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 森浩一氏の提言から、古墳の名称を地域名とすることが定着していった。仁徳陵とされた巨大古墳も大山古墳とされたのだが、最近、世界遺産の関係で仁徳天皇陵と言う呼称が、様々な場面で徹底されていくようになった。
 既に語りつくされていることだが、仁徳天皇と出土遺物などの時代が合わないといった指摘から、疑問視されてきたことである。考古学の見解を無視して、既成事実のように特定の天皇陵とすることが、世界遺産として正しいことなのであろうか。

 ここでいくつか問題点について述べておきたい。

1.大山古墳は、複数の王が埋葬されている
 
 近隣の堺市博物館に巨大な石棺の復元模型が展示されている。これは前方部から出土したものだという。この石棺の構造、金鍍金のされた武具の副葬品などから、王と言える首長、人物のものであろう。当然後円部にも埋葬施設があるはずだ。一瀬和夫氏は3人以上の首長、いやそれ以上の人数の埋葬があるのでは推定されている。
 よって古墳は、副葬埋葬が一般的であるのだ。前方後円墳を特定の個人の王名にすることは適切ではない。

2. 坂靖氏『倭国の古代学』(新泉社2021) のご指摘
 
 仁徳天皇のいわゆる「民のカマドの説話」について疑問を呈されている。

 大阪市歌 大正10年4月
♪高津の宮の昔より、よよの栄を重ねきて、民のかまどに立つ煙 
             にぎわいまさる大阪市   にぎわいまさる大阪市
 
 仁徳紀4年 高台に登って見たところ、国中の飯を炊く煙があがっていない。三年のあいだ治政をおこなったが、ますます煙が少なくなっていて、百姓が窮乏していることを知った。・・・・むこう三年間すべての課役をやめ、百姓のの苦しみを防げ」と命じた。
  天皇自身の服も新調せず宮垣が崩れても茅葺きが崩れ雨漏りしても、そのまままにして衣服が濡れた。三年後に天皇をほめ讃える声が満ち、飯を炊く煙が立ち上がった。
 ・・・皇后は愚痴るが、百姓が富裕なら私も富裕である,と言われた。

 鎌倉時代の「新古今和歌集」に次のような歌がある。
 「高き屋に登りて見れば煙たつ民の竈は賑わいにけり」巻第七賀歌、
  という歌を仁徳天皇御製と後付けて収めている。ここではじめてカマドが登場するという。実は、日本書紀は飯を炊く煙が立ちのぼる光景とし、カマドの文字はないのである。
 カマドを使って飯を炊く文化は半島からの渡来人がもたらしたもの。北部九州では4世紀、近畿では5世紀以降に導入され、6世紀代になって広く普及する。仁徳の時代にカマドが広く普及していたとは考えられない。  課役を免除し、天皇が質素な生活を行ったことを含め、これらは「聖帝」を強調するために挿入された説話にすぎない、と指摘されている。 

 渡来のカマドに関しては次のような指摘もある。古事記の大年神(スサノオの子)の神裔についての記述に次のようにある。
 大國御魂神、次韓神、次曾富理神、次白日神、次聖神。五神。・・・・・次奧津比賣命、亦名、大戸比賣神→→
 このオホヘヒメは竈の女神であり、韓神など渡来の神が列記されているのである。渡来人は竈とともに信仰も持ち込んだというのである。

 坂氏は大山古墳に関して、次のようにも述べている。
 古墳が築造され400年以上を経た平安時代に、この古墳が仁徳天皇陵の陵墓と考えられ、管理されていたことはまず間違いない。仁徳天皇は大阪市歌にも歌われている「民の竈」の逸話などで知られる著名な存在であるが、実は5世紀に税を徴収していたという歴史的事実はない。一般層の間にカマドが普及していたという歴史的事実もない。「天皇」は存在せず、中国南朝に朝貢した天王がしたのみである。
 仁徳天皇の存在そのものが危うい。一刀両断である。
 
 そもそも、日本書紀の天皇の記述がつくられたものが多いのである。このような事情をふまえて批判的にとらえる研究が、もっと広がらないといけないのではなかろうか。
 とにかく、大山(大仙)古墳はのままの名称が妥当であろう。