流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 騎馬遊牧民移住説

伊勢市猿田彦神社
       三重県猿田彦神社の火打による火鑽習俗

『常陸国風土記』 久慈郡に次の記事がある。
  「北有小水 丹石交錯 色似㻞碧 火鑽尤好 因似號玉川」
 現代語訳「北に小川がある。赤い石が入り混じっている。色は、|琥碧《クハク》に似ていて、火打石に使うのに大変良い。それで玉川と名づけている。」
 小学館風土記の注の火鑚の箇所に、「ここでは石を打って発火させる意」とあるが、これはやや不十分な説明。
 メノウなど硬度のある石(鉄より硬い)で、火打金に打撃を加えても、その石自体が破損しないから、強打しても、火花が出やすいので火打石に適しているということだ。
すなわち風土記は、火打金で火花を出すのにとてもよい石だとしているのだ。この記事から、8世紀の初めには、火打で発火させることを行う人たちが少なからず存在したことを示している。実際に、7世紀頃に隣県の千葉県我孫子市で火打ち金出土している。8世紀以降には関東一円で見つかるようになる。

 火打石による発火は、占いや縁起担ぎに使われている。
『栄花物語』に、藤原道長が、火打ちによって点火した時、一度目で点火することを願い、それが叶ったことを記しており、火打金による発火はしばしば占いにも使われ、それが平安時代には行われていたのである。

 神社の神事では、摩擦法による発火が一般的と思ったが、神官が火打による発火を行っている神社も少なからずあるようだ。
神事で火花式発火法が行われている神社は、以下のようだ。
・宮城県塩竃神社 1/14ドント焼き
・三重県猿田彦神社 大晦日大祓式 ドント焼き
・奈良県龍田神社 2/3護摩祈願
・島根県大田市物部神社 9/1田面祭  美保神社
・広島県福山市沼前神社 旧暦6月頃 お手火神事
・山口県防府市磯崎神社 7月中伏日 お礼祭
・武蔵国二宮 金鑚(カナサナ)神社  埼玉県児玉郡
 金鑚神社の元禄年間(1688-1704)につくられた「金鑚大明神縁起」や明治35年(1902)の「金鑚神社鎮座之由来記」によると、 金鑚神社の創始は 「景行天皇41年に日本武尊が東国遠征の折に、倭姫命より授けられた草薙剣とともに携えてきた 火鑽金(火打金)を御霊代として山中に納めて、天照皇太神と素戔嗚尊の二柱の神を祀ったことによる」と伝えられている。
 ここでは、ヤマトタケルは古事記の通りに火打金を所持していたとの記事になっている。

 同じような伝承が、酒折宮にもある。
 甲斐国を訪れたヤマトタケルが、酒折宮を発つとき、「吾行年ここに御霊を留め鎮まり坐すべし」と言って、火打嚢を塩海足尼(塩見宿禰)に授けた。その勅を奉戴した塩海宿禰がこの火打囊を御神体として、月見山の中腹に社殿を建てたことが神社の創建となった。
 古事記、日本書紀のいずれも酒折宮と記しているが、火打などの記事はない。また、御神体だからなのかわからないが、火打を使った火鑽神事はないようだ。

まだまだ、火打に関する祭事、伝承はあるかもしれない。

図1イザナギの火
1.イザナギはどうやって櫛に火をつけたのか
 イザナギは、亡くなったイザナミを連れ戻そうと黄泉の国に出向いて説得するのだが、なかなか現れないイザナミの様子を見ようと、自分の櫛の先に火を灯して覗き見ようとした。そこでイザナミの醜い姿を見てしまい、慌てて逃げだすのであるが、ここで疑問に思うことがあった。イザナギはどうやって櫛に火をつけたのであろうか。記紀ともに、その方法についての記述はない。神事にあるように、火きり臼に火きり杵を回して火を起こしたのであろうか。それとも、火打ち石と鉄を使った方法で発火させたのだろうか。
 東国征討に向かったヤマトタケルは、相模国で敵にだまされて野に火を放たれてしまう。そこで、火打石で向火をつけて難を逃れている。その火打石は、姉のヤマトヒメから渡された囊(ふくろ)に入っていたものだ。袋ではなく、むずかしい漢字の囊をわざわざ使っているのだが、なぜか日本書紀では古事記の該当の場面にこの囊の記述はない。他に雄略紀には「負嚢者(ふくろかつぎびと)」とあるが、この場合は、大国主と同じく、大きな荷を背負うものの意であろうか。(日本書紀では、中段に口二つの嚢とㇵの嚢があるが口のある囊に統一させていただく。なお播磨国風土記には美囊郡がありミナギと読ませている。)
 古事記では、この囊がもう一カ所登場する。それは、怒り狂ったイザナミから逃げおおせたイザナギが、禊を行う場面である。ここでイザナギは、身に着けていたものを次々と投げ捨てる。その中に、「次於投棄御囊所成神名、時量師神」とある。投げ捨てた嚢がトキハカシの神になったという。ではその囊を彼はどのようにして身に着けていたのか。囊を捨てる前に、「次於投棄御帶」とある。するとこの御帯に囊を着けていたのではなかろうか。つまりこれは腰につけるポシェットのようなものではないか。するとヤマトタケルも、火打石の入った囊を自分の帯にポシェットのように着けていたと考えられる。そうであるならば、イザナギが櫛に火を点けたのは、この腰に巻いた帯に付けていた囊に入っていたものとなろう。
 同じ漢字で小物を入れる嚢として使われるのは、神代紀の海幸が釣り針を返せと責められて落ち込む場面で、「老翁卽取嚢中玄櫛投地」、老翁が嚢の中の櫛をとって地に投げる、とある。老翁も櫛を入れていた囊も腰に付けたポシェットであったかもしれない。実はこの老翁はイザナギの子であると、書紀神代の天孫降臨の一節で記している。 
 「事勝國勝神者、是伊弉諾尊之子也、亦名鹽土老翁」コトカツクニカツ神はイザナギの子であって、亦の名はシホツツノオジだという。つまりイザナギ親子は、腰に巻いた帯に囊をつけてそこに火打石や櫛を入れていたのである。
 以上から、イザナギとオジは、渡来の移住民の特徴をモデルとして描いている側面もあると考えられる。

2.ユーラシアの民が腰に吊るす囊
 それにしても、なぜ袋ではなく、囊と難しい漢字を使ったのか。中国にこの字の使用例があるからであろう。
 中国では鞶囊(はんのう)と記して隋書などにも登場し、これも腰のベルトにぶら下げるポシェットのようなものだ。
滝関税村隋代壁画墓
 田林啓氏によると、滝関税村隋代壁画墓の出行儀仗図のすべての人物は、腰に革帯を締めて、その右に革袋の鞶囊と左腰に布袋の布嚢と儀刀を垂らしているという。熊本県上天草市の広浦古墳の石材の線刻は、この三点セットを描いたものと考えられる。
 
広浦古墳
「装飾古墳ガイドブック」の柳沢一男氏は垂下する紐がついた円文と説明されているが、それでは意味がわからない。その三つの図は、いずれも本体を吊り下げる表現であることから、いずれも腰の帯に下げていたものであり、あの世でも必要な道具として描いたのであろう。
突厥のポシェット
 このポシェットの実物が、突厥の1世紀から5世紀の遺跡で出土しているが、日本でも出土しており、奈良県葛城市三ツ塚古墳群から飾りの入った黒漆塗革袋として復元されている。
三ツ塚古墳革袋
 唐代の墓に副葬される胡人俑にも円形で黒色の袋を付けている表現が見られる。胡人とはソグド人のことである。彼らは、シルクロードの商人であって、サマルカンドの壁画には、彼らの腰に付けた嚢にお金の入った財布との現地の解説がある。
サマルカンド壁画
 このような大陸文化を持つ移住者が、記紀説話の作成に関わっていると考えられよう。

図1

1.火の使用が決定的だった

 人類にとって、火の利用が重要であったことを改めて認識させられる書がある。従来の農耕や初期国家についての定説を覆すような問題提議がなされた『反穀物の人類史』に、初期人類における火の使用が多大な自然環境への影響、食物利用の飛躍的拡大、人類そのものの進化をもたらしたという、たいへん有意義なものであることが特筆されている。
 わかりやすい例として、南アフリカで発掘された洞窟からの調査があげられる。もっとも古い層に火の使用を示す炭素堆積物はなかった。そこには大型ネコ科動物の全身骨があって、他には、ヒト科の一種であるホモ・エレクトスを含む動物の骨片が歯形を残して散らばっていたという。もっと上の時期の新しい層には、炭素堆積物があって、ホモ・エレクトスの全身骨格があって、様々な動物の骨片が散らばり、大型のネコ科動物の骨もあって、かじった痕跡があるという。すなわち、火の使用を境に、洞窟の主、食う側が変わったことを示しているという。
 ただ暖を取るとか、夜行性動物からの安全対策だけではなく、火のパワーの効能は計り知れないという。最古の火の使用は40万年前だということだが、自然の景観を大きく変える役割も果たし、火によって、古い植生が焼き払われ、人間にとって利用しやすい種子やナッツなどが実り、そこにこれも獲物となる小動物も集まったのだ。さらに、初期の人類は火を使って大型の獲物を狩ることもしていたという。弓と矢が登場するずっと前(約2万年前)には火を使って、動物の群れを崖から追い落としたり、象を穴へ突き落したりしていたという。
 また調理をすることも人類の進化に多大な影響を与えている。加熱して消化しやすい食べ物をとることで、腸の長さがチンパンジーの三分の一ほどになったという。さらに動物の肉の殺菌などで、利用できる動物種も拡大し、栄養摂取も改善し、そういったことで脳のサイズは急速に拡大した。このように、火の使用こそがホミニド(ヒト科総称)の未来を変えたといえるのだという。

2.映画『2001年宇宙の旅』の冒頭シーンの問題
 
 以上のような意義あるものなのだが、人類史における火の使用は、これまで過小評価されてきたようだ。そのわけは、火の活用による影響が数十万年に渡って広がったものであり、これを行ってきたのが「未開人」すなわち「文明以前の」人々であったからだという。実は、このような人類にとっての火の使用の意義が、当たり前すぎて重要視されてこなかったことが、著名な映画にも表れているのではと思ったりしている。
 今も語り継がれるキューブリック監督のSF映画の傑作『2001年宇宙の旅』だが、その中の冒頭の場面には、類人猿の集団どおしの争いで、謎のモノリスからの示唆?で骨を武器に使って相手を打ち負かし、やがて、空高く放り投げられた骨が宇宙船に変わるという名シーンが描かれる。
 だが、先ほどから述べてきたように、火の使用が人類進化にとって決定的なものであるならば、このシーンでは、モノリスは初期人類に、火を使いこなせるように、発火法を伝授?したとするほうがよりリアルではなかったかと思うのだがどうであろう。
 類人猿の集団の前に突然現れた物体モノリスによって、彼らは、火を起こすことができるようになる。板切れに、棒状の木を繰り返しこすりつけ、やがて煙が生じだすと、獣毛などを火口(ほくち)としてそこに近付け、そっとやさしく息を吹きかけて炎が上がるようにする。初期人類が、火を自ら生み出すことができた感動の瞬間だ。だがはたして、これは映画としてはどうであろうか。モノリスの前でしゃがみこんで、ちまちまと板と棒を使って発火作業を行う様子など、はっきり言って絵にはならないかもしれない。もし、発火シーンのアイデアがあったとしても、キューブリック監督は、骨を武器にした戦闘シーンこそ映画にふさわしいと、差し替えたであろう。
 武器という道具を発明することも画期的ではあったと思うが、それ以上に火の使用は、自然界にも多大な影響を与える重大な意義あるものであった。

火起こし体験
 写真は、大津市歴史博物館の火起こし体験 真剣取り組む子供たちだが、このキリモミ式発火法は13名挑戦したが、成功者はいなかったという。慣れないと難しいようです。

3.発火法のはじまりの謎

 モノリスは作り話としても、さて人類は、どのようにして発火法を生み出したのか。それは、摩擦法だけではなく、黄鉄鉱を火打金として使うことも、早くから見出していたのであろうか。アイスマンが、5300年前に黄鉄鉱を使っていたとするなら、それよりももっと早くから利用していた可能性はある。また白鉄鉱も火打金になるようだ。初期人類は、石器の作成過程で、早くから火花が出る石があることに気が付いていたであろう。火打金のほうは、鉄の生産がはじまってからなのでずいぶん後のこととなろうが。
 前回にも述べたが、戸外で過ごす狩猟活動の際に火は欠かせない物であったが、そのために打撃法による発火がけっこう行われていたのではないだろうか。摩擦法のキリモミ式よりは、火打の方が戸外では便利だったのではないか。縄文時代には落とし穴と思われる遺構が無数に発見されているが、縄文人も、獲物を火を使って追い詰めることもしていたかもしれない。落とし穴を用意して、じっと獲物が罠にはまるまで待つだけではなかったはずだ。この縄文時代に黄鉄鉱や白鉄鉱などが火打ちとして使用されたものが見つからないのであろうか。また、古代の火打石の方も、資料が少ないようだ。 
 「各種チャート、頁岩、黒曜石、長石、サヌカイトなど、旧石器・縄文時代に各地で選択された石材が、当時から火打石として使われた可能性は考えられないであろうか」(小林2015)として、発掘担当の方々に、火打石としての利用の認識を求めておられる。今まで見過ごされていたものが、再発見されていくことを期待したい。

 参考文献
ジェームス・C・スコット「反穀物の人類史」立木勝 訳 みすず書房2019
小林克「火打石研究の展望」考古学研究62-3 2015

冒頭の映画シーンは、YouTube 
2001: A Space Odyssey - The Dawn of Man Art Historyより
火起こし体験は、大津市歴史博物館ブログより

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1.火打石どうしを打っても発火させるのは困難
 まずは、用語の説明をさせていただく。一般的には、火打石を叩いて発火させるものだとされるのだが、これでは少し不正確なのである。火花が出るのは、火打金とされる鉄に焼き入れをして炭素を含ませた鋼が硬質の石との打撃で削られた鉄紛が火花を発生させるのである。火打石の方から火花が出るわけではない。
 その火打石も、メノウや、石英(チャート・フリントなど)といった硬度が高いものが適しており、前回述べたように黒曜石でも火花を出すことはできる。
 さらに、火花を発生させるだけでは火は起こせない。火口(ほくち)という、繊維やシイタケなどを干してほぐしたものに火花で発火させるものが必要となる。そして、これらのセットのことや打撃式発火法を、便宜上、火打、ということにする。この火打は建築用語にもあるのだが、それは発火とは無関係だ。
 この火打を、火打石どうしを打ち合わせることで火花が発生すると思っている人が意外に多くいる。かくいう私も、小学生の時からそのようなイメージを持っていた。はるか昔のことだが、クラスに理科の得意な男子がいて、ある時、火打を持ってきて、教室内で実演して見せてくれることがあった。その時に飛び散った火花を見て驚いたことは記憶にあるのだが、彼が両手にそれぞれ持っていたものが、石と思われるものを打ちあったようにしか理解しておらず、間近でその石を見せてもらったはずが、まったく覚えていないのだ。この不鮮明な記憶もあって、石と石をぶつけて火花を出すものと思い込んでいたのである。
 このような誤解が、絵本の中にも表されている事例がある。民話の「かちかち山」の絵本には、両手に石を持った兎さんが描かれていることがある。冒頭の図にあるように、戦前の絵本には、吉井の火打金と思われるものをリアルに描いているものや、戦後にもきちんと火打金と火打石を区別して描かれたものは多くあるのである。
 さて、火打は石どうしではないと説明してきたが、実は、石どうしでも火花を出すことができる場合があるのである。その石とは、黄鉄鉱である。

2.アイスマンは黄鉄鉱で火を起こしていた。
 今から5300年前ほど前の、イタリア・オーストリア国境のエッツ渓谷に横たわっていたアイスマンの所持品(埋葬による副葬品との説もある)には注目すべきものが数多く見つかっているが、その中に着火道具があって、腰に付けていたと考えられる袋から、硬質のフリントにキノコを乾燥させた火口もあった。そして少し離れた場所から、黄鉄鉱が見つかっている。このアイスマンが腰に付けていたであろう袋については後述したい。米村でんじろう氏のYouTubeでも、黄鉄鉱を使った発火の様子がアップされている。火花は、打撃と摩擦による鉄紛の溶ける際の反応であるから、黄鉄鉱でも可能なのである。さらにでんじろう氏は、石どうしの打撃でも発火させることは難しいが、火花は発生させることができるという実験も行っておられる。
 それにしても、はるか古代の人たちは、どうやって黄鉄鉱による着火を発見したのであろうか。石器人は、石を叩き割って斧や鏃などを作製する。様々な種類の石を試して、用途にかなう石材を見つけていったのであろうが、その際に、火花が出る石があることに気が付いて瞬く間に広がっていったのであろう。その前には、摩擦式発火法があったと考えられるが、人類はかなり早くから黄鉄鉱による着火法を駆使していたかもしれない。戸外を動き回っていた狩猟採集民にとっては、雨のこともあるから、摩擦法よりは打撃法による着火は便利であったと考えられる。アイスマンの時代よりもっと早くからこの黄鉄鉱が利用されていたかどうかはよくわからない。  
 また火打金の方も、ベルギーで出土した紀元前400年頃のものが世界最古となっているが、それまではなかったとは言い切れない。見つかったのは、あくまで、加工して整えられたものであり、古代の製品化された火打金の原型となるものであって、異なる形での鉄片を火打金として使っていた可能性は否定できない。鍛冶職人たちは、早くから鉄を打てば火花が出ることはわかっていたはずだから、ベルギーの例よりも古くから火打金があった可能性の否定はできない。ただし、鋼となる焼き入れ工程がいつから始まったのかという問題はあるのだが。鉄の発見はヒッタイトによるものが起源とされているが、さらに時代を千年も遡る見解も出されてきており、そうなると、アイスマンの時代から少し後に、火打金による発火を行う人々も混在するようになったかもしれない。

3.シュメル神話に登場する火打石
 世界最古の神話であるシュメル神話には、いくつも興味深いものがあり、火打石も登場している。
 「ルガルバンダ叙事詩」には、エンメルカル王の王子であるルガルバンダの物語が描かれている。まつろわぬ都市アラッタの征討に出かけたが、途中で病に襲われて、山の洞窟に置き去りにされる。やがて回復したルガルバンダは、腹ごなしにパンを焼く場面が描かれている。
 「野営地で兄たちや従者がパンを焼いていたことを思い出したルガルバンダは、洞窟に置いてあった袋から火打石や炭を取り出して、何度も失敗しながらようやく生まれて初めてたったひとりで火を起こし、麦紛を水でこねて丸めて、パンを焼いてみた。」(岡田・小林2008)
 アイスマンと同じように袋に着火道具が入っていたのである。炭もあったというのが面白い。これならパンでも肉でも料理ができる。だが、ここには火打石とあるだけだから、それが、火打金なのか、それとも黄鉄鉱であったのかはわからない。この神話に登場するウルク第一王朝第二代王エンメルカル王の時代はおよそ4800年前となる。アイスマンから500年ほど後の物語となるので、黄鉄鉱と考えたほうがよさそうである。
 だが、火打石がもう一つ登場する「ルガル神話」に困惑させる記事がある。これは戦いの神であるとともに農業神であるニンウルタ神が、山に住む悪霊であるアサグを退治のために配下の「石の戦士ども」を打ち負かす物語だが、そこに、次のような記載がある。
「一方で、火打石はニンウルタに敵対したことから次のように罰せられる。
 私はお前を袋のように裂くだろうし、人々はお前を小さく割るであろう。金属細工師がお前を扱い、お前の上で鏨(たがね)を使うだろう。」
 ここでは、火打石はその名の通りに角を付けるように割られている。また、鏨が現代と同じ炭素鋼であるならば、火打金となる鏨を打つ火打石となる。火打金がシュメルで使われていたと考えられるのではないか。
 神話世界のことであり、史実とは見なしがたいという判断が大方のところであろうが、わずかな可能性を留保しておきたい。

参考文献
J. H. ディクソン「氷河から甦ったアイスマンの真実」日経サイエンス2003.08
藤木聡「発掘された火起こしの歴史と文化」宮崎県立図書館 ネット掲載
岡田明子・小林登志子「シュメル神話」中公新書2008
図は『カチカチ山』 富士屋の家庭子供絵本 昭和2年刊 オークファン様のブログより

吉井のレン
 群馬訪問の目的の一つに、火打金について新たな情報を得たいという思いもあったが、高崎市吉井郷土資料館では、関係する展示品をいくつも見ることが出来た。
購入火打

 そこで火打金のセットを2000円で購入した。これはネットで注文するよりもお得だったかもだが、これはカスガイ型火打金というそうだ。火打石は、おそらく石英であろう。火花をつけて火種にする火口(ほくち)もついている。
 早速、試しに火打石に火打金を打ち付けてみた。石の鋭利なところにこするように打つのだが、少々コツがいるが、うまく打ち付けると、かなりの火花を飛ばせるので、何度でもやってみたくなる。いや、癖になって外でカチカチやってたら通報されます。
石英火打
 実は、ある文献に黒曜石も火打石になるとあって、そのことを人に話したことがあるのだが、はたして火花を出せるのか気になっていた。火打石は硬度が高くないと発火させられないのだが、黒曜石は叩くと鋭利な刃物になるように割れるガラス質のものだ。火打ち金を打つと火花が出せずに欠けてしまうだけではないかと心配だった。
黒曜石火打
 そういうこともあって、以前に別の博物館の売店で購入した黒曜石でも火花が出るか試してみた。勢いは劣るが、それでも使えないことはないとわかって、人に説明していたので安堵した。ただ、火打石に向いているとは言えないようだ。

 日本では摩擦式発火法は弥生時代以降、打撃式発火法は古墳時代以降多く確認されている。中世の鎌倉からも「火切り板」が出土しているが、火打石の出土事例も多く、中世以降、摩擦式発火法は次第に打撃式発火法に取って代わられていったと考えられている。
平安江戸火打
 この資料館では、平安時代の火打金をみることができる。その後、江戸時代に入って何故か群馬の吉井町で作られるようになって普及するようになった。
 
火打販売
 吉井の火打金は特に評判を呼んでお寺詣の旅人たちが買い求めたそうで、この火打セットを携帯できるよう巾着のような袋に入れることもあったようだ。その現物も展示されている。
 
火打袋
 また旅先だけでなく、家での利用も普及したが、その背景には火事の予防として、常火の禁止によって、容易に火を起こせる手段が求められたことにあるといわれている。いちいち摩擦で火を起こすのはけっこう大変です。
 資料館の解説では、武田信玄配下の子孫であった近江守助直(おうみのかみすけなお)という刀鍛冶が火打金伝えたという。一方で、京都明珍でも作られていたのだが、私の興味は火打金が、大陸からどのように伝わったのか、また、どのような人々が江戸時代まで継承させていたのか、といったところである。
「火打金は、北方アジアの遊牧民や狩猟民の野外行旅の携帯品であって、火おこし自体が非日常的なものである以上、通常、各住居に備えられた日常用具とは考え難い」(森下惠介2020)という。また火打金は、「7~9世紀にほぼ同時に東は日本から西は東欧までの広大な地域に出現した。残念ながらどこが起源でどのように広まっていったのか、という問題については、今のところ説明不可能と言うしかない。ただその普及に長距離移動をすることもある遊牧民が関与したであろうことは想像に難くない。」(藤川繁彦1999)と述べておられる。
 列島に火打金がもたらされたのは、騎馬遊牧民が関与していると考えられるのであるが、実態はよくわからないようだ。
 騎馬遊牧民は、江戸の旅人のように火打セットをポシェットなどに携帯(火打金を腰帯に直接吊るすものもある)して使っていたようだが、それがどのように渡来して使われるようになったのかを、少しでも解明できればと思う。また、火打金にまつわる説話などもみていきたい。なお、火打金は関東の方では火打鎌といわれているようだが、ここは火打金と表記させていただく。

参考文献
藤川繁彦編『中央ユーラシアの考古学』同成社1999 

板付水田
1.戸惑う研究者の背景にあるもの
  NHK放送の「フロンティア 日本人は何者なのか」では、古墳時代の人のDNAの解析結果に驚き、戸惑いながら語る研究者が描かれている。これまでは、縄文人と弥生人の二重構造で説明されてきた日本人のルーツだが、実は古墳時代に第三のDNAが6割を占めるという結果が明らかになり、これが現代の日本人とほぼ共通していたのである。それは古墳時代に第三のDNAを持つ渡来人が、尋常でない規模でこの列島に移住してきたことを示す。研究者のみならず、番組スタッフにも信じがたい結果であったから、「これまでの常識がくつがえる」といった謳い文句が冠されたのであろう。古代に列島に繰り返し渡来者が集団で来ていることを理解し、研究されている人たちには当然の結果なのだが、人類学や古代史研究者をも含んだ多くの現代の日本人には、理解しがたいものとなっている。では、なぜこのようなことになってしまったのか。
 この背景にあるのは、単一民族史観であって戦後に培われ広がったものだといわれている。ところがここで疑問が起こる。そもそも単一民族史観などというのは、戦前の日本の話で日本民族は優秀で他民族蔑視という考え方ではなかったのか。だが実際はそうではないようだ。小熊英二氏の『単一民族神話の起源』がそういった事情を説明してくれている。

2.実は戦後に形成されていた単一民族史観
 はじめに1970年代後半から論じられてきた内容の一節。
「明治いらいの日本人は、自分たちが純粋な血統をもつ単一民族であるという、単一民族神話に支配されてきた。それが、戦争と植民地支配、アジア諸民族への差別、そして現在のマイノリティ差別や外国人労働者排斥の根源である」
 つまり戦前の単一民族という考え方が、多くの社会的弊害を生んだのだと説明している。ところがどうもそう単純ではないようであることが、以下の記事でわかる。
 「大日本国帝国は単一民族の国家ではなく、民族主義の国でもない。否、日本はその建国以来単純な民族主義の国ではない。われわれの遠い祖先が或はツングウスであり、蒙古人であり、インドネシア人であり、ネグリイトであることも学者の等しく承認してゐるところであるし・・・・帰化人のいかに多かったかを知ることができるし、日本は諸民族をその内部にとりいれ、相互に混血し、融合し、かくして学者の所謂現代日本民族が生成されたのである」(室伏高信『大東亜の再編成』日本評論1942・2月号)
 「日本民族はもと単一民族として成立したものではない。上代においていはゆる先住民族や大陸方面からの帰化人がこれに混融同化し、皇化の下に同一民族たる強い信念を培われて形成せられたものである」(文部省社会教育局『国民同和への道』)
 これを読んで少し驚いてしまった。いずれも、1942年という戦争が始まったばかりの時代に発表されたものなのだが。戦後の学者たちの主張とは大きく食い違っているのではないか。この単一民族という考え方は戦後に急速に広まったようである。
 戦前には厳しい弾圧にさらされた津田左右吉氏だが、「日本の国家は日本民族と称し得られる一つの民族によって形づくられた。この日本民族は近いところにその親縁のある民族を持たぬ」「遠い昔から一つの民族として生活してきたので、多くの民族の混和によって日本民族が形づくられたのではない」と語っている。
 また、歴史学者の井上清は「高天原は日本人の故郷の地を神話にしたものだとか、天孫降臨は民族移動の話だとかいうのは、すべてこじつけであるというのが、津田博士の研究以来良心ある学者の一致して賛成しているところ」だという。これによれば、戦前においては天孫降臨は他民族の進攻であると捉えていたということであろうか。ということは、戦後の単一民族説が、天孫降臨などが民族移動だという戦前の理解を否定するという構図になるようだ。
 誤解されては困るが、何も戦前の歴史観の根底にある皇国史観を是としているわけではないことを、おことわりしておく。

3.騎馬民族移住説も受け付けない単一民族史観
 戦後の歴史学に多大な影響を与えた古代史学者の石母田正氏も、古代日本の稲作の成立にかんして、外部の影響より列島側の内発的な主体性を重視し、縄文時代から日本語は固有言語だったとしていたという。こういった考え方が、現代の研究者に引き継がれていったのであろうか。
 しかもこのような背景が、騎馬民族移住説も受け付けなくしてしまったのは明らかだろう。従来の混合民族論の延長であるのだが、天皇家の渡来を前面に押し出した点が目新しいといわれた騎馬民族移住説も、日本の歴史研究者の中で根強いマルクス主義系歴史学とは対抗関係になってしまっていた。最近では全面否定ではなく、渡来人から騎馬文化を主体的に受容したという説明に変化しているが、その本質は同じであろう。この点について、作家の霜多正次氏は「マルクス主義歴史学者たちが、たとえば弥生文化が稲作にともなう文化複合として伝来したことや、古代国家を形成した渡来人の問題などに、従来ほとんど目を向けようとしなかったことは、歴史の内的発展段階論を教条的に理解したことが大きな理由」と語る。  
 また、ドイツ文学者の鈴木武樹氏は、騎馬民族説を支持したところ、日本共産党系の歴史学者に「日本社会の固有の発展の法則と矛盾の克服のしかたが問題なので、天皇家の出自は歴史とかかわりない」と言われたそうだ。すべてを彼らが盲信している公式に、機械的に当てはめて説明しなければ許されないのだろうか。
 政治学者の神島二郎氏は、「戦前の日本では、大和民族は雑種民族であって、混合民族だとだれでも言っていたんです。あの日本主義を唱導していた真最中にもそういうふうに考えていたんです。ところが、戦後になって奇妙きてれつにも、進歩的な文化人をはじめとして、日本は単一民族だと言いはじめたんです。まったくもって根拠がない」と語る。これが問題の背景、事情を説明するものではないだろうか。
 
4.戦後の歴史観に抗する研究者
 最近(2023.9)出された『何が歴史を動かしたのか』(春成秀爾編)所収の寺前直人氏の「縄文時代像と弥生時代像の相性と相克」には、先の小熊英二氏の論旨が援用されている。列島内の東西における稲作開始の時期の時間差が予想を超えて大きく、北部九州では紀元前9~8世紀(夜臼Ⅰ式土器)だが、東北地方では紀元前5~4世紀(砂沢式段階)と400年もの差になることが明らかになったとし、これは従来の歴史観では捉えにくい問題なのだという指摘である。
 以前より磨製石包丁など朝鮮半島の考古文化と日本列島西部の状況には、多数の共通項があって議論されてきた。「考古学研究では、抽出する属性の組み合わせが国境を越えて何通りにも区分できるのに、それを妨げたのが戦後の世界観であったという。その結果、異文化が数百年併存するという多系的、多民族的な歴史像ではなく、縄文時代から弥生時代へと日本国の歴史は単系的に「進歩」したのだという歴史像」で解釈されてきた。それは、従来、日本国という空間を一括してひとつの時代として輪切りにしてきたのだが、それは「帰納的な考古資料の分析結果によるものではなく」戦後に登場した世界観の変化によるものだったという指摘である。
 つまりこれは、DNA分析結果だけではなく、以前からの数多くの考古資料の現実が、従来の形式的な歴史観では説明できないことを示しているとの重要な指摘であって、この点での問題意識、歴史観の見直しをはかる研究者が少なくない状況になっていることを意味するのではないか。
 なお、とりあげさせていただいた『何が歴史を動かしたのか』については、その内容に興味深いことがいくつもあったので、また何度か紹介したい。

参考文献
春成秀爾編『何が歴史を動かしたのか 第二巻弥生文化と世界の考古学 』雄山閣2023
小熊英二『単一民族神話の起源<日本人>の自画像の系譜』新曜社1995

船原歩揺
 福岡県古賀市の船原古墳(古墳時代後期)で出土した金銅製馬具の一つは、揺れるときらきらと輝く歩揺(ほよう)付き金具を複数組み合わせた飾りであったという。市教育委員会と九州歴史資料館は「極めて華麗なデザインで、出土例がない」と発表している。
船原杏葉など
 他にも杏葉(ぎょうよう)は装飾にタマムシの羽が20枚使われるという日本初の国宝級の発見であり、のちの法隆寺の玉虫厨子につながるものである。ガラスの使われた辻金具も唯一のものであり、馬胄(ばちゅう)は和歌山県大谷古墳や埼玉県将軍山古墳に次ぐ三例目。出土した馬具の質及び量、出土した状況からわが国でも稀に見る学術的価値の高いものといわれている。朝鮮半島系の金銅製の馬具が豊富で,武具・武器とともに総数500点以上の遺物が一部は箱に収納して埋納されていたと考えられる。
 このような豪華な副葬品のあった古墳の被葬者は、どのような人物であったのだろうか。

 『船原古墳 豪華な馬具と朝鮮半島との交流』(同成社)では以下の説明がされているのだが、それがとてもふるっている。
 その被葬者像について、「在地首長層でなく急に力を伸展させた人物で、既存の首長層に属さない前方後円墳をつくり、海上交易に長け、半島との交流にも通じていたとし、半島とヤマト王権の両方とも良好な関係を有していた、豪華な副葬品にかこまれるほどの傑出した人物像」とあるのだが。
 御本人の苦労がしのばれるような解説文だ。だいたいこのような理想的な人物が実際にいたというのだろうか。この周辺の遺跡からも半島との直接的な関係を有する出土品が多数あるのに、なぜ渡来者が被葬者だとは考えないのだろう。あくまで先進的な文化をもった被葬者は、ヤマト王権と主体的に関係がある人物にしたいのだ。これは、ヤマト王権とは無関係な豪華な出土品など認められないという、一元論的歴史観からくるのであろうか。
 この古墳は六世紀末ごろのものとされるが、六世紀後半には、半島では加耶が滅んでおり、九州に逃げのびた王族もいたのではないか。この集団が豪華で大量の宝飾品、馬具をたずさえてやって来たのではないのか。こういった視野での検討も必要と思うのだが。
  しかし、今や状況が違う。日進月歩の古代DNAの研究が、古代史の通説を根底から揺るがしている。これまで言われてきた日本人のDNAの二重構造論から、実は古墳時代に新たなDNAが6割も占めるという分析結果を真正面から受け止めなければならない。従来の古墳時代に、大陸、半島からの新たな大量の移住者が王族を先頭に渡来したというケースも考慮しなければならない。古代史の真実、日本人は何者なのかという問いに、新たな答えを出していかなくてはならないだろう。

図はこちらの【遺跡解説】国史跡♡船原古墳~時を越えた宝箱 古賀市立歴史資料館のもの。副葬品の解説だけでなく、発掘作業の苦労話など、興味深い内容です。

参考文献
甲斐孝司他「船原古墳 豪華な馬具と朝鮮半島との交流」新泉社2019

NHKフロンティア「日本人とは何者なのか」           
 
ブログより

「常識がくつがえされる」と謳われるが、その「常識」とは、これまで渡来人問題にまともに向き合おうとしなかった人たちの視野の狭い「常識」にすぎない。
 古代のDNA分析で、縄文人と弥生人の二重構造で日本人のルーツは説明されてきた。ところが、最新の技術進歩の中、古墳人のDNAに縄文人でも弥生人でもない全く異なるDNAが6割も存在しており、これが現代の日本人のDNAの特徴と酷似しているというのだ。それは、「常識的」な教育を受けて、高度な専門的知識や技術を学んでも、「通説」に対して何ら疑問に思われなかった人たちには、想定外の事実であったということだ。
 渡来人のことを、きちんと教えられていないから、こういうリアクション、宣伝文句になるのだろう。
 
 日本書紀欽明天皇元年二月に以下のような記事がある。
召集秦人・漢人等諸蕃投化者、安置國郡、編貫戸籍。秦人、戸數總七千五十三戸、以大藏掾、爲秦伴造。
 海外からの「帰化」した人々を各地に移住させて戸籍も作ったという記事である。秦人の戸数は7053戸で、これはおよそ20万人にもなると言われている。よくよく考えればものすごい人数である。秦氏と言う巨大氏族の存在を、日本書紀は明記しているが、多くの学者は無視している。秦氏だけではないが、これまで渡来人の歴史的役割が矮小化され、一部の渡来人から大陸文化を学んで、発展させたというお決まりの解釈が繰り返された。 

 現在、騎馬民族説については、再評価、見直しがはじまっているが、ただ残念なことに弥生時代の稲作文化と同様に、列島側の主体性で騎馬文化を受容した、との白石太一郎氏の説明に右に倣えになっている。日本という一国(ヤマト中心)だけで歴史をとらえようという根強い体質! 古代社会の政治、文化に大きな影響を与えた騎馬遊牧民を含む大陸、半島からの移住という視点がまったく欠落している。
 早くに松本清張氏は小説『火の路』(1975)で、登場人物に次のような台詞を言わせている。
「日本のことばかり見ているから、わからないのさ。皆目、無知なことのみ言うようになる。 古代の朝鮮、北アジア、東アジアの民族習慣に眼をむけないから、トンチンカンなことばかり書いたりいったりするようになる。」
 これは、ご本人の当時の学界に対する強い思いであったはずだ。
 また、上田正昭氏は『古代の祭式と思想』(中西進編 角川選書1991)の中で
「日本の学界は、渡来の文化は認めます。だけど渡来集団は認めない」
「人間不在の文化論はおかしいではないか。多紐細文鏡は中国にない。遼寧省や吉林省、北朝鮮でも鋳型が出土している。鏡だけが海を渡って流れ着いたわけではない。」同様の憤りがあったのである。

 ただ、研究者の渡来人に対する認識が弱いのにはやむを得ない事情もある。それは日本にやってきた人たちは、移住後も自分たちの出自をアピールせずに、早く溶け込もうとしたことで、現代にはわかりにくくなっているという一面のあることである。
 加藤謙吉氏は「渡来人の謎」(祥伝社新書2017)で
「・・・渡来人はまさに古代国家形成の立役者であった。しかし、渡来人や渡来氏族のなかには、全容がヴェールに覆われ、実態が杳としてつかめないものも多い。彼らは勢力を温存しさらなる飛躍を遂げるため、出自や移住の経緯を改め、内外の貴種や有力氏の系譜に自らを仮託し、その子孫・同族と称して、日本の政治社会に対応しようとした。その結果、彼らの存在そのものが謎めいたものになっている。」
 こういう事情があるから、研究者もあまりへたなことが言えないというのは考慮しなければならないが。しかし、あらたな衝撃的な事実が明らかになりつつある状況になった今は、この問題に真正面から向き合ってほしいものだ。とにかく早く考え方を切り替えていただいて、古代の真実を明らかにしていただくことを願いたい。 

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