流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

誤解、誤読の古代

隋書倭国伝の俀は倭の異体字

俀
 隋書の倭が俀と表記されていることについて、これは倭国のことではなく、俀国という別の国があったという解釈が繰り返されている。だが、一般的には俀は倭に修正されて記述されている。岩波文庫も『隋書倭国伝』である。図書館で「隋書俀国伝」と検索しても出てこないところが多いのではないか。この俀の字は異体字の類いと考えられる。この点について述べてみたい。

1. 俀と倭は同じもの
①俀奴国は倭奴国と同じ。
 隋書では「安帝時又遣使朝貢謂之俀奴國」とある。ここは後漢書の引用であり、当時は倭は「イ」と発音。奴は「ヌ」であるので、「イヌ」国が妥当。注1 もしこの俀奴国が別の国とされるなら、関係する他の漢籍資料と出土した金印の文字と齟齬が生じる。後漢書では「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀」とある。この年代が57年であり、光武帝から賜与された金印に刻された委奴国であり、これは真印であるならば倭奴国と同義だ。北史では「安帝時又遣朝貢謂之倭奴國」であり、はじめから倭になっている。北史は隋書の内容をほぼ踏襲しているが、誤字などは訂正している。さらに他に多利思北孤の北は比としているが、この点については後述する。舊唐書では「倭國者古倭奴國也」とあり、倭国がかっては倭奴国であったと説明されている。宋史(至正5年1345)でも「日本國者本倭奴國也」とされて、日本国はもともと倭奴国であったと記しているのである。そして通例として倭国と称されている。よって隋書倭国伝と称されて何の問題もない。
 さて、俀が別の国だとする方は、この俀奴国はどう訓むのであろうか。タイヌ国とするのであろうか。やはり俀は倭に変えてイヌ国と訓むのが自然だ。そして5世紀以降の俀国は、ワ国と訓む。

②俀の字は、卑字、弱弱しい国といった蔑む表現でもない。
 俀を弱いの意味で使用したのは後世の可能性が強い。例えば倭も中国側が蔑むような卑字といった説明を見聞きするが、これも疑問である。隣接する半島の国々の名はどうなのであろうか。高句麗や新羅、百済に蔑むような意味はない。なぜ、倭国だけ貶められるのか、その根拠はない。隋は高句麗を三度も攻めたが、勝てずに甚大な被害を被っている。唐も新羅に対し、半島統一の為に多大な援助をしたのにもかかわらず、裏切られてしまった。それでも国名表記は変わらない。俀がタイと訓まれることから、大倭がタイイなので俀に変えたというのも成り立たないのではないか。ちなみに、古田武彦氏も当初は俀を別の国とされていたが、後に大倭国の意味に変えておられる。

③俀は倭の異体字と考えられる。
 中国側は隋書に関しては俀の字を倭に書き換えている。そして百済伝の倭の表記の後に校注(注釈)を入れている。
 其人雜有新羅高麗倭等 「倭」原作「俀 」。按:古從「委」和從「妥」的字,有時可以通用。如「桵」或作「㮃」,「緌」或作「綏」。「 俀 」應是「倭」字的別體。本書煬帝紀上作「倭」。本卷和他處作「 俀」者,今一律改為「倭」

 つまり、倭と俀の違いは、この漢字の右上の禾(ノギ)が爪(ツメ)となっていることである。同じような例として、㮃(ズイ、ニ、イ)が桵となり、緌(ズイ)が綏となっているのを、「禾」のある漢字に訂正しているのだ。このように爪(ツメ)を禾(ノギ)に訂正しており、俀、桵、綏の三つは同音同意の異体字として、本来の字に戻されているのである。執筆者、もしくは転写をした人物が、これら異体字を同義の漢字として使っていたのだが、これを他の人物も間違いではないのでそのままにしたということではないか。
 漢籍には異体字といったものが、いくつも存在している。たとえば、三国志には高句麗と高句驪という表記がある。この場合も、別の国であったなどと言えるのであろうか。俀国も実は倭国と同じで漢字が違うだけにすぎない。俀国とあってもワ国と読むのである。

2. 多利思北孤の北は比の誤記の可能性
①異体字だけでは考えにくい誤記が多数存在する隋書
 「漢籍電子資料庫」で「原作」で検索すると膨大な数の漢字の修正が検出される。異体字もあるが、その多くは、同音による書き違えや、文脈や他の漢籍を参考にしての書き換え、単純な書き間違えの修正など様々である。隋書で少し例を挙げてみる。
「建」原作「達」、 「預」原作「頂」、 「如」原作「加」、 「刃」原作「刀」、 「夕」原作「名」、
「政」原作「正」、 「導」原作「遵」、 「大」原作「六」、 「斗」原作「升」、 「干」原作「于」、 
「紐」原作「細」、 「爟」原作「權」、 「官」原作「宮」、 「瑞」原作「端」、 「人」原作「入」、 
「寇」原作「冠」、 「冶」原作「治」、 「勒」原作「勤」、 「州」原作「川」、 「巨」原作「臣」
 以上はほんの一部である。その中に、火を犬注2とした間違いもあれば、比を北としたタリシヒコの例もあるのである。このような事例は隋書に限らず、多数の漢籍で同様の状況がある。

②間違われやすい北と比 
           ヒコ
 現在は、北という漢字の一画めの横棒と二画めの縦棒が交差することはないが、古代においては、ほとんど、横棒に縦棒が貫くように書かれている。魏志倭人伝もすべて北は、二画目が突き抜けている。これが比の字と間違う要因になるかもしれない。先ほどの修正の中にも、「比」原作「北」の例が、後漢書に一カ所、宋書は二カ所、舊五代史に一カ所、金史に一カ所、宋會要輯稿は五カ所も存在するのである。また逆に、晋書と舊唐書では、比を北に改める例も一つずつ存在する。
 このように比と北は、お互いに誤記される可能性が非常に高いのである。

③古田武彦氏も「比」は否定されていない。
 いうまでもないことだが、ヒコは彦、比古、日子、毘古などと王、貴人の名前として使われている。魏志倭人伝にも卑狗がある。ホコという名前があっても、それは特殊な事例ではないか。
先ほどの付録の隋書読み下しでは、「南史ママ(北史)では多利思比孤とする。『北』は天子の座するところであるから、多利思比弧という当人が、敢えてした『誇称』がこの『多利思北孤』であったのかもしれぬ。」とされている。これはつまり、古田氏も本来の名がヒコと認めていたということではないか。
 ちなみに後漢書には次のような訂正がある。『東夷倭奴國王遣使奉獻 按:「王」原作「主」』この箇所では主が王の書き間違いであることは明らかだ。これをもって倭奴国に主という人物が遣使を行った、などとは言わないであろう。隋書は日本では語られないことが記された貴重な資料ではあるが、上記のような問題も含んでいる書であることは踏まえなければならないと思われる。
 
 ただ、俀については問題は残る。使用例が極めて少ない漢字だが、 舊唐書には、吐蕃が700年に阿那史俀子をテュルク国に派遣するとの記事がある。この俀子が倭子であったのかどうか、また、史記には魯の宣公俀が君主となる記事もある。そうなると、俀は、ほとんど使用されなかった独立した漢字として存在していたが、その一方で、異体字として、倭と同義で使われたとも考えられるが、このあたりは、今後、要検討としておきたい。

注1.正木裕氏のご教示による。五胡十六国以降は「(‐a)ゥワ」でそれまでの古代は「(‐i)ヰ、イ」と発音。
注2.「犬を跨ぐ」は、およそ犬での事例は見られず、日本と世界には多数の火に関わる婚姻儀礼が存在すること、火を大と誤記した事例もあることから、火を犬と誤認する可能性もあり、ここは「火を跨ぐ」が適切。

衣笠型埴輪と船型埴輪、七支刀に共通する鹿の角

宝塚船
京大衣笠
 上図は、三重県松阪市の宝塚古墳の船形埴輪、下は京都宇治市の庵寺(あんでら)山古墳の衣笠型埴輪 両者の特徴ある形状には共通点があるという。
 古墳には周囲を取り巻くように円筒埴輪が置かれていることが多いが、その要所要所に衣笠(蓋)型埴輪が据えられていることもある。辰巳和弘氏の指摘だが、宝塚古墳の船形埴輪の船舳の表現と立飾りの形状が似ていることに注目し、これは土器絵画などにある鹿の絵の角の表現ではないかとされた。
舳先形状
 図の左側の船形埴輪の舳先とその右側の三つの衣笠形埴輪の形状は、ほぼそっくりである。古代船「なみはや」のモデルとなった高廻り古墳の船形埴輪といっしょに展示してある1号墓の船も、その形状が似ているのである。
 
船 衣笠
 まるで鹿の角が左右に広がっているかのように見える。蓋埴輪の羽のようなところも、よく見るとまるで埴輪のゴンドラ船を描いたかのような形状である。やはり、鹿の角をモデルに制作したと考えられる。辰巳氏は鹿角の呪力とされているが、鹿の角に霊力を招くような意味合いを考えられたのだろう。
志賀海
 九州の志賀海神社には、大量の鹿の角が奉納されているが、これも角に宿る霊力にあやかろうと願ってのことであろうか。
 
鹿埴輪
 日本の埴輪のみならず大陸にも立派な角を持った牛や鹿がよく描かれている。
 すると高廻り1号や2号などの船形埴輪も、鹿角の形状をモチーフに描いた祭祀用の形状のもので、決して実用の船でなく、喪船や祭祀用であったということであろう。
博物館の説明
 この衣笠形埴輪の説明に、貴人にさしかける日傘、といった解説があるが、この笠の飾りは葬送儀礼と関係するのであり、生存する王に使われたものかどうか疑問であろう。
 そして、埼玉県には衣笠型埴輪とされる角をモチーフにした埴輪が出土している。
衣笠と七支刀
 これをよくみると、七支刀に何やら似ているのである。古代の刀には、北斗七星の図柄が刻まれたものもあって、七支刀も関係があるとの見解も見られるが、これは鹿の角をモチーフにした霊剣と考えたほうがよさそうではないか。二本の角をずらして重ねると、まさに七支刀のモデルとなるのではないだろうか。霊力をもたらす祭祀用の剣となろう。

※古代船「なみはや」のモデルの船形埴輪が喪船であったことについては、こちらをご覧ください。

参考文献
辰巳和弘「他界へ翔る船」新泉社 2011    
掲載図
志賀海神社写真はブログ対馬市福岡事務所レポート
庵寺山古墳衣笠型埴輪は京大総合博物館
生出塚衣笠埴輪は鴻巣市HP


TV番組での持統天皇の奇妙な冠

DSC_0737
1.被葬者を送るために船形の飾りのついた冠 
 写真は、滋賀県鴨稲荷山古墳の復元された金銅製冠で、その立飾りの先端は、蝶とか花の形などと一般的に説明されているが、よく見ると宮崎県西都原古墳の船形埴輪と酷似している。舳先の二本の柱、櫂座表現など、これをモデルに細工されたのではないかと思える。
鴨稲荷山冠
 古墳時代には、船形埴輪や土器絵画、装飾古墳などに船が多く描かれている。これは被葬者を他界へ送るための乗り物として描かれたと考えられる。他にも、船がデザインされた冠をいくつか見受けられる
 奈良県藤ノ木古墳金銅製冠はアフガニスタンのティリヤ・テペとの類似が言われるが、実はそこにはないものが描かれている。藤ノ木古墳のものはゴンドラ型の船に鳥が止まっているのである。
藤ノ木舟
 また、小倉コレクションの加耶の冠も当初は花弁とガク(早乙女雅博1982)とされていたが、実は花ではなく船であって、古代船「なみはや」のモデルとなった高廻り2号墳の船形とそっくりなのである。  
伽耶冠
 辰巳和弘氏は、藤ノ木古墳や鴨稲荷山古墳の金銅製飾履も実用のものでなく、冠の船は、被葬者の霊魂を送る霊船であって、あくまで葬送用の装束としての冠だとし、すぐに王権との関係などと説明されることの多い傾向に対し、宗教的側面からの検討を全く怠っている、と厳しく指摘されておられる(2011)。
 また船だけでなく、馬の表現が古墳時代によく見られるのは、霊獣であって被葬者の乗り物と考えられていたからであろう。しかしこのことが理解されていない例がTV番組にあった。

2.持統天皇役にかぶらせた間違った冠
持統冠
 先日、前年放映の再放送の歴史番組をみて、ありえない小道具に気が付いた。NHKの「英雄たちの選択 古代日本のプランナー・藤原不比等」という番組だ。そこに持統天皇役の女性のかぶる冠を見て、何か変だと思い、録画をしていたので見直した。
持統アップ
 馬の形に見覚えがあったのだが、この冠は実際に古墳から出土した副葬品を模したものであった。それは茨城県三昧塚古墳出土の金銅製冠で、左右がそれぞれ山形を呈し,全体の長さは約60cm。正面には蝶形の飾金具を二段階配し,上縁には花形と馬形の飾りを交互に配しているというものだ。さすがにこの演出に使われた小道具はいただけない。
三昧塚
 この古墳の時期は5世紀後半とされている。西暦500年以前であるが、持統天皇が活躍したのは700年前後である。番組スタッフは、200年も前の冠と同型のものを持統の冠に仕立ててしまったのである。時代考証はされなかったのか、それとも、されても素通りであったのか。
 もう一つの問題は、前段で紹介したように、古墳からの出土品や図形の表現は、その多くが葬送儀礼のためのものと考えられるのである。被葬者のための霊船、さらには霊獣である馬の形をあしらった冠はあくまで死者を送るための副葬品と考えられる。それを生存中の天皇が頭に飾るなど、とても考えられないのである。
 今後も同様の歴史番組が作られても、このような小道具は使われないようにしていただきたい。

※高島歴史民俗資料館は、各施設の老朽化などによる統廃合のため、令和6年3月閉館しました。新たな施設での早期の展示の再開を望みます。

参考文献
辰巳和弘「他界へ翔る船」新泉社2011
早乙女雅博氏は「新羅・加耶の冠」 (Museum372)
西都原古墳群の船形埴輪の図は HP日本遺産南国宮崎の古墳景観活用協議会

古代船『なみはや』の復元は喪船をモデルにしていた

なみはや航海
1.失敗だった実験航海
 一九八九年に大阪港から釜山まで、古代船の復元による実験航海を行った『なみはや』だが、後日に漕ぎ手が当時のことを語る記事がある。「大阪市立大学のボート部が、二十六名を八~九名の三班に分け、天保山から牛窓、牛窓から福岡、福岡から対馬の各区間を分担して漕いだ。最後、対馬から釜山までは伴走船にも分乗して全員で行った。 漕いでいても風景が変わらず、前進していないような気分があった。対馬から出航した際には、大揺れで船酔いする者が続出。 八人で立ち漕ぎしたが、力が入りにくく、水を十分にかいていた感覚は無かった。長時間すると手の平の豆が破れた。出航後、早く曳航が来ないかと思ったこともあった。」(OSAKA ゆめネット)
 これを見るに、惨憺たる結果であって、漕ぎ手は精いっぱい頑張ったのだが、そもそもの復元された「準構造船」に問題があったということではないか。齋藤茂樹氏は「現代の船体構造設計者によると、構造的にとても船とは言えない代物だった」とし、「非常に安定が悪く、そのうえ、なかなか進まない。五十センチの高さの波がきただけでもバランスを失う、また喫水が浅く少しの風でも倒れる」ような状態であって、「舟形埴輪と相似形の準構造船は、実際には存在しなかった」(『理系脳で紐解く日本の古代史』)と断言、埴輪の船は「陸地や内海・池で曳かれるだけの喪舟」だったのではないかと指摘されている。祭祀のための船という説にも同意するのだが、私は、この『なみはや』の復元には根本的なところで大きな誤認、勘違いがあったと考えるものであり、この点について、さらに喪船、祭祀のための船について説明していきたい。

2.準構造船という考え方の問題点
 「なみはや」の復元では、アメリカのオレゴン州から直径二m越えの米松をわざわざ取り寄せて、それを繰り抜いて船体に仕立てている。なぜそのような巨木が必要であったのか。 
準構造船説明
 準構造船とは、丸木舟を船底にして、舷側板や竪板などの船材を加えた船、と説明されている。やがて、骨組みと板材によって建造された構造船となるという。だがこの説明だと、準構造船は、船底となる丸木舟の大きさに規制されてしまう。広い幅のある船、二人が横並びで櫂を漕ぐことができるだけの空間のある船はつくれないのである。守山市HPでは、「板材の結合技術が未熟なわが国では、この準構造船は長らく使われ、室町時代まで大型船の主流を占めていました。」と説明がされている。根拠のない決めつけの説明でしかない。この考えに縛られて『なみはや』の場合、幅を広くするためには巨木が必要となったのである。
おもき
 では、幅の広い準構造船はないのかといえばそうではなく、木材の湾曲部分を断ち割って船底部を平板でつなげばよいのである。五世紀中頃には船底を三材組み合わせて横継ぎにし、横幅を二メートルほどに増した横継ぎ組み合わせ式船体の存在も考えられる(福岡市吉武樋渡(ひわたし)遺跡で出土の船体資料)。船底部の丸木を半分に割って「おもき」とし、その間にもう一枚の平板の材(かわら)を挟み込むのである。守山市HPの「板材の結合技術が未熟」という説明は、何の根拠もない。縄文時代には、ほぞ穴のある加工された材木が出土しているのである。紀元前から地中海周辺で作られた構造船の木材の接合技術は、早くに広がっているのではないだろうか。
 以上のように、船底も板をつないだ工法をあったことを検討されずに、一般的に言われる単純な準構造船で復元しようとされたところに問題があることを示したが、さらに『なみはや』の復元にはモデルとした船について大きな勘違いがあったのである。
歴博船
3.モデルにした高廻り二号墳の船形埴輪の姿を見誤った。
 大阪市平野区高廻り古墳の一号墳と二号墳から出土の船形埴輪のレプリカが、大阪歴史博物館にいっしょに展示されている。
 奥が一号墳、手前が二号墳のものだが、この両者をよく見てほしい。なにも目を皿のようにして見るまでもなく、素直に見れば違いがわかる。一号墳は筒型の二つの台の上に置かれており、2号墳号墳は別の船形の上に安置されているように見えるのではないか。上下を一体としてみるとワニの口のように見えるが、実は下あごに見えるのは、上部の船の台を表現したものだ。丸木舟に波除の板の部品を組み合わせて造られた木造の船、と説明される準構造船という代物ではないのではないか。
 あまり言われないことだが、埴輪の多くは、直接地面に置かれることはなく、円筒埴輪を土台にして造形されている。人物も剣や楯も鳥も魚もよく見れば円筒埴輪の上に鎮座しているのである。多くの埴輪は、直接地面に置かれてはいない。なぜ円筒埴輪を台にしているのかというと、埴輪はみな祭器として置かれるものであり、それが地面に直接触れると、地中の邪気が移る、または霊気が吸われてしまうといった観念から、忌避したと考えられる。一号の舟形埴輪だけでなく、三重県松坂市宝塚古墳の立派な装飾のある船も円筒埴輪を台にして古墳の片隅に置かれたのである。二号墳の場合は、その台が船形になったにすぎないのである。
船埴輪の分離
 これをそのままモデルにして復元したから、重心が上がり、とても漕ぎにくい船になってしまったのである。このような誤解が他にもある。

4.同じ轍を踏んでしまった奈良県巣山古墳の喪船の解釈
 巣山古墳で出土した竪板と舷側板などから、当時の広陵町教委文化財保存センター長の河上邦彦氏は、左右二枚の舟形側板の間を角材や板材などでつなぎ、その上に木棺を載せたと推測。葬送用の特別な用具で、修羅で引っ張ったのでは、と説明されていた。
喪船移動復元
 これはまさに、『隋書倭国伝』の「葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽くに、あるいは小轝(くるま)を以てす」に関連するものであろう。復元図も作画されたが、残念なことに後の復元では、出土物に加える形でワニの下あごや船底などが盛り付けられてしまっている。
巣山復元
 そのようなものは全く出土していないにもかかわらず、いつのまにか修羅に置かれた喪船が、船底部に一本の丸太をくりぬいた丸木舟をくっつけて、上に舷側板を加えた準構造船なるものに鞍替えされたのは理解に苦しむ。
 牽引のための修羅に載せられた船を表現した船形木製品が、弥生後期の京丹後市古殿遺跡から出土している。下あごに小孔があり、ここに綱を通して牽引するものとして作られたのであろう。また東大阪市西岩田遺跡のものは、船形木製品と説明されているが、先端部に、切り込みと、穿孔があり、修羅のようなものにして、この上に別の船の造形物を載せていたのではないか?
修羅模型
 大阪府藤井寺市三ツ塚古墳の修羅の実物も先端部は穿孔があり、上向きに反るように盛り上がっている。
 以上から、高廻り二号墳の船形埴輪も、喪船を円筒埴輪の代わりに船の形をしたものに安置したものであって、それは修羅としても使われるものでもあったととらえたほうがよさそうである。

5.船首の竪板と考えられるものを船内に配置する例
 大阪府八尾市久宝寺遺跡からは、実物の準構造船の船首部が出土したとして、その復元がされている。これによって、竪板と船底部の接合方法も明らかになったというのである。するとこの場合、先端が二股のワニの口のような船があったということになるかといえばそうはならない。
カラネガ
 弥生時代から古墳時代にかけての土器や銅鐸、板絵、古墳絵画に描かれた船絵に、先端がワニの口となった表現に見えるような図があるが、それは、船内の構造物の表現である。京都カラネガ岳2号墳の船絵は、船の前後に、梯子状のものが斜めに描かれている。これは竪板と同じものと考えていいであろう。つまりこれは、船首と船尾の中に竪板を置いているのである。久宝寺の出土した船も、巣山古墳のものと同様に、祭祀用の船であったと考えられる。 
 宮城洋一郎氏は、万葉歌などから祭祀の場が舳先であって、ここには特別な意味があったとされている。海上の守護神である住吉神は船の舳先に祀って安全を祈願するのである。また、天皇への服属儀礼もあったようである。景行紀十二年には、神夏礎媛が、「素(しら)幡(はた)を船の舳にたてて」参向している。舳先が、祭祀や儀礼に使われる、聖なる空間であったのだろう。古代に描かれた船絵には、このようなものも描かれたのであり、それがワニの上あごのように見えたのであろう。
 日本書紀履中三年に両枝(ふたまた)船の記事がある。古事記垂仁記にも二俣小舟とある。研究者の中には、これを、ワニ口の準構造船のことだとされるご意見もあるが、いずれも池に浮かべており、とても海上を進む船とは別のものであろう。なお、記紀のフタマタ船が南洋の事例から、二艘の丸木舟を繋ぎ合わせたものという説がある。いずれにしてもワニの口の準構造船とはならない。
 
6.時空を超えて広がる祭祀船のイメージ
宝塚
 三重県宝塚古墳の見事な造形の船形埴輪は、古墳の墳丘の裾の造り出しとの間の隙間に置かれていたようで、外側からは見る事ができない状態で置かれていた。見せびらかすものではなかったようで、あくまでこの古墳の被葬者の死後の世界の旅立ちのために置かれたかのようである。これは、ちょうど大ピラミッドの太陽の船と同じ状況ではないだろうか。こういった類似は、他にもある。舟の上部に大きく太陽を描いた構図は、九州の装飾古墳に同じモチーフのものが描かれている。
 また、隋書の喪船を引く習俗も、同様のものがある。ピラミッドのクフ王の船からマストや帆は見つからず、12個の大きなパドル(オール)は発見されている。しかしこれらのパドルは巨大すぎて漕ぐものとすることは困難であり、航行の際には「舵を取る」ために使われたと考えられることからクフ王の船は自力で進むことのできる能力はなく、他の船などに牽引されて使用される「バージ船」であったと考えられる。
エジプト曳航
 王墓の壁画には、王の船を従者がロープで曳く光景も描かれている。つまり、実用的な船ではなく、王のための祭祀用の船が別に存在しているのである。日本でも喪船と考えられる出土品が同様のものではないだろうか。

7.埴輪の祭祀船が冠にも表現されていた
船の冠.png
 また各地の古墳から出土している金銅製冠にも船が描かれている。奈良県藤ノ木古墳の場合、鳥と樹木の表現からその出自が論議されているが、よく見れば鳥が止っているのはゴンドラ船の中央の柱である。それが連続するように描かれている。ティリヤ・テペとの類似が指摘されているが、そこには船形の表現はない。
 辰巳和弘氏は、いっしょに置かれていた金銅製の履も実用のものではなく、冠に描かれた船は、被葬者の霊魂を送る霊船であって、あくまで葬送用の装束としての冠だとする(「他界へ翔る船」2011)。他にも小倉コレクションの加耶冠、滋賀県鴨稲荷山古墳の冠の立飾りには船が描かれており、さらによく見ると、その船の形は、櫂座の表現もみられ、古代船復元のモデルとなった高廻り古墳や西都原古墳の舟形埴輪とそっくりなのである。いずれの冠も葬送用であり、死者を送る祭祀船が描かれているということになる。これらの豪華な副葬品を、ヤマト王権が下賜したものといったありきたりの表現がよくされているが、あくまでこの冠は、死後に棺に添えるものであって、決して生前に王が儀礼の時などにかぶっていたものではないのである。
 以上のように、土器や古墳の副葬品や埴輪に描かれた船は、その多くが死者のための喪船、祭祀船であって、それを復元しても実際に自力で海面をすすめるかどうかはわからないのである。では、渡海できるような船はどのようなものであったのか。舟の絵画には、帆船とおぼしき表現が多数見受けられる。古代の帆船について、世界にある事例なども参考に検討しなければならないだろう。
 繰り返すが、復元された『なみはや』のモデルとなった船形埴輪は、あくまで墓に眠る被葬者のための喪船なのであって、他の博物館などで同じように復元されたものも、祭祀船との説明をして展示してほしいものであって、とても外洋を航行できるものではないということである。


参考文献
齋藤茂樹「理系脳で紐解く日本の古代史」ネット掲載
佐原真「美術の考古学 佐原真の仕事3」岩波書店2005
OSAKA ゆめネット「古代船「なみはや」の解説のお知らせ」ネット掲載
平田絋士「二檣――継体天皇の2本マストを復元する」海上交通システム研究会
角川春樹「わが心のヤマタイ国 : 古代船野性号の鎮魂歌 」(角川文庫)1978
YouTube「古代の「喪船」見つかった巣山古墳 葬送に利用か 奈良県広陵町」
宮城洋一郎「船の民俗と神話」月刊考古学ジャーナル臨時増刊№536 2005 ニューサイエンス社
YouTube河江肖剰古代エジプト「セティ1世王墓を大公開!巨大王墓に残された壁画と冥界の旅〜#7 」 
辰巳和弘「他界へ翔る船」新泉社2011
三重県松坂市市HP 「宝塚古墳船型埴輪」
大阪府藤井寺市HP「高廻り古墳船形埴輪」

持統天皇の「白妙の衣」は対馬の白い花のヒトツバタゴのこと⑵

鰐浦漁港
⑸万葉歌の地名をすべて奈良の大和や近畿を中心に考えるのは疑問
 竜田山(龍田山)は万葉歌によく登場し、奈良あたりが有名だが、熊本県にも龍田山(立田)があるように、伊勢も三重県以外の各地に見受けられる。万葉歌には次のような地名への疑問がもたれた例がある。注2
 和銅五年壬子(712)四月長田王伊勢齋宮に遣しし時、山辺御井に作る歌。
81 山辺の御井を見がてり神風の伊勢娘子(をとめ)どもあひ見つるかも。
82 うらさぶる心さまねし(*重なる、次々とうかぶ)ひさかたの天のしぐれの流らふ見れば。
 右二首今案ずるに御井にて作る所に似ず。若疑(けだし)當時誦われし古歌か。
 これらは、「題詞」では三重の伊勢神宮に行った時の歌の様に記されるが、左注にあるように「伊勢の御井」にはあわない。この点、万葉学者の中西進氏も次の様に述べている。
 「山の辺の御井は斎宮にあるのではない。御井を見ることを主とし、その上に伊勢少女に会ったという、ふしぎな一首である。古歌を口ずさんだか、それこそ九州派遣の折の歌か、である。もし後者なら、いかにも心細そうな口ぶりも理解できるし、上にあげた(*二四五~二四八の)九州の歌と脈絡がつき、歌の空虚感もよく理解できる。」(中西進が語る「魅力の深層」) つまり、左注では御井の地についての疑問が書かれ、中西進氏は、九州の地を想定されている。このような、疑問点が香具山とされた他の歌にもあるのではなかろうか。

高麗山合成
⑹天の香具山について
 原文は香来山である。柿本人麻呂が高市皇子の殯の時の第2巻199番では、香来山之宮、とある。だが、現代の読み下しでは、なぜか香具山と表記されている。香具山と詠み込まれた歌は該当歌以外に十首もある。
 香具山と解されているその他の万葉歌 一部省略 右端は原文の漢字
2 大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば     天香具山
13 香具山は畝傍ををしと耳成と相あらそひき                 高山
14 香具山と耳成山とあひし時立ちて見に来し印南国原             高山 
52 大和の青香具山は日の経の大き御門に春山としみさび立てり畝傍の       香具山
199 わご大君の万代と思ほしめして作らしし香具山の宮万代に過ぎむ    香<来>山
257  天降りつく天の香具山霞立つ春に至れば松風に            天芳来山
334  忘れ草わが紐に付く香具山の故りにし里を忘れむがため         香具山
1096 古の事は知らぬをわれ見ても久しくなりぬ天の香具山        天香具山
1812 ひさかたの天の香具山この夕霞たなびく春立つらしも          天芳山
2449 香具山に雲居たなびきおほほしく相見し児らを後恋ひむかも       香山
 以上のように、香具山と異なる表記が、高山が二首、香来山が該当歌含め二首、芳来山が一首、芳山が一首、香山も二つである。また「天」のない香具山もある。すべてが、奈良の香具山であるのかは疑問であろう。
 対馬の場合は、鰐浦の背後にある高麗山が候補となるのではないか。頂上からは半島の姿を見る事ができる。
 高麗はこうらい、と訓み、香来も字余りにはなるが同じ訓みができる。高麗は他にコマ、コウマ,コウレイ,コウリなどの訓みがあるが、対馬の高麗山の場合は高句麗のことではなく、山上からは半島の姿がうかがえるので韓(カラ)国の山と呼んでいた可能性もあるのではないか。巻1-2には天の香具山で国見をすると詠われているが、高麗山は防衛のための国見の意味もあったかもしれない。現在、自衛隊の管轄で入山禁止になっていることからもこの山麓の重要性が窺える。
 
⑺「天」に関して
 また、漢字の表記が香具山とは異なっても、古事記や日本書紀の記述にある天の香具山であったとしても、その所在地の一番の候補に対馬があがるのではないだろうか。古事記のイザナギとイザナミの国生みの所の壱岐島と対馬に関して以下のような記述がある。
 次生伊伎嶋、亦名謂天比登都柱。次生津嶋、亦名謂天之狹手依比賣。
 すなわち、対馬も壱岐島も「天」の名が冠されているのである。
 さらに、『海東諸国記』の対馬の記事には次のような記述がある。「南北に高山あり、みな天神と名づく。南を子神と称し、北を母神と称す。俗神を尚び、家家素饌をもって、これを祭る」という。いくつもの山を崇めていたようである。古事記には、天の岩戸のくだりで鹿の肩の骨で占いをするという記述がある。鹿卜のことであり、後に亀卜にかわるのだが、これは大陸で広く行われてきた天を祀る習俗であって、天の意思を知るために骨卜が行われたのである。これを執り行う卜部が重要視され、延喜式では平安時代になっても、対馬十人、壱岐五人、伊豆五人を京に招いているという。  
 このような人たちが、対馬の山々を「天」を象徴する神々として祀ってきたのであろう。そうすると、天の香具山は、特定の山ではなく、広く対馬の山並みを意味していたのかもしれない。いずれにしても、天の香来山が高麗山の別称ではなく、信仰としての対馬の山々であっても、ヒトツバタゴが白妙の衣に例えられた白い花であるという結論にかわりはないと思われる。

⑻夏が来ることを待ち望んだ貴重な一首
 多数ある万葉歌だが、春を待ち望んだ歌は多くあるが、夏山、夏草などの語はあっても意外にも夏を歌うものはないという。作者は、夏を一番歓迎するような人物だったと考えることもできる。鰐浦で海に潜ることをなりわいにする海女にとっては、夏の到来は待ち望んでいたものだ。また船乗りにとっても同じであろう。この歌は、海で生きる人々の素直に夏の到来を喜ぶ歌となるのではないか。
 そうすると持統天皇の歌ではないのだろうか。万葉集の中に持統天皇の作歌は六首とされているが、いずれも持統を示す明確な表現はない。注3 特に「春すぎて~」は題詞がなければ叙景歌ともみられそうで、持統帝が天武帝挽歌「やすみしし~」に示されたはげしい哭泣の情はここにはその片鱗もない、との伊藤義教氏の指摘もある。しかし、高天原廣野姫天皇との記述を尊重するということであれば、昭和天皇が庭の花からはるか対馬への思いを歌にされているように、王朝内で歌われたものであったとしても説明はつくとしておきたい。
 以上のように、この持統の歌とされる「白妙の衣」は、まるで白衣を干しているように見える白い花のヒトツバタコのことであると考えてもよいのではなかろうか。

注1.中西進氏は、山に白いものが見える事実を、どう見立てるかと楽しんだ歌ではないかとし、該当歌は、香具山に残る白い雪を干してある白い布に見立てて戯れ楽しんだ歌だとされたが、いささか無理のある説明であり、夏を実感するものにはならないであろう。
注2.古田史学の会正木裕氏のご教示による。
注3.古田武彦氏は、万葉歌の研究で、題詞や左注はあとから付けられたもので、歴史史料としては二次史料、一次史料の本文が大事だと指摘されている。ただ、該当歌については、『古代史の十字路 万葉批判』で、中西進氏の雪とする比喩歌という考えは否定されたが、その理由の説明がないのが残念である。

※ 古田史学会報№180掲載のものを、一部改定したものです。
この論考は、同会久冨直子氏の発案から、共同でまとめたものです。

参考文献
財団法人日本離島センター『日本の島ガイドSHIMADASU』1998
加藤庸二『日本百名島の旅』実業之日本社2013
毛利正守『持統天皇御製歌 巻一・二十八番をめぐって』万葉第211号萬葉学会2012
井上さやか『「万葉集」における持統天皇像 : 天香具山歌を軸に』(万葉古代学研究年報)第19号2021年
伊藤義教『ゾロアスター教の渡来――天武天皇挽歌二首を解読して』(古代日本人の信仰の祭祀)大和書房1997
司馬遼太郎『街道をゆく 十三』朝日新聞社1981
中西進『万葉の秀歌』(著作集)四季社2008
谷川健一『列島縦断地名逍遥』冨山房インターナショナル2010   申叔舟『海東諸国記』岩波文庫1991
※万葉歌の引用、読み下しは、HP万葉百科 奈良県立万葉文化館による。
写真と図    HP一般社団法人 対馬観光物産協会 グーグルマップ  HPヤマレコ

持統天皇の「白妙の衣」は対馬の白い花のヒトツバタゴのこと⑴

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 次は持統天皇の作とされる有名な万葉歌28番歌である。
春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山  
 春すぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山

 この歌にはよく言われてきたことだが、いくつも疑問があった。なぜ春の次に夏が来るという当たり前のことを歌にしたのか、また、持統天皇がいたとされる藤原京から山の洗濯物が見えるのか、どうして洗濯物が干されている様子が夏の到来と関係するのかなどである。
 ここではその疑問に答えられるものとして、白妙の衣は古代の対馬で初夏に咲くヒトツバタゴのことではないかとの推論を提示していきたい。

開化
 ヒトツバタゴ(別名ウミテラシ・ナタオラシ・ミズイシ、俗名なんじゃもんじゃ)はモクセイ科の大陸系植物で、古代より大陸への窓口であった対馬を象徴する植物として、対馬市の木に指定されている。また昭和3年に 国の天然記念物にもなっている。
 対馬北部の鰐浦地区は国内最大の自生地であり、5月初旬の開花期には3,000 本といわれるヒトツバタゴが一斉に白い花を咲かせ、初夏に積もる雪のようである。この鰐浦は、対馬海峡を挟んで韓国の釜山を望む対馬の北端にある。波の穏やかな日には、山を白く彩るヒトツバタゴの花の影が海面を白く染め、日が落ちかけても暗い入り江が明るく照らされることから「海照らし」とも呼ばれている。
 同じモクセイ科のトネリコ(別名「タゴ」)に似ており、トネリコが複葉であるのに対し、本種は小葉を持たない単葉であることから「一つ葉タゴ」の和名があるという(ウィキペディア参照)
 現在は名古屋など各地にも見られるが、それは近世の移植であり、もとは大陸、朝鮮に自生していたものが、その移住民により早くにこの地にもたらされたのかもしれない。
 このヒトツバタゴを昭和天皇は歌にされている。
「わが庭の ひとつばたごを見つつ思ふ 海のかなたの対馬の春を」昭和59年
 これは上対馬の町長が天皇の為にと持参し、それが御所に植えられたものだそうだ。昭和天皇も歌にするほどの見事な白い花の光景を、古代人も歌にしていたのではなかろうか。
 
⑴「らし」に注目された国文学者毛利正守氏の論文
 毛利氏は、「夏の到来・推移を根拠づける景について、またその根拠に基づく確信に満ちた推量表現『らし』  
等の検討を通して、萬葉歌の中にこの歌を位置づけることにしたい」とされる。つまり、該当歌は季節感を強く表しものだという視点で理解しなければならないということであろう。氏は、新井栄蔵氏の引用もされながら、古代中国の四時(季節)観が、日本ではより豊かな情念とより巧緻な感触を生み出す季節感が形成、成熟していったと説明されている。
 よく指摘されることだが、「いわばあたりまえのこと」のような「春すぎて夏来るらし」は、二つの季節を詠むだけの感動、さらに過ぎ去る春の季節を惜しむ気持ちがあり、それと同時に、この歌自体の主題は夏の到来にあるとし、その根拠を「らし」をもって詠みあげているところに力点があるという。ちなみに、「冬過ぎて春来るらし朝日さす春日の山に霞たなびく」(1844 ※暖が春)という該当歌と同様の二つの季節が詠われ、さらには、春・夏・秋の三季を読み込んだ「春は萌え夏は緑に紅の斑に見ゆる秋の山かも」( 2177)という事例もある。
 毛利論文では、推量表現「らし」の使われた歌が、該当歌以外に十三首あることを紹介されている。

①梅の花今盛りなり百鳥(ももどり)の声の恋(こほ)しき春来たるらし  834
②うちなびく春来るらし山の際(ま)の遠き木末(こぬれ)の咲き行く見れば 1422
③霞立つ野の上(へ)の方(かた)に行きしかば鶯鳴きつ春になるらし  1443
④ひさかたの 天の香具山この夕(ゆふへ) 霞たなびく 春立つらしも1812
⑤いにしへの、人の植ゑけむ、杉が枝に、霞たなびく、春は来ぬらし 1814
⑥うち靡(なび)く、春立ちぬらし、我が門(かど)の、柳の末(うれ)に、鴬鳴きつ 1819
⑦冬過ぎて 春来るらし 朝日さす 春日の山に 霞たなびく 1844
⑧鴬の春になるらし春日山霞たなびく夜目に見れども  1845
⑨うち靡く春さり来らし山の際の遠き木末の咲きゆく見れば   1865
⑩白雪の常敷く冬は過ぎにけらしも春霞たなびく野辺の鴬鳴くも  1888
⑪野辺見ればなでしこの花咲きにけり我が待つ秋は近づくらしも  1972
⑫妹が手を取石の池の波の間ゆ鳥が音異に鳴く秋過ぎぬらし  2166
⑬今よりは秋づきぬらしあしひきの山松蔭にひぐらし鳴きぬ  3655

 以上の十三首は、「らし」を根拠づけているものが、いずれも鳥や花、霞、虫の声といった自然物であることを指摘されている。そうすると、持統の歌だけが特異な一首だというのである。はたしてそうなのであろうか。

⑵「白妙能衣乾有」に何らかの象徴と迫られた、奈良県立万葉文化館の井上さやか氏の論文
 先の毛利論文を踏まえながら、井上論文では、「衣乾有」という表現が自然物である可能性にもふれている。
 毛利論文では白妙の衣は実景であり、見立てとは考えられないとされたことに対し、藤原定家の『拾遺愚華』等で白妙の衣を卯の花の見立てと解している例も挙げながら、ただそれがなぜ、夏の到来を意味するのかという疑問を持つ井上氏は、どうして香具山に干してある白妙の衣が夏の到来を推量させる根拠となるのか、「白妙能生衣乾有」が何らかが象徴されていた可能性を排除できない、「衣乾有」をどう解するかが改めて問題となってくる、とされている。注1
 このように該当歌は百人一首にも取り入れられるなどたいへん有名な歌であるにもかかわらず、研究者を悩ませる問題を内包する歌なのであって、いまだに解釈に疑問が残る謎の歌なのである。
 しかし、「らし」のある歌で唯一、自然物でないという点も、見方を変えれば疑問も解消するのではないだろうか。夏の到来を示す根拠は、人工物ではなく白い花のことだとすれば、一気に氷解するのである。井上氏の言うなんらかの象徴とは、ヒトツバタゴのことと考えればよいのではないか。
 注1.中西進氏は、山に白いものが見える事実を、どう見立てるかと楽しんだ歌ではないかとし、該当歌は、香具山に残る白い雪を干してある白い布に見立てて戯れ楽しんだ歌だとされたが、いささか無理のある説明であり、夏を実感するものにはならないであろう。

⑶「たり」の事例にみる見立て
 「衣乾有」の「たり」は、動作・作用が完了し継続する状態を意味するが、万葉歌には見立てで使われていると思われるものがある。
  289  天原振離見者白真弓張而懸有夜路者将吉  
 天の原ふりさけ見れば白真弓張りて懸けたり夜道は吉けむ
 大空をふり仰いでみると、白い真弓を張ったように月がかかっている。夜道はよいことだろう。
  1847 淺緑染懸有跡見左右二春楊者目生来鴨
 浅緑染め掛けたりと見るまでに春の柳は萌えにけるかも
 浅緑色に枝を染めて懸けたと思われるほどに、春の柳は芽を出したことだ
 二例ではあるが、衣を干すということが、見立ての表現ととることは十分に可能であろう。

⑷鰐浦はヒトツバタゴの古来からの群生地
 この花の群生地の入り江は鰐浦である。日本書紀の神功紀には以下のような記事がある。
從和珥津發之。時飛廉起風、陽侯舉浪、海中大魚、悉浮扶船。則大風順吹、帆舶隨波、不勞㯭楫、便到新羅。
 神功皇后は、兵を整え、和珥津から出発するが、この地は現在の対馬の北端に位置する鰐浦のことである。帆船は神の力も受けて順風が吹いて舵も櫂も使うことなく新羅についたという。この鰐浦は半島と最短距離の港であって、活発に人の行き来するところであり、魏志倭人伝の記事の南北に市擢するとあるような物資の
やり取りを行う貿易港でもあったのではないか。4月に鰐浦に寄港しようとする人々には、目の前に広がる白い光景を見る事ができるので、船旅の疲れも忘れることができたかもしれない。
 ちなみに韓国ではイパプナムと言う名で、これは白い花で覆われた様子が白いご飯(イパプ)に似ていることから付けられたようだが、立夏(イッパ)の頃に咲くので、立夏木(イパモ)とも呼ばれている。台湾では「流蘇樹」(レースの木)、他に「四月雪」という呼称もあるようだ。(つづく)
 

好太王碑の記事は、日本書紀と同様の粉飾がある。

1.高句麗好太王碑文解釈の問題点
 同碑の内容でよく注目される記事が、 「而倭以辛卯年來,渡海破百殘,□□新羅,以為臣民」である。
 「倭は辛卯年を以て来たり、海を渡りて百残を破り、(東)のかた新羅を□して、以て臣民と為せり」といった釈読がされてきた。判読不明部分を加羅とする解釈もある。つまり、百済・新羅とともに「加羅」を破ったと解釈され、日本書紀の「加羅七国平定」「四邑降服」「任那四件割譲」「任那復興」、任那支配の根拠となっていた。高校日本史教科書では、この条文のみが引用され、辛卯年に大和政権が軍隊を朝鮮半島に派遣して高句麗と戦ったなどと記述されているという。
 しかし、この解釈が妥当とは思えない。以下に問題と思われるところを挙げてみたい。

・好太王碑文の史料批判(戦前の日本軍による改ざん問題は否定で決着)による論議が重要と思える。日本書紀が、前王朝を隠蔽している、書き換えている、潤色があると考えられているように、この碑文もそのような視点で見る事が重要と思える。原文の一般的な解釈をそのまま利用して解釈するのは、注意がいると思われる。
・不都合なことは隠されている碑文であること。対中国との苦戦については全く触れていない。中国王朝を記さないことは、研究当初から問題になっていた。
・百済についても潤色がある。また、百済とは全く書かず、すべて「百残」とした貶める表記になっている。
 倭も、「倭賊」「倭冠」「不軌」などとされている。
(なお新羅については「忠州高句麗碑」に新羅王のことを「東夷寐錦」と記している)
 つまり高句麗は周辺国を蔑む表現をしている。この姿勢は日本も変わらないのであるが。
・倭については、高句麗の半島南部進出の口実として、仮想敵国として位置づけられた、とも考えられている。
・さらに倭の記述では、「倭人滿其國境⇒潰破」 「倭滿其中。官兵方至⇒倭賊退」 「倭不軌,侵入帶方界⇒倭寇潰敗」  倭国は攻め込むが、すべて撃退しているというのだが、3カ所とも同じパターンの表現であることも、潤色性を物語るものと考えられる。
 さらには「安羅人戍兵」が同じ倭の記事の中に三度登場するのも、注目していいであろう。
・最大の問題と思われるが、それは何度も倭は敗北しているのに、どうして高句麗は、倭を臣民にするとか、朝貢を求めるとかしていないのか、一般的なとらえ方としてこれは大きな不審であろう。しかも半島内に倭の勢力があったとするならなおさらであろう。
・別の問題ではあるが、「倭」は必ずしも列島の勢力を意味しないのではないか。古代の移住という視点がないと、列島の古代史は理解できない。
 たとえば、「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)(蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。) この一節の「倭」は半島に存在していると考えるのが妥当。それは、列島に中心を持つ倭の国とは別の、加耶周辺の集団、魏志倭人伝の狗邪韓国などが考えられよう。前方後円墳のある栄山江地域も倭人は混在していたと考えられる。
・そもそも日本の倭国が、400年頃に高句麗の境界まで攻め込むような実力がはたしてあったのであろうか。それならば、なぜ先に列島全体を制覇しなかったのか疑問である。
・研究者は、碑文後半の守墓、烟戸の制度に関して注目しており、日本の巨大古墳の背景を検討するうえで、大変重要とも考えられている。倭の記述に関するところだけでなく、広い視野での検討は必要となろう。
・現在の研究者が、好太王碑をどうとらえているかということを見る必要があるのではないか。

2.碑文解釈のとらえ方についての紹介
・森浩一氏『日本の中の朝鮮文化3』「かりに日本に日本書紀がなかったと仮定したらどうか。現在通用している日本古代史の通説がそのままいえるのかどうか。倭が5世紀頃朝鮮へ軍事出兵したといえるかどうか。商人が行ってちょっと住んだというのは別、出兵となるとこれは絶望的、遺跡遺物の上からはほとんどいえない。」
・佐藤信『古代史講義』「・・・はたして、倭が海を渡って百済・新羅を『臣民』としたのか、この点については慎重に考える必要がある。広開土王碑はそもそも広開土王の戦績をことさらに顕彰するという性格の史料であり、高句麗と対峙する倭の軍事支配の描写を誇張すればするほど、広開土王の戦績が際立つのである。そこであえて倭をヒール役に仕立てて描いたとも考えられる。」
・河内春人『倭の五王』「高句麗からすると、広開土王の治世は半島南部への圧力を強める過程であった。その目的は、具体的には新羅や百済を自己の勢力圏内に従属させることである。それを正当化するためには、もともと新羅や百済が高句麗に従っていた・・それが倭国によって臣民化されたために広開土王が取り戻すというステップを語ることで、半島南部の支配の正当性を主張」
・東潮『倭と加耶』「400年、高句麗は倭の攻撃から新羅を救援するという目的で新羅城に進攻し、新羅城を占領している、高句麗の戦略的目的は倭の討伐を名目とした新羅への侵攻であった。」
 「高句麗が百済を『属民』とするのも倭が百済や新羅を『臣民』とするのも碑文の論理。ただし百済・新羅への侵攻を正当化するための歴史的事件は存在した。
・武田幸男『広開土王碑との対話2007』「辛卯年を広開土王碑の即位年にあたるとし、高句麗は辛卯年条において対南方戦略を宣言し、その中で倭を戦略的に位置づけた。そして碑文の倭は大王の勲績とかかわって登場するが、百済や新羅とは異なって、高句麗と終始対峙し、対立する強敵として登場したとする」
・前田晴人氏『朝鮮三国時代の会盟について』「碑文に記すように高句麗が百済を『属民』とした事実は広開土王以前の時期にはなかったものとしてよく、意図的な誇張の言とみなしてよい。」
「高句麗の中華帝国主義は鮮卑の前燕・ 後燕に対してはまったく通用せず、広開土王の時期に限っても9(400)年正月に『遣使入燕朝貢』した直後の2月、『燕 王盛以我王禮慢、自将兵三万襲之。以驃騎大将軍慕容煕 為前鋒、抜新城・南蘇二城、拓地七百余里、徙五千余戸而還』とあって高句麗は大きな打撃を被り、また11(402) 年には「王遣兵攻宿軍。燕平州刺史慕容帰棄城走」と記し、次いで13(404)年 11 月『出師侵燕』とあるように 報復の侵略を重ね、14(405)年正月には『燕王煕来攻 遼東城。且陥』と反攻を受け、15(406)年 12 月には契丹を襲撃し疲凍の遠路を行軍中の燕軍が高句麗の木底城 (遼寧省撫順市)を攻めて自ら敗退するという一幕もあった。後燕との抗争は広開土王の治世の後半期に集中しており、碑文がこれらの事績にまったく触れていない理由は最早明らかであろう。」
・奥田尚氏「『倭人,其の順境に満ち,城池を潰破す』というのだから,『倭』と新羅順境は接していたと考えざるをえない。『倭』が日本列島からの派遣軍とすると,ことさら『国境』に『満ち』と表現する必要はないであろう。・・・・碑文の『倭』は日本列島内勢力ではありえないといえよう。また前項の高句麗への服属段階からいえば,『倭』の場合は敗戦→懐滅とすることができる。」
 「倭が渡海して新羅に侵攻したとすると、奇妙な表現だという指摘は、あたらないであろうか。碑文の倭が、半島内の倭を意味した表現と理解した方がいいのではないか。」

 以上のように、まだまだ碑文解釈には問題があるが、高句麗側の潤色、不都合なことは記さず、周辺国を貶める表記などが見られるものであり、列島の倭が百済・新羅を臣民にするとか、渡海して高句麗と交戦したというようなことを断定的に論じることは困難であると考えられる。

 好太王碑文 4面はカット
惟昔始祖,鄒牟王之創基也。出自北夫餘,天帝之子。母河伯女郎,剖卵降出生子。有聖�□□□□□命駕巡車南下,路由夫餘奄利大水。王臨津言曰我是皇天之子,母河伯女郎,鄒牟王。為我連葭!浮龜應聲即為連葭。浮龜然後造渡於沸流谷,忽本西,城山上而建都焉。永樂世位,因遣黃龍來下迎王,王於忽本東岡,黃龍負昇天。顧命世子儒留王,以道興治,大朱留王紹承基業。[遝]至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王,二九登祚,號為永樂太王,恩澤洽于皇天,威武柳被四海。掃除□□,庶寧其業。國富民殷,五穀豊熟,昊天不弔,卅有九晏駕棄國。以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵,於是立碑銘記勳績,以永後世焉。其辭曰:

永樂五年,歲在乙未,王以碑麗不息,□人躬率往討。過富山負碑至鹽水上,破其丘部洛、六七百當,用牛馬兼羊不可稱數。於是旋駕,因過襄平道,東來候城、力城、北豊、五俻猶。遊觀土境,田獵而還。百殘、新羅舊是屬民,由來朝貢,而以辛卯(391)年來,渡海破百殘,□□新羅,以為臣民。以六年丙申,王躬率水軍討利殘國軍□□。首攻取壹八城、臼模盧城、各模盧城、幹弓利城、□□城、閣彌城、牟盧城、彌沙城、□舍鳥城、阿旦城、古利城、□利城、雜彌城、奧利城、勾牟城、古模耶羅城、頁□城、□□城、分而能羅城場城、於利城、農賣城、豆奴城、沸□□利城、彌鄒城、也利城、大山韓城、掃加城敦拔城、□□□城、婁實城、散那城、□婁城細城、牟婁城、弓婁城、蘇灰城、燕婁城、柝支利城、巖門至城、林城、□□城、□□城、□利城、就鄒城、□拔城、古牟婁城、閨奴城、貫奴城、豐穰城、□城、儒□羅城、仇天城、□□□□□其國城。賊不服氣,敢出百戰。王威赫怒渡阿利水遣刺迫城,橫□侵穴□便國城。百殘王困,逼獻出男女生白一千人,細布千匝,歸王自誓,從今以後,永為奴客。太王恩赦先迷之御,錄其後順之誠。於是得五十八城、村七百。將殘王弟並大臣十人,旋師還都。

八年戊戌,教遣偏師觀帛慎土谷。因便抄得莫新羅城加太羅谷男女三百餘人,自此以來朝貢論事。九年己亥,百殘違誓與和通。王巡下平穰,而新羅遣使白王云,倭人滿其國境,潰破城池,以奴客為民,歸王請命。太王恩後稱其忠誠,時遣使還,告以□訴。十年(400)庚子,教遣步騎五萬,往救新羅,從男居城至新羅城,滿其中。官兵方至,賊退□□□□□□□□來背息,追至任那加羅,從拔城,城即歸服。安羅人戍兵拔新羅城,□城。滿,潰城大□□□□□□□□□□□□□□□□□九盡臣有尖安羅人戍兵滿□□□□其□□□□□□□言□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□辭□□□□□□□□□□□□□潰□以隨□安羅人戍兵。昔新羅安錦未有身來朝貢□。國岡上廣開土境好太王□□□□寐錦□□僕句□□□□朝貢。十四年甲辰而倭不軌,侵入帶方界□□□□□,石城□連船□□□王躬率□□從平穰□□□鋒相遇,王幢要截盪刺,寇潰敗,斬殺無數。

十七年丁未,教遣步騎五萬,□□□□□□□□□城□□合戰,斬殺湯盡所稚鎧鉀一萬餘,領軍資器械不可勝數。還破沙溝城、婁城、還住城、□□□□□□那□城。廿年庚戌,東夫餘舊是鄒牟王屬民中叛不貢,王躬率往討,軍到餘城,而餘城國駢□□□□□□那□□王恩晉虛。於是旋還。又其慕化隨官來者味仇婁鴨盧卑斯麻鴨盧□立婁鴨盧肅斯舍鴨盧□□□鴨盧。


参考文献
奥田尚『高句麗好太王碑文解釈試案』ネット掲載
「好太王碑全文」(一部割愛) ブログ古代史俯瞰様
東潮「倭と加耶」朝日新聞出版2022
金逹寿『日本の中の朝鮮文化3』講談社1972
佐藤信『古代史講義』ちくま新書2023
前田晴人氏 「朝鮮三国時代の会盟について」(纏向学研究第9号2021)
武田幸男『広開土王碑との対話2007』白帝社 2007

室見川の銘板は誤解、弥生ではなく清朝の文鎮

室見川
 1948年に博多湾岸の室見川河口近くより、「延光四年」(125年)の文字がある金属片が発見されたが、中国側の鑑定結果は、清朝の文鎮と言ったものであった。しかし古田武彦氏は、『邪馬一国の証明』のなかで、中国側の鑑定内容に関してコメントされて、字体が稚拙、各時代の文字が混じっていることなどから、列島の倭人による制作で、弥生時代の吉武高木遺跡に関係する王国の遺物とされたことから、これを信じる向きもあった。しかし以下に述べるように、中国側の鑑定通りの清朝あたりの文鎮の類いであることを述べる。

1.延光四年の意味
 この銘板の下に延光四年五(月)と刻されている。この西暦125年は、中国では特筆するような年ではないのだが、列島では弥生時代の吉武高木に宮殿がつくられた年であって、倭人にとって記念すべき年号となるのでそれを記した銘板であるというのだが、そうとは言い切れない。国立博物館所蔵品統合検索システムには「延光残碑」についての記載があり、その碑は清の康煕六十年(1721)、山東省諸城県で出土したが、現在は所在不明とある。そこには延光四年と書かれていたようだ。さらには、篆書と隷書が入り交じった特異な書風との説明も付加されている。
 また重慶市の後漢磚室墓(9号墓 )から,「延光四年五月十日作」の紀年題記を持つ銭樹仏豫が発見されている。延光の年号使用の銘文は中国に存在しているのである。これらを参考に刻字したとも考えられる。

2.延光四年を囲む枠も清朝に使われていたデザインだった
扁額
 この延光四年の線刻の周囲は枠線で囲んである。その文様は中華風であり工字文に近いものである。なぜ元号と月日だけ囲ったのかは定かではないが、清朝時代のモンゴル仏教寺院の扁額の周囲を囲っている枠が同じものがあって、よくモンゴルに行かれる文化人類学者島村一平氏のX(ツイッター)に掲載されていた。清の時代にはこのような文様がよく使われていたのであろう。島村氏はこの扁額の中に書かれた文字に関して「清朝時代に建てられたモンゴルの仏教寺院の扁額(表札)。チベット語・モンゴル語・漢語。彼らがいかにハイブリッドな文化の中で生きていたのかがよくわかる。」とされているのも興味深い。

3.最初から明らかだった分析結果
 『邪馬一国の考古学』の巻末に分析報告書が添付されている。高槻市の理学電機工業株式会社によるこの金属片の分析結果にある銅59%に亜鉛30%というのは、それが真鍮製品であることをしめしている。日本では野中寺遺跡出土品に真鍮製のものがあったようだが、早くに中国では秦の時代には利用されていたという見解があり、金と同じぐらいの価値をもっていたようだが、そのような貴重品を弥生時代の倭国は入手し加工することなど可能であったのか。だが弥生時代の青銅器に亜鉛が検出された例は今のところはない。
 さらによく見ると、分析結果にはニッケルが8%と記載されている。銅に亜鉛を加えると真鍮になるが、そこにニッケルが加わると洋白と呼ばれる見た目が銀製品と似た合金となり、早くに19世紀には硬貨としても使われていたようだ。よって、自然に銅と亜鉛が混和された鉱物である鍮石との説は、この金属の成分分析の結果が間違いでないなら、ここにニッケルも含まれることからして考えにくいであろう。
 ちなみに2000年から作られた五百円硬貨の成分は、銅72%、亜鉛20%、ニッケル8%とのことだ。現代の硬貨と同じ成分の銘板が古代にあったとはとても言えるものではない。

4.古代文字にも、参考にされた元ネタがあった。
 延光四年に関しては先に触れたが、上部と中間に刻された「高暘左」と「王作永宮齊鬲」について、中国側の鑑定の資料とされたと考えられる該当箇所がわかったので掲載しておく。
古代漢字
 実は古田史学の会服部静尚氏より、この文面の典拠が『積古斎鐘鼎彝器款識』にあるとされ、「『高暘左』の字形、『王作永宮齊鬲』の字形・折り返し割順が同じであり、これら金石文を見て刻したとしか考えられない。」とのご教示があったが、まさにその通りの字体であろう。この文鎮の作成者は、この資料とそっくりに刻印して完成させたのである。その意図はあくまで製品の文様としてであろう。
 当初の中国側の鑑定どおりに、室見川の銘版はやはり清朝の文鎮だった可能性でほぼ間違いないと思われる。さらに言えば、参考にされた1804年の『積古斎鐘鼎彝器款識』の刊行以降に制作された文鎮となろう。
 中国側の鑑定は、安易に結論を出されたものではなく、日本側からの依頼に誠実に調査をされたものと考える。莫大な量の蓄積を誇る中国の文化遺品を苦労して比較検討された結果としての結論だと考えて、尊重する必要があったと考えたい。

 この金属片は、いわゆるフェイクと言われるものになるかというと、少し事情が違う。もともとの制作者は、これを弥生時代の王国の記念物と言った意図を狙っていたわけではない。あくまで資料を参考にデザインとして描いたにすぎないのだ。それを現代の人たちが、弥生時代の銘板と誤解釈したまでだ。このような事例は、歴史の解釈において数多くみられるのではないか。当時の人には九州の地名のつもりだったのが、後世に奈良あたりの地名にされるといったこともある。後世のフェイクとなろうか。こういった誤解・誤読されたような事例についても、探っていきたい。
 ネットなどを拝見すると、まだこの金属片が弥生時代の遺物であり、弥生人は早くから文字を使いこなしていたという説明もされているものがあるが、改めていただくことを望みたい。

この点については、後に、先行して指摘しておられる方があることが、後の検索で気が付いたので、付記させていただく。益滿新吾氏のX(旧ツイッター) 2022年6月23日 に、
【「ネタ本は阮元の『積古齋鐘鼎彝器款識』である。
そこに「高暘(陽)左」「王作永宮齊鬲」「延光四年」が揃って見える。】 とされている。


参考文献
岡村広法「銅の眼」九州古代史研究会 1987
古田武彦「邪馬一国の考古学」古代史コレクション5 ミネルヴァ書房 
三辻利一 他『古代銅コインのケイ光X線分析(第2報)-古銭材質の年代変化-』 ネット掲載
「中国文化財図鑑」中国国家文物鑑定委員会 三秀舎 2016
小林青樹「倭人の祭祀考古学」新泉社2017



・古田史学会報№172に掲載のものを改訂したものです。