蘇我氏系図
    蘇我氏系図 ウィキペディア蘇我満智より転載

 雄略紀23年に、倭国に滞在していた東城王を百済王として帰国させる記事がある。この中で雄略は東城王に「親撫頭面、誡勅慇懃」とあり、頭をなでて、やさしくいましめる、とある。何か、これから百済王として即位する東城王に対して、助言でも与えたようなのである。その内容はまったく記されていないが、後の欽明紀に、この内容と考えられる記事がある。この点について説明する。そしてこれは、雄略紀のモデルが、武寧王であることを示すものであり、さらに蘇我氏と百済王家との関係を示唆するような記事でもあったのである。

1.百済王子恵と蘇我稲目
 
 欽明紀16年2月には百済王子恵と蘇我臣のやや長い対話の記事がある。蓋鹵王の死を伝えた恵はしばらく倭国に滞在するのだが、そこで蘇我臣が、彼に助言をするくだりが記されている。
 蘇我臣(おそらく稲目・蘇我卿も同じ)は、まず恵に次のように問う。
「いったい何の科でこのような禍(聖明王殺害)を招いたのか。今また、どのような術策で国家を鎮めるのか」
 これに対して恵は、何もわからない、と心もとない返事をする。そこで蘇我臣は次のような訓示をする。

 「昔在天皇大泊瀬之世、汝國、爲高麗所逼、危甚累卵。於是、天皇命神祇伯、敬受策於神祇。祝者廼託(かみの)神(みことに)語(つけて)報曰『屈請(つつしみいませて)建邦之(くにをたてし)神・往救將亡之(ゆきてほろびなむとするにりむを)主(すくはば)、必當國家謐(しず)靖(まりて)・人物乂安(やすからむ)。』由是、請(かみを)神(ませて)往救、所以(かれ)社(くに)稷(やす)安寧(らかなり)。原夫(たずねみればそれ)建邦神者、天地割判之代・草木言語之時・自天降來造立國家(あまくだりましてくにをつくりたてし)之神也。頃聞、汝國輟而不祀(すててまつらず)。方今、悛悔前過(さきのあやまちをあらためてくいて)・脩理神宮・奉祭神(かみの)靈(みたま)、國可(くに)昌(さかえ)盛(ぬべし)。汝當莫忘(いましまさにわするることなかれ)。」

 「昔、大泊瀬天皇(雄略)の御世に、お前の国百済は高句麗に圧迫され、積まれた卵よりも危うかった。そこで天皇は神祇伯に命じて、策を授かるよう、天神地祇に祈願させられた。祝者は神語を託宣して、『建国の神を請い招き、行って滅亡しようとしている主(百済王)を救えば、必ず国家は鎮静し、人民は安定するだろう』と申し上げた。これによって、神を招き、行って救援させられた。よって国家は安寧を得た。そもそも元をたどれば、建国の神とは、天地が割け分かれた頃、草木が言葉を語っていた時、天より降りて来て、国家を作られた神である。近頃『お前の国はこの神を祭らない』と聞いている。まさに今、先の過ちを悔い改め、神宮を修理し、神霊をお祭り申せば国は繁栄するだろう。忘れてはならない」(小学館現代語訳)

 以上だが、この内容は雄略紀そのものにはないものである。これは重要な意味を持つと思われるので、説明していきたい。
 稲目は、百済が衰退した原因が、建国の神をきちんと祀らなかったことだと述べている。神宮を修理して祀れと言っていることから、それは百済王族たちが仏教に傾倒していることへの注意喚起でもあったかもしれない。
 天皇は百済を危機から救うために天神地祇に祈願すると、建国の神を招いて百済王を救えば、国家、人民は安定する、というご託宣を受けた。下線の部分であるが、この御託宣は天皇に対してなされたものとなる。主(にりむ)は岩波注では百済国王としている。建国の神(建邦之神)を請い招(屈請)いて百済国王を救えれば、百済は復活するという。どうして百済王を救えば百済を救うことになるのか、と言った疑問も起こり、意味が取りにくいところではあるが、困窮している百済王に力を与えれば、百済が復活することができる、となろうか。以上のように考えると、ここは日本の天皇が百済建国の神を請い招いたということになる。
 岩波も小学館もこの建国の神を倭の神のこととする解釈を行っているが、そうであるならば、日本の天皇が百済存続のために、自国の天孫降臨の神に祈ったということになるのだが、これは不自然な事であろう。書紀の神代紀に「建邦之神」という表現は皆無であり、日本の神とは結びつかない。ここは百済王を救うためには百済の建国の神が必要ととるのが妥当ではないか。百済建国神話は三国史記などに記述はないのだが、おそらく高句麗に神が天降るという山上降臨神話があることから、元は兄弟関係であった百済にも同じ神話があったと考えられる。
 だがそうであれば、これもまた奇妙なこととなる。日本の天皇が、百済を救うために、百済建国の神を招いて救援したというのだ。こんなことがあってよいのかという疑問が起こるので、建国の神を日本の神ととろうとする解釈が生まれたのであろう。岩波注が判断に迷うのは致し方のないことであった。注1)
 ところがこれは、視点が変われば、不思議なことではなくなる。雄略とされる大泊瀬天皇は、幼武ともいわれるが、この人物のモデルが斯麻こと武寧王なのである。彼は即位前に倭国に倭の五王の武として、政事を治めていたのである。高句麗の為に父兄を殺害された斯麻は、その無念をはらすため、百済支援のための行動、宋への上表文での訴えなどを起こしていたのである。
 雄略が百済の為に天神地祇に祈願したのは、ちょうど倭国にいた東城王を百済に送り出す頃のことであったのではなかろうか。天皇は護衛を付けて東城王を送り出す。「雄略23年(479)仍賜兵器、幷遣筑紫國軍士五百人、衞送於國、是爲東城王末多王。」その際、「親撫頭面、誡勅慇懃」(親しく頭を撫で、ねんごろに戒めて)とある。「誡」は、いましめる、との意であり、やさしくではあるが、しっかりと用心することを言い付けたのだ。ここで雄略は、東城王に百済建国の神をないがしろにしない様に戒めたのではなかろうか。「親しく頭を撫でる」行為は肉親であればこそである。東城王の近親に当たる雄略こと武寧王であるからこその対応なのである。
 以上のように、蘇我稲目は百済王子恵にとっては祖父にあたる武寧王の功績を訓示したのであると考える。

2.蘇我氏と百済王がつながる百済系ライン
 
 この蘇我臣とされる稲目は、仮にも百済の王子に対して、対等、いや上から目線で教訓を垂れているのではないか。しかも、彼はどうして百済敗北の事情を理解していたのであろうか。これも次のようにとらえれば合点できる。
 高句麗による漢城陥落のなか、蓋鹵王は、王統が途絶えないようにと、王子文周王と木刕満致(もくらまんち)らを逃がし、その彼らが熊津で再建をすすめることになる。この木刕満致は、本人、もしくは末裔が後に倭国に渡り蘇我氏になったと考えられる。すると、稲目は自分の祖先から、漢城陥落の話を生々しく聞かされ、高句麗に対する油断などの問題点も教わり、国家祭祀も不十分であったとの認識をもつにいたったと考えられる。
 百済王族と行動を共にした祖先の末裔だから、まるで子に諭す親のような立場で、恵に対して国家祭祀の重要性を説いたのではないか。なお、蘇我氏は仏教の推進派であれば天神地祇の重要性を語るのは矛盾するという意見もあるが、稲目そのものは最初から仏教信仰者ではなかったということは付記しておく。
 さらにいうと、後の『扶桑略記』に、飛鳥寺の立柱儀礼の際に参列した蘇我馬子以下百人あまりが、百済服で参列し、観るもの皆喜んだとあるのも、その関係を物語っているのである。
 また、武寧王のこともひとつ付け加えておきたい。
 雄略紀には、漢城陥落を知ってもすぐに出兵するといった倭国側の軍事行動の記事はない。新羅は羅済同盟もあって漢城に向けて大軍を派遣している。倭国の場合は、翌年の3月に久麻那利(熊津のこと)を汶洲(文周)王に賜った、とあるだけである。つまり、当時の倭国の王は、新羅のような軍事行動は起こしていない。それは、倭の武王上表文にあるように、倭王武の父兄が同時に亡くなったがために喪中になったので出兵できなかったということであり、その父兄とは、蓋鹵王と百済王子たちで、その中に自分の兄弟もいたのである。北九州で生まれた斯麻は列島に長く滞在したと思われ、漢城陥落の際も昆支といっしょに列島にいたから助かったのである。
 その雄略の一つのモデルである斯麻は、倭国の地で、百済の為に百済建国の神に祈りを捧げた、というのが、蘇我の稲目が先祖から受け継がれた話となったと理解できるのである。
 このように、百済というラインでのつながりが見えてくるのであり、後の武寧王となる斯麻が、雄略のモデルである倭王の武であった可能性を物語っているのである。
 なお余談だが、百済王子恵は、仏教信仰に熱心に取り組んでいたことを示す倭国滞在中の伝承が残されているので紹介する。

 神戸市にあった明要寺の丹生山縁起
 赤石(明石)に上陸した百済王子『恵』が一族と明石川を遡り、志染川上流、丹生山北麓の戸田に達し、「勅許」を得て丹生山を中心として堂塔伽藍十数棟を建てた。 王子『恵』は童男行者と称し、自坊を「百済」の年号を採って「明要寺」とされたようだ。「明要」は九州年号541~551。 恵は554年に即位した百済威徳王の弟と考えられ、丹生山縁起が史実を反映しているならば、この寺社建立の後に、軍事援助の折衝を行ったと考えられる。 
 ちなみに、この明要寺には平清盛が月参りを行っていた。平氏は百済系であることとつながるのである。

注1.岩波注には、「通証※は百済の建国神とみるが、(中略)これは日本の建国神で、のちに天之御中主の神や国常立尊以下の人格神観念が形成される以前のかなり漠然とした創世神の観念とみるべきであろうか。」としているが、「漠然とした創世神」を招いて救ってもらうことがはたしてできるのであろうか。※江戸時代谷川士清の注釈書



 蘇我氏系図はウィキペディアより