①日本書紀は神代紀から持統紀まで、五穀が登場する。
安閑二年春正月戊申朔壬子、詔曰「間者連年、登穀接境無虞 」
「このところ毎年穀物がよく稔って辺境に憂えもない」
宣化元年 收藏穀稼 「籾種を収めて蓄えてきた」
河內國茨田郡屯倉之穀。尾張國屯倉之穀、新家屯倉之穀、伊賀國屯倉之穀
「○○国に屯倉の籾を運ばせる・・・」
この解釈では、穀を籾のこととするものもあり、それは一般的には米を意味する。また遺跡調査の新聞報道に稲穀と表現するものもある。
だが稲と限定できないのではなかろうか?天智紀の記事を見ると。
天智称制八月、遣前將軍大花下阿曇比邏夫連~等、救於百濟、仍送兵杖・五穀。
百済を救済させ、武器や食糧(五穀)を送らせた、とあるように、米とは限定していない。同様に記事がある。
天智8年3月 賜耽羅王五穀種 耽羅に五穀の種を贈っている
次に、天智紀の高安城をめぐる重出記事。
8年12月、災大藏。是冬、修高安城、收畿內之田税(たちから)。于時、災斑鳩寺。
9年2月又修高安城積穀與鹽、又築長門城一・筑紫城二
夏4月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘
この箇所は重出記事であると思われる。斑鳩寺と法隆寺の火災記事は同じ寺の名であり重出であり、現在は天智9年(670)のこととされている。
高安城を脩とは造営のことだが、ここを岩波注は、年を跨いで造営していた記事との解釈だが、その年に完成したという記事のダブったものと理解する方が自然だ。
そしてこれが一つの記事であるならば、完成後に行われた内容の記事、すなわち「積穀與鹽」と「收畿內之田税」は同じ記事であると言える。そうであるならば、高安城に収めた田税は穀と塩(鹽)のことと判断できる。そうであれば田の税とは、米と解釈されているが、五穀の可能性がある。
神代紀には、粟稗麥豆爲陸田種子(はたけつもの)、以稻爲水田種子(たなつもの)、とあるように、稲と雑穀は使い分けられているが同じ「田」が使われている。
②改新之詔と続日本紀の疑問
初めに屯倉の廃止の記事がある。
其一曰、罷昔在天皇等所立子代之民・處々屯倉・及別臣連伴造國造村首所有部曲之民・處々田莊
この田荘(たどころ)は、岩波注は豪族の経営する土地とする。水田耕作の田であるのか不明。班田収授法では祖は稲としている。段租稻二束二把、町租稻廿二束。さらに罷舊賦役、而行田之調とあり、続いて田一町絹一丈、とあるのは田で養蚕による絹の徴収であろう。
田の調として、庸米(ちからしろのこめ)を一戸に五斗としている。 差し出す采女一人に糧(かて)を求めるとあるが、この糧が米かどうかはわからない。
続日本紀には、税の対象となる当時の稲作について疑問に思える記事がある。次のように雑穀の生産を奨励するような記事がある。
霊亀元年(715)詔には、国がよく治まるためには人民を富ませることが大切とし、続いて次のようにある。
「今諸国の人民は生業の技術をきわめておらず、ただ湿地で稲を作ることにのみ精を出し、陸田(はたけ)の有利なことを知らない。だから大水や日照りにあえば、貯えの穀物もなく、秋の取り入れができないと多くの飢饉にみまわれる。これはただ人民の怠けによるだけでなく、国司が教え導かないことによる。為すべきことは人民に命じて、麦と稲とを共に植えさせ、・・・・。およそ粟というものは、永く貯蔵しても腐らず、いろいろの穀物の中で最も優れたものである・・・。もし人民の中で、稲のかわりに粟を租税として出すものがあったら、これを許せ。」
そして4年後にこの詔の効果に対応するような次の詔が出される。
養老三年(719)9月詔に天下の人民の戸に、陸田(はたけ)一町以上二十町以下を貸し与えた。地子(小作料)は一反に着き粟三升、とした。
しかし、はじめの霊亀元年の詔の内容は素直に受けとれない。人民は、まるで米以外は作っていないかのような記述になっている。全国(東北など除く)で水田耕作に専念していたというのは信じがたい。現在、水田の雑草扱いを受けている稗などの雑穀が作られなかったというのは考えにくく、詔の最後にあるように粟を租税としての徴収を認める、とあるように、以前より粟などを作っていたはずであり、この詔は疑念をもって捉えなければならないのではないか。もしこれが事実なら、半世紀前の改新の詔の発令によって、稲作が徹底されたことになる。
そうすると改新の詔は、雑穀は無視、租税の対象外としたのであろうか。どうも、大化の改新の租税制度は、最初から無理があったように思える。
そうすると改新の詔は、雑穀は無視、租税の対象外としたのであろうか。どうも、大化の改新の租税制度は、最初から無理があったように思える。
8世紀前半の「隼人の乱」も、通説の理解にあるように、班田収授法に対する反発であった可能性がある。南九州の発掘調査では、米が作られていた痕跡があまり見受けられないという見方もある。
③雑穀は明治初期まで主食であり、祭祀の主要な供物であった。
戦前まで、完全な米食の習慣はほとんどなかったようだ。麦などに混ぜて食べたり、日常は雑穀が主食でハレの日に米を炊く所も多かったという。民俗事例に、稗が米よりはるかに腹持ちがよく、健康にも良いという認識もあった。
一方で、雑穀に対する差別観念が形成されていた。男は米、女はヒエを食べさせるといった慣習もあった。さらに五穀の祀りは広く行われており、これははるか古代からあったと思われる。神酒も沖縄の事例のように粟酒など五穀の噛み酒も早くから造っていたはずである。
続日本紀に粟が長く貯蔵できるとされているが、特に稗は、貯蔵期間が40年のものも確認されている。
以上から、大化改新の租税制度や続日本紀の記述には、疑問が残るのである。
そして、安閑・宣化紀の屯倉に運ぶ穀は、稲だけとは言えない。私見として那津官家に用意した穀を半島からの避難民の為もあると想定したが、その彼らに用意した食料は、米以外に稗や粟の団子や粥もあったと考えられる。
那津官家については、次の記事をご覧ください。
「那津官家は軍事施設でも王都の関連施設でもなかった」
那津官家については、次の記事をご覧ください。
「那津官家は軍事施設でも王都の関連施設でもなかった」
参考 増田昭子『雑穀の社会史』吉川弘文館2011






