唐古謎動物

『何が歴史を動かしたのか』(雄山閣)所収の、藤田三郎氏の「唐古・鍵遺跡と清水風遺跡の絵画土器」についてふれさせていただく。

⑴防御面が強調される弥生環濠の役割への新解釈
 既に藤田氏は『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』(2019)において、大規模な多重環濠が、争乱だけの理由であったかは疑問とし、運河としての機能、さらにはもっとも重要なことは、ムラを洪水から守ることだとして、集落の周囲に水を迂回させることと排水機能の役割との考えを披露されている。さらには、井戸に龍の衣装の壺が供献されたことから、弥生人が水に対する畏敬の念をもち、時に洪水などの荒ぶる自然の猛威に対し「水神」信仰をもつようになったと考えられるという。
 なにかといえば、弥生時代の遺構は、魏志倭人伝の「大乱」の記事が誇張されて、争いに関わる施設といった面で解釈されることが往々にしてある。環濠に出っ張った箇所があって、そこに柱穴があれば物見櫓があったのだとしたり、環濠遺構の復元に、根拠のない土堤をその周囲のしかも外側に巡らすなどの風潮が今も続いている。そのような中で、洪水対応という視点で弥生環濠を解明されようとしたのは大変貴重な発信であった。今回、氏はさらにもう一歩踏み込んだ論考を出されたのである。

唐古鍵清水風
⑵大量の絵画土器が、環濠に投入された意味
 唐古・鍵遺跡と清水風遺跡の絵画土器は、特に大和第4様式(弥生時代中期後半)に大量に出土しているという。この時期に、唐古・鍵遺跡の北半では、砂層で埋没する「北方砂層」が見られることから、洪水被害の直撃が考えられるという。しかし、その後も環濠を再度掘削をしており、集落として存続させていたようである。また500mほど北方にある清水風遺跡は、この頃に出現したもので、その河跡の洪水砂層に約百点もの絵画土器が投棄されたという。清水風遺跡は竪穴住居はなく、掘立柱建物2棟、井戸2基、河跡2条という状況から、特殊な施設であったと考えられている。それは、唐古・鍵遺跡の人々が、洪水の際に流れの迫る北方に、それを遮るが為の祭祀施設を設けた可能性があるという。
 土器絵画には、龍の表現や鳥装シャーマン、古代人が神獣と考えた鹿などが描かれている。古代人にとっては、川の近くの平地での居住は水田耕作に都合のいいわけだが、リスクもある。雨が多いと河川氾濫、洪水被害を受け、晴れてばかりだと雨乞いが必要になる。治水のための土木工事を行いながら、神への祈りも欠かさず続けたのだろう。岐阜県荒尾南遺跡の多数の櫂を描いた船絵土器も、その目的も、同様のことが考えられるかもしれない。氏の、祈りのための絵画土器の制作と投入が「眼前に展開している激しい流水を鎮めるためのものであった可能性が高い」とされたことには大いに賛同するものである。荒ぶる水神の仕業と考えられた洪水を鎮めるために、多量の絵画土器、祭具が使われたのであろう。清水風遺跡が、水害から守るための祭祀に特化した施設という藤田氏の指摘は、たいへんユニークであり納得できるものである。
 奈良盆地は、日照りが続けば水が不足し、降りすぎると洪水被害に悩まされる地域であった。人々は、雨乞いと増水すれば水神をおさめる祀りといった祈雨祈晴を繰り返していた。今も各地に祈雨祈晴の民俗事例が多数見受けられる。そこにシャーマンもいたであろう。その姿を、環濠に投入された絵画土器に見る事ができるのではないか。

⑶治水、祈雨祈晴の視点で見直してほしい古代史
 古代人にとって、洪水だけではなく、逆に雨が降らなければ、雨乞いも行い、適正に農地の水の配分ができるように、また物資の船での運搬のために溝の増設などを行い、その度に神に祈りを捧げたであろう。こういった視点での、各地の遺跡の解釈、復元の見直しを行ってほしいものがいくつもある。
 環濠を防衛面だけ強調して説明するきらいがある。これについては、吉野ケ里遺跡の復元の問題点(こちら)について述べさせていただいた。合わせて、大阪府高槻市安満遺跡弥生環濠の意味不明な土堤は根拠のないもの(こちら)であることも指摘した。さらに、愛知県朝日遺跡環濠では、防御面からでなく、出土遺物を洪水対策という視点で説明される研究者もおられるので、あらためて述べさせていただく。
 ほかにも、青銅器などの埋納も、出雲の神庭荒神谷の大量の埋納も含め、天変地異への対応という視点で、検討してほしいし、巨大古墳の造営も、荒れ地の開墾、治水工事との関係などで見る事も必要かと考える。

 参考文献
春成秀爾編『何が歴史を動かしたのか 第二巻弥生文化と世界の考古学 』雄山閣2023
藤田三郎『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』新泉社2019

土器絵画の写真は、唐古・鍵考古学ミュージアムのパネル掲示のもの
図は田原本の遺跡4 弥生の絵画 田原本町教育委員会