図は、最初に東日流外三郡誌として製本化された市浦村版にある宝剣額の写真である。ここには写真の掲示と簡単な説明があるだけであった。そこには、寛政元年八月に秋田孝季と和田長三郎が祈願したことが記されている。
しかし、和田喜八郎は、この本の「薦言」で、和田長三郎が寛政2年に神職を嫌って土崎に住んで秋田孝季の長女と結婚、その縁で秋田孝季と調査の旅に出たと説明している。これはおかしい。秋田孝季と和田長三郎の二人は、寛政元年に、奉納しているはずだが、その翌年に孝季の長女との結婚をきっかけ(縁)に調査をはじめた、との説明は食い違っているのである。
しかし、和田喜八郎は、この本の「薦言」で、和田長三郎が寛政2年に神職を嫌って土崎に住んで秋田孝季の長女と結婚、その縁で秋田孝季と調査の旅に出たと説明している。これはおかしい。秋田孝季と和田長三郎の二人は、寛政元年に、奉納しているはずだが、その翌年に孝季の長女との結婚をきっかけ(縁)に調査をはじめた、との説明は食い違っているのである。
このことだけでも、そもそもがあやしい宝剣額だが、そこに書かれた神社という表記についてふれておく。
日吉神社があったかどうかではなく、呼称としての「神社」は明治以降のものであった。
2回連続で取り上げた寛政宝剣額には、「奉納御神前 日枝神社」と書かれている。これについて偽書派は、江戸時代に日吉(日枝)神社は存在していないと指摘し、対して反偽書派は、史料によって実在の証明を行っている。ただここで注意が必要なのだが、偽書派が、日吉神社そのものが存在していないと主張されたのかどうかがわからないが、江戸時代にこの神社の前身となるなんらかの信仰施設があったとしてもそれはおかしくはない。
しかし次が問題で、そのような信仰施設に対して、〇〇神社という一般的な呼称がはたして江戸時代にあったのかどうかということである。つまり、呼称としての神社は明治になるまでなかったのではないかということで、この点について以下のような説明がある。
しかし次が問題で、そのような信仰施設に対して、〇〇神社という一般的な呼称がはたして江戸時代にあったのかどうかということである。つまり、呼称としての神社は明治になるまでなかったのではないかということで、この点について以下のような説明がある。
宗教学者の原田敏明氏によると「神社という用語は新しいもので、明治以後のこと『延喜式神名帳』に出てくるのは、何某の神の社であって何某の神社ではない。個々の社号はなかった。出雲国風土記も何某の社となっている。」とのことだ。日本書紀天武13年10月「寺塔神社」は「てらやしろ」との訓みが入り建物の呼称として使われているのだという。
神社が普通に用いられたのは、明治初期に国家の管理になってから神社の呼称が広まったからであったようだ。
柳田国男も、「長野県町村誌によると、明治以前の神社には、各地の思い思いの名称が附いていた。そうして村々の小さなものは、大抵は社又はヤシロの名を以て呼ばれていた。それがいよいよ台帳に登録されることになって、村持のものはどんな無各社でも、すべて神社ということになったのだからおお悦びであった。」(全集第11巻)
つまり、村が神社にしたら、社地が免税になるから大喜びしたのだ。これがきっかけとなって、全国で「神社」という呼称が使われだしたのである。(『神社称呼に関する一考察』米地実· 1972)
つまり、問題の青森県の日吉神社は、古くから実在していたとしても、その呼称としての〇〇神社は明治からほぼ一斉に切り替わったもので、それまでは、〇〇のヤシロ、といった呼称であって、それを江戸時代の奉納額に〇〇神社と書くことはありえない、ということなのである。
よって、寛政宝剣額の「奉納御神前 日枝神社」は、明治以降から現代に書かれたことを物語っているのである。鑑定結果も、その字体などは現代のものとされている。
偽書説への反論は、なにか問題のすり替えを行っているように思える。現在の日吉神社が、江戸時代に「山王宮」として存在していた可能性は、史料に拠ってありうるが、〇〇神社と呼称されていたわけではないのである。
もし万が一、江戸時代に〇〇神社という呼称があって、実際に、青森県の某所でも日吉神社と呼ばれることがあったとしても、それは宝剣額の実在を示す根拠とはならない。
戦前から額が存在したという証言をする証言者には疑問があること。和田喜八郎が神社にあったものを教育委員会に預からせたという経緯も疑問であること。
また、最初に記したように、喜八郎の和田長三郎と秋田孝季の出会いの説明に矛盾があること。当神社の宮司が、額が教育委員会の預かりになったことに無関心であったこと。鑑定により、現代人の書いたものであること。東北地方には多数奉納されている宝剣額のなかから、ちょうど「寛政元年」と書かれたものを「調達」して、そこに手をくわえることはすこぶる容易であること、などである。
この奉納額が秋田孝季が祈願をしたという証明にはならないことからも、『東日流外三郡誌』が偽書であることを否定できないのではなかろうか。
戦前から額が存在したという証言をする証言者には疑問があること。和田喜八郎が神社にあったものを教育委員会に預からせたという経緯も疑問であること。
また、最初に記したように、喜八郎の和田長三郎と秋田孝季の出会いの説明に矛盾があること。当神社の宮司が、額が教育委員会の預かりになったことに無関心であったこと。鑑定により、現代人の書いたものであること。東北地方には多数奉納されている宝剣額のなかから、ちょうど「寛政元年」と書かれたものを「調達」して、そこに手をくわえることはすこぶる容易であること、などである。
この奉納額が秋田孝季が祈願をしたという証明にはならないことからも、『東日流外三郡誌』が偽書であることを否定できないのではなかろうか。

























