2026年01月16日 土偶についての新解釈をnoteにアップしました 冬芽と葉痕(ようこん)で土偶を読む! 『土偶を読む』は厳しい批判にさらされましたが、植物の形へのこだわりは、重要なことと思えます。 人の顔や体形とするなら不可解で奇妙に見えて用途についても謎の土偶 それが、冬芽と葉痕で少しは解明できるかもしれません。 みみずく土偶のまん丸の目と口の表現も、ここからでは?何故、土偶は壊されるのかについても説明がつくかもしれません。こちらを検索 冬芽と葉痕で土偶を読む ぜひ、ご覧ください。 タグ :#土偶を読むを読む#葉痕#土偶#ハート形
2025年03月24日 縄文の出産文土器についての記事をアップ 縄文土器には、把手なのか、文様なのかよくわからない眼鏡状とか、橋状とも言われている双環突起がついています。土器によっては、そこに腕のようなものが伸びていたり、蛙や蛇の頭のような表現ともとれるものもあります。そして、いわゆる出産文土器にも少し大きめの双環突起が口縁部についています。 この奇妙な突起の意味を、あくまで想像ですが、出産と関係あるものと考えました。note版流砂の古代 こちら にアップいたしました。ひょっとすると、人体の骨格と関係しているのでは? ぜひご覧ください。 タグ :#縄文土器
2025年01月02日 蛇信仰の解説にあった誤解 マムシも卵から生まれる 長野県下伊那郡松川町資料館 顔面把手付土器 頭部がマムシのように造形されている。生きたマムシが土器を這っているように見える。1.マムシの生態についての迷信のようなお話 以前に、次のような信じがたい記述があるのを見つけた。縄文時代と蛇に関するものだが、以下のような説明があった。「マムシは生命の誕生と死に深くかかわる。さらにマムシの胎生の子は、母の腹を食い破って出てくる。縄文人はこうしたマムシを地母神の象徴として崇拝した。梅原猛氏も人の命を一瞬にして奪う恐ろしい敵としてのマムシを、神にすることによって、蛇の害から人間を守ろうとした。」(安田1991) 母蛇のお腹を食い破って子供の蛇が誕生?まさかと思ったが、どうもこの著者は別の書物からの記事を参考にされたようだ。それは藤森栄一氏の『縄文農耕』で、次のような一節がある。「マムシは春、土の中から忽然として現れる。すなわち霊である。そして、特に秋口、藪の中など、いや竪穴内にもネズミなどを追って入ってきて、忽然と人の生を奪う。(中略)マムシが生まれるとき、母マムシはもがき苦しみ、胎生の仔マムシは丸々と肥って、母の腹を食い破って出てくる。原始の植物嗜食民たる縄文中期人が、そうしたものに地母なる神の具現を感じたことは、当然すぎるほど当然である。」(藤森1979) どうも蛇の神秘性を強調するあまりの勇み足ではなかろうか。子蛇が腹を食い破って生まれ出るなどと書かれた爬虫類図鑑でもあったのだろうか。そもそも蛇は卵生であり、それはマムシも同様のはず。ただ、蛇はすべて卵から生まれる卵生ではなく、2割は胎生だということだが、それらは外国種のようだ。(JPスネークセンター2024)。 また、生き物で親が子を食べる、子が別の子を食べる事例はあるのだが、現在のところ、母親を食べるケースとして、昆虫や線虫、それにクモ形類の一部の種にあるという(National Geographicのネット記事)ことだが、まあ、特殊な事例だろう。 では、藤森氏は、どこでこのような情報を得られたのか?別の参考にされた文献に同様の記述があったからであろう。その元ネタと思われるものに、最近になって気が付いた。 それはヘロドトスの『歴史』だった。2.ヘロドトスは、信じがたい逸話、「たわ言」ももれなく記載している。 『歴史』巻三ダレイオスの記事の109のところに次のようにある。「・・・この蛇は一番(つがい)ずつ交尾して雄が受精に入り、精液を射出すると、雌は雄の頸元に噛みついて離れず、これを食い尽くして終うまで離さない。雄蛇は右のようにして死ぬのであるが、雌も雄に対して犯した罪の罰を次のようにして受ける。それはまだ母の胎内にある子蛇が、父の仇とばかり母の体を食うのであって、胎内の子は母胎を食い破って外へ出てくるのである。」 「父の仇」?かのように母の体を食い破るというのは、話を面白くしたのであろうが、この記述を信用して、ご自分の著作に採用されたとすると、残念というか、どうして信用したのかと思う。おそらくは、別に引用された著書があって、そこから孫引きされたと思いたいのだが。 実は、この箇所の直前に、ライオンの出生に関する似たような記述がある。「・・・ライオンの牝は、一生に一度、しかも一頭しか子を産まない。ライオンは仔を産むと同時に子宮をも体外に出してしまうからで、その原因は・・・ライオンの仔は母の胎内で動き始める頃になると、他のどの獣よりも遥かに鋭いその爪で子宮を掻きむしり、成長するにつれてますます深く爪を立てる。分娩が近づく頃になれば、子宮で無事な部分は一つも残らなくなるのである。」 一頭しか生まない子に胎を食い破られていたら、ライオンという種はすぐに絶滅してしまうではないか。この箇所には訳注があって、「アリストテレスはこの部分の記述を『たわ言』だと評している」とある。偉大な哲学者でなくてもわかりそうなものであり、この記述も見ていれば、蛇の場合の記事も信じがたいと思うのが普通であろう。 この『歴史』には、重要な歴史的事項が豊富に描かれているが、一方で、迷信のような記事も多く混ざり込んでいる。ただこれも、当時の古代の人々がそのように信じていたこと、考えていた逸話の貴重な資料として参考にすればいいものであろう。ただ、事実だったのか、作り話かの見極めの難しそうな話も多いようではあるが。3.蛇が神になったのは、獰猛だったからではない。 虚偽を引用された方々は、マムシの神聖たる根拠の説明するにうってつけの事例として取り込まれたのだと思うが、残念ながら事実ではない作り話であった。縄文時代における蛇との関係を強調することは首肯するのだが、いささか安易な引用であった。また、縄文時代の蛇信仰の説明に、ことさらマムシを危険な生物として強調するのも不正確と言え、一瞬にして人の命を奪うという先ほどの説明も正確ではない。実は、マムシの毒性はハブに較べると弱く、人が噛まれて死亡するのは処置に問題があった場合だという。ヤマカガシの方がはるかに毒性が強く危険だという。 どうも、先ほどの方々は、マムシが獰猛であることが神となった理由と理解されているようなふしがある。吉野裕子氏は、蛇の神たるゆえんを、毒性以外に、その形状、脱皮などを挙げておられる。私は、それらに加え、決定的な理由は、出産時の臍の緒が古代人には蛇のように見えたことだと考えている。こちらをご覧ください。 このように誤解、迷信の類いのものをその出典を吟味することなく引用するのは誤情報の連鎖となるもので気をつけたいものと思う。参考文献藤森栄一『縄文農耕』(藤森栄一全集弟9巻)学生社1979安田喜憲『大地母神の時代』角川選書1991ジャパン・スネークセンター『ヘビ学: 毒・鱗・脱皮・動きの秘密 』(小学館新書 481)2024ヘロドトス『歴史』松平千秋訳 岩波書店1971 タグ :#蛇信仰#ヘロドトス#マムシ#縄文土器
2024年10月16日 頭に蛇を戴く土偶の役割、お産に寄り添う土偶 頭部に蛇が描かれている土偶、縄文中期藤内遺跡出土 長野県諏訪郡富士見町井戸尻考古館 たいていの土偶と同じく、下半身と左手が欠損していたのだが、発見者らが木製の土台に固定させたそうだ。 頭に蛇が表現される土偶は大変珍しものだという。 表記はされていないが、次に紹介する土偶も蛇を頭に表現しているのではないかと考えている。 長野県佐久市立望月歴史民俗資料館 浦谷B遺跡縄文時代後期前半 顔も欠けてはいるが、目の表現から少し表情が怖い印象をもつ。 頭部を見ると、同じような形状で描かれており、蛇と考えてよいのではないか。突き抜けてはいないが、先の藤内の土偶と同様の小孔がある。 1.蛇をあやつるシャーマンの土偶なのか? 民俗学の谷川健一氏は、この土偶を沖縄・奄美の事象と比較して「縄文中期において、巫女は自分の侍女の頭にマムシをまきつけて、それが噛まないことを衆人にみせ、自分の威力を誇示したのであったろう」とされている。はたして縄文時代にこのような呪術を行う巫女・シャーマンがいたのであろうか。いたとしたら、では、何のために蛇を使う巫女を表現する土偶をつくったのであろうか。 この左手と下半身が欠けているので全体像はわからないのだが、蛇以外の特徴としては、左目の下に入れ墨、もしくはペイントで2本線が描かれているぐらいだ。この土偶がシャーマンなら、もう少し玉飾りとかの装飾表現があっても良いのではないかと思える。頭には小孔があってそこに鳥の羽を刺していたという表現は考えられているが。どうも私にはシャーマンの姿を造形したようには思えないのだが。縄文の人たちが、なにか具体的な目的を持たせたものではなかろうか。2.出産に立ち会ってもらう守り神 土偶の用途については、様々な説が出されているが、決定的なものはない。『土偶を読むを読む』(こちら)にはその全容が時系列にわかりやすく説明されている。そこにも記されているが、土偶にも時代や地域によって共通する要素をもちながらも異なる目的で作られていると考えるしかなく、縄文人の切実な願い、宗教観による呪術的な祭具であったのではなかろうか。とりわけ、この頭に蛇を戴く土偶は、かなり特別なものであったと考えられる。 そこから、私の単なる思い付きだが、当時の出産の際に助けてもらえる存在としての土偶であったのではと考える。戦前の日本にあった、地域の女性が妊婦といっしょになって、いきんでみせるという習俗のようなものが、縄文の女性たちにもあったのではなかろうか。当時は出産時に母子ともに死亡するような事故も少なくなかったであろう。本人だけでなく、周りの女性たちもいっしょになって安産を祈ったはずである。 蛇は、古代より出産と密接な関係があることを既に説明している(こちら)。前回紹介した『日本産育習俗資料集成』の分娩の項には、産婦に子安貝、またはたつの落とし子をにぎらせる(和歌山県)、といった安産の為の事例が紹介されているが、なかには、まむしの頭を頭髪にはさんでいるとめまいをしない(福井県)、出産時に蛇の抜け殻を腰につけるとよい(群馬県)といった、蛇を産婦の守護的な存在に見立てている事例がある。 土偶の目的・用途の説の中には、早くから安産のお守り説があったが、あまり肯定的な評価はない。私見では、単なるお守りではなく、蛇が描かれた土偶も、妊婦を守り、安産で生まれるためのものであり、なかには、妊婦がこのような土偶を握っていきむようなこともあったのではないかと考える。出産の際に一緒に立ち会ってくれるお守り、そばに置かれて、苦痛を分かち合ってくれる存在としたい。 よって、蛇を頭に戴いた土偶に限っては、出産立ち合い土偶、お産に寄り添う守り神、となるであろうか。ひょっとすると、蛇の表現のない他の土偶にも、同じような使われ方があったかもしれない。あくまで妄想ではあるが。なお実見はしていないが、蛇だけでなく、猪や蛙を頭に載せた土偶もあるという。猪も多産であることが関係するかもしれない。参考文献谷川健一「蛇 不死と再生の民俗」冨山房インターナショナル, 2012望月昭英編「土偶を読むを読む」文学通信2023写真は、井戸尻考古館と望月歴史民俗資料館にて タグ :#蛇を頭に戴く土偶#縄文土偶#安産の守り神
2024年10月10日 縄文の蛇行石剣と古墳時代の蛇行剣 写真は、群馬県渋川市北橘歴史資料館 ガラスケースでの展示で、鮮明には撮れず。 縄文時代後晩期のものと考えられる小さな形の石剣です。出土地は不明のようですが、群馬県前橋市箱田の木曽三柱神社の社宝としてまつられていたとのこと。 全長30センチメートル、柄部長12センチメートル、柄部幅1.5センチメートル、刀身の厚さは0.8センチメートルを測ります。蛇のようにくねり、丁寧に磨かれています。黒光りして、黄色や緑色の模様のある蛇紋岩でつくられている。 縄文人はこの石剣を作った目的はなんだったのであろうか。蛇行石剣ではないが、蛇形の杖を使って呪術を行っていたという民俗事例を紹介する。 「蛇形の杖を以て寝室を打つ」 難産の場合に道士をよんで祈祷を頼むと、多数の道士が来て、三室に神を祀り、その中の一人は、蛇形に彫刻した長さ一尺ばかりの木の棒を持ち、呪文を高らかに唱えつつ、産婦の寝室の周囲を打ちつつ幾回となく歩き廻り、他の道士はその打つ調子に合わせて読経し、笛・太鼓・銅羅などではやし立て、出産を見るまでは幾何の時間を要しようとも、耳を聾せんばかりの音をつづけるのである。これは蛇が、その穴に出入りするのが非常になめらかで且つ自由自在になるにあやかって、胎児もそのように安楽に出産させようとするのである。(永尾1937) 蛇が穴にスムーズに出入りすることにあやかってというのは、後付けの説明のように思えなくもないが、蛇が安産に関わるという点はあり得ることかもしれない。前に、蛇が神となった理由(こちら)に、へその緒が蛇に見立てられたと説明させていただいたが、この蛇形の杖が、無事に新たな生命が生まれるための祭器となるのであろうか。 写真は全州市の国立博物館の副葬品 中央が蛇行剣 時代は変わるが、古墳時代には、副葬品として鉄製の蛇行剣が見つかっている。話題になった奈良県の富雄丸山古墳からは、長さ2.3mのものが出土したが、他に70余りの古墳から出土している。実は韓半島にも4カ所の倭系古墳から出土しているという。 では、蛇行剣が古墳に埋葬されたのはどういう意図によるものか。蛇形の杖は、安産を願うものであったが、それが古墳への副葬の場合は、再生を願うシンボルだったのではないか。人々は亡き人の生まれ変わり、再生を願って、この蛇行剣に託したと考えられないであろうか。 日本書紀の仁徳即位前紀には、弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が自殺をすると、仁徳となる大鷦鷯(おほさざき)が、胸を打ち泣き叫んで、髪を解き屍体にまたがって、「弟の皇子よ」と三度よばれた、するとにわかに生き返られた、という説話がある。もちろん史実ではないだろうが、死者に対して生き返りを願う行為が行われていたのだろう。そのための信仰の祭器として、生命の象徴のような蛇に見立てた剣が作られたのかもしれない。 上図のような蛇に似せた剣は、大陸でも紀元前10世紀以上も前から作られていた。遼東に出現する遼寧式銅剣は、刃の形状だけでなく、柄の部分に蛇のペニスを表現するなど、様々な蛇剣が作られている。刃が蛇行する形のものもある。こういったものが、列島に継承されていったのだろう。参考文献永尾龍造「支那民俗誌第6巻」アジア学叢書大空社 1937小林青樹「倭人の祭祀考古学」新泉社2017 韓国の蛇行剣の写真は、松尾匡氏の撮影によるもの遼寧式銅剣の図は「倭人の祭祀考古学」より タグ :#蛇行剣#縄文時代
2024年07月05日 おしゃれを競い合っていたかもしれない縄文女性の耳飾り 『万物の黎明』から思うこと 伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館 縄文晩期釜の口遺跡の土製耳飾 1.耳飾りの美に感嘆する。 写真は、直径5センチは下らない縄文のピアスの耳飾り。もちろん粘土細工だが、器用な縄文人が作りだした芸術作品のようであり、今でもこのようなデザインの装飾品があっても通用するような見事な作品だと思う。前回に群馬に訪れた際に、榛東村耳飾り館も見学したが、そこで、現在でも大きなサイズ(10cmはありそうな)の耳飾りをする中国の少数民族などにあることを知った。最初は、小さなものから、だんだんと大きなサイズのものに付け替えていくのだが、当然、耳たぶには大きな穴が開いていく。それをはずすと、まるでイカクンのように細長くなった耳たぶが垂れ下がる。その様子にはちょっと引いてしまうのだが。 耳飾り館はチケットだけ撮影 群馬県立歴史博物館 桐生市千網谷戸遺跡縄文晩期土製耳飾 月夜野郷土歴史資料館 群馬県利根郡みなかみ町月夜野矢瀬遺跡後期から晩期 各地の博物館に耳飾りはよく陳列されているが、中には、同じ人物の作品かと思うような、あるいはコピーしたかのような、類似のデザインのものが、少し離れたところからも見つかる。ほかの物品と一緒に、この装飾品もやり取りがされていたのかと思われる。 それにしても、多様な形状、ユニークなデザインのものがどうして作られたのであろうか。これは、現代と同じように縄文の女性もおしゃれを楽しんでいたということだろう。もちろんピアスをする男性もいたであろうが。 競い合ってより粋なデザインのピアスを求めては、おしゃれを楽しんでいたのではないか。新作が完成すると、みんな集まって感想を言い合っていただろう。また、耳飾りだけでなく、顔料を使ってボディペイントなどもいっしょに描いていたかもしれない。2.耳飾りも女性の賭けの対象だったかもしれない、というお話。 老いぼれた頭にはかなりきつい重厚な大作の『万物の黎明』は「人類史をくつがえす」というサブタイトルが付いているが、その内容については今後も参考にしていきたいと思うのだが、その中に次のような一節がある。「女性のギャンブル 多くの北アメリカの先住民社会において、女性は、根っからのギャンブル好きだった。隣接する村々の女性たちは、サイコロ賭博やどんぶりと梅花石を使ったゲームをするために頻繁に集まっては、一般にはシェルビーズなどの身の回りの装飾品を賭けの対象とするのだった。民俗誌の文献に通じた考古学者ウォーレン・デボアは、大陸の半分を占めるさまざまな遺跡で発見された貝殻やその他のエキゾチックな物品の多くが、きわめて長時間をかけて、この種の村落間でおこなわれた賭博ゲームで翔られたり巻き上げられたりしたあげく、そこにいたったのだろうと推測している。」(P29) 現代では、普通に男女がギャンブルを楽しんでいるが、古代の女性も装飾品を賭けの対象にして楽しんでいたというのは面白い。そうすると、縄文時代においても、腕輪や首飾りなどと同じように、賭けをして勝った女性が、一番出来の良い素敵な耳飾りを手に入れる、などということもあったかもしれない。 もう30年も前のヒット曲だが、シンディ・ローパーさんの『Girls Just Want to Have Fun 』は、女の子だって楽しみたい、というメッセージソングだが、同じように縄文時代の女の子だって楽しんで日常を過ごしていたのではないか。そのように考えると、縄文時代の祭祀のためなどと説明されることの多い遺物から、いろいろと異なる想像もできるのではないかと思う。参考文献デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロー「万物の黎明」訳酒井隆史 光文社2023 タグ :#縄文土製耳飾#縄文女性#万物の黎明
2024年06月20日 群馬県西部に最初に現れたイノシシのついた縄文土器 安中市学習の森 ふるさと学習館の2階に考古・歴史資料の展示室がある。前回の群馬訪問では、パスしてしまったのだが、今回、見に行ってよかったと思う豊富でユニークな展示資料であった。 はじめの写真は、四隅にイノシシが表現された土器だが、頭部の形が丸いので、まるで鳥のように見えてしまう。 このイノシシの顔が付いた獣面付土器の破片が、大量に展示されている。(獣面把手ともいう) イノシシタワーと言う人もおられるが、可愛らしく見えるイノシシの顔が所狭しと並んでいる。鼻と口だけ見えてニコニコマークのようにも見えるものもあるが、いちおう写実的なイノシシ顔ではある。ただ、牙の表現がないことから、ウリボウか牙の目立たないメスを造形したものと考えられている。そこで、早くにイノシシを飼育していたのではという説もある。 四隅に配置したイノシシは、まるで四天王のような、縄文人の守り神としたものだったのか。それとも狩猟の成果を願う器だったのか。四隅に蛇表現がある土器も、祭祀のためであったのだろう。 このイノシシについてのパネルの説明に注目した。「誰が獣面付き土器をつくったの? それまでの日本列島に具象的な造形物がないことから大陸からやって来た渡来系縄文人が作りはじめたものかもしれません」とあった。あくまで推測のような口調だが、このような考えをお持ちの方があるということが、私には大変興味深いことであった。以前からふれているように、縄文時代の文化の変遷を、あくまで列島内の自生的な発動による変化と見られる方が多い。しかしここでは、渡来系縄文人によるものとされているのだ。四隅に獣面を表現するというそれまでにない画期的な土器の出現を説明するには、こう考えるしかないのではないか。このお考えの方の論考がわかれば読んでみたいのだが。 彼ら異文化をもつ渡来縄文人がやって来たとすると、他にも独特なものを作っていたのではないか。この中野谷松原遺跡は、大規模な集落遺跡だったが、縄文前期後葉の諸磯b式期には、直径110mの典型的な環状集落が形成されたという。通常の竪穴住居以外に大型掘立柱建物や大型住居も存在し、中央広場には土坑墓群が存在しており、この遺跡から大量の諸磯b式土器が出土している。 顔がけっこう立体的に表現された、いわゆる出産土器のようなものもある。その後ろに、三角壔形(側面が三角形で横に長い立体)土製品のその文様が、蕨手文の対称形になったものも注目。 漢字の「日」、または「目」とかのように見える文様が、他に、群馬県みなかみ町の月夜野町郷土歴史資料館でみられる。 各種装身具に、丸い玉があるが、よくここまで球体状に磨ぎあげたことだと感心する。でも、身につけると重たくて邪魔な気もするが。 『総覧縄文土器』には、特殊例として、イノシシの獣面把手の頭部に切れ込みを入れ、上面から見るとカエルに見えるよう表現した「二重獣面把手」が中野谷松原遺跡などに存在する、とあるが、写真を見返してもわからない。調査報告書の図版をみても、それらしいものを確認できない。 縄文土器だけでなく、弥生・古墳時代なども、興味深い物ばかりだが、残念ながらこれぞというものがピンボケが多く、落ち着いて撮影すべきだったと反省。参考文献『総覧縄文土器』刊行委員会アムプロモーション2008群馬県立歴史博物館「縄文文化の十字路・群馬」19982024.6.9撮影 タグ :#獣面把手#縄文前期#中野谷松原遺跡
2024年05月21日 縄文時代の遺跡から見つかった青銅刀子 山形県三崎山遺跡 縄文後期住居跡から出土した青銅製の刀子 (山形県遊佐町三崎山遺跡) 詳しくは、文化遺産オンライン(こちら)をご覧ください。 縄文時代に青銅器などあり得るのか、とお思いの方も多いはず。研究者の中には、当初、戦時中に中国から持ち帰ったものでは、などという見方もあったが、遺跡からの出土物で間違いないようである。破損しているが柄の端は環であった可能性がある。この形を真似た内反りの石刀が60点余り出土している。 冒頭の図は、大野遼氏によるアルタイ山脈の西方の平地のアルタイにあるオビ河上流の遺跡、ジプシーの丘遺跡の刀子と三崎山の刀子の比較写真である。不鮮明な点はお許し願いたい。氏は中国殷代の青銅器にも見られる内反りの刀子であり、その起源は北方の牧畜民によるとのお考えだ。上図写真の類似性からも想定できるものだ。 遼寧省王崗台遺跡 2,5が近い形 縄文時代の晩期に作られた石刀の中に、この青銅刀子に酷似した例があるという。中部地方から北海道にかけて、多数の石刀が見つかっているが、当然ながら、物を切るためではなく、それは、弥生時代の銅剣、銅戈と同様に祭祀のために作られてものであろう。氏は、「日本海を経て、大陸から伝わったものであり、当時の大陸の青銅器文化に対して、縄文文化の中に、いわば青銅器模倣文化というべき影響を与えたと考えられる」とされているのだが、私はこういった説明には異論をもっている。文化の影響といったものではなく、この青銅製刀子を携えてやってきた大陸からの移住民が、銅製品などつくれないこの列島の地で、代替えとして石刀を作り祭祀を行ったのであって、やがて、その子孫たちが列島の各地に広げていったのであると考える。 縄文時代は長期にわたって閉鎖された空間で、独自の文化が育まれた、といった捉え方が根強いが、実際は、弥生時代の前から次々と移住民によって渡来文化がもたらされているのである。以下に、主だったものを列記していく。①三内丸山遺跡の円筒下層式土器 6000年前の東北地方に十和田湖火山の噴火後に移住した人たちによって築かれた。大陸の円筒土器が消滅した頃に出現しており、台湾でも農耕民の移住が始まった時期と符合する。②刻文付有孔石斧(山形県鶴岡市羽黒町中川代遺跡) 甲骨文字と類似はあっても一致するものはない。金属器で線刻との指摘。『王』を意味するとする説もあるが。石斧本体も見事な加工がされ、実用品ではなく、威厳を示すものか。大陸の馬家浜文化あたりのものとされるがそうするとおよそ6000年前になる。文字は後世につけられたものか。③青銅刀(山形県遊佐町三崎山遺跡、縄文後期住居跡) ※同記事のもの。 他に、成興野型石棒がシベリア南部に起源をもつ、鈴首のついた青銅剣に原型があるとする西脇対名夫氏の説もある。④鬲状三足土器(青森県今津遺跡、富ノ沢、虚空蔵) 袋状の足をもつ鬲は龍山文化(4500年前)から。今津、虚空蔵のものは朱彩され祭祀用か。⑤漆塗り彩文土器(山形県高畠町) ルーツは仰韶文化の彩陶土器 漆の木そのものも山東省付近が原産地で運ばれた。⑥玦状耳飾り(富山県極楽寺遺跡、新潟県大角地遺跡、長野県阿久遺跡など 福井県桑野遺跡はその他の出土装身具も中国遼寧省査海遺跡のものと一致することから渡来集団の墓と指摘。さらにはウラジオストックの北東地域の遺跡を始原とする考えもある。 他にも長大な石斧の埋納,土偶の象嵌など指摘されている。また研究者の指摘はないと思われるが、異形の石板や土器の文様に青銅器との類似が見られる。こういった事例についても、今後のところで取り上げていきたい。参考文献大野遼氏「北の時代の幕開け 日ソ合同調査計画スタート」窓 1987-09 ナウカ出版 ※刀子写真掲載浅川利一・安孫子昭二「縄文時代の渡来文化」雄山閣2002小杉康 他編「縄文時代の考古学1」同成社2010高山純 「民族考古学と縄文の耳飾り」同成社2010松本圭太「草原地帯における青銅武器の発達」(ユーラシアの大草原を掘る)草原考古研究会 勉誠出版 2019 ※青銅剣写真掲載 タグ :#縄文時代の青銅刀子#青銅器#渡来文化