流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 誤解、誤読の古代

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   写真は群馬県前橋市柏川歴史民俗資料館 実物大?の落し穴模型

 古事記や日本書紀の説話には、当時の民俗から取り入れられたものがあるという事例を取り上げます。

1. 落し穴猟の底にある杭の目的は?

 縄文時代には、罠用の落し穴が列島全体で100万基を超えると予想されている。しかも単発的でなく、同じエリア内に連続的に落し穴を設けている状況が見てとれる。一つや二つの落し穴では、獲物はかかってくれないからだろう。博物館には、よく上図のような落し穴に落ちてしまった獲物が描かれる。先端を尖らした杭が落し穴の底部に差し込まれており、そこに落ちた獲物の胴部に突き刺さって仕留めるというという様子の再現だ。やや残酷とも思ってしまうのだが、ただこの場合、仕掛けをしたあとに人は待機せずに放置して、動物が落ちた後に確認して確保するやり方だ。実際に、縄文時代の落し穴を調査すると、底部に1カ所から複数の杭跡のような穴が見受けられる。そこから、獲物が落ちた瞬間この先がとがった杭に刺さるというものだが、これについては異論が出されている。
 「一見、槍のような殺傷目的を思わせるが、なかには深く地面に刺さり込んでいない例もある(中略)槍が機能した場合に、血のにおいを嗅ぎつけた他の動物に狙われる可能性があるので落し穴にむかない。開口部の覆いを下から支えるための棒あるいは、陥し穴にかかったシカが坑底に脚がついた場合跳躍して逃げるのを防ぐため、体を宙にうかす可能性」(大泰2007)があるという。
 納得できる指摘であろう。たしかに、落ちた獲物が尖った杭に刺さって出血したら、カラスや他の肉食獣などが真っ先にやって来るだろう。殺傷の為ではなく、落ちた獲物の自由を奪うためであり、杭によって脱出できなくなった獲物は、すぐに殺傷してから穴から引き出すことになる。そして、罠にかかった獲物は死んでしまったらすぐに処理をしないと、体温を持つ内臓がすぐに傷みだし、さらに血液も影響して肉がまずくなってしまう。
 だから、仕留めた獲物はまずは血抜きをして、さらに肉と内臓を分ける解体作業を手早く行わなければならない。よって、先を尖らした杭を底に立てた罠を作って、いつかかかるだろうと放置しておくことはありえないと思われるので、博物館の展示にあるような解説には見直しが必要ということになるのではないか。
 
2.落し穴猟は、待ち伏せではなく、追い込み猟
 獲物の対象となる猪や鹿などは、大変敏感な生きものであり、人間が掘った穴などもニオイで察知すると思われる。茅野市尖石縄文考古館HPには、「放置しておき動物が落ちるのを待つ罠猟」との説明があるが、これでは獲物の確保は難しいかもしれない。
 落とし穴は単にケモノ道やその近隣に設置しただけでは、人が造ったという不自然さとヒトの気配を容易に察知され、簡単に避けて通り過ぎられてしまうと思われる。イノシシは移動中も掘り返し行動を伴いながら餌を探しているため 、地表面の変化には特に敏感だという。
 縄文人は、獲物の集まりやすい草原を作るために火入れによって、自然環境を変えてきたという。火入れによって生み出される草原的植生は、シカ・イノシシが嗜好する餌植物を多量かつ集中的にもたらすのだという。
 そこで、樹林帯と草原帯の狭間に落し穴をめぐらし、合わせて間伐材などで誘導柵も設置しての追い込み猟があったと考えられている。罠にかかってもらうためには、餌を用意したり、犬を使ったり、また松明の火も利用して追い込んでいったのであろう。
 ただ気になることがある。この落し穴猟は旧石器から縄文時代に見られるものであって、弥生時代以降は検出されていないというのが、通説になっている。だが弥生時代になっても、みんながみんな米作りだけ行っていたわけではなく、狩猟採集を生業とする人々もいるはずだ。しかるに弥生時代にみつかる数多くの土坑は、貯蔵の為の土坑と説明されている。
 東京国立博物館HPには、「綾羅木郷遺跡(山口県)からは小ぶりな打製石鏃が出土しています。明確な落とし穴は見つかっていませんが、イヌを使った追い込み猟や落とし穴猟が行われていたと考えられます。」という説明がある。いささか微妙な説明だが、落し穴猟は皆無ではないと考えられてはいるのだろう。実は古事記や日本書紀には、落し穴猟との関係をうかがわせる記事が見受けられる。(続)

加耶馬レプリカ
  写真は、群馬県前橋市大室古墳群の公園内大室はにわ館展示の個人の作品

 任那日本府とは、加耶の王族らによる組織であって、けっして、日本の倭国の出先機関でもなければ、軍事組織でもない。日本府が登場するのは、日本書紀だけであり、しかもその中の欽明紀のわずか10年ほど間に記載されているにすぎない。また、雄略紀には、「日本府行軍元帥」という日本が冠された言葉が一度だけ登場するが、これも、任那王が窓口となる組織であった。(こちら参照)日本府の構成メンバーに日本の地名などと同じ名前の人物も見られるが、だからといって列島の日本人とできないのである。
 日本書紀が描いた日本府の記事は、その内容表現が煩雑なこともあって誤読、誤解による拡大解釈がされてきたと言える。以下に、日本府が登場する欽明紀の記事から説明していきたい。
 
1.記事から見えてくる実体
 この日本府が絡む記事は、百済聖明王とその配下のものによる口語文が延々と続くという冗長で読みづらい箇所となっている。書紀編者もミスを犯したようで、2年の「秋七月」が重出しており、岩波注が「集解」は翌年7月と修正していることにふれている。最初の秋七月が長文であることが要因かもしれない。この聖明王の長すぎる言葉は、同席した書記官が忠実に記録したものとは考えにくく、一定の史実をベースに造作されたものと考えてもよいのではないか。少し長くなるが、記事の特徴など指摘できるところを述べていく。注1

①任那日本府の設立に関するものなどの説明は皆無である。
 ただし、所在を推測できそうな記述がある。それは二度登場する安羅日本府だが、別のものとする理解もあるが、ここは日本府の所在地が安羅国内であるとの表現と見てよいのではないか。
 欽明紀(以下省略)4年12月「河內直・移那斯・麻都等猶住安羅、任那恐難建之」(かわちのあたい、えなし、まつらが、いつまでも安羅にいるならば、任那再建は難しいでしょう)とあるように、日本府のメンバーは安羅に常駐していたことからも判断できる。

②日本府が倭国の領地を示す記事などはなく、逆に倭国とは独立した存在であることを示す記事がある。
 13年5月「高麗と新羅と連合して臣の国と任那とを滅ぼそうと謀っています。」(救援軍の要請を受けて)天皇は詔して、「百済の王・安羅の王・加羅の王・日本府の臣らと共に使いを遣わして、申してきたことは聞き入れた、任那と共に心を合わせ・・・」とあることからも、任那諸国と同列の存在であった。

③日本府は半島の勢力の中で主導権をもつ存在としては描かれていない。
 任那諸国と同列の存在として描かれ、そこに上下関係は見いだせない。いわゆる任那復興会議の構成メンバーとして描かれている。また、半島における倭国の代行者でもパイプ役でもなく、その役割は常に百済が行う。
 2年4月、百済に安羅、加羅、多羅、日本府の吉備臣ら集合し、聖明王が天皇の言葉を伝えている。
 2年7月、百済は新羅に行った任那の執事を呼びつける。他に5年3月など、百済リードで進められる。

④一方で、百済の指示に忠実というわけではない。
 4年12月、5年1月には、任那も日本府も百済からの招集に神祀りを口実に応じないことがあった。なかには、百済が加耶地域に進出するための先発隊の組織と言った解釈もあったが、それは成り立たないと言える。

⑤百済は文物の供与で懐柔することもあった。
 2年4月「(聖明王が)物贈る。みな喜んだ」 6年9月「呉から入手の財物を、日本府の臣ともろもろの旱岐にそれぞれに応じて贈った」とある。手ぶらでは百済の思惑で動く相手ではなかったのではないか。

⑥百済は、倭国を上位の国として扱っているようでありながら、都合の悪いことは従わないこともあった。
 4年11月、倭の津守連が百済に詔。「任那の下韓(あるしからくに)にある百済の群令(こおりのつかさ)、城主(きのつかさ)は引き上げて日本府に帰属させる。」
 しかし、百済にとって任那進出の戦略的拠点であることから、百済は倭国の要請には従わず、むしろその正当性をアピールしている。天皇を引き立てているようで現実問題では従順ではない。

⑦5年11月の聖明王の提案する任那復興の戦術の言葉に、軍事支配の意図が見える。
 「新羅と安羅の国境に大きな河があり、要害の地。敵の五城に対して、吾はここに六つの城を作ろうと思う。天皇に三千の兵を請うて、各城に五百人ずつ配し、わが兵士を合わせて、新羅人に耕作させない・・・」
 ここでは、百済の主導で倭兵を用心棒なような扱いで利用しようとする姿も見られる。

⑧百済による反新羅の主張が繰り返される。
 2年7月「新羅が任那の日本府に取り入っているのは、まだ任那を取れないから、偽装しているのである」と、聖明王は日本府に語り、新羅に取り込まれることを警戒する。ここは、日本府は新羅との接触が見られることへの百済側の危機感の表れと言えるのであって、当の百済も伽耶を虎視眈々と狙っているのである。

⑨任那も日本府も、新羅を直接に訪れて和平交渉も行っている。
 2年4月「前に再三廻、新羅とはかりき」 2年7月「安羅に使いして、新羅に到れる任那の執事~」

⑩遅れて登場する印岐彌(いきみ)については奇妙な一節がある。
 5年11月「日本府印岐彌謂在任那日本臣名也既討新羅、更將伐我」(日本府のいきみがすでに新羅を討ち、さらに百済をも討とうとしている)は、百済聖明王の言葉であるが、日本府の官人の印岐彌は、新羅・百済のいずれも討とうとして、任那を守る立場で行動しているといえる。

⑪天皇は、任那や日本府に積極的に強力な働きかけを行ってはおらず、終始一貫して「任那を建てよ」と繰り返しているだけである。「建任那」は21件登場するも、日本府の記事がある期間は、なんら軍事的行動が見られないのである。

⑫百済は日本府構成員の一部の排除を要求している。
 5年3月「阿賢移那斯・佐魯麻都は悪だくみの輩」と、百済は彼らを非難しているが、以下のように「倭国に帰れ」とはいっていない。
 5年3月「移此二人還其本處」5年11月「移此四人各遣還其本邑」
 つまり、彼らは、新羅に統合された狭義の任那である金官加耶国、さらには百済が侵入した下韓あたりから安羅に移った王族や官人ではなかろうか。さらに、百済からの麻都らの排除要請にも関わらず、倭国が対応することはなかったようである。
 百済本記からの引用で、5年10月、「所奏河內直・移那斯・麻都等事無報勅也。」(百済が奏上した三者の排除については返事がなかった)、とあることから、そもそも倭国に権限などなかったことになろう。

⑬日本府は欽明紀13年(552)までには消滅か
 欽明紀12年には百済は高麗を討って漢城を回復し平壌も討ったとある。しかし翌年には放棄し、新羅は漢城に侵攻する、とある。この前後に新羅は攻勢をかけて、おそらく加耶へのさらなる支配を強めたと考えられるので、その際に日本府も機能を停止したと考えられる。加耶そのものも欽明紀23年(562)に滅亡となる。

2.「日本府」という呼称について
 どうしてもその呼称からは、列島に進出した倭国のなんらかの機関、政庁のようにとらえられそうであるが、その実態は、日本書紀では任那と記される加耶の組織であったのである。
 日本府の主要メンバーの一人である佐魯麻都は加耶の高位の人物であって、おそらくは、新羅や百済の侵攻にあった金管加耶国とその周辺域から逃れて来た王族と考えるが、彼らが安羅に任那諸国の調整役としてのなんらかの連合体、亡命政府といった短期間の組織が造られたのではないかと考える。
 ここで「府」を名乗っているが、その用語には政庁以外の使用例もあったのではなかろうか。顕宗紀の記事には「官府」がみえる。
 顕宗3年是歳、紀生磐宿禰、跨據任那、交通高麗、將西王三韓、整脩官府
 「紀生磐宿禰が任那から高麗へ行き通い、三韓に王たらんとして、官府(みやつかさ)を整え自らカミと名乗った」
 他には神功紀に「封重寶府庫」、仁徳紀に「宮殿朽壞府庫已空」など「府庫」という倉と理解された記述がある。
 また、垂仁記には「阿羅斯等以所給赤絹、藏于己國郡府。新羅人聞之、起兵至之、皆奪其赤絹。是二國相怨之始也」とあって、任那のアラシトが倭からもらった赤絹を自国の群府(くら)に収めたが新羅に奪われたことで、それが両国のいがみ合いの始まりとされる。つまり顕宗紀や垂仁記などの例から、任那国内に役所などではない施設の意味での「府」の表現があったと考えられる。
 そもそも、「日本府」については、書紀編集時の造作と考えられる。その当時に存在して使用されたとは考えにくい用語などが使われている例がいくつもある。たとえば、欽明紀の韓半島記事の中に、聖明王による仏教伝来に関する記事が見られるのだが、書記の岩波注には、8世紀初めに中国で翻訳された『金光明最勝王経』の文が用いられており、明らかに書紀編者の修飾があるとされている。   
 こういったことから、日本ではなく○○府といった別の呼称があったと考えられる。雄略紀の「日本府行軍元帥」も、おそらく同じような事情のものであろう。

3.任那日本府の記事が示すもの
①「君父(きみかぞ)」の国
 最後に、執拗なまで「任那を建てよ」という言葉が繰り返された意味について述べてみたい。同じ欽明紀23年正月に、新羅が任那を滅ぼすとの記事があり、その年の6月に天皇が新羅への怒りの言葉を述べている。そこに「報君父之仇讎、則死有恨臣子之道不成」(君父の仇を報いることが出来なかったら、死んでも子としての道を尽くせなかったことを恨むことになろう)との言葉を発している。「君父の仇」とはどういうことであろうか。これは、滅ぼされた加耶と倭国との実際の関係を表しているのではない。加耶は、倭国の領地といったものではない。
 これが意味するのは、天孫降臨の出発地が、加耶の地域であることを示しているに他ならない。半島の倭人を中心とする勢力の一部が列島に移住して建国をすすめたということではないか。だから、加耶である任那が君父の国であったということになろう。
 だが、本当に任那を建てる(再建)ことを願っていたのは、現地の加耶の人々であったはずである。つまり、日本府の構成メンバーや加耶王の佐魯麻都こそ、任那を建てろ、と最も切実に繰り返し訴えていたのではないだろうか。 

②欽明紀の日本府を含む前半の記事は、なぜそのように書かれたのか?
 日本府に絡む記事は、読みづらく迷宮に入るがごとくの難解なものである。まずは、任那や日本府が、倭の領地、半島支配の出先機関といった観念を一旦除いて読解する必要がある。注2
 そして、書紀の記事は、百済本記からの引用が多くなされているように、百済側の意向が強く反映した記事であること。そこには反新羅が繰り返し描かれ、その新羅に対抗して加耶諸国の支配を目論む百済の正当性が描かれている。百済は、倭国の天皇の「任那を建てよ」との詔を受けて、百済自身も任那への侵攻を目論んでいたことは表面には出さずに、任那の安羅や日本府に繰り返し訴えるなどの努力をしてきたが、なかなか言うことをきいてくれない状況の中、ついには戦闘に敗れ横暴な新羅によって支配されてしまった、という百済の弁明の記事であった。
 書紀の編集には、渡来系の人物が多く関わっていると考えられ、百済系の人たちは、滅亡した母国から大量に移住して、この地で生き抜くために、故国のプライドを捨てて、ヤマトを上位にして、古来より百済は献身的に尽くしてきたというストーリーを作り上げた。一方で、先進的な文化、技術、仏教などを百済が持ち込んだという史実を盛り込んだのではないか。日本書紀には、そのような編集も加えられていると考えたい。
 また、加耶は倭国から独立した存在であり、百済と新羅の挟撃に遭いながらもあくまで独立を維持しようと抵抗していたのである。このような視点で見直すと、聖明王の冗舌な言葉の真意など難解な半島関係記事を理解できるのではないだろうか
 さらには欽明紀のみならず列島関連記事の多い継体紀なども見直せば、新たな理解も得られるのではないかと考える。また、日本の場合も同様だが、半島の地名の同定や人名の問題などまだまだ見直さなければならない課題は多く、さらなる検討は必要であろう。 

注1. 参考にさせていただいた中野高行氏の『古代日本の国家形成と東部ユーラシア〈交通〉』のまとめとされている主なものは次のようである。
①倭が恒常的な軍事基盤を任那に保有していたことを示す記事はない。
②日本府の官人が関与したのは外交のみであり、任那諸国の内政への発言権も持っていない。
③任那諸国の王や貴族代表とする「合議体」が恒常的に存在したことを示す記事はない。
④日本府は朝鮮三国、任那諸国に対しても倭国の公的な代理機関ではなかった。
⑤倭王権が日本府を設置したとか、その構成員を任命したとか、派遣したとかの記事はない。
⑥原史料の「在安羅諸倭臣等」に「府」の字はなく、日本府を官庁とする根拠はなくなる。その実態は任那に居留する在地性の強い倭人集団である。(中野2023)
注2. 古田武彦氏は、任那日本府そのものについては、九州王朝に属するものと言った見解を繰り返されているが、欽明紀の記事を踏まえて日本府そのものを分析し論じられたものは見当たらず(百済本記の資料の性格について、河内直に関して触れられている程度)、さらには、任那と日本府を混同されて表記されている。

参考文献
佐藤信「古代史講義」ちくま新書2023
田中俊明「加耶と倭」(古代史講義所収)ちくま新書2023 
前田晴人氏「朝鮮三国時代の会盟について」(纏向学研究第9号2021)
武田幸男「広開土王碑との対話2007」白帝社 2007  
門田誠一「海からみた日本の古代」吉川弘文館2020
中野高行「古代日本の国家形成と東部ユーラシア〈交通〉」八木書店2023
河内春人「倭の五王」中公新書2018
河内春人「古代東アジアにおける政治的流動性と人流」専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 3 号 2017年
東潮「倭と加耶」朝日新聞出版2022
仁藤敦史「古代王権と東アジア世界」吉川弘文館2024
末松保和「任那興亡史」1949

エジプト曳航船
    セティ1世王墓壁画 王の喪船を曳く従者

 古事記仲哀天皇記の押熊王の反乱という説話では、神功皇后が危険を予知し、御子が亡くなったとの偽情報を流し、喪船を用意して出航して敵に臨むという一節がある。敵を欺くための皇后による策略であるが、実はこの箇所が古来より見解の分かれる所となっており、そこで、ここに一つの解釈を提示したい。

1.理解しにくい「赴喪船將攻空船」(喪船におもむきカラ船を攻める)の一節(※空はウツホ、などの訓みあり)

於是、息長帶日賣命、於倭還上之時、因疑人心、一具喪船、御子載其喪船、先令言漏之「御子既崩。」如此上幸之時、香坂王・忍熊王聞而、思將待取、進出於斗賀野、爲宇氣比獦也。爾香坂王、騰坐歷木而是、大怒猪出、堀其歷木、卽咋食其香坂王。其弟忍熊王、不畏其態、興軍待向之時、赴喪船將攻空船。爾自其喪船下軍相戰。

 「息長帯日売命(オキナガタラシヒメ=神功皇后)が、反逆の心を抱いているのではないかと、人々の心が疑わしかったので、棺を載せる船を一艘用意して、御子(後の応神天皇)をその喪船にお乗せして、まず「御子はすでにお亡くなりになった」と、そっと言いもらさせなさった。こうして大和へ上ってこられる時、忍熊王は、軍勢を起こして皇后を待ち受け迎えたが、そのとき喪船に向かってその空船を攻めようとした。そこで皇后は、その喪船から軍勢を降ろして相戦った。」   
 「喪船に向かってその空船を攻めた」という箇所は、喪船と空船は同一のものか、それとも別の船なのか議論の分かれる所であった。しかし、喪船にむかってその無人の船を攻めた、と解釈するのは奇妙であろう。その喪船には御子を乗せて、さらに皇后の軍勢も乗せていたはずである。しかし敵はその喪船を攻めるのだが、実は空船だったとするのは奇妙である。襲撃前に途中で降りたので襲撃しようと近づくと無人の船であった、とでもしないと話が通じないのではないか。
 この空船については以下のような注釈がある。「からの船、人の乗っていない船、と解釈されてきたが、ウツホフネと読んで、母子神がうつぼ船に乗って、海浜に出現する、という古代信仰に由来すると見たい」(次田真幸1980)とある。だがここは戦闘の場面であり、事前に皇后は策略として、皇子は亡くなったとの偽情報を流して喪船を用意するという周到に準備された話であって、それを空船が信仰と関係するという考えでは説明にならないであろう。
 国文学者尾崎知光氏は、喪船と空船は別の船として捉え、喪船は攻めないとする想定にはまって、別の空船を攻撃したところ、不意打ちをくらわされる、という流れが自然だとする(2016)。そのように説明されながら尾崎氏は、「赴」を告げるという意味で解釈されている。

2.船が二隻であったとすることの意味。
 日本書紀持統紀七年二月に「來赴王喪」(まうきて王の喪をつげまうす)といった用例から、この「赴」を告げるという意味にとらえ、神功側が喪船と告げたので空船を攻めたのだという。これから戦闘になるという段階で、近づく敵にどうやってこの船が喪船であると相手に知らせたのであろうか。船に棺が積まれて、葬送儀礼としての飾りが施された船ならば、遠くからでも喪船であると認識できるはずではなかろうか。よってこの解釈は無理があろう。
 一方で島谷知子氏は、尾崎氏の説にふれながら、喪船と空船を同一とみない立場は、訓みの面で問題を残すとされている(2014)。   
 「喪船に赴き攻めむとするも空船なりきと訓む」のが穏当な解釈とされるのだ。だがこれだと、皇后側の兵士がどこから現れたのかという説明がつかないのである。喪船と空船は同じ一隻なのか、それとも別々の二隻であったのか堂々めぐりとなってしまうが、ここは以下のように考えたい。
 この箇所は、いささか言葉足らずであったので、決着のつかない表現になったのではないか。私見では、喪船と空船をセットで考えれば問題は解決すると考える。つまり、空船とは、喪船を曳航する動力船で、喪船はいわばバージ船となる。敵は、喪船には棺に入った遺体しかないと思い込んでいたからこれは無視して、喪船を曳航する空船を攻めたのではないだろうか。
 このようにとらえれば、喪船に近づいて空船を攻めるという表現で問題はなくなる。もちろんこの場合、曳航する空船は全くの無人ではなく、最小限の漕ぎ手は搭乗して船を走らせているのである。古代においても別の船が曳航するという事例がいくつか見られる。

3.喪船が陸地だけではなく、水上でも曳かれていた可能性
 仁徳記には、皇后が酒宴の準備で、御綱(みつな)柏(かしわ)を採って御船に積んで戻る時に、天皇が八田若郎女(やたのわきいらつめ)を娶ったと聞いて怒り、御船の御綱柏を全て捨てて山代国に戻る一節がある。

卽不入坐宮而、引避其御船、泝於堀江、隨河而上幸山代。
すなわち宮に入りまさずて、その御船を引き避(よ)きて堀江に泝(さかのぼ)ぼり、河のまにまに山代に上り幸(いでま)しき。

 注釈では、「引き避けて」は、船を綱で曳いて皇居を避けての意、とされている。つまり皇后の乗る御船は、曳航されていたのである。
 隋書倭国伝には、「葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽くに、あるいは小轝(くるま)を以てす。」とあるように、喪船を引く習俗があったことが記されている。
喪船移動復元
 奈良県巣山古墳では、喪船と考えられる板材が見つかっており、被葬者の棺を載せた喪船を修羅で古墳まで曳いたと考えられていた。ただ残念ながら現在は準構造船などとの解釈がされているのだが。さらにこの喪船が、どうやら河や海で別の船に曳かれていた事例も見つかっている。ピラミッドの脇から見つかった二隻の太陽の船である。
 「船の舳先が二隻目のものも西側向きだった、帆柱と帆布見つかった、帆柱を受ける留め金(ブロンズ製)も見つかった。そしてオールを漕ぐのに使う金属の留め金が見つかっている。・・・このことで何が解るのかと言うと、東側の第一の船と今回発見された西側の第二の船はつながれて航行するということだ、しかも二隻が縄でつながれていたため、前方の船が引っ張る役目、すなわち動力船で、後ろが神や王が乗る客船ということになる。これは王家の谷などで太陽の船が描かれる時こういう形がとられているのだが、今までほとんどの人が気づかなかった・・。」(吉村作治2018)と説明されている。
 つまり、太陽の船は喪船であってもう一隻の船で曳航されるのである。曳航される船は、現代ではバージ船と呼ばれて通常の船では運搬しにくいものを運ぶ特殊な形状の船のことである。阿蘇ピンク石の石棺を運ぶ実験でも、石棺の運搬方法を検討して、棺を別の筏のようなものに載せて、「海王」が牽引するという方式が採用されたのである。まさに喪船を曳くイメージとなる。

4.残る問題、兵士はどこに潜んでいたのか?
 以上のように、問題の箇所は喪船とそれを曳航する空船というセットで捉えることで理解は進むのだが、まだ疑問は残る。それは何故、押熊王側は喪船ではなく、牽引する船を攻めたのかということである。牽引する船は、漕ぎ手は数人いたとしても、空船とされたようにそこに皇后や主力の兵士の姿は見えなかったはずなのだが、彼らがこの船にいると考えたから襲撃したのである。
 ところがそこに相手はいなかった。一方で喪船には兵士が多数潜んでいたのであるが、押熊王側は気が付かなかった。棺を積んだ船であるが、その棺を囲むような部屋を作って、そこに待機したとするなら、かなり大きな構造物を上に載せないと無理であり、それでは敵に怪しまれてしまう。では大勢の兵士は喪船のどこに潜んでいたのであろうか。
沈没船
 地中海では紀元前1300年前のウルブルン沈没船が発見されて復元図がつくられた。そこには、船底に船倉があって、大量の交易品が積まれていたのである。このタイプの構造船であれば、お宝の代わりに大勢の兵士を潜ませる事ができる。そう考えれば空船を攻めたのも、外見上は漕ぎ手しか見えないが、中に皇后や兵士が潜んでいると判断して、喪船には目もくれず攻め込もうとしたのではないか。そして、喪船の方は、棺が積まれているだけであったが、実は甲板の下の船倉に大勢の兵士が待機していて、期を見計らって出陣したのであろう。
 このように考えると、皇后の策略が分かり易くなるのではないか。だが当時の日本に、兵士を潜ませるような構造船があったかどうかは不明であり、実際に喪船で敵をごまかすことなど困難であろう。これは、作者があくまでそのように考えたとするだけのつくられた話であって、史実といったものではないのである。

5.トロイの木馬のプロットが使われた古事記の説話
 難解な「赴喪船將攻空船」(喪船に赴き空船を攻める)も、同一の船ではなく、牽引船と喪船のセットであって、しかも両船とも大勢の兵士を潜ませる船倉を持った構造船であったと解釈できるが、言葉足らずで、解釈の落ち着かない説話になってしまったということではないだろうか。
 神功皇后の策略は、トロイの木馬に似ているといわれている。兵士がこもった喪船が木馬に相当するのであろう。喪船には誰も乗っていないと考えてしまったために、まんまと敵地に入り込めたのである。実は、トロイの木馬は、誤訳であって、実際は馬の飾りを着けた船であったという説がある。先端が馬頭であしらわれた大型船に兵士を潜ませて台車に載せて敵の城へ置いたとするなら、まさにこの古事記の一節とより近い話となるのではないだろうか。トロイの木馬のプロットを応用してこの物語はつくられたと考えられ、さらに、この箇所の作者は兵士が隠れる空間を持つ大型船を理解している人物であったのではないか。このように記紀の説話には、日本古来の伝承が採録されたという以外に、中国のみならず西方の文化の情報をよく知ったものが、その作成に関わったと考えられるケースが存在していると考えられるのではないか。
   ※「トロイの木馬と神功皇后の戦略」もご覧ください。

 参考文献
次田真幸「古事記全訳注」講談社学術文庫1980
島谷知子『息長帯比売命と品陀和気命の伝承』学苑879号昭和女子大学2014
尾崎知光「古事記讀考と資料」新典社2016
吉村作治「太陽の船復活」窓社2018
ブログ「Hi-Story of the Seven Seas水中考古学者と7つの海の物語」

喪船の図はYouTube「古代の「喪船」見つかった巣山古墳 葬送に利用か 奈良県広陵町」より
エジプト絵画は河江肖剰氏のエジプト考古学YouTube「セティ1世王墓を大公開!巨大王墓に残された壁画と冥界の旅〜#7」より
ウルブルン沈没船の図はブログ「Hi-Story of the Seven Seas水中考古学者と7つの海の物語」より

衣笠と七支刀
 七支刀については、埴輪の例もあるように、鹿角をモチーフにした霊剣であったと考えるが、ではその霊剣がどのように倭国にもたらされたのか、百済との関りで私見を提示したい。

1.銘文の一般的な解釈
表  泰和四年十一月十六日丙午正陽造百練銕七支刀出辟百兵冝供供侯王□□□□作
裏  先世以来未有此刀百済王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世
なお、泰和の和は、始・初   百練の銕は、鋼・釦 侯王の□□□□作は、永年大吉祥
済が慈   聖音が聖旨  旨造がうまく造る 伝示後世が傳不□世  などの諸説あり。
①年号について
 日本書紀では、神功52年の記事で120年の繰り下げで西暦372年と考えられている。また古事記は応神の時代の記事になるが、ここに肖古王とあるので、即位期間の346~375年のこととなる。東晋の泰和4年が369年なので妥当なところとなる。泰始、泰初の年号はいずれも3世紀となるので無理であろう。
なお泰和四年(369)については、百済が東晋に朝貢したのは372年なので、その3年前に中国の元号が使用されることに疑問もあるが、朝貢開始以前より何らかの交流はあったと考えられる。また七支刀を制作したのが百済に来た中国、もしくは旧楽浪郡の漢人であれば、年号を銘文に入れても不思議ではない。中国からの文化人、工人などの技術者、僧などが、倭国にもやって来たことは疑いえない。江田船山古墳鉄剣銘文の張安、漢籍を多用した武の上表文、倭の五王讃の司馬曹達なども考えられる。
②侯王とは?
 様々な解釈があるが、その中で上田正昭氏が侯王に着目され、百済王が「侯王」となる「倭王」に与えたものとの説がある。南斉書百済伝に弗斯侯などがみえるのだが、古田武彦氏は南斉書の扱う時代が5世紀前後であることから、疑問視され侯王どおしの対等の関係とされる。ただ私見では、対等とも少し違う関係を想定していることを、後に述べたい。
③百済王世子奇生聖音は人名か?
 「寄」という百済王の世子(世継ぎ)が倭王に贈ったとの理解が一般的だが、早くに複数の研究者から、奇生が貴須、聖音を王子の発音のセシムの転化とし、ゆえに王子の貴須(近仇首王)のこととされている。注1 この「奇生聖晋」が近仇首とはできないとしても、372年当時の百済王世子は貴須であり、彼が倭王のために作ったというのは妥当な解釈となろう。近仇首王(貴須)は近肖古王(346~375)の治世に、王子として七支刀を倭王のために作ったとなる。

2.書紀の七支刀記事と孫の枕流(とむる)王
 次は、日本書紀の神功皇后紀の七支刀の記事である。
五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及、當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰「今我所通、海東貴國、是天所啓。是以、垂天恩割海西而賜我、由是、國基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。」自是後、毎年相續朝貢焉。
 『久氐(くてい)らは千熊長彥に従ってやってきた。そしてななつさやのたち、ななつこの鏡一面、および種々の重宝を奉った。そして「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。(中略)この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と申し上げた。そして孫の枕流王に語って、「今わが通うところの海の東の貴い国は、天の啓かれた国である。だから天恩を垂れて、海の西の地を割いて我が国に賜った。これにより国の基は固くなった。お前もまたよく好を修め、産物を集めて献上することを絶やさなかったら、死んでも何の悔いもない」』
 久氐らが七支刀などを献上する記事であるが、ここで久氐が「聖朝に奉る」と述べた後に、孫の枕流王に語るのであるが、これは妙である。久氐「等」とあるので、久氐以外に数名の同行者があったと考えられ、その中に枕流王もいたということになろうか。なぜ最初から名前を出さないのかという疑問もあるが、さらに「孫」と記されている。久氐が枕流王の祖父とは考えにくい。枕流王は近肖古王(照古王)の孫にあたるので、久氐なる人物の言葉は、実は当時の百済王である近尚古王の言葉だったのではないか。「死んでも悔いはない」という台詞は、死期が近づいていることを自覚したものの言葉と考えられる。3年後に尚古王は亡くなっているのだ。この場に百済王がいたわけではないので、事前に、おそらく半島の百済国の中で、出立の際に孫に語った言葉ではないだろうか。そうすると、この一節の冒頭にある、七支刀の献上記事は、久氐が倭の千熊長彥に渡したのではなく、百済の地で、斤尚古王が、孫の枕流王に、倭国で活躍するように念じて、その助けとなる霊剣を持たせたのではないだろうか。そして、枕流王は久氐らといっしょに、七支刀などを携えて、倭国にやって来たのではないだろうか。
 この「孫」に語った内容をみると、助けてもらっている貴国のために「汝當善脩和好」、よくヨシミをおさめるようにと語っている。この「脩める」は、百済から送られる王子(後に質(むかはり)とも呼ばれる)への言葉として何度も登場する。枕流王は百済が送った最初の質となる人物であったと考える事ができよう。百済王は孫によく脩めるようにと語っているのだが、この「脩める」は、支配とまではいかないが、統治、管理の意味である。列島に渡って、おそらく倭王権に入り何らかの役割を担うこととなったのである。この点については、今後の武寧王に関する記事で、説明していきたい。
 
3.百済と倭の通交開始から七支刀までの記事への疑問
神功紀の記事の中間に魏志の引用があり、その後になにやら付け足されたかのように百済との修好の記事がある
神功46年 卓淳国が斯摩宿禰に、百済人の久氐らが貴国との通交の意のあることを伝える。
     さっそく斯摩宿禰が遣使を百済国に送り、百済肖古王は歓待した。
  47年 百済の貢物が新羅に奪われたとして、千熊長彥を新羅に派遣
  49年 荒田別ら、兵を備えて新羅を撃破 七つの国を平定。さらに忱彌多禮(とむたれ)を百済に賜う。
      千熊長彥と百済王が辟支(へき)山、古沙山に登り盟約。
  50年 皇太后多沙城を賜う。
  51年 千熊長彥に百済王父子は額を地にすりつけて拝み、感謝の意を述べる。
  52年 久氐らが来訪。七支刀、七子鏡など重宝を献じる。聖朝への誓いを述べた後に孫の枕流王への言葉。
 このあとには、百済王、皇太后の甍去記事などで終わっている。
 以上のように神功皇后紀の後半は、百済一辺倒の記事になっており、しかもその内容は疑問だらけなのである。
 まず、通交の始まりから不自然と思われる。百済の方が倭と交流したい意思を発しているのである。そうであるのになぜか、倭国の方がさっさと遣使を百済に送るというのが妙だ。また百済への遣使を即決しているようにみえる斯麻宿禰とは何者なのかもよくわからない。
 翌年47年にはなぜか新羅といっしょに朝貢している。そして百済はその新羅に自分の貢物を奪われたという。
次の49年では、新羅を討って七国平定というのが疑問。さらに忱彌多禮も百済に譲ったというのだが。額面通りに事実と受け止めるのは無理であろう。倭が戦い取った国を、国交を開始して3年目の百済にやすやすと賜うとは、全くもって理解できないのではないか。
 さらにこのあとに、千熊長彥と百済王の二人が、山に登り誓いをたてる。百済が倭のために朝貢を続けるという辟支山の盟約だが、本当なら百済王が倭国に行って誓わなければならないのでは。中国の泰山封禅の儀と同じで、立場が逆になるのではないか? 50年も同様で、なぜ倭の領土を譲与するのか?
51年はさらに奇妙。辟山盟約に続いて、今度は百済王親子が、地面に頭をつけて千熊長彦に拝むという。どこまで百済は卑屈になっているのか。52年の七支刀の記事は上述した通り。
 以上のように、この神功紀の後半は疑問が多く、一定の事実を扱うもかなり造作されて差し込まれた記事ではないかと考えられる。製作されたのが369年なのに倭国への献上が3年後の372年というのも妙であり、本当は、作られてすぐにもたらされたのかもしれない。注2 
 百済が枕流王を送り込んでいることからも、もっと早い時期から、記事にはないだけでいくつものやりとりがあったのではなかろうか。神功皇后紀前紀には、新羅討伐の記事があるが、新羅敗北によって、様子をうかがっていた百済と高麗の二王が、倭に服従するといった潤色と取れる記事が登場し、貴国に通交の意思を語る神功46年の記事と矛盾するのである。この箇所も額面通りに受け取れないであろう。
 百済と倭国との知られざる関係の中で、百済王が、王子や孫を倭国に派遣するという慣習が、七支刀を携えた枕流王から始まるのではないか。つまり、七支刀の倭国への献上品というのは書紀の筆法であったと考えられる。それは献上されたものではなく、また対等の立場で百済王が倭国の王に贈与したということでもない。七支刀はやや奇抜な刀の儀器であり、これが単に百済から倭国に贈られても、どのように扱ってよいものか困惑するであろう。よって、七支刀はその霊力を招く霊剣の御加護を受けるために、倭の地で好を修める枕流王が持たされて渡って来たと考えたい。もちろんその霊剣は、倭国で祭祀に関わるものが預かったであろう。やがては、その七支刀は物部氏の管理することとなって石上神宮に保管されるようになったのではなかろうか。

注1.佐伯有清氏は、西田長男氏や三品彰英氏の説を挙げながら「百済王世子貴須王子」とされる。
注2.田中俊明氏は、「伽耶と倭」で久氐と千熊長彥の往来が多すぎることから、神功49年に出発して、52年に続くとされる。つまり作られた七支刀をもって、すぐに倭に渡ったと考えられる。3年のブランクは解消する。

参考文献
佐伯有清「七支刀と広開土王碑」吉川弘文館1977
古田武彦「古代は輝いていたⅡ」(コレクション20)ミネルヴァ書房 2014
東潮「倭と伽耶」朝日新聞出版2022   
河内春人「倭の五王」中公新書2018
中野高行「古代日本の国家形成と東部ユーラシア〈交通〉」八木書店2023
仁藤敦史「古代王権と東アジア世界」吉川弘文館2024
川崎晃「古代学論究―古代日本の漢字文化と仏教」慶応大学出版2012
鈴木勉・河内國平「復元七支刀」雄山閣 2006 
田中俊明「伽耶と倭」(古代史講義海外交流編)ちくま新書2023

  
 

俀
 隋書の倭が俀と表記されていることについて、これは倭国のことではなく、俀国という別の国があったという解釈が繰り返されている。だが、一般的には俀は倭に修正されて記述されている。岩波文庫も『隋書倭国伝』である。図書館で「隋書俀国伝」と検索しても出てこないところが多いのではないか。この俀の字は異体字の類いと考えられる。この点について述べてみたい。

1. 俀と倭は同じもの
①俀奴国は倭奴国と同じ。
 隋書では「安帝時又遣使朝貢謂之俀奴國」とある。ここは後漢書の引用であり、当時は倭は「イ」と発音。奴は「ヌ」であるので、「イヌ」国が妥当。注1 もしこの俀奴国が別の国とされるなら、関係する他の漢籍資料と出土した金印の文字と齟齬が生じる。後漢書では「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀」とある。この年代が57年であり、光武帝から賜与された金印に刻された委奴国であり、これは真印であるならば倭奴国と同義だ。北史では「安帝時又遣朝貢謂之倭奴國」であり、はじめから倭になっている。北史は隋書の内容をほぼ踏襲しているが、誤字などは訂正している。さらに他に多利思北孤の北は比としているが、この点については後述する。舊唐書では「倭國者古倭奴國也」とあり、倭国がかっては倭奴国であったと説明されている。宋史(至正5年1345)でも「日本國者本倭奴國也」とされて、日本国はもともと倭奴国であったと記しているのである。そして通例として倭国と称されている。よって隋書倭国伝と称されて何の問題もない。
 さて、俀が別の国だとする方は、この俀奴国はどう訓むのであろうか。タイヌ国とするのであろうか。やはり俀は倭に変えてイヌ国と訓むのが自然だ。そして5世紀以降の俀国は、ワ国と訓む。

②俀の字は、卑字、弱弱しい国といった蔑む表現でもない。
 俀を弱いの意味で使用したのは後世の可能性が強い。例えば倭も中国側が蔑むような卑字といった説明を見聞きするが、これも疑問である。隣接する半島の国々の名はどうなのであろうか。高句麗や新羅、百済に蔑むような意味はない。なぜ、倭国だけ貶められるのか、その根拠はない。隋は高句麗を三度も攻めたが、勝てずに甚大な被害を被っている。唐も新羅に対し、半島統一の為に多大な援助をしたのにもかかわらず、裏切られてしまった。それでも国名表記は変わらない。俀がタイと訓まれることから、大倭がタイイなので俀に変えたというのも成り立たないのではないか。ちなみに、古田武彦氏も当初は俀を別の国とされていたが、後に大倭国の意味に変えておられる。

③俀は倭の異体字と考えられる。
 中国側は隋書に関しては俀の字を倭に書き換えている。そして百済伝の倭の表記の後に校注(注釈)を入れている。
 其人雜有新羅高麗倭等 「倭」原作「俀 」。按:古從「委」和從「妥」的字,有時可以通用。如「桵」或作「㮃」,「緌」或作「綏」。「 俀 」應是「倭」字的別體。本書煬帝紀上作「倭」。本卷和他處作「 俀」者,今一律改為「倭」

 つまり、倭と俀の違いは、この漢字の右上の禾(ノギ)が爪(ツメ)となっていることである。同じような例として、㮃(ズイ、ニ、イ)が桵となり、緌(ズイ)が綏となっているのを、「禾」のある漢字に訂正しているのだ。このように爪(ツメ)を禾(ノギ)に訂正しており、俀、桵、綏の三つは同音同意の異体字として、本来の字に戻されているのである。執筆者、もしくは転写をした人物が、これら異体字を同義の漢字として使っていたのだが、これを他の人物も間違いではないのでそのままにしたということではないか。
 漢籍には異体字といったものが、いくつも存在している。たとえば、三国志には高句麗と高句驪という表記がある。この場合も、別の国であったなどと言えるのであろうか。俀国も実は倭国と同じで漢字が違うだけにすぎない。俀国とあってもワ国と読むのである。

2. 多利思北孤の北は比の誤記の可能性
①異体字だけでは考えにくい誤記が多数存在する隋書
 「漢籍電子資料庫」で「原作」で検索すると膨大な数の漢字の修正が検出される。異体字もあるが、その多くは、同音による書き違えや、文脈や他の漢籍を参考にしての書き換え、単純な書き間違えの修正など様々である。隋書で少し例を挙げてみる。
「建」原作「達」、 「預」原作「頂」、 「如」原作「加」、 「刃」原作「刀」、 「夕」原作「名」、
「政」原作「正」、 「導」原作「遵」、 「大」原作「六」、 「斗」原作「升」、 「干」原作「于」、 
「紐」原作「細」、 「爟」原作「權」、 「官」原作「宮」、 「瑞」原作「端」、 「人」原作「入」、 
「寇」原作「冠」、 「冶」原作「治」、 「勒」原作「勤」、 「州」原作「川」、 「巨」原作「臣」
 以上はほんの一部である。その中に、火を犬注2とした間違いもあれば、比を北としたタリシヒコの例もあるのである。このような事例は隋書に限らず、多数の漢籍で同様の状況がある。

②間違われやすい北と比 
           ヒコ
 現在は、北という漢字の一画めの横棒と二画めの縦棒が交差することはないが、古代においては、ほとんど、横棒に縦棒が貫くように書かれている。魏志倭人伝もすべて北は、二画目が突き抜けている。これが比の字と間違う要因になるかもしれない。先ほどの修正の中にも、「比」原作「北」の例が、後漢書に一カ所、宋書は二カ所、舊五代史に一カ所、金史に一カ所、宋會要輯稿は五カ所も存在するのである。また逆に、晋書と舊唐書では、比を北に改める例も一つずつ存在する。
 このように比と北は、お互いに誤記される可能性が非常に高いのである。

③古田武彦氏も「比」は否定されていない。
 いうまでもないことだが、ヒコは彦、比古、日子、毘古などと王、貴人の名前として使われている。魏志倭人伝にも卑狗がある。ホコという名前があっても、それは特殊な事例ではないか。
先ほどの付録の隋書読み下しでは、「南史ママ(北史)では多利思比孤とする。『北』は天子の座するところであるから、多利思比弧という当人が、敢えてした『誇称』がこの『多利思北孤』であったのかもしれぬ。」とされている。これはつまり、古田氏も本来の名がヒコと認めていたということではないか。
 ちなみに後漢書には次のような訂正がある。『東夷倭奴國王遣使奉獻 按:「王」原作「主」』この箇所では主が王の書き間違いであることは明らかだ。これをもって倭奴国に主という人物が遣使を行った、などとは言わないであろう。隋書は日本では語られないことが記された貴重な資料ではあるが、上記のような問題も含んでいる書であることは踏まえなければならないと思われる。
 
 ただ、俀については問題は残る。使用例が極めて少ない漢字だが、 舊唐書には、吐蕃が700年に阿那史俀子をテュルク国に派遣するとの記事がある。この俀子が倭子であったのかどうか、また、史記には魯の宣公俀が君主となる記事もある。そうなると、俀は、ほとんど使用されなかった独立した漢字として存在していたが、その一方で、異体字として、倭と同義で使われたとも考えられるが、このあたりは、今後、要検討としておきたい。

注1.正木裕氏のご教示による。五胡十六国以降は「(‐a)ゥワ」でそれまでの古代は「(‐i)ヰ、イ」と発音。
注2.「犬を跨ぐ」は、およそ犬での事例は見られず、日本と世界には多数の火に関わる婚姻儀礼が存在すること、火を大と誤記した事例もあることから、火を犬と誤認する可能性もあり、ここは「火を跨ぐ」が適切。

宝塚船
京大衣笠
 上図は、三重県松阪市の宝塚古墳の船形埴輪、下は京都宇治市の庵寺(あんでら)山古墳の衣笠型埴輪 両者の特徴ある形状には共通点があるという。
 古墳には周囲を取り巻くように円筒埴輪が置かれていることが多いが、その要所要所に衣笠(蓋)型埴輪が据えられていることもある。辰巳和弘氏の指摘だが、宝塚古墳の船形埴輪の船舳の表現と立飾りの形状が似ていることに注目し、これは土器絵画などにある鹿の絵の角の表現ではないかとされた。
舳先形状
 図の左側の船形埴輪の舳先とその右側の三つの衣笠形埴輪の形状は、ほぼそっくりである。古代船「なみはや」のモデルとなった高廻り古墳の船形埴輪といっしょに展示してある1号墓の船も、その形状が似ているのである。
 
船 衣笠
 まるで鹿の角が左右に広がっているかのように見える。蓋埴輪の羽のようなところも、よく見るとまるで埴輪のゴンドラ船を描いたかのような形状である。やはり、鹿の角をモデルに制作したと考えられる。辰巳氏は鹿角の呪力とされているが、鹿の角に霊力を招くような意味合いを考えられたのだろう。
志賀海
 九州の志賀海神社には、大量の鹿の角が奉納されているが、これも角に宿る霊力にあやかろうと願ってのことであろうか。
 
鹿埴輪
 日本の埴輪のみならず大陸にも立派な角を持った牛や鹿がよく描かれている。
 すると高廻り1号や2号などの船形埴輪も、鹿角の形状をモチーフに描いた祭祀用の形状のもので、決して実用の船でなく、喪船や祭祀用であったということであろう。
博物館の説明
 この衣笠形埴輪の説明に、貴人にさしかける日傘、といった解説があるが、この笠の飾りは葬送儀礼と関係するのであり、生存する王に使われたものかどうか疑問であろう。
 そして、埼玉県には衣笠型埴輪とされる角をモチーフにした埴輪が出土している。
衣笠と七支刀
 これをよくみると、七支刀に何やら似ているのである。古代の刀には、北斗七星の図柄が刻まれたものもあって、七支刀も関係があるとの見解も見られるが、これは鹿の角をモチーフにした霊剣と考えたほうがよさそうではないか。二本の角をずらして重ねると、まさに七支刀のモデルとなるのではないだろうか。霊力をもたらす祭祀用の剣となろう。

※古代船「なみはや」のモデルの船形埴輪が喪船であったことについては、こちらをご覧ください。

参考文献
辰巳和弘「他界へ翔る船」新泉社 2011    
掲載図
志賀海神社写真はブログ対馬市福岡事務所レポート
庵寺山古墳衣笠型埴輪は京大総合博物館
生出塚衣笠埴輪は鴻巣市HP


DSC_0737
1.被葬者を送るために船形の飾りのついた冠 
 写真は、滋賀県鴨稲荷山古墳の復元された金銅製冠で、その立飾りの先端は、蝶とか花の形などと一般的に説明されているが、よく見ると宮崎県西都原古墳の船形埴輪と酷似している。舳先の二本の柱、櫂座表現など、これをモデルに細工されたのではないかと思える。
鴨稲荷山冠
 古墳時代には、船形埴輪や土器絵画、装飾古墳などに船が多く描かれている。これは被葬者を他界へ送るための乗り物として描かれたと考えられる。他にも、船がデザインされた冠をいくつか見受けられる
 奈良県藤ノ木古墳金銅製冠はアフガニスタンのティリヤ・テペとの類似が言われるが、実はそこにはないものが描かれている。藤ノ木古墳のものはゴンドラ型の船に鳥が止まっているのである。
藤ノ木舟
 また、小倉コレクションの加耶の冠も当初は花弁とガク(早乙女雅博1982)とされていたが、実は花ではなく船であって、古代船「なみはや」のモデルとなった高廻り2号墳の船形とそっくりなのである。  
伽耶冠
 辰巳和弘氏は、藤ノ木古墳や鴨稲荷山古墳の金銅製飾履も実用のものでなく、冠の船は、被葬者の霊魂を送る霊船であって、あくまで葬送用の装束としての冠だとし、すぐに王権との関係などと説明されることの多い傾向に対し、宗教的側面からの検討を全く怠っている、と厳しく指摘されておられる(2011)。
 また船だけでなく、馬の表現が古墳時代によく見られるのは、霊獣であって被葬者の乗り物と考えられていたからであろう。しかしこのことが理解されていない例がTV番組にあった。

2.持統天皇役にかぶらせた間違った冠
持統冠
 先日、前年放映の再放送の歴史番組をみて、ありえない小道具に気が付いた。NHKの「英雄たちの選択 古代日本のプランナー・藤原不比等」という番組だ。そこに持統天皇役の女性のかぶる冠を見て、何か変だと思い、録画をしていたので見直した。
持統アップ
 馬の形に見覚えがあったのだが、この冠は実際に古墳から出土した副葬品を模したものであった。それは茨城県三昧塚古墳出土の金銅製冠で、左右がそれぞれ山形を呈し,全体の長さは約60cm。正面には蝶形の飾金具を二段階配し,上縁には花形と馬形の飾りを交互に配しているというものだ。さすがにこの演出に使われた小道具はいただけない。
三昧塚
 この古墳の時期は5世紀後半とされている。西暦500年以前であるが、持統天皇が活躍したのは700年前後である。番組スタッフは、200年も前の冠と同型のものを持統の冠に仕立ててしまったのである。時代考証はされなかったのか、それとも、されても素通りであったのか。
 もう一つの問題は、前段で紹介したように、古墳からの出土品や図形の表現は、その多くが葬送儀礼のためのものと考えられるのである。被葬者のための霊船、さらには霊獣である馬の形をあしらった冠はあくまで死者を送るための副葬品と考えられる。それを生存中の天皇が頭に飾るなど、とても考えられないのである。
 今後も同様の歴史番組が作られても、このような小道具は使われないようにしていただきたい。

※高島歴史民俗資料館は、各施設の老朽化などによる統廃合のため、令和6年3月閉館し、「中江藤樹・たかしまミュージアム」にて展示品を見ることができます。

参考文献
辰巳和弘「他界へ翔る船」新泉社2011
早乙女雅博氏は「新羅・加耶の冠」 (Museum372)
西都原古墳群の船形埴輪の図は HP日本遺産南国宮崎の古墳景観活用協議会

なみはや航海
1.失敗だった実験航海
 一九八九年に大阪港から釜山まで、古代船の復元による実験航海を行った『なみはや』だが、後日に漕ぎ手が当時のことを語る記事がある。「大阪市立大学のボート部が、二十六名を八~九名の三班に分け、天保山から牛窓、牛窓から福岡、福岡から対馬の各区間を分担して漕いだ。最後、対馬から釜山までは伴走船にも分乗して全員で行った。 漕いでいても風景が変わらず、前進していないような気分があった。対馬から出航した際には、大揺れで船酔いする者が続出。 八人で立ち漕ぎしたが、力が入りにくく、水を十分にかいていた感覚は無かった。長時間すると手の平の豆が破れた。出航後、早く曳航が来ないかと思ったこともあった。」(OSAKA ゆめネット)
 これを見るに、惨憺たる結果であって、漕ぎ手は精いっぱい頑張ったのだが、そもそもの復元された「準構造船」に問題があったということではないか。齋藤茂樹氏は「現代の船体構造設計者によると、構造的にとても船とは言えない代物だった」とし、「非常に安定が悪く、そのうえ、なかなか進まない。五十センチの高さの波がきただけでもバランスを失う、また喫水が浅く少しの風でも倒れる」ような状態であって、「舟形埴輪と相似形の準構造船は、実際には存在しなかった」(『理系脳で紐解く日本の古代史』)と断言、埴輪の船は「陸地や内海・池で曳かれるだけの喪舟」だったのではないかと指摘されている。祭祀のための船という説にも同意するのだが、私は、この『なみはや』の復元には根本的なところで大きな誤認、勘違いがあったと考えるものであり、この点について、さらに喪船、祭祀のための船について説明していきたい。

2.準構造船という考え方の問題点
 「なみはや」の復元では、アメリカのオレゴン州から直径二m越えの米松をわざわざ取り寄せて、それを繰り抜いて船体に仕立てている。なぜそのような巨木が必要であったのか。 
準構造船説明
 準構造船とは、丸木舟を船底にして、舷側板や竪板などの船材を加えた船、と説明されている。やがて、骨組みと板材によって建造された構造船となるという。だがこの説明だと、準構造船は、船底となる丸木舟の大きさに規制されてしまう。広い幅のある船、二人が横並びで櫂を漕ぐことができるだけの空間のある船はつくれないのである。守山市HPでは、「板材の結合技術が未熟なわが国では、この準構造船は長らく使われ、室町時代まで大型船の主流を占めていました。」と説明がされている。根拠のない決めつけの説明でしかない。この考えに縛られて『なみはや』の場合、幅を広くするためには巨木が必要となったのである。
おもき
 では、幅の広い準構造船はないのかといえばそうではなく、木材の湾曲部分を断ち割って船底部を平板でつなげばよいのである。五世紀中頃には船底を三材組み合わせて横継ぎにし、横幅を二メートルほどに増した横継ぎ組み合わせ式船体の存在も考えられる(福岡市吉武樋渡(ひわたし)遺跡で出土の船体資料)。船底部の丸木を半分に割って「おもき」とし、その間にもう一枚の平板の材(かわら)を挟み込むのである。守山市HPの「板材の結合技術が未熟」という説明は、何の根拠もない。縄文時代には、ほぞ穴のある加工された材木が出土しているのである。紀元前から地中海周辺で作られた構造船の木材の接合技術は、早くに広がっているのではないだろうか。
 以上のように、船底も板をつないだ工法をあったことを検討されずに、一般的に言われる単純な準構造船で復元しようとされたところに問題があることを示したが、さらに『なみはや』の復元にはモデルとした船について大きな勘違いがあったのである。
歴博船
3.モデルにした高廻り二号墳の船形埴輪の姿を見誤った。
 大阪市平野区高廻り古墳の一号墳と二号墳から出土の船形埴輪のレプリカが、大阪歴史博物館にいっしょに展示されている。
 奥が一号墳、手前が二号墳のものだが、この両者をよく見てほしい。なにも目を皿のようにして見るまでもなく、素直に見れば違いがわかる。一号墳は筒型の二つの台の上に置かれており、2号墳号墳は別の船形の上に安置されているように見えるのではないか。上下を一体としてみるとワニの口のように見えるが、実は下あごに見えるのは、上部の船の台を表現したものだ。丸木舟に波除の板の部品を組み合わせて造られた木造の船、と説明される準構造船という代物ではないのではないか。
 あまり言われないことだが、埴輪の多くは、直接地面に置かれることはなく、円筒埴輪を土台にして造形されている。人物も剣や楯も鳥も魚もよく見れば円筒埴輪の上に鎮座しているのである。多くの埴輪は、直接地面に置かれてはいない。なぜ円筒埴輪を台にしているのかというと、埴輪はみな祭器として置かれるものであり、それが地面に直接触れると、地中の邪気が移る、または霊気が吸われてしまうといった観念から、忌避したと考えられる。一号の舟形埴輪だけでなく、三重県松坂市宝塚古墳の立派な装飾のある船も円筒埴輪を台にして古墳の片隅に置かれたのである。二号墳の場合は、その台が船形になったにすぎないのである。
船埴輪の分離
 これをそのままモデルにして復元したから、重心が上がり、とても漕ぎにくい船になってしまったのである。このような誤解が他にもある。

4.同じ轍を踏んでしまった奈良県巣山古墳の喪船の解釈
 巣山古墳で出土した竪板と舷側板などから、当時の広陵町教委文化財保存センター長の河上邦彦氏は、左右二枚の舟形側板の間を角材や板材などでつなぎ、その上に木棺を載せたと推測。葬送用の特別な用具で、修羅で引っ張ったのでは、と説明されていた。
喪船移動復元
 これはまさに、『隋書倭国伝』の「葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽くに、あるいは小轝(くるま)を以てす」に関連するものであろう。復元図も作画されたが、残念なことに後の復元では、出土物に加える形でワニの下あごや船底などが盛り付けられてしまっている。
巣山復元
 そのようなものは全く出土していないにもかかわらず、いつのまにか修羅に置かれた喪船が、船底部に一本の丸太をくりぬいた丸木舟をくっつけて、上に舷側板を加えた準構造船なるものに鞍替えされたのは理解に苦しむ。
 牽引のための修羅に載せられた船を表現した船形木製品が、弥生後期の京丹後市古殿遺跡から出土している。下あごに小孔があり、ここに綱を通して牽引するものとして作られたのであろう。また東大阪市西岩田遺跡のものは、船形木製品と説明されているが、先端部に、切り込みと、穿孔があり、修羅のようなものにして、この上に別の船の造形物を載せていたのではないか?
修羅模型
 大阪府藤井寺市三ツ塚古墳の修羅の実物も先端部は穿孔があり、上向きに反るように盛り上がっている。
 以上から、高廻り二号墳の船形埴輪も、喪船を円筒埴輪の代わりに船の形をしたものに安置したものであって、それは修羅としても使われるものでもあったととらえたほうがよさそうである。

5.船首の竪板と考えられるものを船内に配置する例
 大阪府八尾市久宝寺遺跡からは、実物の準構造船の船首部が出土したとして、その復元がされている。これによって、竪板と船底部の接合方法も明らかになったというのである。するとこの場合、先端が二股のワニの口のような船があったということになるかといえばそうはならない。
カラネガ
 弥生時代から古墳時代にかけての土器や銅鐸、板絵、古墳絵画に描かれた船絵に、先端がワニの口となった表現に見えるような図があるが、それは、船内の構造物の表現である。京都カラネガ岳2号墳の船絵は、船の前後に、梯子状のものが斜めに描かれている。これは竪板と同じものと考えていいであろう。つまりこれは、船首と船尾の中に竪板を置いているのである。久宝寺の出土した船も、巣山古墳のものと同様に、祭祀用の船であったと考えられる。 
 宮城洋一郎氏は、万葉歌などから祭祀の場が舳先であって、ここには特別な意味があったとされている。海上の守護神である住吉神は船の舳先に祀って安全を祈願するのである。また、天皇への服属儀礼もあったようである。景行紀十二年には、神夏礎媛が、「素(しら)幡(はた)を船の舳にたてて」参向している。舳先が、祭祀や儀礼に使われる、聖なる空間であったのだろう。古代に描かれた船絵には、このようなものも描かれたのであり、それがワニの上あごのように見えたのであろう。
 日本書紀履中三年に両枝(ふたまた)船の記事がある。古事記垂仁記にも二俣小舟とある。研究者の中には、これを、ワニ口の準構造船のことだとされるご意見もあるが、いずれも池に浮かべており、とても海上を進む船とは別のものであろう。なお、記紀のフタマタ船が南洋の事例から、二艘の丸木舟を繋ぎ合わせたものという説がある。いずれにしてもワニの口の準構造船とはならない。
 
6.時空を超えて広がる祭祀船のイメージ
宝塚
 三重県宝塚古墳の見事な造形の船形埴輪は、古墳の墳丘の裾の造り出しとの間の隙間に置かれていたようで、外側からは見る事ができない状態で置かれていた。見せびらかすものではなかったようで、あくまでこの古墳の被葬者の死後の世界の旅立ちのために置かれたかのようである。これは、ちょうど大ピラミッドの太陽の船と同じ状況ではないだろうか。こういった類似は、他にもある。舟の上部に大きく太陽を描いた構図は、九州の装飾古墳に同じモチーフのものが描かれている。
 また、隋書の喪船を引く習俗も、同様のものがある。ピラミッドのクフ王の船からマストや帆は見つからず、12個の大きなパドル(オール)は発見されている。しかしこれらのパドルは巨大すぎて漕ぐものとすることは困難であり、航行の際には「舵を取る」ために使われたと考えられることからクフ王の船は自力で進むことのできる能力はなく、他の船などに牽引されて使用される「バージ船」であったと考えられる。
エジプト曳航
 王墓の壁画には、王の船を従者がロープで曳く光景も描かれている。つまり、実用的な船ではなく、王のための祭祀用の船が別に存在しているのである。日本でも喪船と考えられる出土品が同様のものではないだろうか。

7.埴輪の祭祀船が冠にも表現されていた
船の冠.png
 また各地の古墳から出土している金銅製冠にも船が描かれている。奈良県藤ノ木古墳の場合、鳥と樹木の表現からその出自が論議されているが、よく見れば鳥が止っているのはゴンドラ船の中央の柱である。それが連続するように描かれている。ティリヤ・テペとの類似が指摘されているが、そこには船形の表現はない。
 辰巳和弘氏は、いっしょに置かれていた金銅製の履も実用のものではなく、冠に描かれた船は、被葬者の霊魂を送る霊船であって、あくまで葬送用の装束としての冠だとする(「他界へ翔る船」2011)。他にも小倉コレクションの加耶冠、滋賀県鴨稲荷山古墳の冠の立飾りには船が描かれており、さらによく見ると、その船の形は、櫂座の表現もみられ、古代船復元のモデルとなった高廻り古墳や西都原古墳の舟形埴輪とそっくりなのである。いずれの冠も葬送用であり、死者を送る祭祀船が描かれているということになる。これらの豪華な副葬品を、ヤマト王権が下賜したものといったありきたりの表現がよくされているが、あくまでこの冠は、死後に棺に添えるものであって、決して生前に王が儀礼の時などにかぶっていたものではないのである。
 以上のように、土器や古墳の副葬品や埴輪に描かれた船は、その多くが死者のための喪船、祭祀船であって、それを復元しても実際に自力で海面をすすめるかどうかはわからないのである。では、渡海できるような船はどのようなものであったのか。舟の絵画には、帆船とおぼしき表現が多数見受けられる。古代の帆船について、世界にある事例なども参考に検討しなければならないだろう。
 繰り返すが、復元された『なみはや』のモデルとなった船形埴輪は、あくまで墓に眠る被葬者のための喪船なのであって、他の博物館などで同じように復元されたものも、祭祀船との説明をして展示してほしいものであって、とても外洋を航行できるものではないということである。


参考文献
齋藤茂樹「理系脳で紐解く日本の古代史」ネット掲載
佐原真「美術の考古学 佐原真の仕事3」岩波書店2005
OSAKA ゆめネット「古代船「なみはや」の解説のお知らせ」ネット掲載
平田絋士「二檣――継体天皇の2本マストを復元する」海上交通システム研究会
角川春樹「わが心のヤマタイ国 : 古代船野性号の鎮魂歌 」(角川文庫)1978
YouTube「古代の「喪船」見つかった巣山古墳 葬送に利用か 奈良県広陵町」
宮城洋一郎「船の民俗と神話」月刊考古学ジャーナル臨時増刊№536 2005 ニューサイエンス社
YouTube河江肖剰古代エジプト「セティ1世王墓を大公開!巨大王墓に残された壁画と冥界の旅〜#7 」 
辰巳和弘「他界へ翔る船」新泉社2011
三重県松坂市市HP 「宝塚古墳船型埴輪」
大阪府藤井寺市HP「高廻り古墳船形埴輪」

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