図は、YouTube 「Kuwa_Film 絶景とグルメ」様の(佐賀県唐津市の「加唐島」は猫の島)より
日本書紀には、武寧王誕生の説話が雄略紀と武烈紀の二カ所に登場する。渡来した新羅王子であるアメノヒボコについては、日本書紀や古事記、そして播磨国風土記などにも描かれている。ところが武寧王は、佐賀県唐津市加唐島で生まれたことになっているのだが、どうして肥前国風土記には記さなかったのかという疑問が浮かぶ。書紀には、倭国に渡る前のいきさつなどを詳しく説明するなど、百済王の中でも重要な人物のはずが、何故風土記には記されなかったのか。そもそも武寧王は、肥前国の嶋ではなく他の地域で誕生したのではなかろうか。この点について、唯一の根拠となる日本書紀から考察していきたい。
日本書紀には、武寧王誕生の説話が雄略紀と武烈紀の二カ所に登場する。渡来した新羅王子であるアメノヒボコについては、日本書紀や古事記、そして播磨国風土記などにも描かれている。ところが武寧王は、佐賀県唐津市加唐島で生まれたことになっているのだが、どうして肥前国風土記には記さなかったのかという疑問が浮かぶ。書紀には、倭国に渡る前のいきさつなどを詳しく説明するなど、百済王の中でも重要な人物のはずが、何故風土記には記されなかったのか。そもそも武寧王は、肥前国の嶋ではなく他の地域で誕生したのではなかろうか。この点について、唯一の根拠となる日本書紀から考察していきたい。
1.日本書紀の誕生譚
誕生に至る前段の話はこうである。百済蓋鹵(こうろ・がいろ)王は、弟の昆支を倭の天王に派遣する。その時軍君(コニキシ・昆支)は、蓋鹵王の身重の女性を譲ってもらう。生まれたら帰すようにと言って送り出したが、その女性は途中で出産したという。次に以下のように記されている。
於筑紫各羅嶋産兒、仍名此兒曰嶋君。於是軍君、卽以一船送嶋君於國、是爲武寧王。百濟人、呼此嶋曰主嶋也。秋七月、軍君入京、既而有五子。(雄略紀五年)
この現代語訳を記すと次のようである。加羅(かから)の島で出産した。そこでこの子を嶋君(せまきし)という。軍君(こにきし)は一つの船に母子をのせて国に送った。これが武寧王である。百済人はこの島を主島(にりむせま)という。秋七月軍君は京にはいった。すでに五人の子があった。(宇治谷孟)
次は武烈紀四年の記事。
琨支、向倭時至筑紫嶋、生斯麻王。自嶋還送、不至於京、産於嶋、故因名焉。今各羅海中有主嶋、王所産嶋、故百濟人號爲主嶋。
昆支は倭に向かった。そのとき筑紫の島について島王を生んだ。島から返し送ったが京に至らないで、島で生まれたのでそのように名づけた。いま各羅の海中に主(にりむ・国王)島がある。王の生まれた島である。だから百済人が名づけて主(にりむ・古代朝鮮語で王の意)島とした。(宇治谷孟)
ほぼ同じような内容だが、実の兄から女性を譲り受けたが、身重だから生まれたら国に帰せ、というのは奇妙な話である。意図して作られた部分もあるとして、この記事を検討しなければならないだろう。
2.現地調査では、痕跡の確認できなかった加唐島
赤司善彦氏ら研究者による武寧王伝説の合同調査が現地で行われたことがある。島民への聞き取りなど含め、くまなく調査が行われたようだが、偉い人が生まれた、といった伝承を聞いた人はいるが、武寧王と関連付ける痕跡は見つけられなかったようだ。ただ、壱岐島から糸島半島は視認がしにくく、この加唐島を目安に渡海した可能性はあるようだ。
そもそも、加唐島と理解されているが、書紀の原文は各羅嶋である。普通ならカクラと訓むが、岩波の補注によれば、国学者西川須賀雄氏の説をひいて、各をカカと訓む事例もあることから、加唐島にあてたのである。ところがその補注には、先に各羅をカワラと訓む事例をあげている。文永一(1264)年または建治一(1275)年に完成した、日本書紀の注釈書(二八巻、卜部懐賢著)である釈日本紀は、「カ禾ラ」と訓みを付けており、明らかにカワラと訓んでいるのであるが、これは採用されなかったのだ。この場合、カワラと呼ばれる地名も検討しなければならないのではないか。
さらに、地名と関連してまだ気になる所がある。それは、現代語訳にあるように島と解釈されているが、原文は嶋となっているところである。ひょっとすると、カワラ嶋というところがあったのではなかろうか。
3.河川付近にある嶋という字地名
現在確認できる嶋という地名は、4カ所ある。兵庫県西脇市嶋は、加古川のある所であり、鳥取県鳥取市嶋も付近に野坂川がある。静岡県牧之原市嶋は、大きな河は確認できないが、沢水加川があり、付近に倉沢という地名がある。和歌山県紀の川市嶋は紀ノ川の河川敷一体の地になっている。いずれも河川付近に位置し、流水によって運ばれた砂礫の堆積地、砂州といった地形と考えられる。つまり、アイランドの島ではなく、海岸線から離れた場所に嶋があるのである。
また日本書紀には、嶋の多くは小島を意味するのだが、なかには、「素戔嗚尊曰韓鄕之嶋、是有金銀」とあるように嶋は国を意味する使い方もされているのだ。
ではその嶋はどこを意味するのであろうか。実は書紀は雄略紀も武烈紀も、筑紫嶋と何度も繰り返しているのである。これは肥前の国の加唐島ではなく、筑紫国の嶋という地域を意味しているのではないか。筑紫には嶋という単独の字名は見当たらないが、福岡県朝倉郡筑前町に四三嶋(しそじま)という地名がある。ここには、オンドル遺構が確認されており、渡来人の居住地があったと考えられている。
また、「シマ」でいうならば、古代には筑前国嶋郡とあった現在の糸島市志摩に志摩岐志という地名があり、「キシ」は渡来人の称号と言われ、記紀には、和爾吉師や難波吉師などが登場する。このように「シマ」で検討するといくつも候補が浮かぶので、さらに絞り込む必要はある。
各羅をカワラと読むのであれば、該当しそうな地域がある。高良大社が有名な高良は、今ではコウラであるが、京都の石清水八幡宮の高良社などには、瓦、河原にあてる例があることから、もともとカワラと呼んでいたのであろう。ちょうど久留米の高良大社の北側のふもとを流れる筑後川の対岸にも高良天満神社が所在するところも高良であり、ここも筑後川の砂州の地であった。さらに、福岡県香春町もカワラでありこの地は渡来神伝承の地でもある。
4.嶋王のシマは地名由来
武寧王は、誕生後に帰国したような記事になっているが、どうであろうか。日本産のコウヤマキで作られた棺に眠っていた武寧王は、副葬品の銅鏡の踏み返し鏡が滋賀県甲山古墳、群馬県綿貫観音山古墳から出土するなど日本との関係が深いのである。さらに、隅田八幡宮人物画像鏡の銘文に記された斯麻が武寧王である可能性も高いと考えられている。ほかにも、日本書紀の継体紀には子の純陀太子崩御記事が記される。その純陀太子の末裔に桓武天皇の母である高野新笠がいる。武寧王は、百済王として即位するまでの40年間は全く不明であり、長く倭国に滞在していたと考えられる。
その武寧王に名づけられたシマは、嶋や斯麻とされているが、これは具体的な地名を表しているのではなかろうか。だいたい、名前に普通名詞の島を付けるのは妙である。雄略紀には、浦嶋子という伝説の人物もいるが、大方の所は、人の名前や宮名にはその所在場所の固有名詞を付けるのではないか。上述の武烈紀には「今各羅海中有主嶋」とあり、ここを見ると、嶋は海の中の島ととれるが、これは百済人がそのように名づけたとあることから、後から嶋を島のことと解して記述したと考えてよいのではないか。シマ王は、アイランドの島ではなく地域名としての嶋や斯麻と考えられる。その場所が、筑紫の各羅嶋であるとも解釈できよう。
兄の昆支は、倭国の天王のために渡来したのである。倭国に使えるために配下のものと落ち着いた場所で、嶋王は育ったと考えられる。すると筑紫のカワラ嶋が王宮からは遠くない地域と考えてよいのではないだろうか。それが四三嶋周辺なのか、高良大社近辺か、断定はできないが、当時の倭国の中心地の宮があったところだろう。
日本書紀欽明紀に磯城嶋金刺宮があるが、『上宮聖徳法王帝説』には志癸嶋、『天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文』では斯歸斯麻宮治天下天皇という記載がある。シキシマという地に宮を設けて統治したということであり、このシマも地域名であろう。
なお、時代は遡るが、魏志倭人伝には女王国の記事の後に、21国の国名が羅列されており、その最初に「斯馬国」とある。邪馬台国の近隣に「シマ」と名乗る国があったのである。
武寧王の誕生の地は、様々な可能性が浮かぶが、筑紫の中心地のカワラ嶋と呼ばれた地域も候補の一つと考えられよう。これが佐賀県の加唐島のことではないので、肥前国風土記には記事が見当たらないのではないかと考えられる。筑紫国風土記の方はわずかな逸文以外は残っていないのである。
ただ加唐島の生誕地を否定しても、渡海の際にはこの島に途中で立ち寄った可能性はあるわけで、そこから、関連する話が生まれた記念の地ではあったかもしれない。日韓の友好に水をさすつもりは決してないのだが、日本書紀を見た限りでは、武寧王の加唐島での誕生の可能性は低いと考えられる。
ただ加唐島の生誕地を否定しても、渡海の際にはこの島に途中で立ち寄った可能性はあるわけで、そこから、関連する話が生まれた記念の地ではあったかもしれない。日韓の友好に水をさすつもりは決してないのだが、日本書紀を見た限りでは、武寧王の加唐島での誕生の可能性は低いと考えられる。
参考文献
赤司善彦他「加唐島武寧王伝説の調査について」東風西声 : 九州国立博物館紀要 巻号9号 2013年
宇治谷孟「日本書紀 全現代語訳」講談社学術文庫1988