流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2026年08月

toki_honban パルコープ
         飛翔するトキ 美しい色の翼に注目! 
      出典HP「パルシステム」(【3/19オンライン企画】『トキを育むお米』)

 前半で、『古事記』のミヤズヒメのおすいの裾とは、天武期の礼服の規定にあるものと指摘した。そして、「月経」は時間の経過を意味していた。では、ヤマトタケルは、どうして衣の裾を見て月(時間)が経ったと思ったのであろうか。

4.ツキは鳥のトキ(朱鷺)のことだった

 先に例で挙げているように、このヤマトタケルに関する説話には、鳥の名前がいくつもはめ込まれているのである。そしてこの場面の「月」や「都紀」とされている「ツキ」は朱鷺(トキ)のことなのだと多ケ谷氏はいう。  
 平安時代以降には「豆支」、または「豆木」(『和名抄』)と表記され、読みはツキであった。日本書紀では陵墓の地名に「桃花鳥」とあり「ツキ」の読みがあてられている。
すなわち意須比之襴にあったのは、鳥のツキ(トキ)の図柄であった。古事記現代語訳に見られる「月の障り」のことではないのである。ここにも言葉遊びが含まれているのであって、そうであるならば次のように理解できる。
 ヤマトタケルはミヤズヒメの衣に描かれたツキ(朱鷺)を見て、時間を意味する月(ツキ)が経過してしまったことに気がついた、あまりに長く待たせたことを申し訳なく思ったと理解できるのではないか。ミヤズヒメの方は、同じように衣の図の朱鷺を時間の経過とみて、とても長い間、あなたを待ち焦がれていましたとの返答をする歌であったのではないか。
 よって、「月経」というのは現代の熟語を意味するものではないのである。ちなみに、「月経」という熟語は16世紀末の『本草綱目』が初見のようである。『古事記』の「月経」はあくまで時間の経過を表しているのである。
 これを、鳥のツキ(トキ)と掛けたことにこの歌謡の醍醐味があったのだ。

 しかしまだ気がかりなところがある。ヤマトタケルは、古代の衣の裾を見て鳥のトキだと判断しえたのであろうかと。

5.ヤマトタケルが衣の裾に見たものはトキの図柄ではなく、色のことだった

 『古事記』の月や都紀を鳥のツキ(トキ)とした場合に、少し気になることがあった。それは、当時の衣の裾の部分に、鳥のトキとわかる図柄が、はたして刺繍などで描かれていたのであろうかと。この点について、鳥そのものではなく、顔などに見られる赤色のことではないか、とのご意見を伺った。トキの漢字が朱鷺で「朱」とあるように、確かにトキの顔は赤い。しかし、雉など他の鳥にも赤色が見られるものがある。さらに鶏は鶏冠が赤い。しかも毎朝欠かさず時を告げてくれる鳥である。するとどうも赤色ではなさそうだ。
 色の名前には、花は当然であるが、動物も特定の色を表現するものとして使われることがある。うぐいす色や燕脂(えんじ)色、聞きなれないが山鳩色もある。そして、朱鷺(鴇)色もあった。
 朱鷺色というのは、漢字に朱があるので、てっきり顔の赤いところを思い浮かべるのだが、実はそうではなく、赤色ではなく淡い桃色のことであった。トキが翼を広げた羽には、見事な色彩が見て取れる。淡紅色とも言われる淡い桃色なのであった。
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            出典HP「新潟県庁」(トキ)
 
 これが朱鷺色といわれるようになったのは江戸時代のこととされている。古代にはトキはツキであった。すると古代では「ツキ」色と呼ばれていたのであろうか。それが『日本書紀』にあった。
 
 天智六年 耽羅遣佐平椽磨等貢獻 
 現在の済州島と考えられる|耽羅《たんら》からの使者の来朝記事がある。さらにその使者への下賜品が具体的に記載されている。
 錦十四匹・纈十九匹・緋廿四匹・紺布廿四端・桃染布五十八端・斧廿六・釤六十四・刀子六十二枚
返礼として けっこう手厚い対応をしている。
 その中の「桃染布」には、「つきそめぬの」との読みが付されているのである。「桃」を「ツキ」と呼んでいたのであり、なんと桃色に染めた布が7世紀にあったのだ。

 さらに万葉集にも同じ表現があった。
2970番 桃花褐浅等乃衣浅尒念而妹尒将相物香裳
(訓み)つきそめのあさらのころもあさらかにおもひていもにあはむものかも
(現代語訳)桃花褐に浅く染めた衣のように、心浅く思って妻に逢うことが、どうしてあろう。

 作者は未詳というのが残念だが、ここでは「桃花褐」との文字で「つきそめ」の衣が歌われているのであった。
 現物の衣は残っていないが、着物に桃色が使われた可能性のある壁画がある。

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        関西大学博物館 高松塚古墳壁画再現展示室
 
 高松塚古墳壁画の女性たちが着用する衣の色はカラフルだが、その西女子群像の着物の色を、緑、黄、紺、朱などとともに桃色と説明している。
 
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        宮廷人の衣装 大阪府立近つ飛鳥博物館
 
 ただ、上図の写真のように女性の衣が薄い桃色で、こちらの方が朱鷺色に近いのではないかと思われる。

 古代ではトキのことはツキと呼ばれ、漢字に豆木、豆枝があてられ、さらには桃花鳥と書いて「ツキ」とする事例が日本書紀や万葉集にあった。羽が桃の花のような色をしていたから、この漢字があてられたことになる。そして後には淡い桃色を「朱鷺色」というようになったのである。
 朱鷺との漢字表記から、てっきり朱の赤色と思ってしまったが、実は鳥のトキは桃色というイメージが古代からあったのである。翼を広げて飛ぶ姿の羽の色の美しさに古代人は注目していたのだ。
 よって、ヤマトタケルはミヤズヒメのおすいの裾の淡い桃色を見て、鳥のツキ(トキ)の色であると判断し、そこから時間を連想して歌に仕上げたということになる。けっして血の色を見たわけではなかったのだ。
 これで、多ケ谷有子氏の月を朱鷺のこととされた解釈に対して、より現実的な説明が可能となったと考える。
 
 それにしても末尾に記載したが、なぜ古事記の現代語訳は、揃いも揃って「月の障り」といった解釈をつけて説明しているのであろうか。
 男性の学者はその方が話としては面白いと考えてしまったのか。本居宣長も月経説を否定していたようだが、そういった先学者の指摘があったにも関わらず、女性の月経を物語にしたものだと思い込んだのは、女性心理を理解できないデリカシーの欠けた男性中心の考えによる誤読の結果だとするのは言いすぎであろうか。

 

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        図はChatGPTによって作成

 遠征を終えて尾張国に帰って来たヤマトタケルは、先に再会を約束したミヤズヒメの家に入った。食膳が用意され、ミヤズヒメが酒をすすめた時に、着ていた襲(おすい)の裾に月経(つきのさわり)のものが付いていたのを見て歌をよむ。ミヤズヒメもこれに答えて歌をよむ。そして一夜をすごした朝にヤマトタケルは剣を置いて伊吹山の神の討伐に向かうという『古事記』の逸話である。
 この説話により、女性民俗学者からも「月経という語が見られる早い例」として取り上げられることも多く、一般の解説でも、女性の衣に経血が付いていたと理解されているのである。
 しかし、これは誤解であったことを、古事記の文章に見られる特徴などから説明していく。なお該当の原文と現代語訳は末尾に掲載させていただいた。
 

1.「月経」は誤解されていた

 古田武彦氏は、『古代史の十字路』で、このヤマトタケルとミヤズヒメの説話にある「月経」について、本居宣長の『古事記伝』も援用しながら、これは別の意味があると説明されている。
 「月立たなむ」とは、十一月から十二月になるというように、次の月になること、新しい月が立つこと。同時に、港の要害の意味の「津城」(つき)とし、(あなたが)港を去って行くことを、かけているという。つまり男のほうが、もうここを、去らなければならない。そう言ったのに対して、女のほうが、もっとあなたに居て欲しい、次の月になっても、もっとあなたに居て欲しいと嘆願している歌だと解釈された。
 そしてこの一節は「地の文」(「月経」文)と「問答歌(「非月経」歌)との接合をはかろうとしたものと捉えられ、地の文は、現代の「月経」を意味すると解釈された。
 だがこれには疑問があった。
 後半の地の文では二人は「御合」したと書かれている。次田真幸等の現代語訳では「結婚した」とややぼかした表現になっているが、これは男女の営みとするのがよいのではなかろうか。すると、問答歌と同じように、字の文の述作者も月経ではないことを想定していたと考えられる。これに関連して、日本書紀景行紀四十年是歳の、ヤマトタケルがミヤスヒメを娶ったという記事に次のようにある。

日本武尊、更還於尾張、卽娶尾張氏之女宮簀媛、而淹留踰月
淹(ひさ)しく留(とどま)りて月を淹留踰月(へ)ぬ

 日本書紀は、二人が結婚してからの記事としているが、この「月を踰ぬ」が古事記の「月を経(へ)」と同じ意味なのではないだろうか。つまり、長い時間が経過したことを意味していると考えられる。
 さらに問題がある。
 字の文の「其於意須比之襴著月經」、歌の「意須比能須蘇爾 都紀多知邇祁理」とあるように、意須比之襴(おすひのすそ)についての説明が必要と思われる。都紀を津城としても、「意須比能須蘇」との関連が不明なのである。これは、「月」と「都紀」に別の意味があるとした方がよいのではないか。

 では二人とも衣の裾に何を見たのであろうか。その何かがどうして「月を経る」と結びつくのであろうか。これを外国文学と日本の古典との関係を説く多ケ谷有子氏による納得のいく解説があった。

2.言葉遊びや洒落で作られた物語
 
 多ケ谷有子氏は、江戸後期の国学者橘守部の『稜威言別』における月経を否定する見解を踏まえて、古事記に見られる言葉遊びなどの視点から、この月経について興味深い解釈をされている。
 そこで先に、「言葉遊び」の事例をいくつか見ていきたい。
 
 垂仁記のホムチワケの一節は、口がきけなかったホムチワケが鵠(くぐい・白鳥のこと)の鳴き声を聞いて初めてしゃべることができたという逸話だが、このきっかけとなった鳥がなぜ鵠なのかというと、この漢字の偏が告であり、つまり告げるという言葉遊びであった。
 この鳥と関係させる言葉遊びが、ヤマトタケルの説話になるといくつも見られるという。
 ヤマトタケルの元の名は|小碓命《をうすのみこと》であった。兄は大碓命であるが、この碓の字にはある意味が隠されている。この「碓」の偏となる「石」の一画目の「一」を「口」の中に入れると「白」になる。そして「碓」の右側の「隹」は「とり」という字である。ゆえに白鳥となる。最後に白鳥となって飛び立っていくヤマトタケルは、その幼少期の名前に白鳥が暗示されていたのである。
 
 次にヤマトタケルの東国遠征に、|御火焼老人《みひたきのおきな》と歌を交わす一節がある。|吾妻《あづま》の国から甲斐の国まで何日寝泊まりしたのか尋ねると、火をたいていた老人が九夜十日と答えるのである。するとヤマトタケルはこれを褒めて称号を与えたという話なのだが、なぜそれだけのことで老人に称号が与えられるのか疑問である。だがこれも鳥と関係させた言葉遊びなのだという。
 「火焼」の「ひたく」は鳥の名前で漢字では「鶲」で偏が翁であり、これは老人を意味する。つまり、
 火焼 → 鶲 → 火焼翁 → 火焼老人 という言葉遊びであった。
 
 最後に「言葉遊び」ではないが、古事記には歌謡が多く挿入されているが、地の文とは無関係な歌が使われるといった転用がなされている場合がある。その例として、イヅモタケルの謀殺譚がある。ヤマトタケルは、相手の刀をこっそりと刃のない木刀に変えて謀殺したという。そこに歌謡が差し込まれている。
 
「イヅモタケルが腰につけている太刀は、鞘に葛(つづら)をたくさん巻いてあった見かけはりっぱだが、刀身がなくて、ああおかしい。」
 だが、原文は次のようである。
 夜都米佐須 伊豆毛多祁流賀 波祁流多知 都豆良佐波麻岐 佐味那志爾阿波禮
 
 この「佐味那志爾阿波禮」(さみなしあわれ)を刀身がなくておかしい、とするのは誤読なのである。
 「佐味那志」は刀身がないということではなく、錆び(佐味)がない刀だと歌っているのである。そして、「あはれ」は「哀れ」ではなく、元来「あっぱれ(天晴れ)」という誉め言葉だという。
 本来は、イヅモタケルの佩く刀は飾りも付けた錆びもない立派な刀だと歌っているのであり、地の文とは様子が違うのである。つまりこれは、『古事記』述作者が、おそらくは引用した歌を誤解して、話の筋に合うと考えて差し込んでしまったということになる。さらには、現代においても、「あわれ」が誤解されたまま、現代語訳として「哀れ」(気の毒)と説明されているのである。
 以上のような点を踏まえて、問題の個所に誤読があったことを説明する。

3. 意須比之襴(おすひのすそ)とは
 
 「意須比之襴」に何かがあって「月を経る」と結びつくことになるのだが、この「意須比之襴」とは何を表しているのであろうか。
 「意須比」はヤチホコ(八千矛)神の妻問いの歌に「淤須比(おすひ)」とあり、頭からすっぽりとかぶるものという説明があるが、それではミヤズヒメが酒を注ぐ場面にふさわしいものではなく、ここでは外套着と考えてよいとする。仁徳記には「波夜夫佐和氣能 美淤須比賀泥」(ハヤブサワケ王の着物のため)とあることからも外套着(外着)で問題ないといえる。
 では「襴」はどう考えればよいであろうか。これについては日本書紀に礼服に関する記事がある。
 天武十三年閏月四月に、朝廷に参集する日は襴(すそつき)の衣を着用するようにと規定している。岩波の注では、「衣服の下部に別のきれでつけるすそで、中国風の服制」とある。
ただ最近では、朝鮮半島の服装をもとにつくられた日本服とも考えられているようだ。
 つまり特別な日のための礼服となる。そうであるならば、ヤマトタケルを食事と酒でもてなす場面に、ミヤズヒメの礼服が経血で汚れている、などということはありえないのである。
 
 では、ヤマトタケルはどうして礼服の襴を見て「月が経る」、すなわち時間が経過した、と思ったのであろうか。「月」と後の歌にある「都紀」の「ツキ」には別の意味が隠れていたのである。 (後半に続く)

 以下に原文と現代語訳を交互に掲載

於是、獻大御食之時、其美夜受比賣、捧大御酒盞以獻。爾美夜受比賣、其於意須比之襴著月經。故見其月經、御歌曰、
 お食膳をさし上げるとき、ミヤズヒメはお杯捧げて|献《たてまつ》った。このとき、ミヤズヒメの着ている|襲《おすい》の裾に月の障りのものがついていた。それで、その月の障りを見て|命《みこと》が御歌に、

比佐迦多能 阿米能迦具夜麻 斗迦麻邇 佐和多流久毘 比波煩曾 多和夜賀比那袁 麻迦牟登波 阿禮波須禮杼 佐泥牟登波 阿禮波意母閇杼 那賀祁勢流 意須比能須蘇爾 都紀多知邇祁理
 ひさかたの、天の香具山の上を、鋭くやかましく鳴きながら渡ってゆく白鳥よ。その白鳥の頸のように、か弱く細いなよやかな腕を、枕にしたいと私は思うけれども、あなたとともに寝たいと私は思うけれども、あなたの着ておられる襲の裾に、月が出てしまったことよ。

爾美夜受比賣、答御歌曰、
多迦比迦流 比能美古 夜須美斯志 和賀意富岐美 阿良多麻能 登斯賀岐布禮婆 阿良多麻能 都紀波岐閇由久 宇倍那宇倍那宇倍那 岐美麻知賀多爾 和賀祁勢流 意須比能須蘇爾 都紀多多那牟余
 そこでミヤズヒメがこのお歌に答えて、
日の神の御子よ、わが大君よ。年がたってすぎゆけば、月も来て過ぎてゆきます。いかにもいかにも、あなたのおいでを待ちきれなくて、私の着ている襲の裾に月が出てしまったのでしょう。

故爾御合而、以其御刀之草那藝劒、置其美夜受比賣之許而、取伊服岐能山之神幸行。
そしてご結婚になって、その帯びておられた|草那芸剣《くさなぎのつるぎ》をミヤズヒメのところにとどめて、伊吹山の神を討ち取るためにお出かけになった。


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 覚張隆史 『日本人とは何か 私たちのルーツを巡る700万年の物語』SB新書
 
 近年のゲノム研究の成果によって提唱された「三重構造モデル」を、わかりやすく解説した入門書。
  日本人のルーツが気になる方は、ぜひ本書をお読みいただきたい。  
 
 帯には「日本人の正体」に迫る、「3つの祖先」からできている、「日本人誕生」の新常識、といった謳い文句も誇張ではない。「三重構造モデル」は2021年あたりから言われだしたようだが、これも、古代人のDNA情報の分析が増加した成果による。
三重構造
 上の図は、別の資料(金沢大学HP)のグラフだが、日本人の遺伝子の時代ごとの変遷を示したもの。古墳時代にほぼ現在の日本人と同じゲノムの構造になったという。
 ご覧のように、一人一人の遺伝子は、縄文人の遺伝子に弥生時代の北東アジア祖先のものが加わり、さらには古墳時代に東アジア祖先の「第三の集団」という新たな遺伝子が重なって、現代人と変わらない構成になったのである。
 現代の日本人のゲノムは大きく言って三つの集団の混血で成り立っているのである。そして、この古墳時代に劇的ともいえる大きな変化が起こったのである。いったいこの時代に何があったのかという問題が重要と思われる。
 
 これまでの「縄文系」と「弥生系」という二重構造モデルでは説明できなかったことを、第三の集団の到来で説明されていることが特徴だ。
 この書では、これまであまり触れられることのなかった大陸の草原地帯や牧畜の民、騎馬文化を持つ集団との関係が明らかにされてきたのだ。もちろん、直接列島に入ってきたというよりも、華北から半島を通じての移入が考えられる。
 テレビドラマの「VIVANT」では、テントとも呼ばれるパオ(ゲル)が重要な場面によく登場する。そして、馬やラクダに乗るシーンもある。日本人のはるか遠い祖先にこのような暮らしをする人々がいたのである。これも以前に記事にしているが、島根県では正月の海岸にグロというテントをつくる祭事が残っている。そのグロは中国語で遊牧民のテントを意味する穹廬(きゅうろ)が語源と考えられる。
   
 学べたことなどを少しだけ紹介

・先に、旧人類から新人類の動きが理解しやすいように説明されている。私たちには旧人類のネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝子もわずかだが含まれているという。
・ホモ・サピエンスの出現年代は、20万年前から今後の調査結果でさらに更新されていくようだ。
・縄文犬のゲノム解析も進んでいるようで、縄文人の祖先集団の動きと犬の動きがリンクしているというのは、興味深い。
  
・特に注目したのは、縄文人の祖先集団につながる遺伝的特徴を持つ集団はほとんど消滅してしまったが、ネパールに類似のものがあるということだ。前に消えた大陸に縄文人の祖先がいたことを漆を例に説明しているが、海岸線の後退で追いやられた人々の痕跡が、ネパールにあったということになる。

・弥生人もその出自が複数あることも明らかにされた。西遼河地域集団だけではなく、中国の中心地となる黄河流域や周原といった中央平原の集団のゲノムの特徴を持つことがわかってきたという。古墳時代にもこの動きがつながっていくのである。このことからも、古代人のダイナミックな動きが見えてくる。

・長野県飯田市は馬具や馬骨が多数出土する地域。その中の溝口の塚古墳は地域最大級の前方後円墳の人骨のゲノムの特徴。縄文成分と東アジア成文のみ検出。弥生の成分がなく、東アジア系成分と縄文系が直接混血していた可能性。さらにancIBDという手法で血縁関係の近さを推定する方法で、韓国に血族があったことが判明。この男性被葬者と韓国釜山近郊の大成洞古墳群から出土の女性個体との間に、6~7親等程度の血縁関係が存在する可能性があるという。
 これは、加耶の列島との関係を示すものと思われる。騎馬文化などを持つ加耶人が渡来し、縄文系統の女性との婚姻で生まれた子孫が信州方面に進出していることを示すものになりえる。また、加耶人も、大陸の遠方の集団と関係していることも明らかとなる。加耶の王族がローマングラスを所有するようになった道筋の解明にもつながると思われる。

・DNAの断片が同時に存在する。
 現代日本人の一人のゲノムの中に、縄文時代の短い断片、弥生時代の中程度の断片、古墳時代の比較的長い断片が混在している。後続する集団と混合しながら現在まで持続しているということ。

 かねてより、弥生時代の後半から古墳時代、さらには7世紀後半の白鳳時代までに、大陸からの移住の波が、何度もあったと考えてきたものとしては、このゲノム解析の研究がさらに進むことを期待したい。
 それに関連して希望したいのだが、三つ目の集団を古墳時代と限定するのではなく、7世紀末までの人の流入があったことは、説明に加えてほしいと思う。白村江戦後に新羅が半島の統一をすすめる中で、多くの百済人、高句麗人が列島に流入していることは、日本書紀にも明記されている。ただ難しいのは、古墳プラス飛鳥・白鳳時代というのを一言で表す言葉が思い浮かばないが。

 最後に、この「三重構造モデル」を、今の歴史学者、考古学者のみなさんに積極的に受け止めていただくことを望んでいる。騎馬民族説を否定され、一部の渡来人から馬の飼育、技術を学んだ、という理解では、日本人の遺伝子構造を大きく変えた事実を説明できないのではなかろうか。「騎馬民族征服説」では誤解を招くので、私は騎馬遊牧民移住説と考えているが、これはもう避けて通れない問題だとしたい。
 著者は次のように明言する。
 「文化と人の移動は分離できない現象であり、古墳時代の再編は、物質文化と遺伝的構造の双方に痕跡を残した」のである。文化の情報だけが伝播したかのような説明はそろそろ改めてほしいと思う。

 この第三の集団の渡来について、『日本書紀』と『古事記』の記述や、遺跡の遺物などから、関連して説明できる問題などを、今後のところでも取り上げていきたい。

参考
覚張隆史2026『日本人とは何か 私たちのルーツを巡る700万年の物語』SBクリエイティブ株式会社
金沢大学HP『パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造』
棒グラフの図は 金沢大学HPによる

 
茶臼山古墳
       図は桜井茶臼山古墳の銅鏡の破片 出典橿考研2017図録
 
 銅鐸や鏡がよく破片で出土することがあるが、これは再利用や信仰上の埋納行為と考えられている。しかし、新井宏氏が説明されている経年損傷の一種である応力腐食割れによるものという指摘から、、破鏡といった意図的な破壊といった行為はなかった、という見方がある。しかし、すべてが応力腐食割れによるものとは断定できないと考えられることを説明する。

 
 銅鐸の破片も再利用されていた。

 従来、奈良には「見る銅鐸」がなく、滋賀、東海地域より早くに鏡の祭祀に切り替わったと考えられてきたが、実は奈良地方にも見る銅鐸の破片がどんどん検出されるようになって認識が変わってきている。
 「畿内中心部で「見る銅鐸」の分布が希薄に見えたのは、その最終段階で細片となるような扱いがなされたためであって、本来は畿内地域にかなりの数の「見る銅鐸」が分配されていたと理解するほうが資料の実態に合致しているといえる。つまり、奈良はいち早く銅鐸祭祀が終了した、とはいえないことになる。以前、銅鐸が早くに消滅するのは神武の侵攻によるものといった考えもあったが、実際はそのようなことは言えないのである。
 そして、奈良では祭祀行為の他に、銅鏡などの制作の原料とするために、破砕した可能性もある。
2010年に行われた徳島県立博物館による実験では、復元銅鐸を電気炉を用いて750℃で5分間加熱し、赤熱した状態で金槌で叩くことで容易に破砕できたことが報告されている。
 そうすると・・・この銅鐸の原料は中国からの輸入であったはずで、その銅鐸を原料とした銅鏡にも、中国産の特徴がみられる可能性もある。破片の一部を祭祀用、首飾りにした可能性もある。耳だけ切り取られたものもある。
銅鐸の破壊
            図は徳島県上浦遺跡銅鐸 出典ColBase
 
 ご覧のように、ちょうど絵画が描かれることがある方形の枠内だけを見事に破壊している。目的は定かではないが、意図的な行為であったことは確実である。

 銅鏡は割れた状態で出土することが多いが、平原古墳に見られるように、破砕して埋葬地の片隅に固め置くようなことも見受けられる。これを、信仰上の行為、鏡の祭祀として理解されているが、意図的に破壊されたのではないという否定的意見もあった。
 新井宏氏は、応力腐食割れで鏡に亀裂が入る可能性を指摘している。つまり自然にヒビが入るというのである。しかし、桜井茶臼山古墳に見られるように、粉々にされているものは、応力腐食割れでは説明がつかないであろう。
 
 桜井市茶臼山古墳の検出された銅鏡破片は、103面のうち中国鏡が56面、三角縁神獣鏡26面、国産鏡21面であったという。331点の銅鏡片の多くは天井石上の土砂に含まれていて、石室内に埋め戻された土砂にはごく少量しかなかったという。盗掘者の行為によるものなら、小片が石室内に相当量残るのが自然であるが、1961年の調査報告書によると、石室の両端に若干集中していた程度であった。
「これら破片のなかに周囲に研磨痕が見られるものがあり、それは破片の状態で副葬された破鏡だろう」と今尾文昭氏は指摘している(今尾2009)。
 枚数が103面にものぼるというが、それら全てが小さく破砕されていたという事実は、盗掘者の踏みつぶしということはまず考えにくいのではなかろうか。出土鏡に研磨痕が現実にあるのだとしたら、「意図的な破砕」を示唆するが、魏朝からの下賜鏡をどうして簡単に破砕するのだろうか、という疑問も残るが。
 最初に置かれたものが割れてそのままの状態で検出されたものと、応力腐食割れを起こした鏡片をさらにこまかくして意図的にばら撒いた可能性は残る。それは祭祀行為として破片を特定の場所にばらまいたのであろう。

 また、銅鐸ではその破片を首飾りなどに再利用しているケースがあるが、同様に銅鏡の破片も周囲が磨かれて穿孔がされているものがある。
破鏡
         加工された銅鏡の破片 出典『破鏡と四方転びの箱』 
 
 破断面及び全体が研磨され1ヶ所に穿孔が確認できる。懸垂用と考えられる穿孔は破断面のほぼ中央に穿たれている。シンメトリーを意識したようだという。こういった事例がいくつもある。

 銅鏡に見られる亀裂は、確かに応力腐食割れによるものと考えられるが、その破片の再利用、それをさらに細かく割って、特定の箇所に撒くという行為は否定しがたい。しかもこの破鏡が九州からはじまっていることも注意が必要と思われる。

 また、鏡は簡単に割ることはできないのではないか、力を加えても10円玉のように曲がるだけだ、という意見もあったのでここで説明しておく。
 銅は錫の配合が高くなれば硬度は増すが、脆くなる。10円玉の錫の配合は1~2%。しかし銅鏡は20%から30%となっており、固いが割れやすくなる。実際に、松本清張は自分の所有の銅鏡を落として割ってしまったと記している。銅鏡の鋳造実験で、錫の配合が高いと割れてしまう様子も見ることができる。つまり、ガラスのように割れることはありえるのである。

 完形の鏡にひびが入っているものもよく見かけるが、この場合は応力腐食割れの可能性はある。しかし、細かい破片をまとめて置かれている場合は、意図的に割る行為は否定できないし、信仰上の理由も大いに考えられるのである。


髙橋敏2015『破鏡及び鏡片の再集成と馬洗場B遺跡出土例からみえてくるもの』山形県埋蔵文化財センター研究紀要
新井宏「金属を通して歴史を観る 13.三角縁神獣鏡⑷追論」颯 颯 鰊 - 新井宏(ARAI Hiroshi)のWWWサイト
今尾文昭2009『古墳文化の成立と社会』古代日本の陵墓と古墳1青木書店
橿考研2025『王陵桜井茶臼山古墳』(令和7年度春季特別展)
松本清張2007『遊古疑考』河出文庫

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 卑弥呼の遣使は、魏志倭人伝に「景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡」とあるが、通説では、公孫淵の滅亡で楽浪郡を魏が掌握したのは景初二年八月なので、六月の遣使は無理であり、景初三年が正しいと理解されている。これに対して、卑弥呼は戦中遣使をしたのであり、その困難な情勢の中で、魏に使者を送ろうとした倭国に感激して、魏は手厚くもてなしたのだという主張がある。戦闘状態にもかかわらず、卑弥呼の英断で魏に使いを送ったというのである。これが物語ならばドラマチックであるが、実際は、景初三年の六月であったことを、景初二年説の主張に対して説明しておきたい。

1.卑弥呼に対しての制詔は明帝崩御後の幼少の少帝では無理だったのか
 
 中国はそれまでも幼年の皇帝が相次いで即位し、皇太后や外戚が政権を牛耳ってきていることからも、卑弥呼への制詔が景初三年では無理という根拠にはならない。
 例えば前漢の第8代皇帝・昭帝(劉弗陵)は、8歳で即位。武帝の遺詔により、大司馬大将军の霍光が政治を補佐(摂政)。昭帝の若年期は霍光がすべての政務を決済し、朝廷の制詔は実質的に彼の意志で下されている。
 また前漢末期、第14代皇帝(平帝の次の皇太子)として、わずか2歳の孺子嬰が擁立される。代外戚の王莽は自ら「摂皇帝」あるいは「仮皇帝」と称し、皇帝の職務を完全に代行している。
 
 以上のような事例があり、明帝の後の少帝の場合も、曹爽や司馬懿が政務を担当しており、倭国の遣使も彼らが対応していたと考えてよい。明帝の崩御後については、三国志小帝紀に「大將軍曹爽太尉司馬宣王輔政」とある。輔政とは政務の補佐であろう。

2. 公孫淵討伐時に密かに海を越えて平定するという記事がある

 景初中、明帝密かに帯方太守劉昕、楽浪太守鮮于嗣を遣わし、海を越えて二郡を平定す。

 この記事から、6月には二郡が平定されて、卑弥呼の遣使は可能だったとの主張がある。
 だが、この「景初中」の時期は3月から8月と考えられる。6月までに平定とする根拠にはならない。あくまでこの「景初中」は明帝が二郡に派遣をすすめた時期であり、実際に平定したのは6月以降であろう。もし中国側が主導権を6月に把握したとしても、公孫淵との戦闘行為は続いており、そのような時期に、倭の遣使が向かったとしても、楽浪郡の太守が都まで同行するなど困難であろう。
 さらに言うと、この海からの行動は秘密裏に行われたと書かれている。どうやって倭国はこの極秘情報を得たのであろうか?また倭国は魏に遣使を送ろうといつ判断したのであろうか。魏による二郡への制圧行動の情報を得てから、遣使の判断、決定後の準備、さらには楽浪郡までの旅程期間を考えると、とてもではないが6月は無理と考えるのが普通であろう。

3.景初三年は呉の侵略があって遣使は困難だったのか?
 
 景初二年の戦中遣使が正しいとされる意見では、一方で景初三年のほうが遣使は困難だと主張される。その根拠とされるのが次の記事である。
 
 赤烏二年春三月遣使者羊衜、鄭冑、將軍孫怡、之遼東、擊魏守將張持、高慮等。虜得男女。

 赤烏二年(239)春三月、呉の孫権は遼東に将軍孫怡之らを遣わし襲撃させ、遼東に駐屯していた魏の守備隊の将である張持、髙慮らが戦死し、男女が捕虜として連れ去られた。

 公孫淵を討伐して平定した遼東が、今度は呉軍に侵略されて、その三カ月後のこととなるのだが、明帝崩御後の混乱に乗じて侵攻したという解釈があるが、「混乱」といった記述はない。
 そしてこの呉の襲撃事件をもって、景初三年の遣使は困難との説明があるが、これもおかしい。この襲撃事件は春三月のこと、しかも、「虜得男女」とあり捕虜はとったが、その後は関連する記事はなく、呉の勢力が半島地域と周辺海域を制圧していたという根拠はなく、一過性の襲撃事件とみられる。よって、景初三年の訪問が困難という理由にはならない。景初三年の遣使が不自然で困難といった主張は疑問である。

4.景初三年と引く『魏志』は別の「類書」のようなもので、間違いが多い、との説

 『日本書紀』・『梁書』・『北史』は『魏志』を引いて「景初三年」としているが、この『魏志』が皇帝の命令によって編纂された「類書」の類いであり、その編纂の性格上、間違いがおこりやすいという理解がある。 (なお、ここでは『魏志』という類書があったとは異論もあるので「類書の類い」としておく)
 この「類書」は原典をそのまま丸写しするのではなく、必要な部分を抜粋・編集(ダイジェスト化)し、その際に前後の文脈が省略されることがある。また後世の知識による修正が起こるという。後世の類書編纂者が「景初二年に公孫氏が滅び、景初三年に明帝が崩御した」という正史の基本知識を持っていた場合、戦闘の最中に朝貢が成立するはずがないという思い込みなどで、良かれと思って「二年」を「三年」に修正してしまうケース(修史の書き換え)が起こり得るのだという。
 陳寿の『三国志』は間違いは発生しないが、「類書」は間違うことがあるというのだが、この論理は疑問だ。陳寿も、それまでの文献、記録を参考にして編集しているのである。その時に思い込みなどで間違いが発生することもあるということも言えてしまうのではないか。しかも「類書」は皇帝の要請で作成されるものであり、間違いが発生しやすいとみなすことには疑問がある。
 
 さらに別の問題だが、邪馬臺国の「臺」も、「壹」としたのは、10世紀以降の版本作成時の誤写と考えられるように、当時の陳寿は景初二年と記していたが、後の写本で景初三年とされてしまったという可能性が高いと思われる。そのような可能性を拒絶して陳寿の『三国志』は間違いが起こらないが、「類書」の類いは間違いが起こるというのは、いささか説得力に欠けるのではなかろうか。
 もし『魏志』が類書の類いであっても、それは、当時の『魏志倭人伝』の記事の「景初三年」を正しく書写したのであって、11世紀以降の『魏志倭人伝』が、版本作成時に景初二年と誤刻したと考える方が妥当である。

5.景初二年説では、中国からの使者の正始元年までの空白の1年半を説明できない
 
 景初三年の倭の遣使に対する下賜品の記事のすぐ後に次のようにある。
 
 正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國。拜假倭王、幷齎詔。賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物
 
 遠方の倭国からの遣使に対して、魏は早速返礼としての使者を倭国に送っているのである。ところが、景初二年の戦中遣使があったとする説を推す主張では、困難な状況の中わざわざやってきた倭の遣使に中国側はいたく感激し、莫大な下賜品も与えたという説明をされている。しかし、感激した中国が返礼としての使者を送ったのは二年後の正始元年のこととなってしまう。これは奇妙だ。どうして、翌年の景初三年に使者を送らなかったのか。この空白の1年半を説明できる根拠は見当たらない。

6.『日本書紀』の「明帝」の景初三年という記述が疑問との見方
 
 明帝は1月1日に亡くなったのに、書紀神功紀の「明帝景初三年」と書くのはおかしいとの意見もあるが、別にこれも不自然なことではない。
 歴史書の記述として「明帝景初三年」とあるのは、「明帝がその年に生きていたかどうか」を指しているのではなく、「明帝が創始した『景初』という時間軸の3年目」という表現をしているにすぎないことで、「明帝と書くのはおかしい」という批判はあたらないのである。中国の歴史においては、同じ元号名が存在することもあり、短期間で改元もされるので、読者も混乱してしまうので、皇帝名を付けて○○年とする慣習があるので、明帝の景初三年に何ら問題はない。

 以上のように、景初二年六月という魏による公孫淵討伐が始まった最中に、卑弥呼がいち早く戦局を見極めて使者を送ったというのは、ドラマチックで、日本人には受ける話だが、現実は二郡を平定して体制としても整ってからの遣使であったからこそ、帯方郡の太守劉夏が対応して使者に同行して洛陽に向かうことができた、というのが自然であろう。

参考文献
古田武彦『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』古代史コレクション22 ミネルヴァ書房
正木裕『「壹」から始める古田史学十二 古田説を踏まえた俾弥呼のエピソードの解釈』ネット掲載他

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