日本書紀の宣化天皇紀には、各地の屯倉に籾を運ばせる記事がある。その後半には、博多湾あたりと思われる那津に非常に備えた施設の建設を命じている。この那津官家については、福岡市博物館の説明(同HPの№404)では、ヤマト政権の経済的基盤であるとともに、政治的・軍事的支配拠点でもあったとされている。また、磐井の乱以降のヤマト政権による九州の支配過程を示すものであり、大宰府の起源になるものと説明されている。どうやら、江戸の国学者青柳種信の提唱からであるが、はたしてそのようなことが言えるものなのか、検討していきたい。
1.日本書紀の岩波注の説明
宣化元年夏五月の記事
官家を那津の口(ほとり)に脩(つく)り造(た)てよ。(中略) 亦、諸郡(もろもろのこほり)に課(おほ)せて分(くば)り移して、那津の口に聚(あつ)め建てて、非常(おもいのほか)に備へて、永(ひたす)ら民の命とすべし。
岩波注には、この官家について、屯倉ではなく官家としてミヤケと訓ませているのは、書き分けていることから、或いは両者の間に機構・機能の違いがあったのではないかとし、さらに補注で詳しくふれている。
欽明紀の百済史料に基づいた記事には弥移居※ともあるが、唯一の例外(大化元年八月)を除けばみな屯倉とは別のものとし、そのほとんどが百済や任那諸国などをさしている。そして、軍事基地というより日本の朝廷に対する貢納国の意味に用いられていることから、各種の屯倉のうちの課税地区的屯倉になぞらえて南朝鮮の諸国をミヤケと呼んで、国内の屯倉と区別するために、書紀が官家の文字を当てて書き分けたのであるかもしれないとされている。
以上のようだが、これは重要な指摘であると思われる。そうであるならば、那津官家も半島諸国と関係する倉庫とか建物と考えられ、軍事基地だの王権の拠点といった捉え方は無理があることになる。
※垂仁紀に 屯倉、此云彌夜氣 ここでミヤケと読ませている。居は一般的にはコと読むが、一個を一ケともいうように、「ケ」とも読めると考えてよい。
2.書紀の「官」の用例
書紀で「官」の字が使われているのは合計195件だが、その内容は以下のようである。
崇神紀:官軍・官無廢事 垂仁紀:親治大地官者・祠官 景行紀:官軍 仲哀紀:官人
神功紀:官軍・定內官家屯倉・爲內官家(新羅王) 応神紀:官船・官用
雄略紀:官軍(×7)・船官・小官・韓子宿禰所掌之官・鳥官之禽・百濟國者爲日本國之官家
清寧紀:大藏之官・大藏官・官物・百官(×2)・授官・山官
仁賢紀:其官 武烈紀:官馬(×2)・官婢
継体紀:毎國初置官家爲海表之蕃屏・自胎中之帝置官家之國・加羅王謂勅使云「此津、從置官家以來・・」・新羅、恐破蕃國官家・夫海表諸蕃、自胎中天皇置內官家・金官・能官之事
欽明紀:海西諸國官家・長作官家永奉天皇(百済本記)・百濟官家・任那官家・破我官家(新羅)
☆欽明紀に「弥移居」は4カ所 天皇所用彌移居國・海表諸彌移居(×2)・海北彌移居
敏達紀:駈使於官・新羅滅內官家之國(×2)・参官(×6) 用明紀:任那官家
推古紀:馬官・任官・有官・官・求官・任官(×2)・任那是元我內官家・定內官家(任那)
皇極紀:百濟使參官(×3)
孝徳紀:百官(×7)・官司(×3)・百濟國爲內官家・判官(×3)・長官(×2)・次官(×3)・領此官家治是郡縣・官人(×6)・官馬・官・官刀・官位・達官郎
斉明紀:判官(×4)・官軍(×2)・仕官(×2)・留守官・官人・借官
天智紀:官軍・官位(×2)・官食・法官
天武紀:官軍・官鑰・大官大寺・※役所、官位など表すもの多数
持統紀:大官大寺・※天武紀同様官人にかんするもの多数
以上のように岩波注の指摘通り、役所、役人に関係するものの名称以外では、孝徳紀の官家以外は太字で示したように半島諸国に関係する機構といったものに官が使われている。雄略紀に百済国は日本国の官家とあり、任那官家も複数登場する。さらに欽明紀には「弥移居」の表記で4カ所ともに半島に所在する意味で使われている。このことから、倭国側の軍事施設であるとか、後の大宰府につながるものとか、さらには王宮の所在地だ、などとはとても言えないのである。
3.発掘調査によって明らかになりつつある成果をどのようにとらえか。
比恵・那珂遺跡については、当時の古代社会においてもっとも都市化ともいえる様相が見られる地域となっており、久住猛雄氏も『最古の「都市」~比恵・那珂遺跡群~』でも、比恵・那珂遺跡全体の重要性を強調されておられるが、その中で、那津という地域については、あくまで交通の要所、港としての評価である。
さらに、菅波正人氏の『那津官家から筑紫館―都市化の第二波―』では、その中で、「倉庫以外では、側柱(桁行26.6m、粱行3.1m)とそれをはさむように3列の柵状遺構が検出された。時期は6世紀後半~7世紀に位置づけられる。奈良時代の群衙の政庁に見られる『ロ』の字に建物を配置する構造から前述の倉庫群の管理に関わる施設の可能性が指摘されている」とあるが、倉庫群があれば当然管理する役所のような建物も必要である。しかしそれ以上の、軍事基地であるとか王都となるような施設だとは説明されていない。ここで那津官家に関して言及されているのは、「対外拠点の整備」というぐらいである。
岩波注の屯倉を官家と表記したのは、渡来系の絡む施設だからといった捉え方で問題はなく、決して過大評価するような材料は見当たらないと思われる。そもそも、「官」をミヤと読ませて、「宮」と同義にするという前提が間違っているのではなかろうか。では、この那津官家はどのようなものと考えればよいのであろうか。
4.激動の6世紀半ばの半島情勢に対応する倉庫群と管理施設
日本書紀の那津官家に関する天皇の詔(宣化元年=536)には、次のような言葉がみえる。「食者天下之本也」に続いて、「黃金萬貫、不可療飢、白玉千箱、何能救冷」とあり、黄金や真珠があっても冷(こごえる)ことは救えないと述べている。これは天候悪化で、食料不安があったことを示している。『三国史記』には、高句麗の535年(宣化元年の前年)に「国南(平壌以南)地方大洪水で200人死亡といった記事がある。百済も影響があったのではないか。詔の途中に、「收藏穀稼、蓄積儲粮、遙設凶年、厚饗良客」(籾種を収めて蓄え、凶年に供え、賓客をもてなし)とある。
さらに、「亦宜課諸郡分移聚建那津之口、以備非常、永爲民命」(諸郡に命じて分け移し、那津のほとりの集め建て、非常に備えて民の命を守るべきである)と仰せられたという。あくまで食料の確保が目的であったと述べられているのである。それも百済に対する食糧支援が必要となった可能性が大きい。これが列島の民のことなら、なにも各地の米の一部を筑紫に集中させるなどは妙であろう。これは、百済への支援と考えてよいのではないか。
そしてもう一つの役割があったと考えられる。
百済と新羅の挟撃にあって、次々と列島に加耶諸国(任那)から避難する人々が、北九州に到着していったのは間違いない。さらに、加耶だけではなく百済が進出した栄山江流域を含む半島南西部の中にも、列島に移り住もうとした人たちがかなりの規模で渡海してきたと思われる。
既に別途説明しているが、栄山江流域の各種土器のセットがまとまって見られるところが、福岡県西新町、大阪府長原、蔀屋北、奈良県南郷などにみられる。岩波注と関係するのだが、大阪市長原遺跡で「冨官家」と書かれた墨書土器が見つかっており、これが屯倉などと同じと説明されているように、このエリアが渡来系の施設を示すものと考えられる。
さらに「厚響良客」には、半島からの避難民も想定できるのではないか。「以備非常永爲民命」とあるように、やってきた難民の命を守るという意味も含まれると思われる。多数の倉庫群、管理の為の施設を作って、次々とやってくる避難民、中には半島に派遣された筑紫兵の帰還もあったかもしれない。さしずめこの地に、そんな彼らのための避難民キャンプもできたのではないか。ここではもっとも重要なのは食料の給付であろう。そして、次には、彼らに安住できる地への移動をすすめなければならない。各地に栄山江流域や加耶の特徴を持つ須恵器などが出土する地域が移住先と考えられ、また、中にはこの那津にとどまって、半島との貿易の対応を行った渡来人もあったかもしれない。避難民を受け入れて、彼らの力も借りてこの那津を含む比恵・那珂地域が発展し、それこそ大宰府の下地が作られていったのではないだろうか。
以上のように、那津官家は日本書紀の記述から、半島に対する支援のための食料の支援対応の施設であり、さらには、加耶諸国や栄山江流域などの半島南部の避難民に対する対応も行っていたのではないかと思われる。この那津官家を軍事施設であるとか後の大宰府につながるものといった理解は、書紀の誤読からくるものであり、あくまで半島との関連で設けられた、比恵・那珂遺跡のなかの一部の施設を意味しているにすぎないのであろう。
参考文献
福岡市博物館HP『№404那津官家と激動の東アジア』2012
久住猛雄『列島最古の「都市」―福岡市比恵・那珂遺跡群』&菅波正人『那津官家から筑紫館―都市化の第二波』 遺跡図もこちらより
「古墳時代における都市化の実証的比較研究―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集大阪市博物館協会大阪文化財研究所








