同一人物説を補完しうるいくつかの事例と疑問に思われる点についての説明を以下に述べる。

①『藤氏家伝』に、高句麗王の言葉として「鎌足公は国家の棟梁」と記されている。
 この「棟梁」は半島人がよく使う言葉なのである。日本書紀では推古3年に、高麗の慧慈と百済の慧聡を三宝の棟梁とする記事がある。
 また那須国造碑には、「国家棟梁」と記されている。この地に移住した新羅人によると考えられる建立の碑文に、半島人が使う言い回しが使われていたのだ。天武紀後半から新羅人の下毛野国への移配させる記事が続く。持統4年には「新羅沙門詮吉・級飡北助知等五十人歸化」の記事があり、この年がちょうど永昌元年にあたる。当時の新羅は中国の元号を採用していたことから、彼らが石碑建立に携わったと考えられる。

②『籐氏家伝』に沙宅昭明が鎌足の碑をつくったとある。
 百済から亡命してきた沙宅昭明は天武紀の死亡記事に本国(もとつくに)である百済の最高位である大佐平を賜った人物。これも奇妙な事であり、なぜ高位の百済人が鎌足の碑を作るのであろうか。こういったことも同一人物説以外では説明がつかないのではなかろうか。

③赤漆欟木厨子を、なぜ百済の義慈王は鎌足に送ったのか。
『国家珍宝帳』(東大寺献物帳)には赤漆文欟木御厨子と似た別の厨子で、赤漆欟木厨子(せきしつかんぼくずし)と称されるものもあったが現存はしていない。この厨子の由来の解釈に、倉本一宏『藤原氏』(中公新書)では、百済の義慈王が鎌足に進上したものとされており、「これも鎌足の全方位外交を反映した記事」といった解釈あるが、あくまで想像にすぎない。これも、鎌足が豊璋であれば、父の義慈王から子の豊璋に渡されたと自然に解釈できる。

④なぜ鎌足の墓が別にあるのか?
 中臣氏とは分離させて藤原氏を確立させるなかで、藤原氏としての祖廟を持つために、鎌足の墓を別に想定したと考えられる。鎌足の墓が談山神社など複数あることの理由を説明できないまま、阿武山古墳を鎌足の墓と断定するのは不可解である。阿武山古墳の豊璋の墓では具合が悪いと考えたと思われる。

⑤渡来人の記事は多数あるのに、鎌足が渡来人であることを隠す必要はあったのか? 
 よくこのような意見をいただくが、これも次のように考えられる。
 藤原氏の祖として祀るためにあえて記載しなかった。他にも日本書紀には渡来人かどうかわかりにくい記述が多数ある。
 豊璋の弟の禅広は名前はそのままで百済王と表記されている。禅広は百済避難民の管理を行う役割を持ったので、名前を変える必要はなかった。ただし、この禅広も隠されている別の名があったかもしれない。善光寺の本多善光である。謎の人物だが、関係を指摘する声は以前からあった。この善光寺は藤井寺市の小山善光寺とする説があり、この近隣に誉田天皇陵がある。誉田は、「コンダ」と読むのは後からの言い方で、当初は「ホムダ」であり、「ホンダ」と発音したのであろう。
 兄の豊璋の末裔は、藤原氏として王権の中枢に入り込むために、始祖を鎌足としたと考えられる。
なお、日本書紀は、登場人物に渡来人とあえて明記しないまま人物名を記す例がいくつもある。渡来人の名前は出されても、日本書紀は、大事なことはふれていないことがいくつもあると考えられる。(続く)