恵王
            百済王系図 武寧王より豊璋まで

 日本書紀欽明紀には、内臣(後半には有至臣と表記)が、百済からの援軍要請を受けて倭国で兵力を取りまとめ、自ら引き連れて百済に向かう記事がある。日本書紀ではこの内臣について、名を闕らせり、とするのだが、私見では百済王子余昌(聖明王の長男、威徳王)の弟である恵(恵王)のことではないかと推測している。この点ついて述べてみたい。

1.倭国で百済の為に兵力を調達する内臣
 
 内臣は百済の官位にあるが、日本では、鎌足からはじまる官職といった解釈がされるなど定まってはいない。では欽明紀の場合はどうであろうか。先に簡単な年表を掲げて説明していきたい。

13年(552)この年、百済は漢城と平壌を放棄
14年1月 百濟は上部德率科野次酒らを倭国へ遣わし、軍兵を乞う。※内臣も同行か
  6月 内臣を百済に遣わし良馬二匹諸木船など賜る。
  8月 百済、上部奈率科野新羅らを遣わし、弓馬を乞う。※内臣も倭国に戻ったか
  10月 百済王子余昌、高麗を攻める。
15年1月 百濟は中部木刕施德文次らを遣わし、内臣に1月に派遣予定など確認。
      内臣は、勅命を承って回答 「援軍1000、馬100匹、船40隻」
  2月  百済は別の使者を遣わし援軍を乞う
  5月 內臣、舟師を率いて百濟へ。
  12月 百濟は下部杆率汶斯干奴を遣わし、新羅攻撃を報告。有至(内)臣の兵と別に
    追加懇願
     聖明王戦死(三国史記は7月)。余昌を鞍橋君が助ける。
16年2月 王子余昌、弟の恵を遣わし聖明王の死を報告
     蘇我臣、恵に百済の失敗の教訓を諭す
17年1月 王子恵、兵馬を賜り護衛付きで帰国。筑紫火君も兵千名と半島の護衛へ。
 598年 恵王即位 翌年死去

 欽明紀では、内臣は最初に次のような記事で登場する。
 14年6月、遣內臣(闕名)使於百濟、仍賜良馬二匹・同船二隻・弓五十張・五十具(具は50本)
 宇治谷孟訳では、「内臣を使いとして百済に遣わした。良馬二匹・諸木船二隻・・・」
 この箇所だけだと、内臣は倭国の使者のように思える。
 しかし、同8月に百済官人の言葉として「遣內臣德率次酒任那大夫等」とある。岩波は「内臣徳率次酒」と一人の官位と名前にしているが、その岩波注には、徳率に内臣が付くことをいぶかる記述がされているが、それは当然で、本来は内臣と徳率は別の官位であろう。つまり、次酒は別の人物なのだ。つまり14年1月の上部德率科野次酒を略したのが德率次酒であり、内臣を含む彼らを去年遣わした、と記しているのだ。
 15年12月にも 臣等、共議、遣有至臣等、仰乞軍士、征伐斯羅 とある。
 百済の汶斯干奴の言葉として、臣等は共に図って、内臣らを遣わし、新羅を討つための軍を乞い、とある。やはり、内臣は百済からの使者なのだ。
 そうすると、最初の14年6月に百済に遣わした、とある内臣は既に倭国に滞在していたのだ。おそらく、14年1月の德率科野次酒らと倭国へ同行したのであろう。そして6月に、賜った馬と船といっしょに百済に戻ったのであろう。その後記事はないが、同月8月の科野新羅らの使者と一緒に内臣は倭国に戻ってきたと考えられる。
 名前の不明な内臣は、百済からの再三の督促に対応して、倭国の地で軍兵の手配を行っていたのかもしれない。さらには、自らが40隻の船団を率いる立場であったことから、この内臣はかなり重要な地位の人物であることがわかる。

2.名の知れぬ内臣は百済王子の恵の可能性

 この内臣は、百済の官位であり、百済蓋鹵王の指示で倭国に質(むかはり)として渡った昆支が内臣佐平であったように、欽明紀の内臣も百済王の王子またはそれに近い存在と考えられる。船団を引き連れて百済に渡ったこの内臣のその後の記事はない。彼はどうなったのであろうか。半島にとどまったのか、倭国に戻ってきたのか皆目見当つかないが、次のように考えられないだろうか。
 内臣が渡った翌年の2月に聖明王の死去を知らせるために来朝した次男の恵が、この内臣だったのではなかろうか。記事の流れとしても矛盾なくつながる。これは、雄略紀の蓋鹵王が派遣した昆支が内臣佐平であったことと共通するのではないか。昆支と同じように恵も内臣だったと考えられるのだ。
そうすると恵は、3年連続で百済と倭国と往復していたことになる。彼はしばらく倭国に滞在した後に、軍兵の護衛付きで帰国している。蓋鹵王の死去を知らせるだけの役割ならば、すぐに百済に戻るはずが、何の説明もないまま滞在し、しかも倭国の高官とやり取りをしているのも、彼が質のような外交官以上の位置にいたからであろう。
 それにしても日本書紀は、何故名前をもらしたとして内臣とだけ記したのか。実際に編纂時に史料が確認できなかったのかもしれないが、意図して隠した可能性もある。名前を出すのが特に不都合とは思われないのだが、強いて言えば、最初の記事に倭国が軍兵を下賜するために内臣を遣わした、という形にするために、それが百済王子の恵と明記したのでは都合が悪いと判断したのかもしれない。

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