日本書紀には、神武から天武までの間で、年齢が記載されていない天皇の方が多い。神武からいわゆる欠史八代、さらには応神までは途切れることなく記載されているのに、仁徳から武烈までは不記載が続く。図の書紀の年齢の( )の数字は、後の史料からの転載である。しかも書紀には履中が70歳と記されているが、これは割注によるもので、本文より後からの追記である。その後、武烈のあとの継体で年齢の記載が復活するのである。
ところが、この継体の年齢が古事記とは大きく食い違っている。古事記は43歳とあるが、書紀は倍に近い82歳となる。この違いを、採用した史料が異なるからだという解釈がある。すなわち、日本書紀の方は、二倍年暦で書かれた史料に拠っているので82歳の高齢となっているというのだ。
神武から始まる上古の天皇の年齢は百歳を超えることが多く、垂仁に至っては140歳という長寿となっている。これが2倍年齢と考えると、無理のない年齢になるとの考えである。このことから、書紀の編集において参考にされた史料に、古事記とは異なる2倍年暦による記述があるとの説明だ。だがこれには疑問がある。百歳の仁徳よりあとの天皇は、さほど長寿といえない年齢が続くのである。
2.書紀は、継体の長寿の年齢によって五世孫との辻褄を合わせた可能性
古事記の方が、書紀よりは古い伝承を持っていると言われるが、そうであるならば、どうして二倍年暦が書紀よりも早く終わっているのかというのか説明がつかない。さらに、仁徳から武烈まで続いた年齢不記載が、継体になって、本文に「時年八十二」と明確に記述されることになったのはどうしてであろうか。ここは、書紀の編集に恣意的な、何らかの作為があって記載されたと考えるべきではないだろうか。
それは、継体なる男大迹(ヲホド)の出自に関係するのである。武烈天皇には子がなかった。そこで皇統を絶やさぬよう、応神の五世孫にあたる男大迹に白羽の矢が立ったのである。だがこれについては、こじ付けであるといった疑問が早くからあった。しかし書紀はこれを良しとして、即位までの経緯を詳しく記載して継体天皇を誕生させたのである。そこで、五世孫に合うように継体の年齢を繕う必要があったのではなかろうか。
古事記では43歳となっているが、それでは応神からかなり年数が離れてしまう。古事記の記事には干支は入ってはいないので、年数は問題にならないが、書紀はそうはいかない。干支によって年数がわかるので、応神の五世孫に合うようにしなければならない。
表を見ていただきたいが、継体の没年が531年だとすると、書紀の言う82歳なら449年の誕生となり、それは允恭の在位期間に入る。その允恭は応神にたいして四世の天皇である。実際には別の血統であるが、仮定として例えるならば、允恭の子はちょうど応神の五世孫となる。注1)これを男大迹に想定したのではなかろうか。古事記の43歳では差が大きいので、書紀は倍近い年齢に設定した、もしくは、史料の記述から一番長寿となる年齢を採用したということになろう。注2)よって、継体の82歳は、二倍年暦による年齢で、実際は古事記の43歳が実年齢だ、とは言い難いのではなかろうか。
以上のように日本書紀は、万世一系のために恣意的に高齢の記述にしたと考えられるのである。記紀の天皇の年齢、在位期間などには多くの疑問がある。継体の年齢もその一つだが、その他の事例についても述べていきたい。
注1. 『上宮記』逸文によれば、応神5世の孫とは、①若野毛二俣王 ②大郎子(意富富等王) ③乎非王(おひ) ④ 汙斯王(=彦主人王ひこうし) ⑤乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。
注2.なぜ書紀は古事記の年齢より39年も増やしたのかという疑問について、興味深い解釈をされている方もおられるので、参考のため紹介します。神谷政行氏のHP「天武天皇の年齢研究」の『継体大王の年齢』
図は、古田史学の会の正木裕氏の古代史講演会での史料を利用させていただいた。
図は、古田史学の会の正木裕氏の古代史講演会での史料を利用させていただいた。