流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

ソグド

田道間守の非時香菓、橘はナツメヤシのデーツだった

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 垂仁天皇は田道間守(タヂマモリ)を常世(とこよ)の国に遣わし,非時香菓(ときじくのかくのみ)を求めさせた。しかし、手に入れて戻った時には天皇は亡くなっていた。田道間守は泣き叫んでその場で命を絶ったという。そしてこの非時香菓は古事記、日本書紀とも今の橘であると記している。しかし小学館の古事記の注釈にも、タチバナは古くは柑橘系の総称だが、これが現在の何にあたるかは未詳とされる。魏志倭人伝に記されている橘も今と同じものかどうかはわからない。現在の橘は酸味が強く食用ではない。これが他の食することができる種類の柑橘系や果物類だとしても、はるか遠方からだと持ち帰るのは無理であろう。では古事記や日本書紀の記述に対応できる非時香菓はどのようなものか、以下に論じたい。
 記紀の該当する箇所の原文は最下段に記す。

【1】記紀にある田道間守の説話
 古事記では彼は常世国に到っている(遂到其國)ことから、実際に存在した地域であったと考えられる。縵八縵(かげやかげ)、矛八矛(ほこやほこ)は書紀では八竿八縵と前後入れ替わっているが、同じ意味であろう。天皇と大后に半分にして献じているが、この箇所については後でふれたい。
 タジマモリは天皇の墓の前で泣き叫んで殉死している。書紀も同様の記述がされ、さらに古事記では大后の時に、石祝作(いわきつくり)が墓室づくりの役で、土師部が祭祀用の器物受け持つもので、葬送の儀礼を行う部民を定めたとすることからも、この橘は葬送儀礼に関係していると考えられる。

 古事記の「登岐士玖能迦玖能木實」は日本書紀では「非時香菓」と記されている。その漢字が、意味を示す文字をしめしているかどうかはわからないが、非時は時を定めない、常時あるものの意。これを年中絶え間なく実ができる木と考えることはないであろう。葉が落葉しないものは多くあるが、これは保存可能な木の実ととらえていいであろうか。香菓はその漢字から香りの良いものと思ってしまうが、この場合の訓みの「カク」は古事記の注では輝くさまを表すのだという。小学館の書紀注では黄金色に輝いていることとする。太陽光線で照り返すようなものは考えにくいが、黄金色なら候補はあるであろう。この点についても後述する。
 田道間守は、泣きながら、常世の国がはるか遠くの地で、人がとても容易にたどり着けないところだと語っている。古事記と違って書紀は常世国の特徴をくわしく記述しており、その場所をおおよそ推測できそうである。漢籍の転用も考えられたが、『書紀集解』には関連するような漢籍の例文はあっても直接引用されたものは認められず、何らかの伝承を漢文にしたのではないかと思われる。田道間守は天命を受けて、「遠往絶域、萬里蹈浪、遙度弱水」とてつもない遠方で、弱水を渡るとある。その弱水については検索すると多数の用例が見られる。

【3】中国の古典に多数見られる弱水
『晋書』列伝には「跨弱水以建基」とある。ここでは跨ぐとあるので、弱水は河のことであろう。
『旧唐書』列伝第五十四は「娑夷河,即古之弱水也」とあって、娑夷河がかっての弱水であったとしていることからも河川名であろう。そしてその場所を表した記事もある。(注1)
『三国史』魏書の注釈には「弱水在條支西、今弱水在大秦西」
『漢書』西域傳では「安息長老傳聞條支有弱水」 この條支は西アジアあたりの国と考えられるので、弱水は中国からはるか西方の河と考えられる。
『史記』大宛列伝「或云其國西有弱水、流沙,近西王母處,幾於日所入也」中国からは日の入る所とされるはるか西方にあって、しかも、流沙は砂漠地帯のことであり、そこを流れる河が弱水で間違いないであろう。
『漢書』金城郡「西有須抵池,有弱水、昆侖山祠」 さらに
『漢書』西域傳「昆侖之東有弱水」とあることから、昆侖は伝説上の山とされる。書紀では神仙のかくれた国と記しており、神仙思想の表現も取り入れられていることから、書紀の弱水と同じものと考えられる
 すなわち漢籍に見られる弱水は、河の固有名詞であり、日本書紀はその弱水を渡っている。それがはるか西方の地であることから、西王母や神仙思想とも関連付けられたと考えられる。
 なお漢書司馬相如伝下の顔師古注に「弱水ハ西域ノ絶遠ノ水ヲ謂ウ毛車ニ乗リテ渡ルノミ」とある。ここに「毛車」が登場するが、唐の時代までの漢籍にはほかには見当たらない。私はこの「毛車」を、砂漠を渡るのに欠かせないラクダのことではないかと考えた。帰国の際の峻瀾(高き波)は当然海を渡って帰ったことを示している。
 天皇がわざわざ使いを出して求めたということは、近隣にはない珍しいものとなろう。さらに王が所望するものは不老不死につながる場合が多い。またそれは美味なものとも考えられる。以上から探し求めた非時香菓は、はるか西方の砂漠地帯の樹木の育っている地域、すなわちオアシスにあるものではなかろうか。そこに育つ代表的なものがナツメヤシであり、その実をデーツという。
 
【4】最古の栽培植物、そして聖樹であるナツメヤシとその実のデーツ 
 北アフリカからペルシャ湾岸地域で生育する常緑で高木のヤシ科植物である。メソポタミアでは紀元前6000年頃より栽培がされたようだ。今でも砂漠の中のオアシスで青々と茂っている。単茎で通常基部以外では分枝はせず、葉の全体の形は羽に似た形状である。人工授粉で栽培を行っており果実は多数が房状に結実する。この果実はデーツと呼ばれ、ビタミンや糖分を多く含み、黒糖のような甘味がありそのまま食べたり、料理や加工して菓子としても利用されている。干した実は保存がきき、遊牧民やオアシスで暮らす人々にとって欠かせない食料となる。
 健康食品に関心のある人以外には、日本人にあまりなじみのないものだが、実はオタフクのお好み焼きソースなどに早くから使われているようだ。さらに薬効としても期待された。果実から蜜を取って酒もつくる。樹幹は建材になり、葉は籠やむしろ、編み籠、マット状の敷物や屋根を葺く材料にもなる。さらに団扇や箒にもなる。
 栄養価の面で優れている。銅・鉄・亜鉛などの栄養素は貧血予防や抗酸化作用も期待できる。さらに甘みがあっても血糖値の上昇度合も低いようだ。マグネシウムや食物繊維も豊富で、古代においても大変貴重な木の実であった。この特徴から、王が美味で不老不死の食べ物と考えて求めさせたのは無理もないことなのだ。しかも熱帯地域以外では育たないから、近隣に求めることはできなかった。
 デーツは保存がきき、生で食べられることから遊牧民やオアシスの人々の欠かせない食料源であったことから、非時がいつもあることとつながるのである。香実はかくのみで、香りではなく輝く実という意味と解釈されている。デーツは熟せば飴色、まさに輝くような黄金色になるのである。シュロ 植木市場の写真
 よく混同される棕櫚(シュロ)はミャンマーや中国中央部にみられるヤシ科シュロ属のヤシであり、耐寒性がある。これが日本では棕櫚という用語でヤシ科全般を指す用語になってしまっている。聖書に出てくる樹木を本当はナツメヤシところを棕櫚と訳出してしまったことも混同の一因とされるが、あくまでキリストと関係するのはナツメヤシである。パルメット文様の元もこのナツメヤシと考えられている。

【5】八竿八縵の意味
 さて、解釈の定まっていない八竿(ほこ)八縵(かげ)、古事記は逆で縵八縵・矛八矛である。小学館の注釈では、竿は串刺しにしたものの助数詞、縵は葉のついたままのものの助数詞とある。だが岩波の注では縵は干し柿のようにいくつかの橘を縄に取り付けた形状とされる。以上の説明ではわかりにくいがオタフクデーツの様子、これもナツメヤシに実るデーツの状態を見れば理解は可能である。一本の軸から枝分かれして紡錘状にたっぷりの実がついている。その一本に実が連なるような状態は、干し柿をつるしているかのようだ。また軸から離して乾燥したものを袋に詰めた状態も考えられる。みたらし団子のように串に刺した可能性もある。
 どちらが竿か縵かわわからないが、これは商品売買の際の単位といったものではないだろうか。シルクロードの商人たちのデーツ販売形態を表現したものと考えたい。古事記では大妃に四縵・矛四矛を分けたというのも、これで理解しやすくなろう。

【6】はるか古代から聖樹とされたナツメヤシ
 現代でも、ムスリムの慣習として、赤ん坊が最初に口にするものであり、また断食明けの食べ物としてこのデーツが使われる。アヌビス神古代よりナツメヤシは人々の信仰、儀礼と結びついている。
 枯死した葉の落ちたところから新しい葉が出てくるナツメヤシは、不老の象徴であった。エジプトでは葬儀の際にはナツメヤシの葉を携えて行列し、ミイラやそれを納めた棺の上に置いたという(注2)。ギリシャ神話では、太陽神アポロンは、デロス島のナツメヤシの元で生まれ、その木がアポロンにささげられて聖樹となった。古代ローマでは、死者を冥界に送る儀式を司る神アヌビスは、1世紀のローマのイシス神殿の祭壇浮彫に、左手に壺とともにナツメヤシの葉を手にしているところが描かれている。
 また、ティグラネ墳墓璧の厨子の図像には、女神がナツメヤシを両手に持ってかざすものがあり、これは死者を守護していることを意味している。ミイラ守護初期キリスト教会は、キリスト教徒が迫害された際の、死に対する勝利の象徴とした。絵画の中で殉教者の持ち物として、またイエスの洗礼の背後にナツメヤシが描かれている。    
 以上の内容は、聖樹であるナツメヤシを持ち帰った田道間守が垂仁天皇の後を追って殉死することと符合する。ナツメヤシの葉をかざして死者を守護する構図ともなるのではないか。さらには古事記にある、石棺や石室を造る石祝作、埴輪や祭器を作る土師部を定めたという記事も葬送儀礼の点でも重なるのである。

【7】デーツと類似点のあるナツメ
 よく混同されるものにナツメ(クロウメモドキ科、落葉高木)がある。地中海沿岸から中国まで見られ、乾果は生食できる点などナツメヤシとの共通点も多い。中国、朝鮮では古来、冠婚や正月に欠かせないものであった。奈文研ブログに「ナツメのはなし」が掲載されているが、漢方薬としても使われ、神仙とも結びついていたという。九州糸島の平原古墳でも出土している方格規矩四神鏡や三角縁神獣鏡の銘文にこの棗(なつめ)が見られる。「尚方作竟眞大巧 上有仙人不知老 渴飲玉泉飢食棗」(上に仙人ありて老を知らず、渇えば玉泉を飲み、飢えばなつめを食し)
 また、平城京の長屋王邸跡からも棗と書かれた木簡が出ている。中国では一日一粒で百歳まで老いないと考えられたので、長屋王も棗を所望したのであろうか。ナツメヤシのあるオアシスが神仙の地と考えられたことと類似する。
  
まとめ
 日本書紀の記述から非時香菓は、中国のはるか西方の弱水の地を渡った砂漠の中のオアシスに生息するナツメヤシと考えられる。保存が出来て栄養もある木の実のデーツが、王が求めたものとしてふさわしいものであろう。さらに葬送儀礼と殉教に関わる聖樹信仰の点でも、殉死後もナツメヤシを持って天皇の墓を守護する田道間守の説話の構図と重なるのである。
 田道間守が実際に砂漠のオアシスに行ったとは考えにくい。おそらくは西方で語られた説話がシルクロードの民を経て氏族の祖先譚として記紀に取り入れられたと考えられる。書紀も古事記も橘と記しているのは気になる問題であり、古代の地名や人名などの点から検討していきたい。
 なお、田道間守はお菓子の神様として祀られているが、甘みがあってお菓子の材料となるデーツと関係するならば、あながち無関係とはいえないかもしれない。
    

注1.「オクサスの南北」というブログに弱水を娑夷河とするなど、田道間守と関連させて論じられる記事がある。
注2.ここで関係するのが天若日子の葬儀の行列である。河雁をきさり持ちとし、鷺を掃持(ははきもち)とし、・・・  とある。この掃持は箒を持つのである。その箒は葉で作られたものであるが、元はナツメヤシの葉からきていると考えられる。現在でも西アジア方面ではナツメヤシの葉が箒として使われている。ちなみにナツメヤシの葉はホウスという名で呼ばれている。

【古事記垂仁記原文】
天皇、以三宅連等之祖・名多遲摩毛理、遣常世國、令求登岐士玖能迦玖能木實。自登下八字以音。故、多遲摩毛理、遂到其國、採其木實、以縵八縵・矛八矛、將來之間、天皇既崩。爾多遲摩毛理、分縵四縵・矛四矛、獻于大后、以縵四縵・矛四矛、獻置天皇之御陵戸而、擎其木實、叫哭以白「常世國之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍。」遂叫哭死也。其登岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也。

【日本書紀垂仁紀原文】
九十年春二月庚子朔、天皇命田道間守、遣常世國、令求非時香菓。香菓、此云箇倶能未。今謂橘是也。
九十九年秋七月戊午朔、天皇崩於纏向宮、時年百卌歲。冬十二月癸卯朔壬子、葬於菅原伏見陵。
明年春三月辛未朔壬午、田道間守至自常世國、則齎物也、非時香菓八竿八縵焉。田道間守、於是、泣悲歎之曰「受命天朝、遠往絶域、萬里蹈浪、遙度弱水。是常世國、則神仙祕區、俗非所臻。是以、往來之間、自經十年、豈期、獨凌峻瀾、更向本土乎。然、頼聖帝之神靈、僅得還來。今天皇既崩、不得復命、臣雖生之、亦何益矣。」乃向天皇之陵、叫哭而自死之、群臣聞皆流淚也。田道間守、是三宅連之始祖也。

参考文献
前田 龍彦「ナツメヤシの図像と意味」金沢大学考古学紀要巻 25ページ 64-73発行年 2000-12-25 ネット掲載
甘粛人民出版社「シルクロードの伝説」濱田英作訳 サイマル出版会 1994
岡田温司監修「聖書と神話の象徴図鑑」ナツメ出版 2011
遠山茂樹「歴史の中の植物」八坂書房 2019 
石山俊・綱田浩志「ナツメヤシ アラブのなりわい生態系2」臨川書店 2013
中村修也「田道間守と非時香菓伝説新考」文教大学 言語と文化 題27号 ネット掲載
北村泰一「タクラマカン砂漠の幻の海」(「タクラマカン砂漠の幻の海」古田史学HP)
韓永大「古代韓国のギリシャ渦文と月支国」明石書店 2014     
由水常雄「ローマ文化王国-新羅」新潮社2001

ナツメヤシの写真は、Zeynel Cebeci氏のDate tree - Phoenix sp..jpg (クリエイティブ・コモンズ
シュロの写真は、植木市場様のHPより
アヌビスとミイラ守護の図は前田 龍彦「ナツメヤシの図像と意味」より。

※本稿の初出は2022年10月6日に豊中研究会にて発表、古田史学会報№173掲載のものを一部改定したものです。ブログ掲載後、修正し改めて投稿しました。

「歌う旅人」松田美緒さん・イン・サマルカンド

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      松田美緒さんのオフィシャルサイトはこちら
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 同じ史学サークルのお母様を通じて写真を送っていただいてます。ソグド人の有名な壁画や独特の骨壺(オッスアリ)、など掲載します。

 ウズベキスタン国サマルカンドのアフラシャブ博物館
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  7世紀の装飾の納骨器(オッスアリ) 横口式で蓋もあります。
オッスアリ

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         動物や人の個性的な土人形

今後もアップさせてもらいます。


出身地別に漢語姓を持つソグド人

漢語名マップ
 カスピ海の東隣りのアラル海から東南方向に、ソグド人のホーム・グランドである二十余国の都市国家からなるソグディアナがあった。彼らには、漢文史料によると出身地別に漢語の姓が付けられて、何世代にも用いられ続けていたという。ソグド人の中国姓で出身地がわかるというのである。以下はその都市国家名。
 タシケント=石国、ウスルーシャナ=東曹国、カブーダン=曹国、イシュティハン=西曹国、マーイムルグ=米(マイ)国、サマルカンド=康国、クシャーニーヤ=何(カ)国、シャフリサブズ=史国、カルシ=小史国、ブハラ=安国、パイカンド=畢(ヒツ)国、メルヴ=穆(ボク)国、ナサフ=那色波(ナシキハ)国
 他に現地名不明の烏那曷(オナナン)国。 
 またタラス、ホジェンド、ザンダナなどは漢字表記は不明。
 さらに近年の中国でのソグド人墓の発見でその史料から、虞(グ)国、恵国、翟(テキ)国、魚国、羅国、また隋書、新唐書から場所は不明だが、火尋(カジン)、戊地などもあった。(山口2023)
 『大唐西域記』颯秣建国(サマルカンド)条にすべての胡国の中心とあるので、サマルカンドの康国が盟主国であったようだ。
 漢語姓をもったソグド人では、安史の乱(760年平定)の安禄山と史思明は有名。上記の国名の姓が必ずしもソグド人を示すとは限らないが、今後の研究でさらに明らかになっていくであろう。なかには日本にもやってきたソグド人も少なくないと考えられる。鑑真の渡海に随行した安如宝だが、これは8世紀のことだ。私は、もっと早くから渡来してきたソグド人がかなりいるのではないかと考えている。
 たとえば韓国の研究者には、古事記の太安万侶は百済の史家の安万呂アン・マンリョ(金1972)という意見もある。当ブログでは、山口博氏の著書などを参考に、古事記、日本書紀に大陸文化の影響が多くみられることを述べているが、その執筆、編集にソグド人が関わっているのではと考えている。また、7世紀よりももっと早くから、彼らはやって来たのではないか、日本の政治文化に影響を与えることがあったのではないかと想定している。まだまだ確証となるものはなく、妄想のようなものかもしれないが、その痕跡といったものを探っていきたいと考えている。

参考文献
森安孝夫『シルクロードと唐帝国』(興亡の世界史第5巻)講談社学術文庫2016 
山口博『ソグド文化回廊の中の日本』新典社2023
金逹寿『日本の中の朝鮮文化 3 近江・大和』講談社1972
※図は森安孝夫『シルクロードと唐帝国』による

唐建国に関わったソグド人

楽団俑
 ソグド人の研究が進んでおり、この集団の果たした歴史的役割が浮き彫りにされてきている。わずかだが、そのほんの一部を抜粋させていただく。

  森部豊『唐―東ユーラシアの大帝国』中公新書2023 より
「最近、隋唐革命が成功した別の要因も明らかになってきている。それは隋末から唐初の世情が不安定で、各地に群雄が割拠し、先の見通しがたちにくい時期に、率先して李淵集団に協力したグループがいた。
 ソグド人たちは、北魏から北斉、北周にかけて、河西回廊から黄河流域へ積極的に進出し、各地にコロニー(植民聚落)をつくっていく。この時期に河西回廊の武威(甘粛省)や固原(寧夏回族自治区)、西安(陝西省)、太原などには、ソグド人のコロニーがあった。こうしたコロニー在住のソグド人と、ソグド本土からやってくるソグド商人とが協力しながら、中国の物産(おもに絹)を買い求め、交易活動をおこなっていた。隋末の群雄割拠の混乱時期に中国を安定させてくれる群雄に協力。それが李淵だった。李淵が挙兵した太原には、ソグド人のコロニーが存在、李淵挙兵の際、この太原のソグド人コロニーの住民が兵士として組織化され、これを中央アジア出身のトカラ人である龍潤なるものが率いて、李淵に従っている。太原の南にある介州は、李淵が太原から大興城へと進軍するルート上にあり、ここにもソグド人コロニーがあった。この地のソグド人の曹怡が、李淵の挙兵に呼応し、その軍に従っていることが、「曹怡墓誌」(2010公刊)から明らかに。現在の介州には、この地にいたソグド人が信仰していたゾロアスター教寺院の遺構が「祆神楼」という名で残っている。」
 こういった状況がすすみ、李淵に帰順する勢力が一層強固になっていったのである。

 『岩波講座世界歴史6中華世界の再編とユーラシア東部4~8世紀』(岩波書店2022)より
「唐の初代皇帝高祖李淵は遊牧民の軍事力を借りるために突厥の可汗に臣属したほか、国内でも宗教勢力や匈奴・ソグド人などの諸集団と連携し、10年ほどの間に各地の割拠勢力を平定、その動きの中心が次男の秦王李世民。兄弟を殺害して第二皇帝に即位。注目されるのは、側近の一人で庫真となっていたソグド人の武力援助があった。この庫真あるいは親信は『家人(家奴)』とともに皇帝の側近集団をなし、律令に規定された『公』の官員とは比較にならない親密な関係が皇帝との間に構築された。」
※「庫真」は鮮卑語であるとされ、北朝から唐初期の文献・石刻に見られる称号ないし官職。(田熊 敬之)

 ごく一部の例だが、唐建国とソグド人の深い関係が明らかになりつつある。さらに、唐の経済的文化的発展にも寄与している。
 「唐代の対外全面開放政策にのって、唐王朝の全盛期・長安の春を演出したのは、西方五十か国を越える国々の物産を長安に運び、また、長安の絹、漆器、宝石、薬品などを西方の国々へともたらしたソグド人だったということが判ってきました。」(中村清治「シルクロード 流沙に消えた西域三十六か国」新潮新書2021)

 しかしこのような繁栄は、755年の安史の乱によって終焉する。父がソグド人の安禄山、ソグド出身といわれる史思明の二人による反乱が8年後に終息。ソグド人への弾圧、殺戮、粛清が行われ、姿を消していった。ただ、周辺国、渤海国などでは活動を続けていたようだが、シルクロード交易は衰退していった。

 7世紀末の倭国の王朝交代においても、同じように、表舞台には現れずとも一定の財力や情報網を持つ集団が、新政権への支援を行っていたのではないかと想像している。

ソグド人について

ソグド人とは?

以下は、各文献からの抜粋、メモです。

『シルクロード世界史』 森安孝夫 講談社2020
・胡 漢字で蘇理 インドの悉曇文字(ブラーフミー文字)でSuli(スリー) 玄奘の伝える穿利や義浄の伝える速利と語源を同じくしてソグドを意味する。
・印欧語族のイラン語派に属するソグド語を話し、現在のウズベキスタンを中心にタジキスタンにまたがる旧ソグディアナを故郷とする農耕都市民。  特に紀元後の一千年紀の中央から東部ユーラシアで国際商人・軍人・政治家・外交官・聖職者・芸能人などとして大活躍したが、1200年頃までには、ペルシャ語やトルコ語を話す人々の集団に飲み込まれるようにして史上から消えていった。
・新羅、渤海国にもソグド人 黒貂(クロテン)高級毛皮をソグド商人は扱った。
 826年渤海使を迎えた右大臣藤原緒嗣(おつぐ)は渤海使のことを評して「実は是れ商旅」と断じている。

『岩波講座 世界歴史6』 岩波書店 2022
・ソグド商人は、彼らのコロニーに居住する商人で広くても数百キロほどの範囲。
・ソグド人の東方進出 仏教の東伝と期を同じくする。盛んに取り扱ったのが沈香、白檀、丁香。
・6世紀以降、中国内地に移住集落を設置していたが、7世紀には多くの居住ソグド人が仏教に改宗したという。

『ゆーろ・ならじあQ』森安 孝夫 奈良県立大学ユーラシア研究センター事務局編 2022
・胡姫はペルシャ人でなくソグド人の女性 
 胡椒・胡琴・胡紛・胡坐  草原の道沿いにいた遊牧民が仲介
 胡瓜・胡麻・胡桃     農業盛んなオアシスの道に沿って伝来
 元来は、遊牧民を指した胡が、徐々に西域の農耕都市民を中心とする異民族を指すようになる。
 薩宝、以前は薩保(さつほ) キャラバンのリーダー 胡王とも呼ばれた。

『草原の制覇 中国の歴史3』古松崇志 岩波新書2020
・中国にやって来たソグド人は、北朝時代の5世紀後半以降、中国の風習にあわせて出身地別に既存の漢語の姓を選んで名乗るようになった。ブハラ出身ならば安、キッシュ出身は史、サマルカンドは康、タシュケントは石、ソグド姓という。
・ソグド人はみずからの言語を維持しつつ、必要に応じて複数の言語を話すポリグロッド。ゾロアスター教、マニ教、イラン起源の宗教、仏教も。

『ゾロアストリアニズムと奈良』 奈良県立大学ユーラシア研究センター編著 2022
・奈良におけるゾロアスター教。1~3世紀中央アジアからインド北部にかけて、イラン系のクシャン王朝が興り、2世紀半ばのカニシカ王(1世)の時代に最盛期を迎える。その頃使われたコイン多数発見。その中に、表側にオルターを持った王、裏側に様々な神格が描かれたものがある。同じ意匠が法隆寺四天王立像の「多聞天」で、コインに彫られた王と同じように、右手に火の燃えさかったオルターに似た「宝塔」、左手に長い棒の戟(げき)を持っています。
・イラン文化渡来説
 ①法隆寺白檀香木112号・113号(761年伝来)
 ②正倉院、グラスのサーサーン王朝風
 ③東大寺宗教儀礼におけるゾロアスター教的要素  修二会(お水取り)盂蘭盆会
 ④當麻寺のソグド風増長天立像
 ⑤唐招提寺の薬師如来像の左手に埋められた貨幣
 ⑥群馬県内多胡碑 胡、羊
 ⑦万葉集 イラン語詞 巻2の160 持統天皇の和歌の引用 面智男雲(面知日男雲)
  その他 唐代に噴水施設はない。(飛鳥の石造)トカラ人が伝えた。

・(青木健「唐風文化から汎ユーラシア文化へ」) 20世紀後半から、東洋史研究によって「発信源」と見られた隋・唐帝国の文化それ自体が、鮮卑文化・トッケツ文化・ソグド文化・ペルシャ文化・漢文化・仏教文化の混合体で極めて汎ユーラシア的な性格を帯びていたことが明らかになってきています。

『シルクロード 流沙に消えた西域三十六か国』中村清次 新潮社 2021
・わし鼻で深い目、鬚が多いとされるイラン系のソグド人。
・ソグド成功の秘密は、1.シルクロード沿いにコロニー、植民集落を建設。  2.突厥やウイグルなどの遊牧騎馬民族の中に入り込んで、彼らを背後で操ったこと。
 ソグドのキャラバンは、ソグド人の植民集落へ中継方式。