同時代にいた鎌足と百済の豊璋は、日本書紀にたびたび登場しているのだが、その二人が同時に姿を現す記事はない。以下に書紀の二人の記事を時系列で記載する。
豊璋(翹岐・余豊) ※翹岐については別人説もある。
舒明3年:百済王義慈、王子豊璋を送る。⇦時期が10年早い。
皇極元年:2月翹岐など島流し→翌年大宰府到着記事一年ずれ 3月、5月、7月に、子供を亡くすなどの記事
皇極2年:春正月、百濟國主兒翹岐・弟王子、共調使來。重出記事か。
皇極2年:この年余豊、蜜蜂の繁殖失敗の記事。 「百濟太子餘豐、以蜜蜂房四枚、放養於三輪山。而終不蕃息」
鎌足(鎌子・内臣)
皇極3年:1月神祇伯に任ずるも辞退、三島へ 軽皇子と以前から親しい。中大兄と懇意になり、共謀して入鹿抹殺をはかるために協力者をつくる。
4年:4月乙巳の変決行 皇位継承の助言。 大錦冠位、内臣、食封増。手際よく仕事。
豊璋
白雉元年:長門国から贈られた白雉が吉祥であることを解説。
2月15日白雉の儀に塞城、忠勝と参列
鎌足
白雉5年:紫冠授かる。 その後 斉明紀 全く登場せず。白村江戦に関わる記事も無し。
豊璋
斉明7年:4月百済から帰還要請 9月皇太子は豊璋に織冠授け百済へ送る。
天智元年:12月に臣下と百済の都移転の相談
天智2年:6月鬼室福信を殺害 8月白村江戦敗北 数人と船で高麗へ逃げる。 日本に戻ったのか不明・・・・・
鎌足
天智3年:郭務悰らに沙門智抄を遣わして品物贈る。
7年:5月5日、天皇の猟に大皇弟らと参加。9月新羅に船を贈る
8年:5月大皇弟らと薬猟記事(実は斉明紀の移動)
10月10日天皇見舞いに。15日東宮大皇弟、家に訪問、大織冠、大臣の位、藤原の姓賜る。翌日死去。
以上のように、見事に豊璋と鎌足は同時に出現せず、交互に記事がみられるのである。日本書紀の編者は意図して書き分けたのであろうか。二人の関係を隠すためなのか、逆に読者にわかってもらえるように暗示するように作製したのであろうか。この二人だけが「織冠」を授かっているというのも示唆的だ。
二人の記事では、最初に豊璋が百済王族の事情を交えて登場し、鎌足が次にいきなり神祇伯に任じるという記事から始まる。そして鎌足が蘇我入鹿の殺害を目論んだのかも書紀は何も記していない。
豊璋は白村江戦で行方不明になるのだが、その翌年に鎌足の記事が続いて藤原の姓を授かって永眠するというのも不可解で鎌足の記事は疑問が多い。次に乙巳の変についてふれていきたい。(続く)
二人の記事では、最初に豊璋が百済王族の事情を交えて登場し、鎌足が次にいきなり神祇伯に任じるという記事から始まる。そして鎌足が蘇我入鹿の殺害を目論んだのかも書紀は何も記していない。
豊璋は白村江戦で行方不明になるのだが、その翌年に鎌足の記事が続いて藤原の姓を授かって永眠するというのも不可解で鎌足の記事は疑問が多い。次に乙巳の変についてふれていきたい。(続く)
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