IMG-7665
 図はDNA分析から日本人の成り立ちの研究をされる篠田謙一氏作成の4万年前の海岸線と人類の移動ルートを表したものである。
 この三つのルートが、ほぼ定説のようになっているが、よく見るとこの図には気になる点がある。それは現在の海岸線とともに、氷期の海水面の低下で露呈した地表面の推定の海岸線も描かれている。黄海は丸ごと陸地となり東シナ海もその大部分が海ではなくなっている。②と③のルートの中間に大きく広がる大陸棚のエリアは、およそ1年に2cmほどの海面上昇でゆっくりと後退し、およそ6千年前までに完全に沈んでしまう広大な陸地があった。河岸や海岸線もあるこの温暖な領域に早くから人類は当然の如く居住し、文化を発展させていたであろう。そして、この②と③の中間のエリアから列島へ渡海した人々もあるのではないかと考える。

1.DNAで説く縄文人の由来
 先ほどの篠田謙一氏はmtDNA(ミトコンドリアDNA)のハプログループの研究から「縄文人は旧石器時代に大陸の南北双方の地域から流入した集団が、列島内部で混合することによって誕生」と考えられるとされる。さらに「そもそも縄文人は由来の異なる人々の集合によって列島内で誕生した」ならば「外部に形態の似た集団がいないのも当然のことと解釈できる」とされる。中国大陸に類似の集団がいないからということだが、ここを私は、本来いたはずの集団が移動してしまったので確認できなくなったと考えたい。
 氏はハプログループM7があって三つに分かれ、M7aが主として日本、M7bが大陸沿岸から中国南部地域、M7cが東南アジア島嶼部で、4万年以上前に生まれ、各グループに分かれたのは2万5千年ほど前だという。その起源地は、先ほどの海岸線の後退により「大陸に沈んでいる地域」と言及されている。よってM7aが日本にしか見つからないことになる。
 また北海道の旧石器時代の遺跡から出土する細石刃という石器は、シベリアからの伝播で①のルートと考えられていたが、北海道の縄文人のmtDNAのハプログループはすべてアジア起源であり、北東アジアでの文化的な接触により学んだアジア系の人たちが北海道に到達したとされる。また氏は、日本人のかなりの部分をしめるハプログループのD4aについて、誕生は1万年前ほどで、「この時代は大陸との往来はそれほどなかったと思われますので、このハプログループは弥生時代になって日本に入ってきたと考えるのが自然。」とされる。私はここに異論がある。縄文時代は人の渡来がなかったとの思い込みがあるのではないか。
 
2.あまり考慮されていない露出していた大陸棚と氷期以降の海進
 現生人類は今までのところではアフリカで誕生し、何度も移動が試みられ本格的な移動は4万8千年前に一度にユーラシア大陸に広がったという。そして3万8千年前には列島にも進出する。いずれ新たな発見で変更もあるだろうが。そして、2万3千年前には、海水面マイナス136mとなるが、その後、1万5千年前には海水面の上昇が始まる。1万1千6百年前に突然気温が7度上昇して海水面がどんどん上昇したという、そして7千年前に現在の海水面になる。ところが6千年前に、さらに海水面上昇する。いわゆる縄文海進がはじまるが、5千年前に変動もしながら徐々に海水面は低下していく。現在の海水面に戻るのは古墳時代にはいってからのようだ。
 以上のような変遷だが、縄文海進にあたる中国での表現としては、王・汪氏が後氷期の海進を巻転虫(Ammonia)海進と提唱されているようだ。マレー半島からインドシナ半島の大陸棚で広がった陸地はスンダランドと呼ばれているのだが、この東シナ海に広がっていたエリアの呼称は不明だ。不思議なことに中国の先史を含めた歴史解説書には、縄文海進に該当するような事象が取り上げられていない。
 氷期末には日本の本州ほどにもなる面積の地域をここでは便宜上大陸棚地としておく。縄文時代はおよそ1万6千年前から始まるとされるが、そのころはまだ大陸棚地が広がっていたのであり、それが1万年のもの時間にわたって徐々に海水面が上昇、すなわち海岸線の後退が続いたのだ。
 李国棟氏は、一万年前の前後に外越の人々が上陸し縄文の主役となったとし、早くに大陸棚の人々に注目した。古越人という表現もあるが、越人と言い切れるかどうかの問題はあるが、この現在は消えた大陸棚地から、縄文人となる人々が、少なからず渡来してきたのはあり得ることではないか。大陸棚地からの移住と考えられる事例をあげてみる。

3.海を渡って来た人類
 現生人類の各地への移動は、陸地がつながっているところだけを行き来したのではない。当然歩いては渡れない大河がいくつもあった。そして、各地の様々な海峡、沿岸域を船で渡っている。
 東ヨーロッパの金属器をもつステップ地帯の牧畜民は西へ進出し、既に海峡のできていたブリテン島に四千五百年前に最短でも34キロの海を渡り、大量の移住でストーンヘンジを作った先住民と完全に入れ替わっている。 
 アメリカ大陸への移動は、足止めされていた氷河が後退し無氷回廊ができる1万三千年前が定説であったが、南米のチリのモンテ・ベルデ遺跡が1万4千年前と判明。そして、新たに1万6千年前には北米の沿岸の一部が海水温の上昇で無氷状態になったことがわかり、早くに海岸伝いを船で移動していたと考えられるようになった。
 台湾の農耕民は4千年前にフィリピンに到達し、3千3百年前以降にニューギニアへと渡っている。さらに時代は下がるが、1千3百年前には、フィリピンから9千キロのアフリカ沖マダカスカルに達しているという。
 そしてこの日本でも、対馬ルートも完全に陸地化することはなく、海を渡っているのだ。中国では浙江省跨湖橋遺跡で8千年前の丸木舟が発見されている。列島に船で渡ってくることは、十分可能な事であった。次のような事例がある。宮崎県本野原遺跡の土器の圧痕から、中国南方産のクロゴキブリの卵鞘が見つかったという。4千3百年前より以前に大陸からの移住民の食料にまぎれて広がったものではないかと考えられる。確実に、大陸から、人はやって来たのだ。

4.特異な文化を持つ上野原遺跡の集団
 新東晃一氏は南九州一帯には、他地域と比較して多種多量の「第一級」の草創期遺跡が存在したという。一般的には縄文文化は東日本ばかり目立って、西日本は低調だったという思い込みがあるがそうではなかった。その代表となるのが上野原遺跡であり鹿児島県霧島市東部の台地上に約9千5百年前に定住の村が作られた。その遺跡や出土遺物のいずれもが際立った特徴を持つものだ。まずは貝殻文系筒型土器。縄文土器に四角はめずらしい。また筒形は九州では例がなく、世界的に北方系の土器に多い特徴だという。優れた技法で作られており、現代の陶芸家も「なぜこの時代にこのような技術があったのか」と感嘆する。北方系という点では竪穴住居も特徴的だ。他地域と異なる直径3~5mとやや小さく、回りを垂直に掘られた柱穴が取り囲んでいる。しかも竪穴の外側に建てるという際立った違いがある。また木材を上方で湾曲させて中心に束ねる構造。これはシベリア、アメリカ先住民、モンゴルのパオと類似する。土器も住居も北方系という共通点があった。
 土器に戻ると極めて異例の壺型土器が出現している。調理用でなく穀物などの貯蔵器として使われていたもので、それは稲作が始まる弥生時代の遺跡からしか出土しなかったものが登場したのだ。
 さらには連結土坑という一つの穴で火を焚き、もう一つの穴から出る煙で魚や肉の燻製などをしていたものも多数見つかった。同じものが三重県鴻ノ木遺跡、静岡県中道遺跡、そして千葉県舟橋市飛ノ台遺跡などで見つかっており、黒潮に乗って移動した人々が同じような調理をしたのだろう。この燻製が保存食として大移動に携行されたのではないか。
 装飾品では耳たぶにはめ込む耳飾り(耳栓状土製品)が見つかる。これは中期と考えられていた定説を見直すものであり、しかもいきなり直径12cmのものが出現しているのだ。はめ込み式耳飾りは最初は小さなものを耳たぶを穿孔して装着する。そして徐々に大きなものに付け替える。やがて、飾りを外した時の耳たぶはイカクンのようにだらりと垂れるようになる。こういうことをこの地で突然思いついてはじめるとは考えにくいのではないか。そしてこの耳飾りにはS字や渦巻の文様が施されているのだ。
 石器類は用途に応じた多様な石斧や石鏃、石皿、磨り石など大量に見つかっている。
 「定説を打ち破る新資料続出で、南九州に早咲きの華麗な縄文文化」と説明されているが、そこには大陸文化を持つ移住民の存在は全く考慮されていない。同じ時代の全国の他地域では尖底土器を作っているのに、南九州では貝殻文の円筒形平底の土器を使用していたのは異質で独特な発達という解説でいいのだろうか。
 

5.佐賀県東名遺跡の「奇跡」の技術
 佐賀市佐賀平野の吉野ケ里遺跡の南西方向にある8千年前の遺跡。居住地、墓地、貝塚、貯蔵施設など集落の構成要素がセットで確認される稀有な事例とされる。
DSC_0377
              図は佐賀県東名縄文館、大型編み籠
 編組製品が大量に出土したのも特徴の一つ。ドングリなどを入れていたようだが、全国の縄文遺跡で見つかったものの六割をしめ、しかも最古のものなのだ。ござ目や六つ目といった編組技法のほとんどの種類が存在するという。完成された技法を持った人々が、この地で最初から多種多様な編み籠を作っているということだろう。
 ここからは仮面習俗をおもわせる板状木製品が出土している。5か所の孔があり紐を通して顔に装着していたようだ。縄文早期に仮面の儀礼があったなら、これも最古のものとなる。
 さらにオオツタノハ製貝輪も列島最初の事例。後の富山県小竹貝塚のものは東名からの可能性がある。この貝は伊豆諸島南部以南と大隅諸島、トカラ列島など南洋の限られた島にしか生息しない。問題はこのような貝を重視する南洋の人々がいたのではないか。また列点文を施した鹿角製装身具は他に大分県国東町成仏岩陰遺跡、滋賀県石山貝塚の二例。
 東名遺跡も上野原遺跡も、九州の縄文時代早期の異例の完成された文化の突然の登場なのだ。

6.大陸棚地の流浪の民
 内陸部とはちがって海岸にも面する大陸棚地に早くから北と南の人々が移住し、定着しては独特の文化を発展させ、やがてはこの中心地で水田づくりも始めたと考えられる。漁業も盛んだったはずだ。1年に2cmほどの海面上昇はわずかでも、子供の頃の海岸線が大人になると変化していることにやがて気が付く。そして大潮と大雨や台風が重なったときに深刻な被害を受けることになる。その度に移動を繰り返し、土地の開発や新たな地で祭祀を行った。しかし徐々に海岸線は後退し、山東方面に北上するものや逆に南下するなどの移動を始める集団がでてくる。大陸棚地が完全に水没する6千年前には台湾で突然に水田耕作が始まる。これは行き場のなくなった農耕集団が南下したからと考えられる。さらには台湾から南洋諸島にも進出していく。
 対馬海流は8千5百年ほど前に始まったという説がある。すると大陸棚地がまだ広がっている時には、潮流の弱い穏やかな海面が広がっていたのではないか。船で日本と行き来するのはさほど困難でなかったかもしれない。そうすると、一度や二度でなく、かなりの頻度で、大陸沿岸と日本とを渡りあう海の民もいたであろう。漁民の中には海の東に大きな島があることを先祖から聞いたり自分で確認するものもあったはずだ。1万年前に意を決して九州島にむかった集団もいたであろう。
 上野原遺跡、東名遺跡の事例は、その完成された文化の状況が、持ち込まれたものであることを示す。じりじりとせまる海水面の上昇により移動を余儀なくされ、遂には大移動を開始し、日本に集団で移住するものもあった。適地をみつけて、これまでに培ってきた文化、信仰を継続していったのだ。
DSC_0362
 佐賀県神埼市の各地では「シェーとり祭り」といった汐とり行事が行われている。秋の満潮時に、川辺で榊を川に浸して鉾先につけた天狗面に振りかける、天災除けの祈願だ。東名遺跡の仮面をこれと関連付ける説明もあるが、私はこの汐とり祭りに似たものを大陸棚地でも行っていたのではないかと考える。大陸棚地の海岸は遠浅で、干満の差が激しく、高潮による被害に悩まされて、水の祭祀をかかさず行ったのではないか。
 縄文時代の解説書では『縄文海進』は漁場が豊かになるなどと解説され、そこにはマイナスイメージはない。しかし大陸棚地の沿岸に居住していた人々には、深刻な事態であったのだ。彼らは内陸部の集団とは軋轢を生み、命がけで海を渡り安住の地を探す流浪の民だったかもしれない。
 
 まとめ
①現生人類は3万8千年前に海を渡って列島へ移住し、しかもそれは一度きりでなく何度も行われ、また既成概念の単線ルートではなく大陸棚の広がった各地から渡っていった可能性がある。
②なおも海岸線の後退の中、列島への移住や南下する集団もあった。また対馬海流が始まるまで、容易に移動はできたと思われ、その集団たちが特に九州島で特筆すべき早期縄文文化を咲かせていった。
③6千年前の大陸棚地の消滅と、さらなる海進によって渡海を余儀なくされた集団が各地に拡散した。
④日本人のルーツや縄文時代の文化も、列島の各地に渡って来た移住民の存在を考慮しなければならず、決して日本の中だけで単一の文化が続いたわけでなく、弥生、古墳時代と同様に多元的に見ていかなくてはならない。

参考文献
篠田謙一「新版日本人になった祖先たち」NHK出版2019
篠田謙一「DNAが語る列島へのヒトの伝播と日本人の成立」平成27年度大阪府立弥生文化博物館図録
柳田誠・貝塚爽平「渤海・黄海・東海の最終間氷期以降の海面変化に関する最近の中国における研究」1982
小林達雄「縄文時代 日本発掘ここまでわかった日本の歴史」朝日新聞出版2015
新東晃一「上野原遺跡と南の縄文文化」熊本歴史叢書古代上編熊本日日新聞社
佐賀市教育委員会編「縄文の奇跡!東名遺跡」 山田康弘「縄文時代の歴史」講談社現代新書2019
李国棟「稲作文化にみる中国貴州と日本」雄山閣2015
ディヴィッド・ライク「交雑する人類」NHK出版2018