騎馬遊牧民に関して
以下は、各文献からの抜粋、メモです。

「遊牧国家 普段は部族・氏族・家族など、大小の集団で遊牧生活を送り、戦時には特定の指導者に率いられて成人男子のほとんどが、騎馬戦士となる遊牧民主体の国家。
匈奴・鮮卑・氐テイ・羌キョウ・羯ケツ)が魏・呉・蜀三国の闘争で疲弊し人口も激減した中国本土に入り込んでいった。その上に三国を統一した西晋が、八王の乱(290~306)という内乱で五胡の武力を利用した結果、五胡の民族移動はさらに活発になった。そしてついに西晋は、永嘉の乱(311~316)で匈奴に滅ぼされた。これ以後、五胡は五胡十六国時代の主役となり、最終的には五胡の一つである鮮卑鏃の拓跋氏が4世紀末に北魏を建国し、439年に北中国を統一。漢人は南へ移動し東晋を建国。大移動以降、中国史の重大画期には、常に騎馬遊牧民勢力が影響力を行使する。

「ステップ地帯の南北で、遊牧をしながら狩猟あるいは農業を営む半猟半牧、半農半牧の人々も広い意味では騎馬遊牧民と呼ばれている。
 西アジアでは、スキタイ、フン、中央アジアから東アジアにかけては烏孫(ウソン)、高車、突厥(トッケツ)、匈奴、鮮卑、柔然、回鶻(カイコツ)、黠戛斯(カツカツシ)、契丹(キッタン)、女真、モンゴルなどが属する。
 東アジアの騎馬遊牧民は、時に漢民族を圧倒する軍事力を持ち、中国の北半もしくは全土を版図に収める国家建設した。北魏、遼、金、元、清など。また隋、唐の王室も騎馬民の血を濃厚に引いている。さらには、中国東北部に拠ったツングース系の扶余、高句麗、靺鞨、渤海なども。

『日本人を科学する 連載23』江上波夫 (サンデー毎日)
羊・山羊・牛・馬・ラクダの五畜は、『生きた魔法の缶詰』と呼び 人間の食用に堪えられない貧相な草から乳や肉を作り出す『化学変化機』と表現。」  ←卓見だ。(上記、森安孝夫)

 「騎馬民族というと何だか凶暴なイメージを持たれがちですが、そんなことはない。極めて政治的な民族であり、世界人だったのです。というのは、彼らは相手を武力で圧倒するのではなく、支配層に入り込むことで、統治していく。戦争ばかりしていたら世界帝国なんかつくれるわけがない。このことがいまだに理解されていない。日本においてもそうだったと考えるのですが、すっと支配層に入り込み、政治的に他民族を統括していったと思うのです。


↑↑ 島国で暮らす日本人には、騎馬民、北方遊牧民の姿はなかなか理解しにくい。大陸という地続きの中に、様々な諸民族が共存し、ある時には排斥し合い、力の弱いものは逃亡を繰り返す。そのような世界の動向に、実は古代の列島も大きな影響を受けており、無関係ではなかった。そういった古代の問題の痕跡を少しでも明らかにしていければと思っている。