流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 縄文ファン

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 縄文土器には、把手なのか、文様なのかよくわからない眼鏡状とか、橋状とも言われている双環突起がついています。土器によっては、そこに腕のようなものが伸びていたり、蛙や蛇の頭のような表現ともとれるものもあります。そして、いわゆる出産文土器にも少し大きめの双環突起が口縁部についています。
 この奇妙な突起の意味を、あくまで想像ですが、出産と関係あるものと考えました。note版流砂の古代 こちら にアップいたしました。ひょっとすると、人体の骨格と関係しているのでは? ぜひご覧ください。


松川町土器
長野県下伊那郡松川町資料館 顔面把手付土器 
頭部がマムシのように造形されている。生きたマムシが土器を這っているように見える。

1.マムシの生態についての迷信のようなお話

 以前に、次のような信じがたい記述があるのを見つけた。縄文時代と蛇に関するものだが、以下のような説明があった。
「マムシは生命の誕生と死に深くかかわる。さらにマムシの胎生の子は、母の腹を食い破って出てくる。縄文人はこうしたマムシを地母神の象徴として崇拝した。梅原猛氏も人の命を一瞬にして奪う恐ろしい敵としてのマムシを、神にすることによって、蛇の害から人間を守ろうとした。」(安田1991)
 母蛇のお腹を食い破って子供の蛇が誕生?まさかと思ったが、どうもこの著者は別の書物からの記事を参考にされたようだ。それは藤森栄一氏の『縄文農耕』で、次のような一節がある。
「マムシは春、土の中から忽然として現れる。すなわち霊である。そして、特に秋口、藪の中など、いや竪穴内にもネズミなどを追って入ってきて、忽然と人の生を奪う。(中略)マムシが生まれるとき、母マムシはもがき苦しみ、胎生の仔マムシは丸々と肥って、母の腹を食い破って出てくる。原始の植物嗜食民たる縄文中期人が、そうしたものに地母なる神の具現を感じたことは、当然すぎるほど当然である。」(藤森1979)
 どうも蛇の神秘性を強調するあまりの勇み足ではなかろうか。子蛇が腹を食い破って生まれ出るなどと書かれた爬虫類図鑑でもあったのだろうか。そもそも蛇は卵生であり、それはマムシも同様のはず。ただ、蛇はすべて卵から生まれる卵生ではなく、2割は胎生だということだが、それらは外国種のようだ。(JPスネークセンター2024)。
 また、生き物で親が子を食べる、子が別の子を食べる事例はあるのだが、現在のところ、母親を食べるケースとして、昆虫や線虫、それにクモ形類の一部の種にあるという(National Geographicのネット記事)ことだが、まあ、特殊な事例だろう。
 では、藤森氏は、どこでこのような情報を得られたのか?別の参考にされた文献に同様の記述があったからであろう。その元ネタと思われるものに、最近になって気が付いた。
 それはヘロドトスの『歴史』だった。

2.ヘロドトスは、信じがたい逸話、「たわ言」ももれなく記載している。
 
 『歴史』巻三ダレイオスの記事の109のところに次のようにある。
「・・・この蛇は一番(つがい)ずつ交尾して雄が受精に入り、精液を射出すると、雌は雄の頸元に噛みついて離れず、これを食い尽くして終うまで離さない。雄蛇は右のようにして死ぬのであるが、雌も雄に対して犯した罪の罰を次のようにして受ける。それはまだ母の胎内にある子蛇が、父の仇とばかり母の体を食うのであって、胎内の子は母胎を食い破って外へ出てくるのである。」
 「父の仇」?かのように母の体を食い破るというのは、話を面白くしたのであろうが、この記述を信用して、ご自分の著作に採用されたとすると、残念というか、どうして信用したのかと思う。おそらくは、別に引用された著書があって、そこから孫引きされたと思いたいのだが。
 実は、この箇所の直前に、ライオンの出生に関する似たような記述がある。
「・・・ライオンの牝は、一生に一度、しかも一頭しか子を産まない。ライオンは仔を産むと同時に子宮をも体外に出してしまうからで、その原因は・・・ライオンの仔は母の胎内で動き始める頃になると、他のどの獣よりも遥かに鋭いその爪で子宮を掻きむしり、成長するにつれてますます深く爪を立てる。分娩が近づく頃になれば、子宮で無事な部分は一つも残らなくなるのである。」
 一頭しか生まない子に胎を食い破られていたら、ライオンという種はすぐに絶滅してしまうではないか。この箇所には訳注があって、「アリストテレスはこの部分の記述を『たわ言』だと評している」とある。偉大な哲学者でなくてもわかりそうなものであり、この記述も見ていれば、蛇の場合の記事も信じがたいと思うのが普通であろう。
 この『歴史』には、重要な歴史的事項が豊富に描かれているが、一方で、迷信のような記事も多く混ざり込んでいる。ただこれも、当時の古代の人々がそのように信じていたこと、考えていた逸話の貴重な資料として参考にすればいいものであろう。ただ、事実だったのか、作り話かの見極めの難しそうな話も多いようではあるが。

3.蛇が神になったのは、獰猛だったからではない。
 
 虚偽を引用された方々は、マムシの神聖たる根拠の説明するにうってつけの事例として取り込まれたのだと思うが、残念ながら事実ではない作り話であった。縄文時代における蛇との関係を強調することは首肯するのだが、いささか安易な引用であった。また、縄文時代の蛇信仰の説明に、ことさらマムシを危険な生物として強調するのも不正確と言え、一瞬にして人の命を奪うという先ほどの説明も正確ではない。実は、マムシの毒性はハブに較べると弱く、人が噛まれて死亡するのは処置に問題があった場合だという。ヤマカガシの方がはるかに毒性が強く危険だという。
 どうも、先ほどの方々は、マムシが獰猛であることが神となった理由と理解されているようなふしがある。吉野裕子氏は、蛇の神たるゆえんを、毒性以外に、その形状、脱皮などを挙げておられる。私は、それらに加え、決定的な理由は、出産時の臍の緒が古代人には蛇のように見えたことだと考えている。こちらをご覧ください。

 このように誤解、迷信の類いのものをその出典を吟味することなく引用するのは誤情報の連鎖となるもので気をつけたいものと思う。

参考文献
藤森栄一『縄文農耕』(藤森栄一全集弟9巻)学生社1979
安田喜憲『大地母神の時代』角川選書1991
ジャパン・スネークセンター『ヘビ学: 毒・鱗・脱皮・動きの秘密 』(小学館新書 481)2024
ヘロドトス『歴史』松平千秋訳 岩波書店1971

IMG_0461 (1)蛇土偶正面
      頭部に蛇が描かれている土偶、縄文中期藤内遺跡出土      
        長野県諏訪郡富士見町井戸尻考古館


 たいていの土偶と同じく、下半身と左手が欠損していたのだが、発見者らが木製の土台に固定させたそうだ。
IMG_0460頭蛇 横から

IMG_0462頭に蛇
 頭に蛇が表現される土偶は大変珍しものだという。

 表記はされていないが、次に紹介する土偶も蛇を頭に表現しているのではないかと考えている。

DSC_0770望月頭蛇
    長野県佐久市立望月歴史民俗資料館 浦谷B遺跡縄文時代後期前半

 顔も欠けてはいるが、目の表現から少し表情が怖い印象をもつ。

DSC_0778望月頭蛇上から
 頭部を見ると、同じような形状で描かれており、蛇と考えてよいのではないか。突き抜けてはいないが、先の藤内の土偶と同様の小孔がある。
 
1.蛇をあやつるシャーマンの土偶なのか?

 民俗学の谷川健一氏は、この土偶を沖縄・奄美の事象と比較して「縄文中期において、巫女は自分の侍女の頭にマムシをまきつけて、それが噛まないことを衆人にみせ、自分の威力を誇示したのであったろう」とされている。はたして縄文時代にこのような呪術を行う巫女・シャーマンがいたのであろうか。いたとしたら、では、何のために蛇を使う巫女を表現する土偶をつくったのであろうか。  
 この左手と下半身が欠けているので全体像はわからないのだが、蛇以外の特徴としては、左目の下に入れ墨、もしくはペイントで2本線が描かれているぐらいだ。この土偶がシャーマンなら、もう少し玉飾りとかの装飾表現があっても良いのではないかと思える。頭には小孔があってそこに鳥の羽を刺していたという表現は考えられているが。どうも私にはシャーマンの姿を造形したようには思えないのだが。縄文の人たちが、なにか具体的な目的を持たせたものではなかろうか。

2.出産に立ち会ってもらう守り神

 土偶の用途については、様々な説が出されているが、決定的なものはない。『土偶を読むを読む』(こちら)にはその全容が時系列にわかりやすく説明されている。そこにも記されているが、土偶にも時代や地域によって共通する要素をもちながらも異なる目的で作られていると考えるしかなく、縄文人の切実な願い、宗教観による呪術的な祭具であったのではなかろうか。とりわけ、この頭に蛇を戴く土偶は、かなり特別なものであったと考えられる。
 そこから、私の単なる思い付きだが、当時の出産の際に助けてもらえる存在としての土偶であったのではと考える。戦前の日本にあった、地域の女性が妊婦といっしょになって、いきんでみせるという習俗のようなものが、縄文の女性たちにもあったのではなかろうか。当時は出産時に母子ともに死亡するような事故も少なくなかったであろう。本人だけでなく、周りの女性たちもいっしょになって安産を祈ったはずである。
 蛇は、古代より出産と密接な関係があることを既に説明している(こちら)。前回紹介した『日本産育習俗資料集成』の分娩の項には、産婦に子安貝、またはたつの落とし子をにぎらせる(和歌山県)、といった安産の為の事例が紹介されているが、なかには、まむしの頭を頭髪にはさんでいるとめまいをしない(福井県)、出産時に蛇の抜け殻を腰につけるとよい(群馬県)といった、蛇を産婦の守護的な存在に見立てている事例がある。
 土偶の目的・用途の説の中には、早くから安産のお守り説があったが、あまり肯定的な評価はない。私見では、単なるお守りではなく、蛇が描かれた土偶も、妊婦を守り、安産で生まれるためのものであり、なかには、妊婦がこのような土偶を握っていきむようなこともあったのではないかと考える。出産の際に一緒に立ち会ってくれるお守り、そばに置かれて、苦痛を分かち合ってくれる存在としたい。
 よって、蛇を頭に戴いた土偶に限っては、出産立ち合い土偶、お産に寄り添う守り神、となるであろうか。ひょっとすると、蛇の表現のない他の土偶にも、同じような使われ方があったかもしれない。あくまで妄想ではあるが。なお実見はしていないが、蛇だけでなく、猪や蛙を頭に載せた土偶もあるという。猪も多産であることが関係するかもしれない。

参考文献
谷川健一「蛇 不死と再生の民俗」冨山房インターナショナル, 2012
望月昭英編「土偶を読むを読む」文学通信2023
写真は、井戸尻考古館と望月歴史民俗資料館にて

蛇行石剣パネル付き
蛇行石剣
  写真は、群馬県渋川市北橘歴史資料館
  ガラスケースでの展示で、鮮明には撮れず。

 縄文時代後晩期のものと考えられる小さな形の石剣です。出土地は不明のようですが、群馬県前橋市箱田の木曽三柱神社の社宝としてまつられていたとのこと。
  全長30センチメートル、柄部長12センチメートル、柄部幅1.5センチメートル、刀身の厚さは0.8センチメートルを測ります。蛇のようにくねり、丁寧に磨かれています。黒光りして、黄色や緑色の模様のある蛇紋岩でつくられている。
 縄文人はこの石剣を作った目的はなんだったのであろうか。蛇行石剣ではないが、蛇形の杖を使って呪術を行っていたという民俗事例を紹介する。 

「蛇形の杖を以て寝室を打つ」   
 難産の場合に道士をよんで祈祷を頼むと、多数の道士が来て、三室に神を祀り、その中の一人は、蛇形に彫刻した長さ一尺ばかりの木の棒を持ち、呪文を高らかに唱えつつ、産婦の寝室の周囲を打ちつつ幾回となく歩き廻り、他の道士はその打つ調子に合わせて読経し、笛・太鼓・銅羅などではやし立て、出産を見るまでは幾何の時間を要しようとも、耳を聾せんばかりの音をつづけるのである。これは蛇が、その穴に出入りするのが非常になめらかで且つ自由自在になるにあやかって、胎児もそのように安楽に出産させようとするのである。(永尾1937)

 蛇が穴にスムーズに出入りすることにあやかってというのは、後付けの説明のように思えなくもないが、蛇が安産に関わるという点はあり得ることかもしれない。前に、蛇が神となった理由(こちら)に、へその緒が蛇に見立てられたと説明させていただいたが、この蛇形の杖が、無事に新たな生命が生まれるための祭器となるのであろうか。

蛇行剣(全州博物館・金城里古墳) (1)
  写真は全州市の国立博物館の副葬品 中央が蛇行剣
 
 時代は変わるが、古墳時代には、副葬品として鉄製の蛇行剣が見つかっている。話題になった奈良県の富雄丸山古墳からは、長さ2.3mのものが出土したが、他に70余りの古墳から出土している。実は韓半島にも4カ所の倭系古墳から出土しているという。
 では、蛇行剣が古墳に埋葬されたのはどういう意図によるものか。蛇形の杖は、安産を願うものであったが、それが古墳への副葬の場合は、再生を願うシンボルだったのではないか。人々は亡き人の生まれ変わり、再生を願って、この蛇行剣に託したと考えられないであろうか。

 日本書紀の仁徳即位前紀には、弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が自殺をすると、仁徳となる大鷦鷯(おほさざき)が、胸を打ち泣き叫んで、髪を解き屍体にまたがって、「弟の皇子よ」と三度よばれた、するとにわかに生き返られた、という説話がある。もちろん史実ではないだろうが、死者に対して生き返りを願う行為が行われていたのだろう。そのための信仰の祭器として、生命の象徴のような蛇に見立てた剣が作られたのかもしれない。

遼東蛇行剣
 上図のような蛇に似せた剣は、大陸でも紀元前10世紀以上も前から作られていた。遼東に出現する遼寧式銅剣は、刃の形状だけでなく、柄の部分に蛇のペニスを表現するなど、様々な蛇剣が作られている。刃が蛇行する形のものもある。こういったものが、列島に継承されていったのだろう。

参考文献
永尾龍造「支那民俗誌第6巻」アジア学叢書大空社 1937
小林青樹「倭人の祭祀考古学」新泉社2017   
韓国の蛇行剣の写真は、松尾匡氏の撮影によるもの
遼寧式銅剣の図は「倭人の祭祀考古学」より

耳飾り

  伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館 縄文晩期釜の口遺跡の土製耳飾
 
1.耳飾りの美に感嘆する。
 写真は、直径5センチは下らない縄文のピアスの耳飾り。もちろん粘土細工だが、器用な縄文人が作りだした芸術作品のようであり、今でもこのようなデザインの装飾品があっても通用するような見事な作品だと思う。前回に群馬に訪れた際に、榛東村耳飾り館も見学したが、そこで、現在でも大きなサイズ(10cmはありそうな)の耳飾りをする中国の少数民族などにあることを知った。最初は、小さなものから、だんだんと大きなサイズのものに付け替えていくのだが、当然、耳たぶには大きな穴が開いていく。それをはずすと、まるでイカクンのように細長くなった耳たぶが垂れ下がる。その様子にはちょっと引いてしまうのだが。
 
耳飾り館
      耳飾り館はチケットだけ撮影

綿貫観音
  群馬県立歴史博物館 桐生市千網谷戸遺跡縄文晩期土製耳飾

月矢野耳飾り
 月夜野郷土歴史資料館 群馬県利根郡みなかみ町月夜野矢瀬遺跡後期から晩期
 
 各地の博物館に耳飾りはよく陳列されているが、中には、同じ人物の作品かと思うような、あるいはコピーしたかのような、類似のデザインのものが、少し離れたところからも見つかる。ほかの物品と一緒に、この装飾品もやり取りがされていたのかと思われる。
 それにしても、多様な形状、ユニークなデザインのものがどうして作られたのであろうか。これは、現代と同じように縄文の女性もおしゃれを楽しんでいたということだろう。もちろんピアスをする男性もいたであろうが。
 競い合ってより粋なデザインのピアスを求めては、おしゃれを楽しんでいたのではないか。新作が完成すると、みんな集まって感想を言い合っていただろう。また、耳飾りだけでなく、顔料を使ってボディペイントなどもいっしょに描いていたかもしれない。

2.耳飾りも女性の賭けの対象だったかもしれない、というお話。
 老いぼれた頭にはかなりきつい重厚な大作の『万物の黎明』は「人類史をくつがえす」というサブタイトルが付いているが、その内容については今後も参考にしていきたいと思うのだが、その中に次のような一節がある。
「女性のギャンブル 多くの北アメリカの先住民社会において、女性は、根っからのギャンブル好きだった。隣接する村々の女性たちは、サイコロ賭博やどんぶりと梅花石を使ったゲームをするために頻繁に集まっては、一般にはシェルビーズなどの身の回りの装飾品を賭けの対象とするのだった。民俗誌の文献に通じた考古学者ウォーレン・デボアは、大陸の半分を占めるさまざまな遺跡で発見された貝殻やその他のエキゾチックな物品の多くが、きわめて長時間をかけて、この種の村落間でおこなわれた賭博ゲームで翔られたり巻き上げられたりしたあげく、そこにいたったのだろうと推測している。」(P29)
 現代では、普通に男女がギャンブルを楽しんでいるが、古代の女性も装飾品を賭けの対象にして楽しんでいたというのは面白い。そうすると、縄文時代においても、腕輪や首飾りなどと同じように、賭けをして勝った女性が、一番出来の良い素敵な耳飾りを手に入れる、などということもあったかもしれない。
 もう30年も前のヒット曲だが、シンディ・ローパーさんの『Girls Just Want to Have Fun 』は、女の子だって楽しみたい、というメッセージソングだが、同じように縄文時代の女の子だって楽しんで日常を過ごしていたのではないか。そのように考えると、縄文時代の祭祀のためなどと説明されることの多い遺物から、いろいろと異なる想像もできるのではないかと思う。

参考文献
デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロー「万物の黎明」訳酒井隆史 光文社2023

安中イノシシアップ
 安中市学習の森 ふるさと学習館の2階に考古・歴史資料の展示室がある。前回の群馬訪問では、パスしてしまったのだが、今回、見に行ってよかったと思う豊富でユニークな展示資料であった。
 はじめの写真は、四隅にイノシシが表現された土器だが、頭部の形が丸いので、まるで鳥のように見えてしまう。
安中イノシシタワー
安中イノシシ1列

  このイノシシの顔が付いた獣面付土器の破片が、大量に展示されている。(獣面把手ともいう)
 イノシシタワーと言う人もおられるが、可愛らしく見えるイノシシの顔が所狭しと並んでいる。鼻と口だけ見えてニコニコマークのようにも見えるものもあるが、いちおう写実的なイノシシ顔ではある。ただ、牙の表現がないことから、ウリボウか牙の目立たないメスを造形したものと考えられている。そこで、早くにイノシシを飼育していたのではという説もある。

安中四隅イノシシ
 四隅に配置したイノシシは、まるで四天王のような、縄文人の守り神としたものだったのか。それとも狩猟の成果を願う器だったのか。四隅に蛇表現がある土器も、祭祀のためであったのだろう。
安中蛇文

 このイノシシについてのパネルの説明に注目した。
「誰が獣面付き土器をつくったの? それまでの日本列島に具象的な造形物がないことから大陸からやって来た渡来系縄文人が作りはじめたものかもしれません」とあった。あくまで推測のような口調だが、このような考えをお持ちの方があるということが、私には大変興味深いことであった。以前からふれているように、縄文時代の文化の変遷を、あくまで列島内の自生的な発動による変化と見られる方が多い。しかしここでは、渡来系縄文人によるものとされているのだ。四隅に獣面を表現するというそれまでにない画期的な土器の出現を説明するには、こう考えるしかないのではないか。このお考えの方の論考がわかれば読んでみたいのだが。
 彼ら異文化をもつ渡来縄文人がやって来たとすると、他にも独特なものを作っていたのではないか。この中野谷松原遺跡は、大規模な集落遺跡だったが、縄文前期後葉の諸磯b式期には、直径110mの典型的な環状集落が形成されたという。通常の竪穴住居以外に大型掘立柱建物や大型住居も存在し、中央広場には土坑墓群が存在しており、この遺跡から大量の諸磯b式土器が出土している。

安中人面
 顔がけっこう立体的に表現された、いわゆる出産土器のようなものもある。その後ろに、三角壔形(側面が三角形で横に長い立体)土製品のその文様が、蕨手文の対称形になったものも注目。
日の字土器

 漢字の「日」、または「目」とかのように見える文様が、他に、群馬県みなかみ町の月夜野町郷土歴史資料館でみられる。
安中球体

 各種装身具に、丸い玉があるが、よくここまで球体状に磨ぎあげたことだと感心する。でも、身につけると重たくて邪魔な気もするが。
 
 『総覧縄文土器』には、特殊例として、イノシシの獣面把手の頭部に切れ込みを入れ、上面から見るとカエルに見えるよう表現した「二重獣面把手」が中野谷松原遺跡などに存在する、とあるが、写真を見返してもわからない。調査報告書の図版をみても、それらしいものを確認できない。
 縄文土器だけでなく、弥生・古墳時代なども、興味深い物ばかりだが、残念ながらこれぞというものがピンボケが多く、落ち着いて撮影すべきだったと反省。

参考文献
『総覧縄文土器』刊行委員会アムプロモーション2008
群馬県立歴史博物館「縄文文化の十字路・群馬」1998
2024.6.9撮影

縄文刀子
        縄文後期住居跡から出土した青銅製の刀子 (山形県遊佐町三崎山遺跡)
  詳しくは、文化遺産オンライン(こちら)をご覧ください。
刀子図
 縄文時代に青銅器などあり得るのか、とお思いの方も多いはず。研究者の中には、当初、戦時中に中国から持ち帰ったものでは、などという見方もあったが、遺跡からの出土物で間違いないようである。破損しているが柄の端は環であった可能性がある。この形を真似た内反りの石刀が60点余り出土している。
 冒頭の図は、大野遼氏によるアルタイ山脈の西方の平地のアルタイにあるオビ河上流の遺跡、ジプシーの丘遺跡の刀子と三崎山の刀子の比較写真である。不鮮明な点はお許し願いたい。氏は中国殷代の青銅器にも見られる内反りの刀子であり、その起源は北方の牧畜民によるとのお考えだ。上図写真の類似性からも想定できるものだ。
遼寧省青銅器
                 遼寧省王崗台遺跡  2,5が近い形
 縄文時代の晩期に作られた石刀の中に、この青銅刀子に酷似した例があるという。中部地方から北海道にかけて、多数の石刀が見つかっているが、当然ながら、物を切るためではなく、それは、弥生時代の銅剣、銅戈と同様に祭祀のために作られてものであろう。氏は、「日本海を経て、大陸から伝わったものであり、当時の大陸の青銅器文化に対して、縄文文化の中に、いわば青銅器模倣文化というべき影響を与えたと考えられる」とされているのだが、私はこういった説明には異論をもっている。文化の影響といったものではなく、この青銅製刀子を携えてやってきた大陸からの移住民が、銅製品などつくれないこの列島の地で、代替えとして石刀を作り祭祀を行ったのであって、やがて、その子孫たちが列島の各地に広げていったのであると考える。
 縄文時代は長期にわたって閉鎖された空間で、独自の文化が育まれた、といった捉え方が根強いが、実際は、弥生時代の前から次々と移住民によって渡来文化がもたらされているのである。以下に、主だったものを列記していく。

①三内丸山遺跡の円筒下層式土器
 6000年前の東北地方に十和田湖火山の噴火後に移住した人たちによって築かれた。大陸の円筒土器が消滅した頃に出現しており、台湾でも農耕民の移住が始まった時期と符合する。
②刻文付有孔石斧(山形県鶴岡市羽黒町中川代遺跡)
 甲骨文字と類似はあっても一致するものはない。金属器で線刻との指摘。『王』を意味するとする説もあるが。石斧本体も見事な加工がされ、実用品ではなく、威厳を示すものか。大陸の馬家浜文化あたりのものとされるがそうするとおよそ6000年前になる。文字は後世につけられたものか。
③青銅刀(山形県遊佐町三崎山遺跡、縄文後期住居跡) ※同記事のもの。  他に、成興野型石棒がシベリア南部に起源をもつ、鈴首のついた青銅剣に原型があるとする西脇対名夫氏の説もある。
④鬲状三足土器(青森県今津遺跡、富ノ沢、虚空蔵)
 袋状の足をもつ鬲は龍山文化(4500年前)から。今津、虚空蔵のものは朱彩され祭祀用か。
⑤漆塗り彩文土器(山形県高畠町)
 ルーツは仰韶文化の彩陶土器 漆の木そのものも山東省付近が原産地で運ばれた。
⑥玦状耳飾り(富山県極楽寺遺跡、新潟県大角地遺跡、長野県阿久遺跡など
 福井県桑野遺跡はその他の出土装身具も中国遼寧省査海遺跡のものと一致することから渡来集団の墓と指摘。
さらにはウラジオストックの北東地域の遺跡を始原とする考えもある。
 他にも長大な石斧の埋納,土偶の象嵌など指摘されている。また研究者の指摘はないと思われるが、異形の石板や土器の文様に青銅器との類似が見られる。こういった事例についても、今後のところで取り上げていきたい。

参考文献
大野遼氏「北の時代の幕開け 日ソ合同調査計画スタート」窓 1987-09 ナウカ出版 ※刀子写真掲載
浅川利一・安孫子昭二「縄文時代の渡来文化」雄山閣2002
小杉康 他編「縄文時代の考古学1」同成社2010
高山純 「民族考古学と縄文の耳飾り」同成社2010
松本圭太「草原地帯における青銅武器の発達」(ユーラシアの大草原を掘る)草原考古研究会 勉誠出版 2019  ※青銅剣写真掲載

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 図はDNA分析から日本人の成り立ちの研究をされる篠田謙一氏作成の4万年前の海岸線と人類の移動ルートを表したものである。
 この三つのルートが、ほぼ定説のようになっているが、よく見るとこの図には気になる点がある。それは現在の海岸線とともに、氷期の海水面の低下で露呈した地表面の推定の海岸線も描かれている。黄海は丸ごと陸地となり東シナ海もその大部分が海ではなくなっている。②と③のルートの中間に大きく広がる大陸棚のエリアは、およそ1年に2cmほどの海面上昇でゆっくりと後退し、およそ6千年前までに完全に沈んでしまう広大な陸地があった。河岸や海岸線もあるこの温暖な領域に早くから人類は当然の如く居住し、文化を発展させていたであろう。そして、この②と③の中間のエリアから列島へ渡海した人々もあるのではないかと考える。

1.DNAで説く縄文人の由来
 先ほどの篠田謙一氏はmtDNA(ミトコンドリアDNA)のハプログループの研究から「縄文人は旧石器時代に大陸の南北双方の地域から流入した集団が、列島内部で混合することによって誕生」と考えられるとされる。さらに「そもそも縄文人は由来の異なる人々の集合によって列島内で誕生した」ならば「外部に形態の似た集団がいないのも当然のことと解釈できる」とされる。中国大陸に類似の集団がいないからということだが、ここを私は、本来いたはずの集団が移動してしまったので確認できなくなったと考えたい。
 氏はハプログループM7があって三つに分かれ、M7aが主として日本、M7bが大陸沿岸から中国南部地域、M7cが東南アジア島嶼部で、4万年以上前に生まれ、各グループに分かれたのは2万5千年ほど前だという。その起源地は、先ほどの海岸線の後退により「大陸に沈んでいる地域」と言及されている。よってM7aが日本にしか見つからないことになる。
 また北海道の旧石器時代の遺跡から出土する細石刃という石器は、シベリアからの伝播で①のルートと考えられていたが、北海道の縄文人のmtDNAのハプログループはすべてアジア起源であり、北東アジアでの文化的な接触により学んだアジア系の人たちが北海道に到達したとされる。また氏は、日本人のかなりの部分をしめるハプログループのD4aについて、誕生は1万年前ほどで、「この時代は大陸との往来はそれほどなかったと思われますので、このハプログループは弥生時代になって日本に入ってきたと考えるのが自然。」とされる。私はここに異論がある。縄文時代は人の渡来がなかったとの思い込みがあるのではないか。
 
2.あまり考慮されていない露出していた大陸棚と氷期以降の海進
 現生人類は今までのところではアフリカで誕生し、何度も移動が試みられ本格的な移動は4万8千年前に一度にユーラシア大陸に広がったという。そして3万8千年前には列島にも進出する。いずれ新たな発見で変更もあるだろうが。そして、2万3千年前には、海水面マイナス136mとなるが、その後、1万5千年前には海水面の上昇が始まる。1万1千6百年前に突然気温が7度上昇して海水面がどんどん上昇したという、そして7千年前に現在の海水面になる。ところが6千年前に、さらに海水面上昇する。いわゆる縄文海進がはじまるが、5千年前に変動もしながら徐々に海水面は低下していく。現在の海水面に戻るのは古墳時代にはいってからのようだ。
 以上のような変遷だが、縄文海進にあたる中国での表現としては、王・汪氏が後氷期の海進を巻転虫(Ammonia)海進と提唱されているようだ。マレー半島からインドシナ半島の大陸棚で広がった陸地はスンダランドと呼ばれているのだが、この東シナ海に広がっていたエリアの呼称は不明だ。不思議なことに中国の先史を含めた歴史解説書には、縄文海進に該当するような事象が取り上げられていない。
 氷期末には日本の本州ほどにもなる面積の地域をここでは便宜上大陸棚地としておく。縄文時代はおよそ1万6千年前から始まるとされるが、そのころはまだ大陸棚地が広がっていたのであり、それが1万年のもの時間にわたって徐々に海水面が上昇、すなわち海岸線の後退が続いたのだ。
 李国棟氏は、一万年前の前後に外越の人々が上陸し縄文の主役となったとし、早くに大陸棚の人々に注目した。古越人という表現もあるが、越人と言い切れるかどうかの問題はあるが、この現在は消えた大陸棚地から、縄文人となる人々が、少なからず渡来してきたのはあり得ることではないか。大陸棚地からの移住と考えられる事例をあげてみる。

3.海を渡って来た人類
 現生人類の各地への移動は、陸地がつながっているところだけを行き来したのではない。当然歩いては渡れない大河がいくつもあった。そして、各地の様々な海峡、沿岸域を船で渡っている。
 東ヨーロッパの金属器をもつステップ地帯の牧畜民は西へ進出し、既に海峡のできていたブリテン島に四千五百年前に最短でも34キロの海を渡り、大量の移住でストーンヘンジを作った先住民と完全に入れ替わっている。 
 アメリカ大陸への移動は、足止めされていた氷河が後退し無氷回廊ができる1万三千年前が定説であったが、南米のチリのモンテ・ベルデ遺跡が1万4千年前と判明。そして、新たに1万6千年前には北米の沿岸の一部が海水温の上昇で無氷状態になったことがわかり、早くに海岸伝いを船で移動していたと考えられるようになった。
 台湾の農耕民は4千年前にフィリピンに到達し、3千3百年前以降にニューギニアへと渡っている。さらに時代は下がるが、1千3百年前には、フィリピンから9千キロのアフリカ沖マダカスカルに達しているという。
 そしてこの日本でも、対馬ルートも完全に陸地化することはなく、海を渡っているのだ。中国では浙江省跨湖橋遺跡で8千年前の丸木舟が発見されている。列島に船で渡ってくることは、十分可能な事であった。次のような事例がある。宮崎県本野原遺跡の土器の圧痕から、中国南方産のクロゴキブリの卵鞘が見つかったという。4千3百年前より以前に大陸からの移住民の食料にまぎれて広がったものではないかと考えられる。確実に、大陸から、人はやって来たのだ。

4.特異な文化を持つ上野原遺跡の集団
 新東晃一氏は南九州一帯には、他地域と比較して多種多量の「第一級」の草創期遺跡が存在したという。一般的には縄文文化は東日本ばかり目立って、西日本は低調だったという思い込みがあるがそうではなかった。その代表となるのが上野原遺跡であり鹿児島県霧島市東部の台地上に約9千5百年前に定住の村が作られた。その遺跡や出土遺物のいずれもが際立った特徴を持つものだ。まずは貝殻文系筒型土器。縄文土器に四角はめずらしい。また筒形は九州では例がなく、世界的に北方系の土器に多い特徴だという。優れた技法で作られており、現代の陶芸家も「なぜこの時代にこのような技術があったのか」と感嘆する。北方系という点では竪穴住居も特徴的だ。他地域と異なる直径3~5mとやや小さく、回りを垂直に掘られた柱穴が取り囲んでいる。しかも竪穴の外側に建てるという際立った違いがある。また木材を上方で湾曲させて中心に束ねる構造。これはシベリア、アメリカ先住民、モンゴルのパオと類似する。土器も住居も北方系という共通点があった。
 土器に戻ると極めて異例の壺型土器が出現している。調理用でなく穀物などの貯蔵器として使われていたもので、それは稲作が始まる弥生時代の遺跡からしか出土しなかったものが登場したのだ。
 さらには連結土坑という一つの穴で火を焚き、もう一つの穴から出る煙で魚や肉の燻製などをしていたものも多数見つかった。同じものが三重県鴻ノ木遺跡、静岡県中道遺跡、そして千葉県舟橋市飛ノ台遺跡などで見つかっており、黒潮に乗って移動した人々が同じような調理をしたのだろう。この燻製が保存食として大移動に携行されたのではないか。
 装飾品では耳たぶにはめ込む耳飾り(耳栓状土製品)が見つかる。これは中期と考えられていた定説を見直すものであり、しかもいきなり直径12cmのものが出現しているのだ。はめ込み式耳飾りは最初は小さなものを耳たぶを穿孔して装着する。そして徐々に大きなものに付け替える。やがて、飾りを外した時の耳たぶはイカクンのようにだらりと垂れるようになる。こういうことをこの地で突然思いついてはじめるとは考えにくいのではないか。そしてこの耳飾りにはS字や渦巻の文様が施されているのだ。
 石器類は用途に応じた多様な石斧や石鏃、石皿、磨り石など大量に見つかっている。
 「定説を打ち破る新資料続出で、南九州に早咲きの華麗な縄文文化」と説明されているが、そこには大陸文化を持つ移住民の存在は全く考慮されていない。同じ時代の全国の他地域では尖底土器を作っているのに、南九州では貝殻文の円筒形平底の土器を使用していたのは異質で独特な発達という解説でいいのだろうか。
 

5.佐賀県東名遺跡の「奇跡」の技術
 佐賀市佐賀平野の吉野ケ里遺跡の南西方向にある8千年前の遺跡。居住地、墓地、貝塚、貯蔵施設など集落の構成要素がセットで確認される稀有な事例とされる。
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              図は佐賀県東名縄文館、大型編み籠
 編組製品が大量に出土したのも特徴の一つ。ドングリなどを入れていたようだが、全国の縄文遺跡で見つかったものの六割をしめ、しかも最古のものなのだ。ござ目や六つ目といった編組技法のほとんどの種類が存在するという。完成された技法を持った人々が、この地で最初から多種多様な編み籠を作っているということだろう。
 ここからは仮面習俗をおもわせる板状木製品が出土している。5か所の孔があり紐を通して顔に装着していたようだ。縄文早期に仮面の儀礼があったなら、これも最古のものとなる。
 さらにオオツタノハ製貝輪も列島最初の事例。後の富山県小竹貝塚のものは東名からの可能性がある。この貝は伊豆諸島南部以南と大隅諸島、トカラ列島など南洋の限られた島にしか生息しない。問題はこのような貝を重視する南洋の人々がいたのではないか。また列点文を施した鹿角製装身具は他に大分県国東町成仏岩陰遺跡、滋賀県石山貝塚の二例。
 東名遺跡も上野原遺跡も、九州の縄文時代早期の異例の完成された文化の突然の登場なのだ。

6.大陸棚地の流浪の民
 内陸部とはちがって海岸にも面する大陸棚地に早くから北と南の人々が移住し、定着しては独特の文化を発展させ、やがてはこの中心地で水田づくりも始めたと考えられる。漁業も盛んだったはずだ。1年に2cmほどの海面上昇はわずかでも、子供の頃の海岸線が大人になると変化していることにやがて気が付く。そして大潮と大雨や台風が重なったときに深刻な被害を受けることになる。その度に移動を繰り返し、土地の開発や新たな地で祭祀を行った。しかし徐々に海岸線は後退し、山東方面に北上するものや逆に南下するなどの移動を始める集団がでてくる。大陸棚地が完全に水没する6千年前には台湾で突然に水田耕作が始まる。これは行き場のなくなった農耕集団が南下したからと考えられる。さらには台湾から南洋諸島にも進出していく。
 対馬海流は8千5百年ほど前に始まったという説がある。すると大陸棚地がまだ広がっている時には、潮流の弱い穏やかな海面が広がっていたのではないか。船で日本と行き来するのはさほど困難でなかったかもしれない。そうすると、一度や二度でなく、かなりの頻度で、大陸沿岸と日本とを渡りあう海の民もいたであろう。漁民の中には海の東に大きな島があることを先祖から聞いたり自分で確認するものもあったはずだ。1万年前に意を決して九州島にむかった集団もいたであろう。
 上野原遺跡、東名遺跡の事例は、その完成された文化の状況が、持ち込まれたものであることを示す。じりじりとせまる海水面の上昇により移動を余儀なくされ、遂には大移動を開始し、日本に集団で移住するものもあった。適地をみつけて、これまでに培ってきた文化、信仰を継続していったのだ。
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 佐賀県神埼市の各地では「シェーとり祭り」といった汐とり行事が行われている。秋の満潮時に、川辺で榊を川に浸して鉾先につけた天狗面に振りかける、天災除けの祈願だ。東名遺跡の仮面をこれと関連付ける説明もあるが、私はこの汐とり祭りに似たものを大陸棚地でも行っていたのではないかと考える。大陸棚地の海岸は遠浅で、干満の差が激しく、高潮による被害に悩まされて、水の祭祀をかかさず行ったのではないか。
 縄文時代の解説書では『縄文海進』は漁場が豊かになるなどと解説され、そこにはマイナスイメージはない。しかし大陸棚地の沿岸に居住していた人々には、深刻な事態であったのだ。彼らは内陸部の集団とは軋轢を生み、命がけで海を渡り安住の地を探す流浪の民だったかもしれない。
 
 まとめ
①現生人類は3万8千年前に海を渡って列島へ移住し、しかもそれは一度きりでなく何度も行われ、また既成概念の単線ルートではなく大陸棚の広がった各地から渡っていった可能性がある。
②なおも海岸線の後退の中、列島への移住や南下する集団もあった。また対馬海流が始まるまで、容易に移動はできたと思われ、その集団たちが特に九州島で特筆すべき早期縄文文化を咲かせていった。
③6千年前の大陸棚地の消滅と、さらなる海進によって渡海を余儀なくされた集団が各地に拡散した。
④日本人のルーツや縄文時代の文化も、列島の各地に渡って来た移住民の存在を考慮しなければならず、決して日本の中だけで単一の文化が続いたわけでなく、弥生、古墳時代と同様に多元的に見ていかなくてはならない。

参考文献
篠田謙一「新版日本人になった祖先たち」NHK出版2019
篠田謙一「DNAが語る列島へのヒトの伝播と日本人の成立」平成27年度大阪府立弥生文化博物館図録
柳田誠・貝塚爽平「渤海・黄海・東海の最終間氷期以降の海面変化に関する最近の中国における研究」1982
小林達雄「縄文時代 日本発掘ここまでわかった日本の歴史」朝日新聞出版2015
新東晃一「上野原遺跡と南の縄文文化」熊本歴史叢書古代上編熊本日日新聞社
佐賀市教育委員会編「縄文の奇跡!東名遺跡」 山田康弘「縄文時代の歴史」講談社現代新書2019
李国棟「稲作文化にみる中国貴州と日本」雄山閣2015
ディヴィッド・ライク「交雑する人類」NHK出版2018

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