流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 九州年号

石の宝殿 中尾山
1.兵庫県生石(おうしこ)神社石の宝殿の謎
 
 播磨国風土記の賀古郡大国の里に「作石、形、屋のごとし  聖徳王御世、弓削の大連の造る石」とある。これが石の宝殿の造営に関係することは間違いなかろうが、ではその年代が明確になるかと言えばそうはいかない。これが石槨であるならば、その製作技法は七世紀のもので、守屋の時代とは合わない。ただ風土記は「守屋」と記しているわけではなく、物部氏は守屋の後も子孫らは弓削の名で残っている。
 正木裕氏は「もう一人の聖徳太子」注1)を論じられ、一人目は阿毎多利思比孤であり、二人目の聖徳太子である利歌彌多弗利の事績の中で629年から634年に聖徳年号があったとされる。これは二中歴の九州年号にはない年号である。仁王元年・623年即位~命長七年・646年崩御すると利歌彌多弗利の治世こそ聖徳の世であった可能性がある。ならば風土記の大石は七世紀の半ばに作られて、何らかの理由で途中で放置されたと考えられるのではないか。そして用途不明とされた石造物は、今では繰り抜き式石槨との考えもある。
 八角形の墳丘から文武天皇陵と考えられるようになった中尾山古墳は、巨大な台石に磨かれた石を組み合わせて石槨にしたものだ。その石槨の全景が、石の宝殿を横倒しにした様と類似していることが分かる。松本清張氏がゾロアスター教の拝火檀と考えた益田岩船も同様の未完成の石槨なのだ。下に向かって石室を彫り、完成後に横倒しにして設置しようとしたのかもしれない。ただし、中尾山の場合は巨大な台石の上に加工した石室を組み合わせて重ねている。横口式石槨ともいわれるが、石の宝殿や益田岩船の場合は、台石を含んだ石室として完成させようとしたのであろうか。

2.現段階での石槨の編年では、少し後になる。
 
 この繰り抜き式石槨も類似の系統があり、寝屋川市の高良大社の敷地の裏の石宝殿古墳が七世紀前半であり、その後、藤ノ木古墳に近い斑鳩町御坊山三号墳、そして有名な鬼の俎板・雪隠の古墳が7世紀半ばとなり、次に牽牛子(けんごし)塚古墳、越塚御門古墳となるようだ。707年崩御の文武天皇の真陵とされるようになった中尾山古墳は時代が8世紀初頭になってしまうが、周辺の遺構から出土する須恵器は7世紀後半とずれている問題はある。牽牛子古墳と隣接の越塚御門古墳は版築で造成されていることや、いずれも横口式石槨であることなど、九州との関係がうかがわれる。播磨や斑鳩の地域、九州式の石槨や版築の古墳などこの点についても聖徳太子との関係がみられるのである。
 問題は、この系統の中に石の宝殿と益田岩船があるとするならば、何らかの理由で工事が中断されたとする時期が聖徳の世の7世紀前半では、少し早いのである。また放棄された理由も推測しづらい。
 ここは横口式石槨の編年を繰り上げるような根拠を見出さないと、石の宝殿は「利歌彌多弗利の聖徳御世」の7世紀前半のものとはできない。これが7世紀後半のものであるならば、途中で作業が停止された要因に壬申の乱や王朝交代時の政変とする要素も検討できるが、この時期に聖徳の世とされた根拠が必要となる。
 つまり、中尾山古墳の石槨が、文武ではなく須恵器の出土から7世紀第4四半期になるのであれば、その前の斉明とされる牽牛子塚古墳が寿陵とした場合に650~660年代となり、そうすれば、益田岩船や石の宝殿が640年代で、利歌彌多弗利の時代と関係するならば、物部守屋の末裔の墓の造営とはなる。ただこれは、恣意的な解釈にすぎず、現段階では、石の宝殿と益田岩船も7世紀前半とはならず、石槨の編年の見直しがされることが重要となるのではなかろうか。

注1.正木裕氏「もう一人の聖徳太子」こちらのYoutubeをご覧ください。

◇九州年号一覧表   (倭国年号とも表記) 
 701年からの大和朝廷の「大宝」以前の517年より、九州王朝によって作られた年号。 

 九州年号については、後世の偽作といった論調がありますが、例えば聖武天皇は神亀元年(七二四年)十月一日の詔勅の中で、 「白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し」(続日本紀と紛れもなく九州年号にふれられている。この聖武天皇の言葉を無視していいのでしょうか?

・日本書紀では、「大化」(50年繰り上げて記載)「白雉」(2年繰り上げて記載)「朱鳥」(元年のみ記載で九州年号朱鳥と同一年)以上三つがあり、表では天皇の紀年と同列に記載した。

・年号の訓みは、その多くは推測であることをお断りしておく。

 また九州年号とは別に以下の年号がある。

・「法興」:591622「法皇」としての法号で、多利思北孤一人に属する「法号」を用いた仏教上の年紀で、「大王」としての年紀である九州年号とは「住み分け」されていた。(正木裕)

 法隆寺釈迦三尊像光背銘の「法興元三一年」(六二一年)とある。

・「聖徳」:629634 法興年と同様に利歌彌多弗利の法号年紀と考えられる。

・「中元」:668671 九州王朝の系列の近江王朝の立てた年号。天智七年戊辰(六六八)の天智「即位」年を元年とし、「崩御」する天智十年(六七一)まで四年間続くもので「天智の年号」と考えられる。
・「大長」も詳細は不明。
     ※図は画面では少し不鮮明ですので、クリックして御覧ください。

九州年号一覧


    
            









 
本堂

 
當麻寺創建年
 
當麻寺を訪れると、寺の創建年(移築)の説明の掲示が三か所見受けられました。そこに記された年代はいずれも681年となっていますが、それは西暦であって当時の年代表記としては、天皇の紀年や元号、干支で表されているのですが、この掲示板の表記では、西暦は同じでも、三通りの異なる年代で表されています。上記の二つには白鳳年という年号が使われており、残りの天武10年も白鳳10年ともとれそうです。これは白鳳年についての、理解、認識のずれによるものと考えられます。そもそもこの白鳳とは、どのようなものなのか、また681年という年代についても実際の年代と異なっていることを説明していきます。

白鳳とは九州年号
 日本には517年より、九州王朝による年号が制定されていました。(こちら)九州王朝にかわって実権を握った大和王権は日本書紀においてこの九州年号をほとんど消してしまい、「大化」「白雉」「朱鳥」だけ部分的に記載されているのですが、これらはいずれも本来九州年号であって、ヤマト王権による元号制定は九州王朝からの王朝交代後の701年の大宝年号からはじまるのです。
 この年号については現在の研究者は、これを私年号などとして、ヤマト王権の前の王朝の年号とは認めようとはしていません。しかし、否定的な研究者たちも、反論できない問題があります。それは日本書紀には記されていない、白鳳、さらに朱雀について、後の聖武天皇の神亀元年(七二四年)十月一日の詔勅の中で、 「白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し」(続日本紀) と記されており、紛れもなく九州年号にふれた記事が存在しているのです。つまり、7世紀の後半に白鳳、及び朱雀という年号もあったのです。一般的には否定されているのに、その一方で、教科書や博物館では、白鳳文化、白鳳時代と言った表現が当然のように使われているのも、実に奇妙な話です。さらには、當麻寺のように、寺社関係の資料には、この九州年号が関係する数多くの記載が存在しているのです。

當麻寺の創建年代は?  下図の年表をご覧ください。
 『建久御巡礼記』の記載より、「白鳳九辛巳年」とある。後に天武天皇即位10年(681)としたのは、『扶桑略記』に天武天皇2年=白鳳元年と説明されていることによります。ただし、白鳳10年を681年とする諸書などもあるので、掲示にあるような異なる表記が生まれる要因になったのかもしれません。しかし実際の九州年号では白鳳九年は669年己巳となる。そうすると11年もの誤差が生じる。これについては以下のように考えます。
 『建久御巡礼記』の筆者、もしくは後の書写作成者は、白鳳元年を天武2年とする『扶桑略記』にならって、白鳳9年は天武10年と判断したのであろう。この天武10年である681年の干支は辛巳(シンシ)になります。本来の白鳳9年(669)は己巳(キシ)なので、己を辛の間違いと考えて、天武10年で良しと判断した可能性もあります。
 また『日本帝皇年代記』には、 庚午白鳳十(年)「鎮西建立観音寺、建立禅林寺、俗曰當麻寺」とあり、庚午は翌年の670年ですが、この1年のずれは工事開始の年か完成年かの誤差とも考えられます。
 さらに『上宮太子拾遺記』に当麻寺縁起が引用されています。「推古天皇御宇定光二年麻呂子親王、被聖徳太子之教訓」  定光は定居(ジョウゴ)で612年。つまり、当麻寺の前身はこの頃に始まったことになります。こちらも九州年号で理解できるのです。
 以上のように、九州年号を史学研究者の消極的な認識により、実際に存在する九州年号の記された資料の解釈に錯誤、混乱が生じてしまっており、当麻寺の創建年も、異なる解釈がされてしまっていると考えます。
 実際の創建年(資料上の)は、本当の九州年号である白鳳九年己巳の669年であり、九州の観音寺と同じ時期に始まったと言えるのです。ぜひ、この年代につきましての再検討、見直し、もしくは、異説としての付記をご考慮いただくことを、當麻寺の関係者の方々にお願いしたいと思います。
當麻寺年号

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