流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 古典の解釈

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 先にヤマトタケルがイヅモタケルの刀をすり替えてだまし討ちを行う説話を取り上げた。そこでは、字の文にたいして挿入された歌は、意味が違っていたのであり、別物の歌が説話に転用されたと考えられる。このような例は神武天皇記の歌にもあって、奈良県の宇陀の地で罠に鯨がかかったという奇妙な歌詞があり、これも転用である。
 そして、ミヤズヒメの歌の場合も、景行天皇の時代の説話であるかのように理解されているが、これも後の時代の歌であると考えられる。それは、おすいの裾で説明したように、天武期に規定された裾付き礼服を着用する人物の時代である。つまり天武の時代の前後に、朝廷に参列しうる皇女のことである。
 するとヤマトタケルも同様に天武の時代の頃の皇子と考えられる。では、具体的にどのような人物と想定できるであろうか。
 
【1】「高光る日」と「高照らす日」の皇子
 
 この御子(皇子)に対して「高光る日の」あるいは「高照らす日の」と歌う句を持つ万葉歌が、10首ほどある。
45番歌 柿本人麻呂が歌った「やすみししわご大君高照らす日の御子」は軽皇子(文武天皇)。
167番歌 柿本人麻呂が日並皇子(ひなみしのみこ)を「高照らす日の御子(高照日之皇子)」と歌っている。
171番歌 舎人(とねり)の歌として「高光るわが日の御子(高光我日皇子)」とある。日並皇子の宮殿を歌っているとされる。
173番歌 舎人(とねり)の歌として「高光るわが日の御子(高光吾日皇子)」とある。こちらも日並皇子の宮殿を歌っているという。
162番歌 「高照らす日の御子」とあるが、持統が天武のことを歌ったもので対象外とする。
204番歌 置始東人 ( おきそめのあづまひと)の歌に「やすみししわご大君高光る日の御子(安見知之吾王高光日之皇子)とあり、題詞に弓削皇子薨去の際の歌とある。
239番歌 柿本人麻呂は長皇子を「やすみししわご大王高光るわが日の御子(八隅知之吾大王高光吾日乃皇子)」とする。
261番歌 柿本朝臣人麻呂獻新田部皇子「やすみししわご大王高輝らす日の御子」
3234番歌 「やすみししわご大君高照らす日の御子」と歌われているが作者未詳。
50番歌 藤原宮之役民作歌として「やすみししわご大君高照らす日の御子(八隅知之吾大王高照日乃皇子)」とあるが、皇子の名前は不明。
52番歌 こちらも藤原宮の歌であり、「やすみししわご大君高照らす日の御子」とあるが、作者不明。

 なお「大君」については、天皇だけではなく皇子も意味するものであると考えられている。『古事記』のミヤズヒメは、「多迦比迦流 比能美古 夜須美斯志 和賀意富岐美(高光る日の神の御子よ、わが大君よ)とうたっていることからも、大君が皇子を歌っていると考えてよいと思われる。
 そうすると、「高光る」「高照らす」と歌われた皇子は、軽皇子、日並皇子、弓削皇子、長皇子、新田部皇子、作者不詳となる。名前がわかるのは、みな天武天皇の皇子ということである。では、残りの作者不詳はどうか。同じ天武の子で壬申の乱で活躍した高市皇子は対象とならないであろうか。
 
 日本書紀の持統紀4年に「高市皇子觀藤原宮地」とある。高市皇子は持統紀6年に完成した藤原宮の工事途中に視察に訪れている。ならば、50番歌の藤原宮建設中の作業者が歌う日の御子は、高市皇子も対象となろう。これについては早くに指摘しておられる方がいる。

【2】末田重幸、松本清張らの指摘

 万葉歌50,52番歌は人麻呂の作歌として間違いなく、この二篇「藤原宮之役民作歌」「藤原宮御井歌」は、太政大臣高市皇子へ献歌したものとなる(末田1977『柿本人麻呂と高市皇子』)。
 末田重幸氏は元来、この二作品が高市皇子への献歌であることを指摘した評者を寡聞にして知らない、とされている。

 松本清張は、『清張通史5(壬申の乱)』において、当時の宮廷は、持統天皇による高市皇子暗殺は公然の秘密ではあるまいか。日並皇子(草壁皇子)の殯の宮の時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首」の長歌167番に付した反歌二首(168・169)は、高市皇子の殯宮の時につくられたものだとしている。明言はしておられないようだが、167番歌そのものの対象を日並皇子とすることを積極的に肯定はされていないようだ。

 169番歌はその本文に「或る本に、件の歌を以ちて後皇子尊の殯宮の時の歌の反と為せり」との付注があることからも、高市皇子への反歌であることも想定できる。

 さらにさきほどの末田重幸氏は、さらに興味深い指摘をしておられる。
3324番 「かけまくもあやに恐し藤原の都」の出だしから、少し後に「いつしかも日足らしまして望月のたたはしけむと我が思へる皇子の命」(挽歌 作者未詳)
 上記の歌で、人麻呂はその皇子がやがて皇位に登る日が近いことを確信していた、とされる。

 以上のことから、作者不詳の日の御子は高市皇子も含まれることがわかる。

 さらに、高市皇子の死を、病死や偶発的なものではなく、周到な戦略にのせられた計画的な犯行によるものであることを推測させるという『日本書紀』の記事を高市皇子薨去の翌月のものから挙げておられる。
 持統十年七月辛丑朔庚戌、後皇子尊薨。
八月庚午朔甲午、以直廣壹授多臣品治、幷賜物、褒美元從之功與堅守關事。
九月庚子朔甲寅、以直大壹贈若櫻部朝臣五百瀬、幷賜賻物、以顯元從之功。
 8月は品治(ほむじ)が関を守ったことに対する褒賞記事だが、壬申の乱での不破関での功労については、天武期に褒賞されているので、別の功労に対するものとする。それは、高市皇子殺害の報が伝わると、東国で挙兵する集団に対してその進攻を関にて阻止したことを意味するのではないかと。
 同じように、9月の五百瀬(いほせ)も協力したことに対する褒賞とされた。興味深いアイデアと思われる。
 
【3】ミヤズヒメが歌った「高光る日の御子」とは?
  
 さて、この中で誰が『古事記』の日の御子の候補となるであろうか。万葉歌には関係しそうな歌があった。
 それは急逝した十市皇女(とおちのひめみこ)のために高市皇子が歌った156番の挽歌であった。

みもろの神の神杉夢のみに見えつつ共に寝ねぬ夜ぞ多き
三輪の神々しい神杉のようなあなた。夢ばかりに見えながら共寝できない夜が多いことよ。

 高市皇子は、夢に見るだけでいっしょに夜を過ごせないことを嘆くような歌をしたためたのである。   

 十市皇女は壬申の乱で戦った相手である大友皇子の正妻であり、さらに高市皇子は彼女の異母弟にあたるという微妙な関係であったが、二人に恋愛感情があったのは否定できないであろう。
 次は『古事記』のヤマトタケルの歌である。

比佐迦多能 阿米能迦具夜麻 斗迦麻邇 佐和多流久毘 比波煩曾 多和夜賀比那袁 麻迦牟登波 阿禮波須禮杼 佐泥牟登波 阿禮波意母閇杼 那賀祁勢流 意須比能須蘇爾 都紀多知邇祁理
ひさかたの、天の香具山の上を、鋭くやかましく鳴きながら渡ってゆく白鳥よ。その白鳥の頸のように、か弱く細いなよやかな腕を、枕にしたいと私は思うけれども、あなたとともに寝たいと私は思うけれども、あなたの着ておられる襲の裾に、(鳥の)ツキが出てしまったことよ。

 ヤマトタケルは、ミヤズヒメの細くてしなやかな腕を枕にして寝たいと思うのに、月日が経ってしまったと嘆くように歌っている。思うばかりで実際には会えないことを歌にしたという点で連動しているのではなかろうか。
 そうであるならば、『古事記』の歌の男性は高市皇子のことと考えてよいのではなかろうか。ならばミヤズヒメに当る女性は、天武期に規定された裾付きの礼服を着用した皇女の十市皇女となるであろう。譚に歌の雰囲気が似ているといった程度の、たいへん心もとない思い付きではあるが。
 万葉歌には亡くなった十市皇女を悲しむ高市皇子の歌しかないのであったが、このように考えると、古事記には生前の十市皇女と高市皇子が愛を交わす問答歌(相聞歌)があったということになるのだが、どうであろうか。そうであれば、『古事記』の歌には、後の時代のものが転用されていることを示す事例となるのであった。

参考文献
末田重幸1977『柿本人麻呂と高市皇子』講談社
松本清張1979『清張通史5(壬申の乱)』講談社文庫

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         飛翔するトキ 美しい色の翼に注目! 
      出典HP「パルシステム」(【3/19オンライン企画】『トキを育むお米』)

 前半で、『古事記』のミヤズヒメのおすいの裾とは、天武期の礼服の規定にあるものと指摘した。そして、「月経」は時間の経過を意味していた。では、ヤマトタケルは、どうして衣の裾を見て月(時間)が経ったと思ったのであろうか。

4.ツキは鳥のトキ(朱鷺)のことだった

 先に例で挙げているように、このヤマトタケルに関する説話には、鳥の名前がいくつもはめ込まれているのである。そしてこの場面の「月」や「都紀」とされている「ツキ」は朱鷺(トキ)のことなのだと多ケ谷氏はいう。  
 平安時代以降には「豆支」、または「豆木」(『和名抄』)と表記され、読みはツキであった。日本書紀では陵墓の地名に「桃花鳥」とあり「ツキ」の読みがあてられている。
すなわち意須比之襴にあったのは、鳥のツキ(トキ)の図柄であった。古事記現代語訳に見られる「月の障り」のことではないのである。ここにも言葉遊びが含まれているのであって、そうであるならば次のように理解できる。
 ヤマトタケルはミヤズヒメの衣に描かれたツキ(朱鷺)を見て、時間を意味する月(ツキ)が経過してしまったことに気がついた、あまりに長く待たせたことを申し訳なく思ったと理解できるのではないか。ミヤズヒメの方は、同じように衣の図の朱鷺を時間の経過とみて、とても長い間、あなたを待ち焦がれていましたとの返答をする歌であったのではないか。
 よって、「月経」というのは現代の熟語を意味するものではないのである。ちなみに、「月経」という熟語は16世紀末の『本草綱目』が初見のようである。『古事記』の「月経」はあくまで時間の経過を表しているのである。
 これを、鳥のツキ(トキ)と掛けたことにこの歌謡の醍醐味があったのだ。

 しかしまだ気がかりなところがある。ヤマトタケルは、古代の衣の裾を見て鳥のトキだと判断しえたのであろうかと。

5.ヤマトタケルが衣の裾に見たものはトキの図柄ではなく、色のことだった

 『古事記』の月や都紀を鳥のツキ(トキ)とした場合に、少し気になることがあった。それは、当時の衣の裾の部分に、鳥のトキとわかる図柄が、はたして刺繍などで描かれていたのであろうかと。この点について、鳥そのものではなく、顔などに見られる赤色のことではないか、とのご意見を伺った。トキの漢字が朱鷺で「朱」とあるように、確かにトキの顔は赤い。しかし、雉など他の鳥にも赤色が見られるものがある。さらに鶏は鶏冠が赤い。しかも毎朝欠かさず時を告げてくれる鳥である。するとどうも赤色ではなさそうだ。
 色の名前には、花は当然であるが、動物も特定の色を表現するものとして使われることがある。うぐいす色や燕脂(えんじ)色、聞きなれないが山鳩色もある。そして、朱鷺(鴇)色もあった。
 朱鷺色というのは、漢字に朱があるので、てっきり顔の赤いところを思い浮かべるのだが、実はそうではなく、赤色ではなく淡い桃色のことであった。トキが翼を広げた羽には、見事な色彩が見て取れる。淡紅色とも言われる淡い桃色なのであった。
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            出典HP「新潟県庁」(トキ)
 
 これが朱鷺色といわれるようになったのは江戸時代のこととされている。古代にはトキはツキであった。すると古代では「ツキ」色と呼ばれていたのであろうか。それが『日本書紀』にあった。
 
 天智六年 耽羅遣佐平椽磨等貢獻 
 現在の済州島と考えられる|耽羅《たんら》からの使者の来朝記事がある。さらにその使者への下賜品が具体的に記載されている。
 錦十四匹・纈十九匹・緋廿四匹・紺布廿四端・桃染布五十八端・斧廿六・釤六十四・刀子六十二枚
返礼として けっこう手厚い対応をしている。
 その中の「桃染布」には、「つきそめぬの」との読みが付されているのである。「桃」を「ツキ」と呼んでいたのであり、なんと桃色に染めた布が7世紀にあったのだ。

 さらに万葉集にも同じ表現があった。
2970番 桃花褐浅等乃衣浅尒念而妹尒将相物香裳
(訓み)つきそめのあさらのころもあさらかにおもひていもにあはむものかも
(現代語訳)桃花褐に浅く染めた衣のように、心浅く思って妻に逢うことが、どうしてあろう。

 作者は未詳というのが残念だが、ここでは「桃花褐」との文字で「つきそめ」の衣が歌われているのであった。
 現物の衣は残っていないが、着物に桃色が使われた可能性のある壁画がある。

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        関西大学博物館 高松塚古墳壁画再現展示室
 
 高松塚古墳壁画の女性たちが着用する衣の色はカラフルだが、その西女子群像の着物の色を、緑、黄、紺、朱などとともに桃色と説明している。
 
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        宮廷人の衣装 大阪府立近つ飛鳥博物館
 
 ただ、上図の写真のように女性の衣が薄い桃色で、こちらの方が朱鷺色に近いのではないかと思われる。

 古代ではトキのことはツキと呼ばれ、漢字に豆木、豆枝があてられ、さらには桃花鳥と書いて「ツキ」とする事例が日本書紀や万葉集にあった。羽が桃の花のような色をしていたから、この漢字があてられたことになる。そして後には淡い桃色を「朱鷺色」というようになったのである。
 朱鷺との漢字表記から、てっきり朱の赤色と思ってしまったが、実は鳥のトキは桃色というイメージが古代からあったのである。翼を広げて飛ぶ姿の羽の色の美しさに古代人は注目していたのだ。
 よって、ヤマトタケルはミヤズヒメのおすいの裾の淡い桃色を見て、鳥のツキ(トキ)の色であると判断し、そこから時間を連想して歌に仕上げたということになる。けっして血の色を見たわけではなかったのだ。
 これで、多ケ谷有子氏の月を朱鷺のこととされた解釈に対して、より現実的な説明が可能となったと考える。
 
 それにしても末尾に記載したが、なぜ古事記の現代語訳は、揃いも揃って「月の障り」といった解釈をつけて説明しているのであろうか。
 男性の学者はその方が話としては面白いと考えてしまったのか。本居宣長も月経説を否定していたようだが、そういった先学者の指摘があったにも関わらず、女性の月経を物語にしたものだと思い込んだのは、女性心理を理解できないデリカシーの欠けた男性中心の考えによる誤読の結果だとするのは言いすぎであろうか。

 

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        図はChatGPTによって作成

 遠征を終えて尾張国に帰って来たヤマトタケルは、先に再会を約束したミヤズヒメの家に入った。食膳が用意され、ミヤズヒメが酒をすすめた時に、着ていた襲(おすい)の裾に月経(つきのさわり)のものが付いていたのを見て歌をよむ。ミヤズヒメもこれに答えて歌をよむ。そして一夜をすごした朝にヤマトタケルは剣を置いて伊吹山の神の討伐に向かうという『古事記』の逸話である。
 この説話により、女性民俗学者からも「月経という語が見られる早い例」として取り上げられることも多く、一般の解説でも、女性の衣に経血が付いていたと理解されているのである。
 しかし、これは誤解であったことを、古事記の文章に見られる特徴などから説明していく。なお該当の原文と現代語訳は末尾に掲載させていただいた。
 

1.「月経」は誤解されていた

 古田武彦氏は、『古代史の十字路』で、このヤマトタケルとミヤズヒメの説話にある「月経」について、本居宣長の『古事記伝』も援用しながら、これは別の意味があると説明されている。
 「月立たなむ」とは、十一月から十二月になるというように、次の月になること、新しい月が立つこと。同時に、港の要害の意味の「津城」(つき)とし、(あなたが)港を去って行くことを、かけているという。つまり男のほうが、もうここを、去らなければならない。そう言ったのに対して、女のほうが、もっとあなたに居て欲しい、次の月になっても、もっとあなたに居て欲しいと嘆願している歌だと解釈された。
 そしてこの一節は「地の文」(「月経」文)と「問答歌(「非月経」歌)との接合をはかろうとしたものと捉えられ、地の文は、現代の「月経」を意味すると解釈された。
 だがこれには疑問があった。
 後半の地の文では二人は「御合」したと書かれている。次田真幸等の現代語訳では「結婚した」とややぼかした表現になっているが、これは男女の営みとするのがよいのではなかろうか。すると、問答歌と同じように、字の文の述作者も月経ではないことを想定していたと考えられる。これに関連して、日本書紀景行紀四十年是歳の、ヤマトタケルがミヤスヒメを娶ったという記事に次のようにある。

日本武尊、更還於尾張、卽娶尾張氏之女宮簀媛、而淹留踰月
淹(ひさ)しく留(とどま)りて月を淹留踰月(へ)ぬ

 日本書紀は、二人が結婚してからの記事としているが、この「月を踰ぬ」が古事記の「月を経(へ)」と同じ意味なのではないだろうか。つまり、長い時間が経過したことを意味していると考えられる。
 さらに問題がある。
 字の文の「其於意須比之襴著月經」、歌の「意須比能須蘇爾 都紀多知邇祁理」とあるように、意須比之襴(おすひのすそ)についての説明が必要と思われる。都紀を津城としても、「意須比能須蘇」との関連が不明なのである。これは、「月」と「都紀」に別の意味があるとした方がよいのではないか。

 では二人とも衣の裾に何を見たのであろうか。その何かがどうして「月を経る」と結びつくのであろうか。これを外国文学と日本の古典との関係を説く多ケ谷有子氏による納得のいく解説があった。

2.言葉遊びや洒落で作られた物語
 
 多ケ谷有子氏は、江戸後期の国学者橘守部の『稜威言別』における月経を否定する見解を踏まえて、古事記に見られる言葉遊びなどの視点から、この月経について興味深い解釈をされている。
 そこで先に、「言葉遊び」の事例をいくつか見ていきたい。
 
 垂仁記のホムチワケの一節は、口がきけなかったホムチワケが鵠(くぐい・白鳥のこと)の鳴き声を聞いて初めてしゃべることができたという逸話だが、このきっかけとなった鳥がなぜ鵠なのかというと、この漢字の偏が告であり、つまり告げるという言葉遊びであった。
 この鳥と関係させる言葉遊びが、ヤマトタケルの説話になるといくつも見られるという。
 ヤマトタケルの元の名は|小碓命《をうすのみこと》であった。兄は大碓命であるが、この碓の字にはある意味が隠されている。この「碓」の偏となる「石」の一画目の「一」を「口」の中に入れると「白」になる。そして「碓」の右側の「隹」は「とり」という字である。ゆえに白鳥となる。最後に白鳥となって飛び立っていくヤマトタケルは、その幼少期の名前に白鳥が暗示されていたのである。
 
 次にヤマトタケルの東国遠征に、|御火焼老人《みひたきのおきな》と歌を交わす一節がある。|吾妻《あづま》の国から甲斐の国まで何日寝泊まりしたのか尋ねると、火をたいていた老人が九夜十日と答えるのである。するとヤマトタケルはこれを褒めて称号を与えたという話なのだが、なぜそれだけのことで老人に称号が与えられるのか疑問である。だがこれも鳥と関係させた言葉遊びなのだという。
 「火焼」の「ひたく」は鳥の名前で漢字では「鶲」で偏が翁であり、これは老人を意味する。つまり、
 火焼 → 鶲 → 火焼翁 → 火焼老人 という言葉遊びであった。
 
 最後に「言葉遊び」ではないが、古事記には歌謡が多く挿入されているが、地の文とは無関係な歌が使われるといった転用がなされている場合がある。その例として、イヅモタケルの謀殺譚がある。ヤマトタケルは、相手の刀をこっそりと刃のない木刀に変えて謀殺したという。そこに歌謡が差し込まれている。
 
「イヅモタケルが腰につけている太刀は、鞘に葛(つづら)をたくさん巻いてあった見かけはりっぱだが、刀身がなくて、ああおかしい。」
 だが、原文は次のようである。
 夜都米佐須 伊豆毛多祁流賀 波祁流多知 都豆良佐波麻岐 佐味那志爾阿波禮
 
 この「佐味那志爾阿波禮」(さみなしあわれ)を刀身がなくておかしい、とするのは誤読なのである。
 「佐味那志」は刀身がないということではなく、錆び(佐味)がない刀だと歌っているのである。そして、「あはれ」は「哀れ」ではなく、元来「あっぱれ(天晴れ)」という誉め言葉だという。
 本来は、イヅモタケルの佩く刀は飾りも付けた錆びもない立派な刀だと歌っているのであり、地の文とは様子が違うのである。つまりこれは、『古事記』述作者が、おそらくは引用した歌を誤解して、話の筋に合うと考えて差し込んでしまったということになる。さらには、現代においても、「あわれ」が誤解されたまま、現代語訳として「哀れ」(気の毒)と説明されているのである。
 以上のような点を踏まえて、問題の個所に誤読があったことを説明する。

3. 意須比之襴(おすひのすそ)とは
 
 「意須比之襴」に何かがあって「月を経る」と結びつくことになるのだが、この「意須比之襴」とは何を表しているのであろうか。
 「意須比」はヤチホコ(八千矛)神の妻問いの歌に「淤須比(おすひ)」とあり、頭からすっぽりとかぶるものという説明があるが、それではミヤズヒメが酒を注ぐ場面にふさわしいものではなく、ここでは外套着と考えてよいとする。仁徳記には「波夜夫佐和氣能 美淤須比賀泥」(ハヤブサワケ王の着物のため)とあることからも外套着(外着)で問題ないといえる。
 では「襴」はどう考えればよいであろうか。これについては日本書紀に礼服に関する記事がある。
 天武十三年閏月四月に、朝廷に参集する日は襴(すそつき)の衣を着用するようにと規定している。岩波の注では、「衣服の下部に別のきれでつけるすそで、中国風の服制」とある。
ただ最近では、朝鮮半島の服装をもとにつくられた日本服とも考えられているようだ。
 つまり特別な日のための礼服となる。そうであるならば、ヤマトタケルを食事と酒でもてなす場面に、ミヤズヒメの礼服が経血で汚れている、などということはありえないのである。
 
 では、ヤマトタケルはどうして礼服の襴を見て「月が経る」、すなわち時間が経過した、と思ったのであろうか。「月」と後の歌にある「都紀」の「ツキ」には別の意味が隠れていたのである。 (後半に続く)

 以下に原文と現代語訳を交互に掲載

於是、獻大御食之時、其美夜受比賣、捧大御酒盞以獻。爾美夜受比賣、其於意須比之襴著月經。故見其月經、御歌曰、
 お食膳をさし上げるとき、ミヤズヒメはお杯捧げて|献《たてまつ》った。このとき、ミヤズヒメの着ている|襲《おすい》の裾に月の障りのものがついていた。それで、その月の障りを見て|命《みこと》が御歌に、

比佐迦多能 阿米能迦具夜麻 斗迦麻邇 佐和多流久毘 比波煩曾 多和夜賀比那袁 麻迦牟登波 阿禮波須禮杼 佐泥牟登波 阿禮波意母閇杼 那賀祁勢流 意須比能須蘇爾 都紀多知邇祁理
 ひさかたの、天の香具山の上を、鋭くやかましく鳴きながら渡ってゆく白鳥よ。その白鳥の頸のように、か弱く細いなよやかな腕を、枕にしたいと私は思うけれども、あなたとともに寝たいと私は思うけれども、あなたの着ておられる襲の裾に、月が出てしまったことよ。

爾美夜受比賣、答御歌曰、
多迦比迦流 比能美古 夜須美斯志 和賀意富岐美 阿良多麻能 登斯賀岐布禮婆 阿良多麻能 都紀波岐閇由久 宇倍那宇倍那宇倍那 岐美麻知賀多爾 和賀祁勢流 意須比能須蘇爾 都紀多多那牟余
 そこでミヤズヒメがこのお歌に答えて、
日の神の御子よ、わが大君よ。年がたってすぎゆけば、月も来て過ぎてゆきます。いかにもいかにも、あなたのおいでを待ちきれなくて、私の着ている襲の裾に月が出てしまったのでしょう。

故爾御合而、以其御刀之草那藝劒、置其美夜受比賣之許而、取伊服岐能山之神幸行。
そしてご結婚になって、その帯びておられた|草那芸剣《くさなぎのつるぎ》をミヤズヒメのところにとどめて、伊吹山の神を討ち取るためにお出かけになった。


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   写真は、京都北野天満宮の南側の「粟餅所 澤屋」の店頭の粟のサンプル

 日本書紀に記される「穀」と「稲」に関する記事の解釈についての疑問について述べる。

①日本書紀は神代紀から持統紀まで、五穀が登場する。

 安閑二年春正月戊申朔壬子、詔曰「間者連年、登穀接境無虞  」
 「このところ毎年穀物がよく稔って辺境に憂えもない」
 宣化元年 收藏穀稼 「籾種を収めて蓄えてきた」
 河內國茨田郡屯倉之穀。尾張國屯倉之穀、新家屯倉之穀、伊賀國屯倉之穀
 「○○国に屯倉の籾を運ばせる・・・」

 この解釈では、穀を籾のこととするものもあり、それは一般的には米を意味する。また遺跡調査の新聞報道に稲穀と表現するものもある。
 だが稲と限定できないのではなかろうか?天智紀の記事を見ると。
 天智称制八月、遣前將軍大花下阿曇比邏夫連~等、救於百濟、仍送兵杖・五穀。
 百済を救済させ、武器や食糧(五穀)を送らせた、とあるように、米とは限定していない。同様に記事がある。
 天智8年3月 賜耽羅王五穀種  耽羅に五穀の種を贈っている

 次に、天智紀の高安城をめぐる重出記事。

 8年12月、災大藏。是冬、修高安城、收畿內之田税(たちから)。于時、災斑鳩寺。
 9年2月又修高安城積穀與鹽、又築長門城一・筑紫城二
 夏4月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘

 この箇所は重出記事であると思われる。斑鳩寺と法隆寺の火災記事は同じ寺の名であり重出であり、現在は天智9年(670)のこととされている。
 高安城を脩とは造営のことだが、ここを岩波注は、年を跨いで造営していた記事との解釈だが、その年に完成したという記事のダブったものと理解する方が自然だ。
 そしてこれが一つの記事であるならば、完成後に行われた内容の記事、すなわち「積穀與鹽」と「收畿內之田税」は同じ記事であると言える。そうであるならば、高安城に収めた田税は穀と塩(鹽)のことと判断できる。そうであれば田の税とは、米と解釈されているが、五穀の可能性がある。
 神代紀には、粟稗麥豆爲陸田種子(はたけつもの)、以稻爲水田種子(たなつもの)、とあるように、稲と雑穀は使い分けられているが同じ「田」が使われている。 

②改新之詔と続日本紀の疑問

 初めに屯倉の廃止の記事がある。
 其一曰、罷昔在天皇等所立子代之民・處々屯倉・及別臣連伴造國造村首所有部曲之民・處々田莊
 この田荘(たどころ)は、岩波注は豪族の経営する土地とする。水田耕作の田であるのか不明。班田収授法では祖は稲としている。段租稻二束二把、町租稻廿二束。さらに罷舊賦役、而行田之調とあり、続いて田一町絹一丈、とあるのは田で養蚕による絹の徴収であろう。
 田の調として、庸米(ちからしろのこめ)を一戸に五斗としている。 差し出す采女一人に糧(かて)を求めるとあるが、この糧が米かどうかはわからない。

 続日本紀には、税の対象となる当時の稲作について疑問に思える記事がある。次のように雑穀の生産を奨励するような記事がある。
 霊亀元年(715)詔には、国がよく治まるためには人民を富ませることが大切とし、続いて次のようにある。
 「今諸国の人民は生業の技術をきわめておらず、ただ湿地で稲を作ることにのみ精を出し、陸田(はたけ)の有利なことを知らない。だから大水や日照りにあえば、貯えの穀物もなく、秋の取り入れができないと多くの飢饉にみまわれる。これはただ人民の怠けによるだけでなく、国司が教え導かないことによる。為すべきことは人民に命じて、麦と稲とを共に植えさせ、・・・・。およそ粟というものは、永く貯蔵しても腐らず、いろいろの穀物の中で最も優れたものである・・・。もし人民の中で、稲のかわりに粟を租税として出すものがあったら、これを許せ。」
 そして4年後にこの詔の効果に対応するような次の詔が出される。
 養老三年(719)9月詔に天下の人民の戸に、陸田(はたけ)一町以上二十町以下を貸し与えた。地子(小作料)は一反に着き粟三升、とした。

 しかし、はじめの霊亀元年の詔の内容は素直に受けとれない。人民は、まるで米以外は作っていないかのような記述になっている。全国(東北など除く)で水田耕作に専念していたというのは信じがたい。現在、水田の雑草扱いを受けている稗などの雑穀が作られなかったというのは考えにくく、詔の最後にあるように粟を租税としての徴収を認める、とあるように、以前より粟などを作っていたはずであり、この詔は疑念をもって捉えなければならないのではないか。もしこれが事実なら、半世紀前の改新の詔の発令によって、稲作が徹底されたことになる。
 そうすると改新の詔は、雑穀は無視、租税の対象外としたのであろうか。どうも、大化の改新の租税制度は、最初から無理があったように思える。
 8世紀前半の「隼人の乱」も、通説の理解にあるように、班田収授法に対する反発であった可能性がある。南九州の発掘調査では、米が作られていた痕跡があまり見受けられないという見方もある。

③雑穀は明治初期まで主食であり、祭祀の主要な供物であった。

 戦前まで、完全な米食の習慣はほとんどなかったようだ。麦などに混ぜて食べたり、日常は雑穀が主食でハレの日に米を炊く所も多かったという。民俗事例に、稗が米よりはるかに腹持ちがよく、健康にも良いという認識もあった。
 一方で、雑穀に対する差別観念が形成されていた。男は米、女はヒエを食べさせるといった慣習もあった。さらに五穀の祀りは広く行われており、これははるか古代からあったと思われる。神酒も沖縄の事例のように粟酒など五穀の噛み酒も早くから造っていたはずである。
 続日本紀に粟が長く貯蔵できるとされているが、特に稗は、貯蔵期間が40年のものも確認されている。

 以上から、大化改新の租税制度や続日本紀の記述には、疑問が残るのである。
そして、安閑・宣化紀の屯倉に運ぶ穀は、稲だけとは言えない。私見として那津官家に用意した穀を半島からの避難民の為もあると想定したが、その彼らに用意した食料は、米以外に稗や粟の団子や粥もあったと考えられる。
 那津官家については、次の記事をご覧ください。
「那津官家は軍事施設でも王都の関連施設でもなかった」

参考 増田昭子『雑穀の社会史』吉川弘文館2011



 
河尻
古事記の神武東征でよく議論になるところである。
「その八咫烏の後(しり)より幸(いで)行(ま)しせば、吉野河の河尻に到りましとき、筌を作りて魚を取る人あり」
 吉野川で筌を使って漁をしていたのである。
 しかし、河尻は川下ではない。なぜなら神武は吉野川で筌を使う漁夫と出会っているのだ。魚を取る筌(うけ・うえ)は竹などで作った筒状の漁獲器で、漏斗状の口に魚が入って閉じ込めるものだ。この筌は上流や川幅の狭いところで使うものであり、河口とか川下の川幅の広いところでは効率は悪く普通は使わないだろう。
 ただ出雲国風土記にも筌が登場する。島根郡の朝酌の促(せ)戸(と)の渡りで筌を使っている。位置的には河口部になるが、解説では宍道湖と中海の中間の間が狭い水路となっているところで、そこは当然急流となり筌に入った魚は抜け出せないから効率よく獲ることができる。やはり川上と同じ条件となり、ゆったり流れる川下では使わないと考えていいだろう。古代の筌は弥生時代の太宰府市の雛川遺跡や北九州市の辻田遺跡などで発掘されているが、佐賀の東名遺跡では縄文時代の編組製品が多数見つかっており、吉野ケ里に近いこの地で古くから筌も作られていたのではないか。さらに古事記には河下が一か所だが登場する。垂仁記のホムツワケが言葉を発したセリフに河下がある。
 そうとなれば、おのずと神武が漁夫と出会ったのは、吉野川とされた本来の嘉瀬川の山間地やそのふもとあたりと考えてもいいのではないか。ではなぜ尻を川の上流と考えたのか。尻の意味は、古田武彦氏も地形の表現とされているが、私も尻の形、ラインを表していると考えるので、つまりは川の湾曲するところや蛇行しているところを地名にしたのではないか。そこは大雨の際には洪水になりやすい地域であろう。
 たびたび被害に見舞われる木津川のほぼ直角に流れるところの南西部あたり、JR西木津駅周辺に川ノ尻がある。図のように、木津川が大きく蛇行しており、これはお尻のように曲がったところを意味するのではないか。他にも兵庫県朝来市生野町川尻はそのエリアの真ん中を市川が蛇行している。熊本市の加勢川も蛇行に沿った範囲が川尻である。広島県世羅郡の芦田川など他にもいくつもあるのではないか。「尻」はその多くが後方や末端などを意味するが中には出尻(でっちり)のように状態の表現もある。川の尻は湾曲や蛇行した箇所を意味することもあると考えたい。

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 京都府立植物園のヒトツバタゴです。なんじゃもんじゃ、ともいわれてます。まだ咲きだしたところで、樹齢の高い幹の太いのは、まだこれからのようです。GWの間は、しっかりと楽しむ事ができそうです。
 咲いてる場所はこちらのマップです。
植物園マップ

 次は洛西ニュータウンのラクセーヌの街路樹。こちらもきれいに咲いています。この木だけ、まるで雪が積もっているかのように見えますね。
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 ほかにも、桂川街道の街路樹に、植樹されているところがあって、こちらもきれいに咲いていました。
 まあ、今の時期は、つつじが真っ盛りで、色もカラフルで、それにくらべてヒトツバタゴは、派手さはありませんが、昭和天皇も歌にされた素敵な白い花です。
 ひょっとすると、持統天皇が「白妙の衣」と例えた花かもしれません。こちらをご覧ください。
 各地に咲きだしていると思いますので、ぜひお探しください。
 
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 ヒトツバタゴが目的で植物園にやってきましたが、まあ今の時期は、様々な色の美しい花が見事に咲いています。たまには足を運ぶのもいいものですね。

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