鎌足(614〜669)は、中大兄と乙巳の変を挙行。最高冠位の大織冠と,藤原姓を賜る。談山神社にまつられたが,近年高槻市の阿武山古墳埋葬説が有力になった、と一般的な説明がされる。歴史上の有名人物だが、実は日本書紀にはほとんど事績はない。
豊璋は生没年不詳。百済最後の義慈王の王子 豊章・余豊璋・余豊・扶余豊などの名が史料にある。他に翹岐・糺解などと呼ばれる。半島の混乱の中、倭国に渡るが、百済再興の為半島に戻り、百済王となり白村江戦を先導するも敗戦後に不明になっている。
既に関裕二氏が、鎌足の正体が豊璋であるとの説を発表しておられるが、賛同の声もある一方で、中には奇説といった否定的見方も根強いようだ。私はこの説に賛同するものであり、さらには、関裕二氏の指摘にはない点を、多元史観、すなわち近畿のヤマト王権史観ではなく、九州にあった倭国王権という観点での説明も加えて、さらには、独自に解明した問題についても付加させていただくことにする。そして、これがもっとも重要な問題だが、白村江戦での大敗北の後、豊璋は不明となっているのだが、関氏はいつ日本に戻ったかはわからない、とされている。このもっとも重要な問題が不明瞭では、奇説と言われても仕方がないと思われる。私は、独自の視点で豊璋が日本に戻ったと考える根拠を説明させていただく。
以上のような点も含めて、かなり多数の根拠なり傍証を提示させていただくので、トンデモ論とか、歴史上の有名人物が渡来人などというのはあり得ない、などという思いもおありかと思われるが、ぜひ、これからの説明を検討していただきたい。
1. 阿武山古墳の被葬者は鎌足とするだけでは、遺跡、遺物の状態を説明できない。
大阪府高槻市の阿武山古墳は、研究者の多くはその被葬者を藤原鎌足だとされている。だが、その墓の構造や出土品などは、倭国の人物とするのでは説明できない現状がある。また、日本書紀における彼の事績は乏しいはずが、後に過大ともいえる評価が与えられている。このアンバランスを解消するには、もう一人の織冠を持つ豊璋に注目をせざるを得ない。以下に説明するが、鎌足が豊璋であるならば、この疑問は解消できるのではないかと思われる。今回、新たな視点を加えて整理したものを提示させていただく。
①織冠の保持者
織冠が授与されたのは鎌足と豊璋。二人のうち、国内で没したのが鎌足。だから阿武山古墳の被葬者は鎌足。これが唯一の根拠とされている。
この織冠が日本書紀に登場するのは、孝徳紀大化3年の冠位十三階の記事だ。その後、大化五年に冠位十九階を制定し、筆頭が大織である。
先に豊璋が、天智即位前紀に織冠を授かり、その後に百済に戻る記事がある。
天智8年に藤原内大臣(鎌足)が、東宮大皇弟(天武とされるが)から大織冠を授かる。しかしその翌日に亡くなるというのも話が出来すぎているのだが。また、この豊璋と鎌足だけが織冠を授かるというのもよくよく考えれば不可解であろう。他には誰も授かっていないのであろうか。鎌足亡き後に織冠の地位を得る人物もいなかったのか、書紀はなにも記していない。
豊璋は白村江戦の後、倭国には戻っていないという理由での消去法で鎌足が残る、というのが根拠だが、書紀が記していない人物で、織冠を授かったものがいた可能性は否定できないのではなかろうか。
よって出土した冠帽を鎌足のものと断定するのは疑問となろう。
②被葬者の年齢
残りのよい人骨から被葬者は五十から六十歳代の男性であることが享年五十六歳とちょうど会う。
鎌足の年齢は、日本書紀は日本世記の記事として、50歳、また碑には56歳とある。これで被葬者の推定年齢と合うということだが、そもそも、古代では50歳台の寿命は珍しくないはず。なお、豊璋は生没年が不詳であり、この豊璋も年齢の問題では否定できないことになろう。
③被葬者の骨折
レントゲン写真から腰椎に圧迫骨折と肋骨の骨折が確認され、鎌足が落馬して負傷したことと符合するという。ただしこの落馬については、後にまことしやかに作られた話であり、籐氏家伝などにもそのような事実はない。ただ、左腕肘に変形が見られる点が、弓を扱うことが原因とされた。ちょうど乙巳の変で鎌足は弓矢を持って構えていることから、弓矢を使い慣れていたことからの骨の変形と考えることはできる。ただこれも、豊璋も弓の使い手であった可能性はある。
④大織冠神社
大阪府茨木市の大織冠神社は鎌足ゆかりの神社であり、この地域に縁がある。ただしこの神社にある古墳は時代の異なるもので無関係であることは明白。鎌足が日本書紀に記されたように三島と関係するのは確かであるが、それ以上に、この周辺地には百済との関係が見えてくるのである。
この程度のことであり、具体的なものは乏しく、鎌足と言いきれないのではなかろうか
⑵古墳の構造、遺物の特徴は、鎌足というだけでは説明できない。
①中央を花崗岩の切石と塼で組み上げて、内側を漆喰で仕上げた墓室で、横口式石槨であること。
②埋葬されていた夾紵棺。木型をもちいて麻布に漆を塗り重ねて作る。脱活乾漆棺と呼ばれる。百済王族の棺がみな漆塗りの木棺である。
③その棺は塼積みで作られた棺台に載せられていた。これは百濟泗泚時代の陵山里王陵の東下塚の壁画のある古墳に同様のものがある。
④玉枕のガラス玉は直径の異なる三種類が使われ、高度な技術が必要。その玉を50m近い銀の一本の針金を通して作られている。この玉枕のガラス加工は高度な技術が必要。このような技術など日本では無理といえる。
⑤冠帽に使われた金糸は純度90%以上の金の針金を平らに伸ばして軸となる絹糸に巻き付ける。長さは100m以上あったという。金についてのかなりの知識、技術を持たないとできるものではない。
冠帽に長方形の枠組みが20個。その枠内に連続S字文(蛇文)と四弁花文のような輪郭があった。これは、百済観音の金銅製宝冠の縁に方形区画と六弁花文と類似する。
なおこの大量に金糸が使われた織物は正倉院には見当たらない。則天武后が身にまとっていた衣装の大量に使われた金糸に匹敵するという。列島には他に事例のない貴重なもののはずだ
⑥冠帽の縁回りに樹皮が見つかり、同例として慶州の金鈴塚古墳の白樺の皮でできた冠帽。
⑦塼には青海波文の整形具痕が残ったものが見つかっている。河内飛鳥、奈良の飛鳥でも確認されている。青海波は半島でよく使われる文様。今城塚古墳の埴輪にも見られる。
⑧百済の王は、出土したものと類似の金で飾った冠をしていた。『北史百済伝』には、王は烏(黒色の)羅(で作った)冠を金(製)花で飾り、素(白色)皮帯をしめ、との記述がある。
⑨金製の垂飾付耳飾りの部品の連結に金糸を使う技法も百済の特徴であり、金の加工技術に長けていた。
⑩ミイラ処理がされていた。遺体の残りがたいへんよくて、肉片の付着もあったという。発見当時に蓋を開けたときに樟脳の香りがしたとの証言がある。化学的な調査はされていないがクスノキもしくは他の香木が腐敗防止に使われていたのではないか。実は藤ノ木古墳の被葬者も腐敗防止が施されたミイラとして埋葬されていたようだ。このあたりについては改めて説明したい。
⑪阿武山古墳の麓に散在する古墳群は、同一規格、製法の塼の使用や石室に漆喰が塗布されるなど渡来系の集団の奥津城であったと言える。阿武山南東斜面の塚原古墳群も渡来系の墓域であり、塚原P1号墳からは武寧王陵出土と同型の単竜環頭太刀が出土している。
古墳の構造や副葬品、さらに埋葬状況からして渡来の王族のものと深く関係するものであり、それが日本に戻ったことが否定できない豊璋の墓である可能性は高いと考えられるのではなかろうか。 (続く)










