流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 遺跡復元の問題

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 森浩一氏の提言から、古墳の名称を地域名とすることが定着していった。仁徳陵とされた巨大古墳も大山古墳とされたのだが、最近、世界遺産の関係で仁徳天皇陵と言う呼称が、様々な場面で徹底されていくようになった。
 既に語りつくされていることだが、仁徳天皇と出土遺物などの時代が合わないといった指摘から、疑問視されてきたことである。考古学の見解を無視して、既成事実のように特定の天皇陵とすることが、世界遺産として正しいことなのであろうか。

 ここでいくつか問題点について述べておきたい。

1.大山古墳は、複数の王が埋葬されている
 
 近隣の堺市博物館に巨大な石棺の復元模型が展示されている。これは前方部から出土したものだという。この石棺の構造、金鍍金のされた武具の副葬品などから、王と言える首長、人物のものであろう。当然後円部にも埋葬施設があるはずだ。一瀬和夫氏は3人以上の首長、いやそれ以上の人数の埋葬があるのでは推定されている。
 よって古墳は、副葬埋葬が一般的であるのだ。前方後円墳を特定の個人の王名にすることは適切ではない。

2. 坂靖氏『倭国の古代学』(新泉社2021) のご指摘
 
 仁徳天皇のいわゆる「民のカマドの説話」について疑問を呈されている。

 大阪市歌 大正10年4月
♪高津の宮の昔より、よよの栄を重ねきて、民のかまどに立つ煙 
             にぎわいまさる大阪市   にぎわいまさる大阪市
 
 仁徳紀4年 高台に登って見たところ、国中の飯を炊く煙があがっていない。三年のあいだ治政をおこなったが、ますます煙が少なくなっていて、百姓が窮乏していることを知った。・・・・むこう三年間すべての課役をやめ、百姓のの苦しみを防げ」と命じた。
  天皇自身の服も新調せず宮垣が崩れても茅葺きが崩れ雨漏りしても、そのまままにして衣服が濡れた。三年後に天皇をほめ讃える声が満ち、飯を炊く煙が立ち上がった。
 ・・・皇后は愚痴るが、百姓が富裕なら私も富裕である,と言われた。

 鎌倉時代の「新古今和歌集」に次のような歌がある。
 「高き屋に登りて見れば煙たつ民の竈は賑わいにけり」巻第七賀歌、
  という歌を仁徳天皇御製と後付けて収めている。ここではじめてカマドが登場するという。実は、日本書紀は飯を炊く煙が立ちのぼる光景とし、カマドの文字はないのである。
 カマドを使って飯を炊く文化は半島からの渡来人がもたらしたもの。北部九州では4世紀、近畿では5世紀以降に導入され、6世紀代になって広く普及する。仁徳の時代にカマドが広く普及していたとは考えられない。  課役を免除し、天皇が質素な生活を行ったことを含め、これらは「聖帝」を強調するために挿入された説話にすぎない、と指摘されている。 

 渡来のカマドに関しては次のような指摘もある。古事記の大年神(スサノオの子)の神裔についての記述に次のようにある。
 大國御魂神、次韓神、次曾富理神、次白日神、次聖神。五神。・・・・・次奧津比賣命、亦名、大戸比賣神→→
 このオホヘヒメは竈の女神であり、韓神など渡来の神が列記されているのである。渡来人は竈とともに信仰も持ち込んだというのである。

 坂氏は大山古墳に関して、次のようにも述べている。
 古墳が築造され400年以上を経た平安時代に、この古墳が仁徳天皇陵の陵墓と考えられ、管理されていたことはまず間違いない。仁徳天皇は大阪市歌にも歌われている「民の竈」の逸話などで知られる著名な存在であるが、実は5世紀に税を徴収していたという歴史的事実はない。一般層の間にカマドが普及していたという歴史的事実もない。「天皇」は存在せず、中国南朝に朝貢した天王がしたのみである。
 仁徳天皇の存在そのものが危うい。一刀両断である。
 
 そもそも、日本書紀の天皇の記述がつくられたものが多いのである。このような事情をふまえて批判的にとらえる研究が、もっと広がらないといけないのではなかろうか。
 とにかく、大山(大仙)古墳はのままの名称が妥当であろう。

博物館復元
大林組の復元モデルがメインのように展示されている

1.復元案は意見がまとまらないまま、巨大スロープ案がもてはやされた。

2000年に現在の本殿の南側で鎌倉時代のものと推定される三本一組の巨大な柱根、いわゆる宇豆柱が発掘され、「高層神殿」の存在を示唆する発見となった。そして、これを機に古文書の記録や「金輪造営図」注1)などから復元プランが検討されたが、高さの問題、図面の階段の長さなどでの論争の決着はつかず、島根県立古代出雲歴史博物館では、5人の学者さんの自説に基づく復元模型(1/50)が博物館に展示されることになった。
 ところが、その展示の横には、新たに福山敏男氏監修による大林組プロジェクトチームの案による復元模型が1/10という他の5点よりはるかに大きなサイズでこの隣に展示されているのである。そうすると、6種類の復元モデルとなるが、この展示の扱い方からしても、巨大スロープをもつ復元案が何か正当な復元であるかのような印象を受けざるを得ない。インパクトがあるので、マスコミにとっても注目してしまう構造であり、当の博物館のHPでも巨大スロープの神殿がメインとして扱われている。
 しかし、この109mの長さで170段の階段という構造の復元は実在したのであろうか。このようなものが造られたとはとても言えないことを説明する。

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5人の学者さんの自説に基づく復元モデル

2.神殿の高さを断定することはできない。
 
 まずは、巨大神殿の本当の高さはいかほどであったのかという問題だ。実は、残念ながら建物の全高が書かれたものはないのだ。大林組の復元では高さ16丈(48m)となっている。これは、平安時代の源為憲の記した口遊(くちずさみ・児童向け学習書)の「雲太・和二(大仏殿)・京三(平安京本殿)」から、本殿の高さは、焼き討ち前の大仏殿が15丈であったので、大社は16丈あったとみなされたのである。しかし、これには異論があり、この歌は順位を示したものでなく、神社なら大社、大仏は東大寺、建物は平安京を示すとの解釈もある。
 さらに、丈・尺、町の現代換算の長さは妥当なのか、という問題もある。養老令・延喜式では、1尺29.8cm 1歩6尺179cm、1町60歩107mとなっているのだが、古田史学の会の服部静尚氏から、「ものさし」の出土品および伝承品の寸法と、大宝律令の記載からみて、当時の日本においても中国唐と同じく、23〜25㎝の小尺と、28〜30㎝の大尺が並存していたものと考えられる、とのご教示があった。  
 すなわち1尺が23cmであった可能性もあるのだ。この場合だと、高さは36.8mとなり、11mほど低くなる。復元モデルの中では、左端の三浦正幸氏のプランの27.3mよりは9m高く、ちょうど、復元モデルの右隣との中間の高さと考えることもできる。
 実際には、高さ16丈と言うこと自体が推測にすぎず、実際はもっと低かった可能性もありえる。

3.大きな問題は、階段の図面を正しく理解していないのではということ。

 高さが10mあまり低いということであれば、巨大スロープも必要なくなるのである。金輪造営図に、引橋長さ一町と記されていることから、100m余りのスロープが想定されたのだが、実はこれには問題があることが指摘されている。

金輪造営図
金輪造営図 階段の図に「引橋長一町」とある

 引橋の長一町は、誤解による後の記入との説もある。実際に階段部分の痕跡は見つからず、また100mもあれば境内を突き抜けてしまう。さらに金輪造営図は、出土した柱跡から正確に描かれた、まさに設計図であったと考えられるので、引橋の上から見た階段部分も正確な長さを示していると判断するのが適切だ。つまり傾斜は急となるが、距離は短い階段とするのが妥当なのである。

大林組図面
大林組の復元図 平面図では長い階段が描かれている

 実際に大林組の図面では、その平面図に長い階段が描き込まれているのである。このことから、階段の問題では、復元モデルの左側の3点が妥当と言えるのだ。
 長いスロープに50m近い高さの巨大神殿というイメージが強調され、博物館でもこの大林組の復元モデルが「目玉」のようになっているが、こういった行為は、三内丸山6本柱の建物と同様で、古代史に虚構のイメージを植え付けることになるのである。両者には共通する問題点がある。縄文時代に20mもの長さで直径が80cmを超える太い柱をどのように立てることができたのかも納得できる説明はない。同様に、出雲大社の場合、棟持ち柱は42mだという。そのような長さの材木を確保することができたのであろうか。もしあったとしても、はたしてその巨木を立てることができるのであろうか。
 大林組プロジェクトチームさんには、重機でなく人力でどのように立てることができるのかを実験で説明してほしいところである。

4.巨大スロープの根拠に日本書紀の誤読がある。
 
 大林組の解説では、「大国主神の宮殿を造営するにあたり、海に遊びに行くときのための高い階段と、浮橋、そして天の鳥船をつくる約束が交わされたことが述べられているとして、これが100mを超える階段の根拠として説明されている。しかし、これは都合のいい誤読にすぎない。該当の原文を以下に掲げる。

其造宮之制者、柱則高大、板則廣厚。又將田供佃。又爲汝往來遊海之具、高橋・浮橋及天鳥船、亦將供造。又於天安河、亦造打橋。

 宮は、柱を高く太く、板は広く厚くとしている。その後は、田を作って与える、という宮とは別の条件の説明であり、さらに引き続いて、海で遊ぶために、高橋・浮橋などを用意すると言っているのだ。宮殿に高橋を付けるとするのは無理な解釈であって、巨大スロープの根拠にはならないのである。ここは、監修をされた方のアドバイスによるものかと思われるが、あまりに都合よすぎる解釈ではないだろうか。

 以上から、鎌倉時代にあったと考えられる巨大神殿は、三浦正幸氏の左端のモデルが適正であると考えたい。巨大スロープのモデルは、何の根拠もない物であり、かつ図面の誤解によるものであるので、これを中心にアピールすることは見直してほしいと思う。

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手前が三浦正幸氏の復元模型

注1. 「金輪御造営差図」は出雲国造家に伝えられた図面で、本居信長の「玉勝間」に、写し取った図面が載せられた。直径1.3m、3本まとめた棟持柱―宇豆柱が出土したことで、正確な図面であることが明らかとなった。

参考文献
瀧音能之『出雲大社の謎』朝日新書2014
浅川滋男『出雲大社の建築考古学』島根県古代文化センター編 同成社2010
大林組プロジェクトチーム編著『よみがえる古代大建設時代』東京書籍2002

寺社建築文化財の探訪<TIAS>出雲大社の起源と歴史
http://masa4534.blog.fc2.com/blog-entry-125.html
※こちらのHPはこの問題に関して、詳しく説明されておられます。ぜひご参照ください。

 
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新しく立てたトーテムポールに集うカナダのハイダグワイの村人たち(上村幸平氏撮影) 
 
 三内丸山遺跡の巨大な柱穴と木柱痕から、高層の六本柱の建造物を想定することには無理があり、復元されてシンボルタワーのような存在になっている構造物が虚偽であることを明らかにしているが、今回は新たに、古代人の巨大木柱の柱立てという視点で、六本柱の高層建築物が成り立たないことを説明する。六本柱の問題についてはこちらをご覧ください。
 
【1】滋賀県伊勢遺跡の巨大建物の柱穴跡
 発見当初は卑弥呼の時代と関係する遺跡として注目されたが、その後の研究で、100年あまり遡るものであったことが明らかになっている伊勢遺跡ではあるが、その謎の多い建築物の様子から、祭祀に関係する弥生時代後期の重要な意義を持ったものであることは間違いない。さらに、現地では大型建物の柱穴が保存されて、強化ガラスの床面を通して、観察することができる。
 
伊勢柱穴
 
柱穴パンフ
 その柱穴の掘り込みから、古代人がどのように巨大な木柱を立てたのかというやり方を知ることになったのである。図のようなイラスト付きの説明がされているが、柱穴といえば、丸い穴がぽっかりと開いたものと思ってしまうが、実はそれだけではない。細い柱ならともかく、太くて長い木柱を立てるには、それなりの工夫が必要であることがこの柱穴で判明したのである。
 この柱穴は丸ではなく縦長であり、底面に向かって傾斜するように掘り込まれている。最初は不思議がられていたが、やがて大型建物の柱を立てるための工夫として、柱を予定した箇所に導くための掘り込みであったことがわかったのである。柱を持ち上げようとする場合、底面になる突端部は柱の重量が直接かかるので、柱穴の側面にあてて固定するようにしないと、ずれてしまって予定の柱穴の中心に立てられないのだ。
 これを知った時にふと疑問がわいたのである。では三内丸山の場合、その存在を肯定している人たちは、あの太柱をどのように立てたと考えておられるのであろうかと。

【2】三内丸山遺跡の柱立ての方法の信じがたい説明
三内丸山ピット
6本跡
 六本柱をどのように柱立てしたのか、という方法も明確ではないとする疑問の声は早くからあった。これに対し、大林組プロジェクトチームは次のように説明している。
 「長さ16.5m、径1~0.7mの木柱の体積は9.36㎥であり、比重0.7で試算するとその重量は1本が6.55トン」になる巨大木柱である。これを立てるには、「建設予定地点に深さ2m、径1.5mほどの穴を掘り込んでおき、ここへ基部を落とし込むのである。・・・・
 主綱を引く力を一人あたり30キロとすると、これに130人ほどが必要となるだろう。さらにトラ綱(控え綱)を引っ張る人員や下から柱を持ち上げる人員など20~30人が必要となるだろう。もちろんこれだけの員数が一斉に一時に行動するわけだから、これ以外に指揮・指導する者もいたはずである。」
  そうすると、およそ200名ぐらい必要となろうか。果たしてこれは妥当なのであろうか。
「径1.5mほどの穴」としたのは、発掘調査で確認された柱穴が1.5mだからで、このサイズを変更はできない。
 そして、「下から柱を持ち上げる人員」とあるが、どうやって巨木の根元を持ち上げるというのだろうか。
 伊勢遺跡のような掘り込みをせずに、円筒形になっている柱穴に柱を立てるには、困難な問題が起こる。頭部を持ち上げられたとしても、底面となる根元の太い柱を、どのように柱穴に導いて、角度を調整しながら、底部の中心に着地させられるというのか、しかも相手は6トン余りの巨木の根元だ。これが大変困難なことは想像つくことではないか。大林組様、ぜひ、クレーンや重機を使わずに社員さん200人の人力で同じ柱を立てていただきたいものである。
 次に、岡田康博氏の解説だ。「工法も検討された。建て方は現在行われている御柱のような建て方が推測でき、柱穴に一端を落とし込み、✕状に組んだ木を移動させることによって、少しずつ立ちあげる方法である。トーテムポールも同様の方法で建てられている。さらに盛り土や木組みなどの足場を組むことを想定した。」(岡田康博2021)とされる。ここで重要なのは、御柱もトーテムポールも同様の方法とされているところだ。岡田氏は、御柱やトーテムポールの立て方を直接見ておられたのだろうか。ではこの両者の柱立てを見てみよう。

【3】御柱もトーテムポールも、同じ工法で立てていた。
 柱立ての様子を撮影したものは多々あるが、柱穴の形状がわかるものは、解説書などには見当たらなかったが、諏訪郡富士見町高森神社の御柱祭のブログで見ることが出来た。
御柱前
御柱横
八ヶ岳 「ペンションあるびおん」の日々のブログ「御柱祭 2 (高森神社)」より 
柱穴は、まるで古代の埋葬の墓穴のように縦長に掘り込まれて、寝かせた柱がはまるようになっており、しかも斜めに掘られている。これは伊勢遺跡の柱穴と同じなのだ。さらに注目すべきことがある。ちょうど柱穴の側面にそわすように長い板材を立てて差し込んでいるのが分かる。これで、柱の底部を板面に当てることで柱穴の側面の土層に食いこむことを防ぎ、さらに円滑に柱を落とし込むためのものであろう。
 次に、トーテムポールだが、これも撮影されたものがあった。写真は、上村幸平氏のブログでカナダ太平洋岸の孤島、ハイダグワイでの、ポール・レイジング——新たなトーテム・ポールを建てる日の光景だ。
 「チーフ(族長)たちはレガリア(ハイダ族の民族衣装)に身をつつみ、子供たちは久々の晴天のもとではしゃぎ回っている。見晴らしのいい丘の上にはエルダーたちの席が設けられ、長老らがみなを見守っている。」御柱と同じような祭りの雰囲気で立てられているようだ。
トーテム2
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 ここでもトーテムポールは縦に掘られた穴に斜めに入り込んでいる。さらに、その柱穴となる側面にポールの底部が当たる所に板が差し込まれている。まったく御柱と同じやり方でトーテムポールは立てられているのだ。
 六本柱の柱穴はすべて円柱状に掘られている。縦に伸びるような土坑状の跡は見られないのである。岡田氏は、御柱やトーテムポールと同じと断言されたのだが、柱穴の形状などはご存知ではなかったようだ。
 それにしても、御柱もトーテムポールも柱穴に長い板をたてて、柱の先端が当たるようにして、柱穴底面まで円滑に収まるように工夫しているのは注目できる。また、カナダの民族衣装のデザインなどはどことなくアイヌの文様と似ているのも興味深い。日本とカナダの基層文化に共通するものが見えてくるのである。注1.
 余談だが、柱立ての際に板を柱穴に立てるのは、伊勢遺跡でも行われていたと考えられる。よってその説明に細長い板を柱穴側面にあてることを、説明に加えていただくことを検討していただきたい。

【4】伊勢遺跡の工法の事例は、他にもあるのではないか?
 伊勢遺跡の柱立てから、三内丸山の六本柱の巨大建物が虚構であることを重ねて明らかにしたが、一方で、この古代の工法が、他にもあるのではないかと思われた。そのひとつが、三本の木柱を束ねて宇豆柱としたあの出雲大社である。有名な三本の柱が検出された写真はよく見かけるが、実際に柱穴はどうなっていたのか、さらに御柱と違って三本束ねた柱をどのように立てたのかという疑問が湧いてくる。
うずばしら「
 以下のような図面があった。そこには、柱穴の底面が傾斜していることが見て取れるのである。
出雲上から

出雲断面
 奈良文化財研究所の報告書によると、柱の立て方は、A―A´の断面図を見ると、「柱穴が南から北に緩やかに下るスロープを持つことから、南方から搬入して、柱立てを行った」 
 重要な指摘だが、何故スロープ状なのかについての言及はない。伊勢遺跡と同じような方法の柱立てであったと考えられる。また、この三本組の柱は、別々に立てて、後から束にした様子が確認できるのだそうで、三本を束ねてから立てたのではないようだ。さすがに、あらかじめ三本に組んだ巨大な柱を立てるのは困難であろう。 
 なお、大林組プロジェクトは、この大出雲大社の復元においても、柱穴そのものは何の考慮もせずに、架空の巨大神殿建築の工事の説明をしている。  
 これは余談だが、斧の一種である鉄製の釿(ちょうな)が2点、柄を抜いた状態で埋置されていた。バチ状のものだが、先ほどのトーテムポールでも同じような形状のものが、手に持たれているものが投げ込まれる。上村幸平氏の記事には、「トーテム・ポールを建てるのに先立ち、会場にいる人びとに小さなコパー・シールド(銅の盾)が手渡される。ポールの根本に投げ込めという。コパー・シールドはハイダ族にとって重要なモチーフの一つで、建築やアート、アクセサリーなどによく取り入れられている。」これも、出雲との共通の習俗を感じさせるものでとても興味深い。注2.
 他にも、検討が必要な遺構があるかもしれない。いずれにしても、6本柱の柱穴跡はきれいな円形になっており、縦の掘り込みは見当たらないところからも、縄文人がその高層の巨木を立てるなどはしていないことは明らかであり、やはり巨大建築物なるものは虚構の復元であったことを示している。できるだけ早く撤収していただくことを望む次第である。

注1.トーテムポールの始まりは、おそらく家の中の装飾された柱に起源をもつものとされるが、現在に見られるようなものは、18世紀以前のものは今のところ確認できないようである。トーテムポール以外の柱立ても同様の方法で行っていた可能性はある。
注2.細井忠俊氏による、次のような記述もある。ガラスのビーズがまかれたという記述の後に、以前は、深い穴が掘られ、そこに主催者がなにか高価なものを投げ込んだという。絵や彫刻が施された仮面、コッパ―と呼ばれた家族の紋章を描いた銅板紋章でもよかったという。さらには昔は奴隷が殺されて投げ込まれたという。宗教的な意味合いではなく、主催者が高価なものを気前よく手放すことを村人に見せつける行為だった。とされる。ただ、何でもよかったというのは疑問もあり、一定の考え方はあったと考えたい。

参考文献
大林組プロジェクトチーム『三内丸山遺跡の復元』学生社1998
岡田康博『三内丸山遺跡』(日本の遺跡48)同成社2021
奈良文化財研究所第6章 八足門前の調査②(近世以降の遺構) ネット掲載
細井忠俊「トーテムポールの世界 北アメリカ北西沿岸先住民の彫刻柱と社会」彩流社2015
伊勢遺跡公園解説パンフレット

写真
特別史跡「三内丸山遺跡」HPより(柱穴) 
島根県立出雲古代博物館HPより(宇豆柱)
八ヶ岳 「ペンションあるびおん」の日々のブログ「御柱祭 2 (高森神社)」より
上村幸平氏のNOTE「トーテム・ポールにいのちを吹き込む」【ハイダグワイ移住週報#15】より ご提供いただきました。  ※上村幸平氏は大阪出身の若者で写真家。カナダに移住して現地の文化を紹介されるなどの活動を行っておられます。よろしければぜひご覧ください。こちら☛ https://lit.link/en/siroao

八面倉庫模型
 群馬には、八角形古墳が複数見られるのだが、古代の建物にも八角形がある。伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館で、解説パネルと復元模型を見ることができる。
 
八面子供
 伊勢崎市三軒屋遺跡から、礎石があったと判断される柱穴と、その前にも掘立柱式の八角形倉庫が見つかったという。その周辺は、40棟以上の掘立柱建物、15棟の礎石建物が確認され、史跡上野国佐位郡正倉跡に指定された。
八面パネル
 解説によると、「上野国交替実録帳」(役人の引継ぎ文書のようなもの)の佐位郡正倉項には「八面甲倉」(はちめんこうぐら)との記述があるという。甲倉は校倉と同じ意味で、米や宝物の保管するもの。復元建物の説明には、飢饉対策の米を保管する施設とするための工夫もされたとのことだが、さて、米の保管にわざわざ八角形の建物をつくるのであろうか。直径70cmという太い柱を44本も使って礎石も据えるという建物であることから、確かにコメなどの重量物を保管するためと考えられなくもないが、それならば、ほかに倉庫と考えられる礎石建物が多数見つかっているので、そこで事足りるではないか。役所のシンボル、といった解説もされているが、それは何のためなのかはよくわからない。
 難波京の八角殿も、象徴的な建物で内裏の荘厳建築といった同様の解釈があるぐらいで、建物の性格について定まったものはないようである。また、熊本県には鞠智城があるのだが、この場合は、中心にも浅くはあるが柱穴が見つかっており、韓国の二聖(イーソン)山城との類似から、塔のような建物が想定できるので、八角形鼓楼として三階建ての建物が復元されている。これについては、中国や韓国の八角形遺構の例から、祭祀に関わる遺構(上野邦一2016)との指摘もある。
 ではこの八面甲倉はどうであろうか。やはり倉庫とかシンボルといった以上の意味、目的があったと考えていいのではないか。この群馬における渡来人集団の存在からして、韓国の八角形遺構との関係をさらに検討していただきたいと思う。

 この赤堀歴史民俗資料館では、他に、注目したい展示品がいくつもある。
鹿角埴輪赤堀

 これは、衣笠型埴輪とされているものだが、以前に取り上げたが、七支刀にもつながる鹿角をデザインしたものだ。欠損部が多いのが残念だが、大変貴重な埴輪ではないだろうか。

赤堀鶏
 赤堀茶臼山古墳の鶏型埴輪だが、出張中でパネル展示であったが、けっこうリアルな作りになっており、残念だった。またの機会に。いろいろと面白いエピソードなどのある埴輪だが、詳しくは、他のHPを見てください。

赤堀椅子
 ここでは、写真の掲示だけで、実物は東京国立博物館にある椅子型埴輪で、背面(背もたれ)から撮ったもの。直接見たいものだが東京にあるというのはなんともです。この椅子は、騎馬遊牧民の折りたたみ椅子の胡床をデザインしたものと考えられもので、今後のところで取り上げていきます。  

 縄文土器については、別項で取り上げたいと思います。


参考文献
上野邦一「鞠智城の八角形遺構について」古代学(奈良女子大学古代学学術研究センター)2016ネット掲載

岩宿土器

納豆自転車
 相澤忠洋氏の採集した旧石器の数々を見る事ができる。土地を自分で購入して調査を行うといったエピソード、納豆売り用の自転車の展示など、並々ならる苦労をされたことが知れる博物館だが、中には、少し気になる展示品もあって、たまたま菱形のように割れただけの自然石のような気がした。
 
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 それは岩宿遺跡D地点のものなどが、どう見ても人が加工したように見えなかったからなのだが、そこで館内のスタッフにお聞きすると、石器ではないものもありますと返ってきた。
 4万年以前のローム層から採集されたというのだが、これは、素人が見ても加工して刃をつくったように見えないのだが。「よくわかりましたね」と、褒められて?しまったのだが、これは喜んではいられない。説明パネルには「人口品であるのかないのか評価が分かれている」と、小さく書かれているだけである。この博物館を訪れる多くの「専門外」の見学者には、この目立たない説明文に気が付かない限り、本物の石器と思って見てしまうのではないか。これらのものが、同じように展示されていていいものかと思ってしまった。しかも展示室に入った正面の展示ケースにあるのもどうであろうか。岩宿遺跡の石器の出土地層面の展示もあるが、そこには3.7万年以降のものとされている。
 
岩宿地層
 これについては、誰も何も言わないのかと思い、ネットを見ると次のような記事があった。
『史跡ナビ』というHPで、「岩宿遺跡|岩宿博物館で見る、日本列島における旧石器の変遷」 (2024/01/14  最終更新日時 :2024/01/16 跡ナビ編纂室)に以下のようにある。「岩宿遺跡でも立川ローム相当の地層よりも下から、石器と見られる石が発見されました。しかし、これは石器ではなく、石同士がぶつかってできる自然礫だと見る研究者が多く、前期旧石器時代の石器とは認められていません。このような石器は偽石器(ぎせっき)と呼ばれます。」
 そう、これは「偽石器」であろう。明治大学博物館には、青森県北津軽郡金木「遺跡」の「石器」は「偽石器」と表示して陳列されている。
 岩宿博物館は「評価が分かれている」として、展示を続けるのであれば、もう少し、見学者にわかるような解説は必要であろう。もう少し大きな字で、疑わしい石器である旨を明示すべきと思う。
 このD地点以外にも、4万年以前の地層とされるところから採集されたとするものが、約4.5万年前の桐原遺跡、山寺山遺跡、約5.5万年前の不二山遺跡などのものが展示されている。他に、権現山遺跡のものもあるが、これについては、縄文時代の石器との指摘がある一方で、あの旧石器捏造事件で毎日新聞のスクープのお膳立てをされた竹岡俊樹氏などの肯定的な意見もあるようだ。

4万年以前、より正確には3.8万年以前となる旧石器は列島に存在するのか。
旧石器一覧
 現在のところ、図にあるような遺跡で、旧石器が見つかったと言われている。この中には、岩宿遺跡、相澤氏収集のものは、記されていない。もっとも古いものは、島根県砂原遺跡の12万年前のものとのことだが、事実だとすると、人類以前の旧人類を示すものとなるのだが、どうであろう。これらのものも自然石とされる意見は多いようで、現在のところ4万年を遡る確実な資料は見られない、というのが大方の判断のようだ。研究の進展と新たな資料の発見を待つしかないようだ。

 
ツメ形
 縄文土器などの展示もあります。縄文時代初頭の草創期の爪型文土器の破片が展示されており、いかにも人の爪を押しあてた土器の破片である。他にも1階にみどり市の歴史と文化財の展示室があって、縄文土器を多数見る事ができる。
 少し不満は述べたが、ぜひお立ち寄りいただきた博物館である。
ギャオス土器
でべそ土器
                         2024.6.8訪問

 山田康弘氏の『縄文時代の歴史』(講談社現代新書2019)には次の一節がある。
「一つの住居に何人ぐらいの人が生活していたのかという問いに対しては、住居の拡張面積などの検討から、
居住者数=(住居跡の床面積)÷3(人が手足を大きく伸ばしたときの広さ)-1  
という式によって、おおよその数字が求められてきた。引き算される1(一人分)は、炉や柱などが占める面積を考慮・・・・  たとえば、鹿児島県上野原遺跡における早期の住居跡の平均的な床面積(約7.13㎡)からは、早期の住居一棟に2~3人程度の人々が生活していたと推定できる。したがって早期における集落の人口は、一時期に6~7棟の住居があったとすれば、多くとも20人程度であったと思われる。」
                        
 以上のような説明だが、これには疑問がある。そもそも1家族2、3人ならばこの村は、大きな災害などの異変がなくても消滅するのではないか。実際に上野原遺跡の復元住居では、そのなかの家族の様子を展示している。
北相
 写真を見ると、山田氏の計算通りの親子3人の復元だ。住居の中はけっこう広々としているのに、何かとてもさみしい光景ではないか。これは現代の日本の少子化問題を象徴するようだ。また北相木村考古博物館にも、縄文時代早期の長野県栃原岩陰遺跡という洞窟(岩陰)で発見された注目の遺跡の復元がある。獲物を手にした父親と母子の家族三人構成で描かれている。子供は既に大きくなっているので、このまま一人っ子になるのだろうか。博物館には学校ぐるみで子供たちが見学に来ることがあるだろう。子供たちは、はるか昔の家族も自分の家族と同じ状況だったのだと思うことになる。これは現在の少子化の状況に縛られて、古代人のくらしの復元に疑問など浮かばないようになってしまったのではないだろうか。
 サザエさん一家のような家族構成が古代にあったかどうかは不明だが、実際には子供はところせましと4,5人とかいて、さらにお母さんは背中に赤子を背負っている、というのが正しい復元ではないか。もちろん、途中で病気などで亡くなる子供は多かったであろうが。展示では、経費の問題から、そんなにたくさんのマネキンを用意できないという問題もあるかもしれないが。復元は別にしても、家族構成が、住居一棟に2~3人と疑問を持たずに説明してしまうところに、現代の少子化の深刻さがあるようにも思える。そのような固定観念で、古代史を解釈してもらっては、失礼ながら真実には近づけないのではないだろうか。さらには縄文人は全国で人口のピークの中期で二六万人ほどだったと推定されるが、これも基本の家族人数が少なく見積もられていてはかなり怪しい数字となるように思えるのだが、さてどうであろうか。

上野原の住居写真はYouTube【鹿児島観光】 「霧島市国分 上野原縄文の森」より

円窓土器
「弥生時代中期前葉~中葉(紀元前4~前2 世紀)
集落が大きく広がり、南居住域と北居住域、東墓域と西墓域など、集落の基本的な配置が定まりました。北居住域の南側には、環濠・逆茂木・乱杭等からなる強固な防御施設が築かれました」 
 上記は、あいち朝日遺跡ミュージアムの解説であるが、これには疑問があるので説明したい。
逆茂木

⑴弥生環濠の逆茂木(サカモギ)、乱杭(ラングイ)は防衛施設か
 愛知県清須市の朝日遺跡は東海地方最大の弥生集落といわれ、弥生時代争乱の証拠とされた防御施設のある遺跡として有名となっている。環濠の内側に築かれた土塁とその手前の濠、そしてそこに逆茂木・乱杭などのバリケードと、まさに防衛対策を備えた集落のように説明されている。各地の遺跡の復元整備や弥生時代の復元画にも大きな影響を与え、吉野ヶ里の復元も朝日遺跡が参考とされたという。HPにもリアルな様子が描かれている。 
朝日遺跡環濠
 しかし、環濠施設の全体の図では中心のやや左上の丸囲い部で示されているように環濠の一部だけであり、その位置は北側と南側にある集落の谷で分けられた接点に築かれている。集落の東西の側面は墓地が広がり、そこにバリケードのようなものは見当たらない。いったいこの防御施設はどこからの敵の侵入を想定しているのか疑問であり、現地の博物館の学芸員さんに尋ねると、防御施設を疑問視する見解の存在することを説明された。一番のポイントとなる逆茂木、乱杭はこの場所に川が流れており、洪水・水害対策の施設だと調査員の赤塚次郎氏は指摘しているのである。この逆茂木は期間が限定され、流水性の砂層が堆積していることが根拠となるという。また乱杭も数多く設置されているが、実際に先端部が尖った状態で出土した木材はないとのことだ。このような説得力のある「異論」があるのに、なぜ考慮されないのであろうか。
 また先ほどの学芸員の説明では、どうしてこの場所に集落を作ったのか不思議とされている。弥生時代当時のこの地は海岸線が迫っており、濃尾平野を縦に走る複数の大きな河川もあり、たいへん水のつきやすい場所であった。近くに台地もあるが、なぜわざわざ条件の悪いところに集落を構えたのであろうか。この地域は縄文時代からの先住民が多く存在していたようで、新参ものの渡来人は彼らに遠慮して荒れ地に村づくりを始めたのかも知れない。水田を始めるには、水の確保が容易な土地ではあるが、その一方でリスクも伴う地であったのだ。その為に実利的な面でも祭祀面からも、水への対策が切実だったのでしょう。ぽっかりと大きな口を開けた土器が、多数見られるのも、唐古・鍵、清水風遺跡の絵画土器と同様に、荒ぶる水神を祀るためであったと考えられよう。
多数の窓土器
 
⑵転換が必要な弥生環濠についての視点
 では、乱杭、逆茂木と考えられたものは具体的にどのような目的があったのであろうか。これは代表的な弥生時代の遺構のある登呂遺跡について、次のような解説がある。(岡村渉2014)この登呂のムラは地下水位が高いために、地面を深く掘り下げると水が湧きだしてくるので、周囲に土を盛り上げて竪穴住居と同様の構造にする低湿地対応の「平地式住居」を採用したという。住居の平面は小判形をしていて、盛り土が内側に崩れないように羽目板を縦に隙間なく並べ、盛り土の外側にも横木と杭列によって護岸するのだ。水対策の苦労がしのばれる遺跡であった。吉野ケ里遺跡の環濠にも、多数見つかった杭上のものを、いつまでも防御の乱杭などと言う説明からの見直しを望みたい。
 藤原哲氏は、環濠を取り巻く状況をみて、戦争の痕跡と環濠の存在が結び付かないのではという興味深い指摘をされている。武器や殺傷人骨が多い北部九州には集落に伴う環濠は少なく、逆に武器や殺傷人骨などの戦闘の痕跡がほとんど見られない南関東では環濠集落が発達するという事象は、従来から説明されてきた環濠集落=標準的な弥生集落=防御集落という図式は妥当でないことを示しているとする。そして、「弥生時代の戦闘形態は、奇襲や待ち伏せによる小規模で散発的な戦闘が主流であったと評価」したいという。
 集落が環濠による防御状態にあるという戦闘像と、倭国乱といった政治的な現象と直接的に結びつけるイメージは、これを改めなければならない」と結論されているのである。
 氏は日本書紀の記述から、興味深い指摘もされている。それは古代の列島の城郭の少ないことは、乙巳の変において中大兄が「卽入法興寺爲城而備」(即ち法興寺に入り、城として備ふ)などは、常設の防御施設が存在しないので寺院を利用している事情が、傍証になるという。「考古学からも防衛施設が少ない事実、日本書紀は史実をある程度反映」するのだという。検討すべき視点ではなかろうか。

 以上のように従来の弥生時代の定説への疑問、新たな解釈が次々と研究者が発信されていることからも、早急に見直しが進むことを期待したい。


参考文献
春成秀爾編「何が歴史を動かしたのか 第二巻弥生文化と世界の考古学 」雄山閣2023
原田幹「朝日遺跡 東西弥生遺跡の結節点」新泉社2013
久世辰男 「環濠と土塁――その構造と機能――」月刊考古学ジャーナル№511
武末純一 「韓国の初期環溝(濠)の構造と機能」月刊考古学ジャーナル№511   
原田幹  「朝日遺跡 東西弥生文化の結節点」 新泉社2013
橋口達也 「弥生時代の戦い 戦いの実態と権力機構の生成」 雄山閣2007
藤原哲  「日本列島における戦争と国家の起源」  同成社 2018
歴博フォーラム 「天下統一と城」 塙書房 2002
佐原真  「戦争の考古学 佐原真の仕事4」岩波書店 2005
佐原真  「弥生時代の戦争 古代を考える稲・金属・戦争」佐原真編 吉川弘文館2002
文化財保存全国協議会編 「文化財保存70年の歴史」 新泉社2017
藤原哲「日本列島における戦争と国家の起源 」同成社2018
岡村渉「弥生集落像の原点を見直す 登呂遺跡」(遺跡を学ぶ99)新泉社2014

唐古謎動物

『何が歴史を動かしたのか』(雄山閣)所収の、藤田三郎氏の「唐古・鍵遺跡と清水風遺跡の絵画土器」についてふれさせていただく。

⑴防御面が強調される弥生環濠の役割への新解釈
 既に藤田氏は『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』(2019)において、大規模な多重環濠が、争乱だけの理由であったかは疑問とし、運河としての機能、さらにはもっとも重要なことは、ムラを洪水から守ることだとして、集落の周囲に水を迂回させることと排水機能の役割との考えを披露されている。さらには、井戸に龍の衣装の壺が供献されたことから、弥生人が水に対する畏敬の念をもち、時に洪水などの荒ぶる自然の猛威に対し「水神」信仰をもつようになったと考えられるという。
 なにかといえば、弥生時代の遺構は、魏志倭人伝の「大乱」の記事が誇張されて、争いに関わる施設といった面で解釈されることが往々にしてある。環濠に出っ張った箇所があって、そこに柱穴があれば物見櫓があったのだとしたり、環濠遺構の復元に、根拠のない土堤をその周囲のしかも外側に巡らすなどの風潮が今も続いている。そのような中で、洪水対応という視点で弥生環濠を解明されようとしたのは大変貴重な発信であった。今回、氏はさらにもう一歩踏み込んだ論考を出されたのである。

唐古鍵清水風
⑵大量の絵画土器が、環濠に投入された意味
 唐古・鍵遺跡と清水風遺跡の絵画土器は、特に大和第4様式(弥生時代中期後半)に大量に出土しているという。この時期に、唐古・鍵遺跡の北半では、砂層で埋没する「北方砂層」が見られることから、洪水被害の直撃が考えられるという。しかし、その後も環濠を再度掘削をしており、集落として存続させていたようである。また500mほど北方にある清水風遺跡は、この頃に出現したもので、その河跡の洪水砂層に約百点もの絵画土器が投棄されたという。清水風遺跡は竪穴住居はなく、掘立柱建物2棟、井戸2基、河跡2条という状況から、特殊な施設であったと考えられている。それは、唐古・鍵遺跡の人々が、洪水の際に流れの迫る北方に、それを遮るが為の祭祀施設を設けた可能性があるという。
 土器絵画には、龍の表現や鳥装シャーマン、古代人が神獣と考えた鹿などが描かれている。古代人にとっては、川の近くの平地での居住は水田耕作に都合のいいわけだが、リスクもある。雨が多いと河川氾濫、洪水被害を受け、晴れてばかりだと雨乞いが必要になる。治水のための土木工事を行いながら、神への祈りも欠かさず続けたのだろう。岐阜県荒尾南遺跡の多数の櫂を描いた船絵土器も、その目的も、同様のことが考えられるかもしれない。氏の、祈りのための絵画土器の制作と投入が「眼前に展開している激しい流水を鎮めるためのものであった可能性が高い」とされたことには大いに賛同するものである。荒ぶる水神の仕業と考えられた洪水を鎮めるために、多量の絵画土器、祭具が使われたのであろう。清水風遺跡が、水害から守るための祭祀に特化した施設という藤田氏の指摘は、たいへんユニークであり納得できるものである。
 奈良盆地は、日照りが続けば水が不足し、降りすぎると洪水被害に悩まされる地域であった。人々は、雨乞いと増水すれば水神をおさめる祀りといった祈雨祈晴を繰り返していた。今も各地に祈雨祈晴の民俗事例が多数見受けられる。そこにシャーマンもいたであろう。その姿を、環濠に投入された絵画土器に見る事ができるのではないか。

⑶治水、祈雨祈晴の視点で見直してほしい古代史
 古代人にとって、洪水だけではなく、逆に雨が降らなければ、雨乞いも行い、適正に農地の水の配分ができるように、また物資の船での運搬のために溝の増設などを行い、その度に神に祈りを捧げたであろう。こういった視点での、各地の遺跡の解釈、復元の見直しを行ってほしいものがいくつもある。
 環濠を防衛面だけ強調して説明するきらいがある。これについては、吉野ケ里遺跡の復元の問題点(こちら)について述べさせていただいた。合わせて、大阪府高槻市安満遺跡弥生環濠の意味不明な土堤は根拠のないもの(こちら)であることも指摘した。さらに、愛知県朝日遺跡環濠では、防御面からでなく、出土遺物を洪水対策という視点で説明される研究者もおられるので、あらためて述べさせていただく。
 ほかにも、青銅器などの埋納も、出雲の神庭荒神谷の大量の埋納も含め、天変地異への対応という視点で、検討してほしいし、巨大古墳の造営も、荒れ地の開墾、治水工事との関係などで見る事も必要かと考える。

 参考文献
春成秀爾編『何が歴史を動かしたのか 第二巻弥生文化と世界の考古学 』雄山閣2023
藤田三郎『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』新泉社2019

土器絵画の写真は、唐古・鍵考古学ミュージアムのパネル掲示のもの
図は田原本の遺跡4 弥生の絵画 田原本町教育委員会

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