藤本反論書
    藤本光幸の「反証」記事 『「古史古伝」論争』別冊歴史読本1993

 前回、宝剣額は神社に早くから飾られていた、との証言に疑問があることを説明したが、他にも奇妙な点があることを付記させていただく。

⑴宝剣額の発見の経緯は奇妙
 以下は、古田がこの寛政の宝剣額のことを知って、所在を突き止めようとした経緯についての一節である。
 〔藤本光幸氏の論文「『東日流外三郡誌』偽書説への反証」(資料②)に付せられた小写真(奉納額)に注目し、わたしと共に八方これを探し、市浦村役場の成田義正さんの御協力をえて、再び陽の目を見るに至ったのである。〕『決定的一級史料の出現』(資料①) 
 ここでは、和田喜八郎の協力者で和田家文書をバックアップする藤本光幸の論文を見て、その存在を知ったようである。そしてついに発見したというのだ。(藤本については、また改めて説明したい)
  
 この経緯を古賀は、次のように書いている。
「昨年八月(中略)に掲載された藤本光幸氏の論文「『東日流外三郡誌』偽書説への反証」中に、秋田孝季が山王日吉神社に奉納したとされる額の写真がある。印刷が不鮮明なため正確には読み取れなかったが、「寛政元年八月」「土崎」「秋田」という字が読み取れた。 この額が現存していれば和田家文書真作説の有力な証拠となるはずである。さっそく、藤本氏に問い合わせてみたが、現在どこにあるか不明とのこと。」(資料③)

 ここで藤本氏に問い合わせたが、不明との返事だったというのは妙な話だ。当の藤本は、自分の論文の中で、次のように書いている。
「尋史のための日本全国巡脚は寛政元年(1789)4月1日から始められたことは、十三湊山王日吉神社に誓願のための献額(現存)によっても証明されることである。そのすべての調査が完了したのは、文政六年(1823)のことであった。」(資料②)
 ここで藤本は問い合わせの一年前の文章で(現存)とわざわざカッコに入れて書いているのに、古賀の問い合わせには不明と返事している。この場合、藤本は、以前は某所にあったのだが、確認すると今はないということだった、と普通ならこのような返事をすべきではなかったのか。そして古賀の方も、某所にあったというのであれば、まずはその某所を尋ねれば見つかるのではないのか。なのに「八方これを探し」という説明はどうであろうか。
 さらに奇妙なのは、この宝剣探索の話に、喜八郎は全く出てこないのである。何故、喜八郎に聞かないのか?藤本の次に問い合わせる相手は、喜八郎ではないのか。喜八郎も知らないと言ったのか?
 しかし、探し求めたという経緯は資料①の末尾に書かれたものだが、同じ論文の初めの箇所には、古田の次のような記述がある。
「昭和四十年代の終り頃、和田喜八郎氏がこれを見て、本額の貴重さに気づき、「退色」や「破損」または「盗難」などの災厄に遭うのを恐れて、これを市浦村教育委員会の保存に委ねた、という。」
 これはどういうことであろうか?
 喜八郎が宝剣額を危惧して教育委員会に委ねさせた、という話は、喜八郎本人からではなく、第三者からの説明のようである。宝剣額を発見した際に、保管していた役場関係者から、喜八郎からの依頼で預かった、という話を聞いたというのであろうか。ここでも喜八郎からは直接聞いていないようである。不思議だ。
 また、「昭和四十年代」とあるが、これは、前回にふれたように日吉神社を御一行が訪問した昭和48年のこととなろう。

 以下まとめると。
・藤本は当初、「現存」と書いていたが、翌年の問い合わせに、今はわからないと返事。藤本が、現存と書いた際には、どこにあると認識していたのかは不明。
・その時に、藤本は、和田喜八郎に尋ねてはどうかというような助言はしていないようだ。
・喜八郎に直接尋ねることなく、古田らは「八方探し」て、役場の協力で見つかったという。
・この経緯を書いた古田の論文の前半では、喜八郎が機転をきかせて宝剣額を教育委員会に委ねさせた、と書いている。
 
 なんとも奇妙な宝剣額「発見」のいきさつではないか。さらに、宝剣額については、他にも妙なことがある。

⑵宝剣額をめぐる食い違い 奉納の時期と秋田孝季の調査開始の時期

 藤本光幸は、偽書説への反論文で、宝剣額の奉納の経緯などを説明している。先ほど掲載したものだが、再掲させていただく。
 「尋史のための日本全国巡脚は寛政元年(1789)4月1日から始められたことは、十三湊山王日吉神社に誓願のための献額(現存)によっても証明されることである。そのすべての調査が完了したのは、文政六年(1823)のことであった。」(資料②)
 秋田孝季の全国行脚の開始が寛政元年の4月1日だという。4月? 宝剣額には、元年八月と書かれているのである。何故藤本は「4月」としたのか?また完了は文政6年だという。
 ところが古田の説明では次のようである。
「先ず十三湊山王日枝神社に参拝仕り、剣絵馬を奉納仕り、諸国巡脚の無事たるを祈念し、石塔山に一字の草堂を建立なして旅出でたり。
 『寛政二年より文政五年に到る諸国の安東一族なる歴史は深く、茲に東日流外三郡誌、内三郡誌と題して七百四十巻余の歴書と相成りぬ。』 (『東日流外三郡誌』〈6〉八幡書店、四六〜七頁、北方新社版〈五〉六八一〜二頁)」(資料④)
 ここでは寛政2年から開始としている。これが奇妙なのは、この古田の引用は、東日流外三郡誌の北方新社版1983年12月初版、八幡書店版1989年初版のものからである。
 しかし、グラビア写真が最初に掲載されたのは、市浦村版であり、1976年のことである。早くに登場していたわけだが、不思議なことに、グラビア写真は掲載されたが、本文ではなぜかこの宝剣額についてふれてないのである。その掲載写真に添えられた説明文が「寛政元年 祈願 奉納」としているのだ。
 
宝剣額写真の出所
 寛政元年8月と宝剣額に書かれたが、あくまで奉納で、実際の行動開始は寛政2年との説明にしているのである。すると、藤本の当初の元年4月からの全国行脚との説明は無視されたようだ。
 ところが、古田は、資料⑤の関東の研究会の会誌では、「寛政元年四月」と話しているのである。
 
多元記事
     多元の会のインタビュー形式の記事

 1994年6月の会報(資料①)では、奉納の時期にはふれていないが、多元の会報8月では、寛政元年4月としているのである。しかもここに八幡書店版と明記されているのだ。疑問符が続く。
 だが、翌年の1995年の資料④では、奉納の時期を、現物に書かれた寛政元年八月と記して、全国行脚は「寛政二年より文政五年」との『東日流外三郡誌』北方新社版、八幡書店版の両方に記載としているのだ。
 すると気になるのは、きっかけとなった藤本論文が元年4月とし、古田は八幡書店版として元年4月と述べているが、これは間違いで、古田は、藤本論文から元年4月としたようだ。   
 最後に、喜八郎は、最初の『東日流外三郡誌』市浦版の「薦言」において、和田長三郎は、寛政2年に神職を嫌って土崎に住んで秋田孝季の長女と結婚、その縁で秋田孝季と調査の旅に出たと説明している。結婚したとたん長期の旅に出たというのも疑問だが、喜八郎の最初の説明は寛政2年に二人の全国行脚であったということだが、他所から調達した額には寛政元年と記されている。その為、祈願したのは元年だが、その後に草堂を建てるやらの理由を作り、行脚開始は翌年の寛政2年としたのであろう。次の北方新社版・八幡版では、祈願の翌年の寛政2年より調査という資料④に引用されている記事を入れたのである。

 まとめると、
1974年 和田喜八郎、青山、教育委員会同行で日吉神社へ
1976年 宝剣額写真が市浦版初出でそこに寛政元年祈願とあるが本文に記事無し
1983年 東日流外三郡誌北方新社版第一巻 本文に寛政2年開始の記事
1990年 八幡書店版第6巻に寛政2年記載
1993年 藤本の反論文に「寛政元年4月1日全国行脚開始」
1994年 古田、宝剣額の探索 藤本は今はわからないと返事 6月に発見の記事  8月多元2号に古田、八幡書店版として寛政元年4月に祈願と説明
1995年 古田、宝剣額の実物文字から祈願を「寛政元年酉八月」と説明  全国行脚は寛政二年(北方版・八幡版)との引用文掲載
 
 これで見ると、藤本は、自分が編集者になっている北方新社版が寛政2年としていることを忘れたのであろうか。それとも和田喜八郎が、北方新社で出版するために提出した「資料」には寛政元年祈願のことを忘れて、寛政2年としていたのだろうか。そして藤本も気にすることなく寛政2年で編集した、ということであろうか。
 また古田の方も、当初は藤本に引きずられてか奉納は寛政元年四月としていたが、後に、現物の記載の八月と認識して、さらに全国行脚開始は、東日流外三郡誌北方・八幡版から翌年の寛政2年と説明したのだ。
 
 このようなことから、和田喜八郎は、寛政元年の宝剣額を利用して、最初の出版では、グラビア写真だけで、本文には記事は掲載しなかったが、後に新たな構想で、時期の矛盾を知ってか知らずか、次の北方新社・八幡版で「寛政二年」とする記事を追記した、ということになるではないか。そこで、藤本とは、齟齬が生じてしまったと推測するのだが。
 
 余談だが古田は、多元の会の記事にも見えるが、宝剣額の場所を「絵馬堂」と言っている。これも、前回に述べたように、村長は絵馬の架かっているところ、青山は奥の院、神社宮司は拝殿、喜八郎は仁王像台座と言っているのに、古田は村長の話から絵馬堂としたのであろうか。

 以上、重箱の隅つつきのようであるが、この各人の食い違いは、捏造を重ねていくうちに、齟齬が生じた可能性を説明するためであった。ご寛恕願いたい。
 とにかく、寛政の宝剣額をめぐる証言や発見の経緯など、とても真実を証明するものではないことを、繰り返し述べさせていただいた。


 資料
資料①1994年6月30日 No.1古田史学会報 創刊号
資料②『「古史古伝」論争』別冊歴史読本1993
資料③『秋田孝季奉納額の「発見」』古賀達也 同№1会報
資料④『新・古代学』古田武彦とともに 第1集1995年 新泉社特集2 和田家文書「偽書説」の崩壊
資料⑤ 多元的古代研究会関東1994.8.3 多元第2号