図は、日本書紀の神功皇后から雄略紀までの、百済の毗有(ヒユウ)王に関係する書紀と三国史記などの記事だけを抜粋して表にしたものである。この時期の年代が明確な百済王の記事は、日本書紀では干支二運、120年遡って記述され、雄略紀で実年に合うようになっている。そのためここでは、ずらされた記事と元の時代の記事を重複するが表記させた。また百済王の表記は書紀では肖古王が三国史記では近肖古王に、直支王が三国史記では腆支王などと異なることが多くある。
毗有王とは、蓋鹵王の父であり、武寧王はその孫となる。実は、高野新笠と武寧王との関係を考えるうえで、この毗有王の事績が重要な問題となると思われるので、この図を用いながら説明していきたい。
1.肖古王から威徳王までの記事に、毗有王だけ記載のない日本書紀
書紀は、卑弥呼を神功になぞらえて、中国史書『梁書』の景初3年卑弥呼朝貢記事の239年を神功39年にあてている。この年を基準として、以降の記事の年代が想定されることになった。その一方で、七支刀など百済との友好を強調するなど、半島関連の記事が多くみられる中に、神功、応神紀に百済王即位と没年の記事がはめ込まれている。Ⓐ肖古王薨貴須王即位からⒻ久爾辛王即位まで、三国史記の記事より合わない場合もあるがだいたいは二運120年ずらして記載している。しかしなぜかⒼ久尓辛王薨毗有王即位(427 年丁卯)の三国史記の記事は書紀には記載されていない。本来なら応神39年に記載すべきところだが、その代わりに、既に死去したはずの王の名にした記事が掲載されている。
①卅九年春二月、百濟直支王、遣其妹新齊都媛以令仕。爰新齊都媛、率七婦女而來歸焉
百済王が倭国に新齊都媛(シセツヒメ)ら8人もの女性を送り込んでいる。だがその直支王は応神25年に崩御記事があり、次に即位した久爾辛王は427年に崩御しており、その後を毗有王が即位する。応神38年(307)に120年のずれで記載されるはずであった毗有王が即位しており、その翌年の応神39年に8名の女性を送ったというのが本来の記事であった。「其妹」とあるように、毗有王の実娘を送っているのだ。さらに奇妙な記事がある。
②雄略2年に、百済池津媛焼殺の記事の後に百濟新撰云「己巳年、蓋鹵王立・・」の(己巳年は429年)は蓋鹵王の即位とは考えられないので、本当は消された毗有王(三国史記では427年即位)のこととなる。2年のずれは、宋書南宋貢遣が429年とあるところを即位年とした可能性がある。よって、蓋鹵王ではなく毗有王の記事であった。
さらに、三国史記のⒽ毗有王薨蓋鹵王即位(455 年乙未)の記事を、本来ならば安康2年(455)に記載すべきところ、Ⓖの記事と同様に無視しているのである。
修正した年次と記事を示すと以下のようである。
允恭16年(427)Ⓖ毗有王即位(三国史記) ← 書紀はカット
允恭17年(428)Ⓧ新齊都媛等8人の女性派遣 書紀は直支王としたが毗有王のこと
允恭18年(429)②己巳年蓋鹵王即位は毗有王のこと。しかもこの年は宋への貢遣記事で即位は2年前Ⓖ
安康 2年(455)Ⓗ毗有王崩御、蓋鹵王即位(三国史記) ← 書紀はカット
2.日本書紀は、毗有王だけ消してしまった。
その後は欽明紀の威徳王まで百済王の崩御と即位記事はもれなく掲載しているのである。つまり、日本書紀は、毗有王の名前だけ記していないのである。これは単なる記入漏れとかではなく、明らかに意図して書き換えや不記載を行っていると考えられる。この毗有王は、新羅との友好関係を結び、羅済同盟によって、高句麗を牽制し、彼の在位期間には高句麗との紛争はなかったようだ。また、「其妹」とあるように自分の娘を含む8人の女性を倭国に派遣しているのである。
ところが、不慮の死を遂げたことが関係するか不明だが、百済遺民にとっては存在を消してしまいたい人物であったようだ。その名も蓋鹵王に変えられ、記事も直支王の事績であるかのように改竄されたのであり、これは、書紀編纂に関わった百済系の人物たちによるものであろう。決して、書紀編者がたまたま毗有王の記載だけをもらしたなどとは考えられないのである。この事例から、他にも半島系の編者が、意図的な書き換えやカットを行っていることは十分あり得ることである。武寧王が謎めいた存在になっているのも同じような事情があると考えられる。また半島関連の記事は、七国平定、四県割譲など、この点を踏まえて読み解く必要があると思われる。
「任那四県の割譲は、百済の下韓(南韓)への侵攻以前に、倭から百済へ新たな地域を賜与したとすることで、百済による加耶侵略との辻褄を合わせた記事」(仁藤2024)といった最近の研究者の指摘もある。実際は、百済による加耶(任那)地域への侵攻を、倭国からの割譲といった表現に変えてしまっているのである。
三国史記の百済本紀によれば毗有王は新羅に良馬二匹を送る記事があるなど、新羅との関係を強化していった。だがこれは、新羅を敵視する日本書紀の筆法に反するものであり、このことが消された要因であったとも考えられる。
さて、以上のように毗有王が、倭国に女性を送っていたわけだが、同じことがその後も行われて武寧王から高野新笠につながることを、次に説明していきたい。
参考文献
仁藤敦史「加耶/任那 ―古代朝鮮に倭の拠点はあったか」中公新書2024