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   写真は群馬県前橋市柏川歴史民俗資料館 実物大?の落し穴模型

 古事記や日本書紀の説話には、当時の民俗から取り入れられたものがあるという事例を取り上げます。

1. 落し穴猟の底にある杭の目的は?

 縄文時代には、罠用の落し穴が列島全体で100万基を超えると予想されている。しかも単発的でなく、同じエリア内に連続的に落し穴を設けている状況が見てとれる。一つや二つの落し穴では、獲物はかかってくれないからだろう。博物館には、よく上図のような落し穴に落ちてしまった獲物が描かれる。先端を尖らした杭が落し穴の底部に差し込まれており、そこに落ちた獲物の胴部に突き刺さって仕留めるというという様子の再現だ。やや残酷とも思ってしまうのだが、ただこの場合、仕掛けをしたあとに人は待機せずに放置して、動物が落ちた後に確認して確保するやり方だ。実際に、縄文時代の落し穴を調査すると、底部に1カ所から複数の杭跡のような穴が見受けられる。そこから、獲物が落ちた瞬間この先がとがった杭に刺さるというものだが、これについては異論が出されている。
 「一見、槍のような殺傷目的を思わせるが、なかには深く地面に刺さり込んでいない例もある(中略)槍が機能した場合に、血のにおいを嗅ぎつけた他の動物に狙われる可能性があるので落し穴にむかない。開口部の覆いを下から支えるための棒あるいは、陥し穴にかかったシカが坑底に脚がついた場合跳躍して逃げるのを防ぐため、体を宙にうかす可能性」(大泰2007)があるという。
 納得できる指摘であろう。たしかに、落ちた獲物が尖った杭に刺さって出血したら、カラスや他の肉食獣などが真っ先にやって来るだろう。殺傷の為ではなく、落ちた獲物の自由を奪うためであり、杭によって脱出できなくなった獲物は、すぐに殺傷してから穴から引き出すことになる。そして、罠にかかった獲物は死んでしまったらすぐに処理をしないと、体温を持つ内臓がすぐに傷みだし、さらに血液も影響して肉がまずくなってしまう。
 だから、仕留めた獲物はまずは血抜きをして、さらに肉と内臓を分ける解体作業を手早く行わなければならない。よって、先を尖らした杭を底に立てた罠を作って、いつかかかるだろうと放置しておくことはありえないと思われるので、博物館の展示にあるような解説には見直しが必要ということになるのではないか。
 
2.落し穴猟は、待ち伏せではなく、追い込み猟
 獲物の対象となる猪や鹿などは、大変敏感な生きものであり、人間が掘った穴などもニオイで察知すると思われる。茅野市尖石縄文考古館HPには、「放置しておき動物が落ちるのを待つ罠猟」との説明があるが、これでは獲物の確保は難しいかもしれない。
 落とし穴は単にケモノ道やその近隣に設置しただけでは、人が造ったという不自然さとヒトの気配を容易に察知され、簡単に避けて通り過ぎられてしまうと思われる。イノシシは移動中も掘り返し行動を伴いながら餌を探しているため 、地表面の変化には特に敏感だという。
 縄文人は、獲物の集まりやすい草原を作るために火入れによって、自然環境を変えてきたという。火入れによって生み出される草原的植生は、シカ・イノシシが嗜好する餌植物を多量かつ集中的にもたらすのだという。
 そこで、樹林帯と草原帯の狭間に落し穴をめぐらし、合わせて間伐材などで誘導柵も設置しての追い込み猟があったと考えられている。罠にかかってもらうためには、餌を用意したり、犬を使ったり、また松明の火も利用して追い込んでいったのであろう。
 ただ気になることがある。この落し穴猟は旧石器から縄文時代に見られるものであって、弥生時代以降は検出されていないというのが、通説になっている。だが弥生時代になっても、みんながみんな米作りだけ行っていたわけではなく、狩猟採集を生業とする人々もいるはずだ。しかるに弥生時代にみつかる数多くの土坑は、貯蔵の為の土坑と説明されている。
 東京国立博物館HPには、「綾羅木郷遺跡(山口県)からは小ぶりな打製石鏃が出土しています。明確な落とし穴は見つかっていませんが、イヌを使った追い込み猟や落とし穴猟が行われていたと考えられます。」という説明がある。いささか微妙な説明だが、落し穴猟は皆無ではないと考えられてはいるのだろう。実は古事記や日本書紀には、落し穴猟との関係をうかがわせる記事が見受けられる。(続)