三屋全景
 北群馬郡吉岡町にある全国にもめずらしい正八角形墳であり、その姿を内部まで間近に見る事ができる。
 この八角墳は全国に10基あまり、東日本に5基で、その中に伊勢塚古墳(不正という但し書き付きだが)、吉井町の一本杉古墳、多摩市稲荷塚古墳、山梨県一ノ宮経塚古墳がある。
 他にない見事な八角形墳 
 それまでは外護列石の様子から平面的に八角形と判断されていただけなのが、この三津屋古墳の墳丘全体の調査で、土層断面の様子も把握できたうえに、墳形についても葺石と稜角の状態から、立体的にその姿を明らかにできた意義のある古墳となっている。
三津屋図面
 墳丘は石室奥壁前面を軸に同心円を描き、その中に各段の八角形がぴったりおさまるように見事に設計されている。墳丘各段の一辺の規模は第一段が約9m、第二段が約6m、この数値を唐尺で換算すると概ね30尺、20尺になる。周堀一辺の推定規模に当てはめると40尺 八角形の各一辺が40・30・20という割合で設定されるという。また検出できる列石の稜角は3カ所あって137度になるという(瀧野巧1997)。 数学上の正八角形の角度は135度だから見事というしかない。
三屋稜角
 稜角は大きな川原石が縦にまっすぐ積まれ、八角形であることを強調しているようだ。

  八角形墳と天皇陵の関係
 天皇陵と同じ八角形とされる解説もあるが、これには異論を持っている。
 「7世紀中ごろ前後から8世紀初めにかけての歴代の天皇の古墳であることから、この時期、天皇の古墳だけが八角形を採用するようになった可能性が白石太一郎さんによって指摘されている(右島和夫2018)」であるのに、どうして群馬で見つかったのかと、問題を投げかけるかのように書かれている。ただこれでは、八角形墳は天皇陵以外に存在するのは正常ではないかのようなとらえ方になるのではないか。
 舒明天皇押坂内陵、天智天皇山科陵天武・持統の檜隈大内陵、他に、牽牛子塚古墳は斉明天皇、明日香村の中尾山古墳は文武天皇と言われているものの、ほとんどの天皇陵は円や方の丘陵などであり、八角形は天皇陵のなかでごく一部存在するだけであり、決して八角形墳は天皇のものとはならない。そして、私は、7世紀までの日本書紀が描く天皇は、本当の天皇とは考えておらず、各地の実力者に過ぎないと考えている。群馬県で八角形の墳墓が出ても、不思議ではないのであり、相当の実力者が、この地にもいたと考えてよいのではないか。現に、天武10年3月の記事には、日本書紀の編纂のメンバーと考えられる人名の中に、上毛野君三千の名が見られることからことからも、古代の群馬に中央と関わる重要人物が存在したことは間違いない。
 さらに言うと、舒明天皇は押坂陵の治定が正しいとすると、晩年に百済宮に移られて、その翌年に百済宮で崩御されている。これは、舒明と百済に何らかの関係があることが考えられ、八角形もそこに起因する可能性がある。つまり、八角墳の天皇とされている人たちの出自が、八角形を好む思想と関係していると考えられるのだ。
 
  古墳だけではなく、古代にみられる八角形
 この八角形については、古墳だけでなく、法隆寺夢殿や、大津京、難波京、熊本の鞠智城などにもみられるが、伊勢崎市でも八角形総柱式高床倉庫跡が見つかっている。詳しくはあらためて紹介していきたいが、この事例からも、この地には、道教や仏教思想などによる八角形にこだわる渡来系の集団が存したことがうかがわれる。

  版築による土層面
三屋内部
三屋版築
 石室は破壊されていたが、内部と壁面断面を見学できるように整備されており、何層もの版築による盛り土の様子を見る事ができる。何度も繰り返して、平たい用具を地面に突くように固めている。ここでも渡来の技術が見られるのである。 


参考文献
瀧野巧「三津屋古墳の八角形墳丘」月刊考古学ジャーナル414 1997
梅澤重昭「東日本の八角形墳丘古墳の性格と出現の画期」月刊考古学ジャーナル414 1997
右島和夫「群馬の古墳物語下巻」上毛新聞社2018
図面は、「群馬文化238」群馬県地域文化研究協議会1994
2024.6.7撮影