。天皇としての在位期間も60年と長いが、開化、成務も同じく60年である。たまたまなのか、いやひょっとすると、計算がしやすいように干支の一運の60年に合わせたのかどうかはわからないが。
 その景行の年齢もさらにおかしなところがある。垂仁37年に皇太子となり、21歳とある。垂仁15年に日葉酢媛が第一に景行を生む記事と合うのだが、垂仁が99年崩御で翌年に景行が即位するのは63年後の84歳。景行紀60年で崩御なので、21+63+60で144歳のはずが、書紀は116歳と記す。実は古事記では景行は137歳となっている。なんらかのミスがあったのであろう。
 この天皇の長寿も、二倍年暦だと58歳であり、在位年も30年なら、景行は28歳で天皇に即位したことになり、断定はできないが不自然ではない年齢とはなる。だが、書紀の編者は、通常の年暦で編纂を行っているから、こういった長寿の天皇の記事では、どうしても辻褄を合わせるための無理な紀年の記事が現れる。

 景行紀では、28年の記事の次が40年と12年もあいている。しかし、この両者の記事は、12年の時間の差があるとは思えない記事となっている。ヤマトタケルは景行紀28年に熊襲征伐を行う。その次の記事は40年となり、東夷の征伐を命じられ、絶命するまでの長い物語が続いている。その際のヤマトタケルの台詞は、「熊襲既平(熊襲すでにたいらぎて)、未經幾年(いまだいくばくの年もへずして)、今更東夷叛之(いままたひむがしのひなそむけり)・・」といって東国に向かうのだから、「いくばくの年」が12年とは奇妙である。
 書紀継体紀にも「幾年」が使われている。継体6年夏4月「況爲異場、幾年能守」(〔任那四県を百済と切り離しておいたのでは〕何年ともたない)とあるように、数年のこととなる。ヤマトタケルの場合は本当は翌年あたりの記事ではなかったであろうか。これは、60年と長い景行紀の記事を引きのばして埋めていく際に、間隔のあく年代を設定する箇所を間違えて、連続するような記事の中を離して、12年も伸ばした年代に設定してしまったのではないだろうか。  
 他の天皇記事にも見られることだが、本来、天皇が主役の記事であるはずが、天皇以外の記事が多く見えることも奇妙であり、景行紀においても天皇よりもヤマトタケルが主役のような扱いの記事が、差し込まれたようにみえることからも、日本書紀の万世一系には疑問が生じるのである。

神功年表
 図は神功皇后紀の百済・中国史書との記事対照年表
 百済王の崩御即位記事は、二運120年ずらして神功紀にはめ込まれている。(画像はクリックして御覧ください)
 日本書紀の中にあって、奇妙な存在のひとりが神功皇后こと気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)である。急死した仲哀天皇の皇后として、69年間も摂政として統治を行っていたとあるのだが、年齢の百歳というのも疑問であるが、新羅征伐のあとに九州に戻って生まれた応神は、60年以上も天皇としての即位がなかったのだが、これが二倍年暦としても35歳まで皇太子のままであったというのも不自然であろう。                                                                                                                                                                 
 この神功紀は13年の記事あとに、26年も飛んで、魏志の女王遣使の記事が挿入されている。
「卅九年、是年也太歲己未。魏志云、明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等」
 これは、一般的に言われているように、神功という人物を卑弥呼に見立てようとしたのであろう。そしてこの翌年、さらに43,46年と関連記事を載せ、次は66年に泰初2年の貢献記事を記している。これは岩波注にもあるように、卑弥呼の次の女王である臺与のことのはずが、どうも書紀編者は神功に見立てたようである。そのために、百歳まで生かしたように設定したのであろう。この箇所も、2倍年暦で説明できないのであって、あくまで通常の年数経過で記事が入れ込まれているのである。
 逆に言えば、両者の記事の女王を神功という一人の人物に見立てるために長寿にしたと言えるのではないか。特に後半はほとんどが半島関係の記事であり、とても一人の実在の人物の記録とは考えにくい。複数の人物の記事を、まとめて作り上げたとしか考えられないのである。
 この中国への43年の遣使記事のあとに、百済王の没年と次の王の即位記事が3回記されている。これが、ちょうど一般的な解釈にあるように、干支が二運120年繰り上げて記されるのである。そしてここから、かなりくわしく、倭国と百済の通交の開始が述べられており、七支刀に関する記事も盛り込まれているのである。もちろん、銘文にある泰和四年(372)からも120年ずれているのである。
 日本書紀編者は、神功皇后を卑弥呼という存在にあてて、さらには、百済との国交をすすめた指導者としたのではなかろうか。また臨月であった皇后は、腹の帯に石を挟んで新羅討伐に向い、凱旋後に九州の地で応神を生んだというのも、説話であって史実とはとても考えられない。
 神功という存在一つをとっても、万世一系が作りものであることを示しており、応神誕生につなぐための造作にすぎないのである。
 
 なお、常陸国風土記に気になる記事がある。
「多祁許呂命仕息長帯比売天皇之朝、当至品太天皇之誕時、多祁許呂命有子八人・・・」
 茨城の郡の一節に、茨城国造の遠い祖先の多祁許呂は、息長帯比売の天皇の朝廷に仕え、品太天皇の生まれた時まで仕えた、という割注があるのは興味深い。神功は摂政ではなく天皇とし、しかも即位してからしばらくの期間の後に応神が生まれたようになっている。風土記と日本書紀に大きな食い違いのある事例であろう。

※お詫び スマホの画面では、文章の途中に空白がありますが原因がわからず修正できません。

天皇在位継体

1.古代の天皇の年齢は二倍年暦によるものなのか

 日本書紀には、神武から天武までの間で、年齢が記載されていない天皇の方が多い。神武からいわゆる欠史八代、さらには応神までは途切れることなく記載されているのに、仁徳から武烈までは不記載が続く。図の書紀の年齢の( )の数字は、後の史料からの転載である。しかも書紀には履中が70歳と記されているが、これは割注によるもので、本文より後からの追記である。その後、武烈のあとの継体で年齢の記載が復活するのである。
 ところが、この継体の年齢が古事記とは大きく食い違っている。古事記は43歳とあるが、書紀は倍に近い82歳となる。この違いを、採用した史料が異なるからだという解釈がある。すなわち、日本書紀の方は、二倍年暦で書かれた史料に拠っているので82歳の高齢となっているというのだ。
 神武から始まる上古の天皇の年齢は百歳を超えることが多く、垂仁に至っては140歳という長寿となっている。これが2倍年齢と考えると、無理のない年齢になるとの考えである。このことから、書紀の編集において参考にされた史料に、古事記とは異なる2倍年暦による記述があるとの説明だ。だがこれには疑問がある。百歳の仁徳よりあとの天皇は、さほど長寿といえない年齢が続くのである。
 
2.書紀は、継体の長寿の年齢によって五世孫との辻褄を合わせた可能性

 古事記の方が、書紀よりは古い伝承を持っていると言われるが、そうであるならば、どうして二倍年暦が書紀よりも早く終わっているのかというのか説明がつかない。さらに、仁徳から武烈まで続いた年齢不記載が、継体になって、本文に「時年八十二」と明確に記述されることになったのはどうしてであろうか。ここは、書紀の編集に恣意的な、何らかの作為があって記載されたと考えるべきではないだろうか。
 それは、継体なる男大迹(ヲホド)の出自に関係するのである。武烈天皇には子がなかった。そこで皇統を絶やさぬよう、応神の五世孫にあたる男大迹に白羽の矢が立ったのである。だがこれについては、こじ付けであるといった疑問が早くからあった。しかし書紀はこれを良しとして、即位までの経緯を詳しく記載して継体天皇を誕生させたのである。そこで、五世孫に合うように継体の年齢を繕う必要があったのではなかろうか。
 古事記では43歳となっているが、それでは応神からかなり年数が離れてしまう。古事記の記事には干支は入ってはいないので、年数は問題にならないが、書紀はそうはいかない。干支によって年数がわかるので、応神の五世孫に合うようにしなければならない。
 表を見ていただきたいが、継体の没年が531年だとすると、書紀の言う82歳なら449年の誕生となり、それは允恭の在位期間に入る。その允恭は応神にたいして四世の天皇である。実際には別の血統であるが、仮定として例えるならば、允恭の子はちょうど応神の五世孫となる。注1)これを男大迹に想定したのではなかろうか。古事記の43歳では差が大きいので、書紀は倍近い年齢に設定した、もしくは、史料の記述から一番長寿となる年齢を採用したということになろう。注2)よって、継体の82歳は、二倍年暦による年齢で、実際は古事記の43歳が実年齢だ、とは言い難いのではなかろうか。

 以上のように日本書紀は、万世一系のために恣意的に高齢の記述にしたと考えられるのである。記紀の天皇の年齢、在位期間などには多くの疑問がある。継体の年齢もその一つだが、その他の事例についても述べていきたい。

注1. 『上宮記』逸文によれば、応神5世の孫とは、①若野毛二俣王  ②大郎子(意富富等王) ③乎非王(おひ) ④ 汙斯王(=彦主人王ひこうし) ⑤乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。
注2.なぜ書紀は古事記の年齢より39年も増やしたのかという疑問について、興味深い解釈をされている方もおられるので、参考のため紹介します。神谷政行氏のHP「天武天皇の年齢研究」の『継体大王の年齢』

図は、古田史学の会の正木裕氏の古代史講演会での史料を利用させていただいた。

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