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           (写真は、新潟県長者ヶ原考古館の説明パネル)
 弥生時代のみならず、1万年あまりの縄文時代も移住者が自分たちのエリアを開拓しては、既存の集団と交流をし、文化を発展させていった。こういったことは当たり前のようであるが、研究者の多くには不思議と考慮がされていない。この理解が弱いために、縄文時代の独特の文様の土器などを理解の超える4次元の文化などと称することになり、あげくに、よほど自信がないからか岡本太郎を何度も引き合いに出して説明するという愚を続けておられる。
 ヒスイに関する説明もその典型だ。加工の容易でないヒスイ製品がなぜ作られ全国に広まったのか。これについて小林達雄氏は、「どれほど感性に訴えたとしても物理的に不利な条件(ヒスイの加工の困難さ)を簡単に払しょくすることは…できない。それをこえさせたものとは一体なんであろうか。具体的な理由をはっきり知ることはできないけれど、縄文人が辿ってきた長い歴史、経験の蓄積から醸成された総合力の意外な表れとしか言いようがない」と述べられるのだが。
 マラソンレースの例えにあるように、あくまで列島内での自生による文化の発現とされるのだ。氏は中国大陸の良渚文化の見事な玉製品を全く理解しておられない。日本でヒスイ製品が登場する縄文中期に大陸では玉文化は花盛りだったのだ。その技術をもった集団が北陸に移住し、糸魚川市姫川の海岸もしくは川沿いで理想的な透き通るような石を発見し、ヒスイ製品を大量に製造し交易をしたのだ。あわせてヒスイ以外の高度な文化をも広げていった。そのように考えた方が現実的であり、雲をつかむような「縄文人の総合力」とするのでは説明にならない。
 また最古期の縄文土器については青森県の大平山元(おおだいやまもと)Ⅰ遺跡の16000年前のものとされているが、工藤雄一郎氏は、長崎県佐世保市福井洞窟の土器も同じ時期と指摘し、しかも細石刃石器群との伴出で、東日本とは異なる文化的背景の中で土器の使用がされたと指摘。これによって土器は日本列島で多元的に出現したのか、と自問される。縄文時代も多元的に考えなければならないと指摘されだしているのだ。マラソンコースは単純な1本ではなく、何本ものコースがあったといえる。
 小林達雄氏の論調は、縄文一元論と言えるのではないか? 現実を直視せずに、既定の考えにはめ込んで説明する点において、それは、珍しい遺物が出れば何でもヤマトと結び付けて説明しようとする、かたくなな近畿一元論とも共通するように思える。

参考文献
浅川利一・安孫子昭二「縄文時代の渡来文化」雄山閣2002
小杉康 他編「縄文時代の考古学1」同成社2010
高山純 「民族考古学と縄文の耳飾り」同成社2010
工藤雄一郎「後期旧石器時代から縄文時代への移行期の再検討」(再考!縄文と弥生)吉川弘文館2019