倭系甲冑の出土分布
古代社会の解明には、文献資料とともに出土品の研究が重要であるのだが、その出土品をどうとらえるのか、特に海外で発見されるものと自国との関係は、なかなか判断の難しいものがある。以下、甲冑の事例で考えてみたい。
古代社会の解明には、文献資料とともに出土品の研究が重要であるのだが、その出土品をどうとらえるのか、特に海外で発見されるものと自国との関係は、なかなか判断の難しいものがある。以下、甲冑の事例で考えてみたい。
1.半島で見つかる倭系甲冑と列島で出土する外来の甲冑
倭製と思われる甲冑が、朝鮮半島でも20カ所ほどで見つかっている。このことから、これは、倭国王権の半島進出を示すものという理解もされるが、これもまた、栄山江の問題と同様にそう単純ではない。
図にあるように、出土地が広義の加耶地域と百済地域に限られていることから、倭にとっては友好国内での出土であるため、倭からの略奪品ではないとの指摘がある。朝鮮半島で倭系の甲冑が見つかれば、高句麗との戦い、半島への進出、とは言い難いのである。
池山洞32号墳では、金銅冠と鳥紋環頭太刀とともに、在地の冑と倭製の甲冑一具〔眉庇付冑・頸(あかべ)甲・横矧板鋲留短甲〕が共伴出土している。被葬者は大伽耶の旱岐・王族と考えられ、贈与されたと考えられる。
これが逆ならばどうであろうか。日本列島の各地には半島、大陸のものと思われる武具なども見られるのである。
福岡県船原古墳は金銅製の飾りの付いた豪華な馬具などで注目されたが、そこでは桂甲も見つかっている。船原古墳の問題は(こちら)で説明しているが、その被葬者像を、ヤマトと関係し、尚且つ半島とも関係をもつ有力者といった説明がされているが、突然この地に現れた古墳であり、その周辺の古墳も渡来系の要素が見られ、その他の多数の副葬品も半島と関係することから、どう見ても渡来系の人物であろう。
どうも、韓半島で倭系の遺物が見つかれば、列島からの進出を示し、列島内で韓半島系の遺物が見つかれば、交流で手に入れた倭人とするような考え方があるようだ。
奈良県新沢千塚古墳群でも、短甲や冑が多数見つかっているが、だからといってこの地に倭国軍の駐留があったなどとはとても言うことは出来ない。この古墳群の集団の王の墓とみられるのが、126号墳の被葬者であり、金製方形板、金製垂飾付耳飾、金製螺旋状垂飾などの装飾品に、ササン朝ペルシャの装飾品など、新羅・加耶の女王かと考えられている。
次のような例もある。奈良県五條猫塚古墳、有田市椒浜(はじかみはま)古墳のわずか二例の蒙古鉢形眉庇付冑という朝鮮半島のものとも少し違うものが見つかっている。モンゴル系、もしくは高句麗の関係の人物がやって来たのであろうか。
人物ではないが馬に着けるよろいは、和歌山市大谷古墳で馬甲・馬冑、滋賀県野洲市甲山古墳で馬甲札、埼玉県行田市将軍山古墳で馬冑片などが出土している。先ほどの船原古墳では、国内3例目となる馬胄も見つかっている。これらも新羅・加耶からもたらされたものである。これを、半島人による侵略とは考えないであろう。
奈良県奈良市墓山第 1号墳からは、短甲、衝角付冑等のほか、数多くの小札とともに、鋲留頸甲の破片と縦長板冑の冑鉢を構成すると考えられる梯形鉄板が出土し、韓半島からセットとしてもたらされた可能性が指摘されている。6世紀の半島の混乱、新羅による加耶への侵攻で、多数の移住民が渡ってきたと考えられる。その中には、武具や宝飾品を携えて渡って来た王とその集団があったのであり、そういった視点で出土品も解釈することが必要と思われる。
次に、甲冑などの武具が古墳に埋葬されている意見について見ていきたい。それは、被葬者の威信を示すための埋納とは別の意味もあるのではないかということである。
2. 火砕流に埋もれた「甲冑を身につけた古墳人」
群馬県渋川市の金井東裏遺跡は、榛名山の火山噴火で埋もれた甲冑姿の人物が、跪いてそのまま前のめりに倒れ込んだようにして、火砕流に埋もれてしまった状態がとてもよくわかるものだ。(こちら)鎧兜を身に着けて、荒ぶる火山を鎮めようと祈っていたのであろうか。
着けていた甲は、小札(こざね)甲というもので、1800枚もの鉄製小札をつなげたものというのもすごい。さらに兜と一緒に鹿角製の小札の頬当てや、鉄鉾の柄の上端に直弧文を刻んだ鹿角製の飾りも出土している。この小札甲については、大阪府高槻市今城塚古墳の武人埴輪との類似を指摘されている。
古墳人に近接の2号甲には、鹿角製の小札があった。これは類例が夢村土城(ソウル特別市松坡区芳荑洞・五輪洞)にある三国時代百済前期の都城遺跡にあった。
また3号祭祀遺構では、1万点を超す滑石製臼玉や石製模造品、きれいな勾玉、管玉、ガラス小玉貴重な鉄器などが出土。そして短甲形石製模造品と呼ばれる全国でも数の少ない貴重なものもあった。
火山噴火の兆候があった榛名山を鎮めようと、この人物は甲冑を身につけて、おそらく伴侶の女性と共に祭祀場で祈りを捧げていたのである。その祈りのための祭具には甲冑をかたどった石製模造品もあった。そうすると、武具である甲冑も、戦闘行為ではなく祈るための正装であったと考えられる。ということは、日本の埴輪・石造物に見られる、甲冑、冑も作られているが、それは、武威を示すというよりも、祭祀の意味合いが強いのように思える。
次は甲冑の大量副葬の事例。図は堺市黒姫山古墳の前方部出土品
大阪府堺市黒姫山古墳は、前方後円墳の方部に短甲24領,衝角付冑11,眉庇付冑13も出土している。武器のみの竪穴式石室が前方部に作られた。古墳に埴輪が樹立された以降の新しい時期に用意された遺構への埋納だった。
大阪府藤井寺市野中古墳は、古市墓山古墳に接した陪塚で短甲11領、大量の器物埋納があった。こちらも主墳より後に築造されたという。
七観山古墳は百舌鳥古墳群上石津ミサンザイ古墳の陪塚だが、大量の鉄製武器と甲冑があった。
奈良市法華寺町高塚古墳は、鉄鋌、鉄板、鉄製農耕具、石製模造品が出土している。
以上のようなことから、甲冑や鉄製品の埋納は、主体者となる被葬者の生前の所有や管理にかかわるものであったとはいえず、それは儀礼的要素の強い埋納行為、祭祀行為とも考えられる。
ちなみに、今城塚古墳の埴輪列が置かれた築堤も墳墓完成時の土堤に後から増築されたものである。鎧に身を固めた人物埴輪も、武人という意味だけではなく、祭祀者の意味もあったのではなかろうか。
最後に、研究者の見解を紹介しておく。
「他地域よりも盛んでかつ長く行われた日本列島・倭の甲冑の副葬は、かっての認識とは異なり、戦争・軍事の発達がより未成熟な周辺社会で発達したものであり、武装具としての高度な機能性の追求よりも、儀礼における見栄え重視の象徴性がより顕在化した社会で求められたものと見られよう。」
「甲冑副葬は武装具の実践的使用を投影するものではなく、儀礼的な取り扱いを反映する可能性が考えられる。 古墳出土甲冑は倭人の対朝鮮半島の軍事行動にかかわるものとする論説が研究史上では大きな影響力をもってきたが、そもそもその副葬された甲冑をはじめとする武装具が軍事の発達した社会を映すものであるという前提から見直しが必要であろう(橋本2024)。」
大変重要な指摘である。古墳の副葬品には政治的な解釈と共に、祭祀行為としての視点も必要なのである。
参考文献
森浩一『渡来文化と生産』(森浩一著作集3)新泉社2016
田中晋作『百舌鳥・古市古墳群の研究』学生社2001
田中晋作『古墳時代における軍事組織について』 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ2004 ※野中古墳甲冑の図を利用
橋本達也『甲冑』季刊考古学167 雄山閣2023
半島における倭系甲冑の分布図は、東潮『倭と加耶』朝日新聞出版2022より
橋本達也『甲冑』季刊考古学167 雄山閣2023
半島における倭系甲冑の分布図は、東潮『倭と加耶』朝日新聞出版2022より












