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           『加耶』2022年度国際企画展示 歴史民俗博物館図録より
 
 欽明天皇の時代に滅んだはずの任那に関する記事が、半世紀以上あとの推古天皇の時代に登場するといったことが他にもある。
推古8年2月に新羅と任那の交戦記事がある。天皇は任那救援の指示を出す。そして、任那を救うための新羅への軍事行動がはじまる。そこに「五城(さし)を攻めて抜く」とある。この箇所に、岩波注が興味深い記述をされている。「この五城というのは、継体24年9月条、新羅が攻め取った任那の五城から思いついた数ではあるまいか」とされている。継体紀と何らかの関連があると気づかれたのであるが、継体紀24年とは530年、推古紀8年は600年であり、70年ほど昔の記事である。記事の年代移動など念頭にない人には、「思いついた」という解説が精一杯であったのだろう。
 この推古8年(600)の60年前は欽明元年(540)となる。そこに、どれぐらいの軍の規模なら新羅を討てるかと、天皇が側近に問うと、物部大連尾輿が、新羅は任那四県の百済への割譲の件で恨んでいるので、安易に考えて攻めてはいけないと意見するのだが、その後どうなったかの記事が見当たらない。ところが60年後の推古8年に、境部臣が大将軍、穂積臣は副将軍、一万あまりの兵を率いて新羅に向かう、とあり、物部大連の提言で兵力を整えて、まずは継体紀24年(530)に新羅に略奪された五つの城を攻略している。ここで五城によって、欽明元年の後に推古8年の記事が見事につながるのである。
 欽明紀の大将軍男麻呂と推古紀の雄摩侶と同じように、継体紀に新羅が五城を奪った記事が60年の移動を証明しているのである。
 この推古紀の時代があわない任那記事をめぐって、は次のような解釈もある。「推古8年・・・新羅と任那の王が貢調して服属を誓ったが、将軍を帰還させると、再び新羅は任那に侵攻したとある。しかしながら、征討将軍→遣使→進調→新羅による再侵攻という一時的な任那復興は『三国史記』(朝鮮の史書)には記載がなく、不自然な記載であり、この記事はそのままでは信用できず、潤色の可能性が高い」(仁藤敦史2024)
 説明がつかないので、結局は「潤色の可能性」とされている。だがここは、もう一歩すすめて、年代移動という操作がされているという視点が必要となるのだ。

 ただ、推古紀以降の任那の記事がすべて、時代が動かされたのかというと、そうとは言えない記事がある。
 この推古8年の記事に続いて、10年に来目皇子を新羅討伐の将軍にするも、本人が病気で死亡してしまう。次に兄の当摩皇子が将軍となるも、妻が亡くなったので討伐は中止になったという。これは奇妙な記事である。正木裕氏は、出征のポーズの記事は、記事の繰り下げを隠す詐術、と喝破される。まさにこれこそ潤色の記事となろう。
 しかし、中には時代移動とも潤色とも言い切れない任那の記事がある。
 推古18年には、新羅と任那の使人の筑紫への来訪記事と、彼らを丁重にもてなす記事があり、そこに秦造河勝の名前も登場する。そして、翌年にも、新羅と任那の貢納記事がある。やはり任那は存続していたのであろうか、と思えてしまう。この点についても、正木裕氏からの明確な説明がある。
「新羅が半世紀前から支配下に組み込んでいた任那(実際は伽耶諸国)の代表を伴って来朝するのは不自然でない。そもそも推古19年の任那の使者の「習武大舎」は新羅の官職(17階の12)だから「新羅が併合し臣下にした任那地域の代表」であることを示している」とのことだ。
 加耶諸国の実体がすべて消えてしまったわけではないので、この地の運営は新羅が認める代表に任されていたのだろう。後のことだが、白村江戦の敗北で百済は消滅したが、列島へ避難して百済王国を作っているというケースもあるのである。
 このように、記事の情報量が少ないものが多く、干支年に合わせて動かされたと機械的に判断できない問題も含まれていることは留意が必要となる。
 この、任那の出現する朝貢記事などは、孝徳期まで続くが、これらについても見ていきたい。

参考文献
仁藤敦史「古代王権と東アジア世界」吉川弘文館2024