1.疑わしい万葉歌や事績
万葉歌の長歌2首、短歌4首が、すべて持統天皇の作歌とできる確証たるものはない。中西進氏は、長歌の159番「やすみしし・・」は「詞人の代作」、162番「明日香の浄御原・・・」も形式上大后の作とされる。160番「燃える火も」と161番「北山(向南山)にたなびく雲」は、用字に異様なものが多いとし、陰陽師による代作と厳しい評価だ。28番「春すぎて」はこちらで説明しているように、藤原宮で香具山を見て歌われたものではない。
明確に持統の歌であることを示すものはなく、後付けで解釈されているにすぎない。
160番の「燃える火も」については、説明の困難な歌と言われているが、これについてはあらためて取り上げたい。
風土記に持統天皇は登場しない。また地域伝承の記事もない。豊川市に三河行幸に関わる「持統帝御行在宮跡」があるが、これは現代の3名の研究者による「遺跡考証」を拠り所に、当地に記念碑が建立されたもので、古来からの言い伝え、痕跡があってのことではない。
日本書紀に記される吉野行幸と伊勢行幸もあやしい。
30回を超える行幸ならば、しかもそれが大和の吉野山の宮へ通ったというのであれば、その道中で何らかの言い伝えなどがあってもよさそうであるが、うかがい知れない。
また改めてふれるが、この吉野行幸、さらには伊勢行幸も別の人物、伊勢王の事績でと考えられる。詳しくは古田史学の会論集第25集『古代史の争点』「九州王朝と大化の改新―盗まれた伊勢王の即位と常色の改革―」[正木裕] をご覧ください。
また改めてふれるが、この吉野行幸、さらには伊勢行幸も別の人物、伊勢王の事績でと考えられる。詳しくは古田史学の会論集第25集『古代史の争点』「九州王朝と大化の改新―盗まれた伊勢王の即位と常色の改革―」[正木裕] をご覧ください。
「吉野」も「伊勢」も九州に存在していたのである。
持統紀には、吉野行幸以外にも、広瀬・龍田の祭祀の記事も繰り返し頻出しているが、これも実は大和ではなく九州の地でのことである。こちら
2.日本書紀の持統は則天武后などがモデルの可能性
武則天の武照、いわゆる則天武后は、高宗の後継であった中宗を廃位し、その弟の李旦(睿宗)を擁立するも、後に皇太子に格下げさせて自らが即位する。その年が、天授元年(690年)
かたや持統天皇は、天武の死後、称制を行い、天皇に即位するのは持統4年(690年)
これは偶然でしょうか?
655年に高宗は唐三代皇帝に即位も病弱の為、則天武后は並んで二聖政治を行い、人材登用に手腕を発揮する。
持統の場合は、次のような記事がある。
天武二年、立爲皇后。皇后、從始迄今佐天皇定天下、毎於侍執之際、輙言及政事、多所毗補。
皇后、始(はじめ)従(より)今にいたるまで、天皇を佐けて天下を定め、毎(つね)に侍執(つかえまつる)際(あいだ)に、輙(すなわち)言、政事に及びて毗(たすけ)補う所多し。
この「始従り」は壬申の乱の時からという意味と思われる。つまり、則天武后の二聖政治と類同している。
また、政敵や皇位継承候補の排除については、他にも事例がある。
もう一人の候補となるのが北魏の馮太后。北燕二代目君主馮弘の孫で、二度にわたる臨朝(第一次、二次)を行った。
465年12歳の献文帝の元で政務を執る。(第一次臨調)467年に退く。
471年その献文帝は18歳で皇太子の孝文帝に譲位し、太上皇帝となる。しかし476年に23歳で死去。馮氏による毒殺といわれている。孝文帝は10歳だったために馮氏が太皇太后となって実権を掌握。(第二次臨調) 重要な制度を施行し、その中に均田制もあった。馮太后が孝文帝の生母との説もある。
そうであるならば、馮太后が、実子ではない献文帝を殺害して、実子の孝文帝に即位させて自分は太皇太后となって政務を執ったことになる。
持統の場合は、大津皇子の排除、高市皇子の死後(殺害の可能性)、皇太子に禅位し、持統は大上天皇となった。
本人の出生、万葉歌、書紀の記事、風土記や地域伝承の希薄なこと、則天武后の事績を真似た記述、など、持統の存在は疑わしいことが多いのである。