前回に、持統紀の吉野行幸の吉野宮が、奈良の吉野ではなく、さらには九州の吉野ケ里周辺ではなく、熊本県の鞠智城であるとする仮説を提示したが、今回は、さらに具体的な事例でその可能性について説明したい。
1.鞠智城が吉野宮なら理解できる事例
①阿蘇の君
正木裕氏「磐井没後の九州王朝3」(会報№157)では、金光元年(570)の九州王朝の新天子の即位に関して述べておられる。宣化元年に「阿蘇の君」が茨田郡の屯倉の穀を筑紫に運ばせていることから、火(肥)国の勢力が中心になっていること、書紀に見える阿蘇の君・火中君・筑紫火君のいずれかが新天子の可能性があるとされる。ならば、阿蘇の君がいたであろう都もこの鞠智の地域が候補になりえる。隋書の阿蘇山の記事からしても、タリシホコの都もこの地であったと考える。
②天武の吉野入りがどうして虎に翼を与えることになるのか。
天武は天智からの皇位継承の打診を蹴って仏門に入る。これが奈良の吉野なら「袋の鼠」だとの正木氏の言葉があるが、その地が鞠智城ならまさに攻守兼ね備えた牙城に天武は赴くことになる。これこそ虎に翼を付けたという表現にふさわしいのではないか。壬申の乱の始まりの吉野宮が鞠智城であれば、リアルな臨場感が持てるのではないか。天武は吉野で胡床に腰掛けて髪を切るとあって、実際に彼がばっさりと髪を落としたかはわからないが、遊牧騎馬民族の使っていた折りたたみ椅子である胡床を利用していたのであり、その石造物がこの地にあったようである。鞠智城から西の下ったところに清原古墳群があり、そこから阿蘇溶結凝灰岩製の胡床とされる石造物があり、いずれかの墳丘部に置かれていたようだ。胡床を持つ集団がこの地に存在していたと考えられる。
吉野と胡床が関連する記事が古事記の雄略条にある。古事記では呉床と表記されているが胡床のことである。吉野宮の川辺で出会った美しい少女が、天皇の胡床に腰掛けて弾く琴に合わせて舞を演じたという記事である。
その後も胡床に腰掛けていた天皇の腕に虻が止まったが、すぐにとんぼが咥えていったことを歌に詠み、アキヅノと名付けたという地名譚があるが、熊本市の東南に秋津村がありさらに秋津川もある。
また継体なる男大迹は、使者が訪れた時に胡床に腰掛けて悠然としていたという。吉野宮は出てこないが、彼が埋葬された可能性のある今城塚古墳の石棺は、阿蘇溶結凝灰岩の馬門ピンク石であった。
③倭姫は吉野宮にいたか?
孝徳紀で中大兄から皇極天皇の後に即位を促された古人皇子は、これを断って吉野に入るという一節がある。こちらが先行する話だが、天武と同じ状況が描かれている。しかし天武と違って、後に謀反の罪で殺されてしまう。書紀では彼を、古人太子、古人大兄、また吉野古人皇子とも呼んでいる。これは彼と吉野の地域に早くから縁があったことが考えられる。その彼には中大兄の皇后となる倭姫がいた。
古人皇子が殺害されたのは大化元年である。この年に倭姫が生まれたとすると、天智7年(668)には23歳である。実際にはもう少し早く生まれていたかもしれないが。また倭姫は幼少期を吉野宮ですごしていたのではないか。ただ古人皇子の殺害時にともに殺されたすると別人となるが、親子と説明されたのは、吉野で両者がつながる関係があったからとも考えられる。
古人皇子が殺害されたのは大化元年である。この年に倭姫が生まれたとすると、天智7年(668)には23歳である。実際にはもう少し早く生まれていたかもしれないが。また倭姫は幼少期を吉野宮ですごしていたのではないか。ただ古人皇子の殺害時にともに殺されたすると別人となるが、親子と説明されたのは、吉野で両者がつながる関係があったからとも考えられる。
④吉野行幸の31回の目的
既に持統紀の吉野行幸は34年ずらされた記事であり、実際の行幸は、伊勢王が軍事基地である吉野に通ったというのだが、この回数について疑問があった。いくら重要な施設であっても、一年に3回から5回も7年余りにわたって行うということにどのような重要性があったのだろうか。ところがこの訪問に別の目的があったとしたらどうであろう。倭姫の正確な年齢はわからないが、前年は造営時の視察としても完成年の斉明2年(656)ならば倭姫は12歳以上であろう。伊勢王は軍事施設の視察と合わせて、倭姫と引見していたのではないか。それならば、わざわざこまめに出向いたのも理解できる。もちろん政務報告を主目的として訪れたのであろうが。
だがそれでも気がかりがあった。伊勢王が殺害されたと思われる斉明7年から白鳳3年の白村江戦まで、それまでと同じようなペースで行幸記事があるのが不思議であった。そして行幸に車駕が登場する記事が7回あるが、これは伊勢王の亡くなる前年が最後である。この車駕は伊勢王の行幸を意味し、他の伊勢王死去後も続く行幸は別の人物ではないか。
伊勢王の後に白鳳改元を行って天子となった倭姫は近江朝に移ったようだが、その後も吉野宮を訪れていたのは明日香皇子が考えられる。半島に渡り白村江戦に挑んだ薩野馬は、当然軍事基地の視察を自ら行っていたはずだ。伊勢王と一緒に、または単独で、さらに没後も訪問していたと考えられる。吉野行幸記事の白村江以前は、4月が最後の記事となるので、明日香皇子はこのあと半島に渡ったのであろう。この明日香皇子なる薩野馬も、吉野宮との関係が深いことになる。
2.菊池はキ国の拠点の可能性
菊池城のエリアの地名に木野がある。菊池郡を和名抄では久久知との訓を付すが、その九郷の一つに城野とある。古くからこの地はキノと呼ばれていたのであろう。神功紀や応神紀に登場する貴国もこの地と関係が窺われる。百済は貴国を訪問したいがその所在地はよくわからなかったようだ。博多湾岸などと違い、外国からすると入り組んだ有明海に入り込むのは難しかったのではないか。古事記には貴ではなく木国が登場するが、別に紀国との記載があるので、紀伊方面のことではなく書紀と同じ貴国と考えられる。(注1)
佃収氏は、貴国はれっきとした国名であって、古代史においてはこの国を理解することが重要と力説され、その所在地は北九州を候補としておられるが、私は鞠智にあったと考える。交通の面や眺望などの立地面からも適地であろう。遺跡の状況を見てもこの地が古墳時代の政治文化をリードする地であったことは十分考えられる。多利思北弧の時代には隋書に記された都(京)として、鞠智城の前身の皇宮があったと想定できる。その後大宰府の地に倭京遷宮(618年)があり、いったんは衰退したが、40年ほど後に伊勢王により、宮と軍事施設を兼ねた施設を造り上げた。キノの国はあっても、この地を吉野と呼んだのかとの疑問は残る。この点については、熊本にも吉野山という地名があることなどから、佐賀と匹敵する候補地になると考える。もちろん火の国の拠点は鞠智以外にもあったであろう。
3.吉野の対象地域は佐賀地域以外も考慮できるのではないか。
古田武彦氏は「壬申の大乱」で吉野が佐賀県とされる根拠に、吉野山キャンプ場をあげておられる。佐賀市建設部北部建設事務所に確認すると「吉野山キャンプ場の所在地の自治会は井手野地区となりますが、その地域での字単位で『井手野』や『吉野山』という地名があり、キャンプ場がある地区の字が『吉野山』のため、『吉野山キャンプ場』となっている」とのことだ。そうすると吉野という地名ではなくあくまで吉野山なのだ。また吉野ケ里はその遺跡からして、何らかの施設があったように考えられるが、地名は条里制の地区名でこの一帯は○○ケ里の地区名が多くあり、それは吉野でなくあくまで吉野ケ里である。吉野ケ里町教育委員会文化財係に問い合わせても、こちらが図書館で確認できる内容と同じであった。また有明海の北部の海岸は、大型船を係留できる軍港としての水深のある海岸は考えにくい。熊本市側のエリアの海岸線こそ、多数の船を扱えたのではないか。
以上からして、奈良ではない吉野の地は、佐賀に絞らずとも火の国も対象に考えていいのではないか。菊池川の上流にも滝の名所が数か所ある。
以上のようなことから、吉野行幸の吉野宮は、奈良の吉野ではなく、九州の吉野と考えられ、それは吉野ケ里よりは、熊本鞠智城の地がふさわしいと考えたい。
注1.古事記景行記・神櫛王者、木國之酒部阿比古、宇陀酒部之祖。次豐國別王者、日向國造之祖。この箇所について西村秀己氏は「神武の行った道」(論集第6集)で古事記景行記の神櫛王の神はチと読めるのでチクシのことではないかとされる。すると日本書紀では讚岐國造之始祖であるが、木國が九州の中の国である可能性がある。さらに次の宇陀の陀が現在の中国語でトゥオと発音することから、ウトとなり、宇土となるのではないか。すなわち熊本周辺の人物とも考えられ、その木國も熊本あたりも対象となる。また神武記の宇陀も宇土ならば吉野国巣もこの地のこととなる。しかし今のところは木國は紀伊国と解釈した方がよしとする記事が多い。
注1.古事記景行記・神櫛王者、木國之酒部阿比古、宇陀酒部之祖。次豐國別王者、日向國造之祖。この箇所について西村秀己氏は「神武の行った道」(論集第6集)で古事記景行記の神櫛王の神はチと読めるのでチクシのことではないかとされる。すると日本書紀では讚岐國造之始祖であるが、木國が九州の中の国である可能性がある。さらに次の宇陀の陀が現在の中国語でトゥオと発音することから、ウトとなり、宇土となるのではないか。すなわち熊本周辺の人物とも考えられ、その木國も熊本あたりも対象となる。また神武記の宇陀も宇土ならば吉野国巣もこの地のこととなる。しかし今のところは木國は紀伊国と解釈した方がよしとする記事が多い。
参考文献
木村龍生「鞠智城の築城とその背景」(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会 編) 高志書院2018.
木村龍生「鞠智城の築城とその背景」(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会 編) 高志書院2018.
平野雅廣氏「火ノ国山門」熊本日日新聞情報文化センター 1996
佃収「新『日本の古代史』」 ブログ (日本古代史の復元 佃収著作集) 2022年現在




