流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 作られた古代史

 日本書紀には記事の作為的な年代移動が多く行われている。前回は、唐軍の来朝記事の重出を説明したが、それだけではなく、山城・水城造営記事も動かされている。山城の造営時期を、白村江戦の敗北後に防衛施設の充実を図るためにすすめられた、といった通説の解釈も疑問なのである。

 斉明紀4年には、山城造営と考えられる記事がある。

留守官蘇我赤兄臣語有間皇子曰、天皇所治政事有三失矣。大起倉庫積聚民財、一也。長穿渠水損費公粮、二也。於舟載石運積爲丘

 

 蘇我赤兄が天皇の失政として、多数の倉庫の築造や石を積んで丘のようにする、といったことから、大野城などの山城築造を非難する記事なのである。

 山城造営の年代に関して研究者は白村江戦のあとに、防衛を強化するために山城などを造営したと口をそろえて説明されているが、まともなご判断とは思えない。太平洋戦争のあと、マッカーサーがやって来た時に、日本は軍事施設を強化するようなことをしていたというのだろうか。郭務悰に気づかれないように水城など作ることは不可能。そもそも白村江戦で甚大な被害を被った倭の勢力に、膨大な労力を担える状況などなかったのではないか。早くわかってもらいたい。

 

 以下では、正木裕氏の高説である九州年号を利用した年代移動で、本来の時代に即した記事の並び替えで天智紀の水城、山城の造営記事が天智紀ではなく斉明紀に見事に遡ることを説明したい。

 

 以下に関連する日本書紀の記事を掲載する。

 

天智二年 九月辛亥朔丁巳百濟州柔城始降於唐。是時國人相謂之曰「州柔降矣、事无奈何。百濟之名絶于今日、丘墓之所、豈能復往。但可往於弖禮城、會日本軍將等、相謀事機所要。」遂教本在枕服岐城之妻子等、令知去國之心。辛酉發途於牟弖、癸亥至弖禮。甲戌、日本船師及佐平余自信・達率木素貴子・谷那晉首・憶禮福留、幷國民等至於弖禮城。明日、發船始向日本。

四年春二月癸酉朔丁酉、間人大后薨。是月、勘校百濟國官位階級、仍以佐平福信之功、授鬼室集斯小錦下。其本位達率。復、以百濟百姓男女四百餘人、居于近江國神前郡

秋八月、遣達率答春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城

五年是冬、京都之鼠、向近江移。以百濟男女二千餘人、居于東國

六年十一月是月、築倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城

八年秋八月丁未朔己酉、天皇、登高安嶺、議欲修城   十二月、災大藏。是冬、修高安城

是歲、以佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人、遷居近江國蒲生郡

九年二月、又修高安城積穀與鹽、又築長門城一・筑紫城二  (重出か)

十年正月以大錦下授佐平余自信・沙宅紹明法官大輔、以小錦下授鬼室集斯學職頭、以大山下授達率谷那晉首閑兵法・木素貴子閑兵法・憶禮福留閑兵法・答春初閑兵法

 

 

◆白村江戦の敗北後の天智紀の山城、水城関係の記事を元の時代にもどす。

 

 天智二年九月の記事では、山城造営などに関わった憶禮福留らの工人は、百済遺民といっしょに、日本に向かった、かのようにとれる。すなわち、唐と新羅の攻勢によって避難しだした百済民といっしょに行動しているようにみえるが、分けて考えなくてはならない。

山城造営は天智四年、六年に造営記事があり、その後天智十年に官位を授与されている。そして日本に同行した佐平余(餘)自信も、多数の百済人と近江に移動する記事の後、十年に官位を授かっている。一見、矛盾なくつながった記事のように見えて、白村江後に日本にやって来た工人によって山城造営が始まったかのようにとれるが、実は山城関係の記事を正木氏が見抜かれた九州年号に合わせた時代移動ととらえて修復すれば、斉明紀に造営があったことが明らかになる。

 山城造営に関わった工人は白村江戦の前に帰国し、敗戦後、日本に天智二年の記事のようにやって来るのである。つまりここでは百済避難民の記事の中に、工人たちを紛れ込ませたのである。二つのパターンが考えられ、一つは朱雀が書紀白雉、朱鳥が九州年号白雉という移動と、もう一つが白鳳が白雉、大化が白鳳への移動となる。防人の記事も移動で考えてみた。

 

 別表のように、正木氏の指摘にあるように天智紀に動かされた、山城、水城造営の記事は、後の修復記事以外は斉明紀の山城、狂心の渠の記事と合致するようになる。

  

 以下のような表を試案として添付する。やや複雑で、見直しなども必要かもしれないが、孝徳紀後半から斉明紀、そして天智紀の白村江敗戦までに、関連する記事を九州年号どおしの入れ替えで再構成した。 説明不足の記事もあるので、またあらためて詳述したい。表そのものも修正を図っていきたい。
 
 図を直接クリックしていただくと見やすくなります。

山城年代移動

 

 日本書紀によれば、白村江戦のあと、唐の郭務悰が天智3年と4年に来朝して12月帰国するという記事がある。そして郭務悰に対して上官にあたる劉徳髙は4年だけの来朝のようにとれる。これは重出記事と考えられ、実際は天智3年に劉徳髙は郭務悰といっしょに来朝していたはずである。この点について説明する。
 
 以下は天智3年(664)の記事
夏五月戊申朔甲子、百濟鎭將劉仁願、遣朝散大夫郭務悰等、進表函與獻物
冬十月乙亥朔、宣發遣郭務悰等勅。是日、中臣內臣、遣沙門智祥賜物於郭務悰。戊寅、饗賜郭務悰等
十二月甲戌朔乙酉、郭務悰等罷歸
 次に天智4年(665)
四年九月 唐國遣朝散大夫沂州司馬上柱國劉德高等。朝散大夫柱國郭務悰、凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉廿二日進表函焉。十一月饗賜劉德高等。十二月賜物於劉德高等。是月、劉德高等罷歸。
 
 天智3年は郭務悰だけが来日し、翌年は劉徳高と郭務悰がいっしょに来朝したかのように見えるが、これは一つの記事を二つに分けたものと考えられる。郭務悰が二年連続でしかも同じ月の12月に帰るというのは考えにくい。二つの記事を合成すると、うまく時系列でつながるのである。

5月百済にいた鎮将劉仁願は、郭務悰を遣わし表函と献物をたてまつった(3年)
9月唐が劉徳高を郭務悰等と遣わしてきた。7月対馬着、9月20日筑紫につき、22日に表函たてまつる。(4年)
10月郭務悰等を送り出す勅。鎌足は抄門智祥を遣わし品物を贈る。4日饗応された。(3年)
11月13日劉徳高らに饗応された(4年)
12月12日郭務悰等は帰途についた。(3年)  14日劉徳高らに物を賜った。この月劉徳高ら帰途。(4年)
 以上のように並べると、日程上の矛盾はないのである。
 
 では、どちらが実際の年なのか。郭務悰より上位の劉徳高は4年にだけ登場するので、さも4年の記事が事実のように思わせているが、実際は3年が史実である。
 理由は、5年の正月に行われる唐の泰山封禅の儀にその前年の12月に日本から帰るようでは間に合わないことが考えられる。その儀式に参加するというよりその儀式の護衛、安全確保の任務があるのではないか。もう一つは、劉徳高が、白村江戦で捕虜となった筑紫の君薩野馬を自分の船で帰還させていると考えられることである。これが天智3年なのである。
 
 定惠以乙丑年付劉德高等船歸。妙位・法勝・學生氷連(ひのむらじ)人(おきな)・高黃金幷十二人・別倭種韓智興・趙元寶、今年共使人歸。
 
 上記は孝徳紀白雉五年の伊吉博得の書である。これは豊璋の子である定惠が劉徳高の船で帰るとされる記事である。これと関係するのが持統四年の大伴部博麻への恩賞記事であり次のようである。
(天智)天皇三年、土師連富杼・氷連老(おゆ)・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶兒唐人の計画(泰山封禅の儀)のために自分が犠牲となって(大伴部博麻のこと)、列記された筑紫君薩野馬等を国に帰している。その中の二人、氷連老、元寶が両者の記事で一致するのである。
 つまり、天智3年に薩野馬は帰国したのだが、そこに共通の氷連老元寶の名があることから、劉徳髙の船で、定惠や薩野馬がいっしょに帰国したことになるのである。するとそこには、郭務悰も同行していたことになる。これが天智3年の郭務悰の記事であり、劉徳髙の名は記載されなかったことになる。ただ伊吉博得の記事では乙丑年とありこれは天智4年となるが、これは天智紀の劉徳高の来朝記事が天智4年であることから、ここにあわせて乙丑年と修正したと考えられる。
 
 再度整理すると、天智3年と4年の劉徳高と郭務悰等の来朝記事は、同一の記事を分けて残りを翌年に回して記述した。泰山封禅の儀の準備、警備などの必要性から、劉徳髙等が直前の12月まで倭国に滞在するとは考えにくいことだ。
 また中国で捕虜になった薩野馬の帰国が持統紀から天智3年のことであり、彼らは倭国に向かう劉徳髙の船に乗っていたと考えられること。それは、伊吉博得の書にある劉徳高といっしょに帰国する記事の人物に、持統4年の恩賞記事で天智3年に帰国する記事の二人の人物(氷連老、元寶)と一致が見られることからも、妥当である。なお伊吉博得書の乙丑年(665)は日本書紀天智紀の劉徳高が4年としたことから、そこに合わされた修正であると考えられる。
 
 年次で示すと次のようになる
663年(天智2年)8月白村江戦 薩野馬は中国の捕虜に
664年(天智3年)唐が劉徳髙、郭務悰を倭国に派遣 筑紫君薩野馬等が同船   12月唐へ帰国
665年(天智4年)劉徳髙の来朝記事はすべて3年に移行
        「是歲、遣小錦守君大石等於大唐」 おそらく薩野馬も同行  
666年(天智5年)正月泰山封禅の儀

 このようなことから、天智3年の郭務悰等の「等」は実は劉徳髙のことであったということになり、翌年4年の劉徳髙と郭務悰の記事は、天智3年の記事を分割して記載したものであった。
 なぜこのような操作をおこなったかの真意は今のところ不明であるが、書紀編者の中に、前王朝の九州王朝の存在を表向きにはわからないように差し込む意図があったのかもしれない。
 倭国の重要人物である薩野馬は、白村江戦で中国の捕虜になったが、対倭国政策として一旦帰還させられて、その翌年には泰山封禅の儀に参加するために中国に向かったのであった。このようなことをぼかすように記述したのだろうか。

余談だが、こちら で説明しているが、上記の伊吉博得の記事にある「法勝」が百済王豊璋であり、来朝した郭務悰に内臣(鎌足)が使いを遣って品物を送っている記事も、法勝=豊璋=鎌足でつながることを説明しているので、ご覧いただきたい。

 近畿天皇家は便宜上の表現、倭国から日本の王朝の交代とは、主導権の交代にすぎないことを説明する。               

【1】近畿天皇家はなかった。万世一系は8世紀から
 
 古代の列島には、九州を中心とする盟主国があった。その配下の者が、次々と東遷を行い、近畿や東国にも勢力を広げた。やがて6世紀後半には、近畿地方に中心を移し、やがては、難波京、さらには奈良に藤原京を設けた。この盟主国を倭国王権とするが、年号を建元する様になる頃には、「九州王朝」と称しても問題はないであろう。だが、この倭国王権は、大化改新による土地制度の変更などで臣民の不満を募らせ、やがては白村江戦での大敗北で求心力が低下し、7世紀末には、不満分子による策動で、いわゆる大和王権が成立することになった、と考えている。
 よく、九州王朝に対抗する勢力として「近畿天皇家」という表現が持ち出されるが、それは本来の王権を説明するための便宜上の方便であって、倭国王権とは別に、国家祭祀と権力支配を執行できる組織、体制が存在したわけではない。
 主導権を持つ支配勢力の変更が7世紀末の倭国に起こり、主導権を握った勢力は、それまでの倭国王権の体制、制度、文化を利用しながら、日本国に変貌させたのであろう。そして、未完に終わった古事記をさらに発展させた日本書紀の編纂で神武からの万世一系を確立させたのである。これまで説明してきた通り、記録、伝承にある人物を利用して組み替えていったために、ほころびが各所にみられるのである。
 この7世紀末の政変は、あくまで支配勢力の変更であって、別の組織を持つ独自の勢力が、倭王権から権力を奪い取って、新たな建国をはじめたわけではない。それは、隋の滅亡から唐の建国と似た様相を呈していると言えることを次に説明する。

【2】隋から唐への移行と似たような政変が列島にもあった

 唐建国の李淵から見て、自分の母と隋初代の文帝の皇后は兄弟なので、文帝は母方の伯父であり、隋最後の煬帝は従兄弟になる。その李淵は、613年隋の煬帝に不満を持つ反乱分子の鎮圧に貢献し、やがて、太原(山西省)を守る太原留守になったが、隋末の混乱のさなかに、長安に入城。隋の代王の楊侑(ヨウユウ)を擁立して天子とし、生死不明の煬帝を太上皇とする。618年に隋の天子から禅譲され、唐の初代皇帝に即位。すなわち、もとは隋の体制の一翼を担っていた人物なのだ。そして隋の政治制度などを継承しながら帝国を築き上げる。
 前段の隋の場合も、581年、北周第四代宣帝宇文贇(イン)の外戚であった楊堅(文帝)が、七歳の静帝宇文衍(エン)から禅譲をうけ、隋を建国している。隋も唐も別の出自、体制の人物が新たに政権をとったのではない。
 日本の場合も、倭国支配者の系列と無関係ではなく、政治運営に反発を持つようになった勢力らが政治制度を継承し、藤原京も継続して利用し、後に平城京に遷宮している。評を郡に変更しているが、この場合もその内容、領域は大きく変更してはいない。
 隋から唐への転換が、王朝交代であるなら、それは主導権の変更にすぎず、日本の場合も倭王権の一翼を担っていた勢力によるものであり、古田武彦氏が、傍系が制したと言われたように、倭国王権とは別に万世一系の体制をもっていた組織の存在を考える必要はないであろう。

 このあたりの問題は、引き続き取り上げていきたい。

参考文献
渡辺信一郎『中華の成立唐代まで』(中国の歴史①)岩波新書2019


神武

 神武東遷説話も、後から付け加えられたと思える箇所がある。それは、毒気にあたって気を失った神武一行を助ける際のアマテラスとタケミカヅチの言葉である。
 日本書紀では、
「天照大神謂武甕雷神曰『夫葦原中國猶聞喧擾之響焉。聞喧擾之響焉(サヤゲリナリ)。宜汝更往而征之。』武甕雷神對曰『雖予不行、而下予平國之劒、則國將自平矣。』
「葦原中国は、まだ乱れ騒がしい。お前が往って平らげなさい」「私が行かなくても,私が国を平らげた剣を差し向けたら、国は自ら平らぎましょう」
 古事記では、
「其葦原中國者、專汝所言向之國、故汝建御雷神可降。」爾答曰「僕雖不降、專有平其國之横刀・・・」
「その葦原中国は、もっぱらあなたが服従させた国・・・」「その国を平定した太刀がありますから、この太刀を降しましょう。」
 
 以上のように日本書紀では、「私が国を平らげた」、古事記では「あなたが服従させた国」とあり、タケミカヅチが先に服従させていたとしている。これだと神武は、以前に平定した国が不安定になっているので鎮圧に向かったが、手こずってしまい、アマテラスが援護にタケミカヅチを派遣しようとしたということになる。しかし、タケミカヅチが国譲りをさせた相手は大国主であり、出雲の地ではなかったのか。記紀によれば、神武が目指している地域は、既にタケミカヅチが、平定、服従させた国譲りの説話にある葦原中国なのである。
 
 神武紀の冒頭では、東の新天地に、神武兄弟がうだつを上げるために東行を開始したのではなかったのか。それが、途中で、既にわが支配地となったところに起こった反乱分子の鎮圧部隊の物語になり、そして最後には、宮をかまえて初代天皇となる、と言ったちぐはぐな物語になっている。神武説話も、後から事情の違う話が盛り込まれていったということであろう。
 このことから、古代の列島には何度も異なる集団が、渡来しては制圧を繰り返す歴史があって、それが物語になって合わさっていったとも考えられる。
 神武紀の最後に、神武のなんと素晴らしい国をえたか、という台詞があるが、次にイザナギが浦安の国といい、オオアナムチは玉がき(美しい垣)に囲まれた国、ニギハヤヒは空見つヤマトの国と言ったと記している。それぞれが統治者の立場での台詞であって、何度も支配の為に進出していった、もしくは、異なる国の征服譚が重ねられているのであろう。

  図は「イラストAC」より

                   
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            京都市上京区北野天満宮

【1】国譲りと神武東征の違い。

 古代ギリシャ神話の世界では、神々と人間との関わりは、現実の政治的・経済的・軍事的な状況に、神々が神託などを通じて直接的に介入する、という形での関係であった。
 天孫降臨神話も、神界と考えられるアマクニから、何度も使者が葦原中国に派遣され、最後にタケミカヅチによって国譲りが果たされる。神武一行も、毒気にあたって気を失うなどのピンチに、アマテラスとタケミカヅチは相談して、横刀(たち)を高倉下を通じて神武に授ける。
 この話は似ているようで、異なる点もある。それは、国譲りでは、アマテラスらは、アマワカヒコなどを派遣しては、数年間待っている。しびれを切らして、次の使者をまた派遣する。これは、二つのクニが遠く離れていることから起こる現実世界のやりとりであるかのような記述である。つまり神話でありながら、元の国から遠方の国を支配するまでの過程を描くという人間界の物語のようになっている。
一方で、東征譚の場合は、様子を見ていたアマテラスが、苦戦する神武を助けるために、刀を授ける相談をするなどは、まさに、リアルタイムで、天界から下界の様子を見ているかのような話になっている。
 これは、神武から始まる天皇神話を、後から仕立てたが為に、国譲りとは様相が異なるものになって、ギリシャ神話の天上の神による人間界への直接介入と似た構図になったのではなかろうか。ただ、国譲りのアマワカヒコが返り矢を受ける説話は、神武説話と同様に、リアルタイムな展開になっているのも、大陸から持ち込まれた話をそのまま応用してはめ込んだためかもしれない。
 なお、タケミカヅチが倉の上に穴をあけて刀を降ろす話は、スサノオが馬の皮を、天井を穿って投入する行為と類似している。これについては、北方遊牧騎馬民のテントの天窓から祭器を投げ入れる信仰からきていることを、山口博氏(『創られたスサノオ神話』)は指摘している。

【2】東征譚に加えられた熊野の記事
 神武東征譚については、特に熊野に関する箇所は疑問が多く、宝賀寿男氏も次のように指摘している。
 『古事記』ではすぐ熊野の悪神の被害に遭う話となるが、『書紀』ではこの「熊野」が明確に紀伊南部の熊野地方だと解して、熊野灘で暴風に遭い、神武の兄の二皇子の入水伝承などに続く。荒海で有名な熊野灘までなぜ行ったのかという大迂回の謎がある。名草郡で地元の地理に明るい大伴氏の祖・道臣命を得たのに、極めて不自然な話であり、普通に考えれば、大和入りの古代の幹線ルートであった紀ノ川を遡上したと解される。だから、二皇子の遠征随行も、その入水も、疑問が大きい。

 以上の指摘はもっともで、神武の二人の兄は、古事記では東征前の前段の所で常世国や妣国に入ったとあるのに、書紀では、東征譚の熊野で暴風に逢って常世国や妣国にいったことになっている。
 この点に関して、従来にない視点で、説明を試みる研究者がおられる。『海洋神話の比較研究』の水野知昭氏で、イナヒとミケイリの二人の兄君が暴風にあって海の藻屑と消える話は、彼らに率いられた軍兵たちの大量溺死を示唆する暴風伝承であり、日本版洪水伝説だという。洪水伝説では、様子を見るために、鳥を放っているが、神武も暴風の後に烏の導きでヤマトにすすむのである。
 また、兄たちが暴風に遭遇している時に、神武が「天磐盾」に登るというのは呪的行為であって、これによって神武なるオホデミを守ったという。ちょうどイザナギが追って来たイザナミを防ぐために「千引の磐石」で防いだように、「天磐盾」で暴風を免れ、烏が飛来して、征討を続けるのだ。選ばれし王者であるイワレヒコの意味は、磐の上に顕現する王者なのだという。なお、氏は五瀬命も山城水門で溺死したと解している。

 洪水伝説と関連付けるのは、やや飛躍した感もあるが、確かに、日本書紀のこの箇所の記述は、わかりにくく、古事記では既にいないはずの二人の兄を登場させたことや、神武が天磐盾に登る意味も納得がいくのではないか。
 古事記と同様に日本書紀の編者は、外来の説話をそこかしこに取り込んでいるのである。

【3】古事記と日本書紀の該当記事の異なる箇所
 前述したように、神武の二人の兄のなくなる時期が異なっている。
 ナガスネヒコの殺害については、古事記では、撃とうとした、とあるだけで、実際にいつ、どのように実行したかなど一切不明である。
 ニギハヤヒは、日本書紀では、早くに亡くなったことになっているが、古事記では、存命で神武に従うとの記述がある。この違いは大きな問題であろう。ニギハヤヒは物部氏につながるのは自明のことだが、書紀と古事記ではその扱いが異なるのは、伝承の違いというのではなく、なんらかの意図があってのことであろう。

【4】外国文化の影響がみられるところ
 神武は4人兄弟の末弟なのに、書紀では最初からリーダーシップをとっている。末子相続の考え方が見られる。
 神武のセリフに恩、母の如し、とあるが、オモの訓みとなっており、他は母はイロハ、モ(人名)であり神武説話の作成者は渡来系と思われる。
 神武と阿多のアヒラヒメとの間の子がタギシミミだが、その彼は、神武亡き後、皇后であったイスケヨリヒメを娶っている。このような奇異とも思われる習俗はレヴィレート婚と呼ばれるもので大陸の騎馬民族にはよく見られたものであるが、この件についてはまた改めてとしたい。
 タケミカズチが剣を、屋根を穿って降ろすのは、既にふれているが騎馬遊牧民の信仰である。

 以上のように、大陸の説話や文化と列島内の物語が重なり合って、記紀が作られていったと考えることも必要であろう。

 参考文献
山口博『天窓の思想 甍を穿って物を投げ入れるスサノオと神武の神話』聖徳大学言語文化研究所2007
宝賀寿男『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年
水野知昭『海洋神話の比較研究』篠田和知基主幹 基礎研究(A)2005

既に先人の研究者によって指摘されているようなことだが、ここにまとめて記しておきたい

1.古事記で削られた天皇 

 古事記の下巻の仁徳記の前に、次のような記述がある。 
 起大雀皇帝盡豐御食炊屋比賣命凡十九天皇 
 仁徳から推古まで十九の天皇、だとされている。ところが、実際の記事は十八代で一つ少ないのである。これについては、履中の孫の飯豊(イヒトヨ)が顕宗天皇の即位するまで、天皇だったのではないかと言われている。   
 五年春正月、白髮天皇崩。是月、皇太子億計王、與天皇讓位、久而不處。由是、天皇姉飯豐靑皇女、於忍海角刺宮、臨朝秉政、自稱忍海飯豐靑尊
  即位前の顕宗(弘計をけ)と仁賢(億計おけ)が譲り合ったために、飯豊が臨朝秉政(みかどまつりごと)とある。天皇の代行ということで、正式に天皇に即位したとは書かれていない。そもそも、当初は天皇だったが、あとから天皇とはしなかった理由もわからない。消えた天皇の候補は他にもいる。それはこの飯豊と兄弟である顕宗・仁賢の父親である市邊押磐(イチノヘノオシハ)である。彼は履中天皇の子であり、妹の飯豊は天皇の代行を務め、息子の弘計・億計は二人とも天皇に即位している。本来ならば天皇になってもおかしくないが、雄略天皇に狩りの場で弓矢で射殺されてしまう。その際、二人の兄弟は、播磨国に逃げる。後に小楯が宴の席で見つけることになるのだが、その場で顕宗は次のように唄う。
 於市邊宮治天下 天萬國萬押磐尊御裔 僕是也 
 自分の父であるイチノヘノオシハが治天下(あめのしたしらしし)としているのである。これが消されたもう 一人の天皇ではなかったか。即位前の雄略が天皇を殺したとあるのは具合悪いので、後の編集で天皇であること を消した可能性もある。なお、播磨国風土記の美嚢(みなぎ)郡志深里(しじみのさと)の条に、「市辺天皇命」とある。
 まだ、ほかに気になる人物がいる。「宇治天皇之世」と播磨国風土記の揖保郡上筥(はこ)岡の条にある。 菟道稚郎子(ウヂノワキイラツコ)は、早くに応神から日嗣の指名をされている。そして、太子となって活躍したようで、応神二十八年には、高麗の朝貢の上表文の表現に怒って、破り捨てるという逸話も記されている。だが、応神亡き後に、大鷦鷯(オホサザキ)と皇位を譲り合い、急死してしまう。実際には、在位していた可能性も見えてくるのではないか。
 なお、播磨国風土記賀古郡には、「聖徳王御世」があり、聖徳太子は摂政であることから不審ををもたれる記事であったが、多元史観では隋書に登場する多利思比孤(タリシヒコ)の次の利歌彌多弗利(リカミタフリ)と考えられている。

2.万世一系のための記事の操作 

⑴豊富な系譜を持つカムヤイミミ
 神武の息子であるカムヤイミミは弟のタケヌナカワミミに位を譲ったが、その系譜は意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也と記され、天皇になった綏靖(タケヌナカワミミ)の方は 茨田連、手嶋連之祖 とあるだけである。末子相続の考えがあったこともあろうが、この豪華な系譜を持つカムヤイミミこそ、九州王朝の王であったかもしれない。
 記紀ともに、弟に皇位を譲る際のカムヤイミミの台詞に、「吾當爲汝輔之、奉典神祇者 (自分はお前の助けとなって、神々のお祀りを受け持とう)」とある。似たような話がある。国譲りの一書には、怒ったオオナムチに対して条件を提示する、「汝則可以治神事 (あなたは幽界の神事を受け持ってください)」とあるのだが。
 もともとの兄弟統治の片方だけを取り上げて、万世一系の構図を造り上げたかもしれない。継体から、安閑、宣化、そして欽明にかけての編年のずれに対し、兄弟統治があったことに起因すると考える研究者もおられる。

⑵垂仁より豪華な日子坐(ヒコイマス)王の古事記の系譜 
 日本書紀では、開化天皇紀の末に彦坐王とあるが、その他の記事には全く登場しない。さらに垂仁紀では付注 で一カ所記載されるだけで、書紀には系譜もない。ところが、既に言われていることだが、開化記の記事の半分 はこの日子坐王の系譜が語られ、古事記の垂仁記の説話の多くに、この日子坐王の子孫が関わっている。
 『古事記』では、開化天皇と丸邇臣(和珥臣)祖の日子国意祁都命の妹の意祁都比売命との間に生まれた第三皇子。崇神記では旦波國に派遣されているが、書紀では皇子の丹波道主命が四道将軍とされている。息長水依比売とのあいだの子の美知宇斯王の 4 人の比売の一人が氷羽州比賣命(比婆須比賣)で垂仁の后で後の 景行天皇を生む。またそのなかの二人の比売は醜いからと追い返され、円野比売は自死する。さらに、沙本之大闇見戸賣との間に沙本兄妹を生む。その沙本昆売と垂仁天皇の間に本牟智和氣(ホムチワケ)を生んでいる。山代之荏名津比賣またの名苅幡戸辨此との間に大俣王、その子が曙立王で、ホムチワケのために誓約(うけひ)を行い、名を賜り倭者師木登美豐朝倉曙立王となる。非時香菓の説話では比婆須比賣が葬送儀礼を行う部を定める。このように垂仁記の説話は日子坐王の系譜に関係するものとなっている。 
 余談だが袁祁都比売との間の5世に息長帯比売がおり、日子坐王は神功皇后の祖とされている。また、太田亮『姓氏家系大辞典』によれば、日下部表米(表米親王)は日子坐王を出自とする但馬国造家の一族であり、九州年号の記された古文書のある赤渕神社の祭神である。 神功皇后の祖である日子坐王は実は天皇であったのではなかろうか。日子坐王に関する記事は、他にも操作されたのではと思われるところがある。

⑶数に入っていないサホ兄妹 
 吉井巌氏『応神天皇の周辺』で指摘されていることだが、日子坐王は、古事記では 11 人の子女とされている が、実際には 15 人記されており、4 人が後から加えられたと考えられる。ちょうど日子坐王との間に 4 人の子女をもうけたのが沙本大闇見戸売で、その子のサホヒコ、ヲザホ、サホヒメ、ムロビコの 4 人が追加された可能性があると指摘されている。サホヒメは垂仁との間にホムチワケを生んでいる。ホムチ(ツ)ワケは、記紀共に一定の量の記事を載せているが、その後の成人してからの実績といった記事は全く見当たらない。これも言われていることだが、ホムチワケと応神なるホムダワケは関係づけされているのではといった指摘もある。
また吉井巌氏は「品陀天皇之御子、若野毛二俣王、娶其母弟・百師木伊呂辨・亦名弟日賣眞若比賣命、生子、大郎子・亦名意富富杼王(オホホド)」という応神の系譜記事が、継体のオホドと関係する系譜であって、後からの挿入と指摘する。つまり両者とも、伏線をはった記事ということではないか。万世一系の構築の為に様々な操作が記紀には施されていると考えられる。

参考文献
吉井巌『応神天皇の周辺』1967

1.疑わしい万葉歌や事績

 万葉歌の長歌2首、短歌4首が、すべて持統天皇の作歌とできる確証たるものはない。中西進氏は、長歌の159番「やすみしし・・」は「詞人の代作」、162番「明日香の浄御原・・・」も形式上大后の作とされる。160番「燃える火も」と161番「北山(向南山)にたなびく雲」は、用字に異様なものが多いとし、陰陽師による代作と厳しい評価だ。28番「春すぎて」はこちらで説明しているように、藤原宮で香具山を見て歌われたものではない。
 明確に持統の歌であることを示すものはなく、後付けで解釈されているにすぎない。
 160番の「燃える火も」については、説明の困難な歌と言われているが、これについてはあらためて取り上げたい。
 風土記に持統天皇は登場しない。また地域伝承の記事もない。豊川市に三河行幸に関わる「持統帝御行在宮跡」があるが、これは現代の3名の研究者による「遺跡考証」を拠り所に、当地に記念碑が建立されたもので、古来からの言い伝え、痕跡があってのことではない。

 日本書紀に記される吉野行幸と伊勢行幸もあやしい。
 30回を超える行幸ならば、しかもそれが大和の吉野山の宮へ通ったというのであれば、その道中で何らかの言い伝えなどがあってもよさそうであるが、うかがい知れない。
 また改めてふれるが、この吉野行幸、さらには伊勢行幸も別の人物、伊勢王の事績でと考えられる。詳しくは古田史学の会論集第25集『古代史の争点』「九州王朝と大化の改新―盗まれた伊勢王の即位と常色の改革―」[正木裕] をご覧ください。 
 「吉野」も「伊勢」も九州に存在していたのである。 

 持統紀には、吉野行幸以外にも、広瀬・龍田の祭祀の記事も繰り返し頻出しているが、これも実は大和ではなく九州の地でのことである。こちら

2.日本書紀の持統は則天武后などがモデルの可能性

 武則天の武照、いわゆる則天武后は、高宗の後継であった中宗を廃位し、その弟の李旦(睿宗)を擁立するも、後に皇太子に格下げさせて自らが即位する。その年が、天授元年(690年)
 かたや持統天皇は、天武の死後、称制を行い、天皇に即位するのは持統4年(690年)
 これは偶然でしょうか? 
 655年に高宗は唐三代皇帝に即位も病弱の為、則天武后は並んで二聖政治を行い、人材登用に手腕を発揮する。
 持統の場合は、次のような記事がある。
天武二年、立爲皇后。皇后、從始迄今佐天皇定天下、毎於侍執之際、輙言及政事、多所毗補。
 皇后、始(はじめ)従(より)今にいたるまで、天皇を佐けて天下を定め、毎(つね)に侍執(つかえまつる)際(あいだ)に、輙(すなわち)言、政事に及びて毗(たすけ)補う所多し。
 この「始従り」は壬申の乱の時からという意味と思われる。つまり、則天武后の二聖政治と類同している。

 また、政敵や皇位継承候補の排除については、他にも事例がある。
もう一人の候補となるのが北魏の馮太后。北燕二代目君主馮弘の孫で、二度にわたる臨朝(第一次、二次)を行った。
 465年12歳の献文帝の元で政務を執る。(第一次臨調)467年に退く。
 471年その献文帝は18歳で皇太子の孝文帝に譲位し、太上皇帝となる。しかし476年に23歳で死去。馮氏による毒殺といわれている。孝文帝は10歳だったために馮氏が太皇太后となって実権を掌握。(第二次臨調) 重要な制度を施行し、その中に均田制もあった。馮太后が孝文帝の生母との説もある。 
 そうであるならば、馮太后が、実子ではない献文帝を殺害して、実子の孝文帝に即位させて自分は太皇太后となって政務を執ったことになる。 
 持統の場合は、大津皇子の排除、高市皇子の死後(殺害の可能性)、皇太子に禅位し、持統は大上天皇となった。
 
 本人の出生、万葉歌、書紀の記事、風土記や地域伝承の希薄なこと、則天武后の事績を真似た記述、など、持統の存在は疑わしいことが多いのである。

 律令制国家の礎を築いた女性天皇として、評価の高まりつつある持統天皇だが、そもそも、その存在自体が、あやしい点がある。
 よくいわれることだが、『懐風藻』では、天皇ではなく皇太后とされ、『扶桑略記』では、持統は不比等の私宅を宮にしていたとのことから、即位していなかったとも考えられている。
 持統は、天武の死去後に、即位せずに称制を行ったとある。しかし称制とは、本来の皇帝(天皇)が存在して、その代行として政務をとることであり、持統の場合は、別に正当な天皇がいたことを示すのではないか、の指摘もある。そしてそれは高市皇子が有力候補とされている。
 いくつか、持統が天皇であったのかどうかの疑問点を述べてみたい。
図1

1.持統の系図と不可解な日本書紀の記述
 天智紀では、蘇我倉山田石川麻呂の長女の越智娘が、持統の母。次女が元明の母となる。ところがこれがおかしい。実は皇極紀では、蘇我入鹿殺害計画の準備の中で、鎌足のすすめで中大兄は蘇我倉山田石川麻呂の長女と嫁ぐはずが、「一族に盗まれて?」次女が代わりとなった、という経緯が述べられている。皇極紀が正しいのであれば、越智娘は長女ではなく、次女である。天智紀ではこの女性の別の名も記されている。
 蘇我山田石川麻呂大臣女曰遠智娘或本云美濃津子娘
 或本云、蘇我山田麻呂大臣女曰芽淳娘
 建皇子、大田皇女、鸕野皇女を生んだ母の名は、越智娘、美濃津子娘、芽淳娘と三つ記されている。この三つの名を持つ女性は同一人物なのだろうか。山田石川麻呂には他にも娘がいたのだろうか。
これは、日本書紀の編集のミスなのか、後から持統を系図に付け加えた際の行き違いであろうか。
 すでに、説明しているが(こちら)、 乙巳の変の実行前の説話の中大兄と鎌足の蹴鞠や石川麻呂の娘との婚姻話は、新羅の金春秋と金庾信の関係をモデルに作られた話と考えられる。
 持統は天智の子で天武の妃というのもあやしいのではないか。

2.ウノサララという名前
  持統天皇とされる高天原廣野姫天皇の少名(わかきときのみな)、つまり幼名は鸕野讚(うののさら)良(らの)皇女(ひめみこ)とある。
「さらら」だが、これは渡来系を意味するのではとも考えられる。
書紀の持統8年に百済土羅羅女とあり、「つららめ」という百済の女性がいたようだ。
 また、推古8年に、加耶諸国の中に割多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南加羅・阿羅々六城以請服 あららという国があった。
天武紀12年に、娑羅羅馬飼造、菟野馬飼造 馬を扱う「さらら」に「うの」なる人物がいた。 
 欽明紀23年には、秋七月己巳朔、新羅遣使獻調賦。其使人、知新羅滅任那、恥背國恩、不敢請罷。遂留、不歸本土。例同國家百姓、今河內國更(さら)荒(ら)郡鸕鷀野邑新羅人之先也。
 「新羅は使いを遣わして調をたてまつった。その使いは新羅が任那を滅ぼしたと知っていたので、帝の恩に背いたことを恥じ、あえて帰国を望まず、ついに留まって本土へ帰らなかった。日本人民同様に遇され、いま、河内国更荒郡鸕鷀野さとの新羅人の先祖である。」(宇治谷孟訳)  
 移住民が「さらら」こおりの「うの」という地域名にいた。ここから名付けられたのであろうか。
 持統紀8年:河內國更荒郡獻白山鶏。賜更荒郡大領・小領位人一級幷賜物。以進廣貳賜獲者刑部造韓國、幷賜物。
 「河内国更荒郡から、白い山鶏をたてまつった。 (中略) これを捕らえた刑部造韓国に進広貳の位と物を賜った。」
 更荒郡にカラクニという人物がいた。渡来人の居住者の多い国であることを示す。
 以上から、持統なる鸕野讃良はその名前から渡来人の可能性が高い。  ちなみに福岡県にも早良(さら)地名があることも関係するであろうか。
 このサララの意味だが、サンスクリット語でSarasは水、サーラは水が流れるといった意味。大乗仏教でサラは儀式をするための湖、池。ギリシャ語でサラサは海。ヒンズー教のサラスヴァティは川や湖の神である。水の音は、さらさら、とは聞こえないので、擬音語とは考えにくいことから、大陸からの言葉に起因すると思われる。
 鵜野讃良は、水を祀る祈雨祈晴のシャーマンではないか。書紀2年7月に大いに雨乞いをしたという記事。また5年6月には水害に対する対策として、政事の姿勢を悔い改めることや、各地の僧への読経を命じるなど、効果を願う詔を出している。さらに、頻繁に記載のある広瀬大忌神も治水の神だ。皇極天皇は雨乞いを自ら行って効果があったという記事もあるので、両者とも祈雨祈晴の祭祀者であろうか。

 次に、持統の万葉歌や中国の女帝などにふれたい。

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