筑後国風土記逸文として筑紫の名の由来が三つ挙げられているが、その一つに甕依姫の登場する説話がある。この人物を、古田武彦氏は「みかよりひめ」と訓じて、卑弥呼と同一人物との可能性が高いとされたが、まだまだ検討すべき余地があると思われるので、この点について述べていきたい。注1)
1.風土記の中の荒ぶる神
「三に云はく、昔、此の堺の上に麁猛神(あらぶるかみ)あり、往来の人、半ば生き、半は死にき。其の数極多(いとさは)なりき。因りて人の命尽しの神と曰ふ。時に、筑紫君・肥君等占ふるに、筑紫君等が祖なる甕依姫(みかよりひめ)して、祝祭(まつ)らしめき。こゆ以降(のち)、路行く人、神に害はるることなし。ここを以て、筑紫の神と曰ふ。」(小学館「風土記」)
筑紫の名の由来を語るものの一つだが、後述するように、類似の筋立ての説話に較べて簡略化されており、まさに逸文であって情報量の少ないものである。
まずは、「此の堺の上」の「此の」をどう見るかである。この逸文の筑紫の名の由来の二つ目の説として、筑後国はもと筑前国と合わせた国だったが、この両国の間に急峻な山があって、狭い坂を人が往来する馬のシタクラ(馬の鞍の下に敷く布)がすりきれたので「したくら尽くしの坂」との記述から、筑前と筑後の境と考えられる。さらに、筑紫の君と肥の国が占うとあることから、肥国の境界とも接するとすれば、基山から現在の筑紫神社のある筑紫野市筑紫あたりと考えられ、「堺の上」とあることから、峠と考えられる。この峠の道行く人々の通行を妨げる神がいたということであろう。
次に命尽くしの神とは、手ごわい存在であったので、両国の指導者が兵力では太刀打ちできないと考えたから、その解決策を占ったわけであり、人間の力を超越したものには、祭祀、呪術で対応するしかないのである。神は人を守ってくれるだけではなく、場合によっては恐ろしい敵になるのである。
そして、巫女である甕依姫に白羽の矢が立ち、どのような祭祀行為があったかは不明だが、無事に神の怒りを鎮めることができたのである。その神の名が筑紫(ちくし)の神と呼ばれたという。ここで明確なのは筑紫の君と筑紫の神は別物ということである。ただし、筑紫の君の筑紫から、人の命を奪うという意味の名前を持つことになる。
ではこの神の人命を根絶やしにするほどの行いとは、どのようなことを意味するのであろうか。実は神が道行く人々を半生半死にしてしまうという説話は他にも類似のものがある。
2.風土記における半生半死説話
以下に、類似の説話を列記してみる。各原文は一部だけ記載。
①播磨国風土記揖保郡 意此(おし)川 出雲御蔭大神 坐於枚方里神尾山 毎遮行人半死(半)生
いつも旅人の道を遮り通る人の半数を殺し半数を殺さないで通した。その時、伯耆の小保弖(をほて)らが心憂えて朝廷に訴え、神の殿舎を作り楽しんだと見せかけて櫟(いち)山の柏を帯にかけ腰に差しはさんで川を下って鎮めた。
② 同 佐比岡 出雲之大神 在於神尾山 此神 出雲国人経過此処者 十人之中留五人 五人之中留三人
出雲の国の人でここを通り過ぎる者の、十人のうち五人を引き留め、五人のうち三人を引き留めて殺した。岡を祀ったが、うまくいかず、それは女神が男神を祭らなかったから恨んだとのことだが、河内の国の枚方の里の漢人が祭って鎮めることができた。
③ 同 神前郡 生野 此処在荒神 半殺往来之人 由此号生野
昔此処に荒ぶる神在りて 往来の人を半数殺した。これによって死に野と名付けた。
④肥前国風土記基肆郡 姫社郷(ひめこそのさと) 有荒神 行路之人 多(さは)被殺害 半凌半殺
通行する人がたくさん殺され、半数は助かったが半数は殺された。占って筑前の国宗像郡の珂是古を祭らせた。捧げた幡が飛ぶ様子と見た夢によって織物の女神とわかり社をたてて祭った。
⑤ 同 神崎郡 昔者 此郡有荒神 往来之人 多被殺害
昔、荒々しい神に道を行き来する人がたくさん殺された。景行天皇が巡狩(巡視)した時にこの神は穏やかになった。
⑥ 同 佐嘉郡 此川上有荒神 往来之人 生半殺半
この川上に荒々しい振る舞いをする神がいて、その道を行き来する人の、半数は殺さないで半数は殺した。県主らの祖である大荒田が占って神意を問うと、土蜘蛛の大山田女・狭山田女という二人の女子が、人の形・馬の形を作って祭るようにと言ったので、大荒田はそのように従って神を鎮めた。
⑦逸文 摂津の国 下樋山 昔有大神 化為鷲而下止此山 十人往者 五人去五人留
天津鰐という大神が鷲の姿になって、この山に居着いた。十人通行したら、五人は通り過ぎ、五人はつかまってしまった。久波乎(くはお)が、この山にきて、下樋(暗渠)を使って天津鰐のもとに行き、ここを使って通行してはお祭りをした。
⑧逸文 筑後の国 昔 此堺上 有麁猛神 往来之人 半生半死 其数極多 因曰人命尽神
昔、国堺の山の上に荒々しい神がいて、行き来の人の半分は通行できたが半分は命を失う有様であった。死亡する人の数はとても多かった。よって命尽くしの神と呼んだ。(本稿の既出のもの)
⑨播磨国風土記賀古郡 鴨波(あわわ)里 此里有舟引原 昔神前村有荒神 毎半留行人之舟 於是 往来之舟
この里に舟引原がある。昔、神前の村に荒れすさんだ悪神いて、通行人の舟を半数妨害して通さなかった。そのために船を上流にさかのぼり、山越えで船を曳いて迂回して別の川を下った。⑨は人ではなく船ではあるが、その内容は同じものと考えられる。注2)
以上のように、簡略化されたものもあるがこれらの半生半死の説話は、荒ぶる神への対策として占いを行い、祭祀者を招き、なんらかの祭祀行為を行い鎮めることができたという同じモチーフが使われている。注3)共通するもののひとつに、通行に使われる道や山の峠に荒ぶる神が現れるというのがあるが、これをどう理解すればよいであろうか。
荒ぶる神については、国つ神であるとの定説があり、天つ神の侵攻にたいして抵抗する集団をまつろわぬ神とされている。しかし、常陸国風土記の久慈郡の条には、人々を苦しめる立速男(たちはやをの)命は天より降った天つ神とあり、秋本吉徳氏の解説にあるように異例の神とされている。支配される側の反乱にもとづく説話とは異なるものもあるのではないだろうか。
荒ぶる神については、国つ神であるとの定説があり、天つ神の侵攻にたいして抵抗する集団をまつろわぬ神とされている。しかし、常陸国風土記の久慈郡の条には、人々を苦しめる立速男(たちはやをの)命は天より降った天つ神とあり、秋本吉徳氏の解説にあるように異例の神とされている。支配される側の反乱にもとづく説話とは異なるものもあるのではないだろうか。
3.人知を越えた畏怖すべき観念からつくられた説話
ちなみに出雲国風土記の出雲郡宇賀の郷では、脳(なづき)の磯というところの窟(いはや)の内に穴があり、夢でこの磯の岩窟のあたりに行くと、必ず死ぬ、と言う話が見られる。萩原千鶴氏の解説では、この洞窟がかって墓地として利用されていたことから、黄泉の穴と考えられてその世界に入ることが死につながるとされたとの解説がある。そうすると、山の上の荒ぶる神も、人の通り道の付近に黄泉の穴を作っていた、というように人々が考えていたかもしれない。
また、日本書紀と古事記の崇神天皇の段には、半生半死ではないが似た筋立ての説話がある。古事記では「伇病多起、人民死爲盡」、書紀では、「國內多疾疫、民有死亡者、且大半矣」、すなわち、疫病が大流行して国民が絶滅しそうになり、民の死亡するもの半ば以上という。これは半生半死と同じ意味であろう。崇神天皇はこれを憂いて、八十万(やそよろず)の神々を招いて占いをされる。そして神意を聞いて大田田根子に祭祀をさせると疫病は収まったのである。これが原型かと思えるような同じモチーフの物語ではなかろうか。疫病への対応ではあるが、古代人にとっては疫病も荒ぶる神の仕業であったと考えられていた。
いずれにしても、人知の及ばない神のおこないに対する死への怖れに苦慮する人々の観念からつくられ、伝承されてきたものであろう。具体的には、伝染病の他に通行を妨げるという点では、洪水、土砂崩れといった自然の猛威の体験談が根底にあったかもしれない。こういったことが、各地の地名譚につながったこともあったと考えたい。
4.古代の戦争は、命を尽くすようなものだったのであろうか。
先の甕依姫の説話に戻るが、この「半死半生」によって人の命が尽きるような状態であったということは、つまりはほぼ皆殺しということである。
古田武彦氏は、この甕依姫を卑弥呼のこととされて、半死半生は、弥生時代の内乱といった解釈をされた。しかし、これが戦いの話なら、筑紫国と肥国のリーダーが揃って占いをするというのは奇妙であり、まずは、荒ぶる相手に自国の兵力をぶつけるべきであろう。だが、類似の説話含め、最初から力で抑えることはしていないのである。どの説話も、最初から神意を問うことで解決を図ろうとしている。これを弥生時代の内乱、戦争のようにとらえることに疑問が生じる。先ほどの荒ぶる神が国つ神側の集団で、侵略した側の集団に反撃を挑んだとしても、通行する人々の無差別的な殺人は行わないのではないだろうか。古代の戦争というよりは、古代人が畏怖しているものへの祭祀行為として理解してよいのではなかろうか。
⑤のエピソードも、景行天皇は戦闘行為を行ってはおらず、あくまで巡視の結果、鎮めることができたのである。省略されてはいるが、天皇によるなんらかの祭祀行為があったのではないだろうか。
⑤のエピソードも、景行天皇は戦闘行為を行ってはおらず、あくまで巡視の結果、鎮めることができたのである。省略されてはいるが、天皇によるなんらかの祭祀行為があったのではないだろうか。
また、古田氏は甕依姫を「甕(みか)」を依り代とする、甕棺の盛行した弥生時代の筑紫の巫女と考えられた。同じく弥生時代(三世紀)の卑弥呼と同時代の人であったというのだが、別のことも考えられる。そもそも、甕棺墓が弥生時代の末まであったかどうかは今のところ不明だ。注4)卑弥呼が甕棺墓に眠っているとは考えにくいのである。
古墳時代には祭器として須恵器の甕がよく使われている。沖ノ島祭祀遺跡でも、須恵器甕が据え置かれた状態で出土しているのである。ここは棺としての甕というよりは、古墳時代の甕で祭祀を行う巫女としての甕依姫と考えたほうがよさそうではないか。タケミカヅチも日本書紀では武甕槌と表記されており、これを甕棺に結びつけることは出来ないであろう。また崇神紀の大田田根子は武甕槌の子なのである。さらに書紀には、武甕槌は、イザナギが斬った軻遇突智(カグツチ)から生まれた甕速日神の孫とされている。こういったところの検討も必要ではなかろうか。
古墳時代には祭器として須恵器の甕がよく使われている。沖ノ島祭祀遺跡でも、須恵器甕が据え置かれた状態で出土しているのである。ここは棺としての甕というよりは、古墳時代の甕で祭祀を行う巫女としての甕依姫と考えたほうがよさそうではないか。タケミカヅチも日本書紀では武甕槌と表記されており、これを甕棺に結びつけることは出来ないであろう。また崇神紀の大田田根子は武甕槌の子なのである。さらに書紀には、武甕槌は、イザナギが斬った軻遇突智(カグツチ)から生まれた甕速日神の孫とされている。こういったところの検討も必要ではなかろうか。
5.甕依姫の行う祀りとは?
以下は、同じ古田史学会員の方のご教示による。
甕依姫がどのような祭祀を行っていたのかは、風土記逸文には何も語られていないので想像するしかない。甕依姫と関係する筑紫神社は、由緒によると祭神が筑紫の神、後に竈神社より玉依姫を勧請したとある。その祭祀に粥占(かゆうら)という独特の行事がある。粥占は、釡や鍋で炊いた米の粥や小豆粥を器に盛り、一定期間神前に供えて置いた後、粥に生えたカビの状況を見極め、神慮を伺うという。同じ祭祀を行う神社が、北部九州の福岡県の背振山麓北側の福岡平野や南東側の平野部、筑後川流域に見られる。
およそ45カ所の神社で確認できるようだが、その中には高良大社末社の大学稲荷神社、竈門神社、老松神社など、九州王朝との関係が考えられる神社もこの粥占行事を行っているというのは興味深い。現在、文化庁の「大原八幡宮の米占い行事」注5)において、詳しい説明が写真入りでみることができる。発生したカビの状態で川筋の異変を的確に占うというのは、洪水被害に対する人々の切実な思いからくるものであろう。
粥占に共通するのは、はじめに土製もしくは金属製の竃や甕でグツグツと小豆や米を煮るという行為で、これを、「甕依姫」が執り行っていたのかもしれないのだ。あくまで一つの例ではあるが、神事に欠かせない祭器の甕を扱う巫女が妥当としたい。なお、筑紫神社の由緒にある祭神の筑紫の神は他に見られない神名であり、その正体も気になるところである。
以上をまとめると、
類例の多い半生半死の説話は、古代人の死生観、信仰という視点でとらえることも必要と思われること。
荒ぶる神も、崇神紀の例のように被支配者の抵抗という側面以外の視点もあると考えられること。
甕を古墳時代以降の信仰上の祭器とも想定できること。
記紀には甕の名を持つ神が複数存在しており、この検討も必要であり、さらに筑紫神社の祭祀なども考慮が必要であること。
甕棺墓は、現在のところ、卑弥呼の時代まで存続したとは言い難いこと。
このようなことから、甕依姫を卑弥呼と断定することや、その説話から卑弥呼の都の所在地の傍証にするというのも無理があると思われ、甕依姫については、まだまだ検討の余地があると考えたい。
注1.本誌掲載の谷本茂氏の《「多元史観」からみた『風土記』論 ―その論点の概要―》に詳細な解説がある。
注2.半死半生については、こちらで半殺しのことと説明しています。
注2.半死半生については、こちらで半殺しのことと説明しています。
注3.なお、古田氏は、筑紫風土記に、重大な「原文改定」が行われていたとして、「令(改定)」は「今(原文)」とする解釈を提示されたが、2.の①では、額田部の連久等々を遣りて祈らせている。その箇所に「令禱」とある。また、2.の④でも、「令筑前国宗像郡人珂是古祭吾社」さらに「珂是古令祭神社」とある。これら一群の説話との共通性から、令の字は適切であると思われる。ただ、「今」であった可能性は否定できないが、その場合も本稿の結論を左右するものとはならないと考えられる。
注4.「桜馬遺跡甕棺の時期は、後期前半中頃」となるが、後期後半代に出土する遺物から、「弥生時代後期の期間を通じた重要な墓地」(片岡2019)とされる。しかし、甕棺墓を条件に卑弥呼の墓を探ることは出来ないであろう。
注5. 文化庁HP「大原八幡宮の米占い行事」表題写真が表紙
リンクはこちら ページ数が多いですが、ぜひ写真、解説の図などをご覧ください。
参考文献
「風土記 日本古典文学全集5」小学館1997
萩原千鶴「出雲国風土記全訳注」講談社学術文庫1996 (解説を参照)
秋本吉徳「常陸国風土記 全訳注」講談社学術文庫2001
次田真幸「古事記全訳注」講談社学術文庫
片岡宏二「邪馬台国論争の新視点―遺跡が示す九州説―増補版」雄山閣2019
古田武彦「よみがえる卑弥呼―日本国はいつ始まったか」古代史コレクション ミネルヴァ書房2011
寺前 直人/設楽 博己【編】「Q&Aで読む弥生時代入門」吉川弘文館2024