流砂の古代

古代史の誤解や誤読、近畿一元史観ではなく多元的歴史観についてや縄文の話題などを取り上げます。

2025年07月

半島の甲冑
             倭系甲冑の出土分布
 
 古代社会の解明には、文献資料とともに出土品の研究が重要であるのだが、その出土品をどうとらえるのか、特に海外で発見されるものと自国との関係は、なかなか判断の難しいものがある。以下、甲冑の事例で考えてみたい。

1.半島で見つかる倭系甲冑と列島で出土する外来の甲冑
 
 倭製と思われる甲冑が、朝鮮半島でも20カ所ほどで見つかっている。このことから、これは、倭国王権の半島進出を示すものという理解もされるが、これもまた、栄山江の問題と同様にそう単純ではない。
 図にあるように、出土地が広義の加耶地域と百済地域に限られていることから、倭にとっては友好国内での出土であるため、倭からの略奪品ではないとの指摘がある。朝鮮半島で倭系の甲冑が見つかれば、高句麗との戦い、半島への進出、とは言い難いのである。
 池山洞32号墳では、金銅冠と鳥紋環頭太刀とともに、在地の冑と倭製の甲冑一具〔眉庇付冑・頸(あかべ)甲・横矧板鋲留短甲〕が共伴出土している。被葬者は大伽耶の旱岐・王族と考えられ、贈与されたと考えられる。

 これが逆ならばどうであろうか。日本列島の各地には半島、大陸のものと思われる武具なども見られるのである。
 福岡県船原古墳は金銅製の飾りの付いた豪華な馬具などで注目されたが、そこでは桂甲も見つかっている。船原古墳の問題は(こちら)で説明しているが、その被葬者像を、ヤマトと関係し、尚且つ半島とも関係をもつ有力者といった説明がされているが、突然この地に現れた古墳であり、その周辺の古墳も渡来系の要素が見られ、その他の多数の副葬品も半島と関係することから、どう見ても渡来系の人物であろう。
 どうも、韓半島で倭系の遺物が見つかれば、列島からの進出を示し、列島内で韓半島系の遺物が見つかれば、交流で手に入れた倭人とするような考え方があるようだ。
 奈良県新沢千塚古墳群でも、短甲や冑が多数見つかっているが、だからといってこの地に倭国軍の駐留があったなどとはとても言うことは出来ない。この古墳群の集団の王の墓とみられるのが、126号墳の被葬者であり、金製方形板、金製垂飾付耳飾、金製螺旋状垂飾などの装飾品に、ササン朝ペルシャの装飾品など、新羅・加耶の女王かと考えられている。
 次のような例もある。奈良県五條猫塚古墳、有田市椒浜(はじかみはま)古墳のわずか二例の蒙古鉢形眉庇付冑という朝鮮半島のものとも少し違うものが見つかっている。モンゴル系、もしくは高句麗の関係の人物がやって来たのであろうか。
 人物ではないが馬に着けるよろいは、和歌山市大谷古墳で馬甲・馬冑、滋賀県野洲市甲山古墳で馬甲札、埼玉県行田市将軍山古墳で馬冑片などが出土している。先ほどの船原古墳では、国内3例目となる馬胄も見つかっている。これらも新羅・加耶からもたらされたものである。これを、半島人による侵略とは考えないであろう。
 奈良県奈良市墓山第 1号墳からは、短甲、衝角付冑等のほか、数多くの小札とともに、鋲留頸甲の破片と縦長板冑の冑鉢を構成すると考えられる梯形鉄板が出土し、韓半島からセットとしてもたらされた可能性が指摘されている。6世紀の半島の混乱、新羅による加耶への侵攻で、多数の移住民が渡ってきたと考えられる。その中には、武具や宝飾品を携えて渡って来た王とその集団があったのであり、そういった視点で出土品も解釈することが必要と思われる。
 次に、甲冑などの武具が古墳に埋葬されている意見について見ていきたい。それは、被葬者の威信を示すための埋納とは別の意味もあるのではないかということである。

2. 火砕流に埋もれた「甲冑を身につけた古墳人」

 群馬県渋川市の金井東裏遺跡は、榛名山の火山噴火で埋もれた甲冑姿の人物が、跪いてそのまま前のめりに倒れ込んだようにして、火砕流に埋もれてしまった状態がとてもよくわかるものだ。(こちら)鎧兜を身に着けて、荒ぶる火山を鎮めようと祈っていたのであろうか。
 着けていた甲は、小札(こざね)甲というもので、1800枚もの鉄製小札をつなげたものというのもすごい。さらに兜と一緒に鹿角製の小札の頬当てや、鉄鉾の柄の上端に直弧文を刻んだ鹿角製の飾りも出土している。この小札甲については、大阪府高槻市今城塚古墳の武人埴輪との類似を指摘されている。
 古墳人に近接の2号甲には、鹿角製の小札があった。これは類例が夢村土城(ソウル特別市松坡区芳荑洞・五輪洞)にある三国時代百済前期の都城遺跡にあった。
 また3号祭祀遺構では、1万点を超す滑石製臼玉や石製模造品、きれいな勾玉、管玉、ガラス小玉貴重な鉄器などが出土。そして短甲形石製模造品と呼ばれる全国でも数の少ない貴重なものもあった。

 火山噴火の兆候があった榛名山を鎮めようと、この人物は甲冑を身につけて、おそらく伴侶の女性と共に祭祀場で祈りを捧げていたのである。その祈りのための祭具には甲冑をかたどった石製模造品もあった。そうすると、武具である甲冑も、戦闘行為ではなく祈るための正装であったと考えられる。ということは、日本の埴輪・石造物に見られる、甲冑、冑も作られているが、それは、武威を示すというよりも、祭祀の意味合いが強いのように思える。
 
 次は甲冑の大量副葬の事例。図は堺市黒姫山古墳の前方部出土品
野中古墳甲冑
 
 大阪府堺市黒姫山古墳は、前方後円墳の方部に短甲24領,衝角付冑11,眉庇付冑13も出土している。武器のみの竪穴式石室が前方部に作られた。古墳に埴輪が樹立された以降の新しい時期に用意された遺構への埋納だった。
 大阪府藤井寺市野中古墳は、古市墓山古墳に接した陪塚で短甲11領、大量の器物埋納があった。こちらも主墳より後に築造されたという。
 七観山古墳は百舌鳥古墳群上石津ミサンザイ古墳の陪塚だが、大量の鉄製武器と甲冑があった。
 奈良市法華寺町高塚古墳は、鉄鋌、鉄板、鉄製農耕具、石製模造品が出土している。
 以上のようなことから、甲冑や鉄製品の埋納は、主体者となる被葬者の生前の所有や管理にかかわるものであったとはいえず、それは儀礼的要素の強い埋納行為、祭祀行為とも考えられる。 
 ちなみに、今城塚古墳の埴輪列が置かれた築堤も墳墓完成時の土堤に後から増築されたものである。鎧に身を固めた人物埴輪も、武人という意味だけではなく、祭祀者の意味もあったのではなかろうか。   
 
 最後に、研究者の見解を紹介しておく。
「他地域よりも盛んでかつ長く行われた日本列島・倭の甲冑の副葬は、かっての認識とは異なり、戦争・軍事の発達がより未成熟な周辺社会で発達したものであり、武装具としての高度な機能性の追求よりも、儀礼における見栄え重視の象徴性がより顕在化した社会で求められたものと見られよう。」
「甲冑副葬は武装具の実践的使用を投影するものではなく、儀礼的な取り扱いを反映する可能性が考えられる。 古墳出土甲冑は倭人の対朝鮮半島の軍事行動にかかわるものとする論説が研究史上では大きな影響力をもってきたが、そもそもその副葬された甲冑をはじめとする武装具が軍事の発達した社会を映すものであるという前提から見直しが必要であろう(橋本2024)。」
 大変重要な指摘である。古墳の副葬品には政治的な解釈と共に、祭祀行為としての視点も必要なのである。

参考文献
森浩一『渡来文化と生産』(森浩一著作集3)新泉社2016
田中晋作『百舌鳥・古市古墳群の研究』学生社2001
田中晋作『古墳時代における軍事組織について』 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ2004 ※野中古墳甲冑の図を利用
橋本達也『甲冑』季刊考古学167 雄山閣2023
半島における倭系甲冑の分布図は、東潮『倭と加耶』朝日新聞出版2022より

伏岩里
          羅州伏岩里3号墳の複合施設
 
 馬韓の地には多葬が特徴の方台形墳という伝統があった。なかには100年を超える期間も機能し続けものもあった。
 羅州伏岩里3号墳は、方台形墳の石室には甕棺が使われている。伝統的な馬韓の甕棺葬から百済の石室葬への移行過程が見られる。
 3世紀に複数の甕棺を設置した梯形(台形)墳から、その上に高く墳丘を 盛り上げて、九州系の横穴式石室や、竪穴系横口式石室、甕棺をいくつも設置してきた。さらに、百済系の横穴式石室を順次追加し、7世紀前半の最後の埋葬まで400年近いひとつの墳丘で葬送儀礼を行い続けた。在地の人々に、倭人や百済人は共存していたのであろうか。
 また、咸平金山里方台形古墳は、全面に葺石が施され、円筒埴輪、鶏、馬の埴輪など、倭の特徴がみられる。在地集団が倭の習慣を真似たのであろうか。
 こういったこの地域の歴史的背景も見ながら、この地の倭系古墳の被葬者像を検討しなければならないのである。
 
 前方後円墳や倭系円墳は、栄山江流域における交通や経済の拠点となる小地域に立地する。その小地域を生活の基盤とする現地集団が造営の主体となっている。倭人がそれまで人々のあまり住まなかった「無主」の地にやってきて、勝手に築いたというわけではない。こういったことからも、とても特定の勢力の支配などを示すものとはできないのである。

 
栄山江の古墳
 
 倭系古墳は九州式と考えられていたが、紀州にある古墳の特徴もあるとの指摘がある。
 従来より栄山江の倭系古墳は、北九州型(玄室平面形が長方形で前壁中央の床面から一段高い位置に羨道が付き、天井は石材の「持ち送り」技法など)と肥後型石室(正方形に近い玄室の平面形やドーム状の天井など)を祖型とするものと理解されてきた。しかし柳澤一男氏は、先ほどの伏岩里3号墳の96号石室を再検討したところ、石室平面型が、和歌山県岩橋千塚古墳群の大谷山22号墳の平面形と酷似しているという。これは、大谷山22号墳の平面型に、北部九州型の壁体構成技術で構築した変異形だという。紀伊勢力の関与がうかがわれるのである。
 さらに海南地域の龍頭里古墳の横穴式石室は、玄室の奥壁に架構大型石材が天井石ではなく石棚の可能性を想定されている(柳澤2019)。こちらも岩橋型石室との関連が考えられるのであり、北九州だけではなく、紀州勢力の関与も見なくてはいけないようである。

 参考文献
柳澤一男『朝鮮半島系横穴式石室に見られる紀伊的様相』(古墳と国家形成期の諸問題)山川出版2019
東潮『倭と加耶』朝日新聞出版2022
水谷千秋『なぜ朝鮮半島に前方後円墳があるのか』宝島社2025

 栄山江流域の前方後円墳、さらには特に半島南岸部にみられる倭系古墳についての研究者の見解は、まだまだまとまらないが、共通の問題意識を持たれているようである。それは多元的にとらえなければならないということであろう。機械的、短絡的に解釈は出来ないということである。そのような研究者の考え方について紹介する。

  古墳時代の日朝共同研究の報告集で、高田貫太氏は次のように述べている。
「古墳時代は、日本列島の倭人社会が、半島から先進地域を盛んに受容した時期である。これまでの日本側の研究においては、古墳時代における半島からの先進文化の受容の契機として、倭王権の軍事的活動を重視してきた。多くの場合、日本列島各地で出土する朝鮮半島系の遺構、遺物の導入過程は『倭王権による朝鮮出兵→獲得した品物や技術者の独占→地方の配布』という枠組みで(ある時は、朝鮮出兵を軍事的提携と置き換えて)説明されて来た。
 しかし、近年の調査、研究の進展によって、軍事的契機のみならず、より恒常的かつ多元的な交渉の様態が想定できるようになり、朝鮮半島諸勢力の側にも明確な交渉意図があったことも想定されている(高田2019)。」と述べておられる。

 また同じ報告集で権五栄氏は、「倭系古墳に認めらえる多様性は、そのまま当時の韓半島南部と日本列島の交渉が非常に多元的であったことを示している」というように、ここでも両者の多元的な関係という問題意識をもっておられる。
 
 そして、氏は韓式系土器の問題にふれておられる。
栄山江韓式土器
 列島に於いて韓式系土器が広範囲の地域で出土し、福岡県西新町、大阪府長原、蔀屋北、奈良県南郷などが代表的。その器種構成、器形、制作技法などから、栄山江流域との関連が究明されるようになってきたという。カマドやオンドルを備えた住居にある土製煙筒も、半島南部では馬韓―百済圏から出土するが、特に栄山江が目立つという。
 カマドの焚口に取り付けられるU字形土製品も近畿に集中して見られる。
 このことからも、栄山江に前方後円墳が存在するといっても、その一方で列島各地に栄山江流域に主たる韓式系土器が大量に出ている事実と合わせて検討しなければならない。前回にふれたが、生活に直接かかわる土器の栄山江と同じものが各地に見つかるということは、そこに栄山江関係の集団が住み着いたことを示しているのである。これをどう理解しなければならないのかが重要であろう。

 なお権五栄氏は、この時期の問題では継体朝の登場が意識されることが多いが、同時代の武寧王について関心が向いていないことを注意喚起しておられるのは、重要なことであろう。栄山江流域・馬韓への百済の進出には、武寧王の関りが大きいのである。

 次に権五栄氏の栄山江流域の倭系古墳の分類と被葬者像についても参考として掲載する。
A:構造や葬法、遺物がすべて倭的な場合 (高興野幕古墳・新安ベノルリ古墳)
B:前方後円墳を模倣した構造と葬法が認められる一方で、在地的な要素や百済の影響が共存する場合 (大部分の前方後円墳)
C:構造と葬法に倭の要素が一部認められるが、在地系の遺物または百済中央関連の威勢品が存在する場合(羅州伏岩里3号墳96年調査石室・羅州丁村古墳・高興吉頭里雁洞古墳)
D:構造は在地的であるが、葬法や遺物に倭の要素が多く認められる場合(咸平金山里方台形墳)
E:構造と葬法は在地的で、倭系遺物が少量認められる場合(髙敞鳳徳里1号墳)
F:横穴墓という独特な構造、倭系遺物と類似した副葬品が存在する場合(公州丹芝里遺跡)

 被葬者の特徴
A=倭人の可能性が高い
B=在地首長である可能性が高い
C=在地首長であろう
D=基本的には在地首長の墓である可能性が高いが、B,C類型との違いが明確でない
E=明らかに在地首長の墓
F=東城王の即位と関連した九州出身人物、及びそれに関連した人物(子孫などを含む)であった可能性が高い

 このように、栄山江の前方後円墳といっても、特徴を考慮して分類してみると、その内容、性格はかなりまちまちなのがわかる。たいへん重要な視点だが、次の被葬者の特徴となるとほとんど栄山江流域の在地の人物と解釈されている。これでは、わざわざ前方後円形に墳丘を造る意味が説明できないようにも思える。せっかく「多元的」と述べておられるのだから、引き続き広い視野で検討してほしいところである。
 とりあえずは、様々な意見の一つとして紹介させていただいた。

参考文献
『国立歴史民俗博物館研究報告・第217集』 弘文社2019

DSC_0737
           滋賀県鴨稲荷山古墳復元された広帯二山式金銅冠

 ネットで閲覧できる「令和3年度第2回むきばんだ遺跡土曜講座」に次のような解説がある。
広帯二山式冠分布図

 「広帯二山式冠(ひろおびにざんしきかん)は、国内で出土。花形方形透し文をもつ。
 冠は継体王権の威信財として畿内を中心に分布。 5世紀末~6世紀中頃」とのことだ。気になる所があるので、少し説明したい。

1.葬送儀礼で使われる冠

 まず、広帯二山式冠とされる図が、これでは「二山」としている意味がわかりにくい。この図は滋賀県の鴨稲荷山古墳の冠のスケッチだが、帯を広げてみないと「二山」とは思えないであろう。次の図は左が江田船山古墳、右が茨城県三昧塚古墳のものだが、このように帯を広げると、「二山」であることがわかる。
江田、三昧塚
藤ノ木舟
     藤ノ木古墳金銅製冠 樹木に鳥が停まるゴンドラの船が描かれている

 また「継体王権の威信財」とされているが、はたしてそうと言い切れるであろうか。既にこちらでも説明しているが、鴨稲荷山古墳の冠の場合は、中央についているのは船形埴輪と同じ形状のデザインだ。有名な藤ノ木古墳の冠には、樹木とともに鳥が停まっている船がいくつも描かれている。また茨城県の三昧塚古墳の金銅製冠は馬の意匠が左右対称に4頭ずつ描かれている。これらの馬や鳥、船は、死者を送るためのものと考えられる。日本出土のものは、それぞれ意匠が独特であり、統一的な規格で作られたわけではないので、位階を示すものとは考えにくく、埋葬時に被葬者に供える葬送儀礼用のものであろう。同様に飾り履という歩揺やスパイクが付いたものも、決して実用の履とは言えないと考えられる。

2.栄山江にもあった広帯二山式冠は、日本のオリジナルとは言い難い

 さらに次が重要な問題だ。「畿内を中心に分布」とあるが、だからといって日本独自のものとはならない。実は一例だが、朝鮮半島からも出土している。それが半島の前方後円墳である新徳1号墳である。飾り履や金製耳飾りなど豪華なアクセサリーが副葬されていたのだ。
 そうなるとこれは日本で多数の出土があるのだが、百済からの制作技術の移転、すなわち百済系の渡来工人によって列島で制作されたと考えられる。冠の文様が百済系の飾り履と酷似する亀甲文であることも傍証となり、新徳1号墳の例も百済系工人によって製作された可能性が高い。(高田2019)。
 新徳1号墳は、典型的な北部九州系の石室に、百済系の装飾木棺、そしてアクセサリーなどの副葬品から百済と倭との密接なつながりを読み取れ、その一方で、墓前祭祀に用いられた多量の土器は、現地で制作されたもので、それぞれの社会の複雑な関係性の中で、新徳1号墳が築かれたととらえることができる。広帯二山式冠が列島からの出土がほとんどで、あとの一例が栄山江流域の前方後円墳であるから、これが日本独自のものだとは言い難い。
 以上のことからも、栄山江流域に築かれた前方後円墳が倭王権の支配を示す根拠にはならないのである。

三昧塚列点文
波線の中に点・円文が連続して描かれている

池山洞金銅冠

七観山古墳 金銅製帯金具

           大阪府堺市七観山古墳金銅製帯金具の波状内列点文
 
 なお私見では、先ほどの三昧塚古墳の馬の意匠をもつ冠のデザインには注目すべきところがある。そこには帯の周縁部などに波状内列点文が施されている。図にあるように帯金具などにも施されている。さらに同じような文様が、加耶や新羅の冠などにも多数認められる。すると、この広帯二山式冠には、加耶・新羅の要素も加わっていることになり、さらには藤ノ木古墳金銅製冠のティリヤ・テペの意匠との類似などきわめて国際色豊かな美術品となるのである。
 
 以上のように、広帯二山式冠は、天皇の威信財とは言い難く、また日本の独自の冠ともとらえられない。さらには、栄山江流域の前方後円墳をどうとらえるかという点で示唆的な文物となるものであった。なお、この広帯二山式冠の分布は、継体とされる男大迹(おほど)の勢力と関係が認められる点については、また改めてふれていきたい。

参考文献
辰巳和弘『他界へ翔る船』新泉社2011
高田寛太『「異形」の古墳』角川選書2019
韓永大『古代韓国のギリシャ渦文と月支国』明石書店2014

 宋書倭王武の上表文の記述に
東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國
ある海北95国が、倭の勢力の半島支配を示していると考える方々がけっこうおられる。
 その半島支配の根拠として、栄山江の前方後円墳を持ち出されるのだが、それは無理であることを説明したい。すでにこちらでは、栄山江以外の問題を説明している。

①栄山江の前方後円墳は5世紀末から6世紀前半という限定された期間だけの造営
 そうであれば、武の上表文の話は、祖先の業績を讃えているものであり、それは478年以前のこととなるのであって、時代の下がる栄山江はなんの証明にもならない。さらに以下に付け加えていきたい。

②列島の中の渡来文化はどう説明するのか?
外国に前方後円墳があるから、倭国の支配を示している、などと考えるのであれば、列島の中にある半島勢力の特徴が数多くみられる状況は、どう説明するのでしょうか。近畿地域には、片袖式の横穴石室が多数見られるが、それは百済系と言われている。すると、近畿は百済勢力が支配していた、というのでしょうか。

③前方後円墳の配置された場所の問題
 栄山江の前方後円墳と在地の高塚古墳は、排他的ではなく併存するかのように作られていると指摘されている。

④様々な特徴を持つ栄山江の古墳
 栄山江の古墳の埋葬施設の構造、副葬品などは、倭系だけでなく百済系や加耶系、そして在地系の特徴なども見られます。
 例えば、月桂洞1号墳は、石室については、特に熊本に多くある石屋形の埋葬施設であり、他の栄山江の方円墳や円墳も多くが熊本や福岡の古墳の特徴をもっているが、一方で、石棺と共に銀で装飾した釘で組み立てて、環座金具を取り付けた装飾木棺となっており、これは百済の特徴をもっている。
新徳1号墳は、武寧王陵と同じくコウヤマキ製の木棺があったことから、被葬者は百済系と考えられる。そこに百済の金銅製の冠帽や飾り履、金製の耳飾り。また新徳2号墳は百済式の石室になっている。

⑤九州式石室に甕棺が埋葬されている例もある。

横穴式甕棺
 伏岩里3号墳という方墳では、九州式の石室の中に甕棺が4基も埋葬される例がある。倭国の古墳ではありえないことだが、この栄山江流域は6世紀まで連綿と甕棺による埋葬が行われてきたことから、被葬者は在地の人物と考えられる。経緯は不明だが、わざわざ九州式の石室を造らせたのであろう。

⑥墓誌があったから百済王墓とわかった武寧王陵
 栄山江ではないが、一例として。武寧王陵はその出土物の大半が中国系の器物であって、百済系の須恵器などは皆無であったことから、もし墓誌がなければ、被葬者は中国系百済官人、中国系有力者などとされていたかもしれないという話がある。出土物などで出自を判断するにはこういった問題もある。
 
 以上のように、栄山江流域の6世紀前半の古墳の状況はそう単純ではなく、それに伴い様々な説が乱立している。被葬者の性格については,亡命倭人説,倭から派遣された倭人説,土着勢力説,百済が派遣した倭人説、倭人の百済系官人説などが提示されているが,未だ見解の一致をみていない状況である。
 次のようなユニークな説もある。林永珍の馬韓系亡命客説は、百済の勢力拡大で北部九州に移住した集団の一部が、磐井の勢力拡大などで、再度栄山江へ亡命し、現地埋葬で継承無しだという。
私見では、東城王の護衛で渡った倭兵が、引き続き栄山江支配に使われ、そのリーダー格が埋葬されたと考えている。実は、この見方を支持するような見解がある。
 金洛中氏は、栄山江流域における倭系文物には、帯金式甲冑や各種の武器に関連するものが多い。その一方で、日本列島における百済・栄山江流域の文物は、オンドルなどの住居施設や炊事用土器などをはじめ、渡来集団が移住・定着したことを示すものが多い。このような非対称性は、高句麗との緊張関係にあった百済王権が倭の軍事的支援を必要とした状況や、倭人たちが百済に進出し活動した理由が、移住・定着ではなく、比較的短い期間に終えることができる活動(軍事的支援)などであったことを示している、というものである。まさに、九州から護衛を兼ねて渡った倭兵の痕跡が残っているのではなかろうか。

 いずれにしても、栄山江の前方後円墳の存在だけをとりあげて、九州勢力の支配があったなどとはいいきれない。そんな単純な問題ではなく、まだまだ新たな調査研究が必要な課題である。

参考文献
高田寛太『異形の古墳』角川選書2019
金洛中『古墳からみた栄山江流域・百済と倭』(国立歴史民俗博物館研究報告・第217集)弘文社2019

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