そこで火打金のセットを2000円で購入した。これはネットで注文するよりもお得だったかもだが、これはカスガイ型火打金というそうだ。火打石は、おそらく石英であろう。火花をつけて火種にする火口(ほくち)もついている。
早速、試しに火打石に火打金を打ち付けてみた。石の鋭利なところにこするように打つのだが、少々コツがいるが、うまく打ち付けると、かなりの火花を飛ばせるので、何度でもやってみたくなる。いや、癖になって外でカチカチやってたら通報されます。
実は、ある文献に黒曜石も火打石になるとあって、そのことを人に話したことがあるのだが、はたして火花を出せるのか気になっていた。火打石は硬度が高くないと発火させられないのだが、黒曜石は叩くと鋭利な刃物になるように割れるガラス質のものだ。火打ち金を打つと火花が出せずに欠けてしまうだけではないかと心配だった。
そういうこともあって、以前に別の博物館の売店で購入した黒曜石でも火花が出るか試してみた。勢いは劣るが、それでも使えないことはないとわかって、人に説明していたので安堵した。ただ、火打石に向いているとは言えないようだ。
日本では摩擦式発火法は弥生時代以降、打撃式発火法は古墳時代以降多く確認されている。中世の鎌倉からも「火切り板」が出土しているが、火打石の出土事例も多く、中世以降、摩擦式発火法は次第に打撃式発火法に取って代わられていったと考えられている。
この資料館では、平安時代の火打金をみることができる。その後、江戸時代に入って何故か群馬の吉井町で作られるようになって普及するようになった。
吉井の火打金は特に評判を呼んでお寺詣の旅人たちが買い求めたそうで、この火打セットを携帯できるよう巾着のような袋に入れることもあったようだ。その現物も展示されている。
また旅先だけでなく、家での利用も普及したが、その背景には火事の予防として、常火の禁止によって、容易に火を起こせる手段が求められたことにあるといわれている。いちいち摩擦で火を起こすのはけっこう大変です。
吉井の火打金は特に評判を呼んでお寺詣の旅人たちが買い求めたそうで、この火打セットを携帯できるよう巾着のような袋に入れることもあったようだ。その現物も展示されている。
また旅先だけでなく、家での利用も普及したが、その背景には火事の予防として、常火の禁止によって、容易に火を起こせる手段が求められたことにあるといわれている。いちいち摩擦で火を起こすのはけっこう大変です。
資料館の解説では、武田信玄配下の子孫であった近江守助直(おうみのかみすけなお)という刀鍛冶が火打金伝えたという。一方で、京都明珍でも作られていたのだが、私の興味は火打金が、大陸からどのように伝わったのか、また、どのような人々が江戸時代まで継承させていたのか、といったところである。
「火打金は、北方アジアの遊牧民や狩猟民の野外行旅の携帯品であって、火おこし自体が非日常的なものである以上、通常、各住居に備えられた日常用具とは考え難い」(森下惠介2020)という。また火打金は、「7~9世紀にほぼ同時に東は日本から西は東欧までの広大な地域に出現した。残念ながらどこが起源でどのように広まっていったのか、という問題については、今のところ説明不可能と言うしかない。ただその普及に長距離移動をすることもある遊牧民が関与したであろうことは想像に難くない。」(藤川繁彦1999)と述べておられる。
列島に火打金がもたらされたのは、騎馬遊牧民が関与していると考えられるのであるが、実態はよくわからないようだ。
騎馬遊牧民は、江戸の旅人のように火打セットをポシェットなどに携帯(火打金を腰帯に直接吊るすものもある)して使っていたようだが、それがどのように渡来して使われるようになったのかを、少しでも解明できればと思う。また、火打金にまつわる説話などもみていきたい。なお、火打金は関東の方では火打鎌といわれているようだが、ここは火打金と表記させていただく。
参考文献
藤川繁彦編『中央ユーラシアの考古学』同成社1999