宋書倭王武の上表文の記述に
東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國
ある海北95国が、倭の勢力の半島支配を示していると考える方々がけっこうおられる。
その半島支配の根拠として、栄山江の前方後円墳を持ち出されるのだが、それは無理であることを説明したい。すでにこちらでは、栄山江以外の問題を説明している。
東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國
ある海北95国が、倭の勢力の半島支配を示していると考える方々がけっこうおられる。
その半島支配の根拠として、栄山江の前方後円墳を持ち出されるのだが、それは無理であることを説明したい。すでにこちらでは、栄山江以外の問題を説明している。
①栄山江の前方後円墳は5世紀末から6世紀前半という限定された期間だけの造営
そうであれば、武の上表文の話は、祖先の業績を讃えているものであり、それは478年以前のこととなるのであって、時代の下がる栄山江はなんの証明にもならない。さらに以下に付け加えていきたい。
②列島の中の渡来文化はどう説明するのか?
外国に前方後円墳があるから、倭国の支配を示している、などと考えるのであれば、列島の中にある半島勢力の特徴が数多くみられる状況は、どう説明するのでしょうか。近畿地域には、片袖式の横穴石室が多数見られるが、それは百済系と言われている。すると、近畿は百済勢力が支配していた、というのでしょうか。
③前方後円墳の配置された場所の問題
栄山江の前方後円墳と在地の高塚古墳は、排他的ではなく併存するかのように作られていると指摘されている。
④様々な特徴を持つ栄山江の古墳
栄山江の古墳の埋葬施設の構造、副葬品などは、倭系だけでなく百済系や加耶系、そして在地系の特徴なども見られます。
例えば、月桂洞1号墳は、石室については、特に熊本に多くある石屋形の埋葬施設であり、他の栄山江の方円墳や円墳も多くが熊本や福岡の古墳の特徴をもっているが、一方で、石棺と共に銀で装飾した釘で組み立てて、環座金具を取り付けた装飾木棺となっており、これは百済の特徴をもっている。
新徳1号墳は、武寧王陵と同じくコウヤマキ製の木棺があったことから、被葬者は百済系と考えられる。そこに百済の金銅製の冠帽や飾り履、金製の耳飾り。また新徳2号墳は百済式の石室になっている。
⑤九州式石室に甕棺が埋葬されている例もある。

伏岩里3号墳という方墳では、九州式の石室の中に甕棺が4基も埋葬される例がある。倭国の古墳ではありえないことだが、この栄山江流域は6世紀まで連綿と甕棺による埋葬が行われてきたことから、被葬者は在地の人物と考えられる。経緯は不明だが、わざわざ九州式の石室を造らせたのであろう。
⑥墓誌があったから百済王墓とわかった武寧王陵
栄山江ではないが、一例として。武寧王陵はその出土物の大半が中国系の器物であって、百済系の須恵器などは皆無であったことから、もし墓誌がなければ、被葬者は中国系百済官人、中国系有力者などとされていたかもしれないという話がある。出土物などで出自を判断するにはこういった問題もある。
以上のように、栄山江流域の6世紀前半の古墳の状況はそう単純ではなく、それに伴い様々な説が乱立している。被葬者の性格については,亡命倭人説,倭から派遣された倭人説,土着勢力説,百済が派遣した倭人説、倭人の百済系官人説などが提示されているが,未だ見解の一致をみていない状況である。
次のようなユニークな説もある。林永珍の馬韓系亡命客説は、百済の勢力拡大で北部九州に移住した集団の一部が、磐井の勢力拡大などで、再度栄山江へ亡命し、現地埋葬で継承無しだという。
私見では、東城王の護衛で渡った倭兵が、引き続き栄山江支配に使われ、そのリーダー格が埋葬されたと考えている。実は、この見方を支持するような見解がある。
金洛中氏は、栄山江流域における倭系文物には、帯金式甲冑や各種の武器に関連するものが多い。その一方で、日本列島における百済・栄山江流域の文物は、オンドルなどの住居施設や炊事用土器などをはじめ、渡来集団が移住・定着したことを示すものが多い。このような非対称性は、高句麗との緊張関係にあった百済王権が倭の軍事的支援を必要とした状況や、倭人たちが百済に進出し活動した理由が、移住・定着ではなく、比較的短い期間に終えることができる活動(軍事的支援)などであったことを示している、というものである。まさに、九州から護衛を兼ねて渡った倭兵の痕跡が残っているのではなかろうか。
いずれにしても、栄山江の前方後円墳の存在だけをとりあげて、九州勢力の支配があったなどとはいいきれない。そんな単純な問題ではなく、まだまだ新たな調査研究が必要な課題である。
参考文献
高田寛太『異形の古墳』角川選書2019
金洛中『古墳からみた栄山江流域・百済と倭』(国立歴史民俗博物館研究報告・第217集)弘文社2019
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