大日山古墳埴輪

 佐原氏の『騎馬民族は来なかった』では、騎馬民族説の江上波夫氏に、馬の去勢の有無で反撃を試みている。秦始皇帝陵の馬俑は去勢を示す形状になっており、東アルタイパジリク古墳の殉葬馬も六十九頭完全に去勢であったという。確かに、日本では去勢の慣習はない。その例として秀吉と摂津丹生(にふ)山の淡河弾正(おうがのだんじょう)との一戦で五百余の騎馬に対し、五、六十匹のメス馬が放たれ、それによって豊臣軍のオス馬は興奮し混乱して敗北を喫するという話が紹介される。確かに面白い歴史エピソードだが、これが騎馬民族説の否定につながるのだろうか。佐原氏は騎馬民族の習慣などを具体的に述べて、特に日本に馬の去勢をする習慣のないことが決定的と言いたいのだろう。後に司馬遼太郎氏は佐原との対談で、「もし江上さんの説がツングースというか、旧満州にいた騎馬の狩猟半農民だったらどうでしょう。モンゴル人からちょっと下に見られているツングースが日本に来たとしたら別ですな。去勢もしていない・・・」と述べておられる。さすが、オホーツクなど北方文化をよく見聞されているゆえの鋭い指摘だ。
 何故、日本に持ち込まれた馬には去勢がされなかったのか。そもそも大陸では野生馬が存在していたが日本ではゼロからのスタートだ。そこに困難の付きまとう船での運搬で少数の貴重な仔馬や成馬が運ばれる。とにかく早く育てて増やす必要があったのだ。とても去勢などさせられない。仔馬の輸入や牧場の開拓が各地で進み、一定の期間で多数の馬が飼育されるようになったにちがいない。日本書紀の顕宗紀二年十月には「馬、野に被(ほどこ)れり」(馬は野にはびこった)との記事があり、正確な年代は不明だがおよそ5世紀の後半には各地で繁殖がすすみだしたのだろう。さらに司馬氏の指摘にあるように去勢にこだわらない民族の存在もあったと考えられる。後に本人も認めたようだが、去勢の有無で、騎馬民族の存在の有無を判断はできないのである。
 もちろん佐原氏の『騎馬民族は来なかった』は、絵馬なども含めた、様々な馬にまつわる事例紹介や、内臓占い、血を飲む民俗習慣など興味深い話題が多くあることを、付け加えておきたい。

 参考文献
『騎馬民族は来なかった』佐原真 日本放送出版協会1993
『騎馬民族の道はるか 高句麗古墳がいま語るもの』森浩一 日本放送出版協会1994