流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

騎馬遊牧民移住説

馬の犠牲は文化の受容では説明できないのでは?

 
馬犠牲
 日本には馬を去勢する習慣がなかったから騎馬民族は来なかったという主張は、去勢をしない習慣であった北方民族の存在からも成り立たないのである。逆に、馬の犠牲行為が馬の導入とともに早くから行われていることが、多数の騎馬遊牧民の移住を示していると考えられないだろうか。
 千葉県佐倉市大作(おおさく)31号墳では、馬の首が一刀両断にされて埋葬されているという。こういった事例は数多く確認できるという。馬の飼育開始と同時に、馬の犠牲埋葬も行っていると考えられる。だが、ここでふと思うことがある。初めて馬の飼育を学んだ農耕民だった人たちが、犠牲のやり方も学んだのだろうかと。 
 白石太一郎氏を筆頭に、騎馬民族説の再評価という点での説明がされている。(こちら)それはあくまで日本側が、渡来人から騎馬文化を受容したのだと繰り返されている。しかし、はじめて伝授された側は、王の埋葬の為に生贄の用意を指示されて、なんのためらいもなく、手塩にかけて愛着を持って育てた馬の首をスパッと切り落とせるであろうか。生贄という行為も受容したのであろうか。これは馬とともに暮らしてきた人々のなかで生まれた信仰による文化的土壌の中でできることではないか。大陸では千年以上の馬犠牲行為の伝統がある。馬の生育から騎馬としての活用、そして信仰上の行為も含めた騎馬文化は、日本に移住してきた集団とその末裔たちによって持ち込まれて、継続して行われた文化と見なければならないのではないか。
 先にふれた(こちら)山口博氏によるスサノオの奇妙なふるまいの説明にあるように、馬の皮を剥いで天井の穴から投げ入れる、という行為が在地の人には乱暴狼藉の行為としか見られなかったことも、新たにやって来た集団の習慣であったことを示すことになるのではないか。文化の受容では、馬犠牲の説明はできないのではないだろうか。

去勢の有無で騎馬民族は否定できない。司馬遼太郎氏に一本とられた佐原真氏

大日山古墳埴輪

 佐原氏の『騎馬民族は来なかった』では、騎馬民族説の江上波夫氏に、馬の去勢の有無で反撃を試みている。秦始皇帝陵の馬俑は去勢を示す形状になっており、東アルタイパジリク古墳の殉葬馬も六十九頭完全に去勢であったという。確かに、日本では去勢の慣習はない。その例として秀吉と摂津丹生(にふ)山の淡河弾正(おうがのだんじょう)との一戦で五百余の騎馬に対し、五、六十匹のメス馬が放たれ、それによって豊臣軍のオス馬は興奮し混乱して敗北を喫するという話が紹介される。確かに面白い歴史エピソードだが、これが騎馬民族説の否定につながるのだろうか。佐原氏は騎馬民族の習慣などを具体的に述べて、特に日本に馬の去勢をする習慣のないことが決定的と言いたいのだろう。後に司馬遼太郎氏は佐原との対談で、「もし江上さんの説がツングースというか、旧満州にいた騎馬の狩猟半農民だったらどうでしょう。モンゴル人からちょっと下に見られているツングースが日本に来たとしたら別ですな。去勢もしていない・・・」と述べておられる。さすが、オホーツクなど北方文化をよく見聞されているゆえの鋭い指摘だ。
 何故、日本に持ち込まれた馬には去勢がされなかったのか。そもそも大陸では野生馬が存在していたが日本ではゼロからのスタートだ。そこに困難の付きまとう船での運搬で少数の貴重な仔馬や成馬が運ばれる。とにかく早く育てて増やす必要があったのだ。とても去勢などさせられない。仔馬の輸入や牧場の開拓が各地で進み、一定の期間で多数の馬が飼育されるようになったにちがいない。日本書紀の顕宗紀二年十月には「馬、野に被(ほどこ)れり」(馬は野にはびこった)との記事があり、正確な年代は不明だがおよそ5世紀の後半には各地で繁殖がすすみだしたのだろう。さらに司馬氏の指摘にあるように去勢にこだわらない民族の存在もあったと考えられる。後に本人も認めたようだが、去勢の有無で、騎馬民族の存在の有無を判断はできないのである。
 もちろん佐原氏の『騎馬民族は来なかった』は、絵馬なども含めた、様々な馬にまつわる事例紹介や、内臓占い、血を飲む民俗習慣など興味深い話題が多くあることを、付け加えておきたい。

 参考文献
『騎馬民族は来なかった』佐原真 日本放送出版協会1993
『騎馬民族の道はるか 高句麗古墳がいま語るもの』森浩一 日本放送出版協会1994

騎馬遊牧民のスサノオ  山口博氏の『創られたスサノオ神話』より

 スサノオは謎の多い神と言われている。出雲国風土記では地元の農耕民の守り神として語られているが、かたや記紀ではオロチ退治で英雄視される一方で、アマテラスが岩戸に引きこもる原因となった乱暴狼藉を働く悪神でもあった。二重人格とも取れる、なんともつかみどころのない神として様々な解釈が行われてきた。だが山口博氏の『創られたスサノオ神話』によれば、乱暴な行為は農耕民族の立場からはそのように見えるのだが、騎馬遊牧民にとっては当たり前の行為であって、異なる文化の性格が付加された神であるとする。
 氏の論拠の主なものを以下に挙げていく。
①田の破壊行為(畦道破壊・渠埋め・種の重ね蒔き・縄をめぐらす・馬を放つ)これらは馬の放牧の為に牧草地を確保する行為であるという。土地を乾燥化させてなだらかにして、種をまいて草原にするのである。書紀には斑毛の馬を放す、とあるのはまさに放牧の始まりを意味する。
②スサノオがまき散らす糞。遊牧民は防寒対策として、床や壁に獣糞を塗り込んだり敷き詰める。また獣糞は乾燥させて燃料にする。のろしは狼の糞を燃やして煙を出すから狼煙なのだ。中国『金史』列伝にも「天寒擁糞火讀書不怠」とあり、学問好きの劉煥が寒い日には「糞火」を抱え込んで読書をしていた。なお、『古語拾遺』には「屎戸」としてその割注に「新嘗の日に当りて、屎を以て戸に塗る」とあるのも傍証になる。
③馬の皮を剥いで天上の穴から投げ込む。これは生贄の皮を奉納する行為であり、遊牧民の住み家である天幕に天窓がついている。斑の馬なのは斑文様の動物が聖獣とされたからで、例えばペルシャの『アヴェスター』には、斑文様の犬を聖犬とし、中国でも眉間に黒斑のある白虎を騶虞(すうぐ)として想像上の動物である麒麟とともに聖獣とした。記紀での行為は、アマテラスという太陽神に生贄を奉納することとなる。
④スサノオの髭が長くなっても泣き止まず青山を枯らし、川海は干上がる。髭が長いのはコーカソイドの特徴。
 枯れた山、干上がった河はユーラシア大陸の砂漠地帯の特徴を表している。
⑤泣き続けるのは、北方文化の信仰上の習俗、神招の呪術。天若日子の葬儀に哭き女役の雉がいる。
⑥スサノオを待ち構える武装したアマテラスの描写は、多数の矢の入った靫を背負うなど騎馬民族の武装の表現。また古事記の「堅い地面を股まで没するほど踏み込み」とは、力士の表現といえる。
 他にもあるが省略させていただく。次にここに私見を加えさえていただく。

 二重人格などともいわれるスサノオの矛盾した性格は、山口氏の北方文化の視点でみると、その謎は見事に解決できる。アマテラスが糞がされた宮の席に座ってしまい、体が臭くなってしまった、などという実に変な記事があるのも、納得できるのである。動物の糞の有効利用という日本の中では考えにくい大陸の文化なのだ。古代の遺物、日本書紀や古事記などには、大陸からの移住民たちの痕跡をいくつも見いだせると考えている。もちろん、スサノオそのものは神話とされるものだが、その記述には、実在の大陸文化をもって渡来した指導者、集団が神として描かれているのであって、その内容はリアルな古代の史実の反映と考えられる。さらには神話以降の歴史上の人物に関しても、その影響は多数存在するのではないだろうか。今後も山口氏の文献などを使わせてもらいながら、この問題について探っていきたい。

騎馬遊牧民に関して

騎馬遊牧民に関して
以下は、各文献からの抜粋、メモです。

「遊牧国家 普段は部族・氏族・家族など、大小の集団で遊牧生活を送り、戦時には特定の指導者に率いられて成人男子のほとんどが、騎馬戦士となる遊牧民主体の国家。
匈奴・鮮卑・氐テイ・羌キョウ・羯ケツ)が魏・呉・蜀三国の闘争で疲弊し人口も激減した中国本土に入り込んでいった。その上に三国を統一した西晋が、八王の乱(290~306)という内乱で五胡の武力を利用した結果、五胡の民族移動はさらに活発になった。そしてついに西晋は、永嘉の乱(311~316)で匈奴に滅ぼされた。これ以後、五胡は五胡十六国時代の主役となり、最終的には五胡の一つである鮮卑鏃の拓跋氏が4世紀末に北魏を建国し、439年に北中国を統一。漢人は南へ移動し東晋を建国。大移動以降、中国史の重大画期には、常に騎馬遊牧民勢力が影響力を行使する。

「ステップ地帯の南北で、遊牧をしながら狩猟あるいは農業を営む半猟半牧、半農半牧の人々も広い意味では騎馬遊牧民と呼ばれている。
 西アジアでは、スキタイ、フン、中央アジアから東アジアにかけては烏孫(ウソン)、高車、突厥(トッケツ)、匈奴、鮮卑、柔然、回鶻(カイコツ)、黠戛斯(カツカツシ)、契丹(キッタン)、女真、モンゴルなどが属する。
 東アジアの騎馬遊牧民は、時に漢民族を圧倒する軍事力を持ち、中国の北半もしくは全土を版図に収める国家建設した。北魏、遼、金、元、清など。また隋、唐の王室も騎馬民の血を濃厚に引いている。さらには、中国東北部に拠ったツングース系の扶余、高句麗、靺鞨、渤海なども。

『日本人を科学する 連載23』江上波夫 (サンデー毎日)
羊・山羊・牛・馬・ラクダの五畜は、『生きた魔法の缶詰』と呼び 人間の食用に堪えられない貧相な草から乳や肉を作り出す『化学変化機』と表現。」  ←卓見だ。(上記、森安孝夫)

 「騎馬民族というと何だか凶暴なイメージを持たれがちですが、そんなことはない。極めて政治的な民族であり、世界人だったのです。というのは、彼らは相手を武力で圧倒するのではなく、支配層に入り込むことで、統治していく。戦争ばかりしていたら世界帝国なんかつくれるわけがない。このことがいまだに理解されていない。日本においてもそうだったと考えるのですが、すっと支配層に入り込み、政治的に他民族を統括していったと思うのです。


↑↑ 島国で暮らす日本人には、騎馬民、北方遊牧民の姿はなかなか理解しにくい。大陸という地続きの中に、様々な諸民族が共存し、ある時には排斥し合い、力の弱いものは逃亡を繰り返す。そのような世界の動向に、実は古代の列島も大きな影響を受けており、無関係ではなかった。そういった古代の問題の痕跡を少しでも明らかにしていければと思っている。

最近の騎馬民族説の見方について

以下は、文献の引用と若干のコメント。

『ここが変わる!日本の考古学 先史・古代史研究の最前線』日本考古学協会編 雄山閣2018
 「騎馬民族説はどうなったのか
 戦後、江上波夫(東洋考古学者)の日本の国家形成に関する学説
 古くは中央ユーラシアに源を発した遊牧騎馬民族のうち、東アジアで高句麗を打ち立てた北方ツングース系扶余族が半島に南下して支配を広げ、4世紀には九州に到来、5世紀には近畿に入って在来の勢力を圧倒し、それと合同しながら征服王朝をつくったことが日本国家の起源となった。
 騎馬民族征服王朝説。この説の本質は機動的な遊牧集団が、定着的な農耕集団を征服することによって、国家や王朝を生み出すという、国家形成のパターンとして古典的に受け入れられたシナリオを、日本にも当てはめようとした点にある。

 『騎馬民族』の物証とした馬具などの大陸系文物も、列島と朝鮮半島との交渉の中で授受されたり、「渡来人」によってもたらされたりなど、彼我の人々の主体的な行為選択の結果と理解されるようになった。
 このような理解の一例として、白石太一郎は、この時期に馬具や馬埋葬などの文物や習俗が日本列島に姿を現したのは4世紀後半に本格化した高句麗の南下政策に対抗してそこと敵対する百済や加耶諸国の援助を受けながら、倭の政権が取り組んだ騎馬関連技術の充実策の結果にほかならない。
 現在の古墳時代研究では、こうした考え方が騎馬民族説を受けての穏当な理解とされる。」

↑↑ 昨今の馬具や関係する文物の出土に、無視することはできなくなったが、それでも、あくまで文化の受容という『穏当な』解釈なのである。
 これについては、早くから批判がある。

江上波夫『騎馬民族は来た!?来ない?!』小学館1990 
「国際関係がますます世界的になり、経済・文化が一国単位では全く成り立たなくなった現代、世界の歴史を科学的に説明できる時代になってなお、日本一国中心主義で考えていくというのは、やはり一種の皇国史観。皇国史観は悪い悪いといいながら、実際には皇国史観を執っている。自ら狭く封鎖した日本だけで歴史を解決しようというのですから、国史の学者がそれをするならまだわかるが、唯物史観を世界に普遍的な歴史理論観として唱える人が、それではおかしいと思ったのです。
 東アジアの中の日本を説きだしたが、・・・・その場合も日本があくまで主体、周辺から文物を自主的に摂取したという立場。」
↑↑ 30年以上前の指摘だ。

 上田正昭『古代の祭式と思想』中西進編 角川選書1991
日本の学界は、渡来の文化は認めます。だけど渡来集団は認めない」「人間不在の文化論はおかしいではないか。多紐細文鏡は中国にない。遼寧省や吉林省、北朝鮮でも鋳型が出土している。鏡だけが海を渡って流れ着いたわけではない。」 ※多紐細文鏡は、鏡背面の文様が幾何学文で,2~3個の鈕をもつ銅鏡
↑↑ 文化・知識は伝達されたが、集団の移住は認めないのだ。

 「騎馬民族王朝征服説」という名称は、やはり誤解も招きやすい。騎馬民族だけが列島にやってきたわけではないし、大陸には騎馬民や遊牧民の様々な集団がいたのだが、かといって適切な言葉が浮かばないので、仮に「騎馬遊牧民移住説」とでもしておきたい。この場合も、王朝への関りが全くないわけではなく、集団の中には、当時の王権、政治体制に、深く関係する人たちもいたと考えたい。  


島根県太田市五十猛町のグロは遊牧民の穹廬

グロについてくわしくは上記のサイトへ。

 毎年正月に町民の協力で海岸沿いに仮屋を作る新年の伝統行事で、以前は近くの沿岸に同様のものがいくつもあったそうだが、現在はこの一カ所だけのようだ。
 このグロはモンゴルなどに見られる遊牧民の天幕(ゲル・パオ)と関係しているのではないかと考えている。
 同じ海岸沿いに韓神新羅神社があり、来訪神スサノオとの関係が窺える。書紀ではスサノオの子は五十猛(イタケル)で、いっしょに新羅から出雲国にやってきている。なお五十猛神はイタケルの神と読まれているが、五十猛町がイソタケであり、イソタケノの神であったかもしれない。その妹に大屋津姫、抓津姫がいる。近隣に大屋という地名があり、ツマも浜田市に津磨町、隠岐島に都万がある。神と考えられた実際の移住民の話が語り伝えられたのであろう。
 
 現地の人が「ぐろ」と呼んでいるのは、どうしてであろうか。グロという名の由来は不明だが、新唐書に突厥の巫女が祈ったところが穹廬(きゅうろ)で関係すると考えられる。これを「くろ」と発音され、それが濁って「ぐろ」と言うようになったのかもしれない。中国の漢籍(中国の漢文で書かれた書物)にはこの穹廬は遊牧民のテントの意味で多数出現する。日本海の海岸沿いに到来した大陸からの移住民が、こういったテントを張って、居住をはじめたのではないか。痕跡の残りにくいものなので検出しにくいテントだが、古代に多くあったのではないかと想像している。