流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2025年09月

 王や首長が複数で埋葬されていると思われる古墳が多数存在している。ここで廣瀬和雄氏の『前方後円墳とは何か』より、参考資料として掲示させていただく。一部、ブログ主による追記もある。

 廣瀬和雄氏の古墳の追葬の類型 
ⅠA 円(方)のいずれかの墳頂部に複数の埋葬施設があるもの。 さらにこれを三つに細分化して
  ⅠAa 同一墓壙に複数施設 ⅠAc 複数の墓壙 ⅠAbそれらが共存したもの
ⅠB 円部と方部に分かれて埋葬施設があるもの。
ⅠC 同一の木棺や石棺に複数の人物を埋葬
Ⅱ 墳頂部の埋葬施設に加えて、造り出しにも埋葬
Ⅲ 墳丘の裾でも埋葬

以下、各事例を示す。

ⅠA 円(方)のいずれかの墳頂部に複数の埋葬施設があるもの。 さらにこれを細分化して
 ⅠAa 同一墓壙に複数施設 
  三重県石山古墳 三基の粘土槨 武器・武具でまたがって埋置されるという特徴ある。
  岐阜県昼飯大塚 竪穴石槨、粘土槨、木棺直葬
  兵庫行者塚古墳 三基の粘土槨  
    奈良県新沢508号墳、岡山県月の輪古墳 それぞれ二基の粘土槨   ※同時埋葬少なくない
 ⅠAbそれらが共存したもの
  京都府平尾城山古墳 竪穴石槨の墓壙を切り込んで、粘土槨二基を併置
  大阪府豊中大塚古墳(円墳) 木棺直葬と、同一墓壙に二基の粘土槨
  京都府宇治二子山北墳 同一墓壙の中央槨と東槨を切り込んで西槨が作られる。
  福岡県井手ノ上古墳 竪穴石槨と箱形石棺(熟年男性)、石蓋土壙(青年男性)
 ⅠAc  複数の墓壙  ※最も多い
 兵庫県天坊山古墳(円墳) 二基の竪穴石槨が併行
 京都府蛭子山古墳 三基が後円部に併存し、舟形石棺と竪穴石槨におのおの円筒埴輪列の方形区画を伴う。
 福島県会津大塚山古墳 墳頂に二基の割竹型木棺
 岐阜県矢道長塚古墳 東槨から三角縁神獣鏡三面、鍬形石、鉄刀、銅鏃、鉄斧、玉類など 西槨は、三角縁神獣鏡と内行花文鏡三面、石釧、杵形石製品、合子形石製品、鉄刀、鉄槍、鉄剣などともに豊富な副葬品 
 岡山県金蔵山古墳 二基の竪穴石槨にそれぞれ方形区画、豊富な副葬品
 大阪府和泉黄金塚古墳 三基の粘土槨 性差はあるものの、副葬品からどれが傑出しているか言えない。
 広島県三ツ城古墳 時期差をもった三基の箱形石棺   東京都野毛大塚古墳 粘土槨、箱形石棺、木棺直葬の計四つ
 岡山県随庵古墳 竪穴石槨と粘土床の二基が併存
 大阪府弁天山D2号墳(前方後円墳)三基の木棺が切り合って直葬。
 兵庫県茶すり山古墳(円)二基の木棺、いずれも多量の鉄製品
 京都府私市丸山古墳 木棺直葬三基   大阪府長持山古墳 家形石棺が二基

ⅠB 円部と方部に分かれて埋葬施設があるもの。
 神奈川県白山古墳 円部に木炭槨一基と粘土槨二基、方部に粘土槨一基
 大阪府駒ヶ谷宮山古墳 円部に竪穴石槨一基、方部に粘土槨二基。その1号槨から内行花文鏡、鉄刀、鉄剣、鉄斧。2号槨から三角縁神獣鏡、鉄刀など。
 安土瓢箪山古墳 円部に竪穴石槨三基、方部に箱形石棺二基 ※方部は劣位
 香川県快天山古墳 円部に割竹形石棺三基、方部に組合せ式箱形石棺が四基以上
 香川県高松茶臼山古墳 円部に竪穴石槨二基、方部に箱形石棺二基、方部端の裾に箱形石棺四基、また一号竪穴石槨から人体骨二体分
 奈良県島の山古墳 円部に竪穴石槨、方部の粘土槨の被覆粘土に腕輪型石製品133個貼り付け
 福岡県老司古墳 円部に竪穴石槨二基、横穴式石室一基、前方部には横穴式石室一基、墳裾に石蓋土壙一基が設けられ、一号、二号には二体以上、三号は三~四体、四号は二体と多数の人の埋葬されている。
 
ⅠC 同一の木棺や石棺に複数の人物を埋葬
 千葉県猫作・栗山16号円墳 木棺に石枕が三個 周辺から立花など。 同 石神二号円墳 木棺に石枕が二個。 二基の円墳は石枕がなければ一体のみの埋葬とみなされていた。
 熊本県八代市大鼠蔵山古墳群の組合式箱型石棺1号棺に計五体の人骨 八久保古墳、三度の追葬

Ⅱ 墳頂部の埋葬施設に加えて、造り出しにも埋葬
 京都府久津川車塚古墳 長方形の掘り込み   兵庫県行者塚古墳 北東造出し部で粘土槨 

Ⅲ 墳丘の裾でも埋葬     長野県将軍塚古墳など

 2019年現在の資料ですので、ご了承ください。

参考文献
広瀬和雄「前方後円墳とはなにか」中公叢書2019 


DSC_0748

 森浩一氏の提言から、古墳の名称を地域名とすることが定着していった。仁徳陵とされた巨大古墳も大山古墳とされたのだが、最近、世界遺産の関係で仁徳天皇陵と言う呼称が、様々な場面で徹底されていくようになった。
 既に語りつくされていることだが、仁徳天皇と出土遺物などの時代が合わないといった指摘から、疑問視されてきたことである。考古学の見解を無視して、既成事実のように特定の天皇陵とすることが、世界遺産として正しいことなのであろうか。

 ここでいくつか問題点について述べておきたい。

1.大山古墳は、複数の王が埋葬されている
 
 近隣の堺市博物館に巨大な石棺の復元模型が展示されている。これは前方部から出土したものだという。この石棺の構造、金鍍金のされた武具の副葬品などから、王と言える首長、人物のものであろう。当然後円部にも埋葬施設があるはずだ。一瀬和夫氏は3人以上の首長、いやそれ以上の人数の埋葬があるのでは推定されている。
 よって古墳は、副葬埋葬が一般的であるのだ。前方後円墳を特定の個人の王名にすることは適切ではない。

2. 坂靖氏『倭国の古代学』(新泉社2021) のご指摘
 
 仁徳天皇のいわゆる「民のカマドの説話」について疑問を呈されている。

 大阪市歌 大正10年4月
♪高津の宮の昔より、よよの栄を重ねきて、民のかまどに立つ煙 
             にぎわいまさる大阪市   にぎわいまさる大阪市
 
 仁徳紀4年 高台に登って見たところ、国中の飯を炊く煙があがっていない。三年のあいだ治政をおこなったが、ますます煙が少なくなっていて、百姓が窮乏していることを知った。・・・・むこう三年間すべての課役をやめ、百姓のの苦しみを防げ」と命じた。
  天皇自身の服も新調せず宮垣が崩れても茅葺きが崩れ雨漏りしても、そのまままにして衣服が濡れた。三年後に天皇をほめ讃える声が満ち、飯を炊く煙が立ち上がった。
 ・・・皇后は愚痴るが、百姓が富裕なら私も富裕である,と言われた。

 鎌倉時代の「新古今和歌集」に次のような歌がある。
 「高き屋に登りて見れば煙たつ民の竈は賑わいにけり」巻第七賀歌、
  という歌を仁徳天皇御製と後付けて収めている。ここではじめてカマドが登場するという。実は、日本書紀は飯を炊く煙が立ちのぼる光景とし、カマドの文字はないのである。
 カマドを使って飯を炊く文化は半島からの渡来人がもたらしたもの。北部九州では4世紀、近畿では5世紀以降に導入され、6世紀代になって広く普及する。仁徳の時代にカマドが広く普及していたとは考えられない。  課役を免除し、天皇が質素な生活を行ったことを含め、これらは「聖帝」を強調するために挿入された説話にすぎない、と指摘されている。 

 渡来のカマドに関しては次のような指摘もある。古事記の大年神(スサノオの子)の神裔についての記述に次のようにある。
 大國御魂神、次韓神、次曾富理神、次白日神、次聖神。五神。・・・・・次奧津比賣命、亦名、大戸比賣神→→
 このオホヘヒメは竈の女神であり、韓神など渡来の神が列記されているのである。渡来人は竈とともに信仰も持ち込んだというのである。

 坂氏は大山古墳に関して、次のようにも述べている。
 古墳が築造され400年以上を経た平安時代に、この古墳が仁徳天皇陵の陵墓と考えられ、管理されていたことはまず間違いない。仁徳天皇は大阪市歌にも歌われている「民の竈」の逸話などで知られる著名な存在であるが、実は5世紀に税を徴収していたという歴史的事実はない。一般層の間にカマドが普及していたという歴史的事実もない。「天皇」は存在せず、中国南朝に朝貢した天王がしたのみである。
 仁徳天皇の存在そのものが危うい。一刀両断である。
 
 そもそも、日本書紀の天皇の記述がつくられたものが多いのである。このような事情をふまえて批判的にとらえる研究が、もっと広がらないといけないのではなかろうか。
 とにかく、大山(大仙)古墳はのままの名称が妥当であろう。

銅剣

発掘された日本列島2025 京都府立山城郷土資料館 見学に行きました。

10月5日(日)まで開催しています。開館時間は午前9時より午後4時30分
月曜(祝日の場合は翌日)休館
入館料 一般(65歳未満)280円 65歳以上は140円!
    小・中学生 70円 
JRですと奈良線「上狛駅」から徒歩20分
車が楽ですね。

以下の拙ブログ(note)クリックしてしてください。
発掘された日本列島2025 

甕棺墓にあった銅矛・銅剣に、木柄の残欠も見れます。銅鉾の鋳型も。円文のついた家形埴輪もめずらしい。
詳しい説明は出来てませんが、よろしかったらご覧ください。

 舒明3年3月百濟王義慈、入王子豐章爲質
百済王義慈が、王子の豊璋を質(むかはり)として倭国に送る記事がある。もちろん一人で来朝してきたわけではなく、配下のものなども同行したはずである。その中に、孝徳紀に登場する田来津(たくつ)という人物が、後に、百済王として即位する豊璋といっしょに百済に帰国したと考えられる。この点について説明する。

1.孝徳紀で古人皇子の謀反に関わりながら、後に政権側の立場で行動した人物
 大化元年9月 古人皇子、與蘇我田口臣川掘・物部朴井連椎子・吉備笠臣垂・倭漢文直麻呂・朴市秦造田來津、謀反。
 中大兄は兵を差し向けて古人皇子を殺害もしくは自死させている。ところが、謀反に関係した5名の処罰されるといった記事はない。ただ吉備笠臣垂は自首したという記事があり、これで許された可能性はあるが、残りの人物は不明のままだ。
 白雉5年2月の遣唐使の記事に、判官大乙上書直麻呂とあり、これは倭漢文直麻呂と同一人物と考えられる。
 また、斉明4年11月に謀反を図ったという有間皇子を、蘇我赤兄の指示で物部朴井連鮪(えいのむらじしび)に命じて有間皇子の家を包囲させている。この鮪という人物が物部朴井連椎子(えいのむらじしいのみ)と同一人物と考えられている。
 さらに、天智即位前8月には、小山下秦造田來津が五千餘の軍を率いて豊璋を送っている。この人物は、朴市(えち)秦造田來津と同一人物であろう。そうすると、古人皇子との謀議の参加者が、罪を問われず、後に政権側の立場で行動を起こしていることから、古人皇子の謀反が政権側の策謀であったと考えられる。なお古人皇子は、乙巳の変の後に、「韓人殺鞍作臣」と発言していることも、百済との関係を言い当てているようであり、百済とは良好な関係ではなかったことがうかがえる。
 この中で、倭漢文直麻呂は、「倭漢」から東漢氏(やまとのあやうじ)という渡来系の人物であろう。また、朴市秦造田来津という人物も、「朴市秦造」から渡来系であることは間違いないが、この田来津について見ていきたい。

2.豊璋の遷都の計画を一人いさめた田来津

 この田来津は、倭国側が豊璋を送るために勅命を受けた人物であるかのように描かれている。だが、この田来津は、百済王にとって側近ともいえる立場であったようである。
 百済に着いた豊璋は、即位した後に州柔(つぬ)の都から避城(へさし)への遷都を提案する。痩せた土地では民が飢える心配があるので、農地に適したところへ移るべきだというのだ。これに対して田来津は、避城は敵地に近いので攻撃されやすく、州柔は山間にあるので防御に有利であると反対したのである。田来津は百済王に意見のできる立場であったのだ。だが豊璋はこれを聞き入れず遷都を強行した。案の定、まもなく新羅が攻め入ったために州柔に戻ることになってしまう。
 田来津の指摘通りであったのだが、それにしても、田来津はどうして百済地域の事情を把握していたのであろうか。これは、田来津が倭国の人物ではなく、元々百済出身であるからこそではあるまいか。日本書紀では、天皇が派遣したかのように書かれているが、実際は、百済人であり、おそらくは、豊璋とともに倭国に渡り、百済の都合に合うように策動していたのではなかろうか。謀殺された古人皇子は、百済にとっては良く思われていない人物であったのだろう。このように田来津は豊璋と共に倭国に滞在していた百済の高官であったと考えられる。
 さてこの田来津については、白村江戦で最期を遂げる様子が描かれている。

朴市田來津、仰天而誓・切齒而嗔、殺數十人、於焉戰死  嗔(しん)は怒るという意味である。

田来津は天を仰いで決死を誓い、歯をくいしばって怒り敵数十人を殺したが遂に戦死した。(宇治谷訳)
 
 この時の田来津の怒りは敵に対してだったのだろうか。私は、豊璋への怒りも含まれているのではないかと思う。意見が聞き入れられずに無謀な遷都を強行し、優秀な参謀であった鬼室福信を殺害して新羅を有利にし、白村江戦では楽観的な判断で泥沼に引きずり込んだ張本人である豊璋に対しての、言いようのない怒りが込み上げてきたのではないか。そして日本書紀は追い打ちをかけるかのように次のように記す。

是時、百濟王豐璋、與數人乘船逃去高麗

 田来津の決死の戦いのさ中に、あろうことか豊璋は数人の部下と共に船で逃走したのである。百済と豊璋の為に尽力してきた田来津にとっては、なんとも無念な死を遂げたことになるのではなかろうか。
 
 豊璋に同行した一派は、策謀に長けた集団であったようだ。古人皇子や有馬皇子の謀殺に関与しただけではないかもしれない。当然、豊璋自身も倭国滞在中に、大きな影響を与えたのではないかと考えられる。
 日本書紀は、豊璋に関してわずかの記事が残されているだけだが、私見では、皇極紀から突然登場する鎌足が同一人物ではないかと考えている。
 信じがたいと思われる方が大半であろうが、そのように考える根拠を、今後のところで説明していきたい。

↑このページのトップヘ