古事記や日本書紀では、天皇の年齢が百歳を超えるといった記述がいくつもあり、古代の天皇は長寿だったのか、などと言われますが、それはありえないといえるでしょう。これも魏志倭人伝の記事と同様に、古田武彦氏の提唱された二倍年暦とすると不自然な年齢ではなくなります。ところが、これがなかなか受け入れられず、無視されたまま、辻褄が合わないような、無理な解釈がされ続けている。
 例えば、天皇の年齢以外にも次のような説明がある。林屋辰三郎氏の「日本史探訪」(角川書店1975)では、「日本書紀で見る限り、景行天皇は六〇年間にわたってたいへんな勢いで国の統一をやるわけです。」60年も各地の制圧に奮闘されたというのは、事実ならかなりエネルギッシュな天皇といえるが、それはとても考えにくいことだ。これも60年は二倍にされたものなので、実際は30年とすれば無理なことではない。
 このように、二倍年暦と考えたほうが不自然でなくなる説話が記紀にはいくつも存在している。

⒈古事記の雄略天皇の赤猪子の説話
 雄略天皇は三輪川での遊行の際に、川で洗濯をしていた赤猪子(アカヰコ)という美しい少女を見初めます。そして「ほかの男に嫁がないように。今に宮へ招くから」と声をかける。その少女はじっと召されるのを待っていたのだが、とうとう八十年たってしまう。その女性はもはや召されることはないとあきらめますが、これまでの待ち続けた気持ちを天皇に伝えたいと思い、直接宮中に参上し、天皇に説明します。すっかり忘れてしまっていた天皇は、おわびにたくさんの品々を賜ったというお話です。なんとも罪作りな天皇ですが、その言葉を信じて待ち続けた赤猪子にも感心します。しかし、八十年も待つとはちょっとおかしくないでしょうか。
 この箇所に関して、次田真幸氏の全訳注『古事記』(講談社学術文庫)では次のような解説がされています。
「ここで八十年待ったとあるが、八十年とはまたおそろしく長い年月待ったものだと思う。赤猪子はすくなくとも九十何歳かになっているし天皇も同じく年をとるわけで、百歳あまりであろうか。とするとむしろ滑稽で、この八十というのは、八十神(ヤソガミ)、八十氏人(ヤソウジビト)、八十伴緒(ヤソトモノオ)、八十島、八十隈、八十日、八十国というような、数の多いことを表現するための言葉で、数学的な実数を表したものではないのであろう。」
 実に滑稽な解釈ではないか。これを二倍年暦で、半分の年数でみると10歳の頃に声を掛けられて、40年待って50歳の頃に天皇に会いに行く。その天皇も20歳頃に声をかけたとすると60歳であり、不自然なことにはならない。まあ、しかし、それでも40年待ったというのは長すぎであり、やや誇張のはいったお話かもしれない。
 二倍年暦でとらえれば不自然でなくなる説話を、他にも紹介したい。(続く)