流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2026年09月

鞠智城マップ
     鞠智城の背面から西の有明海を望む地形図 Googlemap
     ロケーションとしては申し分ない位置にある。
 
 前回に、持統紀の吉野行幸の吉野宮が、奈良の吉野ではなく、さらには九州の吉野ケ里周辺ではなく、熊本県の鞠智城であるとする仮説を提示したが、今回は、さらに具体的な事例でその可能性について説明したい。

1.鞠智城が吉野宮なら理解できる事例

①阿蘇の君
 正木裕氏「磐井没後の九州王朝3」(会報№157)では、金光元年(570)の九州王朝の新天子の即位に関して述べておられる。宣化元年に「阿蘇の君」が茨田郡の屯倉の穀を筑紫に運ばせていることから、火(肥)国の勢力が中心になっていること、書紀に見える阿蘇の君・火中君・筑紫火君のいずれかが新天子の可能性があるとされる。ならば、阿蘇の君がいたであろう都もこの鞠智の地域が候補になりえる。隋書の阿蘇山の記事からしても、タリシホコの都もこの地であったと考える。

②天武の吉野入りがどうして虎に翼を与えることになるのか。
 天武は天智からの皇位継承の打診を蹴って仏門に入る。これが奈良の吉野なら「袋の鼠」だとの正木氏の言葉があるが、その地が鞠智城ならまさに攻守兼ね備えた牙城に天武は赴くことになる。これこそ虎に翼を付けたという表現にふさわしいのではないか。壬申の乱の始まりの吉野宮が鞠智城であれば、リアルな臨場感が持てるのではないか。天武は吉野で胡床に腰掛けて髪を切るとあって、実際に彼がばっさりと髪を落としたかはわからないが、遊牧騎馬民族の使っていた折りたたみ椅子である胡床を利用していたのであり、その石造物がこの地にあったようである。鞠智城から西の下ったところに清原古墳群があり、そこから阿蘇溶結凝灰岩製の胡床とされる石造物があり、いずれかの墳丘部に置かれていたようだ。胡床を持つ集団がこの地に存在していたと考えられる。
 吉野と胡床が関連する記事が古事記の雄略条にある。古事記では呉床と表記されているが胡床のことである。吉野宮の川辺で出会った美しい少女が、天皇の胡床に腰掛けて弾く琴に合わせて舞を演じたという記事である。
 その後も胡床に腰掛けていた天皇の腕に虻が止まったが、すぐにとんぼが咥えていったことを歌に詠み、アキヅノと名付けたという地名譚があるが、熊本市の東南に秋津村がありさらに秋津川もある。
また継体なる男大迹は、使者が訪れた時に胡床に腰掛けて悠然としていたという。吉野宮は出てこないが、彼が埋葬された可能性のある今城塚古墳の石棺は、阿蘇溶結凝灰岩の馬門ピンク石であった。

③倭姫は吉野宮にいたか?
 孝徳紀で中大兄から皇極天皇の後に即位を促された古人皇子は、これを断って吉野に入るという一節がある。こちらが先行する話だが、天武と同じ状況が描かれている。しかし天武と違って、後に謀反の罪で殺されてしまう。書紀では彼を、古人太子、古人大兄、また吉野古人皇子とも呼んでいる。これは彼と吉野の地域に早くから縁があったことが考えられる。その彼には中大兄の皇后となる倭姫がいた。 
 古人皇子が殺害されたのは大化元年である。この年に倭姫が生まれたとすると、天智7年(668)には23歳である。実際にはもう少し早く生まれていたかもしれないが。また倭姫は幼少期を吉野宮ですごしていたのではないか。ただ古人皇子の殺害時にともに殺されたすると別人となるが、親子と説明されたのは、吉野で両者がつながる関係があったからとも考えられる。

④吉野行幸の31回の目的
 既に持統紀の吉野行幸は34年ずらされた記事であり、実際の行幸は、伊勢王が軍事基地である吉野に通ったというのだが、この回数について疑問があった。いくら重要な施設であっても、一年に3回から5回も7年余りにわたって行うということにどのような重要性があったのだろうか。ところがこの訪問に別の目的があったとしたらどうであろう。倭姫の正確な年齢はわからないが、前年は造営時の視察としても完成年の斉明2年(656)ならば倭姫は12歳以上であろう。伊勢王は軍事施設の視察と合わせて、倭姫と引見していたのではないか。それならば、わざわざこまめに出向いたのも理解できる。もちろん政務報告を主目的として訪れたのであろうが。
 だがそれでも気がかりがあった。伊勢王が殺害されたと思われる斉明7年から白鳳3年の白村江戦まで、それまでと同じようなペースで行幸記事があるのが不思議であった。そして行幸に車駕が登場する記事が7回あるが、これは伊勢王の亡くなる前年が最後である。この車駕は伊勢王の行幸を意味し、他の伊勢王死去後も続く行幸は別の人物ではないか。
 伊勢王の後に白鳳改元を行って天子となった倭姫は近江朝に移ったようだが、その後も吉野宮を訪れていたのは明日香皇子が考えられる。半島に渡り白村江戦に挑んだ薩野馬は、当然軍事基地の視察を自ら行っていたはずだ。伊勢王と一緒に、または単独で、さらに没後も訪問していたと考えられる。吉野行幸記事の白村江以前は、4月が最後の記事となるので、明日香皇子はこのあと半島に渡ったのであろう。この明日香皇子なる薩野馬も、吉野宮との関係が深いことになる。

2.菊池はキ国の拠点の可能性

 菊池城のエリアの地名に木野がある。菊池郡を和名抄では久久知との訓を付すが、その九郷の一つに城野とある。古くからこの地はキノと呼ばれていたのであろう。神功紀や応神紀に登場する貴国もこの地と関係が窺われる。百済は貴国を訪問したいがその所在地はよくわからなかったようだ。博多湾岸などと違い、外国からすると入り組んだ有明海に入り込むのは難しかったのではないか。古事記には貴ではなく木国が登場するが、別に紀国との記載があるので、紀伊方面のことではなく書紀と同じ貴国と考えられる。(注1)
 佃収氏は、貴国はれっきとした国名であって、古代史においてはこの国を理解することが重要と力説され、その所在地は北九州を候補としておられるが、私は鞠智にあったと考える。交通の面や眺望などの立地面からも適地であろう。遺跡の状況を見てもこの地が古墳時代の政治文化をリードする地であったことは十分考えられる。多利思北弧の時代には隋書に記された都(京)として、鞠智城の前身の皇宮があったと想定できる。その後大宰府の地に倭京遷宮(618年)があり、いったんは衰退したが、40年ほど後に伊勢王により、宮と軍事施設を兼ねた施設を造り上げた。キノの国はあっても、この地を吉野と呼んだのかとの疑問は残る。この点については、熊本にも吉野山という地名があることなどから、佐賀と匹敵する候補地になると考える。もちろん火の国の拠点は鞠智以外にもあったであろう。

3.吉野の対象地域は佐賀地域以外も考慮できるのではないか。
 
 古田武彦氏は「壬申の大乱」で吉野が佐賀県とされる根拠に、吉野山キャンプ場をあげておられる。佐賀市建設部北部建設事務所に確認すると「吉野山キャンプ場の所在地の自治会は井手野地区となりますが、その地域での字単位で『井手野』や『吉野山』という地名があり、キャンプ場がある地区の字が『吉野山』のため、『吉野山キャンプ場』となっている」とのことだ。そうすると吉野という地名ではなくあくまで吉野山なのだ。また吉野ケ里はその遺跡からして、何らかの施設があったように考えられるが、地名は条里制の地区名でこの一帯は○○ケ里の地区名が多くあり、それは吉野でなくあくまで吉野ケ里である。吉野ケ里町教育委員会文化財係に問い合わせても、こちらが図書館で確認できる内容と同じであった。また有明海の北部の海岸は、大型船を係留できる軍港としての水深のある海岸は考えにくい。熊本市側のエリアの海岸線こそ、多数の船を扱えたのではないか。
 以上からして、奈良ではない吉野の地は、佐賀に絞らずとも火の国も対象に考えていいのではないか。菊池川の上流にも滝の名所が数か所ある。

 以上のようなことから、吉野行幸の吉野宮は、奈良の吉野ではなく、九州の吉野と考えられ、それは吉野ケ里よりは、熊本鞠智城の地がふさわしいと考えたい。

注1.古事記景行記・神櫛王者、木國之酒部阿比古、宇陀酒部之祖。次豐國別王者、日向國造之祖。この箇所について西村秀己氏は「神武の行った道」(論集第6集)で古事記景行記の神櫛王の神はチと読めるのでチクシのことではないかとされる。すると日本書紀では讚岐國造之始祖であるが、木國が九州の中の国である可能性がある。さらに次の宇陀の陀が現在の中国語でトゥオと発音することから、ウトとなり、宇土となるのではないか。すなわち熊本周辺の人物とも考えられ、その木國も熊本あたりも対象となる。また神武記の宇陀も宇土ならば吉野国巣もこの地のこととなる。しかし今のところは木國は紀伊国と解釈した方がよしとする記事が多い。

参考文献
木村龍生「鞠智城の築城とその背景」(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会 編) 高志書院2018.
平野雅廣氏「火ノ国山門」熊本日日新聞情報文化センター 1996
佃収「新『日本の古代史』」 ブログ (日本古代史の復元 佃収著作集) 2022年現在



Kikuchi-jyou
        熊本県鞠智城 出典ウィキペディア                   

 古田史学では持統紀にある吉野行幸は、記事を34年繰り下げたものであり、その吉野は奈良ではなく吉野ケ里などの吉野の地名を持つ佐賀県の吉野とされている。だがこの周辺に大規模な遺構は、確認されていない。また倭国の中心勢力は、弥生時代に博多湾岸で活発な活動を行ってきたが、およそ4世紀あたりで移動したと考えられている。その地が筑後川の周辺と考えられたがそれについても明確な痕跡を示すものはない。そこで別の候補地を提案したい。

【1】隋書が示す倭国の盟主
 
 竹斯より以東を附庸する国は火の国ともいわれる肥国であると考えられ、特に熊本地方には、古墳時代の傑出した遺跡、遺物の状況からしてもこの地が当時の盟主国であると考える研究者もおられる。(注1)その火の国の中心地が、鞠智城とその周辺であったのではないであろうか。
 鞠智城の貯水池跡からは共伴土器が8世紀第1四半期とされる木簡が見つかっており、その中に「秦人忍□五斗」と記されている。池の中での蓄積なのでこの土器の時代をさかのぼる可能性はある。不明部分は鞠智城内から大量の米の出土もあって、研究者は米を想定している。秦人が米を納入したという記録であろうか。いずれにしても従来からよく言われる豊国、大分のみならず、この熊本の地も秦人といわれる存在が見られるのである。
 鞠智城については木村龍生氏によれば、築城以前の6世紀後半から7世紀前半の須恵器が31点、土師器が9点あったとのことで、現在復元されている山城の造営時期よりも早くから別の施設があったことを物語っている。木村氏によれば「鞠智城時代より下位に存在する遺構は保護のためほとんど調査されていない」とのことだ。すると多利思比弧の時代に、その都がこの地の周辺にあった可能性もありうるのであある。(注2)
 
【2】日本書紀に鞠智城は別の名で記されていた。
 
 鞠智城の名が登場するのは、文武2年(698)5月大野、基肄、鞠智の三城を修理させたとある。だが日本書紀には、鞠智城については全く記載がないとされている。書紀には天智4年(665)「大野及椽二城を築く」とされているが、鞠智城は出てこない。
 しかし上記の三城が修理されたということは、これらの造営も同じ時期にあったと考えられる。前述の木村氏は次のようにも述べている。
 「筆者は鞠智城は新造の城ではなく、既存施設を改修して城としたものであったために日本書紀に築造記事が記載されなかったのではないかと考えている。」
 書紀には記載されなかったとされているが、はたして鞠智城についてはふれなかったのであろうか。
 正木裕氏によって明らかにされているが、書紀の年代は少なからず九州年号どおしの移動で記されていることがある。(こちら)で説明させていただいたが、この山城造営記事も、天智4年は九州年号の白鳳5年だが、これは斉明2年の白雉5年(656)から移された記事なのだ。そしてこの斉明2年に、石上山の石を垣とする工事や狂心の渠と民衆からそしられる記事がある。この不可解な記事こそ山城や水城の造営に関わるものと考えられるが、この記事の後に「又作吉野宮」との簡単な記載がある。これが鞠智城を示しているのではなかろうか。
 以下に該当箇所の原文を記載する。
時好興事、廼使水工穿渠自香山西至石上山、以舟二百隻載石上山石順流控引、於宮東山累石爲垣。時人謗曰、狂心渠。損費功夫三萬餘矣、費損造垣功夫七萬餘矣。宮材爛矣、山椒埋矣。又謗曰、作石山丘、隨作自破。若據未成之時作此謗乎。又作吉野宮。

 すなわち、本来は斉明2年に大野、基肄、鞠智の三城の造営があったのが、大野と基肄は白雉5年から白鳳5年である天智4年に移動され、鞠智については吉野宮として時代は変えずに書かれた。この三城がおよそ40年ほど後に文武2年の改修記事になったと考えられる。鞠智城の土塁構築のあり方が、大野城跡との類似性が強いことも、同じ時代の造営を示すであろう。
 斉明紀5年三月には、「天皇幸吉野而肆宴(とよのあかり)焉」 との記事がある。肆宴は岩波注では大宴会を意味する。奈良の吉野という遠方で不便な山間部は考えにくく、ここが鞠智城であるならば、多人数の宴会も十分可能であろう。
 正木氏より指摘されているが、宴会の後に安陪氏を遣わして180艘を率いて蝦夷国討伐との記事がある。鞠智城の施設であるならば多数の兵士を賄え、戦意を鼓舞する場にもなりうるのだ。

【3】他の山城とは様相の異なる鞠智城
 
 標高が90mから171mと低い立地であるが、眺望は良好で広く熊本市内が見渡される。城への通路には侵入を困難にする通称馬こかしと呼ばれる狭小な箇所や、偽の通路もつくるなど、戦国時代の城を思わせる防御の工夫を行っている。背後の台地は米原という地名の穀倉地帯。さらに谷地形を利用した池跡も発見されている。長期的な籠城に持ちこたえられる。文献に見える兵庫、不動倉、城院、鼓楼などと対応するような種類の異なる建物跡が確認されている。軍事的な兵站基地でもあったのだ。そして堅固な防御施設に加え王族の居住する宮もあったと考えられる。倭の五王や多利思比弧の時代もこの地が都や中心地として機能していたのではないだろうか。
 なお大宰府から鞠智城までの歩行での所定時間は、グーグルによればおよそ16時間である。吉野行幸の7世紀半ばには大道も整備され、馬も使えば二日間で十分移動可能な距離である。

 次回に、鞠智城を吉野宮と考えるのが妥当と思われる事例について述べたい。

注1. 谷本茂氏『隋書俀国伝の「俀王の都(邪靡堆)」の位置について』(古田史学会報158号2020)ネット掲載
阿部周一氏の『倭国の「本国」と「附庸国」(改)』(古田史学会報148号)ネット掲載
注2. 平野雅廣氏は「火ノ国山門」(平成8年)において、俀国の王城は鞠智城とされている。その中で道教研究の福永光司氏が鞠智城が大宰府の東南にあたるのが、道教の「地府」の位置にあたることや八角形建物も道教と関係あることなどにふれられているが、時代に合わない面がある。

参考文献
木村龍生「鞠智城の築城とその背景」(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会 編) 高志書院2018.
平野雅廣氏「火ノ国山門」熊本日日新聞情報文化センター 1996
正木裕の吉野行幸34年繰り上げ説は、ネットに掲載。

山城
 九州王朝の拠点があった大宰府を取り巻くように水城や山城の防衛ラインが構築された。

 福岡県の水城こそが『日本書紀』斉明紀のいわゆる「狂心の渠」であることを既に説明しているが、書紀では、山城と共に、あたかも白村江戦の後に造営されたかのような記述になっている。しかし、九州の勢力は、白村江戦で大打撃を被っており、さらにその後には唐の進駐軍も入り込み、大宰府に中国の都督府が置かれることになった。そんな状況で、とても防衛施設としての水城や山城といった大規模工事が行われるわけはないのである。実際は、斉明紀に「狂心の渠」といわれたように、相次いで水城や山城、さらには備蓄施設の建設が推進されたのである。
 くわしくは「こちら」へ。
 日本書紀は、この斉明紀の記事を、天智紀の異なる九州年号に合わせて記事の年代移動を行ったのである。以前に、この年代移動の表を作成したが、今回、修正したものを掲載した。さらに、少し絞った説明も付け加えた。

⑴斉明紀の記事にある掘った渠を運河として石を運んだというのは誤読
 それぞれは、別の工事(関連はあるが)のことである。それは、大きくいって三つのことであると書紀は繰り返し記している。
◆斉明二年の興事(おこしつくること)の数々
1.田身嶺に垣をめぐらす   2.水工に渠を掘らせた   3.石上山の石を船に積んで宮の東に垣とする

◆「人の謗り」とされる記事の三つの内容
1. 狂心の渠功夫3万の損費  2. 垣造る功夫七万の損費  3.石の山丘自ら崩壊

◆蘇我赤兄が有馬皇子に語った三つの天皇の失政
1.大きな倉庫を建てて民財を貯える 2.長い渠を掘ることによる損費 3.船に石を積み丘にすること。
 
 以上の三つの記事はそれぞれ対応しており、狂心の渠が石を運ぶための運河といったものでないことは明白。
※渠は運河のことではないかとの意見については、以下のように説明できる。
 天武元年六月栗隈王の台詞「其れ城を高くして隍(みぞ)を深くして」と筑紫の防衛施設を語っている。この隍は漢字が異なるが水城のことと考えてよいだろう。水城も土堤の外周に溝を廻らせている。

⑵白村江戦の後の造営とする天智紀の記事を元の斉明紀の中に復元する
 天智3年(664)の「於筑紫築大堤貯水、名曰水城」の記事は、天智3年は白鳳4年だが、本当は白雉4年(655)のこととなる繰り下げられた記事と考えられるが、これをわかりやすくするために、年代移動の表としてまとめさせていただいた。 図を参照しながら、以下の解説を見ていただきたい。なお、図はクリックすると見やすくなる。
 図では、右側の書紀年号が『日本書紀』の年代表記であり、それに対応するのが右端の九州年号となる。これを、左側の本来の九州年号に合わせて記事を並べ替えて復元している。これによって、天智紀の水城・山城の関連記事は、元は斉明紀にあったものということがわかる。

水城年代移動年表

①持統紀の吉野行幸の記事は、持統3年(689)から開始だが、この年は朱鳥4年で、元は九州年号白雉4年(655)から,白鳳3年(663)白村江出兵の直前で終わる。開始の年は1月の一度だけ。翌年から3~5回実施。
 すると最初の年は、吉野宮の造営開始前後の行幸で、完成した白雉5年から頻繁に行幸したということになる。
  そしてこの斉明二年の白雉5年(656)に狂心渠の記事の後に吉野宮を作る、とあり、繰り下げられた水城の記事を白雉4年(655)とすると辻褄は合う。 

②「水工」といった百済工人の来日記事
 天智2年に憶禮福留らの来日記事は、二つの時期の異なる記事が合わさっている可能性がある。
九月辛亥朔丁巳、百濟州柔城、始降於唐。是時、國人相謂之曰「州柔降矣、事无奈何。百濟之名絶于今日、丘墓之所、豈能復往。但可往於弖禮城、會日本軍將等、相謀事機所要。」遂教本在枕服岐城之妻子等、令知去國之心。辛酉發途於牟弖、癸亥至弖禮。
甲戌、日本船師及佐平余自信・達率木素貴子・谷那晉首・憶禮福留、幷國民等至於弖禮城。明日、發船始向日本。
 前半の癸亥は13日。後半の甲戌は24日 前半では弖禮城で行って日本軍将に会って相談、としているが、後半では、11日後に日本勢は弖禮に到着している。よって別の記事が差し込まれたと考えられる。
しかしその一方で疑問が残る。天智2年の百済人が墓参りも出来なくなると嘆き国を去ろうとする記事の、はじめて唐に降伏とあるのは、斉明6年の百済王城陥落の記事と関係あるかもしれない。天智紀は重出記事も多く、九州年号とは無関係に記事を動かしている可能性もある。

③工人への辞令の為に筑紫に向かう官人
 持統3年に石上朝臣麻呂等が筑紫へ位記(くらいのふみ)を携え、さらに新しい城を視察との記事だが、この新しい城とは、690年代に該当するものは見当たらない。九州の場合は大野城などのことではないか。持統3年は朱鳥4年だが白雉4年(655)からの繰り下げ記事と考えられる。

④本人への位階の授与
 天智10年に鬼室集斯は小錦下授かる。他に憶禮福留等も位階を授かる。しかし天智4年に百済国の官位の階級を勘校する記事があり、続けて鬼室集斯は小錦下という記事がある。これが天智10年に重出させられた元の記事と考えられる。その元の記事と考えられる天智4年(白鳳5年)も白雉5年への繰り下げられたものとなる。

⑤繰り下げられた造営記事
 天智4年答㶱春初を遣わして長門国に城を築かせた。達率憶禮福留・達率四比福夫を筑紫国に遣わして、大野と椽(基肄城のこと)に二つの城を築かせた、との記事も白鳳5年への白雉5年からの繰り下げ記事だ。
 さらに、九州の研究者で取り上げられている注目の記事がある。斉明6年の「戦士を西北の境(対馬)に配置、城柵繕い山川断ちふさぐ」という記事は、まさに大野城などの山城や水城を含む羅城のこととみる見解もある。
 整理すると、憶禮福留等の工人は654年来日。 655年に位階授与。 655年水城造営。 656年大野城などの造営。となる。 水城は、前段階のものは早くから工事がすすめられていたと思われる。
 
 ただ、この九州年号にもとづく年代移動が理解されない限り、賛同は得られないのだが。
 とにかく、図にあるように、白村江戦の前にすべては行われていたのである。

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 先にヤマトタケルがイヅモタケルの刀をすり替えてだまし討ちを行う説話を取り上げた。そこでは、字の文にたいして挿入された歌は、意味が違っていたのであり、別物の歌が説話に転用されたと考えられる。このような例は神武天皇記の歌にもあって、奈良県の宇陀の地で罠に鯨がかかったという奇妙な歌詞があり、これも転用である。
 そして、ミヤズヒメの歌の場合も、景行天皇の時代の説話であるかのように理解されているが、これも後の時代の歌であると考えられる。それは、おすいの裾で説明したように、天武期に規定された裾付き礼服を着用する人物の時代である。つまり天武の時代の前後に、朝廷に参列しうる皇女のことである。
 するとヤマトタケルも同様に天武の時代の頃の皇子と考えられる。では、具体的にどのような人物と想定できるであろうか。
 
【1】「高光る日」と「高照らす日」の皇子
 
 この御子(皇子)に対して「高光る日の」あるいは「高照らす日の」と歌う句を持つ万葉歌が、10首ほどある。
45番歌 柿本人麻呂が歌った「やすみししわご大君高照らす日の御子」は軽皇子(文武天皇)。
167番歌 柿本人麻呂が日並皇子(ひなみしのみこ)を「高照らす日の御子(高照日之皇子)」と歌っている。
171番歌 舎人(とねり)の歌として「高光るわが日の御子(高光我日皇子)」とある。日並皇子の宮殿を歌っているとされる。
173番歌 舎人(とねり)の歌として「高光るわが日の御子(高光吾日皇子)」とある。こちらも日並皇子の宮殿を歌っているという。
162番歌 「高照らす日の御子」とあるが、持統が天武のことを歌ったもので対象外とする。
204番歌 置始東人 ( おきそめのあづまひと)の歌に「やすみししわご大君高光る日の御子(安見知之吾王高光日之皇子)とあり、題詞に弓削皇子薨去の際の歌とある。
239番歌 柿本人麻呂は長皇子を「やすみししわご大王高光るわが日の御子(八隅知之吾大王高光吾日乃皇子)」とする。
261番歌 柿本朝臣人麻呂獻新田部皇子「やすみししわご大王高輝らす日の御子」
3234番歌 「やすみししわご大君高照らす日の御子」と歌われているが作者未詳。
50番歌 藤原宮之役民作歌として「やすみししわご大君高照らす日の御子(八隅知之吾大王高照日乃皇子)」とあるが、皇子の名前は不明。
52番歌 こちらも藤原宮の歌であり、「やすみししわご大君高照らす日の御子」とあるが、作者不明。

 なお「大君」については、天皇だけではなく皇子も意味するものであると考えられている。『古事記』のミヤズヒメは、「多迦比迦流 比能美古 夜須美斯志 和賀意富岐美(高光る日の神の御子よ、わが大君よ)とうたっていることからも、大君が皇子を歌っていると考えてよいと思われる。
 そうすると、「高光る」「高照らす」と歌われた皇子は、軽皇子、日並皇子、弓削皇子、長皇子、新田部皇子、作者不詳となる。名前がわかるのは、みな天武天皇の皇子ということである。では、残りの作者不詳はどうか。同じ天武の子で壬申の乱で活躍した高市皇子は対象とならないであろうか。
 
 日本書紀の持統紀4年に「高市皇子觀藤原宮地」とある。高市皇子は持統紀6年に完成した藤原宮の工事途中に視察に訪れている。ならば、50番歌の藤原宮建設中の作業者が歌う日の御子は、高市皇子も対象となろう。これについては早くに指摘しておられる方がいる。

【2】末田重幸、松本清張らの指摘

 万葉歌50,52番歌は人麻呂の作歌として間違いなく、この二篇「藤原宮之役民作歌」「藤原宮御井歌」は、太政大臣高市皇子へ献歌したものとなる(末田1977『柿本人麻呂と高市皇子』)。
 末田重幸氏は元来、この二作品が高市皇子への献歌であることを指摘した評者を寡聞にして知らない、とされている。

 松本清張は、『清張通史5(壬申の乱)』において、当時の宮廷は、持統天皇による高市皇子暗殺は公然の秘密ではあるまいか。日並皇子(草壁皇子)の殯の宮の時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首」の長歌167番に付した反歌二首(168・169)は、高市皇子の殯宮の時につくられたものだとしている。明言はしておられないようだが、167番歌そのものの対象を日並皇子とすることを積極的に肯定はされていないようだ。

 169番歌はその本文に「或る本に、件の歌を以ちて後皇子尊の殯宮の時の歌の反と為せり」との付注があることからも、高市皇子への反歌であることも想定できる。

 さらにさきほどの末田重幸氏は、さらに興味深い指摘をしておられる。
3324番 「かけまくもあやに恐し藤原の都」の出だしから、少し後に「いつしかも日足らしまして望月のたたはしけむと我が思へる皇子の命」(挽歌 作者未詳)
 上記の歌で、人麻呂はその皇子がやがて皇位に登る日が近いことを確信していた、とされる。

 以上のことから、作者不詳の日の御子は高市皇子も含まれることがわかる。

 さらに、高市皇子の死を、病死や偶発的なものではなく、周到な戦略にのせられた計画的な犯行によるものであることを推測させるという『日本書紀』の記事を高市皇子薨去の翌月のものから挙げておられる。
 持統十年七月辛丑朔庚戌、後皇子尊薨。
八月庚午朔甲午、以直廣壹授多臣品治、幷賜物、褒美元從之功與堅守關事。
九月庚子朔甲寅、以直大壹贈若櫻部朝臣五百瀬、幷賜賻物、以顯元從之功。
 8月は品治(ほむじ)が関を守ったことに対する褒賞記事だが、壬申の乱での不破関での功労については、天武期に褒賞されているので、別の功労に対するものとする。それは、高市皇子殺害の報が伝わると、東国で挙兵する集団に対してその進攻を関にて阻止したことを意味するのではないかと。
 同じように、9月の五百瀬(いほせ)も協力したことに対する褒賞とされた。興味深いアイデアと思われる。
 
【3】ミヤズヒメが歌った「高光る日の御子」とは?
  
 さて、この中で誰が『古事記』の日の御子の候補となるであろうか。万葉歌には関係しそうな歌があった。
 それは急逝した十市皇女(とおちのひめみこ)のために高市皇子が歌った156番の挽歌であった。

みもろの神の神杉夢のみに見えつつ共に寝ねぬ夜ぞ多き
三輪の神々しい神杉のようなあなた。夢ばかりに見えながら共寝できない夜が多いことよ。

 高市皇子は、夢に見るだけでいっしょに夜を過ごせないことを嘆くような歌をしたためたのである。   

 十市皇女は壬申の乱で戦った相手である大友皇子の正妻であり、さらに高市皇子は彼女の異母弟にあたるという微妙な関係であったが、二人に恋愛感情があったのは否定できないであろう。
 次は『古事記』のヤマトタケルの歌である。

比佐迦多能 阿米能迦具夜麻 斗迦麻邇 佐和多流久毘 比波煩曾 多和夜賀比那袁 麻迦牟登波 阿禮波須禮杼 佐泥牟登波 阿禮波意母閇杼 那賀祁勢流 意須比能須蘇爾 都紀多知邇祁理
ひさかたの、天の香具山の上を、鋭くやかましく鳴きながら渡ってゆく白鳥よ。その白鳥の頸のように、か弱く細いなよやかな腕を、枕にしたいと私は思うけれども、あなたとともに寝たいと私は思うけれども、あなたの着ておられる襲の裾に、(鳥の)ツキが出てしまったことよ。

 ヤマトタケルは、ミヤズヒメの細くてしなやかな腕を枕にして寝たいと思うのに、月日が経ってしまったと嘆くように歌っている。思うばかりで実際には会えないことを歌にしたという点で連動しているのではなかろうか。
 そうであるならば、『古事記』の歌の男性は高市皇子のことと考えてよいのではなかろうか。ならばミヤズヒメに当る女性は、天武期に規定された裾付きの礼服を着用した皇女の十市皇女となるであろう。譚に歌の雰囲気が似ているといった程度の、たいへん心もとない思い付きではあるが。
 万葉歌には亡くなった十市皇女を悲しむ高市皇子の歌しかないのであったが、このように考えると、古事記には生前の十市皇女と高市皇子が愛を交わす問答歌(相聞歌)があったということになるのだが、どうであろうか。そうであれば、『古事記』の歌には、後の時代のものが転用されていることを示す事例となるのであった。

参考文献
末田重幸1977『柿本人麻呂と高市皇子』講談社
松本清張1979『清張通史5(壬申の乱)』講談社文庫

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