龍鳳文環頭太刀(環頭部)6世紀前半
山清生草M13号墳 国立晋州博物館
任那日本府は、日本書紀の欽明紀のわずか10年ほどの期間に登場する、韓半島における加耶の組織であった。
山清生草M13号墳 国立晋州博物館
任那日本府は、日本書紀の欽明紀のわずか10年ほどの期間に登場する、韓半島における加耶の組織であった。
だが、任那、とはされていないが、雄略紀八年に「日本府行軍元帥」(やまとのみこともちのいくさのきみたち←音読みで良いと思うが)という記述がある。これは、任那日本府とは異なるものであるが、あながち無関係とは言えない。この点について、同じ古代史の会の方から受けた御指摘への回答も含め説明したい。
1. 日本府行軍元帥のなかで指示を出す任那王
「伏請救於日本府行軍元帥等。由是、任那王、勸膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子、往救新羅」(日本書紀雄略紀八年)
この記述を、任那王が膳臣斑鳩らに出動を指示する形になっており、そこに倭国の介在はないので、この日本府の責任者は任那、すなわち加耶の王と考えられる」と記しましたが、
この点につきまして、以下のような指摘をいただきました。
【「勧」は指示ではないと思いますが日本書紀の粉飾と見るのですか?膳臣(かしわでのおみ)らが新羅に対して、みずからを官軍と言い、天朝に背くなと言っています。これを任那軍・任那王とするのですか?】
任那王が「指示した」という私の説明に対して、原文の「勧」は、勧告といった使い方で、命令ではないのではとのご指摘です。この点について以下のように考えます。
この一節では、高句麗に攻められて新羅は救援を求めますが、次のようにあります。
乃使人於任那王曰「高麗王征伐我國、當此之時、(省略) 伏請救於日本府行軍元帥等。」
ここでは「乃使人於任那王曰」(人を任那の王のもとに使(や)りていわく)、となっています。つまり新羅は、倭国ではなく任那王に救援要請しています。これを請けて任那王が、新羅の為に行動に出ます。
「勸膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子、往救新羅」
彼らを救援に行かせますので、「勸」の文字はありますが、本来は指示であったと考えられます。
ここで、日本書紀の「勸」の使用例をみると、雄略紀即位前期に、
「乃使人於市邊押磐皇子、陽期狡獵、勸遊郊野曰」
いちのべのおしはの皇子に、使いをやって、いつわりの狩りの約束をして、野遊びをすすめられた、とある。この場合は、やはり、人に〇〇をすすめる、であって命令とはちがう。しかし、強制的な命令と取れる事例もある。
崇峻紀「蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣、謀滅物部守屋大連。泊瀬部皇子・竹田皇子・廐戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拕夫・葛城臣烏那羅、倶率軍旅、進討大連。」
馬子が「勧めて」、武田皇子や厩戸皇子ら多数を引き連れて、物部守屋大連を討っているのである。この場合は、とても任意の呼びかけではなく、実質は強制であろう。このような勸の使用事例があるので、任那王が勧めたのも、いわば出動命令となると考えられる。
2.日本の名前のような加耶の同族集団
任那王から出動要請された人たちは、斑鳩、吉備、難波、というように日本になじみの名前を持っている。
彼らは在韓の倭国人なのであろうか。実はそうではないことを次に説明する。
彼らが出動し、高麗に勝利してから膳臣が新羅に対し、官軍が救わなかったら助からなかった、今後天朝にそむくな、と新羅に説教をする以下のようなセリフがあり、これを見ると倭国の救援のようにとれる。
「膳臣等謂新羅曰汝、以至弱當至强、官軍不救必爲所乘、將成人地殆於此役。自今以後、豈背天朝也。」
ところが、その直前の一節は不可解である。
「乃縱奇兵、步騎夾攻、大破之。二國之怨、自此而生。言二國者、高麗新羅也。」
膳臣は奇策を練り、挟み撃ちで高句麗軍を大破させます。その結果、高麗と新羅の怨みはここから始まった、記しています。これは奇妙ではないでしょうか。奇策を謀ったのは膳臣のはずですが、それならばなぜ倭国を恨まないのでしょうか。すると膳臣は倭国の兵ではないと言えます。膳臣は加耶・新羅系の人物だったということになるかもしれない。新羅が救援要請した「日本府行軍元帥」は、在韓の倭国駐留軍といったものではなく、任那こと加耶の組織であったのであり、だから任那王が出動の指示をしたのである。
そして、この争いを機に高麗と新羅の間の怨恨が始まったことからも、倭国が介在はしていないのである、と考えられる。このように、欽明紀の任那日本府のみならず、雄略紀の日本府も倭国の組織ではないといえる。
人物名に斑鳩や吉備、難波と表記されていると、日本の地名が真っ先に思い浮かんだりするが、これらの名詞は、加耶にも関係するものと考えている。顕宗紀には紀生磐(きのおいわ)宿禰が登場し、これも任那と関係する人物であろう。吉備国、紀国には、加耶の馬具、装飾品といったものが出土している。さらに、斑鳩は、奈良県の場合、藤ノ木古墳が所在し、豊富な副葬品には、新羅・加耶系のものが見られる。また、難波は大阪の場合とすると、難波宮北部地域には加耶の陶質土器が見られる遺跡が多数みられる。つまり、日本にゆかりの名が付された人物であっても、加耶と関係するのである。
さらに、先ほどの崇峻紀の大連討伐に馬子が引き連れた集団には、難波皇子、紀男麻呂宿禰、膳臣賀拕夫の名があり、厩戸皇子も斑鳩と縁のある人物なのである。加耶の末裔がからむ紛争であったのかもしれない。
図は国立歴史民俗博物館2022展示図録「加耶」より