流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

カテゴリ: 誤解、誤読の古代

 
米占い
  
 筑後国風土記逸文として筑紫の名の由来が三つ挙げられているが、その一つに甕依姫の登場する説話がある。この人物を、古田武彦氏は「みかよりひめ」と訓じて、卑弥呼と同一人物との可能性が高いとされたが、まだまだ検討すべき余地があると思われるので、この点について述べていきたい。注1)

1.風土記の中の荒ぶる神
 「三に云はく、昔、此の堺の上に麁猛神(あらぶるかみ)あり、往来の人、半ば生き、半は死にき。其の数極多(いとさは)なりき。因りて人の命尽しの神と曰ふ。時に、筑紫君・肥君等占ふるに、筑紫君等が祖なる甕依姫(みかよりひめ)して、祝祭(まつ)らしめき。こゆ以降(のち)、路行く人、神に害はるることなし。ここを以て、筑紫の神と曰ふ。」(小学館「風土記」)

 筑紫の名の由来を語るものの一つだが、後述するように、類似の筋立ての説話に較べて簡略化されており、まさに逸文であって情報量の少ないものである。
 まずは、「此の堺の上」の「此の」をどう見るかである。この逸文の筑紫の名の由来の二つ目の説として、筑後国はもと筑前国と合わせた国だったが、この両国の間に急峻な山があって、狭い坂を人が往来する馬のシタクラ(馬の鞍の下に敷く布)がすりきれたので「したくら尽くしの坂」との記述から、筑前と筑後の境と考えられる。さらに、筑紫の君と肥の国が占うとあることから、肥国の境界とも接するとすれば、基山から現在の筑紫神社のある筑紫野市筑紫あたりと考えられ、「堺の上」とあることから、峠と考えられる。この峠の道行く人々の通行を妨げる神がいたということであろう。
 次に命尽くしの神とは、手ごわい存在であったので、両国の指導者が兵力では太刀打ちできないと考えたから、その解決策を占ったわけであり、人間の力を超越したものには、祭祀、呪術で対応するしかないのである。神は人を守ってくれるだけではなく、場合によっては恐ろしい敵になるのである。
 そして、巫女である甕依姫に白羽の矢が立ち、どのような祭祀行為があったかは不明だが、無事に神の怒りを鎮めることができたのである。その神の名が筑紫(ちくし)の神と呼ばれたという。ここで明確なのは筑紫の君と筑紫の神は別物ということである。ただし、筑紫の君の筑紫から、人の命を奪うという意味の名前を持つことになる。
ではこの神の人命を根絶やしにするほどの行いとは、どのようなことを意味するのであろうか。実は神が道行く人々を半生半死にしてしまうという説話は他にも類似のものがある。

2.風土記における半生半死説話
 以下に、類似の説話を列記してみる。各原文は一部だけ記載。
①播磨国風土記揖保郡 意此(おし)川 出雲御蔭大神 坐於枚方里神尾山 毎遮行人半死(半)生
  いつも旅人の道を遮り通る人の半数を殺し半数を殺さないで通した。その時、伯耆の小保弖(をほて)らが心憂えて朝廷に訴え、神の殿舎を作り楽しんだと見せかけて櫟(いち)山の柏を帯にかけ腰に差しはさんで川を下って鎮めた。
② 同  佐比岡 出雲之大神 在於神尾山 此神 出雲国人経過此処者 十人之中留五人 五人之中留三人
  出雲の国の人でここを通り過ぎる者の、十人のうち五人を引き留め、五人のうち三人を引き留めて殺した。岡を祀ったが、うまくいかず、それは女神が男神を祭らなかったから恨んだとのことだが、河内の国の枚方の里の漢人が祭って鎮めることができた。
③ 同 神前郡 生野  此処在荒神 半殺往来之人 由此号生野
  昔此処に荒ぶる神在りて 往来の人を半数殺した。これによって死に野と名付けた。
④肥前国風土記基肆郡 姫社郷(ひめこそのさと) 有荒神 行路之人 多(さは)被殺害 半凌半殺
  通行する人がたくさん殺され、半数は助かったが半数は殺された。占って筑前の国宗像郡の珂是古を祭らせた。捧げた幡が飛ぶ様子と見た夢によって織物の女神とわかり社をたてて祭った。
⑤ 同  神崎郡 昔者 此郡有荒神 往来之人 多被殺害
  昔、荒々しい神に道を行き来する人がたくさん殺された。景行天皇が巡狩(巡視)した時にこの神は穏やかになった。
⑥ 同  佐嘉郡 此川上有荒神 往来之人 生半殺半
  この川上に荒々しい振る舞いをする神がいて、その道を行き来する人の、半数は殺さないで半数は殺した。県主らの祖である大荒田が占って神意を問うと、土蜘蛛の大山田女・狭山田女という二人の女子が、人の形・馬の形を作って祭るようにと言ったので、大荒田はそのように従って神を鎮めた。 
⑦逸文 摂津の国 下樋山 昔有大神 化為鷲而下止此山 十人往者 五人去五人留
  天津鰐という大神が鷲の姿になって、この山に居着いた。十人通行したら、五人は通り過ぎ、五人はつかまってしまった。久波乎(くはお)が、この山にきて、下樋(暗渠)を使って天津鰐のもとに行き、ここを使って通行してはお祭りをした。
⑧逸文 筑後の国 昔 此堺上 有麁猛神 往来之人 半生半死 其数極多 因曰人命尽神
  昔、国堺の山の上に荒々しい神がいて、行き来の人の半分は通行できたが半分は命を失う有様であった。死亡する人の数はとても多かった。よって命尽くしの神と呼んだ。(本稿の既出のもの)
⑨播磨国風土記賀古郡 鴨波(あわわ)里 此里有舟引原 昔神前村有荒神 毎半留行人之舟 於是 往来之舟
  この里に舟引原がある。昔、神前の村に荒れすさんだ悪神いて、通行人の舟を半数妨害して通さなかった。そのために船を上流にさかのぼり、山越えで船を曳いて迂回して別の川を下った。⑨は人ではなく船ではあるが、その内容は同じものと考えられる。注2)  

 以上のように、簡略化されたものもあるがこれらの半生半死の説話は、荒ぶる神への対策として占いを行い、祭祀者を招き、なんらかの祭祀行為を行い鎮めることができたという同じモチーフが使われている。注3)共通するもののひとつに、通行に使われる道や山の峠に荒ぶる神が現れるというのがあるが、これをどう理解すればよいであろうか。
 荒ぶる神については、国つ神であるとの定説があり、天つ神の侵攻にたいして抵抗する集団をまつろわぬ神とされている。しかし、常陸国風土記の久慈郡の条には、人々を苦しめる立速男(たちはやをの)命は天より降った天つ神とあり、秋本吉徳氏の解説にあるように異例の神とされている。支配される側の反乱にもとづく説話とは異なるものもあるのではないだろうか。

3.人知を越えた畏怖すべき観念からつくられた説話
 ちなみに出雲国風土記の出雲郡宇賀の郷では、脳(なづき)の磯というところの窟(いはや)の内に穴があり、夢でこの磯の岩窟のあたりに行くと、必ず死ぬ、と言う話が見られる。萩原千鶴氏の解説では、この洞窟がかって墓地として利用されていたことから、黄泉の穴と考えられてその世界に入ることが死につながるとされたとの解説がある。そうすると、山の上の荒ぶる神も、人の通り道の付近に黄泉の穴を作っていた、というように人々が考えていたかもしれない。
 また、日本書紀と古事記の崇神天皇の段には、半生半死ではないが似た筋立ての説話がある。古事記では「伇病多起、人民死爲盡」、書紀では、「國內多疾疫、民有死亡者、且大半矣」、すなわち、疫病が大流行して国民が絶滅しそうになり、民の死亡するもの半ば以上という。これは半生半死と同じ意味であろう。崇神天皇はこれを憂いて、八十万(やそよろず)の神々を招いて占いをされる。そして神意を聞いて大田田根子に祭祀をさせると疫病は収まったのである。これが原型かと思えるような同じモチーフの物語ではなかろうか。疫病への対応ではあるが、古代人にとっては疫病も荒ぶる神の仕業であったと考えられていた。
 いずれにしても、人知の及ばない神のおこないに対する死への怖れに苦慮する人々の観念からつくられ、伝承されてきたものであろう。具体的には、伝染病の他に通行を妨げるという点では、洪水、土砂崩れといった自然の猛威の体験談が根底にあったかもしれない。こういったことが、各地の地名譚につながったこともあったと考えたい。
 
4.古代の戦争は、命を尽くすようなものだったのであろうか。
 先の甕依姫の説話に戻るが、この「半死半生」によって人の命が尽きるような状態であったということは、つまりはほぼ皆殺しということである。
 古田武彦氏は、この甕依姫を卑弥呼のこととされて、半死半生は、弥生時代の内乱といった解釈をされた。しかし、これが戦いの話なら、筑紫国と肥国のリーダーが揃って占いをするというのは奇妙であり、まずは、荒ぶる相手に自国の兵力をぶつけるべきであろう。だが、類似の説話含め、最初から力で抑えることはしていないのである。どの説話も、最初から神意を問うことで解決を図ろうとしている。これを弥生時代の内乱、戦争のようにとらえることに疑問が生じる。先ほどの荒ぶる神が国つ神側の集団で、侵略した側の集団に反撃を挑んだとしても、通行する人々の無差別的な殺人は行わないのではないだろうか。古代の戦争というよりは、古代人が畏怖しているものへの祭祀行為として理解してよいのではなかろうか。
  ⑤のエピソードも、景行天皇は戦闘行為を行ってはおらず、あくまで巡視の結果、鎮めることができたのである。省略されてはいるが、天皇によるなんらかの祭祀行為があったのではないだろうか。
 また、古田氏は甕依姫を「甕(みか)」を依り代とする、甕棺の盛行した弥生時代の筑紫の巫女と考えられた。同じく弥生時代(三世紀)の卑弥呼と同時代の人であったというのだが、別のことも考えられる。そもそも、甕棺墓が弥生時代の末まであったかどうかは今のところ不明だ。注4)卑弥呼が甕棺墓に眠っているとは考えにくいのである。  
 古墳時代には祭器として須恵器の甕がよく使われている。沖ノ島祭祀遺跡でも、須恵器甕が据え置かれた状態で出土しているのである。ここは棺としての甕というよりは、古墳時代の甕で祭祀を行う巫女としての甕依姫と考えたほうがよさそうではないか。タケミカヅチも日本書紀では武甕槌と表記されており、これを甕棺に結びつけることは出来ないであろう。また崇神紀の大田田根子は武甕槌の子なのである。さらに書紀には、武甕槌は、イザナギが斬った軻遇突智(カグツチ)から生まれた甕速日神の孫とされている。こういったところの検討も必要ではなかろうか。

5.甕依姫の行う祀りとは?
 以下は、同じ古田史学会員の方のご教示による。
 甕依姫がどのような祭祀を行っていたのかは、風土記逸文には何も語られていないので想像するしかない。甕依姫と関係する筑紫神社は、由緒によると祭神が筑紫の神、後に竈神社より玉依姫を勧請したとある。その祭祀に粥占(かゆうら)という独特の行事がある。粥占は、釡や鍋で炊いた米の粥や小豆粥を器に盛り、一定期間神前に供えて置いた後、粥に生えたカビの状況を見極め、神慮を伺うという。同じ祭祀を行う神社が、北部九州の福岡県の背振山麓北側の福岡平野や南東側の平野部、筑後川流域に見られる。
 およそ45カ所の神社で確認できるようだが、その中には高良大社末社の大学稲荷神社、竈門神社、老松神社など、九州王朝との関係が考えられる神社もこの粥占行事を行っているというのは興味深い。現在、文化庁の「大原八幡宮の米占い行事」注5)において、詳しい説明が写真入りでみることができる。発生したカビの状態で川筋の異変を的確に占うというのは、洪水被害に対する人々の切実な思いからくるものであろう。
 粥占に共通するのは、はじめに土製もしくは金属製の竃や甕でグツグツと小豆や米を煮るという行為で、これを、「甕依姫」が執り行っていたのかもしれないのだ。あくまで一つの例ではあるが、神事に欠かせない祭器の甕を扱う巫女が妥当としたい。なお、筑紫神社の由緒にある祭神の筑紫の神は他に見られない神名であり、その正体も気になるところである。

 以上をまとめると、
 類例の多い半生半死の説話は、古代人の死生観、信仰という視点でとらえることも必要と思われること。
 荒ぶる神も、崇神紀の例のように被支配者の抵抗という側面以外の視点もあると考えられること。
 甕を古墳時代以降の信仰上の祭器とも想定できること。
 記紀には甕の名を持つ神が複数存在しており、この検討も必要であり、さらに筑紫神社の祭祀なども考慮が必要であること。
 甕棺墓は、現在のところ、卑弥呼の時代まで存続したとは言い難いこと。
 このようなことから、甕依姫を卑弥呼と断定することや、その説話から卑弥呼の都の所在地の傍証にするというのも無理があると思われ、甕依姫については、まだまだ検討の余地があると考えたい。

注1.本誌掲載の谷本茂氏の《「多元史観」からみた『風土記』論 ―その論点の概要―》に詳細な解説がある。
注2.半死半生については、こちらで半殺しのことと説明しています。
注3.なお、古田氏は、筑紫風土記に、重大な「原文改定」が行われていたとして、「令(改定)」は「今(原文)」とする解釈を提示されたが、2.の①では、額田部の連久等々を遣りて祈らせている。その箇所に「令禱」とある。また、2.の④でも、「令筑前国宗像郡人珂是古祭吾社」さらに「珂是古令祭神社」とある。これら一群の説話との共通性から、令の字は適切であると思われる。ただ、「今」であった可能性は否定できないが、その場合も本稿の結論を左右するものとはならないと考えられる。
注4.「桜馬遺跡甕棺の時期は、後期前半中頃」となるが、後期後半代に出土する遺物から、「弥生時代後期の期間を通じた重要な墓地」(片岡2019)とされる。しかし、甕棺墓を条件に卑弥呼の墓を探ることは出来ないであろう。
注5. 文化庁HP「大原八幡宮の米占い行事」表題写真が表紙
リンクはこちら  ページ数が多いですが、ぜひ写真、解説の図などをご覧ください。

参考文献
「風土記 日本古典文学全集5」小学館1997
萩原千鶴「出雲国風土記全訳注」講談社学術文庫1996 (解説を参照)
秋本吉徳「常陸国風土記 全訳注」講談社学術文庫2001
次田真幸「古事記全訳注」講談社学術文庫
片岡宏二「邪馬台国論争の新視点―遺跡が示す九州説―増補版」雄山閣2019
古田武彦「よみがえる卑弥呼―日本国はいつ始まったか」古代史コレクション ミネルヴァ書房2011
寺前 直人/設楽 博己【編】「Q&Aで読む弥生時代入門」吉川弘文館2024

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⑴記事の内容についての問題点

自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統
 
 倭国が、合計126国の周辺国を支配していったように書かれているが、これは史実なのであろうか。史実と判断する前に、史料批判、内容の吟味が必要かと思われる。この点について述べていきたい。 
①制覇の時代はいつ頃なのか。倭王武以前ではないのか?
 史実だとされる方の中には、倭武王の事績も含まれると考えられるような説明もあるが、「祖禰」は倭王武を含まないし、さらには、かたじけなくも先緒を胤ぎ、とあることから、倭王武は引き継いだことになる。よって、軍事行動は、倭王武の遣使のあった478年以前のこととなり、栄山江の問題も無関係となる。126国とは、遠い過去のご先祖の言い伝えの累積であろうか?
②「東征」、「西服」の拠点はどこなのか?もし九州であるならば、西の方が国数が多いのは奇妙。または、5世紀後半には、近畿を中心とする倭国があったのか?
③「毛人」とはどこの何を意味しているのか?同様に「衆夷」とはどこの国なのか?中心点を確定できない状態では、憶測しか言えないのではなかろうか。
④「海北」は、常陸国風土記でも使われる用語。行方郡条に、「倭武天皇巡狩天下、征平海北」とある。ここでは「海」は湖を意味する。これを無視してよいのであろうか。海北を韓半島と断定できるのであろうか?
⑤複数の研究者が、史実ではなく外交上表現、「天下観念の表現」(東潮2022)などと説明しておられる。
 また以下のような指摘もある。
「東征」「西服」は、「文章規範に則った表現」(河内2018)とされ、次のような例を挙げている。
『晋書』乞伏乾帰伝 「我が王は神の如き雄大な姿で隴右(西晋)を建国し、東へ西へ敵を打倒し、領土とならないところはない。」
『晋書』陽騖伝 「〔慕容〕皝が王位に即と、(陽騖)は左長史の職に遷り、東西に征伐し、帷幄の中で謀をめぐ
らした。」
⑥東は「征」、西は「服」、海北は「平」、とわざわざ文字を変えて美文調にしている。この三つの用語を各々に意味のある表現で使い分けた、というのは考えにくい。東55国の毛人は征したのであって、西の衆夷は66国みな服従させて、さらには半島では95国はすべて平定したのだ、という捉え方では説明できないと思われる。
⑦上表文作成者は漢文に長けた渡来人。百済上表文と倭王武上表文の漢籍利用の類似点があり、百済にいた中国系知識人による作成と考えられる。「躬擐甲冑,跋涉山川」と少し後の「掠抄邊隸,虔劉不已」は『春秋左氏伝』より。「不遑寧處」は『詩経』から。「臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統」は東晋桓沖の上表文と言い回しが同じという。ほかにも後漢書朱浮伝の「廓土」「百万」などがある。また上表文には「驅率所統」(統ぶる所を驅率し)という一節があるが、江田船山古墳大刀銀象嵌銘には後半に「不失其所統」とある。その銘文の末尾には書者張安とあることから、この人物が上表文にも関わっていた可能性は否定できない。
⑧「海北渡平95国」が半島南部での制圧行為であったのなら、なぜそのような痕跡、史料の記述はないのであろうか。新羅本紀には「倭人」との紛争が数多く記されているが、たいていは撃退しており、占領されて新羅の陣地が後退していったという記事は見当たらない。
⑨宋書には「倭国在高驪東南大海中」とあり、後漢書は「倭在韓東南大海中依山㠀為居」とある。中国に倭の半島支配という認識はない。
⑩そもそも東西海北216国は、478年以降どうなってしまったのか?雲散霧消してしまったのでしょうか?
⑪古墳時代には、争乱の痕跡が見つからないと、早くから言われている。この点について次にのべる。

⑵古墳時代の倭国になぜ山城は造営されなかったのか?
 
 以下は山本孝文氏の指摘である。「半島の三国時代の各国の遺跡の中で、代表的なものは都城関連遺構であり、都城遺跡は必須の調査研究対象である。ところが、一方で日本列島の古墳時代には、各地で首長居館は発見されているものの、中心や周辺の諸勢力が集住し、国家レベルの政治システム運営の舞台となったような都城は存在せず、それが現れるのは飛鳥時代以降となる。社会発展の一つの基準として城郭の出現が重視されている中国・韓半島を含む東アジア諸国のなかにおいて、これはきわめて特殊な状況といえる。
 日本列島の古墳時代に山城のような重厚な軍事施設が築かれなかったのは、拮抗する政体間の長期に及ぶ激しい抗争が、韓半島に比べて極端に少なかったためではないか。逆に、山城築城のような大規模な労働力を必要とする作業がなかったからこそ、古墳築造にコストを投入できたともいえる。」(山本2018)
 以上だが、半島に多数存在する山城が、その同時代になぜ列島には形成されなかったのか、という視点はたいへん重要な指摘といえよう。
 「城の定義と数え方にもよるが、主に高句麗・百済・新羅の三国時代に築造された850カ所に達する城郭が存在」(田中2008)しているとのことだが、この点だけからも、半島の長期にわたる不安定な状態、紛争の絶えない政情であったことがうかがえる。もし、列島内に、次々と他国を制圧するX王国があったとすると、制圧される側の中には、あっさりと降伏するのではなく、抵抗する国も出てくるのではないか。そして、中にはX王国に対し防衛策にでる国もあるはずだ。ならば、なぜ山城などを築くことはしなかったのか。
 山城については、書紀敏達紀に日羅の提言で「毎於要害之所堅築壘塞矣」(すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように)とあり、対馬の金田城など、九州を中心とする各地の山城が、この時期以降に始まったのではないかと考えられる。ちなみに播磨国風土記の神埼郡には、応神の世に渡来した百済人が城を造って住んだとあるが、時代も実体も不明である。私見では、岡山県鬼ノ城は、亡命加耶勢力が縁の深い吉備の定住の地に防衛としての山城を築いたと考えている。

⑶中国側の5世紀の倭国にたいする認識
 
 倭の珍は安東大将軍を求めたが、認められたのは讃と同じ第三品の安東将軍。これは高句麗高璉(長寿王)の征東大将軍、百済の餘映は(毗有王)の鎮東大將軍が上位となろう。
 さらに、済、世子興も安東将軍とかわらず、ようやく武になって安東大将軍と除された。つまり、中国は、倭国を5世紀後半まで、高句麗、百済よりも格下と認識していたのである。後述するが、百済を含めた六国諸軍事の要請のうち、百済をはずしたのも当然といえる。中国側に、半島において95国を制した国という認識はないといえる。繰り返すが、史書の出だしに書かれているように、倭は半島の東南の大海にある国という認識なのだ。
 次に、関連するので、「六国諸軍事」について説明する。

⑷倭の五王の「六国諸軍事」は半島への軍事的支配を意味するのか
 
 この問題に関しても、従来とは異なる認識がすすんでいる。仁藤敦史氏の指摘だが、「481年に、大伽耶と百済が高句麗の侵入に苦しむ新羅に援軍を送ったことは、大きな転機だった(『三国史記』新羅本紀)。これは反高句麗勢力の結集が可能となったことを示している。」(仁藤2024)とあるが、それ以前の高句麗による漢城陥落の直後に、新羅は百済からの援軍要請に応えて百済支援の派兵をおこなったが、これは間に合わなかったのだが、反高句麗の共同戦線の形があることが窺える。そうすると、諸軍事の要求は、百済が本来は主導するものを、倭国が、百済に代わって宋に対して要請したと考えることができる。
 建元元年(479)に加羅の荷知王は南斉へ朝貢し、輔国将軍に除正されている。もし、倭王の要請した六国諸軍事が、軍事的支配を意味するならば、これは、中国側が倭と加羅に対し重複除正をしたことになるが、ともに第三品で授爵されていることにかわりなく、加羅は倭と対等の独立国の扱いだった。つまり、加羅への諸軍事は、実体のない一方的な倭国側の要求にすぎないことを示している。(河内2018)
 同様に次のような指摘もある。「479年に加羅の荷知王が輔国将軍に授爵されているが、それ以前、宋が加羅の宗主国であったことはなかった。加羅は(略)521年にはじめて梁に朝貢している。朝貢関係のない国々の都督権を倭にあたえたのである。宋の国家的利害関係にもとづく専断にすぎない。このことをもって倭が百済を除く諸国の支配権を宋から承認され、あたかも『海北95国』を平らげたというような論はなりたたない。」(東2022)
 研究者は冷静に評価しており、そうであるならば、六国諸軍事なるものは高句麗を敵視し百済に肩入れする倭国の、反高句麗半島諸国同盟といった政治的パフォーマンスといったものではなかろうか。百済と六国は高句麗の圧迫にさらされていることは共通している。倭国が対象国に対し軍事的政治的に支配した、などということを示すものではないのである。

⑸中行説の匈奴へのアドバイス
 
 最後に、新川登亀男氏の中行説(ちゅうこうえつ)に関する記事を紹介しておく。中行説は燕国出身で前漢前の宦官であったが、のちに匈奴の指導者の老上単于の側近として仕えた人物で、「匈奴に対して、「疎記」(箇条書き的な記録)の効能を教え、匈奴の人数や家畜の種類などを記録し、漢の皇帝に送れと助言している。そして漢の皇帝が匈奴に送る1尺1寸(当時の1尺は23cm)に牘(とく)に書かれた尊大な修辞に対抗し、同様な牘に大きな封印を施し、尊大な言辞・修辞を加えた贈り物を漢の皇帝に送ったという。人、動物、種類、単位、数値を箇条書き的に羅列し、実物も送り、それに付随していろいろな修辞・文字で飾り、相手に見せつけ、自己主張しろと中行説は言った」(荒川2016)という。
 倭王武の上表文も、外交文書として最大限の修辞で飾って中国にアピールしているのである。上表文の内容をこのようにとらえる必要があるわけで、書いてあることをすべて鵜呑みにしてはいけないのである。

 以上のように、上表文の一節をもって列島の倭国が東西海北126国を制圧していたなどというのは、史料批判もなく、さらにはエビデンスもない状態で、これを額面通りに受け取ることはできないのである。

参考文献
山本孝文『古代韓半島と倭国』中央公論新社2018
田中邦煕『朝鮮半島の城』土木史研究講演集Vol.28 2008 ネット掲載 
河内春人『倭の五王』中公新書2018  
仁藤敦史『加耶/任那』中公新書2024  
東潮『倭と加耶』朝日新聞出版2022
森浩一「著作集2」新泉社2015年  
河上麻由子『古代日中関係史』中公新書2019 
荒川登亀男『漢字文化圏の成立』ユーロナラジアQ 2016

空海の風景
 日本人は、遣唐使や鑑真の渡航の苦労話などがあって、古代における海外との交流については容易ではないように小学生から思い込まされているのではないかと思われる。そのために大陸、半島からの渡来者、移住民の存在が過小評価され、交易や文化的交流など古代史の解釈にも否定的な影響を与えている。
 例えば、ある教科書には、「鑑真、苦難の旅 何度も航海で難破し、その間に失明」とある。ほとんどの日本人は義務教育で同様の内容を学んでいる。とにかく日本への渡来、航海は困難を伴うものであるという、先入観が早くから植えつけられるのだ。
 研究者も、少数の渡来は認めても、日本で定着した文化は、彼らからその情報を受容したもの、との説明がよくなされている。近年でも次のような例がある。『渡来系移住民』(岩波書店2020)の中で朴天秀は「遣唐使は260年間で長安に到達できたのは13回であり、全員が無事に帰国できたのは1回にすぎない」とし文物の交流は新羅経由を強調されている。全く史実とは異なる説明だ。これは極端な例であろうが、こういったことが訂正もされずにまかり通っているのが今の現状であろう。

1.遣唐使は危険な船旅であったとの誤解の始まり

 そもそも、この誤解の始まりは、上田雄氏の『遣唐使全航海』によると、ある著作からはじまったようだ。
森克己氏の『遣唐使』(1955)は古典的著作とされているが、「帆に頼るよりも人力によって漕ぐ場合が多かった」と記されているところがあって、これが定説のようになってしまった。しかし、平均横断日数は7日ほどで、終始帆走している。しかし、渡海の困難さが強調され、これに影響を受けた著作も現れた。
司馬遼太郎氏の『空海の風景』に、次のような一節がある。
 「‥‥夏は風は唐から日本へ吹いている‥‥遣唐使船は‥‥わざわざ逆風の季節をえらぶのである。」 
 「この当時の日本の遠洋航海術は、幼稚という以上に、無知であった」と記されておられる。しかし、これは作者の勘違いであった。
 夏は、大陸が暖められ低圧になり、太洋は比較的低温で高圧となるので、風は日本側から大陸へ吹く。
 冬は、大陸は冷やされ高圧になり、太洋は比較的高温で低圧になるので、風は大陸側から日本側へ吹くのである。
 残念ながら、司馬氏は過去の研究の少ない分野の、しかも間違った説を参考にされていたようだ。だが、この小説の影響は大きく、人々に渡海の困難さばかりがイメージされ、教科書でも同様の記述がされて、多くの国民の常識のような状態に至ったのである。
 実際には、入唐僧円仁の精密な記録である『入唐求法巡礼行記』(にっとうぐほうじゅんれいこうき)に、7月下旬、何頭の風を受けての航海は、夏の季節風を利用したもので、博多の那の津を出てから、長江デルタ座礁まですべて帆走していたとのことだ。「人力によって漕いだ方が多かった」という説は当てはまらないのだ。

2.遣唐使の解説に誇張はなかったか。
 
 この点に関しても上田雄氏は明快に述べておられる。「二百年余りの間に日本から発遣された遣唐使船は三十六隻、そのうち二十六隻は無事に帰国し、七割強が往復に成功。人員では八割強が帰国を果たした。ほとんどの航海で遭難して漂流し多くの犠牲者を出したというのは、極めて自虐的な大袈裟な表現で事実を正確に見ていない」というのだ。百名余りが死んだ記事も海上で亡くなったわけでなく、上陸先で賊に襲われたり疾病によるものなのだ。
 これは鑑真の来日の苦労話も同様だ。弟子や唐の官憲の妨害で船を出せずに三回挫折し、漂流は一回なのに、何度も苦労して失明もしたなどという話が、義務教育等で植え付けられたのだ。
 記録では早い時には三日、遅くても八日ほどで東シナ海を横断している。中国の文物も大量に持ち帰っているのに、暗いイメージが刷り込まれていったのだ。子供のうちから、遣唐使も鑑真も渡航での苦労が誇張されたことがその後の思考に影響していると考える。

3.鑑真の失明にも疑問が
 
 鑑真は渡海する前から眼を患っていたようで、先ほどにもふれたように、航海の苦労がたたった結果、失明したというわけではない。また、訪日の時点で既に完全に失明していたとすることにも疑問があるようだ。  
 『続日本紀』には、鑑真は留学僧の栄叡の死去を悲しんで失明したと記している。来日していた時には完全に失明していたというわけではないようだ。『東征伝』には、渡海の際の炎熱を経て視力失ったとある。他に、白内障が原因とする学者もおられる。
 鑑真は来日後、一連の行事、受戒のための戒壇の設置、孝謙天皇をはじめ多数の僧に受戒を行っている。受戒と戒律の教授を行える多少の視力はあったということであろう。(米田雄介2022)
 ネットでの記事にも見受けられるが「五度の渡海失敗にめげず失明の身で来朝」、などというのは不正確なのである。

3.菅原道真の遣唐使の廃止提言の理由

 寛平6年(894)に参議左大弁菅原朝臣は遣唐大使に任命された。しかし、本人は宇多天皇に遣唐使の廃止を提言する書をたてまつっている。そこには、唐の現状を見ると、唐国内の旅行もきわめて危険であると、渡海の苦難よりも唐国内に入ってからの安全保障がないことを指摘し、最後に自分の身の安全のために言っているのではないことを付け加えている。
 つまり道真は、自分が遣唐使に任命されたのを機に、唐の政情不安を理由として、廃止を唱えたのであり、その結果、遣唐使は一か月あまりの後に停止されたのである。
 このように、道真は遣唐船の航海の危険を理由に廃止提言をしたわけではないのである。

 以上のように、悪天候に遭遇するなどの事故もあったであろうが、古代における船の移動は、我々の想像以上に、活発におこなわれていたと考えられるのである。渡海の困難さばかりが誇張されることがないようになることを願いたい。
 
参考文献
『中学社会 歴史的分野 ともに学ぶ人間の歴史 文科省検定済み』(学び舎2017)
司馬遼太郎『空海の風景』中央公論社1975  表紙写真はAmazon.comより
上田雄氏『遣唐使全航海』草思社2006
米田雄介氏は『日本におけるソグド人安如宝の足跡』(NARASIAvol.22奈良県立大学2022)

藤ノ木古墳金銅製筒形品
 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示の金銅製筒形品の復元品

1.筒形品に残存していた繊維質は髪の毛だった。

 報道(2024.11.20)によれば、金銅製筒形品は長さ約40センチ、最大径6センチ。中央が細くなる形状で、表面には歩揺(ほよう)と呼ばれる飾りが多数付けられ、被葬者の頭部付近から見つかっている。保存処理に伴って、表面に付着する繊維質を分析したところ、「毛髄質(もうずいしつ)」に相当する構造が確認され、毛髪の可能性が高まった、とのことだ。
 藤ノ木古墳の説明パネルには、この筒形品の一部に繊維質が残っており、何かに括りつけていた、という解説がされている。これが、髪の毛であったというのだ。ということは、埋葬時に髪を巻いて括るようにつけていたのではないかと思われる。おそらく、きちんと固定できるように、紐のようなもので結んでいたのかもしれない。すると、この被葬者はきらびやかな多数の歩揺のついた髪飾りを着けた女性ということになろう。
 従来、二人めの被葬者の性別については、議論があったが、残存する足の骨から男性と判定されたこともあって、二人の被葬者を日本書紀の崇峻天皇紀のはじめに登場する、皇位継承者候補でありながら殺害された穴穂部皇子と宅部皇子とする説があった。
ただ男性二人がいっしょに埋葬されることには、いぶかる声もあったが、日本書紀の記述の「宅部皇子は、穴穗部皇子に善(うるは)し」との箇所の、善は、仲が良い、間柄がきちんと整っている意、とする岩波の注もあり、この箇所をとらえて、男性同士の二人は特別な関係であった、といった解釈をされる研究者もいた。しかし、残念ながらそうではなかった。
 男性であるとの鑑定結果に反論されていたのが、玉城一枝氏だ。氏は、二人の被葬者の間での異なる装飾品に注目された。女性と考えられる人物に手玉・足玉が着装されて、一方で美豆良飾りがないと指摘されている。人物埴輪の事例で説明され、説得力のあるものである(玉城2019)。ほかにも剣と刀子の問題など、男女の副葬品の違いを指摘しておられる。
 今回、用途不明であった金銅製筒形品に付着していたものが髪の毛の可能性が高いということで、藤ノ木古墳の被葬者はおそらくは夫婦の男女であったことから、新たな検討が必要となるのではないか。

藤ノ木古墳金銅製鞍金具後輪把手
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示の金銅製馬具の後輪(しずわ)

2.把手の付いた金銅製馬具は、女性用の可能性。

 藤ノ木古墳の石棺の外側の奥のすき間には馬具が置かれていた。その鞍金具の後輪の後ろ側には把手がついている。同様の資料が韓国慶州江南大塚北墳から出土して、女性の墓であることが判っているという。すると、把手がついているのは女性用であり、横すわりで把手を片手でつかんで乗るものであったようだ。ならば藤ノ木古墳のもう一人の被葬者のための女性用の馬具であったことになり、このことからもやはり女性が埋葬されていたことを示していると言えよう。
 また、鞍橋(くらぼね)の前輪と後輪が平行して居木(すわるところ)にほぼ直角に取りつく形態は、北方騎馬民族の鮮卑の鞍のスタイル(前園2006)であるという。

筒形銅器
 関西大学博物館展示筒形銅器

 藤ノ木古墳の豪華な副葬品の中にある金銅製冠が、西方文化と関係することが早くから指摘されてきた。馬具もしかりだが、筒形品も外来の関係でみることも必要であろう。藤ノ木古墳のものは、中央が狭まったいわば鼓型のものだが、形は異なるが用途不明の筒形銅器は、棒状の柄に装着したものといった解釈もされていた。だが、江上波夫氏は、軽いものは女の人が頭の上に立てた冠だと述べておられる(江上1990)。実際に、列島では70本を超え、半島でも70本近く出土している。
 藤ノ木古墳の場合は、頭頂部に横に寝かせて結びつけていたのであろうが、他の筒形銅器が女性の頭に立てて着けていたとは考えにくい。どうやって頭に固定したのかもわからないが、それでも下図のスキタイの王妃の服飾推定復元図が事実であれば、時代は離れるが頭飾りの可能性も検討が必要であろう。


アルタイ王妃頭飾り
 図はアルタイ・アルジャン1号墳(前8世紀前後)の王と王妃の服飾推定復元図 林俊雄「スキタイと匈奴 遊牧の文明」より
 
参考文献
玉城一枝「藤ノ木古墳の被葬者と装身具の性差をめぐって」大阪府立近つ飛鳥博物館図録46 など、ネットで閲覧可能。
日高慎「東国古墳時代の文化と交流」雄山閣2015
前園実知雄「斑鳩に眠る二人の貴公子 藤ノ木古墳」新泉社2006
江上波夫・佐原真「騎馬民族は来た?来ない」小学館1990 
田中晋作「筒形銅器と政権交代」学生社2009
林俊雄「スキタイと匈奴 遊牧の文明」講談社2017



 日本書紀には、武寧王誕生の説話が雄略紀と武烈紀の二カ所に登場する。渡来した新羅王子であるアメノヒボコについては、日本書紀や古事記、そして播磨国風土記などにも描かれている。ところが武寧王は、佐賀県唐津市加唐島で生まれたことになっているのだが、どうして肥前国風土記には記さなかったのかという疑問が浮かぶ。書紀には、倭国に渡る前のいきさつなどを詳しく説明するなど、百済王の中でも重要な人物のはずが、何故風土記には記されなかったのか。そもそも武寧王は、肥前国の嶋ではなく他の地域で誕生したのではなかろうか。この点について、唯一の根拠となる日本書紀から考察していきたい。

1.日本書紀の誕生譚

 誕生に至る前段の話はこうである。百済蓋鹵(こうろ・がいろ)王は、弟の昆支を倭の天王に派遣する。その時軍君(コニキシ・昆支)は、蓋鹵王の身重の女性を譲ってもらう。生まれたら帰すようにと言って送り出したが、その女性は途中で出産したという。次に以下のように記されている。
 於筑紫各羅嶋産兒、仍名此兒曰嶋君。於是軍君、卽以一船送嶋君於國、是爲武寧王。百濟人、呼此嶋曰主嶋也。秋七月、軍君入京、既而有五子。(雄略紀五年)
 この現代語訳を記すと次のようである。加羅(かから)の島で出産した。そこでこの子を嶋君(せまきし)という。軍君(こにきし)は一つの船に母子をのせて国に送った。これが武寧王である。百済人はこの島を主島(にりむせま)という。秋七月軍君は京にはいった。すでに五人の子があった。(宇治谷孟)
次は武烈紀四年の記事。
 琨支、向倭時至筑紫嶋、生斯麻王。自嶋還送、不至於京、産於嶋、故因名焉。今各羅海中有主嶋、王所産嶋、故百濟人號爲主嶋。
 昆支は倭に向かった。そのとき筑紫の島について島王を生んだ。島から返し送ったが京に至らないで、島で生まれたのでそのように名づけた。いま各羅の海中に主(にりむ・国王)島がある。王の生まれた島である。だから百済人が名づけて主(にりむ・古代朝鮮語で王の意)島とした。(宇治谷孟)
 ほぼ同じような内容だが、実の兄から女性を譲り受けたが、身重だから生まれたら国に帰せ、というのは奇妙な話である。意図して作られた部分もあるとして、この記事を検討しなければならないだろう。

2.現地調査では、痕跡の確認できなかった加唐島

 赤司善彦氏ら研究者による武寧王伝説の合同調査が現地で行われたことがある。島民への聞き取りなど含め、くまなく調査が行われたようだが、偉い人が生まれた、といった伝承を聞いた人はいるが、武寧王と関連付ける痕跡は見つけられなかったようだ。ただ、壱岐島から糸島半島は視認がしにくく、この加唐島を目安に渡海した可能性はあるようだ。
 そもそも、加唐島と理解されているが、書紀の原文は各羅嶋である。普通ならカクラと訓むが、岩波の補注によれば、国学者西川須賀雄氏の説をひいて、各をカカと訓む事例もあることから、加唐島にあてたのである。ところがその補注には、先に各羅をカワラと訓む事例をあげている。文永一(1264)年または建治一(1275)年に完成した、日本書紀の注釈書(二八巻、卜部懐賢著)である釈日本紀は、「カ禾ラ」と訓みを付けており、明らかにカワラと訓んでいるのであるが、これは採用されなかったのだ。この場合、カワラと呼ばれる地名も検討しなければならないのではないか。
 さらに、地名と関連してまだ気になる所がある。それは、現代語訳にあるように島と解釈されているが、原文は嶋となっているところである。ひょっとすると、カワラ嶋というところがあったのではなかろうか。
 
3.河川付近にある嶋という字地名

 現在確認できる嶋という地名は、4カ所ある。兵庫県西脇市嶋は、加古川のある所であり、鳥取県鳥取市嶋も付近に野坂川がある。静岡県牧之原市嶋は、大きな河は確認できないが、沢水加川があり、付近に倉沢という地名がある。和歌山県紀の川市嶋は紀ノ川の河川敷一体の地になっている。いずれも河川付近に位置し、流水によって運ばれた砂礫の堆積地、砂州といった地形と考えられる。つまり、アイランドの島ではなく、海岸線から離れた場所に嶋があるのである。
 また日本書紀には、嶋の多くは小島を意味するのだが、なかには、「素戔嗚尊曰韓鄕之嶋、是有金銀」とあるように嶋は国を意味する使い方もされているのだ。
 ではその嶋はどこを意味するのであろうか。実は書紀は雄略紀も武烈紀も、筑紫嶋と何度も繰り返しているのである。これは肥前の国の加唐島ではなく、筑紫国の嶋という地域を意味しているのではないか。筑紫には嶋という単独の字名は見当たらないが、福岡県朝倉郡筑前町に四三嶋(しそじま)という地名がある。ここには、オンドル遺構が確認されており、渡来人の居住地があったと考えられている。
 また、「シマ」でいうならば、古代には筑前国嶋郡とあった現在の糸島市志摩に志摩岐志という地名があり、「キシ」は渡来人の称号と言われ、記紀には、和爾吉師や難波吉師などが登場する。このように「シマ」で検討するといくつも候補が浮かぶので、さらに絞り込む必要はある。
 各羅をカワラと読むのであれば、該当しそうな地域がある。高良大社が有名な高良は、今ではコウラであるが、京都の石清水八幡宮の高良社などには、瓦、河原にあてる例があることから、もともとカワラと呼んでいたのであろう。ちょうど久留米の高良大社の北側のふもとを流れる筑後川の対岸にも高良天満神社が所在するところも高良であり、ここも筑後川の砂州の地であった。さらに、福岡県香春町もカワラでありこの地は渡来神伝承の地でもある。

4.嶋王のシマは地名由来

 武寧王は、誕生後に帰国したような記事になっているが、どうであろうか。日本産のコウヤマキで作られた棺に眠っていた武寧王は、副葬品の銅鏡の踏み返し鏡が滋賀県甲山古墳、群馬県綿貫観音山古墳から出土するなど日本との関係が深いのである。さらに、隅田八幡宮人物画像鏡の銘文に記された斯麻が武寧王である可能性も高いと考えられている。ほかにも、日本書紀の継体紀には子の純陀太子崩御記事が記される。その純陀太子の末裔に桓武天皇の母である高野新笠がいる。武寧王は、百済王として即位するまでの40年間は全く不明であり、長く倭国に滞在していたと考えられる。
 その武寧王に名づけられたシマは、嶋や斯麻とされているが、これは具体的な地名を表しているのではなかろうか。だいたい、名前に普通名詞の島を付けるのは妙である。雄略紀には、浦嶋子という伝説の人物もいるが、大方の所は、人の名前や宮名にはその所在場所の固有名詞を付けるのではないか。上述の武烈紀には「今各羅海中有主嶋」とあり、ここを見ると、嶋は海の中の島ととれるが、これは百済人がそのように名づけたとあることから、後から嶋を島のことと解して記述したと考えてよいのではないか。シマ王は、アイランドの島ではなく地域名としての嶋や斯麻と考えられる。その場所が、筑紫の各羅嶋であるとも解釈できよう。
 兄の昆支は、倭国の天王のために渡来したのである。倭国に使えるために配下のものと落ち着いた場所で、嶋王は育ったと考えられる。すると筑紫のカワラ嶋が王宮からは遠くない地域と考えてよいのではないだろうか。それが四三嶋周辺なのか、高良大社近辺か、断定はできないが、当時の倭国の中心地の宮があったところだろう。
 日本書紀欽明紀に磯城嶋金刺宮があるが、『上宮聖徳法王帝説』には志癸嶋、『天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文』では斯歸斯麻宮治天下天皇という記載がある。シキシマという地に宮を設けて統治したということであり、このシマも地域名であろう。
 なお、時代は遡るが、魏志倭人伝には女王国の記事の後に、21国の国名が羅列されており、その最初に「斯馬国」とある。邪馬台国の近隣に「シマ」と名乗る国があったのである。
 武寧王の誕生の地は、様々な可能性が浮かぶが、筑紫の中心地のカワラ嶋と呼ばれた地域も候補の一つと考えられよう。これが佐賀県の加唐島のことではないので、肥前国風土記には記事が見当たらないのではないかと考えられる。筑紫国風土記の方はわずかな逸文以外は残っていないのである。
 ただ加唐島の生誕地を否定しても、渡海の際にはこの島に途中で立ち寄った可能性はあるわけで、そこから、関連する話が生まれた記念の地ではあったかもしれない。日韓の友好に水をさすつもりは決してないのだが、日本書紀を見た限りでは、武寧王の加唐島での誕生の可能性は低いと考えられる。

参考文献
赤司善彦他「加唐島武寧王伝説の調査について」東風西声 : 九州国立博物館紀要 巻号9号 2013年
宇治谷孟「日本書紀 全現代語訳」講談社学術文庫1988

ネズミ捕り
5.神武紀に描かれた猟の民俗―宇陀の血原の意味

 神武東征の一場面に、菟田(宇陀)の兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を天皇は呼ばれたが、弟だけがやってきて、兄は歓待のふりをして襲撃の準備をしていると報告する。そこで道臣命を遣わして、兄猾を責め立てた。追い詰められた兄猾は、前もって用意していた罠にみずからはまって圧死する。土砂か岩石が落ちるようになっていたのであろうか。原文には「自蹈機而壓死」とある。ここに「蹈(踏む)」とあるのは、古事記の大国主が火攻めから逃れて穴に落ちる場面と同じだが、この場合は、踏むことで仕掛けが動作したのであろうか。
 さらに、次に「時陳其屍而斬之」『其の屍を陳(ひきいだ)して斬る』とある。はさまれた死体を、引き上げて、念のためなのか斬っているのである。すると、血が流れだして、くるぶし(踝)が埋まるほどに血があふれたという。そこで宇陀の血原という地名譚になったのであるが、これは誇張されてつくられた話であろうが、何かの元の話があったのではと考えられる。
 古事記では、「作殿其內張押機」(殿〈との〉を作りその内に押機〈おし〉を張りて)とある。この押機が、具体的にどのようなものなのかは定かではないが、つっかえ棒が外れたら大きな壁のようなものが倒れて、人を圧死させるものであろうか。しかし、自分で罠にかかって死んでしまった後には、「爾卽控出斬散」(ここに即ちひきだして斬り散〈はふ〉りき)とあるところは、書紀と同じで死体を斬っているのである。
 この後に、弟猾は、天皇と兵士のために牛肉と酒の用意をしている。その宴席で天皇は歌を詠む。鴨(しぎ)をとる罠を張ったら區旎羅(くぢら)が掛かったという。注1これらはみな猟に関係する話になろう。牛肉を得るためには、まず屠殺するわけだが、次にこれが重要なのだが、おいしく肉をいただくためには血抜きをしなければならない。牛一頭でもかなりの血が流れ出す。兄猾の死体を引き上げて、わざわざ斬りつけたのは、血抜きをすることを意味しているのではなかろうか。その血が足下にあふれんばかりに流れ出したのであろう。
 このように、落し穴にはまり込んだ獲物は、あばれて危険なので穴の中にいる状態でまず絶命させる。その後、引き上げて、風味が落ちないように血抜きを行い、その場で解体して持ち帰るのだ。
 なお、神武の来目歌には、次のような歌がある。
「来目部の軍勢のその家の垣の元に植えた山椒、口に入れると口中がヒリヒリするが、そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず撃ち破ってやろう」というのがある。だがどうして山椒がこの戦いの歌に出てくるのか。この山椒は、毒流しといった漁法と関係しているのではないかという指摘もある。秋田県ではナメ流しとかナメ打ちと言われ、山椒の木の皮、葉の茎を数日乾燥させて粉にして灰と混ぜる。これをナメといい、それをカマス(俵)に入れ上流で踏むという。魚を麻痺させるためだが、地方によって製法などは違っているようだが、もちろん現在は水産資源保護法で禁止となっているそうだ。(菊池2016)この来目歌も、毒流しという漁法と関係する歌であったと考えられる。注2

 以上のように、記紀の説話には、落し穴猟や獲物の解体といった古代の民俗を参考にしたものが取り込まれていると思われるものが見受けられるのである。縄文時代に活発に行われていた落し穴猟がはたして7世紀まで続いていたのかは、現状では確認しにくい状況であるが、害獣から居住地や畑を守るための周囲に設置する捕獲用の落し穴があった可能性は考えられているようだ。今後の調査で、見直しが進められることを期待したい。(了)

注1.岩波書店の『日本書紀』などこの區旎羅を、鷹等の字をあてて、訓みはくじらとしているが、鷹のことではない。古田武彦氏は、このくじらは鯨のことであって、この天皇の歌の久米歌そのものが、奈良の宇陀のことではないと喝破されている。
注2.宇陀の血原については、この地に水銀鉱床があって地面が赤く見えたからというのがほぼ定説のようである。血抜きの話は先にあった血原という地名からの付会の話とも考えられるので、必ずしも血抜きをしたところを血原となづけたかどうかはわからない。

参考文献
次田真幸「古事記全訳注」講談社学術文庫1980
大泰司統「北日本の陥し穴猟」縄文時代の考古学5 なりわい・食料生産の技術 同成社2007
ジェームズ・C・スコット 「反穀物の人類史―国家誕生のディープヒストリー」立木勝 (翻訳)みすず書房2019
菊池照夫「古代王権の宗教的世界観と出雲」古代選書21同成社2016
市毛勲「朱の考古学 考古学選書12」雄山閣1975
山田 晃弘「黒ボク土層・草原的植生・陥し穴猟」近江貝塚研2024.8月例会発表用資料
 ネズミ捕りの図は、「イラストAC」より

3.火に囲まれた大国主が落ちて助かった穴の謎
 
 古事記には、スサノオによる大国主への試練の一節に野原で火に囲まれてしまう場面がある。
 鼠來云「內者富良富良、外者須夫須夫」如此言故、蹈其處者、落隱入之間、火者燒過。
 鼠来て曰く、「内はほらほら、外はすぶすぶ」といひき。かく言う故にそこを蹈みしかば、落ち隠り入りまし間に、火は焼けすぎぬ。(「古事記」次田真幸読み下し)
 鼠が現れて、「内はうつろで広い、外はすぼまっている」と教えた。そう鼠がいうのでそこを踏んだところ、下に落ち込んで、穴に隠れひそんでおられた間に、火は上を焼けて過ぎた。(同現代語訳)
 大国主はその地面を踏んだことで穴に落ちている。なぜ、都合よく野原に人が隠れられるほどの穴があったのだろう。これは、猟の仕掛けとしての落し穴ではないだろうか。火を放たれたのも、古代に火で獣を追い立てる、火入れで植生を変化させて動物が集まりやすくなる環境を作り、そこに柵をめぐらして誘導しやすくする、といった火も使った古代の追い込み猟が説話に取り入れられたのではないか。
 ただ、縄文時代に数万と検出される落し穴は、弥生時代には見当たらなくなる、といわれている。それだと、古事記の落し穴を使った説話は、はるか縄文時代の伝承を参考にしたのかと疑問が起こる。しかし、7世紀にも落し穴猟があったと考えられる記事が日本書紀にある。
 天武4年4月 自今以後、制諸漁獵者、莫造檻穽及施機槍等之類
「諸の漁猟者をいさめて、檻穽(をりししあな)を造り、機槍の等(ごと)き類をおくことまな」
「漁業や狩猟に従事する者は、檻や落し穴、仕掛け槍などを造ってはならぬ。」(宇治谷孟)
 天武4年とは675年となるが、牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食してはならないという期間限定の勅命が下されたのである。ということは、7世紀末後半まで、実際には落し穴猟があったということになるのではないか。注1)そうであるならば、古事記の大国主が落ちた穴も同時代にあった罠猟のものと考えられ、縄文時代の民俗例が千年も後まで語り継がれたと考えなくてもよいのである。
 なお、落し穴の形状には、フラスコ型と言われる上部がせばまったものも見受けられるので、この場合は「内は広く、外はせまい」という鼠の言葉に整合するのであるが、他の解釈は考えられないであろうか。スポンジは、ギリシャ語のスポンゴスに由来しているそうだが、鼠の発した「すぶ」は穴を覆う蓋が海綿のような、スカスカの状態を意味する可能性がないかは検討していきたい。

注1. 天武四年の「殺生・肉食禁断令」は、実は34年動かされた命長2年(641)の利歌彌多弗利による放生会の事績の記事を大和朝廷が消して天武期に移動させたものである。正木裕氏「古田史学会報171号」『「壹」から始める古田史学(三十七)「利歌彌多弗利」の事績』参照 (こちら

4.野原に火を放たれたヤマトタケル

 ヤマトタケルの場合は、大国主とは違って試練といったものではなく、まつろわぬ敵との戦いの中で火に囲まれてしまう。そこで、向火を起こして難を逃れるのだが、ここには落し穴はないが、野原への放火で相手を追い込むのは共通している。この野火によって、植生が変化し、動物が好むような景観がつくられる。ここに意図して罠を仕掛けるのである。火は、植生を変えるためだけではなく、獲物を追い詰めるためにも使われたという。
 初期の人類は、「弓と矢が登場するずっと前(およそ2万年前)に、火を使って動物の群れを崖から追い落としたり、象を穴へ突き落したりしていたことが示唆されている」(スコット2020)そうだ。その後も、火や誘導柵も使って落とし穴に追い込むこともあったのであろう。
 こういった事例から、相手を火で追い込むという話が作られたのではなかろうか。古事記では、沼に凶暴な神がいるからと誘い出された野原で火攻めに遭うのだが、日本書紀では、ヤマトタケルは賊から大鹿がいるからと狩りをすることをすすめられて、野に入ったところで火を放たれてしまう。つまり、火攻めの説話に猟が関係しているのである。(続)

参考文献
ジェームズ・C・スコット 「反穀物の人類史―国家誕生のディープヒストリー」立木勝 (翻訳)みすず書房2011

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   写真は群馬県前橋市柏川歴史民俗資料館 実物大?の落し穴模型

 古事記や日本書紀の説話には、当時の民俗から取り入れられたものがあるという事例を取り上げます。

1. 落し穴猟の底にある杭の目的は?

 縄文時代には、罠用の落し穴が列島全体で100万基を超えると予想されている。しかも単発的でなく、同じエリア内に連続的に落し穴を設けている状況が見てとれる。一つや二つの落し穴では、獲物はかかってくれないからだろう。博物館には、よく上図のような落し穴に落ちてしまった獲物が描かれる。先端を尖らした杭が落し穴の底部に差し込まれており、そこに落ちた獲物の胴部に突き刺さって仕留めるというという様子の再現だ。やや残酷とも思ってしまうのだが、ただこの場合、仕掛けをしたあとに人は待機せずに放置して、動物が落ちた後に確認して確保するやり方だ。実際に、縄文時代の落し穴を調査すると、底部に1カ所から複数の杭跡のような穴が見受けられる。そこから、獲物が落ちた瞬間この先がとがった杭に刺さるというものだが、これについては異論が出されている。
 「一見、槍のような殺傷目的を思わせるが、なかには深く地面に刺さり込んでいない例もある(中略)槍が機能した場合に、血のにおいを嗅ぎつけた他の動物に狙われる可能性があるので落し穴にむかない。開口部の覆いを下から支えるための棒あるいは、陥し穴にかかったシカが坑底に脚がついた場合跳躍して逃げるのを防ぐため、体を宙にうかす可能性」(大泰2007)があるという。
 納得できる指摘であろう。たしかに、落ちた獲物が尖った杭に刺さって出血したら、カラスや他の肉食獣などが真っ先にやって来るだろう。殺傷の為ではなく、落ちた獲物の自由を奪うためであり、杭によって脱出できなくなった獲物は、すぐに殺傷してから穴から引き出すことになる。そして、罠にかかった獲物は死んでしまったらすぐに処理をしないと、体温を持つ内臓がすぐに傷みだし、さらに血液も影響して肉がまずくなってしまう。
 だから、仕留めた獲物はまずは血抜きをして、さらに肉と内臓を分ける解体作業を手早く行わなければならない。よって、先を尖らした杭を底に立てた罠を作って、いつかかかるだろうと放置しておくことはありえないと思われるので、博物館の展示にあるような解説には見直しが必要ということになるのではないか。
 
2.落し穴猟は、待ち伏せではなく、追い込み猟
 獲物の対象となる猪や鹿などは、大変敏感な生きものであり、人間が掘った穴などもニオイで察知すると思われる。茅野市尖石縄文考古館HPには、「放置しておき動物が落ちるのを待つ罠猟」との説明があるが、これでは獲物の確保は難しいかもしれない。
 落とし穴は単にケモノ道やその近隣に設置しただけでは、人が造ったという不自然さとヒトの気配を容易に察知され、簡単に避けて通り過ぎられてしまうと思われる。イノシシは移動中も掘り返し行動を伴いながら餌を探しているため 、地表面の変化には特に敏感だという。
 縄文人は、獲物の集まりやすい草原を作るために火入れによって、自然環境を変えてきたという。火入れによって生み出される草原的植生は、シカ・イノシシが嗜好する餌植物を多量かつ集中的にもたらすのだという。
 そこで、樹林帯と草原帯の狭間に落し穴をめぐらし、合わせて間伐材などで誘導柵も設置しての追い込み猟があったと考えられている。罠にかかってもらうためには、餌を用意したり、犬を使ったり、また松明の火も利用して追い込んでいったのであろう。
 ただ気になることがある。この落し穴猟は旧石器から縄文時代に見られるものであって、弥生時代以降は検出されていないというのが、通説になっている。だが弥生時代になっても、みんながみんな米作りだけ行っていたわけではなく、狩猟採集を生業とする人々もいるはずだ。しかるに弥生時代にみつかる数多くの土坑は、貯蔵の為の土坑と説明されている。
 東京国立博物館HPには、「綾羅木郷遺跡(山口県)からは小ぶりな打製石鏃が出土しています。明確な落とし穴は見つかっていませんが、イヌを使った追い込み猟や落とし穴猟が行われていたと考えられます。」という説明がある。いささか微妙な説明だが、落し穴猟は皆無ではないと考えられてはいるのだろう。実は古事記や日本書紀には、落し穴猟との関係をうかがわせる記事が見受けられる。(続)

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