流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2025年08月

蘇我氏系図
    蘇我氏系図 ウィキペディア蘇我満智より転載

 雄略紀23年に、倭国に滞在していた東城王を百済王として帰国させる記事がある。この中で雄略は東城王に「親撫頭面、誡勅慇懃」とあり、頭をなでて、やさしくいましめる、とある。何か、これから百済王として即位する東城王に対して、助言でも与えたようなのである。その内容はまったく記されていないが、後の欽明紀に、この内容と考えられる記事がある。この点について説明する。そしてこれは、雄略紀のモデルが、武寧王であることを示すものであり、さらに蘇我氏と百済王家との関係を示唆するような記事でもあったのである。

1.百済王子恵と蘇我稲目
 
 欽明紀16年2月には百済王子恵と蘇我臣のやや長い対話の記事がある。蓋鹵王の死を伝えた恵はしばらく倭国に滞在するのだが、そこで蘇我臣が、彼に助言をするくだりが記されている。
 蘇我臣(おそらく稲目・蘇我卿も同じ)は、まず恵に次のように問う。
「いったい何の科でこのような禍(聖明王殺害)を招いたのか。今また、どのような術策で国家を鎮めるのか」
 これに対して恵は、何もわからない、と心もとない返事をする。そこで蘇我臣は次のような訓示をする。

 「昔在天皇大泊瀬之世、汝國、爲高麗所逼、危甚累卵。於是、天皇命神祇伯、敬受策於神祇。祝者廼託(かみの)神(みことに)語(つけて)報曰『屈請(つつしみいませて)建邦之(くにをたてし)神・往救將亡之(ゆきてほろびなむとするにりむを)主(すくはば)、必當國家謐(しず)靖(まりて)・人物乂安(やすからむ)。』由是、請(かみを)神(ませて)往救、所以(かれ)社(くに)稷(やす)安寧(らかなり)。原夫(たずねみればそれ)建邦神者、天地割判之代・草木言語之時・自天降來造立國家(あまくだりましてくにをつくりたてし)之神也。頃聞、汝國輟而不祀(すててまつらず)。方今、悛悔前過(さきのあやまちをあらためてくいて)・脩理神宮・奉祭神(かみの)靈(みたま)、國可(くに)昌(さかえ)盛(ぬべし)。汝當莫忘(いましまさにわするることなかれ)。」

 「昔、大泊瀬天皇(雄略)の御世に、お前の国百済は高句麗に圧迫され、積まれた卵よりも危うかった。そこで天皇は神祇伯に命じて、策を授かるよう、天神地祇に祈願させられた。祝者は神語を託宣して、『建国の神を請い招き、行って滅亡しようとしている主(百済王)を救えば、必ず国家は鎮静し、人民は安定するだろう』と申し上げた。これによって、神を招き、行って救援させられた。よって国家は安寧を得た。そもそも元をたどれば、建国の神とは、天地が割け分かれた頃、草木が言葉を語っていた時、天より降りて来て、国家を作られた神である。近頃『お前の国はこの神を祭らない』と聞いている。まさに今、先の過ちを悔い改め、神宮を修理し、神霊をお祭り申せば国は繁栄するだろう。忘れてはならない」(小学館現代語訳)

 以上だが、この内容は雄略紀そのものにはないものである。これは重要な意味を持つと思われるので、説明していきたい。
 稲目は、百済が衰退した原因が、建国の神をきちんと祀らなかったことだと述べている。神宮を修理して祀れと言っていることから、それは百済王族たちが仏教に傾倒していることへの注意喚起でもあったかもしれない。
 天皇は百済を危機から救うために天神地祇に祈願すると、建国の神を招いて百済王を救えば、国家、人民は安定する、というご託宣を受けた。下線の部分であるが、この御託宣は天皇に対してなされたものとなる。主(にりむ)は岩波注では百済国王としている。建国の神(建邦之神)を請い招(屈請)いて百済国王を救えれば、百済は復活するという。どうして百済王を救えば百済を救うことになるのか、と言った疑問も起こり、意味が取りにくいところではあるが、困窮している百済王に力を与えれば、百済が復活することができる、となろうか。以上のように考えると、ここは日本の天皇が百済建国の神を請い招いたということになる。
 岩波も小学館もこの建国の神を倭の神のこととする解釈を行っているが、そうであるならば、日本の天皇が百済存続のために、自国の天孫降臨の神に祈ったということになるのだが、これは不自然な事であろう。書紀の神代紀に「建邦之神」という表現は皆無であり、日本の神とは結びつかない。ここは百済王を救うためには百済の建国の神が必要ととるのが妥当ではないか。百済建国神話は三国史記などに記述はないのだが、おそらく高句麗に神が天降るという山上降臨神話があることから、元は兄弟関係であった百済にも同じ神話があったと考えられる。
 だがそうであれば、これもまた奇妙なこととなる。日本の天皇が、百済を救うために、百済建国の神を招いて救援したというのだ。こんなことがあってよいのかという疑問が起こるので、建国の神を日本の神ととろうとする解釈が生まれたのであろう。岩波注が判断に迷うのは致し方のないことであった。注1)
 ところがこれは、視点が変われば、不思議なことではなくなる。雄略とされる大泊瀬天皇は、幼武ともいわれるが、この人物のモデルが斯麻こと武寧王なのである。彼は即位前に倭国に倭の五王の武として、政事を治めていたのである。高句麗の為に父兄を殺害された斯麻は、その無念をはらすため、百済支援のための行動、宋への上表文での訴えなどを起こしていたのである。
 雄略が百済の為に天神地祇に祈願したのは、ちょうど倭国にいた東城王を百済に送り出す頃のことであったのではなかろうか。天皇は護衛を付けて東城王を送り出す。「雄略23年(479)仍賜兵器、幷遣筑紫國軍士五百人、衞送於國、是爲東城王末多王。」その際、「親撫頭面、誡勅慇懃」(親しく頭を撫で、ねんごろに戒めて)とある。「誡」は、いましめる、との意であり、やさしくではあるが、しっかりと用心することを言い付けたのだ。ここで雄略は、東城王に百済建国の神をないがしろにしない様に戒めたのではなかろうか。「親しく頭を撫でる」行為は肉親であればこそである。東城王の近親に当たる雄略こと武寧王であるからこその対応なのである。
 以上のように、蘇我稲目は百済王子恵にとっては祖父にあたる武寧王の功績を訓示したのであると考える。

2.蘇我氏と百済王がつながる百済系ライン
 
 この蘇我臣とされる稲目は、仮にも百済の王子に対して、対等、いや上から目線で教訓を垂れているのではないか。しかも、彼はどうして百済敗北の事情を理解していたのであろうか。これも次のようにとらえれば合点できる。
 高句麗による漢城陥落のなか、蓋鹵王は、王統が途絶えないようにと、王子文周王と木刕満致(もくらまんち)らを逃がし、その彼らが熊津で再建をすすめることになる。この木刕満致は、本人、もしくは末裔が後に倭国に渡り蘇我氏になったと考えられる。すると、稲目は自分の祖先から、漢城陥落の話を生々しく聞かされ、高句麗に対する油断などの問題点も教わり、国家祭祀も不十分であったとの認識をもつにいたったと考えられる。
 百済王族と行動を共にした祖先の末裔だから、まるで子に諭す親のような立場で、恵に対して国家祭祀の重要性を説いたのではないか。なお、蘇我氏は仏教の推進派であれば天神地祇の重要性を語るのは矛盾するという意見もあるが、稲目そのものは最初から仏教信仰者ではなかったということは付記しておく。
 さらにいうと、後の『扶桑略記』に、飛鳥寺の立柱儀礼の際に参列した蘇我馬子以下百人あまりが、百済服で参列し、観るもの皆喜んだとあるのも、その関係を物語っているのである。
 また、武寧王のこともひとつ付け加えておきたい。
 雄略紀には、漢城陥落を知ってもすぐに出兵するといった倭国側の軍事行動の記事はない。新羅は羅済同盟もあって漢城に向けて大軍を派遣している。倭国の場合は、翌年の3月に久麻那利(熊津のこと)を汶洲(文周)王に賜った、とあるだけである。つまり、当時の倭国の王は、新羅のような軍事行動は起こしていない。それは、倭の武王上表文にあるように、倭王武の父兄が同時に亡くなったがために喪中になったので出兵できなかったということであり、その父兄とは、蓋鹵王と百済王子たちで、その中に自分の兄弟もいたのである。北九州で生まれた斯麻は列島に長く滞在したと思われ、漢城陥落の際も昆支といっしょに列島にいたから助かったのである。
 その雄略の一つのモデルである斯麻は、倭国の地で、百済の為に百済建国の神に祈りを捧げた、というのが、蘇我の稲目が先祖から受け継がれた話となったと理解できるのである。
 このように、百済というラインでのつながりが見えてくるのであり、後の武寧王となる斯麻が、雄略のモデルである倭王の武であった可能性を物語っているのである。
 なお余談だが、百済王子恵は、仏教信仰に熱心に取り組んでいたことを示す倭国滞在中の伝承が残されているので紹介する。

 神戸市にあった明要寺の丹生山縁起
 赤石(明石)に上陸した百済王子『恵』が一族と明石川を遡り、志染川上流、丹生山北麓の戸田に達し、「勅許」を得て丹生山を中心として堂塔伽藍十数棟を建てた。 王子『恵』は童男行者と称し、自坊を「百済」の年号を採って「明要寺」とされたようだ。「明要」は九州年号541~551。 恵は554年に即位した百済威徳王の弟と考えられ、丹生山縁起が史実を反映しているならば、この寺社建立の後に、軍事援助の折衝を行ったと考えられる。 
 ちなみに、この明要寺には平清盛が月参りを行っていた。平氏は百済系であることとつながるのである。

注1.岩波注には、「通証※は百済の建国神とみるが、(中略)これは日本の建国神で、のちに天之御中主の神や国常立尊以下の人格神観念が形成される以前のかなり漠然とした創世神の観念とみるべきであろうか。」としているが、「漠然とした創世神」を招いて救ってもらうことがはたしてできるのであろうか。※江戸時代谷川士清の注釈書



 蘇我氏系図はウィキペディアより

恵王
            百済王系図 武寧王より豊璋まで

 日本書紀欽明紀には、内臣(後半には有至臣と表記)が、百済からの援軍要請を受けて倭国で兵力を取りまとめ、自ら引き連れて百済に向かう記事がある。日本書紀ではこの内臣について、名を闕らせり、とするのだが、私見では百済王子余昌(聖明王の長男、威徳王)の弟である恵(恵王)のことではないかと推測している。この点ついて述べてみたい。

1.倭国で百済の為に兵力を調達する内臣
 
 内臣は百済の官位にあるが、日本では、鎌足からはじまる官職といった解釈がされるなど定まってはいない。では欽明紀の場合はどうであろうか。先に簡単な年表を掲げて説明していきたい。

13年(552)この年、百済は漢城と平壌を放棄
14年1月 百濟は上部德率科野次酒らを倭国へ遣わし、軍兵を乞う。※内臣も同行か
  6月 内臣を百済に遣わし良馬二匹諸木船など賜る。
  8月 百済、上部奈率科野新羅らを遣わし、弓馬を乞う。※内臣も倭国に戻ったか
  10月 百済王子余昌、高麗を攻める。
15年1月 百濟は中部木刕施德文次らを遣わし、内臣に1月に派遣予定など確認。
      内臣は、勅命を承って回答 「援軍1000、馬100匹、船40隻」
  2月  百済は別の使者を遣わし援軍を乞う
  5月 內臣、舟師を率いて百濟へ。
  12月 百濟は下部杆率汶斯干奴を遣わし、新羅攻撃を報告。有至(内)臣の兵と別に
    追加懇願
     聖明王戦死(三国史記は7月)。余昌を鞍橋君が助ける。
16年2月 王子余昌、弟の恵を遣わし聖明王の死を報告
     蘇我臣、恵に百済の失敗の教訓を諭す
17年1月 王子恵、兵馬を賜り護衛付きで帰国。筑紫火君も兵千名と半島の護衛へ。
 598年 恵王即位 翌年死去

 欽明紀では、内臣は最初に次のような記事で登場する。
 14年6月、遣內臣(闕名)使於百濟、仍賜良馬二匹・同船二隻・弓五十張・五十具(具は50本)
 宇治谷孟訳では、「内臣を使いとして百済に遣わした。良馬二匹・諸木船二隻・・・」
 この箇所だけだと、内臣は倭国の使者のように思える。
 しかし、同8月に百済官人の言葉として「遣內臣德率次酒任那大夫等」とある。岩波は「内臣徳率次酒」と一人の官位と名前にしているが、その岩波注には、徳率に内臣が付くことをいぶかる記述がされているが、それは当然で、本来は内臣と徳率は別の官位であろう。つまり、次酒は別の人物なのだ。つまり14年1月の上部德率科野次酒を略したのが德率次酒であり、内臣を含む彼らを去年遣わした、と記しているのだ。
 15年12月にも 臣等、共議、遣有至臣等、仰乞軍士、征伐斯羅 とある。
 百済の汶斯干奴の言葉として、臣等は共に図って、内臣らを遣わし、新羅を討つための軍を乞い、とある。やはり、内臣は百済からの使者なのだ。
 そうすると、最初の14年6月に百済に遣わした、とある内臣は既に倭国に滞在していたのだ。おそらく、14年1月の德率科野次酒らと倭国へ同行したのであろう。そして6月に、賜った馬と船といっしょに百済に戻ったのであろう。その後記事はないが、同月8月の科野新羅らの使者と一緒に内臣は倭国に戻ってきたと考えられる。
 名前の不明な内臣は、百済からの再三の督促に対応して、倭国の地で軍兵の手配を行っていたのかもしれない。さらには、自らが40隻の船団を率いる立場であったことから、この内臣はかなり重要な地位の人物であることがわかる。

2.名の知れぬ内臣は百済王子の恵の可能性

 この内臣は、百済の官位であり、百済蓋鹵王の指示で倭国に質(むかはり)として渡った昆支が内臣佐平であったように、欽明紀の内臣も百済王の王子またはそれに近い存在と考えられる。船団を引き連れて百済に渡ったこの内臣のその後の記事はない。彼はどうなったのであろうか。半島にとどまったのか、倭国に戻ってきたのか皆目見当つかないが、次のように考えられないだろうか。
 内臣が渡った翌年の2月に聖明王の死去を知らせるために来朝した次男の恵が、この内臣だったのではなかろうか。記事の流れとしても矛盾なくつながる。これは、雄略紀の蓋鹵王が派遣した昆支が内臣佐平であったことと共通するのではないか。昆支と同じように恵も内臣だったと考えられるのだ。
そうすると恵は、3年連続で百済と倭国と往復していたことになる。彼はしばらく倭国に滞在した後に、軍兵の護衛付きで帰国している。蓋鹵王の死去を知らせるだけの役割ならば、すぐに百済に戻るはずが、何の説明もないまま滞在し、しかも倭国の高官とやり取りをしているのも、彼が質のような外交官以上の位置にいたからであろう。
 それにしても日本書紀は、何故名前をもらしたとして内臣とだけ記したのか。実際に編纂時に史料が確認できなかったのかもしれないが、意図して隠した可能性もある。名前を出すのが特に不都合とは思われないのだが、強いて言えば、最初の記事に倭国が軍兵を下賜するために内臣を遣わした、という形にするために、それが百済王子の恵と明記したのでは都合が悪いと判断したのかもしれない。

  百済王系図は Wikipedia ©Public Domain より

鯨の骨
 安部頼時の遺骨ともされた鯨の化石 和田喜八郎『知られざる東日流日下王国』の口絵

 『東日流外三郡誌』を創作した和田喜八郎は、斎藤光政氏の著書『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』に詳しく描かれているように、贋物を歴史的遺物であるかのように相手に信じさせるようなことをいくつも行っている。安部頼時の遺骨は鯨の化石だったのだが、その同じ鯨の化石を津保化族の骨片と別の自著に再利用するようなことを行っている。こういった詐欺的手法を見抜けずに、いとも簡単に信じてしまったのが古田武彦である。既に説明しているように弥生時代の銅鏡のレプリカを、青森で出土したものと喜八郎の言うことを鵜呑みにして自分の論考に記している。(こちら)それが他にもあるのだ。
 三内丸山遺跡の六本柱建物については、後出しジャンケンであることを(こちら)で説明しているが、ここでも古田は、喜八郎から提示された石ころを石神、隕石だと信じてしまっている。この点について以下説明する。

 三内丸山遺跡の六本柱建物に関して、これが「石神殿」であり、その「石神」は和田喜八郎が所有していた隕石だと古田氏が説明する一節がある。既に説明しているが、もともとの『東日流外三郡誌』には、津保化族は馬で狩りをする人たちと書かれている。それが、なぜか縄文時代の六本柱につなげてしまっているのだ。古田は次のように述べている。

わたしはすでに見た。右にのべられている石神たる「隕石」や「化石」が、和田喜八郎氏のもとに蔵されているのを見たのである。喜八郎氏は、ただ「これは隕石だ。」「これは化石だ。」として、わたしにしめしたのみであったけれど、それらこそ実は、往古の「神像」の姿だったのである。〕(古田「新・古代学 古田武彦と共に 2巻 『和田家文書の検証 和田家文書の中の新発見』新泉社1996)

 これを古田氏はそのまま信じたようだ。そして、この石神なる隕石が、青森の資料館に展示されているという情報を聞いて古賀達也(現古田史学の会代表)が直接訪れて、これを確認したというのである。(末尾にこの経緯の記事を掲載)この「隕石」を見て「隕鉄」の可能性がある、として、資料館の対応者に詳しい分析を依頼し、資料館側も調査するとの返事をされているのである。
 ところが、その後の関連する記事を見ても、この「石」のことが何ら話題になっていなかった。私は、この「石」の調査がされたのかどうか疑問に思ったので、その後の隕石に関する記事、古田史学の会HPや洛中洛外日記でも検索したのだが確認できなかった。そこで、直接、展示されていたという森田村歴史民俗資料館(現つがる市森田歴史民俗資料館)に問い合わせてみると、ほどなく調査していただいた結果の返信があった。
 過去の記録を丁寧に調べていただいたようであり、この「石」の分析調査も依頼されていたのである。では、古賀は、自分で依頼しておきながらこのことを忘れてしまったのであろうか。それとも、後日に問い合わせをして調査結果を聞いたが、そのまま意図してか忘れただけなのか不明だが、何ら報告はしなかった、ということなのであろうか。
 
その内容は、予想通りのものであった。太字は筆者による。
 以下全文をそのまま掲載する。

【当時の森田村歴史民俗資料館の日誌等を調べましたところ
インターネット上の「古田史学会報」No.16に当該の文章を寄稿された
古賀達也氏と思われる方は確かに1996年9月に来館されています。
何分にも村時代のことで、専門の学芸員もいなかった時期ですので、
どう対応したか不明の点も多い旨、ご了解ください。
文中の「係の人」は恐らく、石神遺跡の保存調査にも尽力された
地元の個人の方で、1996年当時、資料館の管理にも携わっておられました。
個人としても、青森県重宝に指定された貴重な資料などをお持ちでしたが
現在は亡くなっております。
文中に書かれた「石神」に関する持説を生前に周囲の者も聞いております

さて、文中に記載された石4点については、現在は資料館に展示しておりません。
ただし「黒の石」と思われる資料1点のみについては
市内の文化財収蔵庫という施設に保管しております。
実は2004年に、国立科学博物館で自然科学分析を行っておりますが
分析結果としては隕石でなく、磁鉄鉱を含む班れい岩の可能性が高いとのことです。

現在持ち合わせている情報としては以上です。
お役に立てるか分かりませんが
ご回答とさせて頂きます。
よろしくお願いいたします。

*********************
   〒038-3138 青森県つがる市木造若緑52
   つがる市教育委員会 教育部文化財課
            学芸員 ○○○○ 】
                    以上

 正直驚いた。きちんと調査をしていただいていたのである。問い合わせをしなかったらわからないままであった。この文面で、どうしてよそから持ち込まれたまがい物が資料館に展示されていたのかという事情がわかる。
 当時の資料館は、おおらかというか、ルーズなところがあったことがうかがい知れるが、この石ころの科学調査はきちんとしていただいたことには敬意を表したい。そして過去の来訪記録などお調べいただいた担当者には、重ねてお礼を申し上げたい。

「石神に関する持説を聞いていた」とあるが、現在は亡くなっているということから「石」を持ち込んだ人物が誰なのか察しはつく。重宝指定の資料を持っていたとあるが、あやしいもので直接確認したわけではないであろう。

 それにしても、斑レイ岩なら見た目からして、隕鉄として素人には騙せると考えたのであろうか。現に効果はあったようだ。
 古田は、当時の著名な古代史、考古学の先生方には、きわめて厳しい態度をとっていた。また「活字本ではなく原本がないとダメ」と言う研究姿勢を見せていたはずが、どうしてこうもやすやすと、和田喜八郎の言うことは何の疑うこともなく信じたのであろうか。首をかしげるしかない。
 また、隕鉄の可能性を力説して、分析調査を依頼しておきながら、ほったらかしにしていたのも失礼な話ではある。
 最後に参考資料を付けているが、ここでも藤本光幸が登場する。斎藤光政氏の著書でも、何度も顔を出す人物だ。
 余談だが、喜八郎が持ち出した「化石」というのは、あの鯨の化石だったかもしれない。何度も再利用したのだろうか。

 参考資料  太字は筆者
(古田史学会報 1996年10月15日 No.16「平成・諸翁聞取帳 」東北 ・北海道巡脚編
出土していた縄文の石神(森田村石神遺跡)京都市 古賀達也)

〔和田家に隕鉄が伝存しており、それが「天の石神」であること、そして三内丸山遺跡から出土したような六本柱の高層建築物に天地水の石神が祭られていたことを、筆者は会報十号で紹介し、将来同様の遺跡から隕石や化石が出土する可能性を示唆したばかりだったので、小島氏の情報にいかに驚いたか想像していただけよう。
実は同じ事に気づき、森田村の歴史民俗資料館で石神を既に見ておられた人が他にもおられた。藤本光幸氏である。石塔山例祭の前日、藤本邸に泊めていただいたのだが、私が森田村石神遺跡の隕鉄のことを話すと、藤本氏はすでにご存じで、資料館で以前見たことがあるとのこと。早速二人で資料館へ赴き、石神を探した。資料館には石神遺跡の出土品が展示されており、それは縄文前期から晩期に至る大規模な遺跡だ。あの三内丸山よりも古い時期を含む。(中略)
 問題の石神は何の説明もなく展示ケースの中に並んでいた。直径十五センチくらいの丸い白と黒の石が二個、やや卵型のものが二個と、「石神」は知らない人が見ればただの丸い石としか映らない。(中略)
私が、黒い石神は隕鉄の可能性があるので是非検査してほしい、地球上の鉄であれば、その産地が特定できるかも知れないし、縄文時代に鉄球を石神として祭っていたことは宗教史の面からも貴重なニュースになることを述べると、それならば調査してみたいと係の方は返答された。〕  以上

参考文献
和田喜八郎『知られざる東日流日下王国』  八幡書店1989
斎藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』集英社文庫2019

既に先人の研究者によって指摘されているようなことだが、ここにまとめて記しておきたい

1.古事記で削られた天皇 

 古事記の下巻の仁徳記の前に、次のような記述がある。 
 起大雀皇帝盡豐御食炊屋比賣命凡十九天皇 
 仁徳から推古まで十九の天皇、だとされている。ところが、実際の記事は十八代で一つ少ないのである。これについては、履中の孫の飯豊(イヒトヨ)が顕宗天皇の即位するまで、天皇だったのではないかと言われている。   
 五年春正月、白髮天皇崩。是月、皇太子億計王、與天皇讓位、久而不處。由是、天皇姉飯豐靑皇女、於忍海角刺宮、臨朝秉政、自稱忍海飯豐靑尊
  即位前の顕宗(弘計をけ)と仁賢(億計おけ)が譲り合ったために、飯豊が臨朝秉政(みかどまつりごと)とある。天皇の代行ということで、正式に天皇に即位したとは書かれていない。そもそも、当初は天皇だったが、あとから天皇とはしなかった理由もわからない。消えた天皇の候補は他にもいる。それはこの飯豊と兄弟である顕宗・仁賢の父親である市邊押磐(イチノヘノオシハ)である。彼は履中天皇の子であり、妹の飯豊は天皇の代行を務め、息子の弘計・億計は二人とも天皇に即位している。本来ならば天皇になってもおかしくないが、雄略天皇に狩りの場で弓矢で射殺されてしまう。その際、二人の兄弟は、播磨国に逃げる。後に小楯が宴の席で見つけることになるのだが、その場で顕宗は次のように唄う。
 於市邊宮治天下 天萬國萬押磐尊御裔 僕是也 
 自分の父であるイチノヘノオシハが治天下(あめのしたしらしし)としているのである。これが消されたもう 一人の天皇ではなかったか。即位前の雄略が天皇を殺したとあるのは具合悪いので、後の編集で天皇であること を消した可能性もある。なお、播磨国風土記の美嚢(みなぎ)郡志深里(しじみのさと)の条に、「市辺天皇命」とある。
 まだ、ほかに気になる人物がいる。「宇治天皇之世」と播磨国風土記の揖保郡上筥(はこ)岡の条にある。 菟道稚郎子(ウヂノワキイラツコ)は、早くに応神から日嗣の指名をされている。そして、太子となって活躍したようで、応神二十八年には、高麗の朝貢の上表文の表現に怒って、破り捨てるという逸話も記されている。だが、応神亡き後に、大鷦鷯(オホサザキ)と皇位を譲り合い、急死してしまう。実際には、在位していた可能性も見えてくるのではないか。
 なお、播磨国風土記賀古郡には、「聖徳王御世」があり、聖徳太子は摂政であることから不審ををもたれる記事であったが、多元史観では隋書に登場する多利思比孤(タリシヒコ)の次の利歌彌多弗利(リカミタフリ)と考えられている。

2.万世一系のための記事の操作 

⑴豊富な系譜を持つカムヤイミミ
 神武の息子であるカムヤイミミは弟のタケヌナカワミミに位を譲ったが、その系譜は意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也と記され、天皇になった綏靖(タケヌナカワミミ)の方は 茨田連、手嶋連之祖 とあるだけである。末子相続の考えがあったこともあろうが、この豪華な系譜を持つカムヤイミミこそ、九州王朝の王であったかもしれない。
 記紀ともに、弟に皇位を譲る際のカムヤイミミの台詞に、「吾當爲汝輔之、奉典神祇者 (自分はお前の助けとなって、神々のお祀りを受け持とう)」とある。似たような話がある。国譲りの一書には、怒ったオオナムチに対して条件を提示する、「汝則可以治神事 (あなたは幽界の神事を受け持ってください)」とあるのだが。
 もともとの兄弟統治の片方だけを取り上げて、万世一系の構図を造り上げたかもしれない。継体から、安閑、宣化、そして欽明にかけての編年のずれに対し、兄弟統治があったことに起因すると考える研究者もおられる。

⑵垂仁より豪華な日子坐(ヒコイマス)王の古事記の系譜 
 日本書紀では、開化天皇紀の末に彦坐王とあるが、その他の記事には全く登場しない。さらに垂仁紀では付注 で一カ所記載されるだけで、書紀には系譜もない。ところが、既に言われていることだが、開化記の記事の半分 はこの日子坐王の系譜が語られ、古事記の垂仁記の説話の多くに、この日子坐王の子孫が関わっている。
 『古事記』では、開化天皇と丸邇臣(和珥臣)祖の日子国意祁都命の妹の意祁都比売命との間に生まれた第三皇子。崇神記では旦波國に派遣されているが、書紀では皇子の丹波道主命が四道将軍とされている。息長水依比売とのあいだの子の美知宇斯王の 4 人の比売の一人が氷羽州比賣命(比婆須比賣)で垂仁の后で後の 景行天皇を生む。またそのなかの二人の比売は醜いからと追い返され、円野比売は自死する。さらに、沙本之大闇見戸賣との間に沙本兄妹を生む。その沙本昆売と垂仁天皇の間に本牟智和氣(ホムチワケ)を生んでいる。山代之荏名津比賣またの名苅幡戸辨此との間に大俣王、その子が曙立王で、ホムチワケのために誓約(うけひ)を行い、名を賜り倭者師木登美豐朝倉曙立王となる。非時香菓の説話では比婆須比賣が葬送儀礼を行う部を定める。このように垂仁記の説話は日子坐王の系譜に関係するものとなっている。 
 余談だが袁祁都比売との間の5世に息長帯比売がおり、日子坐王は神功皇后の祖とされている。また、太田亮『姓氏家系大辞典』によれば、日下部表米(表米親王)は日子坐王を出自とする但馬国造家の一族であり、九州年号の記された古文書のある赤渕神社の祭神である。 神功皇后の祖である日子坐王は実は天皇であったのではなかろうか。日子坐王に関する記事は、他にも操作されたのではと思われるところがある。

⑶数に入っていないサホ兄妹 
 吉井巌氏『応神天皇の周辺』で指摘されていることだが、日子坐王は、古事記では 11 人の子女とされている が、実際には 15 人記されており、4 人が後から加えられたと考えられる。ちょうど日子坐王との間に 4 人の子女をもうけたのが沙本大闇見戸売で、その子のサホヒコ、ヲザホ、サホヒメ、ムロビコの 4 人が追加された可能性があると指摘されている。サホヒメは垂仁との間にホムチワケを生んでいる。ホムチ(ツ)ワケは、記紀共に一定の量の記事を載せているが、その後の成人してからの実績といった記事は全く見当たらない。これも言われていることだが、ホムチワケと応神なるホムダワケは関係づけされているのではといった指摘もある。
また吉井巌氏は「品陀天皇之御子、若野毛二俣王、娶其母弟・百師木伊呂辨・亦名弟日賣眞若比賣命、生子、大郎子・亦名意富富杼王(オホホド)」という応神の系譜記事が、継体のオホドと関係する系譜であって、後からの挿入と指摘する。つまり両者とも、伏線をはった記事ということではないか。万世一系の構築の為に様々な操作が記紀には施されていると考えられる。

参考文献
吉井巌『応神天皇の周辺』1967

富雄丸山古墳虺龍文鏡
2025年7月31日の奈良新聞さんの記事からコメントさせていただく。図も奈良新聞さんより

【富雄丸山古墳】虺龍(きりゅう)文鏡 400年前の鏡なぜ副葬? 古代ユーラシア、広域交流示す、という見出しが躍る話題の記事である。

 富雄丸山古墳出土の中国・前漢―新時代(紀元前1世紀末~紀元後1世紀初め)の虺龍文鏡が、ウズベキスタンやロシアからも出土していることから、その被葬者像に関心が向けられたのである。
 その中の、関係者による解説を紹介する。
「大型の虺龍文鏡は中国国内だけでなく、中央アジアのウズベキスタン・サマルカンド州やロシア・ロストフ州の墳墓でも出土。奈良市埋蔵文化財調査センターの柴原聡一郎学芸員は「当時の日本列島が古代ユーラシアにおける広域交流の一端に組み込まれていたことを物語る」と意義付ける。
 大きく出たものだ。広域交流? 弥生時代の近畿とサマルカンドが交流していたとでも言うのでしょうか?
 さらに次がひどい。
 福永伸哉・大阪大学名誉教授(考古学)は今回「弥生時代後期の段階出来ない地域に流入したと考えられる」としたうえで、「すでに大陸の物資を入手する十分な力弥生時代後期の段階出来ない地域に流入したと考えられる」としたうえで、「既に大陸の物資を入手する十分な力とルートを確保していたことを物語る。弥生時代の畿内勢力の力を評価する手掛かりになる」との見方を示す。
 
 弥生時代から畿内にこの鏡が保有されていたというのは、妄論にすぎない。弥生時代の近畿に大陸の物資を入手するルートがあったというならば、どうして、当時の奈良から鉄製品や北九州のような鏡などの文物が出てこないのか?
 古墳時代に大陸から半島、そして九州あたりに移住した集団が、さらに近畿に移住して鏡と一緒にその集団の長が埋葬されたと考えるのが自然であろう。
 船原古墳の例もあるが、(こちら)列島から、想定外のものが出土したら、その説明に、列島側(ヤマト王権)が主体的に受容した、などという詭弁をいつまで繰り返したら気がすむのだろうか。

 なお、サマルカンドと新羅との関係について、さらに大陸文化に関係するホケノ山古墳の埋葬施設の構造などについては今後検討していきたい。

大日山古墳埴輪

 栄山江の問題にふれたが、古代の朝鮮半島の一角に倭の支配地があったという考えは根強くある。甲冑の出土もその根拠となるといった見方もされている。現在の研究者の大方は冷静にとらえているのだが、なかには佐原真が騎馬民族説を否定する中で、気になる指摘をされている。私は賛同しかねるが、佐原氏はこの書の中で、騎馬民族は差別の思想だとされるのだ。その理由としてナチスに関する問題に言及されている。こうした思考方法は、ナチスのゲルマン民族優越史観と共通するのだという。アジア諸民族の蔑視につながり、特定の民族に能力を認め、他を認めない点が問題だという。
 そこでドイツの考古学者グスタフ=コッシナの主張を紹介している。
「厳密に地域を限ることのできる考古学上の文化領域は、いつの時代でも特定の民族または部族と一致する」
 ナチスはこのコッシナの考えを利用し、周辺諸国はゲルマン民族の故地という口実に使われたようだ。
 
 そのあと佐原氏は、何故かよく似た「公理」を主張する人がいるとして、古田武彦氏の『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』の一節を出されている。
「一定の文化特徴をもった出土物が、一定の領域に分布しているとき、それは一国の政治的、文化的な文明圏がその領域に成立していたことをしめす。」
 なるほど、確かに似ている。佐原氏は自分で発見されたのであろうか。そういわれると思い当たることが。古田氏は、任那日本府の存在について否定するのではなく、ヤマトではなく九州王朝の組織だと主張されている。
 そして佐原氏は、最後にドイツのローマ考古学者H=J=エガ―スの言葉を紹介して最後を締めくくっている。
「ある特定の考古学的文化が、ズバリそのまま一つの民族集団の存在を反映するという素朴な仮定は誤り。ある民族の分布領域が風俗習慣の差によって複数の考古学上の文化領域に分かれることもありうるし、逆にいくつもの民族や国家の境界を越えた文化領域もありうる。」
 確かになんでもかんでも、倭の文物が他国で出土するからと言って、倭の支配と判断するのは短絡的である。佐原氏は次のように締めくくる。「文化の変貌や伝播を征服で理解するのは旧式の発想」とおっしゃるが、これは極論と思われ承諾はできない。エガ―スは、「素朴な仮定は誤り」としているが、他民族や異なる文化を持つ集団との交流や移住を否定しているわけではないととれる。
 
 現代の歴史学者は、「征服」、「移住」と言った言葉にナーバスなようで、それが騎馬民族征服説への強い反発につながったとも思える。列島に見られる馬具を文化の「受容」で解釈することにもなる。だが、古代DNA研究の進歩が、避けられない問題を提起している。
 デイヴィット・ライクの『交雑する人類』では、はるか古代より人類は絶え間のない移動を繰り返し、遺伝的に混じりあってきたという。今に生きる人々の姿は、それまでに繰り返されてきた交雑の結果であって、人類は本質的に交雑体(ハイブリッド)であることが明らかになりつつあるという。よって、ナチが利用しようとしたコッシナの考え方が間違っているわけではなく、古田氏の言葉も、間違っていない場合もあり、征服や移住もあれば、交易に伴う交流などによる異種文化の混合ともとらえなければならないと思う。
 ここは舌足らずな説明になるので、またあらためてふれていきたいが、とにかく大事なのは、多様性、多元的に見ていかなくてはならないということであろう。

参考文献
佐原真『騎馬民族は来なかった』日本放送出版協会1993
デイヴィット・ライク『交雑する人類』NHK出版2018

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