高松塚絵画

 既に説明させていただいているが、天智と鎌足の出会いのエピソードの蹴鞠は誤解であり書紀では「打毬(まりく)」とある。これは、新羅の金春秋と金庾信の蹴鞠(ホッケー)の逸話を利用。高松塚古墳壁画の右端の男子が持つのもホッケー用のスティックなのである。

 金庾信はわざと金春秋の裾の紐を踏み破る。そして金庾信の妹の文姫が繕ったことが縁で金春秋と結ばれる。この時に、当初は妹ではなく姉に頼んだのが断られて、妹の文姫に繕わせた。書紀では中大兄は鎌足のすすめで倉山田麻呂の長女を娶るはずが、親族に誘拐され、次女が身代わりになって娶ることになる。このように、乙巳の変は、新羅女王をささえる金春秋とその配下で重要な協力者である金庾信の関係をモデルに、書紀では天皇の体制を中大兄と鎌足で支えるという物語を構築したのである。
 くわしくはこちらをご覧いただきたいが、新羅では647年に毗曇の乱がおこっている。女性である新羅善徳王の廃位を求めるクーデターが、金庾信の活躍で鎮圧される。そのさ中に善徳王は亡くなるが、反乱後に従妹にあたる真徳王を擁立。金春秋と金庾信らが女王を支える体制を確立する。これは中大兄と鎌足が女帝の皇極を支えるという構図と同じ。そして新羅は、この647年を太和と改元している。  
 他にも、始皇帝の秦王殺害未遂事件を参考にし、鎌足の策略で「俳優(わざおき)」に入鹿の刀を預かるエピソードを盛り込むなど、とても史実とは言えない物語で構成されている。


 この乙巳の変の問題について、いただいたご質問への説明をさせていただく。
 一つ目は、新羅女王を金春秋と金庾信がささえるという構図の毗曇の乱は、クーデターだが、乙巳の変はクーデターとは言えないのでは、というご指摘があった。

 まずは、日本書紀の該当記事を記す。
入鹿、轉就御座、叩頭曰、當居嗣位天之子也、臣不知罪、乞垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知所作、有何事耶。中大兄、伏地奏曰、鞍作盡滅天宗將傾日位、豈以天孫代鞍作乎。
 次に宇治谷孟の現代語訳。
「入鹿は御座の下に転落し、頭をふって、『日嗣の位においでになるのは天子である。私にいったい何の罪があるのか、そのわけを言え』と言った。天皇は大いに驚き中大兄に、「これはいったい何事が起ったのか」といわれた。中大兄は平伏して奏上し、「鞍作(入鹿)は王子たちをすべて滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか」

 入鹿を殺害した後の中大兄の天皇への説明だが、「盡滅天宗將傾日位」は、「天宗(きみたち:家伝は王宗)を尽し滅ぼして、日位(ひつぎのくらゐ:家伝は天位)を傾けむとす」とありますように、これはまさしくクーデターと解釈できる。
 新羅の毗曇は、645年に和白会議の首座であると同時に、新羅の最高官職である上大等の地位に就いていた。入鹿も同様の高官の立場であり、両者が、女帝に対して反旗を翻すという構図になっている。入鹿の場合は、中大兄の説明により未遂で終わらせたという話にしているだけであり、新羅女王を守ろうと協力した金春秋と金庾信の構図と同じものを、入鹿を毗曇に見立てて、女帝を中大兄と鎌足が協力して守るというストーリーに仕立てたのだ。よって元々はでっち上げだが、入鹿のクーデター未遂という物語にしたもので、毗曇の乱と類似していると考えてよいであろう。

 二つ目は、乙巳の変の蹴鞠のエピソードの話は、新羅の説話を後から書紀が参考にしたとの説明に対して、この話の出所は、三国史記よりも日本書紀が成立年代からして先ではないか、つまり、新羅の説話を日本書紀が編集したとはできないのでは、といった趣旨のご意見について説明しておきたい。

 日本書紀の元となる史料は様々な出所の史料、口誦、伝承などを参考に編集されているはずだ。百済三書は明記されているが、出典を記さないものも多々あったと思われる。
 日本書紀には、倭国に質としてやってきた新羅の金春秋について次のような記事がある。
 
 孝徳紀大化3年 新羅、遣上臣大阿飡金春秋等、送博士小德高向黑麻呂・小山中中臣連押熊、來獻孔雀一隻・鸚鵡一隻。仍以春秋爲質。春秋美姿顏善談笑
 
 ここに、質としてやってきた金春秋について、容色美しく快活に談笑した、と書かれている。すると、書紀は、金春秋について何らかの記録、或いは口承があって、それにもとづいて書かれたと考えられる。しかもこの金春秋は「善談笑」とあるように、おそらく、自分の妻とのエピソードも宴席などで倭国の役人に対して具体的に、面白おかしく話していたのではないだろうか。その内容が記録され、あるいは記憶されたものを、日本書紀の乙巳の変の編集に参考として活用したと考えられる。新羅の方でも、高官たちが金春秋、さらには金庾信の話を記録し、後の史書に反映させたということになる。なお、金春秋は647年(孝徳大化3年)正月の毗曇の乱の収束後に来朝していると考えられる。書紀は新冠位制の制定記事の後に記載している。
 よって、蹴鞠のエピソードなどは、日本書紀に先に書かれていてもおかしくはなく、金春秋本人が、倭国で話をしていたものを参考にしたということになる。 

☆ここで少し余談を・・・・・ 金春秋(新羅武烈王)は九州王朝にとって大変重要な関りを持つ人物
 彼は、647年に新羅から日本にやってきたが、その目的は、当時の百済との関係で倭国の支援を取り付けることだった。しかし当時の倭国は、いい返事はしなかったようで、次に唐に派遣され太宗から厚遇を受け、新羅は唐に恭順することになった。中国が新羅支援の軍事行動を起こし、斉明紀にあるようにさっそく高句麗への軍事行動を起こし、さらに金春秋も唐軍の支援をえて百済を攻撃する。遂には白村江戦で倭国軍まで大敗したことで、九州王朝の衰退を招くことになった。すると、金春秋は倭国の命運に関わる人物であったことになる。日本書紀は、新羅のことをあまりよく描いていないが、金春秋については、「春秋美姿顏善談笑」と好意的に記したのは、新政権であるヤマト王権にとっては功労者であったからということになるのではないだろうか。   (続く)