この鎌足=豊璋同一人物説の最大の問題は、白村江での敗戦後に行方不明となった豊璋だが、日本書紀では、翌年に内臣なる鎌足が、中国の郭務悰に使いを通じて品物を贈る記事がある。そうすると、白村江戦の翌年には、列島に戻っていないといけないのである。さすがの関裕二氏も豊璋がいつ日本に戻ってきたのかはわからないとされている。しかし、この問題が解決しないことには、同一人物説は成り立たないのである。
ところが日本書紀は日本に戻る彼の記事を残しており、矛盾なく、その後の鎌足としての行動もつながるのである。この点について説明する。
日本書紀は、白村江での大敗のあと、次のように記している。
是時、百濟王豐璋、與數人乘船逃去高麗豊璋
数人のものと一緒に船で高麗に逃げた、と記している。その後の日本書紀に豊璋の名の記事はなく、海外で行方知らずとなったように受けとれる。しかし、彼は日本に戻ってきていると考えられる。
①日本書紀は「高麗」と記すが、必ずしも高句麗のことかはわからない。しかも敵である中国に向かう北の方向に逃げたというのも不審。編者があえて高句麗に逃亡という記事にした可能性もある。
②各資料の豊璋の消息記事
それぞれの資料に次のようにある。
旧唐書:北に在り。 ・新唐書:不明。 三国史記:行方不明。 資治通鑑:高句麗に逃げた後の総章元年(668)に扶余豊嶺南に流す、とある。しかし、年代については、同じ年に劉仁願が島流しに処せられているので、混同が考えられる。 嶺南に行った可能性はあるが、その嶺南は半島の南部や済州島を意味する。日本に戻るのが容易な地域にいたことになる。
このように豊璋が日本に戻っていないと断定できる史料はないのであり、戻ってきた可能性は十分にあるのだ。
③日本書紀には豊璋の戻った記事があった。
高麗に逃げたのが最後の日本書紀の記事だと説明したが、実は、豊璋は別の表記で帰国したと考えられる記載があるのだ。
伊吉博得(いきのはかとこ・遣唐使にも随行、書紀編纂者)の記録に次のような鎌足の長子である定惠の帰国記事がある。
孝徳紀白雉五年の記事 伊吉博得言 定惠以乙丑年(665)付劉德高等船歸。
妙位・法勝・學生氷連(ひのむらじ)老人(おきな)・高黃金幷十二人・別倭種韓智興・趙元寶、今年共使人歸
ここに記された「法勝」が実は「豊璋」のことではなかろうか。豊璋は、この仏僧風の「法勝」の名で息子の定惠といっしょに戻って来たのではなかろうか。
664年と考えられる根拠は、次の記事による。
天智三年(664)、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶兒、四人、依博麻計、得通天朝。
持統4年の記事に、天智3年のこととして、博麻の計らいで倭国に4人が帰国したとある。氷連老、元寳が同一人物と考えられることから、二つの記事は合致する。薩野馬は帰国後、唐の高宗の泰山封禅の儀※に参加する。
そこにある妙位も不明の人物だが、これは薩野馬のことであろうか?すなわち664年白村江の敗戦の翌年の天智3年には、豊璋と薩野馬が同じ年に帰国したのではなかろうか。とにかく豊璋死亡の記事はなく、どこかに逃亡し、半島の南部から帰国の遣唐使船と合流した可能性も考えられる。
以上のように考えれば、白村江戦翌年の中臣内臣の記事があっても問題なくつながるのである。豊璋は日本に戻り、鎌足の名で、亡くなる直前に藤原氏の姓と大織冠を授かることになるのであった。日本書紀は意図的に、漢字を変えてその豊璋の名前を残したのかもしれない。(続く)
※泰山封禅については、正木裕氏の「『旧唐書』と『日本書紀』封禅(ほうぜん)の儀に参列した筑紫君薩野馬」 をご覧ください。
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