
宝剣額とは、東日流外三郡誌の著者とされる秋田孝季の実在を証明するものとして喧伝されたものだ。日吉(日枝)神社に奉納された額で、そこに寛政元年や秋田孝季の名が書かれている。しかしこれも、江戸時代の別の人物がどこかの不動尊に納めたものを拝借して、書き足したものにすぎない。写真にあるように、東北地方の不動尊には、多数の宝剣の奉納がされており、その気になれば悪用することは容易なのである。明らかに天保十四年奉納とされているのもあるのだ。
それにもかかわらず、この宝剣額が強力な証拠となるとし、以前からこの額はあったという証言者を3人も登場させて、自信たっぷりに真作であると古田武彦と古賀達也は主張している。今回の『東日流外三郡誌の逆襲』でも、目次を見るとよほど自信があるのか本文の一番手に置かれている。だが、その証言の内容には疑問点が多く、証言者二人は、確実に喜八郎と接点がある人物なのであり、もう一人にも疑問があることを説明する。
なお、引用文の出典は煩雑になるので、本文では資料番号を付して、末尾にまとめて掲載した。
⑴元市浦村長、白川治三郎の証言
古賀達也の説明はこうだ。「今春、三月十七日、待ちに待った便りが届いた。元市浦村長、白川治三郎氏からの返報だ。すでに大半については本会報6号(『東日流外三郡誌』公刊の真実)に掲載された通りだが、今ひとつ貴重な証言が記されていたのである。寛政宝剣額についての証言だ。要旨は次の通り。
1. 絵馬は多数雑然とぶら下がっていた。
2. 宝剣額も奉納されていたという記憶が何となくある。」(資料①)
先に図を示すが、この宝剣額の写真が、一般の目にふれるようになったのは、『市浦村村史・東日流外三郡誌』のグラビア写真からである。そこには「剣額」として山王日吉神社に筆起を祈願し奉納といった解説がついている。
「貴重な証言」と言われるのだが、実はこの白川治三郎こそ、『市浦村村史・東日流外三郡誌』の発刊の言葉を書き、この出版に大きく関わった当時の村長である。それは、藤本光幸の「偽書説への反証」(古史古伝論争別冊歴史読本)に、東日流外三郡誌の編集作業中に、白川村長が訪れて喜八郎の東日流外三郡誌を貸してほしいと直接申し込みに来たという「証言」からも明らかだ。その彼は、当然グラビア写真を発刊前後に目にしていたであろう。本人は否定しても周りはそうは思わない。
日吉神社に額があったかどうかを尋ねたとしても、ご本人は、額の写真を知っている可能性があるわけで、「記憶が何となくある」と言われても、それは早くからの既知の記憶による可能性が十分にあるではないか。このような人物を証言者にしても誰も納得できないのである。
しかも、この白川治三郎は、複数の編纂委員(東日流外三郡誌の)とともに和田喜八郎とは、以前からの知り合いで、骨董品のやりとりなどを通してつき合いがあったというのが取材で分かったと斎藤光政著『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』に書かれている。喜八郎とは骨董品仲間という旧知の間柄であったのだ。そのような人物の言葉が、貴重な証言にはなりえないだろう。そして次の人物。
⑵ 子供の頃から神社で見ていたという青山兼四郎の証言
資料②には次のようにある。
1. この額は山王日吉神社に掲げられていたものである。子供の頃から見て知っていた。
2.昭和二八年秋頃、市浦村の財産区調査により測量を行ったが、自分以外にも調査関係者がこの額を見ている。存命の者もいる。
3.当時、関係者の間でも大変古い貴重な額であることが話題になった。
4.「日枝神社」「秋田孝季」という字が書かれていたことは、はっきりと覚えている。
さらに、額の掲示された場所について、資料③で、「山王日枝神社の奥の院でやや中央より左寄の処だったと思います」と述べている。この点は後でふれる。
この青山兼四郎は「東日流外三郡誌は偽書ではない」という一文を寄稿している。この証言の翌年の資料④に掲載されている。
この中で青山は、東日流外三郡誌の安東水軍や山王坊などの記事を累々と書き連ねている。とても素人の書けるものではなく、東日流外三郡誌を知り尽くしているかのような内容である。文中にもあるように、おそらく地元で古代史研究をしていたからこそ書けるものではなかろうか。この点についても後で説明するが、とにかくこの論文の内容は、東日流外三郡誌を積極的に肯定しておられる。
青山の論考の結びの言葉だけ紹介しておく。「北奥羽の事実を天下に発表される意気こそ、今髣髴と或いは幻影のごとく目前にちらつく。外三郡誌と両先生の史実発掘の意志に感激しながら、静かにこの稿を捧ぐ。」とても熱い思いをお持ちのようだ。
そのようなお考えの方に、公平な証言ができるのであろうか。とてもそうとは思えない。
青山の論考の結びの言葉だけ紹介しておく。「北奥羽の事実を天下に発表される意気こそ、今髣髴と或いは幻影のごとく目前にちらつく。外三郡誌と両先生の史実発掘の意志に感激しながら、静かにこの稿を捧ぐ。」とても熱い思いをお持ちのようだ。
そのようなお考えの方に、公平な証言ができるのであろうか。とてもそうとは思えない。
先ほどの白川村長と喜八郎が骨董品仲間であるとの話があったが、東日流外三郡誌に関しての執筆には、この人物も同じ仲間であった気がするのである。実は、宝剣額についての古賀からの問い合わせの返答の中で、青山は次のようなことを返信している。
「私が小学校に入れられた当時、福士貞蔵校長先生と奥田順蔵内潟村長が今泉、相内、十三湖について十三史談会を創設して調査していたので、よく私の家にもきていろいろと話ししていたことなどで『やっと解った頃でした』このことでいくらか知っていた。」(資料③)
そして、先ほどの青山本人の寄稿文にも、福士貞蔵といっしょに「付近の縄文時代からの石器・土器類を集めていた」書かれている。さらに、福島城や山王坊には数え切れないぐらい往来したと自負しているのである。これこそ貴重な証言だ。だから青山は若いうちから郷土史に興味を持って、論文を書くこともできたのではなかろうか。
さらにである。斎藤光政の著書には、若き和田喜八郎を知る元地方銀行員の浜館徹の証言が記されている。そこには、喜八郎と浜館の二人は、戦後間もない頃、地元の「飯詰村史」編纂の為に資料収集に走り回っていたとある。二人は先ほどの福士貞蔵という郷土史家の使い走りのような存在であったというのだ。すると福士貞蔵を介して青山兼四郎と喜八郎は早くから接点があってもおかしくはない。それは、新たな問題につながっていく。
古田は次のようなことを書いている。
資料⑤の168頁の注(2)には、「昭和四八年、当額は、『阿吽(あうん)の仁王像の台座に使われていた』という。(和田喜八郎氏〈五所川原市〉による。)このさい、後出の青山兼四郎氏や市浦村教育委員会関係の方々が同道された、という。その後、当教育委員会関係の展示場に当額が出現することになったようである。(和田氏は、右の昭和四八年が当額初見であったという。)
以上が、当額の写真が『市浦村史史料編(中巻)』に掲載されることとなった経緯である。」 とあるのだ。
ここで青山の名前が登場している。彼は、和田喜八郎といっしょに日吉神社に行ってこの額を見ているというのだ。この青山と喜八郎は、先ほど述べたように旧知の関係であるからこそ、同行したのではなかろうか。だがこのような事実を、なぜ青山は先ほどの証言のところで語らなかったのか。昭和28年の測量の経緯は話しているのに、教育委員会の関係者も同行というエポックにもなるようなことであったはずが、これは奇妙なことと思える。
この証言を聞く側(古田)も、昭和48年のことは確認しなかったのかも不審である。不都合なことなのであえてふれないようにしたのではと勘ぐってしまうではないか。さらに奇妙なことに、証言者の言う問題の額の場所が食い違っているのである。この点に関して、もう一人の証言者に登場していただく。
この証言を聞く側(古田)も、昭和48年のことは確認しなかったのかも不審である。不都合なことなのであえてふれないようにしたのではと勘ぐってしまうではないか。さらに奇妙なことに、証言者の言う問題の額の場所が食い違っているのである。この点に関して、もう一人の証言者に登場していただく。
⑶日吉神社宮司の証言
資料⑥は長きにわたって宮司を務めた松橋徳夫の証言となる。
「私が日吉神社兼務宮司に就任したのが昭和二十四年五月ですが、当時すでに当神社拝殿に架かっておりました。」
以前から額はあったという重要な証言だが、宮司はその額が「拝殿」に架かってあったと証言している。ところが、より詳しく証言が記された資料⑦では、額の場所についての言及はなく、逆に古田の方から「実は今泉の青山さん(青山兼四郎氏)という方から、子供時分から、昭和の初めから(日吉神社拝殿で)これをよく見ておったとお聞きしておりますが、そういうことでございましょうね。」と額の場所についてふれるのだが、宮司はこれについては語らないままなのである。これも奇妙であるが、とにかく宮司は先の証言では「拝殿に架かっていた」としている。
一方で青山は「奥の院でやや中央より左寄の処」と細かく述べているが、奥の院と拝殿は同じとは思えない。そして、和田喜八郎の場合は「阿吽(あうん)の仁王像の台座に使われていた」との説明を古田は自分の著作の注に記しているのである。
三者三様の証言ではなかろうか。
さらにこの宮司の話には引っかかる所がある。一つは、昭和48年に、喜八郎と青山、それに教育委員会の一行が神社を訪れていることについて、青山と同様に全く触れていないことだ。御一行の来訪は、通常の地元民の拝観と違い、宮司は当然、応対するものではないか。それを忘れてしまったとは考えにくい。これも敢えてふれなかったのであろうか。
もうひとつある。宮司はこの額がとても大切なものだと認識している。だが、おそらく昭和48年の御一行の来訪時か、その少し後かわからないが、喜八郎が歴史的に貴重なものだからと言って、教育委員会で預かるように進言し、実際に教育委員会の手に渡ったのである。しかし、神社にとってもお宝のような貴重なものを、どうして言われるがままに教育委員会に預けてしまったのか。実に奇妙なことだ。
全国の神社では、歴史的な遺物が神社の宝として大切に宝物庫に保管するといったことが多数見受けられる。縄文時代の石製の遺物でも、博物館にはレプリカの展示で、近くの神社に本物は保管されているというようなこともある。額が重要なものなら、なぜ宮司は当社で保管すると言わなかったのであろうか。証言を見ても、資料⑦にある古田の質問「昭和四十年代の終りの頃か五十年代の初めに教育委員会に移ったということのようで」に対して、「そうでこざいますね。私もはっきり記憶はございませんが、昭和五十年頃ではないかと記憶しております。」と宮司は答えている。
なんと淡々と他人事のように額が渡って行ったと話し、しかもはっきりした記憶がないと。これは明らかにおかしい。神社において教育委員会関係者も同行という来訪は珍しいことであり、それを記憶がないとは。しかも、ためらうこともなく言うがままにお宝になるようなものを、持っていかれたというのか。そもそも当神社に奉納されたもののはずが、外部に運ばれるということを宮司が黙認したのなら、これもまた信じがたいことだ。
以上のように、宝剣額の証言者の内容は、本物であることを証明するどころか、新たな疑問が生じることになるものであったのだ。明らかに村長と青山は喜八郎とつながりがあり、宮司も宝剣額に対して奇妙な態度であったことから、なにか共同謀議のような気配すら感じる。示し合わせたつもりが、打ち合わせの不徹底で、証言に齟齬が生じたと考えざるをえないのだ。
なお、もれていたので追加させていただくが、「証言者」の青山兼四郎は、最初の『東日流外三郡誌』となる市浦村史の編纂委員のメンバーであった。いやはや、大変重要な証言者であった。
古田と古賀には、各人の証言の内容をもう少し突っ込んでみるということはなかったようだ。喜八郎を含む4人の証言者の、とにかく額が昔からあった、という都合の良い部分だけが重要で、これ以外はどうでもよかったのだろうか。魏志倭人伝などについては、事細かく史料批判をされていた研究姿勢と比べて大きなギャップを感じざるをえないのだ。
くりかえすが、証言者の公平性が疑わしいこと、額の場所の証言者の食い違い、昭和48年の経緯に証言者がふれないこと、額の移動も不審、喜八郎とのつながりといったことについて、明確に説明すべきであった。これを無視して、昔から額があったという各人の証言だけで、宝剣額は本物だなどと言う主張は通らないことを自覚すべきであろう。このようなものではわざわざ編集して新刊として発表しても、「逆襲」どころか、「逆ギレ」にしかならないのだ。
都合のいい証言だけ取り上げて、和田キヨヱさんの証言は無視するという態度と同様、何をか言わんやだ。
資料の出典 〔 〕のタイトルの検索で閲覧可能
資料①1995年 8月15日 古田史学会報 No.8〔「平成・諸翁聞取帳」起筆にむけて〕『新・古代学』のすすめ 古賀達也
資料②古田史学会報 創刊号 1994年6月30日 No.1 〔秋田孝季奉納額の「発見」〕「和田家文書」現地調査報告 古賀達也
資料③ 平成・翁聞取帖〔『東日流外三郡誌』の事実を求めて〕古賀達也『新・古代学』古田武彦とともに 第3集 1998年 新泉社研究報告
資料④ 〔東日流外三郡誌』は偽書ではない〕古田史学会報1995年No.6・7・8《特別寄稿》 青山兼四郎
資料⑤『新・古代学』〔特集2 和田家文書「偽書説」の崩壊〕古田武彦 ※こちらは、文献で直接参照のこと
資料⑥古田史学会報 創刊号 1994年6月30日 No.1 決定的一級史料の出現 〔「寛政奉納額」の「発見」によって東日流外三郡誌「偽書説」は消滅した〕 古田武彦
資料⑦『新・古代学』古田武彦とともに第3集1998年新泉社 研究報告 〔平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の事実を求めて〕 古賀達也
不動明の宝剣写真はHP「珍寺大道場」より利用させていただいた。
参考文献斎藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』



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